The Oxford Handbook of Animal Ethics (Oxford Handbooks)
- 作者: Tom L. Beauchamp,R. G. Frey
- 出版社/メーカー: Oxford Univ Pr (Txt)
- 発売日: 2014/02
- メディア: ペーパーバック
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・「女性には自分の意志に基づいて胎児を中絶する権利がある」と主張する人もいれば「胎児には生きる権利があるのだから、中絶して殺すことは許されない」と主張する人がいて、議論が起きている。中絶に比べるとマイナーだが、生後数ヶ月以内の新生児殺しについても同じような議論がされている。
また、「動物には生きる権利があるのだから、殺すことは許されない」と主張する人もいれば「動物の生は人間の生に比べるとたいしたことのないものだから、動物を殺すことは許される」と主張する人もいて、ここでも議論が起きている。
胎児も動物も生命であり、一般的に「生命を殺すこと」はなにか問題のあるネガティブな行為のように思われているだろう。一方で、健康な成人を殺すことは胎児や動物を殺すことと比べて遥かに深刻で問題のある行為である、という考えも一般的だろう。
「パーソン論」は、このような問題(中絶、動物殺し)の是非について、「生きる権利」を持つこととはどういうことか?「生きる権利」を持つ存在と持たない存在との違いは何か?という問いをたてることで考える議論である。
・まず、「生きる権利」について明確に考えるためには、ある存在を殺すことで生じる間接的な影響(「赤ん坊を中絶することで母親が後悔したり、父親が悲しむかもしれない」「動物を殺すことを大々的に認めると子どもの発達に悪影響が出る」「新生児の殺害を容認したら、社会の道徳規範がずるずると後退して、やがては子どもや大人の殺害まで容認するようになってしまうかもしれない」など)からは切り離して、問題の対象となる存在そのものへの影響を考えなければならない。
また、「苦痛を与えられない権利」なども、「生きる権利」とは切り離して考える必要がある。ある存在を殺す際には、「その存在の生が奪われる」だけでなく「その存在が苦痛を与えられる」「その存在が恐怖を与えられる」などの影響が発生する場合もある。しかし、それらの二次的な影響と、「その存在の生が奪われる」ということは別の問題である。
例えば、胎児を中絶するにしても(胎児が苦痛についての感覚を備えるほど成長していたなら)できるだけ苦痛を与えないようにして殺すべきである、動物を殺すにしてもできるだけ苦痛を与えないようにして殺すべきである、という考えは胎児や動物に「生きる権利」が無いと主張している人でも同意するところであろう。しかし、殺害することはどんな形でも必然的に苦痛が生じるから許されない、という理屈で胎児や動物の「生きる権利」を主張することは無理がありそうである。たとえば苦痛を一切生み出さない殺害方法が登場したら、その時点で胎児や動物の「生きる権利」は消失する、ということになりかねず、おかしな話である。
さらに思考実験をすれば、健康な成人に対して、一切苦痛を与えずに、ある意味で「殺す」方法を想像することもできる。近未来に、人間の脳を完全に再プログラムして、以前までに持っていた記憶や性格とは全く違ったものに書き換えられる技術(精神年齢や知能は同じままにできる)が登場するとする。そして、ある成人を誘拐してしまい、同意の無いままこの技術で脳を再プログラムして、以前の人生の記憶を全く持たない別人にしてしまうとする。この場合、成人は苦痛を与えられてはおらず、また身体は依然として健在だとしても、『その成人が過ごしていた「生」が奪われた』という主張には多くの人が同意するだろう。
・「胎児には生きる権利は無いが、成人には生きる権利がある」と主張する人や「動物には生きる権利は無いが、人間には生きる権利がある」と主張する人であっても、必ずしも「成人」「人間」だけに生きる権利を認めているとは限らない。
たとえば、我々と同じかそれ以上の知能を持ち、我々と同じか似たような情動(楽しみ、悲しみ、怒り、愛など)を持ち、言語を持っている地球外生命体が飛来してきたら、その生命体を殺すことにはほとんどの人が躊躇するだろう(その生命体が地球人を殺そうとしてくる場合はともかく)。その生命体は「宇宙動物」というよりかは「宇宙人」として見なされるだろうし、コミュニケーションが通じなかったとしても、その生命体を殺すことには多くの人が反対するはずだ。「動物には生きる権利は無いが、人間には生きる権利がある」と主張する人も「その地球外生命体には生きる権利がある」と主張するだろう。
