道徳的動物日記

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「動物愛護はナチス」「ヒトラーはベジタリアンだった」についての雑感

 

ナチスと動物―ペット・スケープゴート・ホロコースト

ナチスと動物―ペット・スケープゴート・ホロコースト

 

 

 

 ヒトラーベジタリアンであったと言われるし、ナチス政権下でのドイツは当時としては先進的な動物保護法を制定したらしい。これを理由にして「動物愛護はナチスだ」「ヒトラーのような人間がベジタリアンだったのだから菜食主義は正しくない」みたいなことを言う人がたまにいる。

 

Was Hitler a Vegetarian? The Paradox of the Nazi Animal Protection Movement | Psychology Today

 

 

The Vegan Body Project: Hitler and Vegetarianism

 

 上記の二つの記事では、人間が動物に抱く心理について研究する心理学者ハロルド・ハーツォグと人文学者でありベジタリアンであるローラ・ライトがそれぞれに「ヒトラーベジタリアンだったか?」ということについて書いている。大学にて二人が共同で授業していた時に、この話題が持ち上がって論争になったらしい。

 ハーツォグは「ヒトラーは動物愛好家であったし、ベジタリアンであった」としている。ヒトラーは時にソーセージ等の肉を食べることがあったからヒトラーは「真のベジタリアン」ではない、という主張もあるが、それを言うなら現在のアメリカのベジタリアンの70%以上も時には肉を食べるのだ、と書いている。*1

 ライトは「ヒトラーが菜食主義を実践しようとしていたのは、動物に対する配慮ではなく、過敏性腸症候群の治療のために主治医に指示されたからだ。ヒトラーは好物のレバーやハト肉を食べ続けていた。また、ヨーゼフ・ゲッペルスは禁欲主義者としてのヒトラー像を大衆にプロパガンダしていて、ヒトラーは喫煙しない・酒を飲まない・肉を食べない・女に手を出さないと宣伝されていたが、実際には喫煙しないという点しか正しくなかった」などと主張している。

 二人の主張を見ると、ヒトラーベジタリアンであったかどうかはベジタリアンの定義次第であるように思える。ヒトラーは緩い意味でのベジタリアンではあったが、例えば現代の倫理的ビーガニズム(自身の健康ではなく、動物や環境への配慮を理由にして、卵や牛乳を含めた一切の畜産品と魚介類を食べない主義)の定義からは外れるだろう。

 

 ヒトラーベジタリアンであったか否かにかかわらず、ヒトラー自身が動物愛好家でありナチス政権下のドイツでは動物保護運動が盛んだった、とハーツォグは強調している。しかし、だから「動物愛護はナチスだ」と言っているわけではない。

第二に、ナチスの動物保護は、本来なら悪人である人たちでも動物に対して良いことをする、という一例を示している。このようなパターンの行動は稀であると私は思う。しかし、その逆…本来なら善人である人たちが動物をひどく取り扱うことは、ありふれている。例えば、アメリカでは年に1億5000万匹以上もの動物がレジャー目的のハンターによって傷つけられたり殺されたりしている。同様に、幼年期の動物虐待の大半は、後には正常な大人に育つ子供によって行われている(学校での銃乱射犯やシリアル・キラーの大半は子供時代には動物虐待をしていた、という考えは普及しているが、迷信である)。さらに、アメリカでは年に100億の動物が屠殺されている。哲学者のトム・リーガンが「フォークの専政」と呼ぶ事態である。

 

 

 関連するので付け加えると、チャールズ・パターソンの『永遠の絶滅収容所ー動物虐待とホロコースト』では、工場畜産に象徴されるような動物の管理と搾取・大量生産工場の原型となった屠畜場に見られるような合理主義や科学主義・生命の間に優劣を付ける世界観などがナチスによるホロコーストをもたらした、と論じられている。パターソンからすれば「動物虐待はナチス」だろう。

 

永遠の絶滅収容所―動物虐待とホロコースト

永遠の絶滅収容所―動物虐待とホロコースト

 

 

 私としては「動物愛護はナチス」的な主張にも「動物虐待はナチス」的な主張にも、どちらにも魅力を感じない。

 こういう話題については、山形浩生氏が『ナチスのキッチン』の書評で書いた、以下の文章が的を得ていると思う。

藤原『ナチスのキッチン』:せっかくの調査が強引なイデオロギーはめこみで台無し。 - 山形浩生の「経済のトリセツ」

 

その一方で、ナチスはとても便利な存在だ。あの異様な絶滅収容所の迫力はだれも文句が言えないし、何か文句なしの悪者が欲しければ、ナチスヒトラーを持ち出せばいい。そしてナチスは、公共事業もやったし軍の装備近代化もしたしメディアも利用したし健康配慮もしたし禁煙もしたしエコロジーもしたしオカルトもやったし制服にも凝ったしロケットもジェット機もやったしアウトバーンも作ったしVWビートルも作ったし産業政策もしたし、まあいろんなことをやっている。だから、どんなことでもやろうと思えばたいがいナチスにつなげて罵倒できてしまう。

 

 

ぼくらはそれでも肉を食う―人と動物の奇妙な関係

ぼくらはそれでも肉を食う―人と動物の奇妙な関係

 

 

 

*1:ハーツォグが主に参考にしている文献は、ボリア・サックスの著書『ナチスと動物ーペット・スケープゴートホロコースト』や、サックスとアーノルド・アルクの共著論文。共著論文については記事内のリンクは切れているし入手の仕方がわからないが、この記事で詳しく紹介されている。

Vegetarians, Nazis for Animal Rights, Blitzkrieg of the Ungulates

本題とは関係しないのを承知で付け加えておくと、サックスと論文の共著者であるアルクは、動物愛護に賛同的な立場である。

ピーター・シンガーの公式FAQ

 

 プリンストン大学のwebページに掲載されている、ピーター・シンガーの公式FAQを非公式に翻訳した。発展途上国への援助と寄付・動物の道徳的地位・障害のある乳児の殺害や安楽死など、シンガーの主張のなかでもよく取り沙汰されているテーマについて、本人によって短くまとめられている。

https://www.princeton.edu/~psinger/faq.html

  

 この webページは数年前のもののようであり、この後に主著の『実践の倫理』が第3版に改定されているなど、シンガーの倫理学的主張は細かいところでは変わっている可能性がある。とはいえ、現在でも大体の主張はこのFAQに掲載されている通りのものだろう。理論の根拠付けや詳細などは『実践の倫理』で議論されているので、そちらを参照するべき(英語が読めるなら、まだ翻訳が出ていない第3版が望ましい)。

 最後に著書の紹介があるが、情報が古かったので翻訳は省いた。

 

 

Practical Ethics

Practical Ethics

 

 

1.富裕と貧困

 

Q:あなたは、世界の発展途上国の最貧困層の人々を援助する団体に寄付することのできるお金を贅沢品に使ってしまうことは不正である、と主張しています。しかし、私たちは自国の貧困層のことを先に考えるべきではないですか?

 

A:私たちは、最も効果がある場所にお金を送るべきです。たまたま私たち自身の国の国境の中で暮らしている人を優先することについて、しっかりした道徳的理由は存在しません。場合によっては、彼らが私たちから近いところにいて同じ政治システムの中で暮らしているために、我々が最も効率的に援助できる人たちは同じ国の人たちである場合があります。しかし、多くの場合はそうではありません。もし私たちがアメリカ合衆国のように豊かな国で暮らしているなら、発展途上国で働いている団体にお金を寄付したほうが、お金ははるか遠くまで行ってずっと多くの人を助けることになります。世界人口の6分の1が、1日に1ドル以下相当の購買力で、日々を生き延びています。この話題についての詳細は、ニューヨークタイムス紙の記事「The Singer Solution to World Poverty」や著書『グローバリーゼーションの倫理学』の第5章を参照してください。(訳注:このFAQ以降に発売された『あなたが救える命』や『あなたが世界のためにできる たったひとつのこと <効果的な利他主義のすすめ>』も、主に援助や寄付に関する本である)。

 

Q:あなたは質素な生活を送って収入の大半を貧困層に寄付していますか?

 

A:私は自分がやろうと思えばできるような贅沢な暮らし方をしていませんが、道徳的に認められる以上に自分の欲求を満たし過ぎてはいる、ということは認めなければいけません。私は収入の約25%をNGOに寄付しています。主に、貧困層がより良い生活を送れるように援助している団体です。収入の25%が、私が寄付すべき金額と同等であるとは主張しません。私が寄付を始めてから30年ほどが経っていますが、私は寄付する金額を少しずつ増やしていますし、これからも増やしつづけます。

 

Q:具体的には、どの団体に寄付していますか?

 

A:主に、オックスファム・インターナショナルに属する団体に寄付しています。アメリカでは、オックスファムアメリカのことです。

 

Q:世界人口があまりに多くなり過ぎている、という問題がある中で、人々を生かすことは長期的にはどのような助けになるのでしょうか?

 

A:ある人々は本人たちが必要とするよりもずっと多くのお金を持っているのに他の人々は必要な分のお金も持っていない、ということよりも、世界人口が増えすぎていることのほうが重要な問題であるかどうかは明白ではありません。しかし、これは大きな問題なので、この場ではこれ以上追求しません。世界人口が増え続けることはやがて災いをもたらすだろう、ということには同意します。出産数を減らすことが証明されている一つの方法は、貧困者(特に女性の貧困者)に教育を与えるということです。初等学校教育を1年か2年受けただけの女性でも、一切教育を受けていない女性より子供の数は少ないです。ですから、援助を増やすことは出産数を減らします。しかし、もっと直接的な方法での人口問題の対処に貢献したいとあなたが望むなら、国際家族計画連盟やDKTインターナショナル(訳注:国際的に家族計画とHIV予防を推進する団体)に寄付することができます

 

2.動物の解放

 

Q:あなたは人間と動物は平等であると考えている、と聞きました。人間には動物よりも多くの価値があるわけではない、とあなたは本当に信じているのですか?

