道徳的動物日記

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スピーチ・コードはニューロダイバーシティに反しているのか?

davitrice.hatenadiary.jp

 

 先ほど書いた記事ではジェフリー・ミラーの『Virtue Signaling:Essays on Darwinian Politics & Free Speech』の辛口な感想を書いたが、この本のなかでも「The Neurodiversity Case for Free Speech(ニューロダイバーシティの観点に基づく、言論の自由の擁護)」というエッセイは異色で興味深かったので、わたしなりに紹介してみよう。

 なお、もともとはQuilletteに発表された文章を転載したものであり、タダで読むこともできるので、興味を持った人はそちらも参照してほしい。

 

quillette.com

 

「ニューロダイバーシティ」とは、性的特徴に関するダイバーシティや人種に関するダイバーシティなどと並列する、神経学的特徴に関するダイバーシティのことを指す。「アスペルガー症候群自閉症ADHDや発達障がいなどの神経学的特徴を持つ人も多様性の観点から包摂すべきであり、学校や職場から排除すべきではない」という考え方だ。

「ニューロダイバーシティ」という考え方には、人権や道徳といった規範的な観点からの「ふつうと違うからと言って、障害であるとみなして、排除してはいけない」という主張が含まれている。その一方で、これらの神経疾患を持った人たちは共感能力やコミュニケーション能力などに欠ける代わりに抽象的な物事を扱う作業や理数系の能力が優れている点に注目して、組織が成果を生み出すためには神経疾患を持つ人も積極的に組織に取り入れてうまくマネジメントするべきである、という観点も含まれているようである*1

 

 アスペルガー症候群自閉症の人々は、「モノ」や「抽象的な概念」に対する興味が強い代わりに「人」や「感情」に対する興味が薄い。「システム化」思考(抽象化、論理思考)に長けている代わりに、「共感」思考が苦手である。

 ミラー本人も、自身がアスペルガー症候群であることを、エッセイの冒頭で告白している。自身の神経学的特徴のために、ミラーは子供の頃からコミュニケーションの仕方が特殊であり、他人の気持ちを察したり非言語コミュニケーションを行うことがヘタであって、ユーモアのセンスも他人とズレていた。そのために彼は気まずい状況を発生させたり他人を不愉快にさせたりして、トラブルを誘発することが多かったそうだ。

 そして、アイザック・ニュートンをはじめとした歴史上の天才的な学者たちの多くも、現代でいえばアスペルガー症候群自閉症であったことが、記録や伝記から推察されている。彼らの脳は通常の人々とは異なる極端な特性を備えていたのであり、だからこそ、学問的偉業を成し遂げられたのであった。

 

 しかし、もし現代にニュートンアメリカの大学に所属していたとしても、彼は早々に大学から追い出されてしまうであろう……とミラーは論じる。

 歴史的には、大学こそが、ニューロダイバーシティの花開く場所であった。大学に在籍する学者がまず求められるのは、論文を書いて学問的業績を挙げることだ。逆にいうと、学問的業績を挙げてさえいれば、どんなにコミュニケーションがヘタな人であったりエキセントリックな人であったりしても、大学での地位を確保することができたのである。そして、特に理数系分野はアスペルガー症候群自閉症にとっての得意分野であるからこそ、大学は彼らがもっとも活躍できる場所となっていた。

 だが、現代のアメリカでは、ほぼ全ての大学に「スピーチ・コード」が存在する。「他者の尊厳を傷つけることを言ってはいけない」「ハラスメントとなるようなことを言ってはいけない」という、言説に関するルールが、大学に所属する教授と学生たちに課されているのだ。

 問題なのは、「スピーチ・コード」では具体的にどのような単語や言葉が「他者の尊厳を傷つける」ものであったり「ハラスメントとなる」ものであったりするかが指定されておらず、恣意的で曖昧なものになっていることだ。