我々と同じかそれ以上の知能を持ち、我々と同じか似たような情動を持ち、言語を持っている天使が飛来してきた場合にも同じような反応があるはずだ。この天使は肉体を持たず、身体的な感覚などは一切ないが、我々とは違った形で外界の環境を感じ取り理解しているとする。そして、ある特殊な魔術を使えばこの天使の存在そのものを消滅させることができるとする。その場合でも、多くの人がこの天使の消滅させることは「殺す」ことと同じであると見なして、反対するはずである。
・動物の生きる権利を認めない人は「人間だけが生きる権利を持つ」と主張するかもしれないが、地球外生命体や天使を前にしたら「これらの存在も生きる権利を持つ」と主張するだろう。すると、彼が「人間だけが生きる権利を持つ」という主張を保つとしても、少なくとも「ホモ・サピエンスだけが生きる権利を持つ」という主張では無くなる。彼の主張していた「人間」とは、「ホモ・サピエンスという生物種に属する個体」と同義ではなく、地球外生命体や天使を含めたより広い意味を含めた「人間」である。それも、「人型」であるとか「苦痛を感じられる」などの身体的な特徴ではない、「生きる権利をもたらすなんらかの性質を持つ存在」、という意味が「人間」という言葉に込められているはずである。
とはいえ、「人間」( Human)という言葉は「ホモ・サピエンスという生物種に属する個体」という意味も含んでいる。ここで「生きる権利をもたらすなんらかの性質を持つ存在」のことを「パーソン」(Person)と呼ぶことにしよう。
「パーソン」という言葉には、人間・人格・人間性・ペルソナなどの様々な意味合いがあるが、そのような意味合いは棚にあげて、あくまで「生きる権利をもたらす性質を持つ存在」として定義する。
・では、パーソンに生きる権利をもたらす性質とは、結局何であるのか。
「権利」は、その「権利を持つ存在」に依存して存在する。権利は、その権利を持つ存在に欲求されなければ存在しない*1
ある存在が「生きる権利」を持つには、「自分は生き続けたい」と欲求できなければならない。そして、「自分は生き続けたい」ということを欲求するためには、まず「自分が自分の生を生きているということ」を認識できなければならない。
つまり、生きる権利をもたらす性質とは「自分が自分の生を生きているということ」と認識できる性質と、「自分は生き続けたい」と欲求できる性質である。
パーソン=「生きる権利をもたらす性質を持つ存在」であるから、パーソン=『「自分が自分の生を生きているということ」と認識できる性質と、「自分は生き続けたい」と欲求できる性質を持つ存在』となる。
・パーソンの定義はこの時点で終了し、パーソン論もある意味ではこの時点で完結する議論である。
とはいえ、個別の事例を考えるうえでは、実際のところ『「自分が自分の生を生きているということ」と認識できる性質』とは何であるか、『「自分は生き続けたい」と欲求できる性質』とは何であるか、が議論されることになる。
この議論については<心の哲学>と呼ばれる分野や心理学などの分野についての知識や考えも必要となる。このような性質を持つ動物は存在するか、存在するとしたらどのような動物か、ということについて議論する場合には生物学や動物行動学などの分野も必要となる。
はっきり言って知識が足りないので、ここは非常に雑にまとめてしまう。
「自分が自分の生を生きているということ」と認識できるというのは「経験と心的状態の持続的な主体であるということ」である。それぞれの瞬間を経験しているだけでは自我が芽生えず「生」が理解できない。しかし、過去の瞬間を記憶すること、現在の瞬間と過去の瞬間とを繋げて理解できること、「自分がこの行動をしたら、このようなことが起きるだろう」という因果関係を把握すること、「行動を起こすのは自分である」と認識して意図を持った行動を起こすこと、などなど、いくらかの種類の心理的な能力や性質を備えていたら、おぼろげながらにも「自分が自分の生を生きているということ」を認識できるかもしれない。
『「自分は生き続けたい」と欲求できる性質』についても難しい。「自分が自分の生を生きているということ」を本当に認識するためには言語による思考が必要かもしれないし、ぼんやりとしたイメージによる連想や思考でも「生き続けたい」という欲求を形成することは可能かもしれない。