 

A:『動物の解放』の序章で、ある存在が人間であるという事実はその存在の持つ利益を他の存在の持つ同様の利益よりも優先すべきであることを意味しない、と私は主張しました。ある存在を人間であるからという理由で優先することは種差別であり、人種差別や性差別が不正であるのと同じ理由で不正です。苦痛は、人間によって感じられたものであろうとマウスによって感じられたものであろうと、等しく悪いです。我々はある存在を個体として扱うべきであり、ある生物種の一員として扱うべきではありません。しかし、このことは全ての個体に等しい価値があることを意味しません。詳細は次の質問に対する私の回答を見てください。

 

Q:火事が起きて、時間が無くて両方を救うことはできないから人間かマウスのどちらか片方を救わなければいけない、という時には人間を救うのではないですか?

 

A:はい、ほとんど全ての場合には、私は人間を救います。しかし、その理由は、人間が人間でありホモサピエンスという種の一員であるからではありません。種の一員であることは道徳的に重要ではありませんが、同様の利益に平等に配慮することは、違った利益に違った配慮をすることを認めます。まず倫理的に重要な性質は、なんらかの経験を感じるための能力…つまり、苦痛を感じる能力やなんらかの感情を持てる能力です。これは本当に基本的なもので、マウスが我々と共有している性質です。しかし、生命を奪うことや生命が終わることを放置するということについては、その存在が、自分が生命を持っていることを理解する存在であるかどうか、が問題となります。つまり、現在存在している自分と過去に存在した自分や未来に存在する自分が同じ存在である、とうことを理解できるかどうかです。このことを理解する存在は、このことを理解できない存在よりも、命が無くなることでより多くのものを失います。    

 幼児期を過ぎた正常な人間なら、時間を通じて自分が存在するという感覚を持っています。マウスがそのような感覚を持っているかどうか、私には定かではありませんが、持っていたとしても、マウスの認識できる時間の幅は人間に比べてずっと限定されているでしょう。ですから、基本的には、ある人間にとってのその人間の死は、あるマウスにとってのそのマウスの死に比べて、より大きな損失です。人間にとっての死は、例えば未来について抱いていた計画が打ち切られることをもたらしますが、マウスにとっての死ではそのようなことはありません。また、ほとんどの場合、ある人間の死はその人間の家族に悲しみや苦痛を引き起こしますし、その度合いはあるマウスの死がそのマウスの家族に引き起こす悲しみや苦痛よりも大きいでしょう(しかし、特に哺乳類や鳥類などの動物たちも、自分の子供や配偶者に強い繋がりを感じられる、ということを忘れてはいけません)。 以上が、燃えている建物から片方しか救え出せない時に人間を救ってマウスを救わないことが、一般的には正しいことである理由です。しかし、このことは、救われる人間の持つ性質や特徴に依存しています。例えば、もしその人間が重度の脳障害を負っており、意識がない状態でありその状態から復活することもないのなら、その人間を救うことが正しいこととはならない可能性もあります 。  

 

Q:100匹の猿に対する実験は、それが数千人の人間をパーキンソン病から回復させることができるのなら正当化される、とあなたが言ったというのは本当ですか?

 

A:2006年の11月に放映されたBBCのドキュメンタリー番組「猿、ネズミ、私:動物実験」にて、オックスフォード大学の教授ティプ・アジズ氏(訳注:パーキンソン病などの治療を研究している神経外科医らしい)と議論をしている時に、その質問をされました。私は、アジズ教授が主張していることが事実であるかどうか判断できるほど動物実験や医学について専門的な知識を持っているわけではないと前置きしたうえで、アジズ教授の主張を事実だと仮定して、その実験は正当化できる、と返答しました。   私の返答は動物の権利運動に関わる人たちの一部に驚きをもたらしましたが、おそらく彼らは私がこれまで書いてきたものを読んでいなかったのでしょう。私はある行為をその行為がもたらす結果によって判断しますので、動物に対するいかなる実験も正当化されることは絶対にない、と言ったことは一度もありません。しかし、動物たちの利益は動物実験がもたらす結果に含まれるし、動物たちの利益を人間たちの同様の利益よりも軽少に扱うことは正当化できない、とは主張しています。    

『動物の解放』では、動物を実験に使用する実験者たちに対して、動物と同程度の知能を持つ人間…例えば、不可逆的な脳障害を負って生まれてきた人間に対して、実験を行うことはできるか、と提案しました。自分たちの動物実験はもたらされる予定の結果によって正当化できると考える実験者は、上述したような人間に対する実験も正当化できると考えるかどうか、言明するべきです。もし人間に対する実験が正当化できないと考えるなら、なぜ多数の人間に利益を与えることは動物に危害を与えることを正当化するのに、同様の危害を人間に与えることは正当化しないのか、答えるべきです。私から見れば、実験者たちの考えは種差別であることを示しています。   

 また、個々の実験が正当化されるとしても、動物実験の制度的な実践が正当化される訳ではありません。制度的な動物実験は膨大な数の動物に対して日常的に苦痛を引き起こしますが、引き起こしている苦痛に見合う程の利益を人間や動物にもたらす実験はごく僅かであると思われますから、動物に危害を与えない実験方法に我々の資源を注いだ方が良いです。 付け加えて言いますが、動物の権利運動において、権利に基づいた理論や帰結を重視する理論などの倫理についての様々な見解が含まれる余地があることは重要なことです。倫理的な見解について議論がなされていることは、健全で開かれた運動であることを示します。他方で、種差別主義には反対しているが我々の持っている特定の道徳的見解を共有しない人を攻撃するのではなく、種差別主義を攻撃することに力を集中させるのも、重要なことです。

 

Q:細胞を培養することによって研究所のなかで肉を育てることができる可能性がある、と聞きました。このように研究所で育てられた肉が、環境に安全で、コストやエネルギーの効率が良く人間が消費するのに安全であったら、動物の肉を育てて消費するための倫理的に認められる方法であるのでしょうか?また、種差別的な差別を避けるために、カニバリズムとして批判されることを考慮した上で、人間が安全に消費できるように設計した人肉も研究所が育てることが、倫理的に求められることなのでしょうか?

 

A:研究所で肉を育てて生産することによって死ぬ動物や苦しむ動物は存在しないので、研究所で肉を育てることは倫理的に認められます。その肉自体には、なんら問題がありません。

 人間の細胞から育てた肉の味よりも牛の細胞から育てた肉の味の方を人々が好んだとして、それも問題ありません。ですから、他の動物の細胞から肉を育てているからといって、消費するために人肉を育てることは倫理的に求められることではありません。

 

3:人命の神聖さ

  

 Q:あなたは「障害のある乳児を殺すことは、人格(person)を殺すことと道徳的に等しいことではない。時には、全く不正ではないこともある」と言ったとされています。この引用は正確でしょうか?

 

A:引用は正確ですが、私が人格(person)という単語にどのような意味を与えているかを理解していないと、ミスリーディングな引用になります(引用元である『実践の倫理』で、人格という言葉についての議論を行っています)。私は「人格」という単語で指し示しているのは、未来について予想することができ未来について期待や欲求を持つことできる存在です。先の質問でも回答したように、人格である存在を殺すことは、自分が時間を通じて存在するという感覚を持たない存在を殺すことよりも、通常は重大な不正であると考えます。人間の新生児は自分が時間を通じて存在するという感覚を持ちません。なので、新生児を殺すことと、この先も生き続けたいと欲求する存在である人格を殺すこととは、決して道徳的に等しくありません。このことは、新生児を殺すことはほとんど全ての場合では酷いことではない、ということを意味するわけではありません。むしろ、ほとんど全ての場合で、乳児を殺すことは酷いことです。なぜなら、ほとんどの乳児は両親から愛されて大事にされており、乳児を殺すことは両親にとって非常な不正をもたらすことであるからです。

 時には、例えば赤ん坊が深刻な障害を持っている場合などには、新生児を死なせる方が良いと両親が考えることがあります。多くの医者は、生命を延長するための医療措置を赤ん坊に与えないという方法で、両親の願いを聞き入れます。医療措置を与えないことは、多くの場合、赤ん坊を死なせることにつながります。両親と医者が赤ん坊を死なせたほうが良いという決定をした際に実行する手段の範囲をどこまで認めるか、という点で私の意見は違います。延命のための医療措置を行わなかったり中止したりするという手段だけでなく(これらの手段は、脱水症状や感染症によって時間のかかる死を赤ん坊にもたらします)、速やかで人道的に赤ん坊の生命を終わらせるための積極的な手段も認められるべきである、と考えます。

 

Q:健常な赤ん坊についてはいかがですか?あなたの人格性(personhood)についての理論では、もし両親が赤ん坊をいらないと思えば、赤ん坊には未来についての感覚が無いという理由から、両親が健常な赤ん坊を殺すことが認められるのではないですか?

 

A:幸運なことに、ほとんどの親たちは自分たちの子供を愛しており、彼らを殺すという考えに恐れおののきます。もちろん、それは良いことです。我々は親たちに子供のことを配慮するように勧めたり助けたりしたいと思っています。さらに、新生児は未来の感覚が無いからパーソンではないとはいえ、それは赤ん坊を殺すことに全く問題が無いということを意味するわけではありません。乳児を殺すことで乳児にもたらされる不正は、パーソンを殺すことでパーソンにもたらされる不正よりは重大ではない、ということを意味しているのです。しかし、我々の社会には、その赤ん坊を喜んで受け入れて愛するであろうカップルが多くいます。ですから、もし両親が自分たちの子供をいらないと思っていても、子供を殺すことは不正となります。

 

Q:痴呆症の高齢者や、事故によって障害を負った人々も、未来についての感覚を持たない場合があります。彼らを殺すことも認められるのでしょうか?

