道徳的動物日記

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読書メモ:『ジェンダーの終わり:性とアイデンティティに関する迷信を暴く』(1)

 

 

 裏表紙の賞賛コメントには『人間の本性を考える: 心は「空白の石版」か』の著者でもあるスティーブン・ピンカーや『共感する女脳、システム化する男脳』の著者であるサイモン・バロン・コーエンの名前があるところから、「男女の生物学的な性差に関する本かな」と思って購入してもらったのだが、実際にはトランスジェンダーやノンバイナリー(Xジェンダー)に関する議論が中心の本だった。

 また、内容としては明らかに「保守」寄りのものである(そのためか、ヘザー・マクドナルドやベン・シャピロなどの保守論客も裏表紙に名を連ねている)。そして、この本は2020年の8月に発売されたものであるが、 Amazonには400近くのレビューが付いており(ほとんど五つ星だ)、かなり話題になった本であることがうかがえる。

 トランスジェンダーやノンバイナリーに関する議論はこの1〜2年で日本でもにわかに目立つようになった印象があるが、欧米においてもかなりホットなトピックとなっているようだ。

 

 この本の著者であるデブラ・スー(Debra Soh)はカナダ人であり、性科学や神経科学の研究を行ってきた経験がある。しかし、現在の彼女は研究者ではなくジャーナリストとなっている。

 この本の序文で語られている、著者がジャーナリズムの道を選んだ理由を簡単にまとめると、以下のようになるだろう:性やジェンダーに関する問題について科学に基づいた正確な知識を発表したり広めたりしようとすると、活動家から非難や攻撃を受けてしまい、キャリアにも傷が付く。そのため、性科学を研究している人たちであっても、自分たちの知っている事実について口を噤んでしまうことになり、活動家側による科学的な根拠のない意見ばかりが喧伝されてしまう状況となってしまっている。その状況は、実害を生じさせてもいる。そのような状況を打破するため、自分はジャーナリストとなって事実を広く知らしめることを選んだのだ。

 ……ということで、この本は全体的に「理性的で事実を重んじる科学者の意見」と「非理性的でイデオロギーを優先する活動家の意見」とが対比される、という構図になっているフシがある。一般論を言わせてもらうと、本の著者がこういう構図を作るときには、読者は意見や感情を著者に誘導されないように警戒をした方がいいものだ。

 その一方で、アリス・ドレガー(Alice Dreger)が『ガリレオの中指』で取り上げていたマイケル・ベイリー(Michael Bailey)に対するバッシング事件のように、性的自認や性的嗜好に関する科学的研究を行っている研究者がリスキーな立場にいるということは、事実の一面ではあるだろう*1

 

著者は、性に関する社会構築主義的な議論を強く否定する。

性別とジェンダーに関する著者の定義は、以下のようなものだ。

 

生物学的な性別(biological sex)は、男性か女性かのどちらかである。一般的な通念とは異なり、性別は染色体や生殖器やホルモン像(hormonal profile)ではなく、配偶子によって定義される。男性から生産される小さな配偶子は精子と呼ばれ、女性から生産される大きな配偶子は卵子と呼ばれる。卵子精子のあいだに中間的なタイプの配偶子が存在するわけではない。そのため、性別は二元的(binary)だ。性別は連続的なものではないのである。

ジェンダーアイデンティティとは、自分の性別について抱く感覚であり、自分のことを男性であると感じるか女性であると感じるか、ということである。ジェンダー表現(gender expression)とは、自分のジェンダーアイデンティティについて他の人に言明することや、服装・髪型の選択に話し方や身振りといった外見を通じて自分のジェンダーを表現すること、などである。

性別と同じように、ジェンダーも、……アイデンティティと表現の両方において……生物学的なものである。ジェンダーは社会的に構築されたものではなく、解剖学的構造や性的指向から分け隔てられるものでもない。最近の学者たちによってあなたが信じ込まされているかもしれないことにも関わらず、これらの要素はしっかり関係しているのだ。社会ではなく生物学的な要素が、ある人のジェンダーが典型的なものであるか非典型的なものであるか、自分に生まれつき備わった性別についてどれだけ一致感を抱けるか、どんな相手にパートナー候補としての性的な魅力を感じられるか、などを決定しているのだ。

(p.17)

 

  そして、著者によるトランスジェンダーの定義は、以下のようなものだ。

 