・とにかく、上述したパーソンの定義は、健康な成人には当てはまるし、我々と同じ知能・情動・言語能力を持っている地球外生命体や天使にも当てはまるだろう。
一方で、胎児や新生児が「自分が自分の生を生きているということ」と認識して、「自分は生き続けたい」と欲求できる性質を持つかどうかというと、持たないだろう。すると、定義上、胎児や新生児はパーソンではなく、生きる権利を持たない。
動物については、「人間以外の全ての動物はパーソンではない」ということも有り得るし「人間以外でも一部の動物はパーソンである」ということも有り得る。これについてどう考えるかは、動物の観察や研究を通じて得られた諸々の証拠と、その証拠の解釈の仕方で変わってくる。
「人間以外でも一部の動物はパーソンである(=「自分が自分の生を生きているということ」と認識して、「自分は生き続けたい」と欲求できる性質を持つ)」と主張される場合には、大型霊長類が最もよく登場し、イルカ・クジラなどの海洋哺乳類もよく登場する。象が出てくることもあれば、最近ではアメリカカケスやオウムにカラスなどの鳥類も頻繁に登場する(Varner 2012)。また、証拠の解釈の仕方によっては、ほとんどの哺乳類や鳥類(さらには魚類)がパーソンである、と主張される場合もあるようだ。
一方で、昆虫やプランクトンなどをパーソンであると主張することには無理がありそうだ。
しかし、実際問題として、『「自分が自分の生を生きているということ」と認識して、「自分は生き続けたい」と欲求できる性質を持つこと』は、その能力自体は1か0ではなく、幾つかの要素とその強弱が組み合わされた連続体として程度差が存在するものであろう。離れた時間の心的状態がどれほど結び付いているか、未来についてどれほどの思考やイメージを持てるか、など。思考力の強弱や言語能力の有無でも変わってくる。
この程度差をどれほど問題視するかは、解釈の仕方で変わってくるだろう。
また、「権利」という言葉にどれほどの重みを持たせるか、「権利」という言葉をどう解釈するか、ということによっても変わってくる。
パーソン論の代表とも言える哲学者マイケル・トゥーリーは「動物は主体としての生を過ごして欲求しているとしても、言語が使えない以上は人間のそれにに比べて曖昧な主体性や欲求であり、それについての道徳的地位は人間に比べて低いだろう」というようなことを書いている(Tooley 2011, 368)。
「権利」には程度差があると解釈して、パーソンには完全な「生きる権利」があるが、パーソンのものに比べて弱い「生きる権利」がパーソンに満たないがパーソンの性質を一部満たしている存在が持っている、と言えるかもしれない。
また、「権利」を絶対的なものとして、パーソンでない存在には「権利」とは違った別の「道徳的地位」がある、と言うこともできるかもしれない。
・さて、パーソン論には「生命の価値を序列化する行為だ」「生命を価値のあるものと価値のないものとに分けて、後者を貶める考えだ」という批判が投げられることもある。
しかし、パーソン論は Right(「(行為などの)正しさ」・「権利」)についての議論であり、Good(「善」・「価値」)についての議論ではない。
パーソン論はあくまで『どの存在が「生きる権利」を持つか』ということについて考える議論である。
その生の中身がどれほどのものか、どれほど幸福か、という生の「価値」は問わない。「価値のある生を送っている」かどうかではなくて、むしろ「その生を過ごしている当人が、自分の生に価値を評価できるか・価値を感じられるか」を問うのである(Cahn, Harris 2011, 306)。
そして、ある存在がパーソンであるなら、そのパーソンには自分の生についての権利( Right)がある。他の人たちがそのパーソンの権利を尊重することは正しい(Right)ことであり、そのパーソンの権利を尊重しないのなら正しくない、ということになる( 。
ある存在の生の中身を見て、「この存在の生には価値があるから、この存在はパーソンだ」「この存在の生には価値がないから、この存在はパーソンではないと判断している」のでは無いのである。
くどいようだが、生の価値の量や質を問うのではなく、「生きる権利」が存在する閾値を問いている、と言うべきだろうか。その生を過ごしている当人が、そもそも「自分が自分の生を生きていること」について認識できない、「生きたい」と欲求することができないなら、その生についての客観的な価値とは関係なく、当人はその生について権利を持ちようがないのである。
