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読書メモ:『「勤労青年」の教養文化史』

 

「勤労青年」の教養文化史 (岩波新書)

「勤労青年」の教養文化史 (岩波新書)

  • 作者:福間 良明
  • 発売日: 2020/04/18
  • メディア: 新書
 

 

 タイトル通り歴史(文化史)に関する本であり、歴史に関する本ってひとくちにまとめたり感想を書いたりするのが難しいものだが、この本は「プロローグ」に書かれている問題意識の時点で面白い。

 

こう考えると、かつて広がりを見せていた大衆教養主義がなぜ衰退したのか、という問いが浮かび上がる。教養主義とは、「読書を通じた人格陶治」の規範を指す。大正期から一九六〇年代にかけて、旧制高校・大学キャンパスでは、文学・思想・哲学等の読書を通して人格を磨かなければならないという価値観が広く共有されていた。古今東西の古典を集めた岩波文庫が学生たちに読まれたのも、そのゆえであった。これは試験でいい点を取ったり、よい就職先にありつくことを目的とするものではなかった。

だが、教養主義は決して学歴エリートの専有物だったわけではない。大学はおろか高校にも進めなかった勤労青年たちのあいだにも、「読書や勉学を通じて真実を模索し、人格を磨かなければならない」という価値観は少なからず広がっていた。

(中略)……しかし、今日では「実利を超越した読書・教養」といったものは、ポピュラー文化ではもちろんのこと、教育に関する議論においても、ほとんどふれられることはない。教育をめぐる経済格差や高等教育の無償化はしばしば論じられるが、多くの場合、そこで念頭に置かれているのは、社会上昇の問題である。上級学校進学の希望が阻まれることで、就職や雇用形態が制限され、階層上昇が困難になってしまう。こうした状況をどう改善していくのかが、そこでの論点である。これが喫緊の課題であることは言うを俟たない。だが、格差や貧困が社会問題になっていた点では、『キューポラのある街』の時代も同様である。当時は高度経済成長期の前半期にあたりながらも、家計困難のゆえに高校進学が叶わない青年は少なくなかった。では、かつて、教養主義的な価値観はなぜ、映画のようなポピュラー文化においても広く共有されていたのか。そして、それが消失したのはいつ、なぜだったのか。

(p.4-5)

 

 本文中で印象に残ったのは、以下の箇所。

 

進学組と就職組のヒエラルヒーを反転させようとする志向は、しばしば知識人批判にも結び付いた。

(中略)…… だが、繰り返し述べてきたように、人生雑誌には知識人の論説が多く掲載され、知への憧れや知識人との親和性は際立っていた。では、知への憧れと知識人批判は、いかにして両立できたのか。そこにあったのは、知識人が専有する知を奪取しようとする欲求であった。

(中略)……そこには、「反知性主義的知性主義」を見出すことができよう。知識階級への憎悪(反知性主義)を抱きつつ、知や教養、さらには知識人への憧憬(知性主義)が並存する状況は、一見、矛盾含みのものではある。しかし、微細に見てみると、両者の間には順接の関係性を見出すことができる。高等教育を受けられなかったにもかかわらず、知や教養に憧れを抱くことは、必然的に知識人層によって知が独占されることへの反感を生む。その心性は、知識人とも対等であろうとする平等主義的な価値観に支えられていた。人生雑誌は、こうした反知性主義的知性主義に根ざすものであった。

(p.213-215)

 

「エピローグ」の最後の段落にある文章もなかなか示唆的だ。

かつて人文知は、インテリ層のみに支えられるのではなく、格差にあえぐ若者たちによって下支えされていた。「格差と教養が結びついていた時代」から遠く離れるなかで、現代のわれわれは何を失ったのか。

(p.277)

 

 この本では、戦後の苛烈な労働環境のもとで苦しんだり疲弊したり消耗したりしながらも、「実利」ではない「教養」や「知」を求めた青年たちの姿が描かれている。縦社会の工場で抑圧を感じていた工員たちにとっては、平等主義的で「学校民主主義」の場である定時制高校が「解放」の場であった(「学校のもつ雰囲気がたまらなく好きなのです」(p.155))、というエピソードはなかなか感動的だ。一方で、「就職組」が「進学組」をリンチして殺害した事件があったなど(p.124)、格差に基づく対立も相当なものであったらしい。あと、人生雑誌を読んでいたら「アカ」扱いされて職場での立場が悪くなったり後ろ指を指されたりしていたそうだ。気の毒である。

 そんな彼らが年をとって余裕は出てきたが情熱は失ってきたときに求めたのが『プレジデント』や『歴史読本』であったり、司馬遼太郎や『真田太平記』などの時代小説である、というエピソードもなかなか印象に残った。ネットではかしこさんたちに馬鹿にされがちな「大衆教養主義」や「反知性主義」ではあるが、その背景にはいろいろと重たくシビアな現実があって、そのなかでの解放だったり救済だったりするものなのだということが学べた。

 勤労青年が「格差や貧困に向き合うなかで社会批判への関心が芽生え、時事問題や社会科学に目を見開いていった」「彼らは格差のゆえに教養から排除されたのではなく、逆に格差のゆえに教養に接近したのである」(p.266)というのは、たとえば『日本の分断:切り離される非大卒若者たち』で示されている現代の若者たちの姿とは真逆と言っていいほど対照的だ。現代の問題はこの本のテーマではないので「なんでいまの若者たちはこうなっちゃったのか」という話はされていないが、考えてみるといろいろと興味深い題材ではあるだろう(娯楽と情報の過多、かりそめの「中流」や「平等」の意識、社会の高度資本主義化による物質主義の肥大、アメリカのせい、などなどが関係していそうなところだ)。

 個人的な話をすると、修士課程までとはいえ大学院にまで行ってしまったわたしは完全に「進学組」の側の人間ではあるが、この本で描かれている勤労青年たちの「教養」に対する憧れはにいろいろと共感できる。わたしも、学生時代であったりフリーターやニートをやっていって時間や体力が余っている期間よりも、フルタイムで(そしてワープア同然の状態で)働いていて余裕のなくなっている期間のほうが俄然と「教養」に対する渇望が湧いてきて、それで無理して本を読んだり感想を書いたりして疲れちゃったりする。根本にはやっぱり「労働」なり「現実」なり「社会」なりの辛さがあって、それに悩まされながら生きているときには教養が「解放」へと結び付く、ということなのだろう(なので、教養を「解放」ではなく平常から仕事の一環として当たり前に触れるもの、という知識人に反感を抱くということもわからないのではないのだ)。