道徳的動物日記

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「研究」ってそんなに魅力的か?(読書メモ:『在野研究ビギナーズ』)

 

在野研究ビギナーズ――勝手にはじめる研究生活

在野研究ビギナーズ――勝手にはじめる研究生活

 

 

 私自身、「在野」にありながら学術書や洋書を読んだりその内容をまとめてブログにして発信したり、という活動をしている。だから自分の活動の参考になるかと思って読んでみたが、結論から言うと not for me だった。この本に寄稿している著者たちの大半とは趣味関心や「やりたいこと」や性質が違い過ぎているし、また、仮に参考にしようと思っても真似できなくて参考にできない部分が多過ぎる。

 自分にとってはあまり参考にならない本、ということなのでまた別の誰かにとっては参考になるのかもしれず、批判する気などはないのだが、せっかく読んだので「なぜ自分にとってはあまり参考にならなかったのか、自分にとっては受け付けられなかったか」という点だけはメモとして残しておこう。

 

 この本に寄稿している「在野研究者」たちの大半は、現在は大学に所属せずに会社員や公務員などとして働きながらも論文を投稿している人たちである。業績など見てみても、一般向けの著作を出している人もちらほらとはいるが、学会誌への論文投稿が主となっているようだ。本文を読んでいても、学生時代から修士までは進んで学会などにも参加しており、現在も大学に所属はしていないというだけでアカデミアの人々とは繋がっている、というタイプの人が大半である。さらに言うと、寄稿されているエッセイを読んで伝わる感じからすれば、学生の頃から教員や他の学生との相性が良くて論文を書いたり学会で発表をすることに充実感を抱くなど、元々から大学・アカデミアという場所との相性が良かったり大学・アカデミアに対して好意的であるタイプの人であることが基本なようだ。

 …しかし、学生の頃から勉強は好きであっても研究という行為やアカデミアという場所に対する魅力がどうしても感じられなかった自分としては、そもそもの志向性や人間性からして全く合わないように感じられてしまった。特に「合わないなあ」と思わされたのが、以下の引用箇所のようなところだ*1

 

研究の楽しさとしてまず挙げたいのが、論文や学術書を読む喜びである。…(中略)…諸外国の研究者や数世紀前の泰斗と、論文を介してコミュニケーションできるのも好ましい。時空を超えて、同じ研究関心を持っていたらしいと知ると、心震える。人によっては、これこそが研究の醍醐味だという。そして、先人たちの積み重ねのおかげで、「巨人の肩の上」に立ち、一人では到達できないはるか彼方まで見渡せる。だから、何度でも栞のノブを掴む。

(第二章:「趣味の研究」、工藤郁子、p.32-33)

 

 私が修士でリタイアして博士課程に進まなかった理由のひとつは、学術書や論文書を通じて最新の知見を学んだり物事について考える方法を深めることには楽しさややりがいを感じても、自分が学んだことを論文という形にして新規性を持たせて他人に対して発表する行為に対する楽しさややりがいは感じられなかった、ということにある。ついでに言うと指導教官との相性もよくなかったし、アカデミアの内部にある有形無形のルールや独特の雰囲気や所属する人々のタイプの偏りなどなどが性格的や生理的に無理だった、ということもある。だから、論文を書くというプレッシャーやアカデミアで他の人々に認められなければならないというプレッシャーがなく、自分のペースで好きなものを読んで書きたいときに好きな文章を書く、という現在の在野での「勉強」の方が楽しく感じられる。逆に言えば、在野所属になってからでもわざわざ研究行為を行ったりアカデミアと関わり続けたいと思えることが理解できない、ということだ*2

 

rmaruy.hatenablog.com

 

 上記の記事はいま私が書いているこの記事なんかよりもずっと良く整理されて書かれているとは思うが、全体的に研究者に対する憧れや賛辞が過剰である気がするし、「勉強者」と「研究者」という分け方をされるとどうにも「格下 - 格上」という感じになってしまい、素直に受け取れない。

