道徳的動物日記

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読書メモ:ペットを飼うことを避けることの道徳的問題

 

 

philpapers.org

 キャサリン・ノーロックという人の " “I don’t want the responsibility:” The moral implications of avoiding dependency relations with companion animals" という論文の内容を簡単にメモ。

 犬や猫などの動物をペットして飼う人には、そのペットに対して道徳的責任が発生することは言うまでもない。ペットに危害を与えないという消極的義務はもちろんのこと、ペットは生活のほとんど全ての側面を飼い主に依存せざるを得ないことを考慮すると、ペットに食事を与えたり健康に気を使ったり病気になったら医者に連れていくなどの身体的なケアをすることやペットを孤独にさせないでおくとか充分に遊んでやるとかの感情的なケアをすることなどの、積極的義務も生じるだろう。

 ペットが欲しいと思っていても充分に世話できる自信がなかったり万が一の時に対応できないことなどを恐れたりして、ペットを飼わない選択をする人はいる。また、そもそも犬や猫に興味がなかったり、どちらかといえば嫌いであるから飼わない、という人もいるだろう。では、ペットを飼わないという選択をした人は、ペットに対する道徳的責任を追わなくて済むのか?…そうではない、というのがこの論文の主旨だ。

 

 あるコミュニティにおいて、犬や猫などのペットとなり得る動物が人に飼われずに野良の状態で屋外にいることは、その動物自身に取っても健康面や感情面において不利益である場合が大半であるし、公衆衛生や自然環境の面からしてもリスクである。本来、家畜化されたペット動物とは人間に飼われて依存する生き方をしなければならないものだ。自分たちに依存しなければ生きていきないペット動物を生み出してきたコミュニティには、ペット動物に対する責任が存在するのである。

 そのようなコミュニティにおいて、犬や猫を引き取って飼う選択をした人やペットシェルターで働いて数多くの犬猫の世話をする人は、コミュニティ総体が持つ責任を引き受けて、金銭的な負担や精神的な負担を払っている、といえる。この場合、ペットを飼わないという選択をして、他の形でもペット動物に対するコミュニティ全体の責任にコミットしない人は、ペットを飼う人やペットシェルターで働く人々にフリーライドしてしまい、自身の道徳的義務を放棄することになってしまう。

 そのため、ペットを飼わないという選択をした人であっても、他の形で、ペット動物に対するコミュニティ全体の責任にコミットする道徳的義務があるのだ。その具体的な方法としては、ペットを飼う人やペットシェルターで働く人に金銭的・精神的支援をしたり、コミュニティ内の戯歌などでペット問題をアジェンダとして取り上げたり、時間を割いてボランティアすることなど、様々なものが考えられる。

 

 この論文の面白いところはエヴァ・ファダー・キテイが『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』で用いた、「依存関係」や「二次的依存」などのキーワードを人間とペットとの関係に当てはめて論じていることだろう。キテイの元々の議論は子育てをしている人や重度の障害者のケアをしている人に対してコミュニティがフリーライドしていることを示して、それらの人に対するコミュニティの責任や義務を論じるものであったが、ノーロックはそれを人間とペットの関係に置き換えているのである。

 キテイ本人は「自分の理論は動物には当てはまらない」と主張しているし、キテイの主張の骨子には「社会は子供を産み育てるという再生産ありきで成立しているのだから、子育てをしている人に対して社会が支援をしないことは根本的におかしい」という点があることには留意して置いたほうがいいかもしれない。

フランシス・フクヤマのアイデンティティ論(1)

 

Identity: The Demand for Dignity and the Politics of Resentment

Identity: The Demand for Dignity and the Politics of Resentment

 

 

 

『歴史の終わり』を書いたことで有名なフクヤマだが、この本は、特に今日のアメリカで話題となっている「アイデンティティ・ポリティクス」現象について、『歴史の終わり』で行った議論を延長させながら分析するものである。 

 とりあえず2章までの議論を簡単にまとめよう。

 

・『歴史の終わり』はヘーゲル的な発展史観に基づいた著作だったが、自由な民主主義国家というゴールにひとまずたどり着いた社会はその後どうなるのか、ということも論じられていた。

 そこでキーワードとなったのが、古代ギリシア哲学でも論じられていた「気概」「優越願望」「対等願望」だ。これらのキーワードについてうまくまとめているブログがあったので、引用させてもらおう。

 

currypanman.blog5.fc2.com

 

歴史は、ヘーゲルの言うように、自己保存の法則をこえてまで他者の承認を求める人間本質の「主か奴か」の争いにその端を発する。認知への欲望は、プラトンのいう、自らのさまざまな価値などを他人に認めさせたいと望む「気概(thymos:テューモス)」と相似しており、その欲望=気概が歴史を動かしてきたとフクヤマは主張する。この欲望は二つに分類され、ひとつは「優越願望(megalothymia)」で、自分が他人よりも優越していることを認めさせようとする欲望である。これは暴君にもアーティストにも見られる性質である。もうひとつは、「対等願望(isothymia)」で、これは他人と対等なものとして認められたいという正反対の欲望である。資本主義における貧困の問題は、認知の問題つまり、相対的な問題になりつつあるから、欲望としての「対等願望」は満たされないまま残るとされる。ヘーゲル=コジェーブ的な歴史の終わりに生きる人間は、ニーチェの言う「ラスト・マン」であろう。すなわち、自らの私的な価値体系が相対化され、自らを自己犠牲に駆り立てるほどの「気概」のない人間である。それは「優越願望」を欠いた人間とも言えるが、フクヤマによれば、普遍的で画一的な民主主義はその平板さゆえ「優越願望」への動機を喚起するという。

