道徳的動物日記

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読書メモ:反省的均衡と基礎付け主義

 

 

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

 

 

 

 第4章では、道徳的な原則を正当化する方法についての議論がされている。

 シジウィックは、私たちが正しい道徳的原則を推論によって導こうとする際には「明白で正確な言葉を用いること」「注意深い反省によって自明さを確認すること」「複数の原則が矛盾する際には、どちらかが間違っていると考えて見直すこと」「自分の判断が間違っている可能性が示された時には、その可能性を受け止めて、自分の判断を疑うこと」などの条件が必要である、と主張しているらしい。そして、これらの条件を満たして推論している二人の判断が矛盾した場合には、少なくともどちらか一人は間違っていると考えるべきであり、どちらの側が間違っているかということを確認することが必要となる。そして、上記の条件を満たした推論は信頼できる道徳的結論へと適切に私たちを導いてくれるはずだ、というのがシジウィックの主張であるようだ。

 著者らは、道徳的な原則の正当化の方法として「基礎付け主義(Foundationalism)」と「反省的均衡(Reflective equilibrium)」との二つを対比して論じている。

 知識に関する基礎付け主義の代表はデカルトであり、全ての知識は自明で疑いようのないものに基礎付けられている、私たちが現在持っている知識を遡っていけば最終的にはそれ自体が疑いようのない知識に辿り着く、という考え方である(「我思う、ゆえに我有り」)。反省的均衡は「整合説」と呼ばれる考え方であり、ある知識が正しいか否かは他の全ての知識と矛盾なく整合するかどうかによって決まる、という考え方である。反省的均衡を有名にしたのはジョン・ロールズであるが、面倒臭いのでロールズの主張した反省的均衡はどのようなものであるかは以下の引用を参照。

 

ごく通俗的な用法では、反省的均衡は次のような手順で行なわれるとされる。
  • われわれが道徳に関して持つさまざまな直観 (considered judgment 熟慮された判断) から、ある抽象的な道徳原理を導き出す。 (たとえば、「妊娠中絶はかまわない」と 「胎児は人格ではない」という直観から 「人格でない生命を殺すのはかまわない」 という抽象的原理を導きだす)
  • その道徳原理とさまざまな直観を照らし合わせた場合、 その原理によってそれらを整合的に説明できるかを考える。 (「植物人間が人格でないとすれば、 植物人間を殺すのはかまわないか」)
  • 当の道徳原理といくつかの直観が衝突する場合は、 新たな道徳原理を作り出すか、 あるいは衝突する直観が不合理なものであるとして その直観を放棄する。

反省的均衡は、このような仕方で抽象的な道徳原理を作り出す一方で、 直観同士の矛盾をなくし、 整合的な集合となることを目指すものである。 

*1

 

 しかし、直観を重視する反省的均衡の理論は、そもそもの直観が間違っていた場合には全く誤った道徳的原則を生み出し続けてしまう、という批判がR.M.ヘアなどによって行われている*2。反省的均衡は循環的な過程であるために、一見すると熟慮された道徳的判断であると思われるものが導かれたとしても、その道徳的判断が本当に正しいのかどうかは反省的均衡の過程の外側から確かめるしかないのだ。それができなければ反省的均衡は文化や個人によって相対的であり、自己利益などに影響されているかもしれない頼りない道徳的判断しか生み出せないものになってしまう。英語と中国語といった異なる言語はそれぞれの独自のルールによってそれぞれに整合しているという言語における整合説は、ある言語のルールについてその言語の観点の外側から批判する必要というものは存在しないので問題がない。しかし、道徳においては、自分たちとは異なるルールによって整合している倫理観に対しても矛盾している/問題があると批判する必要が出てくるのであり、反省的均衡における相対主義の要素は道徳理論としては問題含みなのである。

 著者らによると、ノーマン・ダニエルス(Norman Daniels)による「広い反省的均衡(Wider Reflective equilibrium)」は上述の問題に対応できる *3。広い反省的均衡は規範的な道徳理論に強い役割を持たせることを認めており、理論や原理によって私たちの直観的な道徳的判断を修正することを(ロールズによる反省的均衡よりも強く)認めているようだ。ただし、著者らによればダニエルスの主張する反省的均衡はもはやロールズの反省的均衡とはほぼ別物である。また、規範的な道徳理論に照らし合わせてみると私たちの直観が全て間違っていた場合には、私たちの直観を全て捨てて規範的な道徳理論に従うべきであるということになるが、そうなるとそもそも反省的均衡を採用する意味がなくなってくる。結局、反省的均衡としての特徴を保つためには、直観にある程度以上の役割を持たせる必要があるかもしれない。だが、広い反省的均衡を突き詰めて様々な道徳理論同士を突き合わせていけば、客観的な道徳的真実が理性によって導き出されるかもしれないのだ。

「基礎付け主義」は「強い基礎付け主義」と「弱い基礎付け主義」とに分けることができる。強い基礎付け主義では、基礎となる道徳原理は訂正の余地もなく自明である。弱い基礎付け主義では、基礎となる道徳原理について"なぜ"そのような原理があるのかという理由を省察することが認められるし、間違いや矛盾などを指摘された場合には自分が基礎であると思っている道徳原理について考え直すことも必要とされる。基礎付け主義はドグマティックであるとして批判/否定されることが多いのだが、必ずしもそうではないというのが著者らの主張である。

 シジウィックの主張は反省的均衡であるか基礎付け主義であるかということは分かりづらく、長らく議論の対象となっていたようだが、そもそも「広い反省的均衡」と「弱い基礎付け主義」との間の実質的な違いはほとんどなく、シジウィックは広い反省的均衡支持者でもあり弱い基礎付け主義者でもある、というのが著者らの結論である。道徳理論にも役割を持たせた広い反省的均衡を行い続けて行けば基礎となる道徳的真実が導き出されるかもしれず、そうすると反省的均衡と基礎付け主義は一致するかもしれないのだ。

 シジウィック自身が「道徳的真実は直観によって認識することができる」という考え方をしているのでややこしいのだが、この場合の道徳的真実はロールズの反省的均衡で導き出されるような道徳的原理のように相対的で主観的なものではなく、客観的なものである。また、「直観によって認識する」という営みも言葉のイメージとは裏腹にかなり理性的な営みであるようだ。

