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道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

「性別間の生物学的な差異は存在しない、という社会学者たちの宗教」 by ジェリー・コイン 

学問論 フェミニズム 人類学

The sociological religion of no biological differences between the sexeswhyevolutionistrue.wordpress.com

 

 昨日に引き続き、進化生物学者・無神論者のジェリー・コインのブログからまたまた記事を紹介。

 

「性別間の生物学的な差異は存在しない、という社会学者たちの宗教」 by ジェリー・コイン 

 

 

 アカデミック業界にはタブーであって自由な議論を行えない二つの論点が存在する、ということを私は生物学者として学んできた。第一の論点は「人種」…または、人口間の遺伝的な差異である。文化人類学者たちは、人種は「社会的に構築された」と言う。たしかに、それぞれの人種を明確に区別することのできる有限数は存在しないのだから、その限りにおいては文化人類学者たちの主張にも真実は含まれている。しかし集団間には遺伝的な違いが存在しているのであり、クラスタリングアルゴリズムを使えばそれぞれの地理上の場所に対応した5つか6つの明確に区別できる集団に分けることができるだろう。集団間のマーカー遺伝子の違いは、疑いもなく、地理的に隔絶していた初期の人類史における遺伝的浮動か自然選択を介して進化したものである。

 しかし、人口集団における行動・生理機能・心理状態やその他の非身体的な属性は、議論にすら挙がらない。それらを研究するべきではないというだけではなく(そのような研究は差別的な社会的結果をもたらす可能性があるから、と言うことはできるだろう)、とにかく "集団間の遺伝的な差異は存在しない" ということになっているのだ。人間集団間には行動の遺伝的な差異がある可能性を "示唆した" だけの人々が、文化人類学者たちから「レイシスト」だと呼ばれるのを聞いたことすらある(文化人類学は、イデオロギーに動機付けられた学者たちが蔓延している分野の中でも特に最悪な分野の一つだ)。あなたはこの論点について議論することはできるが、たった一つの立場しか認められない。

 私自身の主張は、人類の下位グループの分離はあまりにも最近に起こったことであるので、 "身体的な" 差異が進化するには明らかに充分な時間だったとしても、それよりも広大な遺伝的差異が進化するほどの時間はなかっただろう、というものである。それに、人間における混血は移動能力の高まりによって促進されたが、混血は全ての種類の遺伝的差異を削減する方向にはたらくことは明白だ。しかし、明らかな身体的差異を除けば全ての種類の特徴は集団間で完全に均等に存在している、と言い張るべきではないだろう。

 

「性別」の話となると、また別の問題である。ヒト科の系統において、オスとメスは600万年にわたって(協力的にも敵対的にも)共進化してきたのだ…男性と女性との間の形態的な差異が明らかに進化してきたのと同じように、行動・欲求・思考パターンやその他の差異が進化するのにも充分な時間である。性別間に思考と行動との遺伝的な差異は存在するのか? 少なくとも性欲(sexuality)や性的な行動に関連した特徴については、差異は存在すると私は思っている。動物たちには、ハエから哺乳類まで、性的な行動についての一貫した(ただし、普遍的ではない)差異のパターンがオスとメスとの間に存在している…その差異は性淘汰によって説明できる。だから、同様のパターンはヒト科の系統でも進化してきたはずだ。なんといっても、男性は女性よりも大きくて強いのであり、そのことは何らかの方法で説明されなければならない。おそらく性淘汰に基づいた行動の進化的な差異という説明をせずに、どうやってそれを説明できるのだろうか?