 また、上記の記事では"研究者の行っている研究が、世間にとってどのような「価値」をもつのかを考えるヒントを与えること"や"研究内容を広く非専門家に伝えるためのメディアを提供すること"が、「勉強者」の行う「研究支援」と表現されているが、この表現はあまりに謙虚過ぎる。むしろ、このような行為は「啓蒙」と表現されるべきなのだ。

 私がこのブログを書き続けている目的としても、啓蒙活動という要素が大きな部分を占めている。心理学や社会科学などの経験的な学問の知見、あるいは倫理学や哲学などの非経験的な学問の考え方…特に、ネットで検索してもなかなか出てこない知見や英語圏では話題になっていても日本語ではまだマイナーな知見について紹介したり、ネットでの主流派となっていたり根拠のないレトリックやクリシェを通じて定着してしまっている発想やイデオロギーのカウンターとなる考え方を紹介しよう、ということは意識しながらブログを書き続けている*3。…だから、自分が勉強した結果をアウトプットすることによって世の中のバランスを少しでも整えたり人々の意見や考え方を少しでも変えてやろうというモチベーションはあるのだが、研究者を支援してやろうという気持ちは一切ない。

 研究者であるから啓蒙活動ができないということはないだろうし、自分が所属している大学やアカデミアの外に向けて啓蒙活動を行なっている、あるいはゼミや一般教養の授業を通じて教え子たちに啓蒙活動を行なっている大学教員は多数いるだろう。しかし、時間やリソース的にどうしても先端的な専門知識を扱った論文の執筆に専念する必要があったり、また、研究活動に対する啓蒙活動の比重が上がり過ぎるとアカデミア内で軽んじられたり評価が下がったりしてしまうという側面もあるようだ。さらに言えば、特に文系の学問(その中でも規範的主張を行う学問)では、アカデミア内で主流派とされる意見や是とされる意見に偏向が生じてしまい、アカデミアの外にいる方がむしろ非主流派の意見を気兼ねなく紹介して人々の意見を広げやすくなる、というメリットもある*4。なにより、在野での啓蒙活動は「アカデミア内で重要とされていること」や「新規性の有無など、論文として認められるために必要な条件」などを気にすることなく、自分が大事だと思うことを自分で選んで自分の文体で書いて自分の好きな方法で発信することができる。…素朴かもしれないが、論文執筆や研究活動では時として失われがちな、学ぶことやそれをアウトプットすることに関わる本質的な楽しさが啓蒙活動にはある、と私は思っている。また、啓蒙活動を行うために必要とされるインプットのリソースは研究活動の成果であり、その点だけを取れば啓蒙活動は研究活動に寄生・依存した活動であるのは確かなのだが、だからといって勉強者が研究者に対してへり下る必要はないだろう。

 

*1:ついでに言うと、以下の引用箇所に限らず、ポエミーな文章やレトリカルな文章に白けさせられるという場面が多々あった。

*2:この本は人文書としては異例の売れ行きであるようだが、在野での「勉強」ではなく「研究」に惹かれている人がそこまで多いというのも、私にはちょっと想像がつかない。また、寄稿されている文章を読んでいて思ったのが、本人の能力やモチベーションや金銭的・時間的な余裕はもちろんのこと「アカデミアとの物理的距離/精神的距離」もかなり重要になってくるということだ。さらに身も蓋もないことを言うと、当たり前のことかもしれないが、本人の能力も重要になってくる。卒業した大学や大学院にせよ、現在就労している会社やそのほかの職場にせよ、「良いところ」に行けている人が多いのだ。だから、在野研究者志望者たちにとってこの本が実際のところどれほど参考になるかどうかには疑問もある。普通の大学を卒業して普通のところで働いている人には真似できない部分も多いからだ。

*3:もちろん、社会的意義などは深く考えず単に「この文章やこの本は面白かったから紹介しよう」という程度の動機で記事を書くことも多々ある。

*4:よく言われることだが、このメリットは「トンデモ」な歴史学的主張を行なったり「似非科学」に接近してしまう、というデメリットと裏表の関係にあることは確かだ。これについては、注意するにこしたことはないだろう。