 実際のところ、スピーチ・コードは「この言葉で傷ついた」「この言動でハラスメントを受けた」と被害者側が告発することで、遡及的に「この言動は攻撃的だった」「この言動はハラスメントだった」と認定される、という運用になっているフシが強い。また、「オルトライト運動を批判してもスピーチ・コードに違反する危険性は少ないが、ブラック・ライヴズ・マター運動を批判するとコード違反の危険性が高い」「プロライフ運動をするキリスト教徒を非難するのは無難だが、シャリーアを主張するイスラム教徒を非難するのは危うい」という具体的な可否がスピート・コードに明言されているわけでもないので、違反をしないためには時勢について敏感であらなければいけない。

 そうなると、スピーチ・コードに違反しないために求められることは、たとえば「最近は女性差別やアフリカ系差別にみんなが敏感になっているから、この問題に関して誤解される可能性のあることは言わないでおこう」という"空気を読む"能力であったりする。また、目の前にいる相手が自分の言動で不愉快になっていないかどうかに気が付けたり、不愉快になるであろうことを予測するための、共感能力や「心の理論」が必要となってくる。

 そして、アスペルガー症候群自閉症の人々は、共感能力や「心の理論」に欠けているのだ。だから、ふつうの人であれば「最近はこういう空気であるから、こういうことを言わない方がいいな」と判断したり「授業中にこんなことを言ったり、ツイッターでこんなことを呟いたら、不快に思う学生やフォロワーがいるだろうな」と予測したりして、余計なことを言わずに保身ができるところを、アスペルガー症候群自閉症の人々はそれができないことが多い。そのために、彼らは舌禍事件を起こすことが多いのである。

 ミラーによると、スピーチ・コードは 神経学的定型的neurotypical)な規範であり、神経学的多様性(neurodivergence)に相反するものである。スピーチ・コードを理解するためには、パーソナリティの特性が「ふつう」の範囲内で、ほどほど以上に共感能力があり、「心の理論」を充分に発達させていなければならない。そうでない神経学的マイノリティの人々は、自分の発言がスピーチ・コードに違反するかしないかを判断することができない。つまり、スピーチ・コードは神経学的マイノリティに対して差別的に機能するのだ。これにはアメリカ障害者法(ADA)に違反している側面がある、とミラーは論じる。

 そして、学問的な成果を成し遂げている人が本人の意図していないところでスピーチ・コードに違反して大学を追い出されることは、本人の人権侵害であり道徳的に不当であるだけでなく、学術的にも大きな損失となるはずである。

 

 スピーチ・コードには「ナード」に対するふつうの人々の復讐という側面もある、とミラーは指摘している。学問の外のビジネスの世界でも、近年ではマーク・ザッカーバーグイーロン・マスクのようにパーソナリティに問題を抱えている人がそのハンディキャップをものともせず技術や才覚を活かして出世することができていた。だが、スピーチ・コードが厳しくなった昨今では、彼らのような人間は若いうちからバッシングにあって芽を摘まれていたかもしれない。

 また、一般的に、男性は「システム化」思考に傾きがちであり、女性は「共感」思考に傾きがちである。そして、アスペルガー症候群自閉症の割合は男性の方が高いこともふまえると、「共感」思考を強要するスピーチ・コードには男性差別的な側面が存在するといえるのだ。

 

 上記が、ミラーの主張である。

 ミラーの提示している問題は、なかなか厄介だ。

 スピーチ・コードは恣意的で曖昧な運用をされているために、神経学的マイノリティにとって不利にはたらいている、というのはミラーの言う通りだろう。その一方で、ある人が他人のどんな言葉で「傷つく」かということは、場の状況や文脈や相手との関係性にも左右される曖昧なものである、ということも確かなのである。「このような言葉は差別である、このような表現は差別である」とあらかじめ指定して硬直的な運用をしようとしても、スピーチ・コードはまったく機能しないはずだ。それはそれで「言葉狩り」となってまた別の問題も発生するだろうし。

 そして、ごくまともな一般論として、誰かが傷つけることはよくないことであるし、ハラスメントはよくないことである。その人の神経学的特徴やパーソナリティがどんなものであったとしても、暴力や性的侵害は許されない。それを非難することは「差別」には当たらない。そして、他人を傷つけることを意図した発言も許容されるわけではない。さらに言えば、意図しない舌禍であっても、他人を傷つける発言を何度も繰り返されるようであれば、その人は注意されるべきだし非難されるべきだろう。

