道徳的動物日記

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「表現の自由」の滑りやすい坂道?

 2019年の日本のネット論壇では、例年のごとく「萌え絵」や二次元キャラクターの性的表現、およびそのような表現を公共の場で展示することの是非、などなどが話題になった。
 毎年のように繰り返されている論争であり、今年も大して議論の進展があったように思われない。とはいえ、いくつかは有意義な記事が公開されたりもした。たとえば、社会学者の小宮友根氏が現代ビジネスに公開した記事では、萌え絵を問題視する主張の理路について比較的わかりやすい文体で丁寧に説明されていたと思う。

 

gendai.ismedia.jp

 

 だが、萌え絵「擁護」側の人たちはこの記事の内容にも満足いかず、全否定している人が大半であるようだ。

 

 私としては、そもそも、心情的には萌え絵「批判」側にほぼ同意している。しかし、自分なりにこの問題について少しは考えたいと思って、先日にはミルの『自由論』を読んだし、今回は『「表現の自由」入門』を読んだ次第だ。

 

 

「表現の自由」入門

「表現の自由」入門

 

 

…しかし、読み終わってから気付いたのだが、どうやら「萌え絵」に関する論争はそもそも表現の自由」に関する問題ではないようなのである。

 以前の記事でも書いたように、ミルの『自由論』で論じられている内容は基本的には「思想の自由市場」の発想を前提とした「言論の自由」であり、芸術表現や性的表現の自由についてそのまま当てはめられるものではない。
『「表現の自由」入門』では、ポルノグラフィについて扱った章があった。だが、ここで問題視されていたのは公権力によるポルノグラフィの「検閲」である。
 一方で、日本のネット空間で行われている萌え絵に関する議論は、萌え絵で表現されている価値観に対する市民からの「批判」とそれに対する反論であり、それ以上に、公共の場における展示の是非というTPOに関する議論だ。すくなくとも、現時点では検閲までには至っていない。

 

 とはいえ、萌え絵「擁護」側としては、萌え絵への「批判」が公権力による検閲を招き寄せることや、批判を理由にして各団体や各施設が自主規制を行うことで公権力が介在せずとも実質的な検閲状態が生み出される、ということなどを危惧しているのだろう。
 この危惧は、『「表現の自由」入門』においても「滑りやすい坂道」論法として指摘されている。
 そして、小宮氏の記事に対する批判も、この「滑りやすい坂道」の危惧を前提としたものが大半であるようだ。
 小宮氏の記事に付いたブクマコメやTwitterの反応などを見ていると「ある表現にはこのような問題がある」という指摘や批評について、そのような指摘の批評の妥当性について検討するよりも先に、指摘や批評がなされること自体を全否定するような反応が多く見られる。
 おそらく、その背景には「すこしでも批判側の意見に賛同して、"特定の場において特定の表現を展示しない"ことを譲歩してしまうと、今度はその"特定の場"や"特定の表現"の範囲がどんどん拡げられてしまう。だから、最初から一切譲歩せず、すべての表現をすべての場で展示することを認めさせるように要求するしかないのだ」という発想があるようなのだ。

 

 私としては、「滑りやすい坂道」的な発想は表現の自由に限らない大半の論点(安楽死など)において、現実的な着地点を見出すことの障壁となる不毛で極端な発想であると思っている。
 社会における問題について市民間で討議して議論を重ねることで解決策を見出すことが前提とされている民主主義においては、「滑りやすい坂道」の危惧は特に厄介なものとなるだろう。