 …まあとにかくシジウィックのみならず著者らも客観的な道徳的真実は存在していると主張する側であり、その立場から、世間では評判の良い反省的均衡を批判しているということであるようだ。T.M.スキャンロンは反省的均衡のことを「唯一擁護できる方法である、反省的均衡の代替案に見えるものがあってもそれは幻想だ」(p.98)と批判しているらしいが、そんなことはないという話。

 

 

 

*1:REFLECTIVE EQUILIBRIUM

*2:ヘアによる批判についてはこの記事の後半を参照。

メモ・功利主義と思考実験、功利主義と直観 - 道徳的動物日記

*3:伊勢田哲治による「広い反照的均衡と多元主義的基礎づけ主義」ではダニエルスの考え方やシンガーの主張などが説明されている…わたしはまだこの論文をちゃんと読めていないが。http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/6834/1/WREと基礎づけ主義.pdf

「問題となることは存在するのか?」 by ピーター・シンガー (デレク・パーフィットの On What Matters について)

dailynous.com

 

 哲学者のデレク・パーフィット(Derek Parfit)が元旦1月2日に逝去したが、パーフィットの著作『On What Matters(問題となることについて)』について書かれた、ピーター・シンガー(Peter Singer)が2011年の1月にProject Syndicateに発表した記事を紹介する。私は『On What Matters』は100ページくらい読んだところで挫折したし、同じくパーフィットの著作である『理由と人格(Reasons and Persons)』も邦訳は値段が高いせいで持っていないのだが…

 

www.project-syndicate.org

 

 

 

「問題となることは存在するのか?」 by ピーター・シンガー 

 

 

 道徳判断は真か偽かであり得るだろうか?あるいは、倫理学とは根本的には純粋に主観的な問題なのであり、個人が選択するものであるか、もしくはその人が暮らす社会の文化によって相対的であるものなのだろうか?その答えは、つい最近に明らかになったところであるかもしれない。

 道徳判断の真実を確認する方法は存在しないように思われるため、道徳判断は感情や態度の表明以外のものでは有り得ない、と論理実証主義者たちは1930年代に主張した。それ以来、道徳的な判断は客観的な真実を述べるという見方は哲学者たちの間では時代遅れなものとなっている。論理実証主義者によると、例えば私たちが「あなたは子供を叩くべきでない」と言うときには、あなたが子供を叩いていることに対する不賛成(disapproval, 非難)を表明することや子供を叩くのを止めるようにあなたを促すということが、私たちが実際のところ行っていることなのだ。あなたが子供を叩くことが不正であるか不正でないかという問題に対する真実は存在しないのである。

 倫理学におけるこの見方にはしばしば異議が唱えられてきたが、その異議の多くは神の命令に訴える宗教思想家たちによるものだった。大部分が世俗化している西洋哲学の世界では、宗教思想家たちの議論が訴えられる程度は限られている。他にも、宗教に訴えずに倫理学における客観的な真実を擁護しようとする主張は存在したが、支配的な哲学的潮流に逆らってそれらの主張を普及させることはほんの僅かにしかできなかった。

 しかしながら、重要な哲学的事件が先月(2010年12月)に起こった。長らく待望されていたデレク・パーフィットの著作『On What Matters(問題となることについて)』が出版されたのである。オックスフォード大学のオール・ソウルズ・カレッジの名誉教授であるパーフィットは、これまでに一冊の本しか書いてこなかった。1984年に出版された『Reasons and Persons(理由と人格)』であり、この著作は絶賛を受けたものだ。パーフィットが行っている完全に世俗的な議論や他の立場に対する包括的な反論は、この数十年で初めて、倫理学における客観主義を拒否している側の人々を守勢に立たせたのだ。

 『問題となることについて』は読むのをためらうような長さの本である。二部作の分厚い本であり、合計すれば1400ページ以上を数える、密度の高い議論がされている本だ。だが、議論の核心は最初の400ページで書かれており、知的好奇心のある読者にとっては乗り越えられないほどの難局という程のものでもない…特に、常に明晰であろうと試み続けて、単純な単語が代わりに使える時には曖昧な単語を使うことを絶対にしないという英語圏の哲学の最良の伝統にパーフィットも身を置いていることをふまえれば。一つ一つの文章は複雑ではなく、議論は明白であり、多くの場合にパーフィットは鮮やかな具体例を用いて自分の論点を示している。だから、「何が問題となるか(What matters)」ということはそれほど理解したいと思っておらず、むしろ客観的な意味で何かが本当に問題となることが有り得るのか(anything really can matter)ということを理解したいと思っている全ての人にとって、パーフィットの本は知的な恵みであるだろう。

 多くの人は、合理性とは常に道具的なものであると考えている。理性は私たちが望むものを手に入れるための方法を教えることはできるが、私たちのそもそもの望みや欲求は理性の範囲の外にあるものだ。そうではない、とパーフィットは論じる。1+1=2という真実を私たちが認識することができるように、いつか先の時間に自分が激しい苦痛を受けることを避ける理由を自分が持つということも私たちは認識することができるのだ。未来のある時間に自分が激しい苦痛を受けるかどうかということについて現在の自分が気にしているかどうか、そのことに関する欲求を自分が持っているかどうかに関わらず、未来の苦痛を避ける理由を私たちは持っているのである。また、他人が激しい苦痛を受けることを防ぐ理由も私たちは持っているのだ(もっとも、常に決定的な理由である訳ではないのだが)。このような自明な規範的真実が、倫理学における客観性を擁護するパーフィットの主張の基礎となっている。

 倫理学における客観主義に対する主要な反論の一つは、何が正しくて何が不正であるかということについて人々の間には深刻な意見の不一致があること、その意見の不一致は無知でなく混乱していないはずの哲学者たちの間にも存在しているということだ。私たちは何をすべきであるかということについて、イマニュエル・カントとジェレミーベンサムのような偉大な思想家たちの意見が一致しないとすれば、その問題に対する客観的に真実な答えが存在することは有り得るのだろうか?

