道徳的動物日記

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読書メモ:デール・ジェイミーソンの環境倫理学入門

 

Ethics and the Environment: An Introduction (Cambridge Applied Ethics)

Ethics and the Environment: An Introduction (Cambridge Applied Ethics)

 

 

 先日に読んでいた本。著者のデール・ジェイミーソン(Dale Jamieson)はニューヨーク大学環境倫理学者で、気候変動の問題に関する著作と動物園に反対する議論で特に有名であるようだ。

 この本はCambridge Applied Ethicsシリーズの一冊で、同シリーズの本では、ローリー・グルーエン(Lori Gruen)の『Ethics and Animals』が『動物倫理入門』という邦題で訳されている*1。グルーエンとジェイミーソンは環境倫理学のリーディング集を共同編集したりもしている*2

 以前にも何度か書いたことだが、言わゆる"動物倫理"と"環境倫理"は、一見すると似たような物に見えるが対立するところも大きい*3環境倫理は自然保全生物多様性を維持することなどの必要性を主張する場合が多いが、自然や生物多様性を守る過程においては、"害獣"や"外来種"や"増え過ぎた"とされる動物の殺害が伴うことが多い。一方で、動物倫理においては多くの場合に動物の道徳的地位が主張され、自然を守るという理由で動物を殺害することは認められないと主張されることも多い。こういう事情もあってか、日本で出版された環境倫理学の入門書などを読んでも、功利主義やカント倫理学の立場から動物の道徳的地位を主張するピーター・シンガーやトム・リーガンなどの議論は扱いが悪くてあまりページ数も割かれないような傾向があるような気がする*4。しかし、グルーエンにせよジェイミーソンにせよ環境倫理と動物倫理のどちらにも造詣が深い人たちなので、グルーエンの『動物倫理入門』では環境倫理についてページが割かれているしジェイミーソンの『環境倫理入門(Ethics and the Environment)』では動物倫理についてページが割かれている。こういう点でバランス感覚があるのは入門書として好ましいだろう。

 

 ジェイミーソン『Ethics and the Environment』の具体的な章立てとしては、1章では「環境問題とは何か」「環境倫理とは何か」という概説的なことが書かれていて、環境経済学などの隣接分野と環境倫理学の違い、他の分野では補えない環境倫理独自の目的や意義とは何か、ということが説明されている。2章〜4章は応用倫理学としての環境倫理学からは一旦離れて、倫理学や道徳そのものについての解説がされる。2章は「人間の道徳性(Human Morality)」というタイトルで、道徳や倫理学の無意味さを主張しようとする「無道徳主義(Amoralism)」「神学主義(Theism)」「相対主義(Relativism)」が取り上げられて、それぞれの議論の欠点や不充分さが指摘されている。3章のタイトルは「メタ倫理」で、タイトル通りメタ倫理学の議論が解説されている。ジェイミーソンはメタ倫理を実在論と主観主義との二つに大別して、その二つの間の中間的な主張についても触れている。また、環境倫理学において特に問題となりやすい「本質的な価値(Intrinsic Value)」という概念についても一節を設けて説明されている。4章のタイトルは「規範倫理」で、帰結主義・徳倫理・カント主義という三つの代表的な規範倫理学理論がそれぞれ説明されている*5。この章では「それぞれの規範倫理学理論においては環境や動物の扱いはどうなるか」ということについても触れられている。過去の有名な環境倫理学者たちの多くは徳倫理学に近い考えを持っていたことや、カント倫理学における動物の扱いの微妙さなどの論点が興味深かった。

 5章のタイトルは「人間と他の動物たち」で、シンガーとリーガンという動物倫理の双璧的な二人の理論について具体的に説明されたのちに、工場畜産の現状についての情報が書かれて、殺すことと苦痛を与えることの違いや菜食主義などのトピックについての倫理学的な議論が説明される。6章は「自然の価値」であり、タイトル通り、自然が持つ価値とは何であるかとか我々はそれについてどう考えて対応するべきであるか、ということについての様々な考え方が説明されている。私は自然環境の(人間と動物にとっての)道具的価値を主張する議論には従来から馴染みがあるが、自然環境の美的価値や自然環境そのものの本質的価値を主張する議論はやや胡散臭いものだと思っていたのだが、この本では美的価値や本質的価値についての主張も説得力を持って紹介されているために、個人的にはこの章が一番有益で面白かった。7章は「自然の将来(Nature's Future)」で、地球温暖化の問題が取り上げられている。

 

 環境倫理学としてよくイメージされるような内容なのは1、6、7章で、2〜5章は倫理学一般や動物倫理の議論がされているので、環境倫理学だけの入門書を期待する人にとっては物足りないかもしれない。一方で、倫理学一般や動物倫理の議論を前に置くことで環境倫理学の議論を相対的な観点から理解しやすくさせているとも言える。環境倫理学の入門書といえば、環境問題についての事実的な情報や実際に環境問題に対処する際のプラグマティックな観点からの議論などにページ数が割かれているわりに、肝心の哲学的な議論がなあなあで済まされていて、物足りないことが多い*6。ジェイミーソンの『Ethics and Environment』でも環境問題についての事実的な情報は過不足なく説明されているが、なによりも、プラグマティックな観点に拘泥しない"哲学"としての環境倫理学への入門書として最適だと思う。

 

 

 

*1:

 

動物倫理入門

動物倫理入門

 

 

 

Ethics and Animals (Cambridge Applied Ethics)

Ethics and Animals (Cambridge Applied Ethics)

 

 

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*2:

Reflecting on Nature: Readings in Environmental Ethics and Philosophy

Reflecting on Nature: Readings in Environmental Ethics and Philosophy

  • 作者: Lori Gruen,Dale Jamieson,Christopher Schlottmann
  • 出版社/メーカー: Oxford Univ Pr (Sd)
  • 発売日: 2012/08/31
  • メディア: ペーパーバック
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*3:

davitrice.hatenadiary.jp

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*4:この本では動物倫理の議論もページ数を割いて取り上げられているが、むしろ例外的である

 

実践の環境倫理学―肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ

実践の環境倫理学―肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ

 

 

*5:「学生はこれらのうち一つを気に入って残りを非難したがる傾向にあるが、それぞれのメリットとデメリットがあるのでどれか一つが正しいというものではない」というような注意書きが書かれている

*6:読んだのは数年前なのだが、特にこの本は印象が悪かった

 

環境倫理学

環境倫理学

 

 

「限界事例の議論」に関する、ゲイリー・ヴァーナーの議論

 道徳的地位やパーソン論に関する議論では「限界事例の議論(Argument from Marginal Cases)」がよく出てくる。

「人間はパーソンであるが動物はパーソンではない」と論じるとき、人間がパーソンである理由として「過去・現在・未来に渡って自分が存在するということを理解できる認識能力を持っていること」なり「言語が使えること」なりを挙げるとすると、人間の中でもそれらの能力を持たない人はパーソンではないということになってしまう。「パーソンであるかどうか」を「道徳的地位を持つかどうか」に置き換えても同じで、「人間だけしか持たない特定の能力Xを持つことが、道徳的地位を持つことの条件である」としてしまえば、動物たちだけでなく特定の能力Xを持たない一部の人間にも道徳的地位がないことになってしまう。限界事例の人間の具体例とは、乳幼児や子供、恒久的な昏睡状態(植物状態)の人々、知的障害や精神病を持つ人々だ(どの年齢の子供まではパーソンでないとか、どの程度以上の知的障害や精神病を持つ人は道徳的地位を持たないかなどは、パーソンであることや道徳的地位を持つことの条件とされている能力によって変わってくる)*1

