道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

倫理学の理論や知識と、実際の生活との齟齬や乖離について(読書メモ:『哲学者とオオカミ』)

 

哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン

哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン

 

 

 哲学者である著者がオオカミの子どもを引き取って「ブレニン」と名付けて、アメリカやアイルランド、イギリスにフランスと居住地を変えながらもずっとブレニンと暮らし、ついにブレニンが臨終する際までの生活の記録…を軸としながら、ブレニンとの交流や観察を通じて培われた著者の思索の記録もふんだんに書かれており、様々なテーマについての哲学的エッセイという趣もある本だ。

 オオカミを観察することによって動物と人間との違いを再認識して、そこから「人間とは何か」「愛とは何か」「文明とは何か」といったことを改めて考えていく、という構成である。また、哲学のなかでも「道徳」や「幸福」や「人生の意味」など、倫理学的なテーマについての思索が中心となっている。

 なにかしらの動物との交流を綴ったエッセイというものは世にあふれているし、単なるエッセイにとどまらず著者たち独自の「哲学」を展開するということも珍しくない。しかし、この本の特徴は、もとから大学で哲学の博士号を取得している、オーソドックスな意味での「哲学者」が書いていることだ。そのため、哲学的思索を展開する際にも従来の倫理学理論への目配りを忘れないし、過去の哲学者たちの思想の引用の仕方もバランスが取れていてそつがない。また、現代の英語圏の哲学者らしく、進化論や生物学の基礎もちゃんと理解しており、トンデモ理論を引用してしまうこともない。…とはいえ、言うまでもなく、大半の哲学者はオオカミと共に暮らしたことがない。だから、ベースとなる知識や理論はスタンダードなものなのに、そこにオオカミ(と暮らした経験)という異物が混入することで、なかなか奇妙で独自な議論や思想が展開されることになっているのだ。

 さらに、著者がラグビーとパーティーの大好きな体育会系の男であり、酒豪であって、若い頃はプレイボーイであったという点も見逃せないだろう。哲学や倫理学というものは、論理的思考ができる人であれば誰にでも話の筋道が追える合理的な議論によって客観的な概念分析なり理論なりにたどり着く、というのを一応の目標にしてはいる。しかし、議論を行う人の人生経験や人柄によって議論の筋道や結論が変わってくる面があることは否めない。学者というものはどうしてもインドア派になりがちだし、特に日本の学者は総じて生真面目でなよっとした人になりがちな傾向があるが、この本の著者はかなりワイルドな人だ。倫理学の議論を属人化して考えるのは好ましくないことも多いのだが、本の終盤で著者が展開しているエピクロス的(快楽主義的)な幸福論や人生論には、やはり著者の人柄が透けて見えるような気がする。

 

 そして、著者は「動物の権利」についての著作もいくつか出版している。

 

 

Animal Rights: A Philosophical Defence

Animal Rights: A Philosophical Defence

  • 作者:Mark Rowlands
  • 出版社/メーカー: Palgrave Macmillan
  • 発売日: 1998/08/10
  • メディア: ハードカバー
 

 

 

Animal Rights: All That Matters

Animal Rights: All That Matters

  • 作者:Mark Rowlands
  • 出版社/メーカー: Teach Yourself
  • 発売日: 2013/05/31
  • メディア: ペーパーバック
 

 

 上記の本はまだ私は読んでいないが、『哲学者とオオカミ』のなかでこれらの本に触れられている部分を読んだところ、どうやら、ロールズ的な社会契約論をベースとして動物の道徳的権利を主張している本であるようだ。

 だが、著者は、自分が著作で行なっている主張と実際に自分が実践している生活との齟齬や乖離についても正直に書いている。長くなるが、引用しよう。

 

 …もし、わたしが原初状態(先述の本でわたしが新たに示した、原初状態のより公平なバージョン)にあるなら、肉を食べるために動物が飼養されるような世界は選ばないであろう。動物たちはみじめな生活をし、恐ろしい死で終わるからだ。それに、原初状態では、自分がどの種の動物であるかも無知のヴェールの背後になければならないので、わたしがこれらの動物の一種である可能性もある。原初状態にあるなら、このような世界を選ぶのは不合理である。したがって、そのような世界は非道徳的である。これはわたしの立場から見ると、いささか残念なことではあった。汁気たっぷりのステーキやフライドチキンを食べたくなるからだ。けれども、道徳は時には不都合な面もあるのだ。