 この種類の議論に対するパーフィットの応答は、倫理学における客観主義の擁護よりも更に大胆な主張を行うことへと彼を導いている。パーフィットは、私たちが何をすべきかということについての三つの主要な理論を取り上げている…カントから導き出される理論、ホッブズやロックやルソーからジョン・ロールズやT.M.スキャンロンという現代の哲学者たちへと連なる社会契約の伝統から導き出される理論、そしてベンサム功利主義から導き出される理論である。また、カント主義の理論と社会契約の理論は擁護が可能になるように改訂される必要がある、とパーフィットは論じている。

 そして、これらの改訂された理論は特定の種類の帰結主義と一致する、とパーフィットは論じる。それは、大きな分類で見れば功利主義と同じ分類に含まれている理論である。パーフィットが正しければ、一見するとそれぞれ矛盾しているように見える複数の道徳理論の間には、実は私たちの皆が思っているよりも遥かに小さな意見の不一致しか存在しないのだ。パーフィットの鮮やかな表現によれば、それぞれの理論の擁護者たちは「同じ山を別の道から登っている」のである。

『On What Matters(問題となることについて)』という題名が提起している疑問の答えを求めている読者たちは、失望するかもしれない。パーフィットの本当の関心は、主観主義とニヒリズムに対して争うことにある。客観主義が正しいと示すことができない限りは何も問題とならない、とパーフィットは信じているのだ。

 パーフィットが「何が問題となるか」という問題に答える段になっては、彼の答えは驚くほどに明白なものであるように聞こえるかもしれない。例えば、現在において最も問題となっていることは「私たちのような豊かな人々が贅沢の一部を諦めること、地球の大気の温度の向上を止めること、また他の方法で地球に配慮して、知的な生活が存続することを地球が支え続けられるようにすること」である、とパーフィットは言う。

 その結論には私たちの多くが既にたどり着いている。私たちがパーフィットの業績から得られることは、上述のような道徳的主張や他の道徳的主張を客観的な真実であるとして擁護することができるという可能性なのだ。

 

 

 

On What Matters: Two-volume set (The Berkeley Tanner Lectures)

On What Matters: Two-volume set (The Berkeley Tanner Lectures)

 

 

 

Does Anything Really Matter?: Parfit on Objectivity

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読書メモ:知覚直観主義(道徳的個別主義)と常識道徳

 

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

 

  

 第3章のタイトルは「Intuition and the Morality of Common Sense(直観と常識道徳)」であり、シジウィックによる直観主義の議論について、現代における直観主義者の主張を取り上げながら論じられている。

 シジウィックは直観主義を三つのカテゴリに分けている。一つ目は「超-直観的(Ultra-Intuitonal)」な直観主義、「知覚的直観主義(Perceptional Intuitionism)」と呼ばれるものであり、ある個別の場面における道徳的な判断は一般的なルールや道徳的な推論を行わずとも直観によって判断することができる、という考え方である。二つ目は「常識道徳(Morality of Common Sense)」であり、通常の人々が日常的に行う直観的な道徳的判断には一般的なルールが暗黙のうちに含まれている、という考え方である。三つ目は、常識的な道徳判断が"なぜ"正しいのかということの根拠を探り、場合によってはより正しい原則によって常識的な道徳判断を調整することも求める「哲学的直観主義(Philosophical Intuitionism)」である。この章では「知覚的直観主義」と「常識道徳」が否定的に取り上げられている。

 ただし、「直観主義」という単語には複数の意味が含まれており、広い意味での直観主義は「道徳的な真実は直観によって認識することができる」という認識論に関する主張であるが、狭い意味での直観主義は「ある行為が正であるか不正であるかは、行為の帰結に関係なく、直観的な道徳規則などによって判断される」というような義務論的な規範理論としての主張である。基本的には、シジウィックは広い意味での直観主義を主張してはいるが狭い意味での直観主義は否定しているようだ。

 著者らは、シジウィックによる直観主義に対する批判を取り上げた後に、知覚的直観主義と常識道徳のそれぞれに対応する現代の倫理学者の主張を取り上げて批判している。知覚的直観主義の現代版としては「道徳的個別主義(Moral Particuralism)」を主張するジョナサン・ダンシー(Jonathan Dancy)が、「常識道徳」の現代版としては「一見自明な義務(Prima Facie Duty)」を論じるW.D.ロス(W.D. Ross)やバーナード・ガート(Barnard Gert)が取り上げられている。

 道徳における一般的なルールや普遍的な基準の存在を否定して個別の事例における直観的な判断で事足りるとする知覚直観主義(現代における道徳的個別主義)では、道徳的判断の正否がそれぞれの場面における個人の主観に左右されてしまい、それはあまりにも恣意的なものである、と著者らは批判する。ある場面においては正しいとされる理由を持つ道徳的判断が、似ているが違う要素のある別の場面では別の理由によって間違っているとされることはあるだろうが、その道徳的判断は"なぜ"ある場面においては正しくて別の場面では"なぜ"間違っているのか、ということは客観的な言葉で説明されなければならないはずだ。そして、結局のところ、"なぜ"という理由を理解するためには何らかのルールや基準に基づいた説明が必要となるはずだろう…というのが著者らの主張である。もし知覚直観主義(道徳的個別主義)が基準やルールに基づく説明を一切否定するとすればそれは恣意的で頼りない理論であるし、基準やルールに基づく説明を導入するとすればもはや知覚直観主義(道徳的個別主義)としての特徴は無くなってしまうだろう。

 直観的な道徳的判断に含まれている一般的な規則について論じる「常識道徳」や「一見自明」の議論にしても、二つ以上の規則が衝突して矛盾した場合や一般的な規則が通じないような特殊な場面では私たちはどのように道徳的判断を行うべきか、ということについての答えが得られないという難点がある。一般的な規則は一見すると自明で絶対的なものであるように思えても、実際にはそれらの規則を生み出して正当化するようなより普遍的な基準や原則があると考えた方が妥当であるし、一般的な規則では対応できない場合にはより上位の普遍的な原則に立ち返って道徳的判断を行う必要があるだろう。

 結局のところ、「知覚的直観主義」も「常識道徳」もそれのみで直観的な道徳判断を正当化するには恣意的で物足りないものであり、"なぜ"直観的な道徳判断や道徳規則が正しいか(あるいは、間違っているのか)ということをより上位の基準や原則に基づいて論じる「哲学的直観主義」が必要とされてくるのである。

 …そして、そもそも常識道徳は「意識せずに功利主義的」(p.92)なのであり、常識道徳に含まれている一般的なルールとして挙げられる「他人に対する慈愛を持つこと」や「嘘をつかないこと」なども、なぜそれが道徳的なルールとされているかという理由を少し考えれば帰結主義的な回答が得られるはずだ。例えば、嘘をついて相手を騙さなければ犯罪の被害に遭うことが確実に見込まれているなどの特殊な場面においては「嘘をつかないこと」という規則を破ることは正当化される、という主張には多くの人がそれこそ直観的・常識的に同意するが、それも人々が帰結的な判断を行っているからであろう。道徳的個別主義は「ある場面においては正しいとされる理由を持つ道徳的判断が、似ているが違う要素のある別の場面では別の理由によって間違っている」ということを論じるが、ある道徳的判断の正否が二つの場面において変わってくる理由も、異なる場面において同じ道徳的判断をすることがもたらす結果の違いによって論じることができるだろう。このようにして、次章からは著者らとシジウィックは帰結主義功利主義の正当性を擁護していくのである…。

