道徳的動物日記

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「卓越した人間」の代用品としてのスポーツ選手?

 

卓越の倫理―よみがえる徳の理想

卓越の倫理―よみがえる徳の理想

 

 

 先ほどの記事でも『卓越の倫理』の感想を長々と書いたが、とりわけ印象深かった以下の箇所に関連して、自分の思うところをさらに書こう。

 

例えばある人が名誉を、それも自分にふさわしい名誉を求めているとしよう。しかし彼がその名誉を得ることができるかどうかは「他人がどう思うか」や「他人による評価」にいつも基づいているのであり、時には「他人の気まぐれ」に基づいていることもある。誰も自分で自分に名誉を授けることはできないのである。

さらに人間には、徳それ自体に名誉を与えるよりも、自分に利益をもたらす人とか時には自分をとてもいい気分にさせてくれるカリスマ的な聖職者などに名誉を与え褒めそやす傾向がある。こうなると名誉は「贈りもの」というより「取り引きの代価」に近くなる。だから敗軍の将の方が実は凱旋将軍よりも戦上手で豪胆だとしても、やはり後者の方が名誉を受けることになるのである。また同様に、他人を犠牲にして裕福になったとしても、かつて搾取していた人々に自分の富の一部を寄付する慈善家は名誉を授けられるだろう。

さらに単なる権力のように、名誉にも栄光にも値しないものでもーーそれが私的に使われる場合でさえーー名誉や栄光が与えられることもある。また大衆は単に変わっているだけの人物にもしばしば喝采を送りたがる。このことは人気の芸能人とかプロボクサーのようにほとんど価値のない者にも往々にして当てはまる。実際、人々はつまらないことで夢中になり、そうしたつまらないことを成し遂げた人々ーー例えばプロのスポーツ選手ーーに大変な名誉と富を喜んで与える。彼らはただ自分の技術を売っているだけであり、他に何の理想も体現していないし、人々の代表であるというわけでもないのである。

(p. 188)

 

 私にとって特に印象に残ったのは三段落目で芸能人やプロのスポーツ選手を「つまらないことを成し遂げた人々」と言ってのけているところだ。

 上記の引用箇所のすぐ後にある「創造性とは何か」という節からも引用しておこう。

 

創造性について考えるとき、我々はそれを「物の創造」といったように狭く捉えがちであり、時には芸術関係だけに限定することさえある。だがそれは恣意的である。創造的知性は舞踏家やスポーツマンや棋士など、頭を使う活動ならほとんど何にでも見られる。ある意味で創造活動の典型とはーーそこで創造されるものの価値は限定的であるとしてもーーチェスの対局で妙手を指すことである。

(p. 194-195)

 

 私としては、「そこで創造されるものの価値は限定的である」という但し書きが肝心であるように思える。

 

 先ほどの記事でも書いた通り、『卓越の倫理』の著者のテイラー氏や古代ギリシアの人々が理想とするような「卓越した人間」や「有徳な人間」の姿を現代の社会で探すことは難しい。その主な理由は、この本で論じられている卓越や徳という概念が総合的なものであることだ。

 徳や卓越というものは、どんな行為をしているかやどんな仕事をしているかということだけでは計りきれない。社交の仕方や礼儀作法の守り方、友人や家族との関わりかた、誇りや自己愛を適切な方法で抱くこと、趣味や嗜好に考え方など、人格に関わる様々な要素のいずれもが優れている人でないと、「卓越した人間」や「有徳な人間」であるとはいえないのだ。

 おそらく、現代の社会ではこのように「総合的」に優れた人格の人間がどこかに存在しているという感覚を持つことが難しくなっており、「卓越した人間」に人々が憧れを抱くこともなくなっている。

 仕事で成功している人の私生活が爛れていたり家族に不実を成していたりするという話題は毎日のように聞こえてくる。商売や政治の場において何かを成し遂げて世間の注目を集める人たちは、野心家であったり強欲であったり承認欲求に飢えていたり他者への敬意が欠けていたりなど、どこかバランスを欠いた歪な人たちばかりだ。逆に、誰かが私生活において有徳で卓越した振る舞いをしているとしても、そのような人の存在は目立たないので私たちの目には留まらない。バランス感覚を持っている上品な人の存在感は、アンバランスだが勢いのある人の存在感にかき消されてしまうのである。

 小説や映画、漫画などのフィクション作品の主人公としても、テイラー氏が論じるような意味での「卓越した人間」が登場することはほとんどないだろう。

 

 ただし、総合的に優れた人格をしている人の姿は目立たなくなっているとしても、「一芸」に優れている人の姿は古代よりも現代の方が目立つようになっている。エンターテイメントやショービジネスの発展により、ミュージシャンやスポーツ選手、将棋の棋士やプロゲーマーなどの存在感はぐっと増した。SNSYouTube などが発展した最近では、メディアによる報道や編集を介さない彼ら自身の主張を見聞する機会も増えているので、その存在感はさらに増していっている。

 

 私はスポーツは嫌いなのでスポーツ選手のほぼ全員に興味がないし、棋士やプロゲーマーに対しても「お遊びが上手いだけじゃん」という感想しかない。芸能人については、中学生や高校生の頃にファンであって著書などを集めていた芸能人に対してはいまでも親近感や愛着を抱くことはあるがいまさら彼らの本を読み返すことはないし、これから新たに芸能人のファンになることもないと思う。なので、彼らのことを「つまらないことを成し遂げた人々」と言ってのけるテイラー氏にはひそかに共感を抱いたりする。

 しかし、世間において芸能人やスポーツ選手などのファンになる人々は、彼らの「一芸」の上手さに感嘆するだけでは飽き足らず、彼らの人格全体に関心や憧れを抱いているようである。彼らの言動のいちいちに感心したり感動をおぼえたりする人もいる。…私からすれば、芸能人やスポーツ選手であったとしても人格の全体が優れているとは限らないのだから、そもそも彼らの人間性に関心を抱かなければならない理由が見つからない。それに、実際に彼らの発言や言動などを見たところ、その大抵は(政治家や企業家の言動の大半がそうであるのと同程度には)人間性的な裏付けも知識的な裏付けも希薄であり、経験だけを頼りにした浅薄なものであるように見受けられる。

 だが、もしかしたら、総合的に優れた人間の姿が目立たくなった現代においては憧れの対象になるような人たちは「一芸」に優れた人たちだけであり、総合的な「徳」や「卓越」への期待も「一芸」の人たちに託されるようになったのではないか…と思ったりはするのだ*1

 

 蛇足となるが、音楽や将棋などを題材にしたフィクションでは「天才の苦悩」や「天才の孤独」なんかを主題にしたものが多かったりする。また、特に将棋の棋士に関して顕著な気がするのだが、現実に存在する「天才」に関する人々の語り口やメディアでの報道のされ方も憧れや誇張表現が混ざってフィクションっぽくなることが多い。…しかし、これは個人的な趣味の問題になるのだが、「天才」や「才能」を題材にした漫画や映画は私にはイマイチ楽しめないことが多い。単純に、どこに共感すればいいかわからないから面白みが薄れるのだ。

 フィクションにせよSNSにおける人々が語る話題にせよ、みんなが「才能」に関する物語を読みたがったり「才能」について語りたがったりするという風潮もよくよく考えてみると不思議なものであると思う。

 

*1:また、皇族の人々がやることや彼らの人格をなんでもかんでも大げさに誉めそやす風潮も、「卓越した人間」への憧れに由来するものであると思う。