 


フクヤマによると、近年のアイデンティティ・ポリティクスは「対等願望」の発露である。

 アイデンティティ・ポリティクスで表明されるのは、経済的な利益ではなく、「私の存在を対等に承認せよ」という欲求だ。

 たとえば、現代のアメリカでは同性愛者であっても「シビル・ユニオン」という形でパートナーシップが法的に認められて、婚姻関係にある異性愛者たちが得られるものと同様の控除制度などが認められる。つまり、経済的な利益だけに注目すれば、同性愛者も異性愛者と同様の支援が受けられるようになったのだ。だが、異性愛者のように正式な婚姻を結ぶことは、いまだに許されていない。21世紀の現代でも、同性愛者の存在は異性愛者と対等には承認されていないのだ。…つまり、同性婚の合法化を要求する運動は、経済的メリットではなく承認を要求する運動なのである。

 同様の分析は、#MeToo運動やBlack Lives Matter運動にも当てはまる。これらの運動は性犯罪という加害や銃殺という生命の危機に対する抗議を示す運動ではあるが、その根本にあるのは、「マジョリティである男性/白人に比べて自分たち女性/黒人の存在は対等に承認されていない」という欲求不満なのだ。また、ロシアや中国や中東諸国などの非-民主主義的な国家の主張たちも、国民の「対等願望」に訴えることで支持を得ている、とフクヤマは論じている。つまり、「欧米諸国や民主主義国家は、我が国のことを対等に扱っていない。我が国はいいように利用されてないがしろにされているのだ」と訴えることで、国民のルサンチマンナショナリズムを煽り、非民主的な政策への支持を取り付けている、ということだ。 

 

・かつての社会では、「人間は対等ではない」ということが当たり前に認められていた。国家や社会を守るために自分の命を賭けられる兵士と、ただ物を売っているだけの商人は対等な存在ではない、ということだ。貴族制も、貴族たち(または、その貴族たちの祖先)が社会や国家に対して果たしている責任に基づいて、正当化されていた。

 しかし、現代の民主主義国家では、責任の有無に関係なく人は人であるだけで皆が対等だ、ということになっている。「自分も人間だから、他の人間と対等だ」という発想そのものが現代の産物であり、だからこそ「対等願望」が政治的主張のキーワードとなる時代となったのだ。


…と、第2章までの議論はこんな感じ。アイデンティティ・ポリティクスに関する分析やジョナサン・ハイトやマーク・リラをはじめとして色々な論者が行っており、フクヤマの分析に特に目新しいところはいまのところ感じられないが、ヘーゲルとかギリシア哲学なんかが出てきて格調高いところが魅力的といえるかもしれない(そのぶん「胡散臭い」と感じる人もいるだろうが)。

 

読書メモ:「ペットとの関係の、二層功利主義における分析」

 

 

 

www.oxfordscholarship.com

 

 このブログでも何度か紹介したことのある『Pesonhood, Ethics, and Animal Cognition: Situating Animals in Hare's Two-level Utilitarianism(人格、倫理学、動物の認識能力:ヘアの二層功利主義で動物を位置付ける)』という本を書いた、Gary Varner(ゲイリー・ヴァーナー)という人の論文。上記の本で行なっている議論を前提としながら、ペットの問題について特化して分析した文章だ。

 

 功利主義なので、「ペットを飼育すること」が飼育する側の人間と飼育される側のペットそれぞれに与える利益が着目される*1。そして、ペット側の利益という点を考慮すれば、犬や猫などのコンパニオンアニマルや馬などの家畜を飼うことに比べてエキゾチックアニマルを飼うことは推奨されない。コンパニオンアニマルや家畜は人間と共に暮らすことに適応した進化を遂げてきており、人間と共同生活を行うことで幸福を感じられるようになっているが、家畜化されていないエキゾチックアニマルはそうではないからだ。

 そして、法律・専門家倫理・一般道徳など、社会における各段階での倫理コードが、ペットを飼う人間とペットとして変われる動物の利益を増させる方に変えられるべきだ、となる。例えば法律のレベルではペットに適さないエキゾチックアニマルの飼育には様々な制限を設けられるべきだし、一般道徳としてはエキゾチックアニマルを飼うことは望ましくないことであり犬や猫を飼うことは望ましいことであるという規範を推奨していくべきである、ということだ。

 また、ペットの飼い主の中にはペットを「代替可能」な存在と見なして、買っているペットが死んだら同じ品種のペットをすぐに新しく買うタイプの人がいるが、功利主義の観点からしても自分のペットを「代替可能」とみなす事は望ましくない。飼っているペットは「かけがえのない存在」と見なして一匹一匹に愛情を抱いてい真剣な絆を結んでいく方が、飼われているペットの側の幸福も飼い主である人間の側の幸福も増すからである。功利主義は「愛情」とかいうウェットな要素を無視しがちであると思われるが、幸福や利益を考える思想である以上はウェットな感情を無視する思想ではない、というのがミソだ。

 

