道徳的動物日記

人々の議論を眺めながら考えたことや読んだ本の感想など。このブログは利益や金銭目的ではなく人々に対する啓蒙のために書かれています。ありがたがれ。

大学受験の正義論(読書メモ:『これからの「正義」の話をしよう』)

 

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

 功利主義やリバタニアリズム、カント主義やロールズ主義などの様々な政治規範理論の要旨を、当時のアメリカ社会で起こっていたことを中心に様々な事件や社会問題を具体例として挙げながら解説する本である。一昔前に話題になって、大ベストセラーになった本だ。…しかし、たしかに解説はわかりやすいのだが、各理論を紹介する切り口やまとめ方に特にオリジナリティが感じられる訳ではない。本の終盤の第9章や第10章ではコミュニタリアンとしてのサンデルの意見が強調される形になるが、本の序盤における功利主義やリバタニアリズムなどの紹介の仕方はかなりあっさりしている。規範理論についてある程度勉強している人であれば、つまらなく思える本だろう。

  とはいえ、面白く読めた箇所ももちろんあった。

 特に第6章の「平等をめぐる議論 :ジョン・ロールズ」については、私がここ最近ロールズの出てくる議論を読んでいなかったということもあって、わりと新鮮な気持ちで読めた。

 

 以下の引用箇所については、今年度の序盤に話題になった、上野千鶴子による東京大学の入学式祝辞を思い出した。

 

…しかしロールズは、努力すら恵まれた育ちの産物だと言う。「一般的な意味での報酬を得るために努力し、挑戦しようとする姿勢でさえ、幸福な家庭と社会環境に依存する」。その他の成功要因と同様に、努力も自分ではどうにもできない偶然性の影響を受ける。「進んで努力しようとする意志が、その人の持って生まれた能力やスキル、利用可能な選択肢の影響を受けることは明らかであるように思われる。才能に恵まれた者は、ほかの点では平等でも、真面目に努力する傾向が強い……」

私の授業で、ロールズのこの見解を取り上げると、多くの学生は憤然として反論する。ハーヴァード大学に合格したことを含め、自分がこれまでに成し遂げてきたことは自分の努力の成果であり、自分にはどうにもできない道徳的に恣意的な要因によるものではない、というわけだ。何であれ、人間には自分が努力して得たものを受け取る道徳的資格はないとする正義論は、疑いの目で見られることが多い。

私は努力についてのロールズの見解を取り上げるとき、いつも最後に非科学的な調査を行うことにしている。心理学者によれば、生まれ順は本人の勤勉さや地道に努力する傾向に影響を与えると言う。ここにはハーヴァード大学に入学するための努力も含まれる。長子は第二子以下の子供よりも労働意欲が高く、稼ぎも多く、一般的な意味での成功を収める確率が高いとされる。この種の調査は議論を呼んでおり、私自身もこうした調査結果が正しいかどうかはわからない。しかしほんのお遊びとして、長子の人は手を挙げてほしいと呼びかけると、約七五〜八〇パーセントの学生の手が挙がるのだ。いつ調査しても、この結果は変わらない。(p.206-207)

 

 続く第7章「アファーマティブ・アクションをめぐる論争」でも、たまたま環境や能力に恵まれたから良い大学に行けたり社会的成功を収める人と、そうではない人とがいることについての、規範的な問題が取り上げられている。例えば、ウディ・アレンの映画『スターダスト・メモリーズ』における、コメディアンのサンディとタクシー運転手のジェリーセリフが以下のように引用されている。

 

サンディ:要するに、俺たちは冗談が高く評価される社会に住んでるんだ。こう考えたらいい……(咳払いをする)俺がアパッチ・インディアンの村に住んでるなら、コメディ映画なんて誰も観やしない。そうなったら俺は失業さ。

ジェリー:だから何だい。そんなこと言われたって、ちっとも気分は晴れないよ。

 

名声と富の道徳的恣意性に関する映画監督のコメントは、タクシー運転手の心には響かなかった。自分の人生がぱっとしないのは運が悪かっただけだと言われても、彼の苦悩は減らない。それはおそらく、実力主義の社会ではほとんどの人が、世俗的な成功と自分の価値を同一視しているからだろう。

(p.213−214)

 

「恵まれた環境に生まれ育ったかどうか」ということは意識されても、「自分の特質や能力が、その社会で評価される資質や能力と、たまたま一致しているかどうか」という要素はついつい忘れがちだ。平等や公正について考えることについては、このような"運"の要素について検討することの重要性はこれからもますます上がってくるだろう。

 

 ところで、私は上述の議論も上野千鶴子の東大祝辞もまったくの正論だと思っているのだが、SNSなどにおける諸々の反応を見てみると、予想以上に批判意見が多かった。普段であれば比較的リベラル的な意見や物分かりの良い意見を言うタイプの人であっても、上野千鶴子の東大祝辞にはかなり批判的になっている場面もちらほらと見かけた。

『これからの「正義」の話をしよう』でも話題に挙がっている通り、アメリカの大学入試は両親がOBであるかないかとか寄付金の多寡によって受験者でも入学の可否が左右されることがあるなど、なかなか不公平な制度として有名だ。それに比べると、ペーパーテストの点数さえ良ければ他の要素を無視してどんな受験者でも一流大学に入れる可能性のある日本の大学受験制度は公平である。昨今はAO入試を拡大したり人物評価を受験に導入しようとする流れが強くなっているが、「公平性を損なうものだ」としてその流れに反対する意見も根強くある。

 しかし、公平性を評価するために検討に入れる要素の射程を広げてみれば、ペーパーテストの点数のみを考慮する制度であっても、およそ公平とは言えなくなる。大学受験において重要となる科目(英語や数学など)に適性があるか否か、落ち着いて勉強に集中できる場所やモチベーションが得られる環境であったか否か、家庭環境や生まれ順や生まれつきの知能などなどが関係してくるからだ。…もちろん、こんなことを言い出したらキリがないのはわかっている。だから、公平性を評価するための検討要素にはどこかで制限を設ければならない。とはいえ、「いま"公平"とされている制度は本当に公平なのか?」「いまの制度で評価されずに、こぼれ落ちているものはないか?」ということも常に考えていかなければならないだろう。

 日本の受験制度はおおむね公平なものであるとは私も思うが、センター試験の点数や受験勉強の思い出を後生大事にしてフェティシズム的な執着を抱いている人をネットでもリアルでもよく見かけることは確かだ。そういう人たちは受験制度(そして、その受験制度のなかで頑張ってきた自分の努力や達成)に過剰な思い入れを抱いていることは否めないだろうし、「日本の大学受験制度は公平で素晴らしい」という言説も大体はそういう人たちが作って支えてきたものであるだろうから、素直に賛同できない気持ちがある。要するに、大学受験という人はあまりに多くの人が経験している(それも、青春時代の最も多感な時期に経験している)ために、大学受験に関する議論や言説から「思い入れ」という要素を排除するのは難しいということだ*1

 上野千鶴子の東大祝辞を批判していた人たちについても、少なくともその一部は、大学受験に対する自分の思い入れやが否定された気になって、その反発として批判していたように思える。…この記事の結論は特にないが、私の見立てが当たっているとしたら、なんともわびしいというか世知辛い感じがする。

*1:大受験について語ることのややこしさや、受験というものについて人が抱いているドロドロした気持ちなどについては、小田嶋隆の『人はなぜ学歴にこだわるのか。』で印象的に描写されている。

 

人はなぜ学歴にこだわるのか。 (知恵の森文庫)

人はなぜ学歴にこだわるのか。 (知恵の森文庫)