 

……(前略)……この本のなかでわたしがトランスジェンダー・コミュニティについて言及するときには、ジェンダーに関する違和感(dysphoria)を抱いており(生まれ持った性別よりも逆の性別に対してより強く一致感を抱いていること)、社会的なものにせよ医学的なものにせよ逆の性別に移行するための手続きを行っている人々のことを指す。

(p.79 - 80)

 

 

 著者は、トランスジェンダーの人々が存在するという事実自体は、科学的にも確かであると認めている。

 この本のなかで著者が特に強く批判しているのは、トランス「活動家」であったり、トランスジェンダー運動の「行き過ぎ」であったりする。

 この本で「迷信」とされている考えのひとつは、「ジェンダー違和感を抱いている子どもは性移行を行うべきである」というものだ。

 性移行は、手術を行わない社会的なものであっても、いちど移行してしまうと、元に戻ろうとしたときに精神面や対人関係の面において多大な負担がかかるのであり、安直に行うべきではない。特に子どもが若ければ若いほど、本人がほんとうに「ジェンダー違和感」を抱いているかどうかは不確かになるのだから、子どもが意思を確定して表明できる年齢になるまでは、性移行は控えるべきだ。

 ……しかし、活動家たちによって「性別の多様性」や「ジェンダー不定性」が誇張して喧伝されていることから、親たちは「子どもが性的違和感を口にしたら、移行をさせなければいけないかもしれない」という罪悪感を抱くようになっている。「トランスジェンダーの自殺率の高さ」などのショッキングな情報によって親たちの不安が煽られていることや、性移行を検討しない親は「差別的」であるとして活動家たちから非難されることも親を怯えさせて、子どもの性移行が安直に行われる原因となっている、と著者は主張するのだ。

 

 また、著者は「女性として生まれた女性とトランス女性の間に違いは存在しない」という考えも「迷信」として批判している。

 たとえば最近に日本でもすこし話題になった、女性スポーツ競技へのトランス女性の参加については、生物学的女性にとって不公平な施策であると批判されている*2*3。女性用のトイレをトランス女性が利用することや、女性・男性用ではなくジェンダーニュートラルなトイレを普及させることは女性に危害をもたらして、実際の性犯罪にもつながっている、とも論じられている。

 著者が特に問題視しているのは、個々の施策そのものというよりも、トランス女性と生物学的女性の利害が対立する可能性のある施策について、議論することすらできない状況になっていることだ。「トランス女性のことを考慮した施策は、女性に対して不公平なものとなっていないか」いう疑問を呈するだけでもヘイトスピーチと認定されて「TERF」とのレッテルが貼られてしまう状況になっている、と著者は批判するのである。

 

(この段落は著者じゃなくてわたしの私見

 

 ……このあたりの問題意識は、日本のTwitterにおける生物学的女性(及び生物学的女性を支持する男性フェミニスト)とトランス女性(及びトランス女性を支持する両性のフェミニスト)との間での論争を見ていても、「わからなくはない」という感じである。ただし、生物学的女性の側もトランス女性の側に対して「名誉男性」などのレッテルを貼ったり誹謗中傷を行ったりしている、ということには留意するべきだ。

 日本のTwitterを眺めていると、トランス女性の側は生物学的女性の「シス特権」をあげつらい、生物学的女性の側はトランス女性の「トランス特権」をあげつらうことで、不毛な非難の応酬となっている様子がうかがえる。

 この状況については、「特権」概念は他者を非難する武器として使うだけなら便利で強力なものであるが、妥協点を発見したり利害を調整したりする必要がある場合には逆効果しかもたらさないものである、ということが影響しているだろう。「特権」概念にかかると、「ある属性が経験している困難や感じている苦痛を経験したり感じたりせずに済む属性は、特権を持った存在である」とされる*4。特権を指摘された人は、本人がどう振る舞っていて他人に対してどう接しているかに関わらず、反省すべき加害者側であり、弱者である属性に対して譲歩を行なうべき存在であるとされてしまうのだ。特権を指摘された人のなかでも真面目であったり気が弱かったりする人は罪悪感を抱いて、実際に反省や譲歩を行うかもしれないが、大半の人はムッとなってしまい、相手の側に対する反感をむしろ強めてしまうものだ。そうなると妥協や合意は遠ざかってしまう。「白人特権」や「男性特権」といった言説ですら逆効果をもたらしてきたものだが、人種の問題や男女の問題と比べても生物学的女性とトランス女性との間における問題では被害や不利益の状況が複雑に入り組んでいるからこそ、特権概念の悪影響はさらに強くなるのだろう。