*1:この論文では「ペットを飼育すること」という慣習が存在するために発生するペットビジネスや捨て犬捨て猫の殺処分問題などの、マクロな構造についての議論は取り上げられておらず、飼い主-ペットのミクロの関係についての議論のみが取り上げられている

ストア哲学の知恵を現代の生活に活かす(読書メモ:『迷いを断つためのストア哲学』)

 

迷いを断つためのストア哲学

迷いを断つためのストア哲学

 

 

 邦題はちょっと安っぽくてビジネス書感があるが、原題は「ストイック(ストア派)になるためには:古代哲学を現代の生活に活かす」。先の記事で紹介した『スミス先生の道徳の授業』と同じく、現代の世界における我々の生活に哲学の知見を生かす方法を論じた本である。ストア哲学を紹介する部分はすっきりと洗練されており、持ち出される現代の具体例も印象的なものが多く、なかなか質の良い入門書だ*1

 

ストア派の哲学者にも様々な人物がいるが、この本ではエピクテトスが特に重点的に紹介されている。

 エピクテトスの思想の中でも白眉なのが以下の引用箇所だ。

 

…何かに愛着を抱くとき、すなわち、決して奪われないものではなく、水差しやガラスのコップといったものに愛着を抱くときは、それがたとえ壊れても取り乱す必要はないと忘れないことである。人間に対しても同じだ。自分自身や子どもや兄弟や友人にキスをするときは……死すべき者を愛していること、愛しても自分自身のものではないことを失念してはならない。彼らへの愛は一時的に与えられただけであり、永遠に手に入れたわけでも、ずっと手元に置いておけるわけでもない。一年のうち決まった時期だけに収穫できるイチジクやブドウを冬に求めるのが愚かなことであるように、自分に与えられていないときに息子や友人を慕うのは愚かなことであり、冬にイチジクを求めているのと同じだと知るべきだ。

(p.52-53)

 

 著者による解説。

 

エピクテトスが伝えているのは、勇気をもって人生の現実を直視しよう、ということである。誰もが死ぬし、「自分のもの」として権利を主張できる相手などいない。これが現実だ。これを理解すべき理由は、愛する者が死んだり、親しい友人が国を離れたりした時に正気を保つためだけではない(現代では経済的理由や暴力や社会の混乱から他国に逃れることがあるが、当時は刑罰として国を追放された)。こうした現実と向き合えば、仲間の愛や、仲間と一緒に居られることを当たり前とは思わずに、そのありがたみを精一杯かみしめるべきだと胸に刻むことができる。いつかは誰もがこの世を去り、楽しむことができる正しい「季節」が終わってしまうからだ。私たちは、今、この瞬間を大切に生きるべきなのである。

(p.54)

 

・著者は、ストア哲学の思想の骨子を表すものとして、カート・ヴォネガット『スローターハウス5』で出てくることでも有名な、ラインホルド・ニーバーの祈りを引用している。

 

主よ

変えられないものを受け入れる心の平静と

変えられるものを変える勇気と

そのふたつを見分ける知恵をわたしに与えたまえ。

(p.40)

 

ストア哲学者たちは、倫理については「発展」理論を採用しているらしい。つまり、人間の倫理は最初は直感的・本能的な者であり自己愛や身近なものに対するえこひいき的な愛が強いが、理性を成長させることによって倫理的配慮の対象を拡大させていく、ということだ。過去の記事でも書いたが、この考え方はローレンス・コールバーグの道徳発達理論ピーター・シンガー拡大する輪の議論を思い出させるものである。

 

アリストテレスは、幸福のためには「知恵」や「徳」の他にも「財産」や「見た目の良さ」や「社会的地位」なども重要になると論じた。アリストテレスはこれらの重要性を並列させているが、ストア哲学では本質的に重要なのは「知恵」や「徳」だけであるようだ。しかし、ディオゲネスのような犬儒派とは違い、財産や社会的地位のメリットを否定しない。ストア派ではこれらのものは「好ましい無関係」というカテゴリーに収められており、知恵や徳ほど重要ではないが、あるに越したことはない、という扱いである。ここら辺のバランス感覚がいいと思う。

 

・「格言」というものは時には馬鹿にされがちだが、ストア派は実用的な行動規範としての格言を好んだそうだ。

 

ストア派の宗教観は基本的には汎神論的なものであったようだが、宗教や神についてどれだけ真剣に捉えるかは、論者によっても違いがあったようだ。そもそも、神や宗教に関する解釈はストア哲学では曖昧らしい。そして、その曖昧さはストア哲学の利点であると著者は説く。多神教徒でも一神教徒でも無神論者でも、ストア哲学の議論に参加できるからだ。

 

これは、思考停止状態とか、政治的正しさとか、両立不可能なものを両立させるとかについての助言ではない。人生で大切なのは良く生きること、そしてその目的、すなわち古代の人々が求めたエウダイモニアには、神が存在するかどうかはあまり関係ないということだ。もし神がいるとしても、神の特質がどのようなものかは関係ないのだ。キケロは賢明にもこう述べている。「哲学には、これまで十分に解明されていない問題がたくさんあるが、なかでも神々の本質に関する問題は、とりわけ謎が多く、難しい……この問題に関しては、学識の高い人々の意見があまりにも多様で、また異なるため、哲学は無知から生まれたという言葉に納得させられる」これは二〇〇〇年前に正しかったし、近年、どのような言説があったとしても、こんにちでも正しい。この点については合意がないことに合意し、うまく共存して良い人生を送るのが得策のように思うのだが、どうだろうか。