 限界事例の議論は、「人間はパーソンであるが動物はパーソンではない」という議論に対して矛盾を突きつけるために論じられることもあれば、「ある種の動物は人間と共通する能力Xも持っているのでその動物も人間と同じく道徳的地位を持つ」という主張に対する直観的な違和感を指摘するものとして論じられることもある(能力Xを持たない一部の人間も道徳的地位を持たないことになってしまうことについての違和感)。

 イヴリン・プラハー(Evelyn Pluhar)の『Beyond Prejudice: The Moral Significance of Human and Nonhuman Animals(偏見を超えて:人間と人間以外の動物の道徳的重要性)』では「限界事例の議論」が「無条件的(categorical)」「双条件的(biconditional)」の2つのバージョンに分けられている*2*3プラハーを引用している、ゲイリー・ヴァーナー(Gary Varner)の『Pesonhood, Ethics, and Animal Cognition: Situating Animals in Hare's Two-level Utilitarianism(人格、倫理学、動物の認識能力:ヘアの二層功利主義で動物を位置付ける)』を引用して紹介しよう。

 

プラハーが「無条件的なバージョン」と呼んでいるものは、以下のような議論だ:

 

1.道徳的に重要な関係のある全ての点が同様である存在たちは、同等の道徳的重要性を持つ

2.道徳的に重要な関係のある全ての点において、限界事例の人間と同様である人間以外の存在がいる

3.限界事例の人間は最大限の道徳的重要性を持つ

4.そのため、道徳的に重要な関係のある全ての点において限界事例の人間と同様である人間以外の存在は、最大限の道徳的重要性を持つ

 

このバージョンの議論では、私たちは限界事例の人間を"最大限の道徳的重要性を持つ"存在として扱う義務があることが前提となっている。プラハーが「双条件的なバージョン」と呼んでいる議論では、それは前提とはなっていない:

1.道徳的に重要な関係のある全ての点が同様である存在たちは、同等の道徳的重要性を持つ

2.道徳的に重要な関係のある全ての点において、限界事例の人間と同様である人間以外の存在がいる

3.そのため、限界事例の人間が最大限の道徳的重要性を持つ場合にのみ、道徳的に重要な関係のある全ての点において限界事例の人間と同様である人間以外の存在は、最大限の道徳的重要性を持つ

 

しかし、この第二のバージョンの議論は、限界事例の人間と動物との間に異なる"道徳的重要性"を置かせることは、何らかの道徳的に重要な関係のある相違が限界事例の人間と動物との間に特定されない限りは不可能である、という意見を表している。そして、もしあなたが通常の人間と限界事例の人間の両方に最大限の道徳的重要性を見出そうとするのなら、その場合には多くの動物たちにもあなたは最大限の道徳的重要性を見出さなければならない、ということを伴っているのだ。( varner, p.250-251)

 

 ピーター・シンガーは、『動物の解放』にて、「ホモ・サピエンスという生物種の一員であること」だけではその存在を殺すことは常に不正であるという理由にはならない、と論じている。プラハーはシンガーの議論は「双条件的」なバージョンであると見なしているが、ヴァーナーは、シンガーの議論はもっと微妙なものであると見なしている。一部の限界事例の人々の生は通常の人間の生よりは道徳的重要性が低いが動物たちの生よりは道徳的重要性が高いと論じようとしているのではないか、というのがシンガーの主張に対するヴァーナーの見方だ。彼は、シンガーの議論を以下のようにまとめている。

 

…個人が生きる権利を持つと認めることを正当化する理由としての以下の意見を保ち続けることは、種差別の罪を犯さずとも可能である、とシンガーが言っていることには留意するべきだ。

1.「自己意識をする能力、未来についての計画を行う能力、意義のある関係を他者と結ぶ能力」を持つことが、生きる権利を基礎付けるものである

2.「または、人間は持っているがネズミは一定以上は持たない、家族や他の人々との絆に訴えることもできるかもしれない」

3.「または、(訳注:限界事例の人間を殺すことが)他の人間にもたらす結果、他の人間にも自分自身の命に関する恐怖が与えられることが、(訳注:限界事例の人間を殺すことと動物を殺すこととの)決定的な違いであると考えることができるかもしれない」

(varner. p252)

 

 …要するに、限界事例の人々の生の道徳的重要性は、直接的な理由(認識能力などがもたらす、本人にとっての生の価値)では動物と同等であるとしても、間接的な理由(限界事例の人間の周りにいる人々がその人に対して抱いている愛着や友情など、限界事例の人間の生きる権利を認めないことが社会に与える影響)のために、限界事例の人々の生を動物の生よりも丁重に扱うことは種差別ではない、というのがシンガーが『動物の解放』で行っている議論である、というのがヴァーナーのまとめだ。

 

 プラハーによると、「最大限の道徳的重要性」という言葉は「生きる権利を含めた基礎的な道徳的権利か、その人を殺すことに対する反対が強く前提されていることか、どちらかの意味を含む(pluhar p.63-64 孫引き)」。だが、「最大限の道徳的重要性」という言葉や「基礎的な権利」という言葉の解釈によっては、現行の一般的な社会ルールにおいても限界事例の人々には最大限の道徳的重要性が認められている訳ではない、とヴァーナーは論じる*4。一般的な社会ルールにおいては、子供や一定以上の知的障害の人々は通常の人間よりもパターナリスティックに取り扱われている。例えば、医療に関する決定を自分自身で行う権利・法廷に立って被告人答弁を行う権利・一人で独立して生きる権利などは、一般の人にとっては「基礎的な権利」であっても限界事例の人々には認められない場合がある。また、QOLが著しく低い生を過ごすであろう重度の障害を持った新生児に対する医療停止や、著しい苦痛に満ちており認識能力も損なわれた生を過ごしている末期患者への医療幇助自殺など、特定の場合における限界事例の人々の殺害(に間接的につながる行為)も、一般的な社会ルールにおいては認められることが多い(認められる程度は国や社会によって違うが)。

 とはいえ、食料やその他の用途に用いるために限界事例の人々を育てて殺すことを認める社会ルールは例外なく存在しない。結局のところ、現行の社会ルールでは、限界事例の人々の生と動物の生は異なる道徳的重要性を持つものとして扱われていることは確かである。

 

  以下では、ヴァーナー自身は限界事例の人々についてどのように論じているかをまとめよう。

 ヴァーナー自身のパーソン論では、限界事例の人々は「準-パーソン」か「感覚だけの存在」のカテゴリに入る場合がある*5。「しかし、通常の場合は、若い子供たちはやがてパーソンになる。そのことは、子供たちと同程度に認識能力が優れている動物よりも、子供の方をよりパーソンに近く取り扱うことについての正当な理由を与える」(varner, p 180)。恒久的な昏睡状態の人々については、多くの場合には、そもそもその人の昏睡状態が本当に"恒久的"に続くのかどうかということについて不確かさが付きまとうのであり、医療倫理においてはその不確かさを考慮に入れるべきである。知的障害や精神病についても、それらの障害や病の程度というものは連続的なものであること、何らかの利害関係者や団体が病の程度を大袈裟に見積もろうとする可能性、現在では健常者である人もいつ知的障害や精神病を持つことになるかはわからないということから、慎重な予防原則として、重度の知的障害者精神病者にもパーソンに近い扱いや法的保護を与える十分な理由がある。

 重複になるが、先に挙げられた「限界事例の人間の周りにいる人々がその人に対して懐いている愛着や友情」や「社会に対して与える間接的な影響」なども、限界事例の人々を動物よりも丁重に扱う理由として大きい。限界事例の人間の家族は、自分の大切な家族が動物と同じ扱いを受けるということを拒むだろう。また、どんな人にでも自分が限界事例の人間になるという可能性は潜在しているのだから、限界事例の人間の生命を軽んじる政策に対して人々は大いに恐怖を抱くだろう。

