道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

道徳や規範を認識できない人たちについての省察

note.com

 

 みんなが批判している通りの酷い内容の記事である。特に以下の箇所がヤバい。

 

フェミニストという言葉はネットのごく一部の界隈でしか聞いたことがないので一体どこのイベントなのかと純粋に興味がありました。僕が参加するイベントでは一度も聞いたことがありません。

フェミニストという言葉そのものが分断を呼んでしまうと思ってるのでなるべく使わない方がいいでしょう。ジェンダー問題に携わっているとよく出てくる言葉なんですかね。

 

 しかし、上記の引用箇所で示されているような種類の鈍感さやアンテナの低さは、わたしには馴染みや見覚えがあるものだ。

 

 ちょっと思い出したことがあるので、書いてみよう(詳細はボカす)。

 以前に働いていた会社で、広告や宣伝のための動画作成をするプロジェクトが立ち上がったことがあった。単に商品やサービスの内容を宣伝する動画ではなく、時事問題に絡めた動画であったりネタ的なおもしろ動画であったり芸能人をゲストに呼んで社員と対談させるトーク動画であったりなどのバラエティに富んだ動画を作って耳目を集めることで会社の認知度をアップさせよう、という企画である。そして、その企画の一環として、グラビアアイドル的なポジションの女性芸能人を呼んで男性社員とトークさせるという動画が作られた。その動画は、女性芸能人の巨乳を強調する編集がされたりするなどの性的な要素がフィーチャーされたものとなった。

 これに対して、会社内にある匿名の意見表明システムを通じて、女性社員と称する人からの批判の声が挙がった。「他の社員たちの同意も得ずに、女性をモノ扱いするような動画を制作して公表するとはどういうことか」という趣旨の批判である。

 わたしの印象に残っているのは、この批判に対するプロジェクト責任者の反応だ。それは「批判者がなにに対して怒っているのかさっぱり理解できない、なにが問題なのかわからない」というものであったのだ。開き直りでそう言っているのではなく、本気でそう思っているようだったのである。

 

 フェミニズム的な考え方は、幾多の反発やバックラッシュを受けながらも、なんだかんだで日本にも少しずつ広まっているものである。それに伴い、性差別的表現や女性を利用した性的表象に対する敏感さや感受性も浸透していった。性差別や性的表象を含む広告や企画やフィクション作品などの炎上は毎月のように目にする。このような表現は差別的でダメ、このような性的表象の仕方は広告でやっていいことではない、という「コード」の存在も、ときには明文化されることもありつつ大体は暗黙の了解として、多くの人に理解されるようになってきている。ある程度ネットをやり慣れた人であったり、流行や風潮に敏感な人であったりすれば、ある種の広告や企画などを一目見た段階で「これは炎上するな」ということが察せられるようになっているのだ。

 とはいえ、この「コード」の存在を全く認識していないであろう人たちも多くいる。広告なりメディアなり創作なりに携わるクリエイターたちのなかでも、そういう人たちはいる。だからこそ、素人目でも炎上することが一目でわかるような制作物が懲りずに世に出され続けているのである。

 話題作りや認知度アップのためにあえて炎上を狙ったものを製作する、という場合もあるだろう。しかし、おそらくそれは少数事例である。わたしの独断で言わせてもらうと、彼らは「コード」の存在を本気で理解していないのだ。つまり、自分たちがいま作っている性的な要素がある製作物が性差別などの「悪さ」を含むものであるかもしれないという危険性に気を配ったり、その性的表象で誰かが不愉快な思いをする可能性に思いを巡らしたりするという発想がないのである。

 

 こういう話題に対しては「自分たちの主張を明文化しないフェミニストたちが悪い、自分たちの意見を広い世間に伝える努力をしないフェミニストたちが悪い」という批判がされることが多い。しかし、その批判は見当外れである。上述したように、フェミニズム的な価値観や発想は世間に膾炙しつづけている。もちろん、フェミニズムの理論を本格的に理解していたり急進的なジェンダー平等を主張したりしている人はごく僅かかもしれないが、「こういう表現は差別的だ」という理解や「こういう表象の仕方は不愉快である」という感性などは多くの人が身に付けるようになってきている。薄く浅くとはいえ、フェミニズムは新たな規範や道徳として、世間に広まっているのだ。

 ……しかし、フェミニズム的な感性は規範や道徳としてしか広まっていないところが、ある種の人たちにはその存在が認識されない理由でもある。というのも、ある種の人たちは、法律や規約として明文化されたものではない不定形な道徳や規範の存在を認識することができないからだ。

 

 この人たちは、たとえばネット上のアンチフェミニストとはかなり性質が異なる存在である。アンチフェミニストたちはフェミニズムというコードの存在を認識しているからこそ、そのコードに対して不快や脅威を感じて、反発や反抗をする。フェミニズム的理解が歪んでいたり偏っていたりするがために反発や反抗の仕方も藁人形論法的なものとなってしまう場合も多いが、ともかくフェミニズム的な道徳や規範が存在していて広まっていること自体は認識できているのだ。