(p.103)

 

・政治家には、単純な能力や政策の公約だけでなく「美徳を備えた人格であるかどうか」も重要となる、というのが著者の考えだ。そして、徳という概念をリベラルが「保守的価値観の押し付け」として疎ましがることは残念なことである、と説く(アラスデア・マッキンタイアとかが同様の議論をしていたはずだ)。しかし、近年の日本や海外の選挙結果では、反リベラルかつ美徳もない人が当選しがちであるし、保守派の人たちももはや美徳は重視していないように思える。

 

・第8章では、人が非倫理的な行為をするのはその人が性悪だからではなくは知恵や想像力が不足しているからである、というアーレント的な道徳観が論じられる。

 

・第9章では、実際に人生で苦境に陥ったがストア哲学の知見を生かして苦境を乗り切った、というロールモデルとなる人々が紹介される。軍人でありながらストア哲学を学んでおり、戦争捕虜になった間にもストア哲学的な考え方を実践することで苦境を耐え忍んだ、ジェームズ・ストックデールという人のエピソードは、話ができすぎている感もあるがなかなか凄まじい。

 第10章でも、身体障害や精神障害に苦しんでいたがストア哲学的な発想の転換を行なった人々のエピソードが紹介されて、障害のある人生を送るうえで役立つストア哲学の知恵が紹介される。気に入った箇所をいくつか引用しよう。

 

まず初めに、うつ病を患う人々にとってきわめて重要なことの一つは、つねに自分自身と自分の精神状態を観察することだ、とアンドリューは言う。それについてストア哲学が役立つのは、自分自身の反応を観察し、自分が世界をどのように見て解釈するのかをじっくり考える訓練となることだろう。

(p.164)

 

アンドリューは、ネガティブな思考とうつ病の関係に気づくと、すぐに、コントロールできることとできないことというエピクテトスの二分法を思い出した。わたしたちの決断と行動はコントロールできるが、わたしたちが置かれている状況、他者の意思や行動はコントロールできない。もちろん『語録』や『提要』を読み、自分と同じような状況が描かれているのを見つけ、これだ、その通りだ!と思ったというわけではない。アンドリューは読み続け、考え続けたのだ。ストア哲学では、私たちの行動や内なる感情でさえ変えるためには、意識して何度も繰り返すことが必要だ、と教えている。これはうつ病やよく似た症状に対する治療法として効果的だと現代の精神科医の多くが認めていることでもある。

(p.165-166)

 

アンドリューの証言は、うつ病の人にとくに役立つ、ストア哲学のふたつの実践例を強調している。そのうちひとつは直観に反するものかもしれない。まず、エピクテトスが強調しているように、わたしたちは「心像」を見ているということだ。つまり、わたしたちは、提示されたものにまず反応する。そして多くの場合、それが最初に見せられたものとは違うと気づく。

(p.167)

 

アンドリューが役立つと気づいたことのふたつめは、意外かもしれないが、現代のストア主義者たちが、ネガティブな事象の可視化と呼ぶものである。この基本的な考え方は、現代の認知行動療法や類似の手法にも取り入れられている。これは、良くない結果に終わると思われるシナリオをつねに意識し、自分はそれに対処する力を内に秘めているのだから、実際は思っているほど悪い結果にならないことを繰り返し自分に納得させるというものだ。

(p.168)

 

 うつ病に関しては「うつ病患者は通常の人よりも現実認識に優れている(うつ病リアリズム)」という議論もあり、「ネガティブな事象の可視化」がうつ病の人にとって本当に役立つかどうかは私も半信半疑だ(逆効果になってしまう危険性もあると思う)。

 とはいえ、ストア哲学は、自分の思考や行動やライフスタイルをメタ的にコントロールすることを是とする思想であり、またその具体的な方法も提案している思想であることは、確かなようだ。となると、ストア哲学認知行動療法との間に類似性があることには納得がいく。

 

・第11章のテーマは、死や自殺などに関してだ。来世や天国や地獄などの存在を考えないらしいストア哲学では、「死」に関しては「死は避けられないのだから、いつか死ぬという事実を前向きに受け入れて、人生を充実させよう」的なさっぱりした考え方をするようだ。また、自殺や安楽死も状況によっては認めるそうなのだが、この点に関しては個人的には好感が抱ける。

 

・第12章は、怒りや不安や孤独などのネガティブな感情に関して。ストア哲学では、ネガティブな感情が生まれる原因となる状況や物事について別の言葉で言い換えるなどして捉え方や認識の仕方を変えるという、これまたメタ的な対処法が論じられている。以下では、ストア哲学はあまり関係ないが、コリン・カイリーンという学者が行なった議論を紹介している箇所を引用。

 

…(カイリーンは)疎外という極度に後ろ向きのものから、つながりという極度に前向きなものまでの社会の見方を、「疎外 - つながりの連続体」として提唱している。後ろ向きのものから順番に、疎外<>孤立<> 社会的孤立<> 孤独<> ひとりでいること<> つながりという連続体である。さらに、この連続体に彼が「選択の連続体」と名づけたものを重ねた。一方の端は選択していないことの結果(疎外、孤立)、もう一方の端は選択の結果(ひとりでいること、つながり)だ。

(p.204)

 

