道徳的動物日記

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原罪としての"男性特権"

tocana.jp

 

 上述の記事は最近話題になった「ジェンダー学版ソーカル事件」というべき事件についての紹介記事だが、この事件を起こした数学者ジェームズ・リンゼイ(James A. Lindsay) と哲学者のピータ・ボゴシアン(Peter Boghossian)が昨年にネット上で公開していた記事が興味深かったので、軽く紹介しようと思う。

 

 

www.allthink.com

 

 記事のタイトルは「特権:左派にとっての原罪(Privilege: The Left's Original Sin)」。近年、英語圏の左派の社会運動界隈や学問界隈では"白人特権"や"男性特権"など、マジョリティである人々が持つとされる"特権(Privilege)"についての議論が盛んになっているのだが、この"特権"という概念の問題点について指摘する記事である。

 それぞれ無神論に関する著作を出している無神論者であるリンゼイボグホシアンは、近年の左派の社会運動やアイデンティティ・ポリティクスはもはや宗教じみていることを指摘する。宗教における「原罪」とは人間が生まれながらに持っており逃れることは不可能であるとされるものだが、左派の社会運動における"特権"という概念も「原罪」と同様の機能を果たしている。

 

 健常者、[性的指向が]ストレート、自分を男性と[性的に]自認する白人男性として生まれておきながら、[そのような属性に生まれるという]この自分が意図したわけでは全くない状況に置かれていることについて深い謝罪の気持ちを抱いていないことほど、重大な罪はない。

 

"特権"という概念の下では、ある人が白人であったり男性であったりすることそれ自体が、非白人や女性に対する差別や抑圧に加担して社会に害をもたらす罪であるとみなされる。宗教が「神-天使-聖人-その他の人間」というヒエラルキーを想定するように、アイデンティティを重視する左派の理論も現在の社会に生きる人々の間には「男性-女性」「白人-非白人」といったヒエラルキーが存在していると想定する(ジェンダー学を始めとした左派的な学問理論も、そのようなヒエラルキーが存在するという主張を後押ししようとする)。そして、非白人や女性は「白人や男性は特権を持っているのなら、特権を持っていない私たちは彼らに不当に権利を奪われて攻撃されているということになるはずだ。ならば、彼らを特権の座から引き摺り下ろしてやらなければならない」という風な認識を抱いて、白人や男性に対して敵対的な感情を抱いたり実際に攻撃するようになる。原罪に対しては「罪を憎んで人を憎まず」という態度をとることができるものだが、"特権"という概念は特権を持つとされる人を憎むように仕向けてしまうようだ。

 しかし、左派が注目すべきなのはマジョリティの"特権"という抽象的な空想的な概念ではなく、マイノリティが実際に様々な場で受けている差別である。現在の社会に深刻な差別が存在していることは確かなのだから、個々の差別を解決するためにはどのようなことをすればいいか、マジョリティはどのようなことをしなければならないか、ということについて具体的で積極的な解決策を論じる必要があるのだ。平等を達成するためには差別問題を解決して不当に低い立場からマイノリティを解放するというポジティブな方向を目指すべきであり、"特権"という概念を主張することでマイノリティがマジョリティを攻撃したりマジョリティ自身が自分の罪について罪の気持ちを抱くようにさせるというネガティブな方向で運動をしても、実際の差別問題が解決することも平等が達成されることもないのである。

 

 

sanfranpost.com

 

 上記の記事は右派系のコラムニストのトム・ティコッタ(Tom Ciccotta)によるものだが、この記事でも、先述のリンゼイとボグホシアンの記事が引用されながら"特権"概念とアイデンティティ・ポリティクスの問題点について論じられている。ティコッタが指摘しているのは、アイデンティティに基づいた"特権"のヒエラルキーが存在するという世界観は、たとえば「裕福な家に生まれついて良い大学に進学できた黒人女性が、労働者階級の貧しい白人男性に対して"自分の特権を自覚せよ(check your privilege)"と非難する」といった倒錯した状況をもたらす、ということだ。また、「現在の社会は家父長制であり、男性は特権を持っていて常に加害者であり女性は常に被害者だ」といったフェミニズムの主張では、暴力犯罪の被害者の大半は男性であること、男性の自殺率は女性よりもずっと高いこと、戦争や職場での事故で死ぬ人も大半が男性であること、同じ犯罪でも男性の方が裁判で罪が重くなりやすいこと、などなどの男性が受けている様々な差別や不利な側面が無視されることになる。人種差別にしても、たとえばアファーマティブ・アクションのために白人は大学への入学や就職が黒人よりも不利であったりする。