 また、「法律には俺も従うが、強制力を持たず明文化もされていない道徳や規範に従うなんて同調圧力でしかない、そんなものに俺は従う気はない」というリバタリアニズム風味のマッチョイズムな開き直りも、また性質が異なるところだ。この場合は、「法律ではなく道徳や規範に従わさせられることは不当である」という信念が前提となっている。そして、その信念自体が、ある種の規範意識や道徳意識の表れであるのだ。しかし、わたしが想定している人たちは、そのような信念や規範意識を持つという発想自体がそもそも無いように思われる。

 

 彼らが物事を判断する際に規範や道徳が考慮に入れられる余地はなく、ただ損得や利益だけが判断基準となっている。

 法律を破るとほぼ確実に損害を被るのだから、大半の場合は違法なことは避けられる。しかし、道徳や規範は破ったところでどんな損害が生じるかは不確かだ。批判されること自体は損害には直結しないから、何か言われたところで気にする必要を感じない。炎上はイメージダウンや不買運動につながったら損害になるかもしれないが、世間で騒がれて耳目を集めることは認知度アップという利益に転じることの方が多いかもしれない。ヘタに規範や道徳を意識することで制作物が無難なものになったり制作のペースがスローダウンすることを考えれば、危ういものであっても構わずにイケイケドンドンで制作し続ける方が総合的な利益が増す可能性は高い。人々に広まっているらしい規範や道徳を気にかけることは非効率的で時間の無駄であるのだ。

 ……だから、なにかのきっかけで批判をされたときには、キョトンとなって心外に思ってしまう。ここで規範や道徳の存在に気が付いて、一時的には制作物を撤回したり規範や道徳への配慮をした制作を行うようになるかもしれないが、それも長くは持たない。やはり規範や道徳を無視した方が利益が出やすいはずだと計算し直して、以前と同じことを繰り返していき、そのうちに規範や道徳の存在をまた忘れてしまうのである。

 

 この種の人たちにとっては、炎上することは恥や汚点にはならない。炎上によって注目度が上がって利益が出たのならそれはプロジェクトの成功でしかないし、炎上によって損害が出るということはプロジェクトの失敗でしかない。失敗したなら問題点を分析して改善して、次のプロジェクトでは上手くやって成功を目指すようにすればいいだけだ。

 ……ここに欠けているのは、炎上というものは多くの人の道徳意識や規範意識に触発して、人々に不快感や怒りの感情を抱かせたから起こるものであるということについての認識だ。つまり、なにかの制作物が炎上するということは、その背後で傷付いていたり尊厳を侮辱されたと感じたりしている人が多数いるということである。このような人たちの存在について彼らが想像力をめぐらすことは、もちろんない。彼らが心配するのは数字としてあらわれる損害だけであるし、彼らが相手をするのは実際に利益をもたらす顧客だけであるのだ。

 

 前の段落でフェミニズムという新しい規範や道徳の存在を認識して理解するようになった人の数は増えていると書いたが、それと同時に、規範や道徳の存在をそもそも認識しない即物的で合理的な世界観に生きる人々の存在も目立つようになってきている*1。たとえば、「若者叩き」として非難もされている「テラハ問題を理解できない若者たちの闇」という記事は、わたしは読んでいて「若者に限らないかもしれないが、こういうことを言っている人は相当多いだろうな」と思った。N国の立花孝志堀江貴文による「選挙ハック」「政治ハック」に対しては幸いにして批判の方が目立つが、「スマートでクールな手段だ」と絶賛している人たちのしたり顔も想像できるところだ。この風潮の背景に、自己責任論的な価値観の隆盛が、そしてさらにその背景にある格差社会化が関わっていることは間違いない……ような気がする*2

 この世界観で生きている人たちにとっては、炎上したり多数の人を不愉快にさせたり傷付けたりした人であっても、自分の職業なりプロジェクトなりで成功を収めて多大な利益を得た「勝ち組」であれば、その人は尊敬すべき先駆者となる。だからこそ、そのような人を指導者として仰ぐオンラインサロンが隆盛するのである。

 そして、冒頭にリンクを貼ったnote記事に象徴されるように、道徳や規範に基づいた「批判」はこの世界観に生きる人たちにとっては訳のわからない行為である。批判は何の利益も生み出さないのというのに、なんでそんなに面倒で無駄で非効率的な行為をするんだろう、と思ってしまうのだ。……だが、それだけでなく、この種の人たちからは「批判」という行為そのものに対する強烈な忌避や嫌悪を感じることもあるのだ。もしかしたら、そこにこそ彼らの世界観の核心があるのかもしれない。

*1:合理的と言っても、かなり浅薄で限定された合理性であるが。

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

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