・第13章は愛と友情について。ここまでの議論で予測できるだろうが、ストア哲学では「愛があれば全てが許される」ということはなく、愛や友情についても距離を置いて冷静になることが推奨される。また、この章では「自然な感情に逆らう理性的で有徳な判断を実践できるようになるためには、何度も繰り返し練習をしなければならない」として、徳を身に付けることを車の運転やサックスの吹き方を覚えることと類似させている。このような「徳とは練習によって習得すべき"技能"である」という考えは、ジュリア・アナスの『徳は知なり』でも論じられていたことだ。

 

・最終章では、「自分の心像を調べる」「立ち止まり深呼吸をする」「自分自身をあまり話さない」など、ストア哲学を日常で実践するための方法が12個の格言にまとめられている。

 

*1:本の趣旨が微妙に違うため比べるのは酷かもしれないが、伝記的事実の比率が多過ぎるた『ギリシア・ローマ-ストア派の哲人たち-セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウス』に比べて、ずっと面白く読めた。先の記事でも文句を書いたが、日本の学者が哲学者の入門書を書くと、どうにも哲学専攻の学生にしか楽しめないタイプの本ができあがりがちな気がする

アダム・スミスは現代社会を嫌がりそう(読書メモ:『スミス先生の道徳の授業』)

 

スミス先生の道徳の授業 ―アダム・スミスが経済学よりも伝えたかったこと

スミス先生の道徳の授業 ―アダム・スミスが経済学よりも伝えたかったこと

 

 

 経済学の祖であるアダム・スミスの主著といえば『国富論』だが、この本ではもう一つの代表作である『道徳感情論』の中身をわかりやすく解説して、現代の世界における我々の生活に『道徳感情論』の知見はどう関係するかということも論じられている。

 基本的に紹介する内容を『道徳感情論』のみに絞っているので話があちこちに飛ぶこともなく、また現代社会における諸々の事例を挙げながら解説してくれるので、『道徳感情論』で述べられている知見の面白さや意義なんかも伝わりやすい。一人の思想家に絞った哲学の入門書は幾多も出版されているが、その中でもかなりクオリティが高い方だと思う*1

 

・第8章「世界をよりよいするところには」では、道徳規範の発生の起源について論じられている。著者は、道徳規範の発生を言葉の発生になぞらえて論じている。現代の社会でも気が付いたら新語が発生して定着することがあるが(「ググる」など)、それはどこかの権力者や組織などが「この単語を新語として認定する」と言って決められるものではなく、人々が自然とその単語を使っていきその単語の意味もなんとなく理解されることで定着していくものである。そして、道徳の決まり方も言葉の決まり方と同様である、と著者は(アダム・スミスの口を借りて)説く。

 

私たち一人ひとりの行動は、積もり積もって道徳規範や信頼関係を、ひいては市民社会を形成するけれども、誰ひとりとしてそのような結果を望んでいるわけではない、と先生は見抜いていた。それどころか、そうした結果は自然にもたらされる。誰も、自分の行動で社会がよくなるとか社会を変えられるとは思っていない。思っていないけれども、結果的にそうなる。

(p.210)

 

世界をよりよいところにする方法は、たくさんある。ノーベル平和賞の対象になるような非営利組織を設立するのもいいだろう。政治家になるのも、一つの方法だ。だが、私たち一人ひとりの小さな行為にも大きな意味があるのだとスミス先生は語っている。そうした行為に派手さはないが、大勢がひっそりと行う行為が積み重なれば、信頼と尊敬の文化という大きな成果につながる。

(p.229)

 

世界をよりよいところにしたいなら、信頼される人になり、信頼できる人を大切にすることだ。よき友になり、良き友を大切にすることだ。他人の悪口は言わず、他人を貶めるジョークには笑わないことだ。そうした小さな一つひとつのふるまいが、自分の手の届かないところにいる人にもそうしたふるまいを促すことになる。よき人であることは、かくも大きな影響力があるのだ。

(p.230)

 

 余談だが、『殺人ザルはいかにして経済に目覚めたか?』という本では、スミスが『国富論』で述べたような「分業」と「交換」による経済の発展の前提には、初対面の人間同士でも経済行為が成立するための信頼が発展する必要があった、ということが論じられていた。この本とつきあわせて読んでみると面白いかもしれない。

 

・スミスは、幸福になるためには「愛される人になる」ことが最も重要だと論じたそうだ。他人との関係や他人からの評価が自分の幸福に直結するという考え方は、現代的な観点から言ってもなかなかリアリティがあって的を得ているように思われる。また幸福とは愛される人になることだ、という考え方は「なぜ道徳的にならなければならないか?(Why be moral ?)」問題への答えにも直結する。幸福になりたいなら、人から愛されるような道徳的な人間にならなければならない、ということだからだ。

 

・愛されること、に並んでこの本で強調されるのが「中立な観察者」というキーワードだ。この単語はスミスが『道徳感情論』で行った議論の中核になるものとして有名で、独立したWikipedia記事にもなっていたりする*2。また、第4章の「自分をだまさずに生きるには」では自己欺瞞が取り上げられている。自己欺瞞というテーマは現代の心理学や行動げ経済学でもよく注目されて面白い研究結果が色々と出ているテーマである。

 

