道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

労働者のエートスとエリートのエートス(読書メモ:『アメリカを動かす「ホワイト・ワーキング・クラス」という人々①』)

 

 

 2016年の大統領選では多くの人がヒラリー・クリントンの勝利を確信していたが、実際にはドナルド・トランプが勝利することとなった。それをきっかけに、「リベラルなエリートは世の中を読み違えていたぞ」とか「メディアや知識人は人種的マイノリティや性的マイノリティにばかり注目して、マジョリティである労働者に目を向けていなかったのだ」という問題意識がにわかに湧き上がり、それについて語る様々な記事や本が矢継ぎ早に登場することになったものだ*1。そのなかでも『ヒルビリー・エレジー:アメリカの繁栄から取り残された白人』『壁の向こうの住人たち:アメリカの右派を覆う怒りと嘆き』は特に注目されたものであるだろう。

アメリカを動かす「ホワイト・ワーキング・クラス」という人々:世界に吹き溢れるポピュリズムを支える"新・中間層"の実態』もそんな「"トランプ支持者とは何者か?"ブーム」の一環として世に出されたものである。邦訳書の毒々しい装丁やなんか陰謀論チックな香りのする副題に「大丈夫かよ」と思いながら読み始めたのだが、これが意外と面白かった。類書に比べると内容が軽くてゆるくて読みやすいところが特徴ではある。また、「アメリカ」や「白人」という特定の地域・人種にとどまらずに日本などの他の地域でも当てはまりそうな、「労働者」という属性全般の一般的な特徴を描いているところがポイントだ。

 

 たとえば、第3章「なぜ、ワーキング・クラスは貧困層に反感を抱くのか?」や 第4章「なぜ、ワーキング・クラスは専門職に反感を抱き富裕層を高く評価するのか?」などでは、労働者に特有の道徳観(エートス)が浮き彫りにされて、富裕層のそれと鋭く対比されている。

 

アメリカのワーキング・クラスの家庭で、フルタイムの仕事を二つ持ち、安定した生活を維持するのは大変である。それには、たゆまぬ努力と厳しい自己鍛錬が必要だ。そのため、どんな人間的特徴を高く評価するかを尋ねると、ワーキング・クラスのアメリカ人は白人も黒人も、道徳的な特徴を挙げる。道徳心よりも優秀さを自尊心の糧としているエリートとは対照的だ。ホワイト・ワーキング・クラスは、「気がつく人」「高潔な人」「問題を起こさない人」「正々堂々とした人」を好み、「思いつきで行動する無責任な人」を嫌う。また、「正直」「強い責任感」「誠実」「勤勉」といった特徴を高く評価し、「不正直」「無責任」「怠惰」といった特徴を軽蔑する

(p.35-36)

 

同じ政府からの給付でも、仕事にまつわる給付は受け止められ方が違う。失業者給付は、「その人のこれまでの労働の対価であり、受けるにふさわしい所得」と考えられる。一方、それとはまったく対照的に、所得制限のある給付を受ける者は、「怠け者」の烙印を押される。

(中略)ちなみに同じワーキング・クラスでも、政府からの給付に対するアフリカ系アメリカ人の考え方は、白人とは大きく異なる。 アフリカ系アメリカ人は、構造的に不平等が生まれることをよく理解している。そのためワーキング・クラスのアフリカ系アメリカ人はフランス人と同じように(ワーキング・クラスの白人とは異なり)、貧困層に対して批判的な判断をしない。むしろ「神の思し召しがなければ自分もあんな風になっていただろう」と思い、連帯して助け合うべきだと考える。

(p.43-45)

 

 上記の引用箇所は、生活保護バッシングが激しい日本にも当てはまることだろう(政府からの手当や給付金や生活保護に対するスティグマは、コロナ騒動によって多少は軽減されるようになったかもしれないが)。

 

ワーキング・クラスからすれば、専門職は常にあこがれの対象というわけではなく、その能力を疑いの目で見ている場合が多い。管理職のことは、「何をどうするべきかまるで知らないくせに、人にどう仕事をさせるべきについてはいろいろと知っている大学出のガキ」としか考えていない。バーバラ・エーレンライクは一九八九年の著書の中でこう回想している。「ワーキング・クラスだった父は、『医者』と言うときには必ずその前に『やぶ』をつけていた。弁護士は『悪徳弁護士』で、(中略)教授は例外なく『にせ教授』だった。」

p.48

 

エリートは社交を通じて、幅広い人々と円滑な関係を築き、相手に自分の洗練度を印象づける能力を育む。エリートの子供は幼いうちから、知らない相手でも目をじっと見て握手をするように教えられる。子供の将来は、起業家的ネットワークを形成・維持できるかどうかにかかっているからだ。調査によれば、専門職の五一〜七〇パーセントが、個人的な人間関係を通じて仕事を獲得している。だから前述のようなディナーパーティを催し、「人脈」を築こうとする。エリートの中心的価値観である自己実現の手段の一つなのである。

ワーキング・クラスには、この私生活と仕事上の戦略とが入り混じった特有の生活形態が偽善的に見える。出世に必要な駆け引きや工作も同様である。ワーキング・クラスにとって娯楽は、仕事から離れることを目的としており、決して仕事の延長ではない。パーティの目的は、よく知らない人に自分を印象づけるのではなく、なじみの料理をふんだんにふるまい、よく知っている人々の心を和らげ楽しませることにある。

(p.55-56)

 