 …しかし、限界事例の人間の生を重んじる理由として挙げられているこれらの理由は、いずれも「間接的」で「付随的」である。例えば、ある限界事例の人間が自分の家族から愛されなかったら、その人間の生の道徳的重要性が低くなるとすれば、それは非常に不穏に思える。直観的に考えれば、ヴァーナーの議論は受け入れ難い。

 だが、ヴァーナーのパーソン論では、認識能力や言語能力の欠如のために限界事例の人間の生の直接的な道徳的重要性が低いことは誤魔化せない。しかし、直観的なレベルのルールを設定するうえでは、限界事例の人間の生をパーソンの生と同等の道徳的重要性を持つ生として見なす十分な理由がある。そして、現実の社会における道徳や法律も、例外があるとはいえ多くの面では限界事例の人間の生をパーソンの生と同等の道徳的重要性を持つ生として見なしている。私たちの多くは既に現行の社会に存在している直観的なレベルのルールを内面化しているのであり、限界事例の人間をパーソンとして取り扱うことの理由を間接的で付随的なものとする批判的な思考に対して直観的な違和感を抱くのは当たり前なのである。それは二層功利主義の理論の内に収まることなのだ。そして、改めて直観的なレベルのルールを設定したりルールの妥当性を検証するための批判的な思考を行う場合には、現在の自分が抱いている直観も棚に上げなければいけない…。

 

 以上がヴァーナーの議論である。私は筋が通った正論であると思うしヴァーナーの議論を受け入れるが、まあ狡い感じや歪んでいる感じも確かにするし、受け入れられない人も多いだろう。

 

 

Personhood, Ethics, and Animal Cognition: Situating Animals in Hare's Two-Level Utilitarianism

Personhood, Ethics, and Animal Cognition: Situating Animals in Hare's Two-Level Utilitarianism

 

 

 

*1:この記事では、"marginal person"を「限界事例の人間」として訳している。直訳すれば「限界状態にある人間」「限界の人間」であるし、「限界事例の人間」を英語にすれば"person in marginal case"になるだろうが、わかりやすさを優先してこの訳にした。

*2:残念ながら私はこの本を持っていないので確認できないのだが。

 

Beyond Prejudice: The Moral Significance of Human and Nonhuman Animals

Beyond Prejudice: The Moral Significance of Human and Nonhuman Animals

 

 

*3:「道徳的重要性 Moral Significance」という言葉の意味は誤解されがちだが、この記事で解説している。

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*4:一般的な社会ルールとは、この記事で論じられている「直観的なレベルのルール」のこと。

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*5:

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メモ・二層功利主義とはなんぞや

 R・M・ヘアが『道徳的に考えること』にて論じている「二層功利主義」という考え方を、『道徳的に考えること』や他のヘアの著作を読み解きながら書かれたゲイリー・ヴァーナーの著作『Pesonhood, Ethics, and Animal Cognition: Situating Animals in Hare's Two-level Utilitarianism(人格、倫理学、動物の認識能力:ヘアの二層功利主義で動物を位置付ける)』を参考にしながら、私なりにまとめてみた。

 

 まず、ヘアは道徳言語の分析というメタ倫理的学的な作業を通じて、正しい道徳判断には「普遍化可能性」「指令性」「優越性」という三つの特性がある、と論じている。

 例えば、「汝の欲するところを他人にもせよ」という戒律はキリスト教のみならず(「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」という消極的な形で)儒教ヒンドゥー教などの様々な文化や宗教に伝わるものであり、「黄金律」と呼ばれるものである*1。ヘアによるとこの黄金律には正しい道徳判断の三つの特徴が全て含まれている。ヴァーナーによると、黄金律をヘア的に解釈すれば厳密には以下のように表現される。

 

ある状況で自分が行おうとしていることは道徳的に正しいと判断するためには、自分が道徳的であると判断した行為を行わなかった場合のその状況の関係者全ての経験を体験すること(live through the experience)よりも、自分が道徳的であると判断した行為を行った場合のその状況の関係者全ての経験を体験することの方を自分が心から望むことが要求される。

(Varner, p.13)

 

 

 上述のように道徳判断を行うことは、功利主義者のように道徳判断を行うことにつながる。関係者全員の立場に立って、それぞれの経験をそれぞれの立場から味わうとすれば、全員分に生じるコストやベネフィットを全てひっくるた上で全員の幸福が最大化するような選択を行うはずだからだ。このようにして、「普遍化可能性」「指令性」「優越性」という特徴を持つ道徳判断を正しく行おうとすればそれは功利主義的な道徳判断になるはずである、だから功利主義が正しい道徳理論である、という風に論じられる。

 

 しかし、幸福を最大化する行為を選択しようと望んでも、現実世界に生きる人間には様々な壁が立ちはだかる。人間は、「超人的な思考力と、超人的な知識を持つ…選択可能な行為の帰結も含めて、その状況のすべての特質を直ちに調べることができる」(ヘアの邦訳, p. 67-68)という存在である「大天使」ではないのだ。人間には、現在の状況や自分の選択がもたらす結果などの状況をすべて把握して理解することはできない。また、人間は不完全であり非合理的な存在であるために、手に入れることができた情報についてもデータ処理能力が不足しているために間違った解釈をすることもあれば、自分にとって都合が良いようにデータの解釈や取捨選択を意識的・無意識的に歪めるこという傾向もあるだろう。

 このような人間の不完全な性質のために、いついかなる場でも「幸福を最大化する」というルールに従って行動することはできないし、事態が緊急で計算するヒマがない場面や自己利益が多大に関わっている場面では、「幸福を最大化する」というルールに従おうとしたせいで結果的には幸福を最大化できない非道徳的な選択をしてしまうこともあるだろう。

 そのために、普段の場におけるルールは、「幸福を最大化する」よりも即座で明白な答えを出せる、わかりやすいルールでなければならない。これが直観的なレベルのルールである。直観的なレベルのルールは「人を殺すな」「人のものを盗むな」「人に嘘をつくな」などの義務論的な風味を持つものとなる。一般的には功利主義は"道徳的権利"という概念を認めないが、直観的なルールとしては「功利主義的な計算に対する切り札」としての「権利」を認めることが、二層功利主義では求められるのだ。

 

直観的思考には、個々の状況で大天使のように考えることができない人のために、これに実用的に近いものをもたらすという機能がある。われわれがもし大天使の宣告に最大限一致するよう保証したいと願うなら、そういう効果を持つ傾向性、動機づけ、直観、あるいは一見自明な原則(どのように呼んでもよい)の一式を、自分と自分が影響を与える人々に植えつけようと努めなければならない。時間も能力もないときに大天使のように考えようとするよりは、このようにしたほうが全体として成功の見込みが高い。しかしながら、この一見自明な原則自体は、批判的思考によって選ばれなければならないーーわれわれ自身の批判的思考でないにしても、われわれがそれをできると信頼している人たちの批判的思考によって選ばれなければならない。(ヘア, p. 71)

 

 直観的なルールは大切であり、私たちはほとんどの場面で直観的なルールに従うべきであるし、直観なルールを内面化したほうがいい。ただし、それはあくまで直観的なルールが批判的思考によって選ばれていること、批判的な思考からみてその直観的なルールが妥当であるという前提の上での話だ。また、「幸福を最大化する」ことや黄金律を実践するためには、直観的なレベルのルールでは対処できないために批判的なレベルに移行して思考することが求められる場合がある。

 

 批判的なレベルに移行して功利主義的な思考を行うべき場合を、ヴァーナーは以下のように挙げている。

 

1. 新しい事例(直観レベルのルールはその新しい事例に対処するようにデザインされていないため、直観レベルのルールが私たちの道標となるところが少ないような事例)