・第7章の「よき人になるには」では、他人から愛されるような「徳」を備えた人とはどんな人であるか、ということが論じられる。スミスは「思慮」「正義」「善行」を三大徳と見なしていたらしい。そして、思慮のある人とは、慎重で考えなしな行動をしない人であり、そして、謙虚な人である。以下の引用文がスミスの考える「思慮深い人」の具体例であるが、これを読むと、大言壮語ばかりで中身の伴わないベンチャービジネスが華やかしく、自分を誇示することしか能のないインフルエンサーたちが憧れの的になる現代で「思慮深い人」を讃えることはなかなか時代に逆行している感もある。

 

思慮深い人は、巧妙な詐欺師のように悪知恵を働かせたり、学者きどりで傲慢な態度をとったり、底の浅いあつかましい偽善者のもっともらしい口上で人を欺いたりはしない。実際に持っている能力でさえ、けっして誇示しない。世間の注目を集め名声を得ようとして人々が用いるあやしげな手口はことごとく嫌い、飾り気なく謙虚に語る。

(p.173)

 

・第1章で出てきた、気の利いた文章。

 

人生から最も多くを得るとは、賢い選択をするということだ。そして選択をするときには、この道を選んだらあの道は選べないとわきまえ、自分の選択は他人の選択に影響をおよぼし、他人の選択は自分の選択に影響をおよぼすと知っていなければならない。これこそ、経済学のエッセンスである。

(p.21)

 

・第5章「愛されるには」では、以下のような文章が出てくる。

 

テクノロジーを巡るスミス先生のすぐれて現代的な指摘の一つは、人々が高度な機能にこだわる割には、その機能を実際に役立てていないことである。

(略)

“時計に凝る人が必ずしも他の人より時間に几帳面だとは限らない。また、何か別の理由からいまが何時何分かを熱心に知りたがるわけでもないだろう。この人にとって関心があるのは、時刻を知ることよりも、時刻を知らせる機械が完璧であることなのだ。”

そして先生は、あたらし物好きにぴしゃりと一撃を喰らわせる。

 “たいして役に立たないつまらないものに無駄金を投じ、財産を減らす人がどれほど大勢いることだろう。この手の玩具に目がない人にとっては、効用そのものより、効用を増やすようにできていることがうれしいのだ。そして、役立たずの小道具をポケットに詰め込み、さらにふつうの服にはついていないような新種のポケットまで工夫して、もっとたくさんの品物を持ち歩こうとする。”

 

いやはや、「役立たずの小道具をポケットに詰め込む」とは、言い得て妙である。…

 (p.108-109)

 

 これに続く文章では、著者は現代社会の"たいして役に立たないつまらないもの"の象徴としてiPhoneを取り上げている。

 顕示的消費は昔からあったのだろうが(スミスの時代には、金持ちは上等な爪切りや耳かきを持ち歩いて自慢していたそうだ)、現代はそれが激化し過ぎているために、せっかく社会全体が昔に比べて豊かになっているのに人々の幸福感が減ったりするなどの悪影響をもたらしてしまっている(以前の記事でも紹介したが、顕示的消費の悪影響はロバート・フランクという経済学者が『幸せとお金の経済学』などで論じている)。私自身は、PCやスマホやイヤフォンなどの性能にはこだわらないし服や小道具は安いものしか買わないし車は持っていないしで、幸いにして顕示的消費をするタイプではない(顕示的消費ができるだけの収入を得ていないと言うことだが)。しかし、周りの人間に服やスマホの自慢をされて鬱陶しく感じることはあるし、世間の人々が車の種類とかレストランの立地や値段にこだわっているのを見聞してうんざりしたり呆れたり物悲しくなったりすることは多々ある。

 謙虚の美徳が疎んじられて人々が自己顕示に駆られるこの現代社会を見ると、スミス先生も良い気持ちは抱かないだろう。おそらく。

 

・人は、有徳な人間になることよりも金持ちになったり権力者になることを目指してしまうものだ。人が物資的成功を追い求めてしまうのは、他人から「ひとかどの人物」としてみなされて評価されたい、という欲が人間にはあるからだ。前述したように、幸福になるためには他人からの評価が必要となる。そして、金をいっぱい持っていることそれ自体は幸福に直接つながらないとしても、金持ちであることで人から羨望という評価を得ることは、幸福につながるかもしれないのである。

 有名人になることを目指すのも、同様の理由からだ。有名人は、やることなすことが注目されて、よっぽど馬鹿げたことをやらない限りは何をしても好意的な評価をもらえたり羨望のまなざしを受けたりすることができる。われわれは、セレブリティというものに対して異様に弱いのだ。

 

…世間が重んじるのは金持ちであり、著名人であり、権力者であって、必ずしも賢者や有徳の人ではない。先生もそれに気づいていた。

“だが世間を知るようになると、知恵と徳だけが尊敬されるわけではないし、悪徳と愚考だけが軽蔑されるわけでもないことにすぐに気づく。知恵や徳を備えた人より富と権力を備えた人の方が尊敬の眼で見られる例はめずらしくない。”

(p.115-116)

 

 逆に言えば、身の回りの人から充分な評価を受けている人(または、身の丈にあった評価で満足できる人)は、わざわざ金持ちや有名人を目指したりはしない、ということだろう。つまり、もともと徳のある人や「足るを知る」な心穏やかな人は有名人や金持ちにはならず、そうではない奴が有名人になったり金持ちになったりするということだ。そう考えると、どんどんうんざりしていく。とはいえ…

 