 

A:ある時点までは未来についての感覚を持っていたが現在ではそれを失っている人間については、ある状況についてその人が(未来についての感覚を持っていた時には)起きてほしいと思っていたであろう事柄に従って、我々は考えるべきです。つまり、ある人が、未来について意識する能力を失った後には生き続けさせられなくていいと考えていたなら、その人の生命を終わらせることが正当化されるかもしれません。しかし、ある人が、そのような状況でも殺されたくないと考えていたのなら、それはその人を殺さないための重要な理由になります。

 

Q:自発的安楽死や、医師による自殺幇助についてはいかがでしょうか?

 

A:私は、その人が末期患者や不治の病に侵されている場合には、自分の生命を終わらすことが認められるように法律を改正することを支持します。オランダやベルギーでは、このことが認められています。これ以上生き続けるのも嫌だというほど自分の人生の質が下がった時に、医師と相談したうえで自分の人生について決定することが、なぜ認められてはいけないのでしょうか?

 

 

 

「イルカは馬鹿ではない」 by フィリッパ・ブレイク

 

 今回紹介する記事の著者は、クジラやイルカを研究する生物学者フィリッパ・ブレイクである。彼女はクジラやイルカの保護活動にも関わっているようだ。編著の『Whales and Dolphins: Cognition, Culture, Conservation and Human Perceptions』はクジラやイルカの生態や認知能力などの生物学的側面と、クジラやイルカ保護の課題や各国での捕鯨・イルカ漁の事情などの人間社会に関わる側面の、両方についての論文が多数掲載されていて参考になった。

 

 

Whales and Dolphins: Cognition, Culture, Conservation and Human Perceptions
 

 

 

 イルカ保護に対する批判としては、「余所の文化に口出しをするのはおかしい」「イルカ漁は文化であり、文化は守られなければいけない」というタイプのものの他には「イルカ保護を主張する人たちは、イルカは賢いから保護されると主張しているが、では馬鹿な動物や人間は保護しなくてもいいというのか?賢い動物は大切だが賢くない動物は大切じゃないという考えは優生学的だ」「賢さや知性の定義は多様であり、認知能力だけにこだわってイルカを優遇するのは恣意的だ」というものや「イルカはレイプをしたり仲間を殺したりすることもある凶暴な生き物だから、道徳的に配慮する必要はない」などがあるだろう。しかし、イルカ保護を主張している人の多く(少なくとも、各種の学者による論文であったり各種団体の公式な声明など)は、イルカ以外の動物は守らなくていいと主張している訳でもないし、「賢さ」の多様さや複雑さも理解していると思われる。今回紹介する記事は、短いものであるが、イルカ保護運動に対する諸々の誤解や批判への反論になっている。

 

www.huffingtonpost.co.uk


 

 

「イルカは馬鹿ではない」 by フィリッパ・ブレイク

 

「知性」は、複雑で難しい論題である。しかし、始めにはっきりさせておこう。イルカは馬鹿ではない。生物の中でどの種が「最も賢い」のか、という問いに私たちは惹きつけられる。そして、私たちの答えは、様々な特性のうちのどの特性に価値を見出すか、という人間由来の価値判断に左右される。人間の「成功」を測るためのパラメーターには多くの候補があるが、どのパラメーターにも議論があり、「成功」の定義について意見は一致していない。また、自分の友人や同僚たちの中で誰が最も賢いかということすら、判断するのは難しい。 IQテストも答えを導き出してくれる訳ではない。 

 人間を構成している様々な知性や感情の中から、我々は苦労して人間にだけ特有のものを突きとめようとしている。しかし、おそらく人間だけが唯一例外であることは、他のすべての動物は生態系において彼らが暮らす場所に美しく適応している、ということだ。ダーウィンは「認知の連続体」に言及した。生物種の間での、認知能力の配分のことである。認知能力とは新しい資源や選択有利性をもたらす可能性のある環境を探し出し利用する能力であり、この能力を進化における通貨と見なす考えだ。  

 例えば、バンドウイルカは自分たちの暮らす環境によく適応した知性を持っており、社会的な種として進化してきた。多くのバンドウイルカはコミュニティの中で暮らしており、生きるために必要な資源を探し出すために、協力と知性を利用している。このことは、他の多くの社会的な哺乳類に対してと同様に、我々が彼らにどのように配慮すべきかということに関わってくる。例えば、捕らえられてコミュニティから隔離されたイルカは心理的なストレスを感じている可能性がある。追い込み漁の最中で浜へと追い込まれているイルカは、自分の近くにいる仲間たちに何が起こっているのか、十分に理解しているかもしれない。

 最近のメディアでは、イルカの攻撃行動や交配活動に注目が集まっている。しかし、この注目は「他の生物はどのように行動するべきか」という人間の価値判断にかなり影響されているうえに、人間たち自身の行動の多様性を無視してもいる。知性と攻撃性は別のものであり、混同するべきではない。人間社会の中で知性と攻撃性が混同されてしまったら、牢獄に収監された犯罪者が政府を運営することになってしまうかもしれない。進化上の成功において、向社会的な行動は競争的な行動と同じくらい重要かもしれないのだ。

 また、最近では「科学者やNGOは、イルカは地球で2番目に賢い生物種だと信じている」という想定を目にすることがある。しかし、そんな意見を主張している科学者やNGOに、私はまだ出会っていない。イルカは人間に続いて2番目に高いEQ(脳化指数 Encephalisation Quotientのことであり、感情指数 Emotion Quotientと混同しないように)を持っている、という統計はよく引用される。しかし、EQは体に対する脳の大きさの比率を表しているものであり、多くのオウムたちが示す通り、知性のランキングからは程遠い(訳注:オウムはEQは低いが、かなり高い認知能力を持っている)。  

 他の種の知性や認知能力について、我々はまだ表面をほんの少し触れたくらいにしか理解できていない、という点ではジャスティン・グレッグが書いたことは正しい。*1しかし、生物種の知性のヒエラルキーを主張しようとしているNGOが存在しているとは思えない。知性のヒエラルキーを主張することは、地球上の生態的多様性の驚くべき複雑さを無視している訳だから。シェイクスピアが複雑な作品を書くことができた能力は、競争から誕生したものではなく、頻繁に変化する環境の中で生き延びていく苦闘のなかから誕生したものだ。知性には様々な形があるが、いずれも生物種の道具であり、道具自体は誤りの無いものという訳では無い。 

 もちろん、イルカ以外の多くの生物も、驚くべき認知能力を示してくれる。そのことはもっと知られるべきだろう。イルカの知性についての議論は、イルカだけが特別だと示そうとしている訳ではない。重要なのは、他の生物の社会的能力や認知能力の複雑さについて我々の理解が増すことは、その生物たちの個体や生育環境を守るという私たちの義務について姿勢を改めることを要求する、ということだ。

 他の生物たちの知性をランキングするよりも重要なことは、それぞれの生物たちがどのように苦しむかを理解することだ。その生物は自分自身の苦しみを理解しているか、また、他の個体の苦境まで理解して自分も苦しむかもしれない。このことは、彼らの個体、家族、コミュニティ、生息数、生物種そのものを守ろうとすることへと私たちを導くだろう。

   

 

 

グレッグ・ルキアノフ, ジョナサン・ハイト 「アメリカン・マインドの甘やかし:トリガー警告はいかにキャンパスの精神的健康を傷付けているか」

 アメリカでは、PC(ポリティカル・コレクトネス=政治的な正しさ)を追求する運動は1980年代から行われてきたようであり、運動に対する批判や揶揄も行われ続けていたようだ。しかし、有名な風刺コメディアニメの『サウスパーク』が今年のシーズン19のテーマとしてPCを題材にしているなど、PCに関する注目は最近になって増しているらしい。

 今回紹介する記事の著者は二人。グレッグ・ルキアノフ(Greg Lukianoff)は憲法学者であり「教育における個人の権利財団」の取締役であるらしい(記事内の紹介によると、言論と学問の自由を守ることを目的とした財団であるようだ)。ジョナサン・ハイト(Jonathan Haidt)は社会心理学者であり、翻訳されている著書として、古来からの哲学の知見と現代の心理学や認知行動療法の知見を結びつけた『しあわせ仮説』や、なぜ人々は異なる道徳的価値観を持つのかということ・なぜ人々は異なる価値観を奉じる集団へと分極化し集団同士で争うようになるかということを心理学の観点で分析した『社会はなぜ左と右にわかれるのか』がある。ハイトは、左派やリベラルに偏りがちなアカデミズムにおいて価値観の多様化を目指す学者の集団であるHeterodox Academyに参加している。自身のTwitterでも、近年のアメリカの大学でPCカルチャーが蔓延していたり左派の意見が支配的になったりしていることを批判している。

 

 以下で紹介する記事は9月に書かれたものであり、もう4ヶ月以上前のものであるが、現地のアメリカではかなり反響があったらしい。現代の「The Coddling of the American Mind」はアラン・ブルームの「The Closing of the American Mind」(『アメリカン・マインドの終焉』)をもじったものであるようだ。

「トリガー警告」や「マイクロアグレッション」などの単語に象徴されるような、近年の大学で過熱する学生たちによるPCへの要求には、認知行動療法で分析されているような「認知の歪み」が背景にある、と分析している記事である。そして、学生たちのPCへの要求を受け入れることは批判的思考を教育する場である大学の本分に反する行為であり、学びや成長の機会を奪われ「認知の歪み」を修正する機会を与えられない学生たち自身にとっても害である、ということを主張している。

 

www.theatlantic.com

 