2.直観レベルのルール同士が衝突する場合

3.新しい情報や経験に照らし合わせて、時間をかけて直観的なルールを選択して修正する時

4.ある行為は、ある人が内面化した直観的なルールによって禁止の対象となるが、(a)直観的なルールを侵害することが幸福を最大化することが明白であるように思われ、かつ(b)前述の判断をその人自身が信頼できる時

(Varner, p.15-16)

 

 

 では直観的なルールとは具体的にはどんなものであるかというと、ヴァーナーは直観的なルールを「共通道徳」「個人道徳」「職業倫理」「法律」の4つに分けている(「法律」が直観的なルールであるという考えは、ヘアではなくヴァーナー独自のものであるらしい)。

 

 

共通道徳 Common Morality:ある社会においては、そこに含まれるメンバーたちが基本的に同意するような道徳ルールが存在する。それぞれの社会は環境や技術や経済などに関する状況や背景がそれぞれに違っているから、その違いに応じて共通道徳も社会によって変わるところがある。しかし、文化間の倫理観の違いというものはとかく強調されがちだが、「乳幼児をケアすること」「真実を重んじること」「カニバリズムの禁止」など、かなり多くの共通道徳が複数かほとんどすべての社会や文化に存在していることも重要である(そもそもこれらの共通道徳が存在しないような社会は存続できないから)。

 

個人道徳 Personal Morality:それぞれの人々が個人的に抱く道徳であり、家庭の教育や文化・宗教によって教えられた道徳観を、自分自身の経験や反省を通じて調節や修正をしたものであることが多い。人はそれぞれに気質や能力が違うので、それに合わせて直観レベルのルールを個人ごとに多少調節したほうがよい。「自分はいつ直観レベルに従うべきで、いつ批判レベルに移行するべきか」ということや「どのような道徳的な行為なら自分にとって過剰な負担なく行えて、どのような道徳的な行為は自分にとって負担であったり自分の手には負えないことであるか」といったことも、人それぞれに自分をわきまえながら考えた上で直観レベルのルールを設定したほうがうまくいく。

 

職業倫理 Proffesional Ethics:それぞれの職業は、通常の生活では直面しないような倫理的問題に直面する場合がある。また、直観レベルのルールは基本的には「異常でない、よく直面する事例(normal and commonly encountered case)」に対処するために設定されるものだが、職業倫理は「異常ではないが、稀にしか直面しない事例(normal but uncommonly encountered case)」を想定して設定されるものも含まれる。例えば、現代の兵士の多くは軍人生活の大半を戦場以外の場所で過ごすが、それでも、戦場に行くことが兵士の仕事として含まれている以上は戦場は兵士にとって「異常」な場所ではなく、兵士を教育する際には戦場における職業倫理を直観的なルールとして内面化させることが期待される。

 異なる職業同士の職業倫理が似ている場合が多いことも特徴(仕事上で直面する倫理的問題というものは、業種が違っても似ている場合が多いから)。また、既存の職業倫理には成分化されていないような特殊な状況でも、「この状況と関係ある、成文化されている他の職業倫理を内面化しているなら、この場面ではこうするだろう」ということが期待される場合もある(医者には医者らしさが、警察には警察らしさが求められるということ)。

 

法律 Laws:ヴァーナーによると、法律とは直観レベルの道徳ルールの一部を成文化したものである。ただし、法律が制限する範囲は共通道徳よりも狭くあるべきである。功利主義的な観点からすれば非道徳的な物事であっても、それを法規制の対象とすることによる副作用のほうが大きい場合があるからだ。また、個人の生き方も基本的には法律でどうこうするべきではない(どのような生き方が自分にとって好ましいかは人それぞれに学んでいくものであり、権威によって強制しても良い効果はでない)。「このような道徳的な行為をするべきだ」ということも法律が押し付けるものではなく、共通道徳や私的領域の範疇である。しかし、他者に危害を与えないことなど、司法や警察による規制・強制力を持ってしてでも人に課されるべき根本的で重大な義務も存在する。そして、制裁のための暴力装置というものは警察・司法が独占していることをふまえると、警察や司法が強制するルール(法律)が成文化されて公開されていることは重要である。

 

 繰り返しになるが、上述の4種類のルールはいずれもあくまで直観的なレベルのルールなのであり、批判レベルの思考による精査や修正の対象となるものである。ある社会の共通道徳はある時代には妥当であったかもしれないが、時代の変化や新しく人々が手にした知識・経験などに照らし合わせればもはや幸福を最大化するものでないことが明白であるとすれば、その共通道徳は変わるべきなのだ。同様のことは個人道徳・職業倫理・法律にも当てはまる。ヴァーナーの著作も、動物について現代の私たちが手にしている知識に基づきながら、直観的なルールは動物をどのように扱うように設定されるべきか、ということを批判レベルの思考によって論じているものである。

 ただし、功利主義はルールを変える際のコストも計算する。直観的なレベルのルールをあまりに急速にラディカルにルールを変えることが最大多数の幸福をむしろ減らすとすれば、直観的なレベルのルールを緩やかに変えたりルールを変えないことも考慮される。功利主義は長期的には革新的だが短期的には保守的である、とヴァーナーは論じている。

 

 …ヘアやヴァーナーによる二層功利主義の細かい部分の説明はまだまだあるのだが、とりあえず今日はこんなところで。

 

 

 

道徳的に考えること―レベル・方法・要点

道徳的に考えること―レベル・方法・要点

 

 

 

Personhood, Ethics, and Animal Cognition: Situating Animals in Hare's Two-Level Utilitarianism

Personhood, Ethics, and Animal Cognition: Situating Animals in Hare's Two-Level Utilitarianism

 

 

メモ・功利主義と思考実験、功利主義と直観

功利主義に対してよくある批判が、「ある犯罪によって社会不安が起こり暴動が起こりそうになっており、暴動が起こると確実に何人以上かが死ぬ。政府には犯人を特定して捕まえることができないが、無実とわかっている一人の男を犯人だということにして処刑すれば暴動は未然に防ぐことができる」という状況や「心臓に病気を抱える患者と腎臓に病気を抱える患者が二人おり、彼らは臓器移植を受けないと死んでしまうが、たまたま彼らに移植可能な臓器を持った浮浪者一人が病院に迷い込んできたので、医師がその浮浪者を殺して彼の臓器を二人に移植すれば、二人の生命を助けることができる」といった特殊な状況を仮定して、最大多数の最大幸福という結果が持たされることを重視する功利主義ではこれらの状況では無実の男や浮浪者を殺してより多くの人間の生命を救うという選択を推奨する筈だが、そのような選択は道徳について私たちが抱いている考えや感情からはあまりにもかけ離れている、というものである*1

 

 R・M・ヘアは、私たちが日々の生活で一般的に遭遇するような事例に対処するための日常的・直観的レベルでの道徳判断と、直観的レベルでの道徳判断の妥当性を検証したり直観レベルの道徳判断では対処できないような事例に対処するための批判的な思考レベルという、2つのレベルに道徳を分けている。そして、批判レベルにおいては功利主義に基づいて考えるべきだが、直観レベルにおいては「いついかなる場合でも人を殺してはならない」などの非功利主義的で義務論的な道徳判断を採用した方が良い場合が多い、としている。二層理論功利主義と呼ばれるこの考え方に基付いて、ヘアは思考実験に基づいた功利主義批判に対して反論を行う*2

 

『簡潔に言えば、あなたの論敵が批判的レベルについて話しているのなら、どんな空想的な例でも好きなように持ち出すことができる。しかし、このレベルでは、一般に受け入られている直観に訴えることは許されない。なぜなら、直観を受け入れることができるかどうかを判定することが批判的思考の機能であり、したがって批判的思考の前提として直観に頼るなら循環に陥るからである。』(邦訳 p.197)

 

(浮浪者と臓器移植のケースに関して)