スミス先生によれば、金持ちになりたいとか、有名になりたいとか、欲張りにも両方になりたいといった野心は、毒である。この毒を飲んではいけない。いったん野心の踏み車に乗ってしまったら、もはや休むことは許されない。

(p.132)

 

お金自体はけっして悪いものではない。だが、お金のためにお金を追求する愚を犯してはいけない。慎ましく暮らすのがいちばんだ、友よ。

(略)

世の中には、自分よりゆたかな人、自分より才能のある人、自分より有名な人が必ずいる。しかし真にゆたかな人とはどういう人か、とユダヤ教の律法タルムードは問う。それは、自分の運命に満足する人である。スミス先生が言うように、自分の内に名声欲という衝動が潜んでいるということをわきまえたなら、持てるもので満足することが少しは楽にできるようになるかもしれない。

(p.133)

 

 要するに、他人からの評価を得て幸福になるためには「金持ちになったり有名になったりすること」と「知恵と徳のある人間になること」の二つの道があるが、前者の道は茨の道である、ということだ。

 

・他人から慕われるためには「周囲の人の期待を裏切らない適切なふるまい」をすることが大切であり、適切なふるまいとは、周囲の人の感情や経験を是認して、それに共感することであるそうだ。たとえば、相手がジョークに爆笑したら、それを是認して同調することなどである。

 …どうでもいいことだが、私は周囲の人々の感情に同調することがかなり苦手なので、スミスの言う意味での「適切なふるまい」を実践することがほとんどできない。同調するどころか反発してしまう傾向がある。自分がさほど面白くないと思っているコンテンツを周りの人が面白がっていたら、周りの人もそのコンテンツもどんどん嫌いになってしまう、というタイプなのだ。こういうタイプの人は私の他にもいるだろうけれど、みんな人生に苦労していると思う。

 

・第9章ではイデオロギーの有害性が扱われており、最終章である第10章では例外的に『国富論』に焦点が当てられて現代のグローバル経済の意義が取り上げられているが、それまでの章に比べてこの二つの章はやたらと凡庸で面白くなかった。社会という抽象的でマクロな事柄よりも、スミス自身が様々な人々を観察して考えたミクロな道徳についての文章の方がやっぱり味わいがあって面白いものだ。

 モラリストとは、現実の人間を観察することで「人間とは何か」を考えた人たちのことだ。基本的にはフランス語圏の思想家たちを指すことが多いらしいが、古代ギリシャ英語圏にもモラリスト的な議論はフランスに負けず劣らず存在しているものである。

*1:日本では様々な哲学者の入門書が新書形式でたくさん出版されているのはいいのだが、その哲学者の著作の内容や伝記的事実が淡々と紹介されているだけのものが大半で、「その思想のどういうところが面白いか」とか「その思想は現代の我々にどのような関係があったり、どのような役に立つか」ということを論じてくれる本はかなり少なく、常々不満を抱いている。

*2:ググってみると、アマルティア・センが取り上げたことで改めて注目されるようになったキーワードらしい。

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読書メモ:『もてない男 - 恋愛婚を超えて』

 

もてない男―恋愛論を超えて (ちくま新書)

もてない男―恋愛論を超えて (ちくま新書)

 

 

 ちょうど20年も前の本だが、いまも続く「非モテ論」の先駆けとなった本のようだ。

 

・基本的には主流派のフェミニズム理論を批判しているが、著者の批判の対象は、女性のフェミニスト学者以上に男性のジェンダー学者であるように思える。たとえば、この本が出る前に別の本に収録された著者の「もてない男」論に関して、"そのほか、「男フェミニスト」からの反発ないし批判があって、これがいちばん訳がわからなかったし、答える必要もないほどぐちゃぐちゃな理屈であった。"(p.106-107)など。また、「童貞であること」を論じた第一章のなかには、次にような一説がある。

 

「とにかく男と名のつく者が、必要な場合には自分が教え手となることもあるのに、無経験でいるということは滑稽ではないか」。こういう発想全体に対して「男らしさなどというものにこだわるな」とか言うのが「男性学」者なのだが、男性学者にせよフェミニストにせよ、「四十過ぎまで童貞でも恥じることはない」とはあまり言ってくれない。じつは彼らは心の底でそういう男を軽蔑しているからだ。(p.38-39)

 

 実際、現代の「男性学」者たちの言説も、そもそもからジェンダー論に理解があったりフェミニスト的な考え方をしている男性以外にはほとんど響いていないし、むしろ反発を生じさせるものが多いような気がする。「男らしさにこだわるな」という言説は正論であるかもしれないが正論であるだけで役に立たない言説ではあるし、そんなことをいけしゃあしゃあと言ってのける奴はなんとなく信用できない、というのは今でもあるような気がする。

 もっと面白いのが、次の文章。

 

さらに私が不快なのは(もうかなりやけくそになっているが)「男フェミニスト」どもである。というのは、私の妄想かもしれないが、「男フェミニスト」には、いい男、もてそうな男が多いような気がするからである。やけくそだから実名を挙げるが、森岡正博瀬地山角宮台真司、井田広行(写真を見るかぎり大したことないのだが、「いい男」という声あり)など。私は邪推するが、彼らはきっと「女にもてる」のであろう。それで、「俺は女の扱いがうまい」から「女を理解している」と幻想し、「結婚なんて制度だから」とか言いつつ事実婚していて、フェミニスト的なことを言っていると女もさらに喝采してくれて、みたいな環境にいるのではないか。彼らは私のように、恋愛がうまくいかなかったりして女への怨恨を内攻させることもなし。逆に、フェミニスト的なことを言うともてるんじゃないか、という予測も成り立つ。確かにある程度それはある。だが、根がもてない男はそのうち破綻を来してしまうものである。(p.111-112)