 

 

Moral Reasons

Moral Reasons

 

 

 

読書メモ:倫理学とはなんぞや、道徳における「理由」と感情についてのシジウィックの見解

 

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

 

 

 

『The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics(普遍的な観点:シジウィックと現代倫理学)』は、倫理学者のカタジーナ・デ・ラザリ-ラデク(ポーランドの人)とピーター・シンガーによる、19世紀の倫理学者ヘンリー・シジウィック(Henry Sidgwick)の主著『倫理学の方法』の内容を解説しながら現代にも通じる倫理学として擁護している本。

 以下では、『普遍的な観点:シジウィックと現代倫理学』の内容に沿ってシジウィックの主張やそれを発展した著者らの主張をメモしていく。『倫理学の方法』は邦訳も出ていないし、ラザリ-ラデクやシンガーも「重要だが退屈な本」と序文で強調しているくらいの代物らしいので現時点で読み通す気はちょっとないために、著者らがシジウィックについて書いている主張がどのくらい正しいかは私には判断できないのだが、ラザリ-ラデクはシジウィックの専門家らしいしシンガーも偉い人なのでまあ信用してもいいだろう*1

 

 第1章の前には、シジウィックの人生と思想遍歴についての短い伝記が書かれている。

 第1章の題名は「倫理学とは何か?(What is Ethics?)」であり、内容もタイトル通り。「シジウィックによると、どのようなことを行うことが合理的で理由のある(reasonable)ことであるかということに関わるのが倫理学であり、そして個人としての人間が行うべきである行為を決定する全ての合理的な手続きが倫理学の方法としてみなされる」(p.18)。シジウィックは倫理学の方法を「利己主義(Egoism)」「直観主義(Intutionism)」「功利主義(Utilitarianism)」の三つに分類している。カント主義や契約論、完全主義(perfectionism, 人間としての能力を最高に発揮して偉い人になることが道徳の目的、みたいな考え)などの他の倫理学理論は、実際には前述の三つのカテゴリのいずれかに収まる、とシジウィックは議論している。ただし、著者らはシジウィックのカント理解の不充分さや現代における契約論の発展などについて述べながら、シジウィックが現代に生きていればカント主義や契約論を独立したカテゴリとして扱っていた可能性はあっただろう、としている。

「利己主義」が倫理学の理論とされているのは奇妙な感じがするが、倫理学(Ethics)の定義に道徳(morality)の有無を含めずに「個人としての人間が行うべきである行為を決定する合理的な手続き」という点のみで判断すれば、利己主義は非常に強力な理論である、とシジウィックは考えていたようだ。

「もしシジウィックが"倫理学"と"道徳"との区別や私たちが行うべき理由が最もあることと道徳が私たちに行うように要求することとの区別を明確にしていなかったとすれば、ある行為が道徳的に不正であると私たちが言う時、その行為を行わないことについての決定的な理由が存在するということを意味している、とシジウィックは考えていたのかもしれない」(p.20)。

 

 第2章の題名は「理由と行為(Reason and Action)」であり、道徳における理性と感情の役割について論じられているメタ倫理学的な内容の章である。「ある人が道徳的な主張をする時には、その人の欲求や感情が先に存在しているのであり、理性は自分の欲求を満たしたり感情を正当化したりするための手段として使用されるに過ぎない。理性は感情の奴隷であり、一見理性的に聞こえる道徳的主張も感情を正当化したものに過ぎない」といった、デビッド・ヒューム(David Hume)に代表されるような主観主義・非認知主義の立場をシジウィックは否定する。著者らの解説によると、「…あることが正しいという私たちの信念は、行為へと私を導く。たしかに、その信念はある衝動や感情を引き起こすことによって私たちを行為へと導くのだが、それでもなお、動機は理解(cognition/認識)によって生じる場合があるとシジウィックは考えていた…その理解とは、道徳的な判断の真実を理解することである」(p.41)。私なりに要約すると、(1)まず、理性によって認識することができる客観的な道徳的真実が存在している(2)その客観的な道徳的真実を認識するという理性的な営みによって、道徳的な感情(moral feeling)が付随的に生じてくる、というのがシジウィックの主張の要旨であるようだ。また、この「道徳的な感情」は絶対的なものではなく他の様々な感情と競合関係にあり、「道徳的な感情」が生じたとしても他の感情(利己心など)が打ち勝って「道徳的な行為」をしない場合もある、ともシジウィックは主張しているらしい。

 

「客観的な道徳的真実」と言う書き方だとなんだか大層なものに聞こえるが、どうやら、「ある人が現時点で抱いている主観的な欲求や感情」とは独立に「〜という行為をするべきである」という「理由」が存在している、その「理由」を理解することで「現時点で自分が抱いている主観的な感情」とは別に「〜という行為をするべきだという道徳的な感情」が生じる、ということであるらしい。

 著者らは、『普遍的な観点』と同じくシジウィックの議論を取り上げているデレク・パーフィット(Derek Parfit)の著書『On What Matters(重要なものについて)』を参照しながら、客観的な道徳的真実としての「理由」という概念について説明している。この点については以前に私が訳したシンガーの記事に要約的な文章があったので、長くなってしまうがそれを引用する*2

 

…道徳的真実はトートロジーでも無いが経験的なものでも無いという考えは、未だに奇妙に聞こえるものだ。しかし、最近では、デレク・パーフィトが規範的な真実を擁護した注目すべき文章を書いている。

『On What Matters』にて、私たちが知識についての懐疑主義や倫理についての懐疑主義に陥らない限りは、私たちが信念を抱くための理由についての規範的真実が存在することや、望むための理由や行動をするための理由についての規範的真実が存在することを私たちは認めなければならない、とパーフィトは主張している。

 例えば、次の主張について考えてみよう。「ある議論は正当であると私たちが知っており、その議論が正しい前提を持っているなら、その議論の結論を受け入れることについて決定的な理由が私たちにはある」。この主張はトートロジーでもないが経験的な真実でもない、とパーフィトは論じる。この主張は、私たちが信念を抱くための理由についての真の規範的な主張なのである。