『論敵は今度はこう反論するであろうーー人々が(注:殺人はいけないという)こうした直観や感情を持つことは功利主義の見地からよいことであるとしても、いま考えている事例のように、直感に反する行為が仮定により最善である場合には、「人々はその直観を克服してそれに反する行為をすべきである」という判断もまた功利主義から出てくるではないか、と。そこで、その病院の医師たちが功利主義者であるなら、彼らはそのように直感に反する行為をすべきかどうか考えてみよう。問題は、そうすることが最善の行為にいき当る確率の見積もりにかかっている。…(中略)…この種の道徳的ディレンマにおいて最も合理的な行為(功利主義者にとっての最善の選択)を選ぶ方法としての功利主義は、効用(すなわち選好充足)の期待値を最大にすることを要求するからである。そして、見込み違いをしたなら結果は相当破局的なものになるから、医師たちは見込み違いはないという非常に強い確信を持っていなければならない。

 …(中略)…このような高い確率が数多くのーーもしありうるとしてもーー現実的状況において得られるわけでないことは、十分明らかである。…』(邦訳 p.199-200)

 

『他方、あなたの論敵が論理的に可能ならどんな例でも持ち出す権利があると主張するなら、彼は別種の攻撃にさらされることになる。というのは、その場合彼は直観の射程の外に出たのであり、したがって直観に訴えることはできないからである。批判的思考はもちろんこのような事例に対処することができ、しかも功利主義的な答えを出すはずである。彼がその事例を仕立てあげて、功利主義が「殺人が正しい解決だ」と答える形に持って行ったのなら、それが彼の得た答えなのである。あなたが聞き手に対して言うべきことは、「このような事例は現実には起こりえないので、この答えで全く問題はない」ということである。これから、議論にとって重要な2つの帰結がもたらされる。第一に、このような事例で殺人が正当化されることを認めたからといって、われわれが道徳生活をしなければならない現実の世界で殺人の指令を受け入れる必要は全くない、ということである。第二の帰結は、第一のものを一般化する。すなわち、批判的思考を行う人によってこの世界で使用するために選ばれる一見自明な原則もまた、殺人の禁止を含むことができるし、含むはずである。なぜなら、この特別な事例は現実世界では起きないので、一見自明な原則を選択する際には無関係だからである。』(邦訳 p.201)

 

 上述でヘアが言及しているのは浮浪者と臓器移植のケースに関してだが、同様の反論は暴動と無実の男のケースにも当てはまる。要するに、このタイプの思考実験には、「浮浪者や無実の男を殺害することのみが事態を解決する方法であり、他の方法は存在しない」という状況の不自然さや、医師や政府が「浮浪者や無実の男を殺すと確実に事態が解決すること」「他に事態を解決する方法が存在しないこと」に100%の確信が抱けることの不自然さ、殺害を行なった場合の副作用やリスク(犠牲となる浮浪者の類縁者や浮浪者の殺害に携わる医療関係者らに発生する負の感情、政府が無実の男を処刑したことが明るみに出た場合に更に酷い暴動が発生する可能性)がないことにされているなど、根本的な問題点が数多く存在している。日常的・現実的な問題に対処するための直観レベルの道徳を組み立てる際にここまで非現実的なケースを考慮する必要は全くないし、非現実的なケースで功利主義が導き出す答えが直観レベルの道徳に反していても問題はないのである。

 また、批判的思考を行う場合にも、思考実験はともかく現実世界においては「無実の男を殺害するのみが暴動を解決する方法であり、他に暴動を解決する方法は存在しない」という仮定に基づいて思考するべきではない、とヴァーナーは論じている(p.94)。実際に「無実の男を殺害するのみが暴動を解決する方法であり、他に暴動を解決する方法は存在しない」と確信を持って断言できるほどの情報や予測を現実世界で得られる可能性はほぼないのであり、疑わしい・誤った前提に基づいて思考を行うべきではないのだ。

 

功利主義に対する反論として、ヴァーナーは上述のものよりももう少し現実的な思考実験に基付いたものも取り上げている。取り上げられている事例の一つがバーナード・ウィリアムズによる「ジムとペドロの事例」であり、この事例は現実の世界にも存在するような「多数の生命を救うために少数を殺害する」という選択に似ている。

 

南米の軍事政権国家を訪ずれたジムはたまたま20人のインディアンの 処刑の場に立ち会う。彼らは囚人ではなく、 民衆のデモ活動を抑制するために適当に選ばれた無実の人々である。 悪人の長官ペドロは、ジムに名誉を与えると言って、次のような提案をする。 もしジムがインディアンの一人を自らの手によって射殺するなら、 長官はあとの19人を解放することを約束する。 しかし、もしジムがこの提案を拒むならば、 20人全員が兵隊によって射殺される。 また、ジムには他に行動のしようがなく、たとえば 銃を手にして長官ペドロ以下全員を射殺するという ような可能性は閉ざされているものとする。  *3

 

 既に乗り込んでいる兵士たちを助けるために乗り遅れた兵士を見捨てる戦場の護衛艦の艦長、9.11の同時多発テロ事件の際にハイジャックされた飛行機を墜落させるように命じられたパイロット、戦争が続いて双方の国により多くの犠牲が出ることを防ぐために原子爆弾を投下することを命じられたパイロットなど、(特に戦争に関係した)特殊な状況では「多数の生命を救うために少数を(間接的・直接的に)殺害する」という選択に直面する場合はある。

 このような事例における判断については、功利主義者ではない人たちの間でも評価は分かれるのであり、原爆投下を正当だと見なす人も多ければジムが一人のインディアンを射殺することを正当だと見なす人も多い。なので、このような事例における功利主義判断は、人々が道徳について抱く考え方や感情から極端に離れている訳ではない。

 また、直観レベルと批判レベルの区別だけでなく、日常生活で一般人として過ごす際の直観レベルの道徳となんらかの職業や立場のプロフェッショナルとして活動する時における直観レベルの道徳とを区別することも、二層理論功利主義が求めるところである。戦争では兵士である人も、戦争がないところでは一般人である。兵士や政治家には、普段自分が過ごしている一般社会の一般的な状況では妥当である「殺人はいけない」という道徳を内面化しつつ、戦場や非常における特殊な状況では功利主義的判断を行うというプロ倫理も身に付ける必要がある。プロとしての功利主義判断を行う際にも、内面化された「殺人はいけない」という一般道徳が顔を出して良心の呵責となったりする場合もあるかもしれないが、そのことが功利主義に対する否定になる訳ではない。

 

アメリカでは対テロ戦争における拷問がよく問題になる。これも功利主義からすると「多数の生命を救うために少数を拷問することは許される」となってしまいそうであり、それが批判の対象になるが、拷問を行うことの副作用(自国の兵士も拷問の対象となりやすくなる、拷問によって得られた情報はどのみち信用できない、など)を考慮すれば功利主義的にも拷問は止めるべきであると判断される場合もある。しかし、事例によってはやっぱり拷問が認められる場合も有るだろう(多数の人間を犠牲にするであろう時限爆弾が設置されたが、一人のテロリストを拷問することは時限爆弾を解除して多数の人間の生命を救う可能性が高い場合など)。このような現実世界における問題では功利主義的に考えることも複雑で難しいことであると認めつつ、このような「ダーティハンドの問題(Problem of Dirty Hand)」について、ヴァーナーはシジウィックの「Aが特定の行為をして、同時にBとCとDがAの行為を責めるということこそが、最大の幸福を生み出す場合があるかもしれない」という文章を引用している*4

 

・ヴァーナーもヘアもピーター・シンガーも、ジョン・ロールズによる「反省的均衡」の考え方を批判している。

 