 全体の大部分を訳しているが、一部は中略している箇所もある。長い記事であり、英語も簡単なものではなかったので、訳し間違えなども存在すると思う。認知行動療法に関する単語などの専門用語や、哲学者の名言などに関しては、他のwebサイトに翻訳されていたものを随時参照した。

グレッグ・ルキアノフ, ジョナサン・ハイト 「アメリカン・マインドの甘やかし:トリガー警告はいかにキャンパスの精神的健康を傷付けているか」

 

 どうにも奇妙な事態がアメリカの大学で起こっている。人に心地よくない気持ちを与えたり人の気に触ったりするような言葉・意見・テーマをキャンパスから掻き消してしまおうとする運動が、主に学生たちによって起こされているのだ。昨年の12月にハーバード法学教授のジーニー・スクがニューヨーカー紙のオンライン記事で取り上げたのは、レイプ法について講義しないでくれと彼女の同僚の教授に要求した法科学生たちについてだった。学生たちに苦痛を与えないように、「犯す(violate)」という言葉の使用(「法律を犯す」など)も止めてくれと頼んだのだ。ノースウェスト大学の教授ローラ・キプニスが2月の高等教育クロニクル紙に掲載したエッセイでは、性的パラノイアによる新しいキャンパス政治が取り上げられた。すると、キプニスの記事とツイートに傷ついた学生が彼女の発言は教育の機会均等法に反していると申し立てて、キプニスは長い捜査の対象となってしまった。ある教授が6月のVox紙にペンネームで書いたのは、最近は講義をする時にどれだけ慎重にならなければいけないのか、ということだった。彼は「私はリベラル派の教授だが、リベラル派の教え子たちが私を脅かしているのだ」と書いていた。クリス・ロックを含むコメディアンたちは大学で上演することを止めてしまった。ジェリー・サイフェルドとビル・マーは、あまりにも多くの学生がジョークを受け取れないとして、大学にいる学生たちの過敏さを公に批判した。

 近頃のキャンパスでは、二つの単語が急速に流行りだしている。マイクロアグレッション は、悪意が無いのにもかかわらず暴力の一種であると見なされる、些細な言葉や行動のことだ。例えば、一部の大学のガイドラインでは、アジア系アメリカ人ラティーノアメリカ人に「あなたはどこで生まれたの?」と聞くことは、お前は本当のアメリカ人ではないという意味が含まれているということで、マイクロアグレッションとされる。トリガー警告 は、授業で扱う事柄の一部が強い感情的な刺激を起こす場合に、教授が発するべきとされる警告のことだ。たとえば、ある学生はチアヌ・アチェベの『崩れゆく絆』が人種暴力を描写しているとして警告を要求したし、スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』は女性嫌悪と身体的暴力が描かれているとされた。人種差別やDVの被害者となった経験のある学生は、これらの作品が過去のトラウマを復活させる「トリガー」になるとして、これらの作品が出てくる授業を避けることを選択できる。

 最近の大学で行われていることの一部は、シュールリアリズムの域に達している。4月には、ブランダイス大学のアジア系アメリカ人学生協会が、アジアに対するマイクロアグレッションへの注意を喚起するための展示を大学のホールに設置した。その展示でマイクロアグレッションの例として示されていたのは、「君は数学が上手いんじゃないの?」や「僕はカラー・ブラインドなんだ。僕には人種なんて見えないよ」ということだ。しかし、展示そのものがマイクロアグレッションだと感じたアジア系アメリカ人の学生の間に反動が巻き起こり、協会は展示を撤去して、協会長は「マイクロアグレッションのために傷ついた方や、トラウマを思い出させられた方に」謝罪のメールを書いた。

 この新しい風潮は徐々に制度化されており、議論の前提になる事柄まで含めて、教室ではどんな発言が許されるかということに影響を与えている。2014年度と2015年度には、カリフォルニアの十大学の学長と学部長のリーダー研修会で、マイクロアグレッションの例が示された。攻撃的な意見としてリストに列挙されたもののなかには「アメリカは機会に溢れた土地だ」ということや「最も仕事に適している人が、その仕事に就くべきだ」ということが含まれていた。

 報道では、この事態はポリティカル・コレクトネスの復活であると表現されることが多い。それはある点では正確だが、80年代や90年代に起こったことと現在起こっていることの間には重大な違いも存在する。昔の運動は言論を制限しようとしたが(特に、周縁化された集団に対するヘイト・スピーチを制限しようとした)、文学・哲学・歴史学のカノン(古典)を批判して、より多様な観点が含まれるようにカノンとされるものの幅を広げようとしていた。現在の運動は、情動的な幸福についてのものが大半だ。現在の運動は大学生の精神が非常に脆弱であると仮定して、学生たちを心理的な危害から守ることを目標としている。その究極の目的とは、大学を「セーフ・スペース(安全圏)」に変えて、不快感を与える単語や意見から若者たちが保護される場所にすることだ。そして、故意か否かに関わらず、大学を安全圏にするという目標に相反した者に罰を与えることも行われている。このような衝動は復讐的保護と呼べるだろう。この運動は、何かを発言しようとする人は、自分の発言がデリカシーに欠けていたり攻撃的であったりすると批判されないように慎重に考えることを必要とさせられる、という状況を作ろうとしている運動なのだ。

 我々はこのような風潮について研究してきて、警告を発してきた。……(中略。著者二人の略歴と、なぜこの問題に関心を持つようになったか、ということについての説明。)……この風潮が学問やアメリカの大学の質に与える影響は重大なものであり、それを詳らかに指摘することもできる。しかし、この記事では、別の問題に注目しよう。この新しい保護運動は、学生自身にはどのような影響を与えるのか?守る対象とされている学生に利益を与えるのか?故意ではない侮辱が監視されていて、古典的な文学作品に警告のラベルが貼られ、大学当局が暴力的になりえる言葉の厳密な統制を要求されて保護者と検事の両方の役割を期待される、そんな場所で4年以上を過ごすことで、学生は実際には何を学ぶのか?

 「何について考えるかを教えるのではなく、どのように考えるかを教えよ」ということは教育界ではよく言われることである。この考えは少なくともソクラテスにまでさかのぼる。今日ではソクラテス・メソッドと呼ばれる教育方法は、学生たちに自分自身の信念を問い直すように勧めて、外の世界の知見を受け入れるようにして、学生たちの批判的思考能力を高めるものである。信念を問い直すことは時には不快感につながることがあるし、怒りを引き起こすこともあるが、それも理解のための道筋なのである。

 しかし、復讐的保護は、学生に全く別のことを教える。専門家として生きることは、好ましくなかったり間違ったりしていると思えるような他人や意見に対して知的に接することを要求するが、復讐的保護はそのような生き方の備えにはほとんどならない。もっと差し迫った危害も存在しているかもしれない。言論を監視し発言者を処罰することに専心するキャンパスの風潮がもたらすような思考方法は、認知行動療法の専門家が鬱や不安の原因として特定してきたものと驚くほど似ている。この新しい保護主義は、病理的に考えることを学生に教えているのかもしれないのだ。

 

・なぜこんな事態になったのか?

 

(ここで、著者らは「復讐的保護」がなぜ登場したかということを、ここ数十年のアメリカの各世代の文化を照会しながら、明らかにしようとする。諸々の事件の影響により、80年代以降から子どもの養育について過保護になる風潮が登場し、子どもは自由な行動が制限されて親の監視下に置かれながら育てられるようになった。過保護な風潮は学校にももたらされて、危険な遊具やリスクのある食べ物などが学校から排除されて、いじめについての対応も非常に厳しくなった。子どもたちは「人生は危険だが、大人たちは、知らない人からもいじめっ子からも自分を守ってくれる」というメッセージを受け取りながら育つようになった。

 さらに、過保護な子どもたちが育った時代は、政治的分極化が進行している時代でもあった。民主党支持派と共和党支持派の相互不信や相互嫌悪は、2000年以降に極めて強くなっている。これは政治家学者が「感情的党派分極化」と呼ぶ現象であり、民主主義に深刻な問題をもたらす。それぞれの党派の支持者はお互いを悪魔視し、政党に基づいた偏見は人種に基づいた偏見と同じくらい強くなっている。)

 

 だから、 最近大学に入学した学生たちが昔の学生よりも保護を求めたがり、過去の世代の学生たちよりもイデオロギー上の論敵に対して敵対的になっているのは、不思議なことではない。学生たちの敵愾心や独善性は強力な党派心に煽られて、どんな道徳的十字軍運動(moral crusade)にも力を与えてしまう。道徳心理学の一つの原則は「道徳は人々を結びつけると同時に盲目にする(morality binds and blinds)」ということだ。私たちが道徳的判断を行うということは、ある部分では、集団への忠誠を表明しているということである。そして、道徳的判断は、批判的に考える能力に悪影響を与える可能性もある。相手側の観点にもなにか利点があるかもしれないと認めることは、危険である…あなたの仲間たちが、あなたを裏切り者と見るかもしれないからだ。

 ソーシャル・メディアは、連帯や憤りを表現して裏切り者を罰するなど、十字軍に加わることを非常に簡単にしてしまう。2004年に誕生したFacebookには2006年から13以上の未成年も加入できるようになった。2011年に大学に入学した学生たちは、ティーン・エイジの全期間をFacebookと共に過ごした最初の世代であり、彼らは今年に卒業する。

  彼らは本当の意味での「ソーシャル・メディア・ネイティブ」である初めての世代であり、彼らが道徳的判断を他人と共有しようとする方法や道徳的なキャンペーンや論争においてお互いを支持する仕方は、過去の世代とは違ったものであるかもしれない。このような風潮には、良い点も多く存在する。若い世代はニュースを通じてお互いに関わりあうようになっているし、若者たちが向社会的な努力をする度合いは主なメディアがTVであった時代よりも増している。しかし、ソーシャル・メディアは学生と教職員とのパワー・バランスを根本的に変えてしまった。教職員たちは、学生がネット上の大衆を動員して自分たちの評判やキャリアを傷つけるかもしれないという恐怖を募らせている。