『拡大する輪』の第4章にて、私は「従われること(to-be-pursuedness)や「行なわれないこと(not-to-be-doneness)」の可能性が物事の本性に埋め込まれ得ることについてのマッキーの懐疑主義を持ち出している。世界についてのある信念が、その人が持っている望みや欲求にもかかわらず、その信念を抱く人を動機づけることがなぜそもそも可能なのか、ということを理解することにマッキーの議論の難点があるとパーフィトは主張している。

 このことは私にとっても問題であった。オックスファムに募金することは私の人生をはっきり悪くするほどの影響を私には与えず、募金することによって10人の子供の生命を救うことができて彼らの家族が感じている苦しみを大きく軽減することもできる、という信念を私は抱いているかもしれない。だが、この信念は、募金を行うように私を動機付けないかもしれない。なぜなら、私は他人の子供なんて気にもかけないかもしれないからだ。

 だが、パーフィットによると、ある信念が私たちに特定の行動をするための理由を与えるかどうかは規範的な問題であり、その信念が私たちを行動するように動機付けるかどうかは心理的な問題である。

 この例については、オックスファムが援助している人々について私が気にかけないとすれば私にはオックスファムに寄付する理由は何もない、と多くの人々が反論するかもしれない。だから、私がその行動を行うための理由はあるがその行動を行う欲求を私は持っていない、ということを否定するのが更に困難な事例を示そう。

 私はいま歯痛の初期徴候を感じたところであるが、私はこれから歯医者のない離島に行って一ヶ月ほどそこで過ごす予定である。過去の経験に基くと、もし私が今日歯医者に行かないとするならば私は次の一ヶ月間は激しい歯痛に苛まれ続けられる可能性が非常に高いのであり、島の自然美を眺めながらリラックスして過ごすという貴重な機会によって得られる楽しみが妨げられることになるだろう、という信念を私は抱いている。私が今日歯医者に行けば、私は穏やかな不快感を一時間以下味わうことになる。私が今日歯医者に行かないとすれば私は次の一ヶ月間激しい苦痛に苛まれ続けるであろう、という私の知識は、今日歯医者に行くための理由を私に与える。私が歯医者に行かないことによって感じる苦痛を無視することは、非合理的であるのだ。

 この例は、ある人の意識的な生活における全ての部分について偏りなく配慮しないことは非合理的である、というシジウィックによる思慮分別の公理にも一致している。また、この公理をより弱くした形でも…より離れた未来に対してはいくらか少なめに見積もることを認めるとしても、私が今日歯医者に行かないとすれば私は非合理的であると宣告するのに十分な根拠となるだろう。

 しかし、私が現在抱いている欲求については何も言われていないことについて注意をしてほしい。もしかしたら、私は明日や来週に自分に降りかかる出来事よりも、現在や数時間後に自分に降りかかる出来事の方により影響を受けてしまう種類の人であるかもしれないのだ。

 そうすると、もし現在の私が歯医者の診療所の前に立っているとして、私が最も望んていることとは今日受けるほんの僅かの苦痛でも避けることであるかもしれない。来週の私は苦痛に苛まれて島への滞在が台無しになってしまい、今日私が下した決断を後悔するであろうことを、知識としては私は理解している。だが、この瞬間には、来週に関する事実は私の欲求に何の影響も与えないのだ。しかし、来週私が苦痛に苛まれることはそのことを予防するための手段を行うように私を動機付けないという事実は、私には予防するための手段を行う理由があるという主張を無効にしないのだ。

 その理由が存在することを十分に理解している人であっても必ずしもその行動を行うように動機付けられるとは限らないということを認めなければ、ある行為を行うための客観的な理由が存在するという主張への理解が得られないとすれば、私たちは多大な犠牲を払う勝利しか得られないのであろうか?

 私たちには、あなたにはオックスファムに募金する客観的な理由があると言うことができるかもしれないが、もし私たちが募金するようにあなたを動機付けることができないとすれば、貧しい人たちの状況は全く改善されないことになる。しかしながら、客観的な規範的真実という概念を私たちが認めることができるなら、私たちには日々の道徳的直感とは違ったものに頼ることができるようになるのだ。

 

 上述の引用部分でも言及されているが、ヒュームのような主観主義・非認知主義には、突き詰めれば、「死にかけている子供がいたら助けるべきである」と言った根本的で自明であると思われるような道徳的な主張ですらも「私はそうは思わない、私はそうは感じない」と言われしまうと否定される、という問題点がある。主観主義によると、「死にかけている子供がいたら助けるべきである」という主と「野球ではヤクルトスワローズを応援するべきである」という主張はどちらも当人の感情を根拠とした主張であるので、等価である。しかし、「野球ではどの球団を応援するべきであるか」という問題は個人の感情や環境によって答えが変わる恣意的な問題であると言ってもいいし、結局のところどの球団を応援したとしてもそれは大した問題ではない(not really matters, 重要なことではない)。一方で、道徳的な問題とは人々の利害や場合によっては生死が関わる重要な問題であり、ある道徳的な問題について人々はどう判断するべきか/どう行為するべきか、ということには恣意的な感情に依らない理性的な要素があるはずだ(p.48-50)。

 

 また、「〜という行為をするべきである、〜という判断をするべきである」という理由を理解することによって生じる「道徳的な感情」は、「共感(sympathy, empathy)」とは別物である。多くの場合には道徳的な感情と共感は同じ問題に対して起こり、複雑に絡み合っているが、それでも別物なのである。共感は、理性的な道徳判断と相反する判断を導く場合がある。この点については、以前に私が訳したシンガーの記事で言及されている心理学の実験が『普遍的な観点』でも紹介されているので、引用しよう*3

 

共感は私たちに不正な行動をさせる場合がある。ある実験では、被験者たちは病気の末期患者である子供へのインタビューを聞かされた。一部の被験者たちは可能な限り客観的であり続けるように努めることを指示されて、別の被験者たちはその子供が感じていることを想像するように指示された。どちらの被験者たちも、治療の優先順位が高いと査定されている他の子供たちを差し置いて、インタビューをされた子供を治療待ちリストの先頭に移動させたいか、と質問された。子供が感じていることを想像するように指示された被験者たちのうち4分の3はそれを求めたが、客観的であるように指示された被験者たちは3分の1しかそれを求めなかった。