わたしは一時は、完全菜食主義者ですらあった。道徳的に言えば、今もヴィーガンであるべきだ。これこそが、動物に対する唯一の徹底して道徳的な姿勢だからだ。でも、わたしは極悪非道の人間ではないにしろ、望ましいほど善人でもない。それで、ブレニンをもヴェジタリアンにすることで復讐しようとした。ところが、ブレニンはそれにはちっとも興味を示さなかった。わたしがヴェジタリアン・ドックフードだけを出したところ、あからさまに拒否した。誰がブレニンを責められよう。これをペディグリー・チャムの缶詰に混ぜていたら、事態は違っていたかもしれないが、もちろんそれでは、本来の目的と矛盾してしまう。とうとう、わたしたちは妥協した。わたしはヴェジタリアンとなり、ブレニンはペスクタリアン(魚、乳製品、卵を食べるヴェジタリアン)となったのだ。…

…(略)…ブレニンにダイエットを押し付けたのは、非道徳的だっただろうか。そうだと言った人はいた。けれども、それに代わる選択肢を考えてみよう。一日につき、肉をベースにしたドッグフードをカップ一杯と肉の缶詰一つを消費したとすると、ブレニンが一生をまっとうするまでに、数頭の牛が必要になったはずだ。…(略)…端的に言うと、この選択は、ブレニンのさほど重要でない利害と、数頭の牛の命にかかわる利害のどちらを取るか、という問題だった。そして、これが本質的には菜食主義の道徳的な論拠である。悲惨な生活や恐ろしい死を避けさせたい、という動物の命にかかわる利害の方が、ご馳走を楽しみたいという、相対的には些細な人間の利害よりも重大なのである。ブレニンがヴェジタリアンではなくて、ペスクタリアンだったことを考えると、新方式はマグロにはいささか過酷になった。それでも、マグロはウシよりははるかに良い生活をおくっている。少なとく、わたしは自分にそう言い聞かせた。

(p.147-149)

 

 自分が倫理学的な著作で行なっている主張を自分自身の生活では(完全には)実践できていない、ということをここまで明け透けに書ける人はなかなかいないだろう。哲学者や文学者の著作のなかには「完璧に正しい生き方なんてできっこないから、倫理規範なんて気にしなくて好きに生きていいんだ」みたいな主張を行なっているものはよくあるが、そういうものは単なる「開き直り」であってわざわざ読む価値がないものであることが多い。この本では、倫理規範は「守らなければならない」という意識があったうえでそれを守りきれないことについて葛藤する、という正直で誠実な思考過程が書かれているということがポイントだ。

 さらに、この本のあちこちで展開される著者の思索をまとめてみると、倫理学理論的にはあまり一貫性がないように思えることも特徴的だ。たとえば上述のようにロールズ的な「権利」論を展開する一方で、本の終盤では自分は「帰結主義者」であると明言している(p.197)。また、「本当に意味のある関係は、契約によってはつくれないことを知っている。そこでは、忠節心が最初にある。」 (p.153)として、社会契約的な公正さは見知らぬ他者との間においてのみ適用するべきであり、自分の家族やペットとの間には社会契約では捉えきれない別の道徳がある、そして時には正義よりも忠節を上に置いて見知らぬ他者よりも身近な者を優先する…という、この考え方は権利論的なものでも帰結主義的なものでもなく、どちらかと言えば徳倫理やケア倫理などに近いものだ。

 倫理学の理論書であれば、規範のベースとなる理論があちこちで異なることは、基本的には許されない。「このような領域では権利論を、あのような領域では帰結主義を適用するべきである」という風に複合的な理論だったり"状況に応じた"理論だったりを展開する理論書はあるだろうが、それにしたって、どのような場面でどのような理論に切り替えるべきかということについての基準は説明されなければならない。…主張の一貫性を保つことにこだわらず、基準の説明もしなくていいというルーズさは、理論書ではなく「哲学エッセイ」だからこそ許されることだ。

 そして、実際の生活と倫理学の理論との関係を描写するうえでは、このようなルーズさは利点にもなっている。帰結主義や権利論という風に理論化して考えている人は稀であろうが、大半の人の場合は、生きているうえで何らかのジレンマに衝突することで頭や心のなかに「道徳」についての考えが浮かぶことがあるだろう。そして、頭や心に浮かぶその考えも、それが浮かびだした場面や状況ごとに全く別の筋道のものになりがちなことはたしかなのだ。