 

ジェンダーの終わり』では、トランスジェンダー運動よりもノンバイナリー運動の方が、さらに強く批判されている。

 先述したように、トランスジェンダーの人々が存在すること自体については、事実であると著者も認めている。一方で、ノンバイナリー(Xジェンダー)には科学的な根拠が存在しない、と著者は主張するのだ。

 著者によると、性別とジェンダーは、あくまでバイナリー(二元的)なものである。トランスジェンダージェンダーアイデンティティが生物学的な性別とは逆になっているということであるし、「女性的なゲイ」や「男性的なレズビアン」もジェンダー表現や性的指向が性別とは逆になっているということであるが、「逆」であるということは二元論のフレームに収まっているということなのだ。

 そして、近年のノンバイナリー運動では、ドラァグや異性装者などのように「ジェンダーアイデンティティは性別と一致しているが、ジェンダー表現は性別と逆になっている人」までもが「ジェンダーアイデンティティが他と異なっている人」という括りに入れられている。また、同性愛者の定義がジェンダー表現によって細分化されたりすることで、アイデンティティのカテゴリがどんどん増大している。それによって、性別やジェンダーアイデンティティが二元論的でなく連続的なものであるかのように粉飾されている、と著者は主張するのだ。そして、トランスジェンダーの定義も拡大されており、「自称トランス」は近年になってどんどん増えている、と著者は論じる。

 著者によると、定義上は同性愛者である人が「自分はトランスジェンダーである」と主張したがったり、特に近年の若者が「自分は男性にも女性にも当てはまらない」「自分は第三のジェンダーである」という主張をしたがる背景には、アイデンティティ・ポリティクスやインターセクショナリティなどの左派的なトレンドが関連している。近年ではシスヘテロ男性のみならずシスヘテロ女性や同性愛者すらもマジョリティ側に認定される可能性があるため、より珍しくより"マイノリティ"なアイデンティティを主張することが、自分の個性をお手軽に表現する方法になっているだけでなく、誰からも批判されない居心地の良いコミュニティに属するための方策になっている、ということだ。

 そして、ジェンダーに関する議論や学問では生物学的・科学的事実が無視されており、事実と主観との間の境目を無視してしまう社会構築主義が跋扈していることもノンバイナリー運動が隆盛する原因となっている、と著者は論じるのである。

 

 ……この議論に関しては、わたしも、「まあそういう側面はあるだろうな」とは思う。ノンバイナリーやクィアが「トレンディ」なものになっているという風潮は、たしかにあるだろう。……一方で、性別やジェンダーについて著者が与える二元論的な定義がすべての場面において有用であるかどうかはわからない。ちょっと定義として狭すぎたり、捉えるべきところを捉えきれていないのではないかとも思える。

 また、二元論に当てはまるか当てはまらないかに限らず、自分のジェンダーアイデンティティについて悩んでいる人が多くいることも事実であるはずだ。著者による批判はそういう人たちにも飛び火してしまって、無用な加害を生じさせるおそれがあるとは思う。同じく、上述してきたようなトランス「活動家」に対する批判も、そうではないトランスジェンダーの人々に飛び火して加害となる可能性は大いにあるだろう。

 ……とはいえ、ノンバイナリー運動に対して違和感を抱いている人は多くいるだろうし、その運動に不自然なところがあったり科学的な事実と反しているところがあるとすれば、誰かがどこかで批判をしなければならないことでもあるとも思う。

 

*1:ガリレオの中指』に関して紹介している記事はこちら。

davitrice.hatenadiary.jpまた、以下のブログでもマイケル・ベイリーに関する記事が訳されている。

annojo.hatenablog.com

*2:

togetter.com

*3:ただし、著者も、「トランス女性であるスポーツ選手の大半について、彼女たちが不当な利益を得ることを目的として性移行したとは、わたしは考えない」(p.215)としている。著者が批判している対象はあくまでトランス「活動家」であり、トランスの人々一般については共感的・同情的な筆致も節々にある。

*4:

davitrice.hatenadiary.jp