 

 また、心理学者のサイモン・バロン・コーエンやテンプル・グランディンの著作を引用しながら、重度のアスペルガー症候群自閉症である人々は他人の感情を理解する能力(共感)や社会的な作法を理解する能力が欠如しているが、それでも彼らは道徳を理解して道徳的に行為することができること…むしろ、場合によっては過剰に道徳的(hyper-moral)になって自分や他人がルールや秩序に従うことを熱望すること…が言及されている。シジウィックは、仮定的な存在として、感情に影響されずに理性によってのみ道徳的判断を行う「合理的な存在者(ratonal beings as such)」について書いたが、ある意味ではアスペルガー症候群を持つ人々は現実における「合理的な存在者」であるかもしれないのだ(p.59-61)。

 一方、サイコパスの場合には「〜という行為をするべきである」という理由を理解したとしても「〜という行為をするべきだ」という感情が生じない。しかし、多くのサイコパスは道徳的な物事のみならず自己利益に関わることについても、「〜という行為をするべきである」という理由を理解したとしても「〜という行為をするべきだ」という感情が生じないために不合理で自己破壊的な行動をとる。サイコパスはそもそも不合理な存在なのである(p.56-59)。

 

 通常の人の場合は、「〜という行為をするべきである」という理由を理解して「〜という行為をするべきだ」という感情が生じたとしても、自己利益を保ちたいなどの様々な事情から「〜という行為をしなくてもよい/〜という行為をするべきでない」という理由を数多く思い付いてしまい、「〜という行為をするべきだ」という感情が掻き消されしまうことがある。これは、現代の心理学の用語で言うところの「認知的不協和」という現象である。

 一方で、「自分は正しい行為を行っている誠実な人間である」という自己評価(self-esteem)は人間の幸福にとって欠かせない要素であるために、「〜という行為をするべきである」という理由を理解しているのにそれを無視し続けて自己利益を優先した非道徳的な行為をし続ける、ということも難しい。通常の人は、自分のことを非合理的な人間であると他人から思われたくないものだし、自分がある程度以上には合理的な人間であると自分でも思っていたいものである。このことも、「〜という行為をするべきである」という理由を理解することが「〜という行為をする」という行為を導く一因となっているのだ。

 

 第2章までのメモはこんなところ。余談であるが、G.E.ムーアが「シジウィックが既に発見してた/述べていたことを、自分の手柄のように主張していた」と書かれていて扱いが悪いのが印象的だった。ジョン・メイナード・ケインズもムーアの影響でケインズをシジウィックを過小評価していたらしい。

 

 

On What Matters (The Berkeley Tanner Lectures)

On What Matters (The Berkeley Tanner Lectures)

 

 

 

*1:『普遍的な観点』の序文に書かれているエピソードによると、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは『倫理学の方法』を読んでみたたらあまりにも退屈すぎたために、それ以来他の倫理学の本を読むことすらしなくなったらしい。

 

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

メモ:死がもたらす危害の「時間的利益相対説」

 ジェフ・マクマーン(Jeff McMhan)が著書『Ethics of Killing(殺すことの倫理学)』で主張している「時間的利益相対説(Time-Relative Interest Account)」についてのメモ。とはいえ、『Ethics of Killing』は現在手元にないので、デビッド・ドゥグラツィア(David Degrazia)による論文に基づいてメモ。

 

philpapers.org

 

 「ある人が死ぬことによってその人にもたらされる危害」「死が当人にとって悪い理由」や「(他の条件が全て等しければ)人間を殺すことが犬を殺すことよりも悪い理由」を説明する方法は様々だが、代表的なものとして、以下の二つが挙げられる。

 一つ目は、「死は、"生き続けていたい"という欲求を奪うから危害である」というもの。犬は人間のようには生や死の概念を持っていないから、"生きたい"という欲求も人間のようには明確には持っていないので、人間にとっての死の危害は犬にとっての死の危害よりも大きい、という説明ができる。しかし、生や死の概念を明確に持たないために"生き続けてたい"という欲求も明確に持たないという点では、人間の乳幼児も一緒である。だが、"生き続けていたい"という欲求を持たないとしても、人間の乳幼児にとって死は危害であるように思われる。「"生き続けていたい"という欲求を奪うから悪である」という説明によれば、犬や乳幼児を(苦痛を与えることなく)殺すことは何も悪くないということになってしまうが、やはり、"生き続けていたい"という欲求を持たないとしても、死は犬や乳幼児から何かを奪っているように思われる。

 二つ目は、「死は、未来に残っていたはずの生を奪うから危害である」というもの。この説によれば、乳幼児の死が危害であることは十分に説明できる。乳幼児には(通常の場合は)この先何十年にも渡って生き続けるという将来が待っているのだから、死によってその未来が奪われるのは危害である。同じように、10歳や25歳の人間にもまだ何十年分もの未来があり、中年以降にもまだ未来は残り続けているのだから、死によってそれが奪われるのは危害である。しかし、この説の問題点は、「若ければ若いほど、死によって与えられる危害の量が増える(若ければ若いほど未来に残っている人生の年数が増えるから、奪われる年数も増えるので)」ということになることだ。25歳の死よりも10歳の死の方が、10歳の死よりも乳幼児の死の方が、乳幼児の死よりも胎児の死の方が危害が大きい、ということになる。だが、25歳の死や10歳の死が本人にとって危害であり悲劇的な出来事であるということを疑う人はほぼいない一方で、胎児や乳幼児の死の危害や悲劇性については意見が分かれる。少なくとも、他の全てが等しければ25歳の死や10歳の死は乳幼児の死よりも危害や悲劇性が大きいし、乳幼児の死は胎児の死よりも危害や悲劇性が大きい、という判断の方がほとんどの人にとって妥当であると思われる。

 また、奪われる死の年数のみで判断すると、平均寿命が数百年の亀が20歳で死ぬことは人間が20歳で死ぬことよりも死の危害が大きいということになるし、80歳の老人が死ぬことよりも1歳の犬が死ぬことの方が死の危害が大きいということになりそうである。だが、これはどうにも妥当に思われない。人間は動物よりも知的能力が高いために、同じ期間の年数で得られる幸福の量や質が動物よりも大きい(だから死によって奪われる幸福も大きくなるので危害も大きくなる)、と論じることはできる。だが、人間が持たない能力によって動物が得られる幸福(たとえば犬は嗅覚が人間よりも鋭いために、人間には嗅げない良い匂いを嗅ぐことで幸福を得ているかもしれない)のことを考慮すれば人間の方がより多くの量の幸福を得ているとは限らない。幸福の質を論じるとしても、人間による一方的な基準という恣意性の問題がつきまとう。