 単純な因果関係を示唆するつもりは無いのだが、ここ最近の数十年で、大学内でも大学の外でも若者たちが精神病を患う割合は増えている。この増加の割合の一部は、診断の精度が向上したことや精神病を患ったときに病院に行くことへの抵抗感が減ったことに起因しているが、ほとんどの専門家は実際に精神病が増えているということで意見が一致している。……(中略。大学内の学生たちに精神病が増えているということについての調査が紹介されている。)……学生たちは感情的な危険を報告しているようであるし、壊れやすい心をしているようである。そして、このことは大学の教授や管理者たちによる学生たちへの関わり方を変えてしまった。問題なのは、大学が学生への関わり方を変えたことには利点よりも害の方が大きいかもしれない、ということだ。

 

・治療的な思考(The thinking cure)

 

 我々がこの世界をありのままに捉えられないということを、哲学者たちは大昔から理解してきた。我々が目にする世界とは、自分自身の希望や恐怖などの感情が投影されて歪められたものだ。ブッダは「私たちの人生とは私たちの心がつくったものだ」と言ったし、マルクス・アウレリウスは「われわれの人生とは、われわれの思考が作りあげるものに他ならない」と言った。多くの文化で、叡智を求めるための探求はこの洞察から始まっている。例えば、初期の仏教やストア派は、感情や執着を抑制してより明白に思考するための方法を発達させることで、感情的な苦痛や精神的な生活から解放されようとしていた。

 認知行動療法は、古代の智慧を現代的な方法で具体化したものだ。認知行動療法は、精神的な病を投薬ではない手段で治す方法を広範囲に研究したものであり、うつ病・不安障害・摂食障害・依存症の治療に役立っている。分裂症の治療も可能だ。他のどんな種類の精神療法も、認知行動療法ほど多くの問題に対処することはできない。うつ病や不安の治療については、プロザックのような抗うつ剤と同等の効果があることが示されている。認知行動療法は習得するのが比較的簡単であり、数ヶ月のトレーニングを経験すれば、多くの患者たちは自分自身で実践できるようになる。薬剤と違い、治療が終わった後にも認知行動療法は機能し続ける。なぜなら、認知行動療法は人々が使い続けられるような考え方の技術を教えるものであるからだ。

 認知行動療法の目標は、思考の歪みを最小化して、より正確に世界を見られるようにすることだ。まず、一般的な「認知の歪み」の名前を大量に覚えることから始まる。例を挙げると、過剰な一般化、ポジティブなことの切り捨て、感情的推論などだ(元記事の最後には「認知の歪み」のリストが掲載されているが、翻訳では省略している)。自分がなんらかの認知の歪みに陥っていると気が付くたびに、その認知の歪みに名前を付けて、その状況の事実について記述して、他の解釈の仕方を考えて、より事実に沿った解釈を選択する。感情は、新しい解釈に従うようになる。やがて、この過程は自動的に行われるようになる。意識していなかった不合理的な考えを繰り返すことから解放されることで、精神的健康が改善され、うつや不安や憤りを減らすことができる。

 認知行動療法と学校教育の共通点は明白だ。認知行動療法は批判的な考え方の技術を患者に教えるし、それは教育者が学生に教えようと苦心しつづているものである。批判的思考のどんな定義でも、自分の考えを感情や欲求ではなく証拠に基づかせることが要求されるし、自分が現在考えている仮説と矛盾する可能性もある証拠を探して評価する方法を学ばなければいけない。しかし、近頃の大学生活で、本当に批判的思考を学ぶことができるのだろうか?むしろ、より歪められた方法で考えることに、学生たちを誘ってしまっているのではないか?

 以下では、認知行動療法が示した「認知の歪み」を照会しながら、近年の高等教育の風潮を分析しよう。(…中略。認知行動療法の参考文献の紹介)

 

・「感情的推論」を奉ずる高等教育

 

 認知行動療法家のデビッド・バーンズは、感情的推論を「自分のネガティブな感情が、物事の事実を必ず反映しているという考え。"私はこのように感じる。だから、それは事実だ"」と定義しており、ロバート・リーヒ、スティーブン・ホランド、ラタ・マッギンは「自分の感情に、事実についての自分の解釈を導かせること」と定義している。しかし、当たり前だが、主観的な感情はいつでも信頼できる導き手である訳ではない。抑制されていない主観的感情は、なにも悪いことをしていない他人を非難して攻撃することにつながってしまう。認知行動療法では、自分自身の情動反応はなんらかの事実や重要なことを表している、という考えを断ち切るように求められる。

 感情的推論は、多くの大学での討論や議論を支配してしまっている。誰かの言葉が「攻撃的だ」と主張することは、自分が攻撃されたという感情を表明しているだけではなく、その言葉を言った人は客観的に悪いことをしたという公的な批判をすることである。そして、その言葉を言った人が「攻撃」をしたことについて謝罪するか、組織や権威によって罰されることを要求する、ということでもある。

 自分には攻撃されない権利がある、と信じている人は昔から存在してきた。しかし、ヴィクトリア時代から始まり1960年代や70年代の言論の自由運動の時代までのアメリカの歴史では、ラディカル派が言論の自由の境界を押し広げて、支配的であった感受性を嘲笑してきた。ところが、80年代のある時点から、大学のキャンパスは攻撃的な言論を予防することに力を入れだした。特に、女性かマイノリティー集団を傷付けるかもしれない言論が予防の対象となった。この予防の動きを支持した感性は賞賛に価するものだったが、すぐに、不合理で滑稽な結果をもたらすことになってしまった。

 最も有名な例は、1993年にペンシルヴァニア大学で起こった、「スイギュウ事件」と呼ばれるものだ。夜中に寝室の窓の外で集団で騒いでいた黒人女子学生の社交クラブに対して「黙れ、このスイギュウどもが!」と叫んだイスラエル生まれの学生が、人種ハラスメントとして大学に告発された事件である。スイギュウという単語は「うるさくて考えのない人」を意味するヘブライ語の罵倒語のことであり、それがどうしてアフリカ系アメリカ人に対する人種的中傷になるのか、多くの学者や専門家は訝しがった。結果として、この事件は国際的なニュースとなった。

 それ以来、攻撃されない権利の主張は行われ続けて、大学はその権利を優遇し続けた。2008年の特にひどい事例では、インディアナポリスにあるパデュー大学にて、『Notre Dame vs. the Klan』という題名の本を読んでいた白人の学生が人種ハラスメントの咎で有罪とされた。その本は、1924年のノートルダムで行われた、クー・クラックス・クランに対する学生の反対運動を讃えるものだった。にもかかわらず、本のカバーにクー・クラックス・クランの集会が描かれていたことが、門番の仕事を一緒にしていた学生の同僚という少なくとも一人の人物にとっては攻撃的なことであったので、大学のアファーマティブ・アクションの部局はその本を読んでいる学生が有罪であると見なすのに十分だと判断した。

 これらの事例は大げさなものに見えるかもしれないが、このような事例の背後にある理屈は、近年の大学で普及しているものである。昨年には、ミネソタ聖トマス大学にて、客がラクダに触れることができる「こぶの日」と名付けられたイベントが急遽キャンセルされた。学生たちがFacebookでページを作り、そのイベントが動物虐待であり、金の無駄遣いであり、そして中東出身の人に対して無神経であると抗議したのだ。そのイベントは、水曜日にラクダがオフィスにやってきて「こぶの日」を祝うTVのCMに触発されたものであって、中東に関する言及は一切存在しなかったのだが。しかし、イベントを企画した学生団体は「企画が、人々を分断させて、不愉快であり潜在的な危険のある環境を作り出すものだった」ことを理由としてイベントをキャンセルした、とFacebookのページで発表した。

 アカデミズムでは「被害者を非難する」ことへの反対が広く共有されているため、誰かの情緒の状態について、それが理にかなっているかどうか(また、正直な発言であるかどうか)疑問を呈することは認められないこととされているし、問題となっている感情がその人の集団アイデンティティに関わるものである場合は特にそうである。そのため、「私は攻撃された」という根拠の脆弱な主張が、打ち破ることのできない切り札となってしまうのだ。このことは、ジョナサン・ローチが「攻撃されること宝くじ(offendedness sweepstakes)」と呼ぶ、反対する集団を攻撃するために「攻撃された」という主張を使う行為につながる。この過程で、我々がある言論を「認められない」と判断する基準は引き下げられ続ける。

 2013年以降は、連邦政府による新たな圧力がこの風潮を加速させた。 連邦反差別法は大学でのハラスメントや性別・人種・宗教・国籍を理由とした不公平な取り扱いを規制する法律である。最近まで、教育省の人権部局は、ある言論をセクシャルハラスメントと見なして規制の対象にするには、その言論が「客観的に見て攻撃的である」ことを要件としていた。その言論は「分別があるかどうか(reasonable person)」テストを受けなければならなかった。2003年に人権部局が書いた文章によると、ハラスメントであると申し立てられた言論が禁止されるには、その言論が「ある人が攻撃的だと考える意見・言葉・思考の象徴を、単に表明している」だけでは不充分だとされていた。

 しかし、2013年には、正義と教育部局がセクシャル・ハラスメントの定義を大幅に拡大し、単に「歓迎できない」言葉を発するだけのこともハラスメントに含められた。大学は連邦による捜査を恐れ、性別だけでなく人種・宗教・復員軍人などに関わるものについても「歓迎できない言論はハラスメントである」という連邦の基準を受け入れるようになった。大学教授や同窓の学生たちの発言が歓迎されないものでありハラスメントと主張されるに値するものであるかどうか、みんなが自分の主観的な感情に頼って判断することが求められるようになった。感情的推論は、証拠として受け入れられるようになってしまったのだ。