 とはいえ、意図せずに他人を傷つける言葉や他人に対するハラスメントとなる言葉を一度や数度言ったりしただけで大学(や職場)から追い出されることは、やはり不当だろう。その舌禍の原因に神経学的な特徴が多かれ少なかれ関わっているとすれば、その不当さはさらに増す。近年ではスピーチ・コードに違反した人に対する制裁がどんどん性急で厳しいものになっている。それは深刻な問題なのだ。

 

 また、近年のポリティカル・コレクトネスの風潮のなかで目立つ特徴のひとつが、差別やハラスメントに関する議論のなかで加害者側の「意図」の要素が無視されること、である。

 

 

gendai.ismedia.jp

たとえば、デラルド・ウィン・スー教授が発明した「マイクロアグレッション」という概念では、日常的な言動のなかで行われる些細な見下しや侮辱も攻撃(aggression)の一種であるとされる 。しかし、マイクロアグレッションという概念は、発話者が攻撃を意図していなくても聞き手が傷つけばそれが攻撃である、としてしまう。つまり、「攻撃」の定義を発言者の意図や客観的な基準にではなく、聞き手の主観に委ねてしまう概念であるのだ。

マイクロアグレッションという概念にかかると、「自分が傷ついた」という感情が、相手を非難することを正当化する根拠になってしまう。最初は不愉快であったり攻撃的に聞こえた発言であっても、相手の発言についての真意をたずねたり「どのようなことを主張しようとしているのか」と冷静に解釈したりすることで誤解が解けたり建設的な対話がスタートする可能性はあるものだが、その可能性が閉ざされてしまうのである。

 

 差別やハラスメントの定義について、「意図」の代わりに持ち出されるのが、「システム」なり「特権」なりの社会学的なタームだ。

 これらのタームについては、一部は妥当であったり納得できたりするところもある。……だが、「意図」の問題は、無視するには大きすぎる要素であるだろう。

 そして、ミラーがスピーチ・コードを「男性差別的」であると指摘していることは重要だ。実際問題として、舌禍事件は女性よりも男性の方がより多く起こしていることは否めない。その原因の一部には「男性は他人に対して配慮しないことが許されてしまう、社会的に特権を持った存在である」という「男性特権」の問題もあるかもしれない。……しかし、男性のなかには共感能力に欠けており空気を読むことができない人が多い、という要素も、原因の一部となっているはずであるのだ。

 最近のフェミニズムは、「ミソジニー」や「家父長制」の概念を再定義したり「マンスプレイニング」や「有害な男らしさ」という新用語を作ったりしながら、男性が引き起こす問題を「特権」や「構造」という枠組みに回収することに躍起となっている。……しかし、男性が舌禍事件などの問題を引き起こす原因は、彼らの神経学的・パーソナリティ的な特徴や傾向の方にも存在するかもしれない。

 もちろん、特権や構造の問題を全く無視して、すべてを神経学的・パーソナリティ的な枠組みに回収しようとすることは見当外れで馬鹿らしいことではあるのだろうが、逆もまた然りなのだ。

 

 アメリカほどにはスピーチ・コードが強くない日本であっても、たとえば公共の場における萌え絵・性的表現の掲示に関するフェミニストとオタクの論争という問題の背景には、通底する要素があるかもしれない。「どのような表現が性差別・性暴力であるか」という「コード」にはどこかに曖昧な部分が残り続けざるを得ないだろうし、萌え絵・性的表現の掲示を擁護するオタクには男性が多いだろう*2

 また、「ニューロダイバーシティ」を盾にして、自分の言動を顧みずに他人を傷つけることを繰り返すことが正当化されてしまう危険性もある。

 諸々のことを考えると、「ニューロダイバーシティも大切だけど、誰かが不当に傷つくこともよくないから、ほどほどの着地点を見つけるべきだね」というのが穏当で妥当な回答になるだろう。しかし、それが簡単にできれば苦労しない。だからこそ、厄介な問題であるのだ。

 

 

*1:

jinjibu.jp

ja.wikipedia.org

*2:スピーチ・コードの問題に比べるとこの問題についてはわたしは「規制派」に近い立場であるのだが、それはまた別の話だ。

davitrice.hatenadiary.jp