 

・第六章では「強姦」が取り上げられるが、筒井康隆が1975年に『太陽』という雑誌に書いた、当時起こった大学教授二人による教え子強姦事件の被害者を非難する文章は、現代の価値観から読んでみるとちょっと信じられないくらいひどい。当時としても、かなりひどい部類だと思う。筒井康隆は最近では慰安婦像をめぐるツイートで炎上していたが、昔から下品で非倫理的なことを書いていたものだなと思った。最近の炎上を見て「失望した」「ファンをやめた」と書いていた人がちらほらいたが、昔から、擁護する価値のない作家であっただろう。

 

・結婚制度を批判したり事実婚を推進するフェミニズムは「エリート・フェミニズム」であるという指摘(p.110)は、現代的な論点を先取りしていて慧眼だと思った。

 

・20年前の議論であり、またネット上の文章ではなく書籍ということもあるだろうが、昨今の殺伐とした「非モテ論」に比べるとこの本に書かれている内容はだいぶ牧歌的だ。女性嫌悪も、さほどのレベルではない。著者は東大の大学院に進学して「才色兼美」な女性たちを何人も見てきたそうだが、仮に自分が相手にされないとしても、いわゆる"レベルの高い"女性たちと知り合っていると自ずと敬意とか憧れとかが湧いて、本格的な嫌悪には至らないものなのだろう。

読書メモ:『日本恋愛思想史 - 記紀万葉から現代まで』

 

日本恋愛思想史 - 記紀万葉から現代まで (中公新書)

日本恋愛思想史 - 記紀万葉から現代まで (中公新書)

 

  

 第一章の章名が「恋愛輸入品説と十二世紀西欧の発明説」など、全体的に全体的に「恋愛は明治期に輸入された」という種類の議論には批判的で、古来から日本人は「恋愛」についてどんな考えを抱いてきたか、ということを古代までさかのぼって文芸作品を中心に参照しながら論じていく本である。

 大量の本が次々と参照されて、それらの本において恋愛や男女関係はどのように書かれているかが紹介されていく。なので、特定の箇所を引用して評するのは難しいタイプの本だ。しかし、全体的に安直な文化論に陥っておらず、文化論や本の解釈でありがちな間違いを避けようとする知恵がところどころに感じられてそこが良かった。一部紹介しょう。

 

 そもそも、ひとくちに日本文化といっても、同時代であっても公家と武士と町人と農民とのそれぞれにおいて、全く違う文化が並行して存在している。研究書のレベルであれば流石にこの程度のことは意識されるが、通常の会話や諸々のメディアに載る文化論ではこの程度の基本的なことですら忘れられがちである。

 

 信長時代の日本を訪れたルイス・フロイスが「日本の娘は少しも貞操を重んじない」と書いたことは有名であり、このことが当時の日本と西洋との性道徳の違いを示す根拠とされることも多いが、著者によると、そもそもフロイスは青年になる前にヨーロッパから離れて帰ってきていないので、フロイスの方がヨーロッパの女性に幻想を抱いていた可能性がある。

 

 中近世の文芸で女性が性に積極的に描かれている場面があると、フェミニズム的な批評では「女性の自立性が描かれている」などと行為的に解釈される場合が多い。しかし、たとえば近世の文学では「もてる男」が英雄と見なされており、主人公に言い寄ってくる女性は主人公を引き立てるための装置に過ぎず、むしろそういう描写は女性蔑視の表れだったりする。

 

 なお、この本のなかでは「あとがき」の上野千鶴子批判がいちばん面白かった。

 

ところが上野は、こんなことを言う。

 

“『負け犬の遠吠え』の男性版が書かれないのはなぜでしょうか?それは「男に選ばれる」ことが女性のアイデンティティの核をなしているから、そしてその逆は男性には成り立たないから、と言う説があります。ほんとうでしょうか。

(略)

「負け」を認めたくない男性にとっては、自虐的な肖像をこれでもかと見せつけられる本など読みたくない、したがって本を書いても売れないだろうという見通しもあるでしょう。”

 

そして結論は、

 

“男性に問題に直面してもらうほかないのですけれど、彼らはいつまで「見たくない、聞きたくない、考えたくない」という「男らしい」態度を続けるのでしょうか。”

 

どうやら上野は、男は負けたことを認めたがらない生き物だから、『負け犬の遠吠え』の男版はない、として、現実は理論に従うとばかり、『もてない男』も本田透電波男』(二〇〇五)も、樋口康彦『崖っぷち高齢独身者』(二〇〇八)も、この世に存在しないことにしたいらしい。これはかつて、ソ連には社会的矛盾は存在しないから売春は存在しないと主張したスターリニストと同じである。上野は『おひとりさまの老後』(二〇〇七)で「ごろにゃんする相手くらい確保しておきたい」などと書いてから、もはやお笑いの人と化していたのだが、ここまで来るとお笑いというより、フェミニズム恋愛論の無残な末路と言うほかない。(p.213-214)