 

 マクマーンの「時間的利益相対説」によると、死がもたらす危害の大きさは、「残っている将来の人生に対して、死ぬ時点の当人が持っている心理的な繋がり」によって変わってくる。死ななかった場合の未来に生きる自分と、死ぬ時点の自分とを結びつける心理的な繋がりが低い場合には、死がもたらす危害は小さくなる。たとえば、将来に対する計画を行わなかったり未来という概念を持たない動物にとっては、死ななかった場合に生き続ける自分というものを死ぬ当人が想像できないので、死によってもたらされる危害は小さい。一方で、ある程度成長して自分の人生というものに対する意識を持つようになった人間は、死ななかった場合に生き続けていた自分の人生というものを想像でき、それに対する心理的な繋がりが強い。心理的な繋がりが強ければ強くなるほど、死ななかった場合の自分の人生に対する"stake"…訳しにくい単語だが、賭け金・関心・利害などの意味を含む単語…が強くなるので、死によってもたらされる危害が大きくなるのである。

 自己意識能力や言語能力が高ければ高くなるほど、死ななかった場合の自分の人生に対する心理的な繋がりも強くなる。これが、人間の死が当人に与える危害が、大半の動物の死が当人に与える危害よりも大きい理由である。また、猿の死が当人に与える危害が亀の死が当人に与える危害よりも(おそらく)大きい理由も、これによって説明できる(自己意識能力は猿の方が亀より高いと思われるので)。また、このことは、人間の生に含まれている幸福は動物の生に含まれている幸福よりも質や量が大きい、ということを意味しないという点も特徴である。

 この「時間的利益相対説」は、10歳や25歳の人間の死が当人にもたらす危害が、乳幼児や胎児の死が当人にもたらす危害よりも大きい理由を説明する。乳幼児や胎児は十分に自己意識能力などを発達させていないので、死ななかった場合に生き続けていた自分の人生というものに対する心理的な繋がりが弱いからである(妊娠初期の胎児に至っては心理的な繋がりはほとんど存在しない)。

 …ドゥグラツィアの論文を読んでいても「死によって奪われる生の年数」という量的な要素が「時間的利益相対説」でも考慮されているのかどうかは、ちょっと分かりにくい。死がもたらす危害は「死によって奪われる生の年数」を「残っている将来の人生に対して、死ぬ時点の当人が持っている心理的な繋がりの強さ」に掛け合わせて求められるということ、たとえば健常な10歳や25歳の人間が「残っている将来の人生に対して、死ぬ時点の当人が持っている心理的な繋がりの強さ」は「1」であるが乳幼児は「0.1」で胎児は「0.001」なので、「死によって奪われる生の年数」が多いとしても死がもたらす危害は乳幼児や胎児にとっては小さくなる、ということだろうか。この論文の後半では、「時間的利益相対説」と同じくマクマーンが行っている主張である「体に埋め込まれた心(emboddied mind)」が取り上げられているが、これもドゥグラツィアの短い説明だけを読んでいてもちょっとよくわからないので、やっぱりマクマーンの本を読み直す必要がありそう。

 

 

The Ethics of Killing: Problems at the Margins of Life (Oxford Ethics Series)

The Ethics of Killing: Problems at the Margins of Life (Oxford Ethics Series)

 

 

 

 

「動物の権利と先住民の権利」 by ウィル・キムリッカ、スー・ドナルドソン

 

 

 

 政治哲学者のウィル・キムリッカとスー・ドナルドソンの共著『人と動物の政治共同体(現代:Zoopolis)』の邦訳が発売されたが、何週間か前にAmazonに予約したというのにまだ届かないので、代わりにキムリッカとドナルドソンが無料で公開している論文「動物の権利と先住民の権利(Animal Rights and Aboriginal Rights)」を読んでいた。

 

www.academia.edu

 

 この論文のメインとなる主張は「先住民の権利を認めることや先住民の文化を尊重することは、先住民による捕鯨や狩猟などの動物の権利を侵害する行為までをも認めることにはならない」というもので、以前の二人の論文「動物の権利、多文化主義、左派(Animal rights Multiculturalism and the Left)」でされていた主張と共通するところがある*1

 

 著者たちによると、動物の権利の理論は、動物たちが"私"という自己認識を持つことを認めて、動物たちの主体性を尊重するものである。そして、動物の権利の理論はカナダなどの先住民たちの文化とは必ずしも相反しない。動物の権利の理論は、動物を人間よりも劣った存在であると見なし動物を所有物であると考えるキリスト教・西洋の世界観は批判するが、動物と人間とは対等な存在であると見なして動物と人間との相互性を重視する先住民たちの世界観とは共通点があるものだ、と著者たちは論じている。

 とはいえ、動物の権利の理論においては動物を殺害したり動物に苦痛を与えることは非常に限られた場合においてしか認められず、原則としては禁止される。他方で、捕鯨や狩猟などの行為は先住民の文化にとっては重要な要素であり、先住民たちは捕鯨や狩猟を行い続けているしそれを行う権利を主張してもいる。

 著者らによると、動物の権利運動を行う運動家や団体の多くは、先住民の文化と動物に関する問題には触れようとせずに無視している。その理由としては、「イヌイットのアザラシ漁など、先住民が生活する上で栄養摂取のために不可欠な狩猟は存在する」「工場畜産などの先進国の慣習が犠牲にしている動物の数に比べれば、先住民の文化が犠牲にしている動物の数はごく僅かなのだから、戦略上の問題として前者の方を優先的に批判するべきである」「先住民が持つ条約上の権利や自己決定の権利は尊重しなければならない」「捕鯨や狩猟などの文化は先住民の社会を結びつける大切な要素なのであり、外から侵害するべきではない」「西洋のマジョリティが先住民の文化を批判することは、西洋の文化や道徳観を押し付けることであり、文化帝国主義や人種差別につながってしまう」ということが挙げられる。