 もし「自分の感情は武器として有効に使える」ということを大学が学生に教えているとしたら(少なくとも、大学の管理過程において、学生の感情は証拠として採用されるということを教えているとしたら)、大学は学生たちに過剰な繊細さを膨らませることを教えてしまっていることになる。その繊細さは、大学の中でも外でも、数え切れないほどの争いを長期間にわたって引き起こす。大学は、経歴や友情に傷をつけ、精神的健康に害をもたらすような思考方法を、学生に教えているのかもしれないのだ。

 

・先読みの誤りとトリガー警告

 

 バーンズは先読みの誤りを「物事が悪い状態になってしまうと予測すること」と「自分の予測が、既に成立した事実であると信じてしまう」ことと定義している。リーヒ、ホランド、マッギンは「未来をネガティブに予測すること」や、毎日の生活に潜在的な危険を見出してしまうこと、と定義している。課題図書や議論を引き起こすかもしれない話題に対するトリガー警告の要求が近年ここまで拡大していることは、先読みの誤りの具体例である。

  言葉(あるいは、臭いなどのどんな知覚入力でも)が辛い記憶や過去のトラウマを思い出させ、その辛い自体が繰り返されるかもしれないという恐怖を引き起こすという考えは、少なくとも第一次世界大戦の頃から存在していた。その時代に、精神科医は現在では心的外傷後ストレス障害PTSD)と呼ばれる症状を抱えた兵士を処置するようになった。しかし、明示的なトリガー警告はかなり最近登場したものであり、初期のインターネットの掲示板から誕生したものであると考えられる。トリガー警告は自助グループフェミニストのフォーラムで特に流行するようになった。性的暴行などによるトラウマに苦しんでいる聴衆に対して、フラッシュバックやパニックを引き起こすトリガーになるかもしれない映像を避けられるように配慮する等である。検索エンジンによると、トリガー警告という単語が主流ネット環境に登場するようになったのは2011年からであり、2014年から流行し始め、2015年には流行の頂点に達した。大学においてトリガー警告という単語が流行するようになった経緯も同じようなものである。あっという間に、不快な感情を引き起こすかもしれないものを示す前には警告しろ、とアメリカ中の大学の学生たちが教授たちに要求するようになったのだ。

 2013年にオハイオのオーバリン大学で、 大学管理者・学生・卒業生・そして一人の教職員から構成される特別委員会が、教職員向けにトリガー警告するべきと推奨される項目のリストをインターネット上に発表した。その項目の中には階級主義や特権も含まれている。特別委員会によると、リストに記載された項目は学生にネガティヴな感情を引き起こす可能性があるので、授業の目的に「直接的に貢献」するものでない限りは避けられるべきであるし、「避けるにはあまりにも重要な」課題も選択制にした方がいいと提案した。

 PTSDに関係があるような種類の恐怖を、階級主義や特権を描写した小説が引き起こしたり再起させたりすることは考えづらい。他の学生が傷付くのを予防するという名目を与えられてはいるが、実際には一部の学生が政治的に攻撃的だと考える意見や態度も、トリガー警告を要求されるものの長大なリストの中に含まれているのである。これは心理学者が「動機づけられた推論」と呼ぶものである。我々は、自分が支持したいと思う結論のために自然と議論を一般化してしまうのだ。あるモノが嫌悪に価するものであると自分が思ったら、そのモノは他人にトラウマを引き起こす、と主張してしまいがちである。自分は他人がどのように反応するか知っていると信じてしまうし、その他人の反応は酷いものになりえると信じてしまう。他人に酷い反応を与えることを予防することは、コミュニティ全体の道徳的な責務となる。最近の2年間で学生たちがトリガー警告を公然と要求した本の中には、ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』(ラトガー大学で「自殺傾向がある」と批判された)やオウィディウスの『変身物語』(コロンビア大学で、性的暴行として批判された)が含まれている。

 ジーニー・スクがニューヨーカー紙に掲載したエッセイは、トリガー警告の時代にレイプ法を教えることの難しさを説明している。彼女が書いたところによると、ある学生たちは、クラスメートたちに苦痛を与える可能性があることは避けるべきだとして、レイプ法について教えることを避けるように教授に要求した。このことについて、スクは「外科医になる訓練を受けているが、血を見たり扱ったりすることでストレスを受けるかもしれないと恐れている医学生」に教えることと同じようなものだと書いている。

 しかし、トリガー警告にはより重大な問題も含まれている。心理学のごく基本的な教えによると、その人が恐怖を感じるものを避けさせることで不安障害の人を助けられるという考えは、間違っている。停電した際にエレベーターに閉じ込められた人は、パニックになって自分が死ぬと思い込むかもしれない。その衝撃的な経験は彼女の扁桃体の神経結合を変化させ、エレベーター恐怖症をもたらすかもしれない。彼女が自分の人生に抱く恐怖を維持させたいとあなたが望むなら、あなたは彼女がエレベーターを避けることを手伝うべきだ。

 だが、あなたが彼女に通常の生活に戻ってほしいと思うなら、あなたはイワン・パブロフの研究を参考にして、曝露療法として知られる療法に彼女を導くべきだ。まず、彼女の不安が和らぐまで、建物のロビーなどでエレベーターを遠くから眺めてもらうことから始まるかもしれない。彼女がロビーに立っている間、彼女の恐怖が強化されず、何も悪いことが起こらなかったなら、彼女は「エレベーターは危険ではない」という新しい観念連合を学ぶ準備ができているということだ(曝露されている間に恐怖が減少することは、馴化と呼ばれる)。翌日には、あなたは彼女にエレベーターにもっと近づくように求められるかもしれないし、また後日にはエレベーターの開閉ボタンを押してもらい、やがて彼女はエレベーターの中に入れるようになるし上の階まで行けるようになるだろう。これが、過去に恐怖を感じた状況と安全や正常などの観念を扁桃体が結び直せる方法なのだ。

 授業で扱う課題によって再起させられる可能性のあるような、トラウマである苦しい記憶を同窓の学生が抱えているかもしれない、という点ではトリガー警告を要求する学生も正しいかもしれない。しかし、そのようなトラウマの再起を予防しようとしている点で、彼らの主張は間違っている。もちろん、PTSDを抱えている学生は治療を受けるべきだ。しかし、普通の生活は馴化の機会で溢れているのだから、それを避けようとするべきではない。教室内での討論は、トラウマを引き起こすかもしれないもの(「犯す」という言葉など)に触れる場所としては安全な場所だ。暴力について議論することは実際の暴力をもたらすわけではないので、学生が自分に不安を起こす観念連合を変化させる良い方法だ。それに、馴化は大学生の間に済ませておいたほうがいい。大学の外の世界は、大学のようにトリガー警告の要求や嫌なものを避けることを認めてくれる訳ではないのだから。

 トリガー警告の使用が拡大していることは、トラウマや不安障害に苦しんでいない大多数の学生たちの間にも、不健康な精神的習慣を身に付かせてしまうかもしれない。人々は、自分たちの経験からだけでなく、社会的学習によっても恐怖を獲得してしまう。あなたの周りの人たちみんなが、なにか(エレベーター、カーテン、ご近所さん、人種差別を描写している小説など)が危険であるように振舞っている場合、あなたは周りの人たちが抱いている恐怖を自分も抱いてしまう危険に晒されているのだ。精神医学者のサラ・ロフは、昨年に高等教育クロニクル紙で発表した記事の中でこのことを指摘している。「私がトリガー警告に対して抱いてる最大の懸念は…」と彼女は書く。「トラウマを経験した学生だけでなく、全ての学生に対してトリガー警告が適用されるようになり、私たちの歴史の難しい局面について議論することが危険で人を傷つけることだという考えを抱くことが推奨されしまう、そんな空気が作られることだ」。

 高等教育インサイド紙に昨年発表された記事では、7人の人文学教授が、トリガー警告の運動が「すでに教育や教職に寒々しい影響を与えている」と書いている。彼らの同僚は「警告したかどうかに関わらず、トリガーを含む題材を授業で扱った、という学生からの申し立てを調査している学部長や他の管理者から電話」を受けたことを報告している。トリガー警告は「予期していない不愉快な気持ちを経験することはないという保証を学生たちに与えているのであり、もし不愉快な気持ちを感じてしまったら契約が破られたということを含意している」。不愉快な気持ちを与えるどんな題材についてもトリガー警告がなされることを学生が期待するようになると、教室内で最も繊細な学生がショックを受けてしまうかもしれない題材を避けることが、教職員たちにとってトラブルを起こさないための最も簡単な方法ということになってしまう。

 

・拡大解釈、ラベリング、マイクロアグレッション

 

 バーンズは拡大解釈を「物事の重要性を大げさに捉えること」と定義しており、リーヒ、ホランド、マッキンはラベリングを「ネガティブな特徴全般を自分や他人に割り当てること」と定義している。レイシスト・セクシスト・階級主義者、その他の差別的でマイクロアグレッションを行っているとされる人たちを捜し続ける最近の大学の風潮では、学生が些細なことや事故のような出来事を問題視することは付随的なものではない。些細なことに集中することを学生に教え、些細な問題を起こした人に攻撃者としてのラベルを貼ることを促すことは、最近の大学の風潮の目的であるのだ。