  1. われわれが道徳に関して持つさまざまな直観 (considered judgment 熟慮された判断) から、ある抽象的な道徳原理を導き出す。 (たとえば、「妊娠中絶はかまわない」と 「胎児は人格ではない」という直観から 「人格でない生命を殺すのはかまわない」 という抽象的原理を導きだす)
  2. その道徳原理とさまざまな直観を照らし合わせた場合、 その原理によってそれらを整合的に説明できるかを考える。 (「植物人間が人格でないとすれば、 植物人間を殺すのはかまわないか」)
  3. 当の道徳原理といくつかの直観が衝突する場合は、 新たな道徳原理を作り出すか、 あるいは衝突する直観が不合理なものであるとして その直観を放棄する。

反省的均衡は、このような仕方で抽象的な道徳原理を作り出す一方で、 直観同士の矛盾をなくし、 整合的な集合となることを目指すものである。

REFLECTIVE EQUILIBRIUM

 

 

 ヴァーナーによると、ヘアはロールズの本のレビューにて、我々が持っている道徳に関する直観の多くはそもそも教育や文化によって植え付けられたものである可能性が高く、二層理論功利主義では批判レベルの道徳が直観レベルの道徳よりも優先されており批判レベルの道徳によって直観レベルの道徳を修正・改善することができるが、原理よりも先に道徳に関する直観を前提として置いている反省的均衡ではそもそもの直観が間違っていた場合にそれが修正されるという保証がない、批判的に見れば道徳的には妥当ではない直観に基づいて誤った道徳原理が導き出される可能性がある、といったような批判をしているようだ(ヴァーナー、P11-12 を参照)。

 シンガーは「倫理と直観」という論文において、我々が道徳に関して持つ直観には文化や教育だけではなく進化心理学的な影響があることも指摘しながら、道徳的直観はあてにならないということを指摘して、反省的均衡を批判している*5。要するに、私たちに身に付けている道徳的直観とは、たまたま私たちが生まれ落ちた国や地域の文化や伝統や宗教に影響されたものであるかもしれないし、人類の進化の歴史における過程で遺伝によって受け継がれたものであるかもしれず、それらが正しいものであるという保証はない。文化や伝統や宗教に影響された道徳的直観は、過去の人たちによる事実についての誤った判断や過去から存在していた差別・不公平に影響されたものであるかもしれない。進化によって備え付けられた状況も、人類が歴史の大半を過ごしてきた状況(サバンナに暮らす狩猟採集民の少数集団の部族的な社会)に適応したものではあるかもしれないが現代の状況に適応している保証はないし、そもそも特定の状況に進化的に適応していることが道徳的正しさを保証するわけではない。結局のところ直観の正しさは批判的思考によって判断するしかないし、正しくなければ批判的思考によってその直観を修正するべきなのだ。

 

 

 

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*1:浮浪者と臓器移植の事例と似たようなものとして、「臓器移植を待つ5人の患者」の事例がある

ハーバード白熱教室 第1回 「殺人に正義はあるか」 Lecture1 犠牲になる命を選べるか - id:gule

*2:ゲイリー・ヴァーナーは、以下のヘアの反論を「非現実的なテストケースに対するヘアのテンプレート的反論」と呼んでいる

*3:

UTILITARIANISM

功利主義は個人の道徳的一貫性(integrity)を傷つける、というウィリアムズの批判に対しても、ヴァーナーは別の節で反論している。ある個人が自分の道徳的一貫性や人生にとっての中心的な計画を保ちたいと望んでいても、結局のところ自分と他人たちの利益について公平に普遍的に配慮することが道徳の要求するものなのであり、道徳的一貫性や人生にとっての中心的な計画を保ちたいという望みを犠牲にしてでも他人の生命を救うなどの場合が求められることがあるのは仕方がない、という感じの反論である。

*4:「ダーティハンドの問題」に関する日本語論文

www.eonet.ne.jp/~seiyuh/dirtyhand-problem-esp.Walzer.pdf

*5:www.utilitarian.net/singer/by/200510--.pdf

「共感の罠」 by ピーター・シンガー

www.project-syndicate.org

 

 今回紹介するのは倫理学ピーター・シンガーが先日にProject Syndicateに発表した記事。心理学者ポール・ブルームの新刊の書評的な記事である。

「共感の罠」 by ピーター・シンガー

 

 バラク・オバマがアメリカ大統領として選出されてから間もない頃、彼は若い女の子にこう言った。「今日の世界には共感が足りない。それを変えられるかどうかは、君たちの世代にかかっている」。オバマの発言は広く普及した考えを表現したものであることをふまえると、イェール大学の心理学者ポール・ブルームの新著『共感に反対する(Against Empathy)』の書名は衝撃的である。共感とは他人の立場に立ってその人が感じることを自分も感じることを可能にするものであるが、一体誰がそれに反対するというのだろうか?

 この疑問に答えを出すためには、もう一つの疑問も問わなければならないかもしれない。「私たちは誰に対して共感を持つべきか?」。オバマの次の大統領として選ばれたのはドナルド・トランプであるが、ヒラリー・クリントンはアメリカ人たちに対する共感に欠けていたこと…特に、アメリカが製造業の大国であった時代に戻りたいと渇望しているラスト・ベルトの有権者たちに対する共感に欠けていたことが、彼女が先月の選挙に負けた原因である、とアナリストたちは示唆している。問題なのは、アメリカの労働者たちに対する共感はメキシコや中国の労働者たちに対する共感と緊張関係にあることだ。仕事が無くなったメキシコや中国の労働者たちは、アメリカの労働者たちに仕事が無い場合よりも更に酷い状況に陥るであろう。

 共感は、私たちが共感する相手に対して私たちを優しくさせる。それはよいことだが、共感には暗い側面もある。今回の選挙キャンペーンでは、ケイト・シュタインレ(Kate Steinle)という名の若い女性が一人の不法移民に殺害されたという悲劇的な事件を、トランプは自分の反-移民的な政策への支持を煽り立てるために利用していた*1。もちろん、不法移民が他人の命を救ったという出来事についてトランプが殺人事件と同じくらい迫真的に表現することは全くなかった。そういう出来事が実際に起こっていたことは報道されていたのだが。

 赤ん坊のアザラシなど、大きくて丸っこい目を持つ動物はニワトリよりも多くの共感を人間に引き起こす。人間はアザラシよりもニワトリに対して遥かに莫大な苦痛を引き起こしているのだが。何も感覚を持たないロボットに"危害を与える"ことにすら、人は躊躇する場合がある。その一方で、魚…冷たくて、ぬるぬるしていて、叫ぶことのできない生き物…は大して共感を引き起こさない。だが、ジョナサン・バルコンベが『魚の知っていること(What a Fish Knows)』で論じているように、魚類が鳥類や哺乳類と同様に痛みを感じることを示す証拠は充分に存在しているのだ*2

 同様に、ワクチンによって害を被った(あるいは、ワクチンによって害を被ったとされている)少数の子供たちに対する共感は、危険な病気に対処するための予防接種に対する反対運動の大きな動機となっている。反対運動の結果として、数百万人の親たちが自分の子供にワクチンを受けさせず、数百人の子供達が病気に罹る。ワクチンを受けなかったことで罹る病気によって被る影響は、ワクチンの副作用のために被る影響よりもずっと大きなものであるし、時には致命的なものとなるのだ。

 共感は私たちに不正な行動をさせる場合がある。ある実験では、被験者たちは病気の末期患者である子供へのインタビューを聞かされた。一部の被験者たちは可能な限り客観的であり続けるように努めることを指示されて、別の被験者たちはその子供が感じていることを想像するように指示された。どちらの被験者たちも、治療の優先順位が高いと査定されている他の子供たちを差し置いて、インタビューをされた子供を治療待ちリストの先頭に移動させたいか、と質問された。子供が感じていることを想像するように指示された被験者たちのうち4分の3はそれを求めたが、客観的であるように指示された被験者たちは3分の1しかそれを求めなかった。