 人種や性別だけでなく階級や豊かさといったものを含んだ、それぞれの個人が持っている特権の総体(net priviledge)を見るのならともかく、特定のアイデンティティばかりに注目してしまうと「相対的に人より多く特権があるおかげで豊かに暮らせる白人男性もいればそうでない白人男性もいるし、性暴力の被害者となる女性もいればそうでない女性もいるし、差別を受けて苦しむ黒人男性もいればそうでない黒人男性もいる」という当たり前の事実が見えなくなってしまう。そして、"特権"がほんとうに存在するのかということについての議論を後回しにして、白人や男性ならばどんな人であっても"特権"を持っているのであり持たない人に対する加害者であると前提して非難する昨今の社会運動や一部の左派学問は、やっぱり差別的であり宗教的である、という風にティコッタは論じている。

 

wedge.ismedia.jp

 

 人種に関する議論は日本では取り上げられることは総体的に少ないように思われるが、リンゼイやボグホシアンやティコッタが問題視するような"男性特権"論は、本邦でもたまに目にする。たとえば、上述のインタビューのなかで社会学者の平山亮は以下のように論じている。

 

 男性学では、男性はフルタイム労働に従事し家族を養う稼ぎ手としての役割を果たさなくてはならず、そうしたプレッシャーに常に晒されているとよく指摘されます。女性が社会から「女らしさ」を要請されるのと同じく、男性も社会からそうした役割を要請されていると。つまり、男女ともに社会から「男らしさ」「女らしさ」のプレッシャーを受けているという意味では同じ「被害者」である、という主張を男性学のなかによく見かけます。

 この主張が欺瞞であることは、これを社会階級の問題に置き換えてみれば明らかです。たとえば、生まれながらにして裕福で、教育機会にも恵まれ、安定した収入源を持っている人と、それらすべてを奪われており、常に生活不安に苛まれている人にわかれた格差社会を考えてみてください。もし前者の人々が「私も『富める者』として生きていくためのプレッシャーを社会から受けている。だから、この格差社会の中では私も被害者なんだ」と主張したら、ほとんどの人は頭に来ますよね。

 男性もまた「被害者」である、という主張には、これに似たところがあります。人口全体で見れば、教育機会でも就労機会でも女性の方が不利益を被っているのは、統計的な事実です。そもそも就労役割と結びついた「男らしさ」は、経済基盤を確立させよ、というプレッシャーなのに対し、家族の世話を最優先にせよ、という「女らしさ」のプレッシャーは、逆に就労を断念させるために働きます。生きるための経済基盤を築くのに安定した就労は不可欠ですから、どちらのプレッシャーが生存を難しくさせるかは明らかでしょう。

 最近、女性差別に対して男性差別を訴える声も出てきました。しかし、ここで考えてほしいのは、女性差別の訴えは「男性中心社会」に対する告発であるということです。これに対し、男性差別が「女性中心社会」だから起こっているかといえば、そんなはずはありません。なぜなら、これまで社会で女性が、男性ほどに社会における意思決定権を握ったことはないからです。決定権を有する地位のほとんどをいまだに男性が占めている社会で、男性が不利益を被っているとすれば、それは女性のせいなどではなく、社会の意思決定をしてきた男性たちのせいでしょう。

 

 たとえば、先述したように男性の自殺率は女性よりも高いこと、その自殺率の高さの一因として「男らしさ」や社会的地位・収入へのプレッシャーが指摘されていることをふまえれば、「どちらのプレッシャーが生存を難しくさせるかは明らか」とは安易に言えないはずだ。女性差別が「男性中心社会』(=家父長制)のために起こっているという議論についても、そもそも家父長制とは誰かが人為的に構築したものというよりも人間の生物学的な特徴に沿って進化してきたものであること、そして現在の社会に適応できず不利益を被る男性もいればうまく適応して利益を得る女性もいることを考えると、何でもかんでも「社会の意思決定をしてきた男性たちのせい」にすることはできないだろう。

 インタビューの別の部分では「男性学がメディアに出てきたことで、そうした男性としての役割に対し異議申し立てや愚痴をこぼすことが出来るようになった」ことにすら平山は批判的であるが、こういうのも、男性には女性にはない"特権"を持っているという現在を想定して罪深い存在である男性には自己批判や懺悔しか許されないとする、不毛で非生産的なアイデンティティ・ポリティクスの一種であるように思える。