専門職のエリートが普通だと見なしているものはたいてい、ワーキング・クラスには、エリート階級の栄誉を見せびらかしているようにしか見えない。たとえば、一般的な専門職階級が会話のきっかけに使う「お仕事は何を?」という言葉を考えてみよう。この言葉は、仕事の内容やそれによる経済力を誇りに思える階層でこそ意味を持つ。私に尋ねられれば、すぐにこう答えられる。「法学の教授です」

しかしワーキング・クラスでは、この種の誇りを与えてくれる仕事は、消防士や警察官、兵士など、限られている。(中略)そのため、パーティでの最初の質問が「お仕事は何を?」にはならない。

だからこそワーキング・クラスの社会では、「何をしているか」よりも「どんな人間なのか」、仕事よりも人格に関心を向ける傾向がある。ホワイト・ワーキング・クラスは、ラモンの言葉を借りれば、「道徳的な秩序を維持」しようとする。これは多くの場合、「伝統的」な価値観を守ることを意味する。(中略)彼らにとって伝統とは、地元に根づき、家族的価値観を守ることにあった。家族的価値観とは、両親のいる家庭で安定した生活を築き、家族で家族の面倒をみることに重きをおく価値観である。

(p.57-58)

 

 上記の引用箇所で示されているような、知的専門職エリートの価値観や行動様式に鼻白むワーキング・クラスの感情には、わたしも共感できるところがある。

「人脈」を広げることに生きがいを感じてそれを誇りに思うタイプの人にわたしが出会うようになったのは社会人になってからであるが、彼らのような人間に対してはわたしも苦手意識を持つ。

 また、弁護士や医師や理系アカデミシャンなどの知的専門業に就いている人の大半もわたしは苦手である。自分の能力や知性を職業と収入に直結させるだけでなく、自分の職業や専門分野に自分という人間の人格や存在意義や行動指針やアイデンティティの全てを委ねているように見える人が多いからだ(文系アカデミシャンに関しては、まともな人であれば自分の職業とアイデンティティを直結させることに対してためらいや疑いやアイロニーを挟むものなので、また話が別だ)。Twitterを見ていても、弁護士ツイッタラーや医者ツイッタラーって小賢しくてイヤな奴が多いような気がする。

 ……ともかく、「仕事」を誠実にこなすことは重要視するが「職業」や「専門性」を誇る人間は軽蔑する、という感覚はわからないでもないのだ。これはわたしだけでなく、日本でもけっこう多くの人に共有されている感覚ではあるだろう。ネットはテレビなどの従来メディアに比べると「専門家」が賛美されやすい空間ではあるが、それでも、専門家に対する素朴な反感を表明する("反知性主義的"だと怒られそうな)言葉はちらほらと見えてくるものだ。

 ちなみに、この本では、ワーキング・クラスよりもむしろエリートの方が労働時間が長くて休日にも家庭に仕事を持ち込む傾向があることが指摘されている。そして、それもワーキング・クラスから見ればエリートによる家庭の軽視や伝統的価値観の蔑視でしかないのだ。

 

伝統的な家族的価値観に重きを置く態度もまた、専門職階級との対立を生み出す原因となる。エリートは、自分が洗練されていることを示すために、アバンギャルド(前衛的)な性的指向、自己表現、家族形態に寛容な態度を示す。アバンギャルドは、十九世紀初めに始まった、「主に文化的な領域で、規範や体制として受け入れられてきたものの境界を押し広げる」芸術運動である。この、当時のヨーロッパの芸術家の間で始まった「慣習への挑戦」が、二十一世紀アメリカのエリートの文化世界に受け継がれている。彼らエリートは"小市民"とは違い、アバンギャルド性的指向を受け入れることを誇りとする。

(p.59-60)

 

 "性やジェンダーの多様性に対する承認"がエリートの間での作法やファッションとなっているのも、よくわかるところだ。Netflixは配信作品のラインナップやオリジナル作品の内容からリベラルで多様性を肯定するイメージを振りまいているが、そのなかでも性的な多様性はちょっとしつこいくらいに推してくる。日本での消費のされ方を含めて、性的多様性への承認にファッション的な側面があることは、やはり否めないだろう。

 

階級格差を表すものには、食べ物や宗教のほかに、会話の役割もあげられる。エリートの家庭は非エリートの家庭に比べ、子供との会話量がはるかに多い。ワーキング・クラスから教授になったある人物は言う。「ワーキング・クラスも、自分を見つめ直したり自分の心の状態に関心を抱いたりしないわけではないが、一般的には自分の『心』にあまり目を向けない」。J・D・ヴァンスは、セラピストに相談に行った際、「自分の感情について他人と話をすると、胸がむかついて吐きそうになった」と言う。これも、彼らがプライバシーに高い価値を置いているからだ。「内面をさらけ出す」ことに抵抗を感じるのである。ノースダコタ州で育ち、階級の壁を乗り越えたある人物は言う。「私の家では、仕事や学校の話はたいてい一言で終わりました(「今日はどうだった?」「別に」)。それ以外に詳しい話をしたり、熱心に話し込んだりすれば、途方もないうぬぼれだと思われかねませんから」。自分が読んでいるおもしろい本の話はあきらめるほかなかった。

(p.54)

  

 上記の引用箇所は読んでいてちょっとつらくなったところだ。たしかに、知人と会話していても、自分の内面を他人に伝えることへの抵抗感や苦手意識、自分自身の心に対する無関心さなどが察せられることはある。また、特に男性の場合は恋人や配偶者に対して自分の内面を伝えることにも無頓着になったり、そういうことをするのは格好悪いことであると考えてしまう人が多いように思われる。

*1:当時のこのブログでも、そのテの記事をいくつか訳している。

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