 マイクロアグレッションという言葉は、多くの場合は無意識的である微妙な人種差別的侮辱を指し示す言葉として、1970年代に誕生した。その定義は近年になって拡大しており、どんな根拠であってもいいから差別的と受け取られる可能性のある物事全てが含まれるようになった。例えば、2013年のカリフォルニア大学ロサンゼルス校では、教育学者のヴァル・ラストの授業にて学生グループが座り込みデモを行った。彼らは、大学における有色人種に対する敵意についての懸念を表明する手紙を読み上げた。ラストは名指しされたわけではなかったが、学生グループは彼の授業がマイクロアグレッションだと明らかに批判していた。授業のなかで学生の文法やスペルを直す際に、ラストはある学生が"indigenous"(先住民の、土着の)という単語の先頭の文字を大文字にしていることを指摘した。だが、"indigenous"の先頭の"I"を小文字の"i"に直すことは、その生徒と彼女の主張に対する侵害である、と学生グループは抗議した。

 マイクロアグレッションについてジョークを言うことでさえも、攻撃だと見なされる可能性がある。昨年の秋、ミシガン大学の学生のオマールマハムードは、どんなことにでもマイクロアグレッションを見出すキャンパスの風潮についての皮肉なコラムを学生誌に書いたが(…中略…)ある女性の集団がオマールの家の玄関口に卵、ホットドッグ、ガムとともに「みんながお前を憎んでいる。お前は暴力的で嫌な人間だ」と書いた手紙を投げつけた。復讐的保護は、暴力的であると見なした言論に対して、敵意や暴力によって反応することを正当化してしまう。

 三月には、ニューヨーク州のイサカ大学で、学生自治会がマイクロアグレッションの匿名報告システムの制度を作ることを提案した。提案者たちは、侮辱的な言論を発した「抑圧者」になんらかの形で懲罰が課されることを望んでいる。提案者の一人は「すべての事例を審理にかけて厳罰を与えるつもりはありませんが、記録を保管して影響を与えられるものにしたい」と語った。

 たしかに、明らかに人種差別主義的な言論や性差別主義的な言論を発する人は大学内に存在するし、そのような言論に対して学生が疑問を呈して議論をすることは正しいことだ。しかし、マイクロアグレッションへの過熱する注目と感情的推論が結びつくと、乱暴な憤慨が絶えず続くことになる。そして、その憤慨は正当な議論をしようとしている善意の発言者にも向けられるのだ。

 

破局視と非寛容を学生に教える

 

 大学にいる学生は、大人の庇護下である学校から社会へと巣立とうしている訳だが、私たちは学生が社会に出る前に彼らに過剰な繊細さを育ませてしまっているのではないか?それよりも、自分の感情的な反応に疑問を投げかけて、他人の意見に利点や長所を見出せるように教えることが、彼らのためになるのではないか?

 バーンズは破局を、ある種の誇張であり「よく起こるような悪い出来事を、悪夢に出てくるような怪 物だと見なしてしまう」ことだと定義している。リーヒ、ホランド、マッギンは「既に起こったことやこれから起こることについて、それがあまりにも酷くて耐 えられないことであるので、自分はもうやっていけなくなる」と思い込むことだと定義している。トリガー警告への要求には破局視が含まれているが、大学内の 他の思考にも破局視が含まれている。

 破局視的なレトリックは、大学の管理者たちの間でも、想像以上に使用されている。 昨年、ニュージャージー州のバーゲン・コミュニティ・カレッジのフランシス・シュミット教授は、自分の娘の写真をGoogle+のアカウントに投稿したた めに、停職させられた。写真は娘がヨガのポーズをしているところを撮影したものであったが、彼女のTシャツにはTVドラマの『ゲーム・オブ・スローンズ』の 台詞である「火と血によって、私は自分の物を取り返してやる」という文章が印刷されていた。シュミットが2ヶ月前にサバティカルの申請が却下されたことに ついて大学に不平を申告していたのだが、Google+でシュミットが投稿した写真を見た大学のセキュリティ部門の担当者は、「火(fire)」に機関銃 であるAK-47の意味が含まれているかもしれないと思ったのだ。

(…中略…)

 大学の管理者たちですらこのように大げさな反応をするのだから、学生たちが同じような過剰反応を起こしても、驚くべきではない。2013年のフロリダ中央大学では、会計学の講師であるジョン・ヒョンイルが、復習授業の最中に脅迫的なコメントを発したと学生に報告されて、停職になった。ジョンがオーランド・センチネル紙に語ったことによると、授業の教材が難しい物であり、学生たちがつらそうな顔をしていたので「君たちはこの問題のせいでゆっくり窒息しているように見えるよ」とジョークを言ったのだ。「僕は君たちの楽しい時間か何かを殺してしまっているのかな?(Am I on a killing spree or what?)」。

 学生がジョンのコメントを大学に報告すると、20人近くの学生が「そのコメントは明らかにジョークだった」と大学にメールで説明した。にもかかわらず、大学は全ての職務についてジョンを停職にして、彼が大学に戻る前に「大学コミュニティに対する脅威ではない」ことを示す証明書を精神科医から受け取ってくるように要求した。

 このような事態はある教訓を教えてくれる。賢い人々であっても、無害な言論に過剰反応して、大げさに騒ぎ、誰か他の人を一人でも不愉快にする言葉を発した人に対して罰を与えることを求めるのだ。

 

・フィルタリング思考と、招待取り消しの季節

 

 バーンズはフィルタリング思考を「どんな状況でもネガティブな事柄に注目し、そのネガティブな事柄について考え続けて、その状況全体がネガティブなものであると認識する」ことと定義している。リーヒ、ホランド、マッギンは「ネガティブ・フィルタリング」を「ネガティブなことにばかり注目して、ポジティブなことにはほとんど気が付かない」ことと定義している。大学生活におけるフィルタリングは、単純な思考によって他人を悪魔視することをもたらす。

 2014年の「招待取り消しの季節(disinvitation season)」の最中では、学生や教職員たちの多くはフィルタリング思考の見本を示していた。 「招待取り消しの季節」(初春であることが多い)は、卒業式にてスピーチをする人たちが紹介された際に、その人たちの一部について、過去に彼らが言ったことや行ったことを理由にして学生と教授たちが招待取り消しを求める、という時期のことだ。「教育における個人の権利財団」によって集められたデータによると、2000年以降、有名人を大学内のイベントに招待することを取り消そうとするキャンペーンが少なくとも240回はアメリカの大学で行われている。その大半は2009年以降に行われた。

 2014年に招待を取り消された人たちの中でも最も有名な2人について考えてみよう。前国務長官コンドリーザ・ライスと、国際通貨基金IMF)専務理事のクリスティーヌ・ラガルドだ。ライスは初めて国務長官となった黒人女性であり、ラガルドはG8諸国の中で初めて財務大臣になった女性かつ初めて国務通貨基金の長となった女性でもある。二人とも、素晴らしい成功を達成したロールモデルとして女性の学生から見られることができた筈だし、ライスはマイノリティの学生にとってのロールモデルともなる。しかし、実際には、批判者たちは彼女たちのスピーチからポジティブなものがもたらされるという可能性を無視した。

 勿論、学問コミュニティ内のメンバーは、イラク戦争におけるライスの役割について問題を提起したりIMFの政策について疑念を抱くことが許されているべきである。しかし、ある人物の経歴の一部が嫌いだからといって、その人と観点を共有することを一切放棄するべきなのだろうか?

  大学を訪れる人たちは潔白であるべきであり、(多くの場合は左派に偏っている)大学の感性と一度も相反したことのない経歴を備えていなければならない、という考えが大学で支配的になってしまうと、高等教育における知的同質性は更に増してしまい、学生が多様な観点と出会うチャンスがほとんど無いような環境がつくられてしまうだろう。そして、ポジティブな側面は無視してもよい、という考えを大学は増長させるだろう。自分が嫌いな人たちや意見が合わない人たちから学べることは何も無い、という考えを持ったまま学生が大学を卒業してしまうのなら、我々は彼らの知性に多大な害を与えてしまっているのだ。

 

・私たちには何ができるか?

 

 不快な感情を与える可能性のある言葉・意見・ 人物から学生たちを保護する、という試みは学生たちにとって害である。大学の他の場所でも自分たちは保護されるべきだと信じる学生たちによる果てしない訴訟に巻き込まれる職場にとっても、害である。そして、悪化している党派心によって既に麻痺しているアメリカの民主主義にとっても、害である。相手の側の意見・価値観・言論が、単に間違っていると見えるだけでなく、罪のない被害者に対する意図的な攻撃に満ちているように見えてしまうなら、政治を生産的なものとなるために必要な相互尊重・交渉・妥協は実現が難しいものとなるだろう。

 否が応でも直面せざるを得ない言葉や意見から学生を保護しようとするよりも、自分にはコントロールできない言葉や意見で溢れている世界の中で健全に生きていく方法を、大学は教えるべきなのだ。仏教(そしてストア派ヒンドゥー教、そのほか多くの伝統や学派)によって教えられる偉大な真理の一つは、自分の欲求に適合するように世界を変えようとしても幸福を獲得することはできない、ということだ。しかし、自分自身の欲求や思考の習慣なら、コントロールすることができる。言うまでもなく、それが認知行動療法の目的だ。このことをふまえて、悪しき思考が蔓延する大学の風潮を逆転させるための方法を紹介しよう。

 正しい方向へと進むための、単純だが最も大きな一歩は、教職員や大学管理者ではなく連邦政府によるものだ。教育省による捜査や制裁への理不尽な恐怖から大学を解放するのだ。議会は、対等な立場の人間の間におけるハラスメントの定義を、1999年のデイビス対モンロー群教育委員会判決における最高裁の定義に基づけるべきだ。デイビス基準は、学生の発した単なるコメントや軽率な発言がハラスメントと同等であるとはしていない。ハラスメントと見なすには、他の学生の教育への機会を侵害するような、ある学生による客観的に攻撃的な振る舞いであることが要求される。デイビス基準を確立することは、学生の言論をあまりにも慎重に監視したがる大学の衝動を抑えられるだろう。