 

  この本のもう一つの特徴は、道徳や人生についての考え方を便宜的に「オオカミ」的なものと「サル」的なものに分けていることだ。そして、基本的には「オオカミ」的なものが優れており「サル」的なものは有害で惨めなもの、という扱いになっている。

 たとえば、著者は「動物には道徳が理解できず、人間だけが道徳を理解できる」という一般的なイメージに反論する。そして、道徳というものは人間だけでなく犬やオオカミでも理解できる一方で、詐欺を行ったり陰謀を企んだり他者を自分の利益のためだけに操作したり無力化したりするという邪悪さは霊長類や人間にしか備わっていない、という議論が展開されるのだ。

 …しかし、たとえばマイケル・トマセロの著作では、他の動物には存在しない「互恵性」や「他者への援助」という概念が人間だけに備わっていることが説得的に論じられている。イヌ科動物の道徳感情には身内贔屓という限界があることも否定できないだろう。著者による「サル/オオカミ」の二分法にはロマンチシズムの嫌いがあり、人間に対して厳しい見方をしすぎており、動物や人間に関する科学的知見にもそぐわないものであるように思える。

 

 

 

ヒトはなぜ協力するのか

ヒトはなぜ協力するのか

 

 

 

 また、本の終盤で展開される、"イヌやオオカミはニーチェのいう「永劫回帰」を生きている"、という議論はなかなか印象的だ。

 人間はイヌと違って「時間」の概念を理解してしまえるがために幸福を味わうことができない、という主張も逆説的で面白い(通常は、「時間」や「将来」の概念を理解することで将来への投資を行えたり長期的な計画を立てられたりする人間の方が、動物たちよりも複雑で豊かな幸福を味わえる、と論じられるものだからだ)。

 

…わたしたちの人生の多くは、過去または未来に生きることに費やされる。たぶん、十分に努力すれば、オオカミがするように、現在を経験できるかもしれない。すなわち、過去の把持と未来の予持によってはほんのわずかにしか書かれていないものとして、現在を経験することを。それでも、これは人間が普通にする、世界との出会い方ではない。わたしたちの中には、そしてわたしたちがふつうにする世界の経験には、現在は消し去られてしまっている。しぼんで無になってしまっている。

時間的な動物であることには、多くの短所がある。明白な短所もあれば、それほどはっきりしない短所もある。明白なそれは、わたしたちが多くの時間、たぶん不釣合いに大量の時間を、もはや存在しない過去やこれから起こる未来に関わることに使うという点だ。記憶にある過去や望まれる未来は、わたしたちがお笑い草にもここ、現在とみなしているものを決定的に形づくる。時間的な動物は、瞬間の動物ができないような形で、神経症になることがあるのだ。

(p.245)

 

…わたしたちは策謀や嘘が成功したときに訪れる感情を求め、それが失敗したときにくる感情を避ける。一つの目標が成功するとすぐに、次のそれをさがす。常により良いものを求めてあがき、その結果、幸せはすり抜けていく。感情(わたしたちは幸せも感情の一つだと思っている)は瞬間の産物である。けれども、わたしたちにとっては瞬間はない。どの瞬間も無限に前後に移動するからだ。だから、わたしたちには幸せはありえない。

(p.249)

 

  ほかにも、臨終間際のブレニンの看病をめぐる「帰結」と「意図」との葛藤について描写した箇所も迫力があった。

 死に間際のペットの生命を生き永らえさせようとすることは、失敗すると、ペットの最期の日々を不幸で惨めなものにしてしまう。注射や投薬などをされることはペットにとっては苦痛なのであり、もしもそのペットが「飼い主が自分を助けようとしている」ことが理解できないなら「飼い主が自分をいじめている」と認識されてしまうおそれもある。治療の甲斐があってペットの病状が緩和したり健康になったりすればよいが、そうでなかったら、ただでさえ身体的な苦痛に苛まれているペットに対して精神的な苦痛を付け加えるだけの行為になってしまうのだ。帰結主義的には、無意味どころか非道徳的である。

 しかし、もし意図を重視するカント主義的に考えるなら、この行為も正当化できる(「ペットを助けようとする」という善い意図があるからだ)。普段は帰結主義を信奉している人でも、こういう時にはカント主義にすがりたくなる…ということである。