 しかし、男性と女性には行動に進化的・遺伝的な差異があるという考えはリベラルなアカデミアでは忌み嫌われているし、人口間に差異があるという考えも同じ理由で忌み嫌われている。発想が進んで、そのような差異は人種差別や性差別を支持するはずだ、ということになってしまうのだ。だが、もちろん、そんな発想は間違っている。進化的な差異が存在することを受け入れたからといって、それを社会政策に結び付けないことは可能である。それに、私を含めた多くの進化生物学者たちが興味を持っているのは、集団や性別が分岐経路を辿って進化していった範囲を知ることである*1

 それでも、フェミニスト・リベラル・社会学者、そして文化人類学者たちは、人種間や性別間の差異の存在を "すべて" 否認する。もちろん、身体の大きさや強さや構造という点では、男性と女性は異なっている。しかし、彼女らに言わせると、脳や行動には性別間の差異は存在しない。身体以外の全ての特徴について男性と女性は等しいと言うのだ。そして、男性と女性は興味も才能も等しいはずなのに、なにかの職業の男女比が50%ずつではないとすれば、その理由はただ一つ、文化的な圧力 …つまり性差別が理由で "なければならない" 。つまり、職業における男女比の不均等は性差別の"自明な (prima facie)" 証拠であるのだ。だが、先日に私が紹介したジョナサン・ハイトによる講義動画のなかで言及されているように(素晴らしい動画なので是非とも見てほしい!)、職業における男女比の不均等にどのような対策を行うかを決定するためには、その前にまず第一に原因を特定しなければならないのだ*2

 何にせよ、人文学では…特にイデオロギーに偏り過ぎているために科学ではなく(いい加減な)人文学と見なさなければならない文化人類学では…、(訳注:人種間や性別間の差異を否定する)これらの意見は経験的な実証を欠いているために本質的に宗教的であるのみならず、その論じ方は神学的ですらある。著者たちはまず自分が証明したがっていることを仮定して、その仮説を支持するデータを収集する前に主張を進めてしまうのだ。確証バイアスに満たされている。それは神学者が行うことであって、科学者が行うことではないのだ。

 

 本日私が紹介するのは、ストックホルム大学社会学部の准教授であり副学部長であるシャーロット・スターン(Charlotta Stern)による論文だ(論文はここから無料ダウンロードできる)*3*4。スターンは勇敢な人物である。彼女の論文は、性別によって差異のある行動を説明する際に生物的な要素を考慮することを拒否してしまう社会学者たちを白日の下に晒しているのだ。彼女自身が言っているように、スターンは手加減をしない。

 

本調査では、ストックホルム大学の社会学者としての長きに渡る経験が参考になっている。私の教育活動と研究活動ではジェンダーの問題に触れることが多い。ジェンダー社会学やそれに関連した論題について審理する論文審査委員会の委員を5回は務めてきたし、ジェンダー社会学に触れるセミナーにも何十回も参加してきた。私と同僚や学生との関係は熱いものではない。神聖視された信念に疑問を呈するような考えを主張するときにも、私はさりげなくにしか行わないようにしている。男性と女性との間の数学の能力には差異があるという可能性や、男性と女性は異なる選好や動機を持っているという可能性を私や他の人が示唆したときに人々はどのように反応したか、ということを目の当たりにしてきた。私の経験からすると、才能や動機の生得的な差異という主張に、ジェンダー社会学者たちは難色を示す。私は、ジェンダー社会学者たちの間に根深く蔓延しているタブーと狭量さに気が付いている。そのことは私を悲しませる。自分の懸念を表明して他の人にも伝えなければならないと思っているし、この論文で示されているような神聖視された信念や主張にはまり込んでしまう前に、学生たちやその他の人々が私の懸念を聞いてくれることを期待している。

 

 スターンの調査方法はシンプルであるし、やや主観的でもある。スターンは社会学のジャーナルの中から被引用数が高い23件の論文を選んで調査しており、いずれの論文も、1987年にキャンデス・ウエスト(Candace West)とドン・ジンマーマン(Don Zimmerman)が発表したジェンダー社会学の古典的な論文 "Doing gender(ジェンダーを実践する)" を引用している("Doing Gender"の論文の無料リンクはこちら)*5