「一人の死は悲劇だが、百万人の死は統計だ」。共感が個人に対する偏愛を高めさせ過ぎる一方で、大きな数字は私たちが持つべきである感情を麻痺させてしまう。最近、オレゴン州に基盤を持つ非営利団体である意思決定研究センター(Decision Research )が「同情の計算術(Arithmetic of Compassion)」というwebサイトを立ち上げた*3。"数字に対する麻痺 (numerical numbness)"を引き起こさせることなく大規模な問題に関する情報を人々に伝える、という能力を向上させることを目的としたサイトである。個人的で迫真的な物語がネットで急速に広まって公共政策にも影響を与える時代においては、人々がより広い視野から物事を見ることを手助けることよりも重要なことを想像するのは難しい。

 共感(empathy)に反対することは、同情(compassion)に反対することではない。『共感に反対する』の中でも最も興味深い節では、ブルームが共感と同情の違いをマチウ・リカールからいかにして習ったかということが書かれている。リカールは仏教僧であり、時には「地球上で最も幸福な男」と呼ばれる人だ*4。神経科学者のタニア・シンガー(苗字は一緒だが私とは無関係)は、彼女がリカールの脳をスキャンしている間に「同情的瞑想(compassion meditation)」を行うように彼に求めた。脳の中には通常なら人が他人の痛みに共感している時に活性化する部分があるのだが、同情的瞑想を行っているリカールの脳のなかではその部分で全く活動が行われていなかったことを見て、タニアは驚いた。他人の痛みに共感するように求められた時にはリカールも共感を行うことができたが、彼は共感を不快で消耗的なものだと見なした。対照的に、同情的瞑想は「強く向社会的な刺激を伴っている、暖かくてポジティブな心の状態」であるとリカールは表現している。

 タニアは、普段は瞑想を行わない人にも同情的瞑想が行えるようにトレーニングをした。同情的瞑想のトレーニングとは、その人にとって身近な人について思いやりをもって考えることから始めて、徐々により関係が遠くなっていく他人についても思いやりをもって考えていくことである。このようなトレーニングは、思いやりを持った行動につながる可能性がある。

 同情的瞑想は、時に「認識的共感(cognitive empathy)」と呼ばれるものに近い。私たちの感情ではなく、私たちの思考や他人についての理解を伴うものであるからだ。このことは、ブルームの著書の最後の重要なメッセージをもたらす。心理科学の進歩が、私たちの生活における理性の役割に対する軽視をどのようにしてもたらしたかについてのメッセージだ。

 慎重に考慮した結果であると思われていた私たちの選択や意見が、壁の色や部屋の匂いや手指消毒器が目の前にあるかどうか等の無関係な事柄に影響される可能性があることを研究者たちが示すと、彼らの発見は心理学の学会誌に掲載されるし、ポピュラー・メディアで大々的に取り上げられる可能性すらある。人々が関係のある証拠に基付いて意思決定を行うことを示す研究は発表するのが難しいし、取り上げられる頻度もずっと少ない。そのために、人間は分別のある方法で意思決定を行うという考え方に対する偏見が心理学にはビルトインされているのだ。

 ブルームは理性の役割について心理学一般よりも肯定的な見方をしているが、それは倫理についての正しい理解であると私が考えていることにも合致している。共感やその他の感情は、正しい行為をするように私たちを動機付けることも多いが、不正な行為をするように私たちを動機付けることも同じくらい多い。倫理的な意思決定においては、私たちの持つ理性の能力が果たすべき重要な役割が存在しているのだ。

 

 

Against Empathy: The Case for Rational Compassion

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*1:

Shooting of Kathryn Steinle - Wikipedia

*2:

 

What a Fish Knows: The Inner Lives of Our Underwater Cousins

What a Fish Knows: The Inner Lives of Our Underwater Cousins

 

 

*3:

www.arithmeticofcompassion.org

*4:訳注:リカールに関する参考サイト

president.jp

www.ted.com

メモ・道徳的地位と道徳的重要性、なぜパーソンの生は特別な道徳的重要性を持つのか

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 

 前回の記事の付け足し、補足的な内容。書き終わってから気付いたが、前回では「人格」「準-人格」と訳していたところを「パーソン」「準-パーソン」と訳してしまった。直すのめんどくさいのでそのままにしておく。意味は一緒。

 

 パーソン、準-パーソン、感覚だけの存在はいずれも"道徳的地位(Moral Standing)"を持つ。「ある個体(やその他の存在)は"道徳的地位"を持つとか"道徳的な配慮対象である(Morally Considerable)"と主張することは、その個体は道徳行為者(Moral agents, 道徳的主体)の熟慮において配慮されるべき請求(claim)を持つということである」(P.23)。私なりに説明すると、例えば動物は道徳的地位を持つが木は道徳的地位を持たないと仮定した場合には、ある人間がある事例において「この事例では倫理的にはどうするべきだろうか」と考える際には、その事例の関係者として動物が含まれている場合にはその動物の利益なり権利なりを人間にとっての都合ではなくその動物自身の立場から考慮しなければならないが、木が関係者として含まれていても木の利益なり権利なりは考慮しなくてよい、ということだ。ただし、道徳的地位を持つ時点でその存在は道徳的配慮の対象となるが、"どれくらいの"道徳的配慮の対象となるかはまた別の話である。

 パーソン、準-パーソン、感覚だけの存在はそれぞれに異なる"道徳的重要性(Moral Significance)"も持つ。「"道徳的重要性"は、(道徳的地位とは)対照的に、程度の問題だ」(P.23)。パーソンの生は準-パーソンの生よりも道徳的重要性が高く、は準-パーソンの生は感覚だけの存在の生よりも道徳的重要性が高い、とヴァーナーは説く。ただし、パーソンの生が感覚だけの存在の生よりも"常に"優先して配慮される訳ではない。「"正しい行為とは、幸福を最大化する行為である"という功利主義の黄金律」(p.3)からすれば、感覚だけの存在の生をパーソンの生よりも優先して配慮した方が幸福が最大化する場合があるとすれば、批判的なレベルで考える場合には感覚だけの存在の生の方を優先するべきである。ただし、多くの場合にはパーソンの生を優先した方が幸福が最大化される可能性が高い。だから、「ヘア的な功利主義においては、日常的なルールや法律ルールなどの直感的なレベルでのルールに、パーソンや準-パーソンに対する特別な尊重を設定しておくことを認めるのに充分な理由があるのだ」(P.23)*1

また、パーソン論に対するありがちな誤解への返答は以下の通り。

 

また、根本的な誤解を防ぐために、パーソンと準-パーソンの生は「より価値が高い(more valuable)」のではなく 「特別な道徳的重要性を持つ」と、私は表現している。ある存在の生は他の存在の生よりも"価値が高い"と言ってしまうと、その存在の生は道徳的な観点からして他の生よりも望ましくて善いものである、という意味に受け取られてしまう可能性が高い。功利主義の言葉を使えば、前者の生は後者の生に比べてより多くのポジティブな価値を世界に付け足す、と言っていることになってしまう。しかし、パーソンの生はパーソンでない生よりも「多くの特別な道徳的重要性を持つ」と言う時、パーソンの生がパーソンでない生よりも善であるとか望ましいなどと私は主張しているのではない。そうではなく、パーソンの持つ特別な認識能力はある種類の利益や危害をパーソンが受けることを可能にするのであり、その利益や危害をパーソンでない生が受けることは不可能なのである、ということを意味しているのだ。このことはパーソンの生をパーソンでない生よりも望ましいものにする可能性もあるが、パーソンの生をパーソンでない生よりも遥かに酷いものにする可能性もある。「満足した豚よりも不満足な人間である方がよい」と言った点についてはミルも正しかったとしても、ある種類の惨めで不幸な状態の人間に比べれば満足した豚の生の方が望ましいことも確かなのだ。パーソンと準-パーソンの生は「特別な道徳的重要性を持つ」と私が言う時、彼らの持つ特別な認識能力が彼らの生を感覚だけの存在の生よりも言わば道徳的な請求性の高い(more morally charged)ものにしている、ということを私は意味しているのだ。これは、パーソンや準-パーソンに対処するときには私たちは特別なケアをするべきである、ということを意味する…