 著者らは、上述の「動物の権利運動が先住民の文化には触れようとしない理由」を一つずつ取り上げて、反論していく。例えば、文化の尊重という理由で先住民が動物の権利を侵害することを例外的に認めたとすれば、先住民以外の他の集団も、自分たちの文化を尊重するために自分たちが動物の権利を侵害することを認めろと要求してくることになる。例えば、国際捕鯨委員会にて日本やアイスランド北米大陸の先住民による捕鯨を支持しているのは、自分たちの「文化的捕鯨」も先住民の捕鯨と同じように認められることを期待してのことである。カナダでのフカヒレ漁禁止やサンフランシスコにおける動物の生体販売の禁止に対しても、中国系活動家たちによる「文化帝国主義だ」という批判があった。西洋諸国には先住民以外にも多かれ少なかれマイノリティである人々が数多く存在しているのだから、マイノリティ文化の尊重という理由で先住民が動物の権利を侵害することを認めてしまえば、他の数多くのマイノリティ文化が動物の権利を侵害することも同様に認めなければならなくなってしまう。

 しかし、文化帝国主義を避けるためや植民地的な歴史を反省するために先住民が捕鯨や狩猟を行うことを認めることは、人間同士の間で行われた不正義の後始末を動物に押し付けるようなものであり、そもそもおかしい。例えば、アメリカ政府は1855年に先住民のマカー族が捕鯨を行うことを認める条約を交わしたが、同じ条約では、捕鯨と同じくマカー族の伝統であった奴隷制を禁止することも要求していた。しかし、動物の権利の理論の考え方に基づけば、奴隷の対象とされる人々と同じく鯨たちも"私"を持つ主体なのであり、人間に殺されない権利がある。鯨たちの生命に関する権利の所有者は鯨たち自身なのであり、アメリカ政府とマカー族のどちらも「捕鯨の権利」を設定する権限は持たないのである。

 このように、動物の権利を侵害する先住民の様々な慣習が諸々の事情で法的に認められていたとしても、法的に認められているからといって倫理的に認められるとは限らない。マジョリティの文化だろうがマイノリティの文化だろうが、例外なく、それらの慣習に道徳的問題点があるか否かを問うのが動物の権利の理論によって求められるところである。

 

 動物の権利の理論は西洋・キリスト教的な文化の世界観よりも先住民の文化の世界観に近い、と著者らは書くが、実のところ先住民の文化の世界観における動物の扱いにも様々な問題がある。狩猟採集民の先住民たちの文化には「狩猟される動物たちは、自分が人間に狩猟されることを了承しているし、自分の身を人間に差し出しているのだ」「人間と、人間に食べられる動物の間には、お互いの契約や同意が存在している」という価値観が存在することが多い。だが、自分自身に激しい苦痛や死が引き起こされる行為に対して動物が契約したり同意したりしているというのは疑わしい。ある人が他人を殺しながら「この人は自分が殺されることについて私と契約して同意しているんだ」と言ったとしても、私たちがその発言を疑ってそのような同意や契約の存在を否定することは充分に合理的だが、同じことは動物に対する殺害にも当てはめられるべきである。また、実のところ、「狩猟される動物や家畜は人間に食べられることについて人間と契約を結んでいる」という物言いは西洋人が自分たちの狩猟や畜産を正当化する際にもよく用いられる言説でもある。人間が自己申告した「契約」を理由にして先住民の狩猟を認めてしまえば、工場畜産や動物実験などの慣習も人間が「契約」を自己申告すれば認められてしまうことになる。実際には、「契約」という考えによって動物の殺害を正当化することは、動物を狩猟することによって生じる哀れみや罪悪感を抑制するための心理的カニズムであると見なすのが妥当である。そして、そのような心理的カニズムは、動物の殺害を倫理的に正当化する理由にはならない。

 また、動物の権利の理論においても、「必要」であれば動物の殺害が認められる場合はある。人間が生きるために必須な栄養をとるための手段が動物の殺害のみであるなら、動物の殺害が認められるかもしれない。だが、この「必要」という概念が濫用される危険性もある。例えば、「現在では他にも栄養をとる手段があるとはいえ、イヌイットはこれまでずっとアザラシ漁を続けていたのだから身体がアザラシ食に適応しているのであり、他のものを食べることは危険かもしれない。だから、現在でもアザラシ漁は必要だ」という主張や、「栄養の問題ではなく、自分たちの文化によって認められたものを食べるという必要が私たちにはあるんだ」という主張である。動物の権利の理論からすれば、これは「滑りやすい坂」である。「必要」という概念を無限に拡大すれば結局何でも認められることになってしまうし、自分たちが必要とするものの範囲を都合良く拡大解釈してしまう心理的傾向が人間に存在することにも留意するべきである。また、狩猟などの行為は人間たちが主体的な意思決定に基づいて行う行為であるが、「必要」という言葉はそこを誤魔化して曖昧にしてしまう。必要だから仕方なく狩猟せざるをえないんだ、という風になってしまうからである。

 

 …このようにして動物の権利の理論と先住民たちの世界観の間にも不一致や齟齬はあるが、やはり(西洋やキリスト教の世界観と比べれば)動物の権利の理論と先住民たちの世界観の間には一致するところが多い。動物の権利運動家と先住民たちはお互いを敵視し合うか無視し合うことが多いが、お互いの世界観を結び付けて共に力を合わせれば、「動物は人間の所有物である」という西洋的な世界観に挑戦することができるはずだ…というのが著者らの結論である。

 

 以下は本題とはあまり関係ないが、個人的なメモとして引用しておく。

 

人間の場合と同様に、動物の基本的な権利も制限の対象となる。例えば、(人間または動物の)個体は、正当な自己防衛の行為によって殺害されることが認められる場合がある。更に一般的には、全ての正義論と同様に、動物についての正義論も、私たちが「正義の情況」にいることを前提としている。…正義の情況とは、私たちがお互いを破壊(distruct)することなく自分たちが繁栄(flourish)することを目指すことが可能である情況だ。人間たちは動物との正義の情況の中に常に存在してきた訳ではなかったし、隔絶していて不毛なコミュニティでは現在でも動物との避けられない衝突が続いているかもしれない(先住民のコミュニティであるかそうでないかに関わらず)。だが、今日の人間の大多数にとっては、動物を傷付けなくても繁栄することは可能である。更に、他者を傷付けずとも自分たちの善を追求することをこれまで以上に可能にし続けるために、正義の情況を維持して拡大する義務も人間は負っている。自己防衛や必要性のために正当に認められる例外は存在するかもしれないが、動物を傷付けることは推定的には常に不正である。このことは、厳密な意味での全ての動物の権利理論を結び付ける、根本的なコミットメントなのだ。( p.3)