 ウエストとジンマーマンは、男性と女性との間の非-身体的で行動的な差異は生殖器に基づいて "構築された" ものであると結論付けて(あるいは、論じる前から決めつけて)、人生で私たちが目にする差異とは全て社会化の結果であると論じた。スターンは以下のように書いている。

 

"ジェンダーを実践すること" とは社会コントロールの嘆かわしいシステムの一部である、と表現されている。論文の最後の段落は以下のように描かれている

 

ジェンダーは強力なイデオロギー装置であり、性別のカテゴリーに基づいた選択と限定を生産して再生産して正当化する。社会状況においてジェンダーはいかに生産されているかということを理解することは、ジェンダーを維持する社会構造と社会コンロール過程との相互作用的な土台を解明することにつながるであろう」

 

 スターンが審査した23件の社会学の論文は、影響力のある論文 "Doing Gender" を引用した論文の中でも2004年から2014年の間に発表されたものの内から特によく引用されている論文を各年から2本ずつ選んできたものである。スターンはスプレッドシートを作成し、男性と女性との間の生物学的差異という仮説を真剣な可能性として受け止めているか否かという点から、それぞれの論文にコードを付けた。彼女が行ったクラス分けは以下の通りである。

 

・Neutral (中立) :ジェンダーの差異について議論はされているが、生物学的な根拠については議論されておらず、生物学的な根拠の否定もされていない。(4記事)

 

・Blinkered (視野狭窄):スターンによると、生物学的差異という仮説はこれらの論文で論じられている内容と関係があるのにも関わらず、無視されているか、棄却されて相手にされていない。(15記事)

 

・Unblinkered(視野狭窄ではない):子どもと過ごす時間、教育のための貯金やその他の「家庭的なプロセス」などの物事における性別間の差異を生物学で説明できる可能性を考慮した論文を、スターンはたった一つしか見つけられなかった。彼女によると、この論文は「因果関係についての繊細な議論」を含んでいた。

 

・Not rated(レート対象外):これらの論文は「明らかに生物学的な差異が関係している、という問題を扱っていない」(4記事)

 

 以下が、スターンが作成した論文のリストとレート表だ。

  

f:id:DavitRice:20161009142501p:plain

 

 

 もちろん、スターンの手法や評価が妥当であるかどうかについて議論を行うことはできるだろう。しかし、(最も明白な身体的差異を除いた)人口間や性別間の測定可能な差異には何らかの生物学的な根拠がある、ということを示唆するのが大半のアカデミアではタブーになっていることは、分析をするまでもなく明らかだ。だが、学問にタブーは存在するべきではないのだ。ある論題(例:「ユダヤ人は遺伝的に欲張りなのか?」)について研究することの賢明さについて議論することはできるだろうが、何かについて研究もする前からそれを真実であると想定することは行うべきではない。そして、ジョナサン・ハイトが注意しているように、問題であると思われている差異(例えば、数学における女性の少なさ)についての経験的な原因を理解しなければ、その問題に対処することもできないのだ。

 

 スターンの結論は落ち着いたものである。

 

私の調査から定量的な推計を引き出すことはできないが、この調査の結果は、重要な科学的試みから自分たちの神聖化された信念を隔絶した下位分野としてのジェンダー社会学のイメージと一致している。

ジェンダー社会学の狭量さに関して、私には豊富な直接的経験がある。しかし、ジェンダー社会学の中で反論が広まっていることも知っているし、キャサリン・ハキムのように異端的な考え方をする学者に触れた学生たちが「なるほど!」となる光景も目にしてきた。改善を行うことはできる、と私は信じている。人々は "ジェンダーを実践する" ことを控えるべきであるのか、また人々はどのように "ジェンダーを実践する" べきなのか、という論題は、個人的な省察・学問的な探求・公共的な議論のいずれにとっても価値のある論題である。私が思うに、研究や議論の結果をより確かなものにするためには、人々は狭量さを減らして研究や議論を行うべきなのだ。

 

 

 

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