(P.23-24)

 

 

Personhood, Ethics, and Animal Cognition: Situating Animals in Hare's Two-Level Utilitarianism

Personhood, Ethics, and Animal Cognition: Situating Animals in Hare's Two-Level Utilitarianism

 

 

*1:法律を「直感的なレベルでのルール」と言うのは違和感があるかもしれないが、ヴァーナーによるヘアの二層功利主義の解釈ではそうなっているのである

「捕鯨に対する文化的偏見?」 by ピーター・シンガー

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 今回紹介するのは、倫理学者のピーター・シンガーが2008年の1月に Project Syndicate に発表した、「Hypocrisy on the High Seas?(公海上の偽善?)」という記事。2016年に発売されたシンガーの倫理学エッセイ集である『Ethics in the Real World : 82  Brief Essays on the Things That Matters (現実の世界における倫理学:重要な物事に関する82の短いエッセイ)』にも、「Cultural Bias against Whaling? (捕鯨に対する文化的偏見?)」というタイトルで同じ内容のエッセイが収録されている。

 

「公海上の偽善?」by ピーター・シンガー

 

 

 30年前には、オーストラリアの西海岸では政府の賛同を得たオーストラリアの船がマッコウクジラを殺していた。先月には、50頭のザトウクジラを殺すという日本の計画に対して、オーストラリアは国際的な抗議を行った。圧力をかけられた日本は、その計画を1年か2年延期すると発表した。捕鯨についての世論の変化は劇的なものであるし、それはオーストラリアだけで起こったことでもないのだ。

 オーストラリアの捕鯨に対する抗議を始めたのは環境保護団体のグリーンピースであり、政府は元裁判官のシドニー・フロストを任命して捕鯨という制度の調査を開始させた。この問題に関心を抱いている一人のオーストラリア人として、また動物の取り扱いについての倫理を研究している一人の哲学者として、私は意見を提出した。

 鯨は絶滅危惧種だから捕鯨を止めるべきだ、とは私は論じなかった。私が言わなくても、生態学や海洋生物学の専門家たちの多くがその主張をするだろうということを知っていたからだ。その代わりに、鯨は大きな脳を備えた社会的な動物であり、人生を楽しんで苦痛を感じる能力を持つこと…それも身体的な苦痛だけでなく、仲間の一員が死んだことに対しても悲痛を感じる可能性が非常に高いということを、私は論じたのだ。

 鯨を人道的に殺すことはできない*1。彼らはあまりに大きく、爆発銛でさえ、鯨の急所に正確に当てることは難しい。さらに、爆発銛は鯨の体を吹っ飛ばして粉々にしてしまうが、そもそも捕鯨の目的とは貴重な鯨油や鯨肉を回収することにあるのだから、捕鯨船の乗組員たちはあまり多くの爆発銛を使用することを好まない。そのために、捕殺される鯨の大半は長時間かけて苦痛を味わいながら死んでいくのだ。

 その行為を行わなければならないという非常に重大な理由もないのに無実の存在に苦痛を与える行為は、不正である。鯨を殺す以外の方法では満たせられない、生死に関わる必要性が人間にあるとすれば、捕鯨に対する倫理的批判は反論されるかもしれない。だが、鯨を殺すことが求められるような、人間にとって不可欠な必要性は存在しない。鯨から入手できるものの全ては、残酷な行為をする必要もなく他の方法で入手することができる。だから、捕鯨は非倫理的なのだ。

 フロストは私の意見に同意した。鯨を殺す際に用いられていた方法が非人道的であることには疑いの余地もないとフロストは言ったし、「非常に恐ろしい」とまで彼は表現したのだ。「私たちが関わっているのは、驚くべきほどに発達した脳と高度な知性を備えた生き物であるという可能性」にもフロストは言及した。マルコム・フレーザー首相の保守政権はフロストの勧告を受け入れ、捕鯨は禁止された。間もないうちに、オーストラリアは反捕鯨国となったのであった。

 ザトウクジラを殺す計画は停止されたが、依然として、約1000頭の他の種類の鯨を日本の捕鯨船団は殺そうとしている。その大半は小型のミンククジラだ。捕鯨は「調査」である、と日本は正当化している。国際捕鯨員会の規則は、加盟国が調査研究のために鯨を殺害することを認めているからだ。だが、その調査の目的は、商業捕鯨を科学的に正当化する口実を設けることに向けられているようだ。だから、捕鯨が非倫理的であるとすれば、 調査捕鯨そのものも不必要なうえに非倫理的であるのだ。

 捕鯨に関する議論は冷静に行いたい、科学的な証拠に基づいた、"感情"を排した議論を行いたい、と日本は言う。50頭殺しても種の存続には何の危険ももたらさない程にまでザトウクジラの頭数は増している、と日本人たちは考えている。この論点に限れば、日本も正しいかもしれない。だが、いくら科学を持ち出したところで、それだけで鯨を殺してよいか悪いかということの答えが出せる訳ではないのだ。

 実のところ、捕鯨に対する環境保護主義者の反対と同じくらい、捕鯨を続けようとする日本の欲求も"感情"に動機付けられたものだ。鯨を食べることは日本人の健康や栄養にとって必要不可欠なことではない。おそらく一部の日本人が感情的に愛着を持っているという理由のために、捕鯨は日本人たちが存続させたいと思っている伝統になっているのだ。

 日本人たちも、そう簡単には否定できない主張を一つ持っている。捕鯨に対して西洋諸国が反対しているのは、ヒンドゥー教徒にとっての牛が特別な動物であるのと同じように西洋人にとっては鯨が特別な動物であるからだ、と日本人たちは主張しているのだ。そして、西洋諸国は自分たちの文化的な信念を他の国に押し付けようとするべきでない、と日本人たちは主張する。

 この主張に対する最善の応答は、感覚のある生き物たちに不必要な苦痛を生じさせることは不正であるという考えは特定の文化に基づいたものではない、ということだ。例えば、日本の主要な倫理的な伝統の一つである仏教の主要な戒律の一つも、前述の考えである*2

 だが、この応答を行うには西洋諸国の立場は弱い。西洋諸国も、非常に大量の不必要な苦痛を動物たちに引き起こしているからだ。オーストラリア政府は捕鯨には強く反対する一方で、毎年数百万頭のカンガルーたちを殺すことを認めている…動物の苦痛が大量に含まれた虐殺だ。同様のことは他の国々の様々な種類の狩猟にも当てはまるし、工場畜産によって引き起こされている莫大な量の動物の苦痛については言うまでもない。

 自分自身の生を豊かに過ごす能力を持った社会的で知的な生き物に不必要な苦痛を引き起こす制度であるから、捕鯨は止められるべきだ。だが、自分たちの裏庭で動物たちに引き起こされている不必要な苦痛の問題を解決しない限りは、文化的な偏見であるという日本の批判に対する西洋諸国の反論は心許ないままであるだろう。

 

 

 

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*1:訳注:英語圏で「人道的に殺す, humanely kill」は「苦痛を与えずに殺す」「虐待を与えずに殺す」などの意味合いを持つ。 

アメリカを読む辞書: humane slaughter

*2:訳注:日本では「草木国土悉皆成仏」の考えが普及しているとはいえ、「有情」と「無情」の区別も仏教の伝統に含まれるものであり、シンガーが言及しているのは後者の考えであると思われる

有情とは - 難読語辞典 Weblio辞書

草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)とは - コトバンク