・また、パーソン論は、「パーソンでない存在には道徳的な配慮をしなくていい」という主張をする議論でもない。
パーソン論は、あくまで「どのような存在が生きる権利を持つか」「ある存在に生きる権利をもたらす性質とは何であるか」ということ(だけ)を論じる議論である。
「パーソンでない存在」の、「生きる権利」とは関係のない道徳的地位(たとえば、新生児の「虐待されない権利」や、猫の「拷問されない権利」など)については、有るとも無いとも言わず、言及しない(「パーソンに近い存在」「パーソンの条件を一部満たした存在」については言及する場合もある)。
・サラ・カーンとジョン・ハリスは「パーソン」はヒューリスティック(問題発見に役立つ)な道徳のカテゴリである。「我々に対して、特定の種類の道徳的問題(その存在を殺してはいけない、ということなど)を生じさせる存在」ということの速記表現が「パーソン」である、というわけである(Cahn, Harris 2011, 323)。
最後はうまくまとめられなかったが、こんなものだろうか。
さて、今回は功利主義については触れなかった。
権利論であるパーソン論と功利主義とは全く違う議論であり、そもそも功利主義にとって「権利」は二次的なものである。
そして、功利主義は(パーソン論とは違い)「生命の価値」の量や質も議論する。この「生命の価値」に関わるという都合上、パーソン論で論じられるような「自分が自分の生を生きているということ」と認識できる性質と、「自分は生き続けたい」と欲求できる性質が、功利主義でも注目されることになる。
このあたりの違いを勉強して、近いうちに「功利主義とパーソンフッド(パーソンであること)」との関係についても記事を書きたい。
Personhood, Ethics, and Animal Cognition: Situating Animals in Hare's Two-Level Utilitarianism
- 作者: Gary E. Varner
- 出版社/メーカー: Oxford Univ Pr (Txt)
- 発売日: 2012/08/08
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参考文献
Cahn, Sarah. Harris, John. "Human Animal and Nonhuman Persons". Beauchamp, Tom L., and R. G. Frey. The Oxford handbook of animal ethics. Oxford New York: Oxford University Press, 2011.
Tooley, Michael. "Are Nonhuman Animals Persons?" .Beauchamp, Tom L., and R. G. Frey. The Oxford handbook of animal ethics. Oxford New York: Oxford University Press, 2011.
Varner, Gary E. Personhood, ethics, and animal cognition : situating animals in Hare's two level utilitarianism. New York: Oxford University Press, 2012.
トゥーリー,マイケル.神崎宣次訳.「妊娠中絶と新生児殺し」(原文の初出は1972),江口聡編・監訳『妊娠中絶の生命倫理』,勁草書房,2011.
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*1:実際には「なにが権利をもたらすか」「権利とはどのような場合に存在するか」ということについての考え方は、学問分野や理論によって様々である。「相互に責任を果たす能力がある存在同士の契約の結果、お互いに“自分には権利がある”“自分には相手の権利に対する責任がある”と了承することで、はじめて権利と責任が生じる」という考え方もあるだろう。しかし、その考え方では、現在あまり一般的には認められていない動物の「殺されない権利」「苦痛を与えられない権利」のみならず、責任能力のない赤ん坊や子どもの「殺されない権利」「苦痛を与えられない権利」も認められないことになってしまいそうである。
ここでは、責任能力や契約などの考えからは切り離して考えることにする。