 大学は、すべての学生が「自分は歓迎されている」と感じられることと言論の自由との間のバランスを調整する必要について、意識的になるべきだ。紛糾しているが重要である価値観について公然と話し合うことは、多様性があって寛容であるコミュニティが実施するのを学ばなければいけない難しい物事の一つだ。言論を制限するような基準は廃止されるべきである。

 また、大学はトリガー警告に公に反対しなければならない。アメリカ大学教授協会によるトリガー警告についての報告では「学生は教室内で挑戦されるのではなく保護されるべきであるいう仮定は、幼稚であるし反知性的である」と書かれており、大学はこれに賛同するべきだ。教授たち自身が選択した時にはトリガー警告を使用することは認められるべきだが、大学がトリガー警告の習慣を公然と非難することで、学生によるトリガー警告の要求から教職員を守ることができる。

 最後に、これからやって来る学生たちに最も授けたい技術と価値観は何なのかということについて、大学は考え直すべきだ。現状では、新入生向けオリエンテーションは学生の感受性をほとんど不可能なレベルにまで引き上げようとしている。意図していない攻撃を他人に与えてしまうことを避けるように教えることは意義のある目的であるし、学生たちが多くの異なった文化的背景を持っている場合は特にそうである。しかし、潜在的な攻撃に満ちた世界の中で生きていく術も、学生は教えられるべきなのだ。新入生には認知行動療法を教えれば良いのではないか?精神病の割合は既に高い上に増え続けているのだから、認知行動療法を教えるという単純な方法は、大学が行えることのなかでも最も人道的で助けになるようなことの一つだ。実施するためのコストや時間は低く抑えられるだろう。集団でのトレーニング・セッションを数回行った後は、ウェブサイトやアプリで補うことができる。そして、その結果は多くの点で見返りをもたらすものとなるだろう。例えば、推論の方法・一般的な認知の歪み・結論を導くために証拠を適切に使用する方法についての語彙を共有することは、批判的思考と真正な議論を促進するだろう。また、近頃では一部の大学は乱暴な憤慨がずっと続いている状態に飲み込まれてしまっているが、学生が新しい考えや人々に対して心をもっと広く開けるようにすることで乱暴な憤慨が抑えることができる。大学における正式で公的な議論にもっと参加し、より政治的に多様な教授たちが集まった会合に参加することで、上述の目標は更に達成されることだろう。

 ヴァージニア大学の設立に寄せて、トマス・ジェファソンは次のように言った。

この大学は、人間の精神の無限な自由に基づくだろう。ここでは、真実が我々をどこへ導こうと、我々は真実についていくことを恐れない。また、間違いと戦うための理性が残っている限り、どんな間違いもそのままにはしておかない。

 

 ジェファソンの示したこの姿勢が、アメリカの大学にとって現在でも最良の姿勢であり、常に最良の姿勢である、と我々は信じている。教職員・大学管理者・学生・そして連邦政府には、大学を復活させるために役割を果たすという、歴史的な使命が課されている。

 

 

「動物の権利、多文化主義、左派」by ウィル・キムリッカ&スー・ドナルドソン 

 ウィル・キムリッカとスー・ドナルドソンによる論文、"Animal Rights, Multicultrualism and the Left"を、要約して翻訳して紹介する。要約ではあるが、長い文章になっている。註釈や引用に参考文献などは省いているので、英語が読める人はもとの論文を読むことをお勧めする。

 もとの論文はこちらから閲覧・ダウンロードできる。

 

Will Kymlicka and Sue Donaldson, "Animal Rights, Multiculturalism and the Left" (2014) | Will Kymlicka - Academia.edu

 

 また、論文のもととなった講演と講演後の質疑応答が、Youtubeにアップロードされている。

 

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 ウィル・キムリッカはカナダ在住の政治哲学者。多文化主義、シティズンシップ、リベラリズムなどについて研究している。日本では政治哲学の概説書である『現代政治理論』や、主に多文化主義をテーマとしている『多文化時代の市民権』や『土着語の政治』などが翻訳されている。

 スー・ドナルドソンは、カナダ在住の著作家で、ヤングアダルト小説や、ビーガン(完全菜食主義)の料理本を出版しているようだ。

 キムリッカとドナルドソンは、今回紹介する論文の他にも、動物の権利に関する共同論文をいくつか発表している。また、2011年には『Zooplis: A Political Theory for Animal Rights』を出版しており、動物の道徳的権利を認めたうえで、道徳的権利を政治コミュニティで実現するためのシティズンシップ(市民権)を動物に認めるべき、ということを主張している。

 

 

Zoopolis: A Political Theory of Animal Rights

Zoopolis: A Political Theory of Animal Rights

 

 

 上述の著作で、著者らは「動物の権利」を主張している。具体的には、人間の都合によって殺されずに生命を全うする権利や、虐待や様々な社会的慣習によって苦痛を与えられない権利などである。権利論の考えなので、場合によっては動物を殺すことや苦痛を与えることを正当化する功利主義による動物の道徳的地位に比べて、より強固に動物の道徳的地位を支持している立場である。

 今回の論文のなかで何度も登場する「左派」は「北米(アメリカ・カナダ)の白人左派」を想定していると思われる。また、「多文化主義」と書かれているが、外国間での文化衝突ではなく、北米や欧州などの各国内に存在する多文化間の衝突について書かれている。

 論文の主張を大雑把に要約すると、「左派は、自分たちの理論的・方法論的な一貫性を維持するためにも、動物の権利論を支持するべきである。しかし、左派の多くは動物の権利論を支持しない。左派が動物の権利論を支持しない理由はいくつか存在し、その理由の一部は恣意的で正当性のないものであるが、動物の権利論が文化帝国主義や人種偏見につながるという懸念も理由となっており、その懸念には正当性がある。しかし、動物の権利論に限らず、左派の支持する人権の理論も、文化帝国主義や人種偏見につながる危険性を抱えていた。だが、ポストコロニアルな人権論や多文化主義の理論を発展させることによって、左派は文化帝国主義や人種偏見を抑制しながら人権を主張することができた。同じように、ポストコロニアルな動物の権利論や多文化主義によって、文化帝国主義や人種偏見につながらない形で動物の権利論を主張することは可能である。」というところだろうか。キムリッカとドナルドソン自身も、おそらく左派であり、動物の権利を支持する左派が動物の権利を支持しない左派を説得するための論文だという意味合いもあると思う。

 

 

 「動物の権利、多文化主義、左派」by ウィル・キムリッカ&スー・ドナルドソン 

 

 現在、米国の動物の権利運動は「左派の孤児」と表現される境遇になっている。進歩的左派は女性・同性愛者・障害者・移民・人種マイノリティ・先住民などの権利を守るために、社会的正義や少数者の市民権を主張する運動を行ってきたが、動物の問題はラディカルな環境運動のなかで多少注目される程度で、左派の運動のなかでは無視されてきた。この傾向は19世紀から続いてきたものであり、左派は動物に対する人間の暴力を無視し続けてきた歴史がある。

 

 マルクスは動物虐待防止協会の会員を「禁酒教の狂信者」と同じく的外れな道徳運動を行っている存在 である、として軽蔑していた。人間の内在的な価値は「人間(man)と動物を分別する、人間独自の能力」に由来する、というカント的・ヘーゲル的な考えをしていたマルクスは、自然や動物は人間が能力を振るう対象に過ぎない、と考えていた。

 しかし、「高度な能力を持つ人間/ただ機能を備えているだけの動物」という二分法は、現代の左派には受け入られていない。左派が、動物も知性や意識の面で様々な能力を備えているという事実を重視しているから…ではなく、この二分法は人間社会にも悪質なヒエラルキーを持ち込んでしまうからである。「人間の内在的な価値は、意識的に外界に働きかけ変化させる能力に由来する」という考えは、女性よりも男性の方が優れている・障害者よりも健常者の方が優れている・ヨーロッパなどの特定の文化の方がその他の文化よりも優れている、という考えを肯定してしまう。現在では、フェミニズム運動・障害者運動・多文化主義運動などの影響により、左派は「人間の価値は合理性や知性や能力にある」という考え方を拒否するようになり、人間の様々な生き方に価値を見出すようになった。

 左派の考えがこのように変わったことは、本来なら、動物のための運動に繋がるはずである。動物と人間とを別け隔てる能力である合理性や知性を重視するデカルト的な考えが否定され、感情や依存性や脆 弱さなど、人間だけでなく動物も備えているような要素が新しく注目されるようになった。他者とのケア関係を価値を見出す「ケアの倫理」、多種多様な生き方 を開花させることに価値を見出す「ケイパビリティ」の考え、人々が独立していることではなく依存していることに価値を見出す障害学理論など、新しい考え方のいずれもが、動物に対しても適用することのできる考え方であるし、実際に動物に対して適用した理論家たちも存在する。しかし、左派の大半は、依然として動物に対する人間による暴力を無視している。

 

 左派が動物の問題を無視している理由の一つとして考えられるのが、人間を動物よりも特別視する一神教の考えを、意識的には否定していても、育った文化のために影響を受けてしまっている、ということである。もう一つの理由として、動物の権利の考えを実践しようとすると、肉料理や革靴を消費することを諦めるなど、自分自身の生活に不便で苦痛をもたらす変化を導入することになるから、そのような不都合を避けるために動物の権利の考えを無視してしまう、ということである。動物の権利に関係する文化的な影響や個人的な生活の影響は、同性愛者や障害者の権利に関係する影響よりも大きいものと思われる。左派といえども、人間を特別視する文化や自己利益には影響を受けてしまうのであるから、自分たちが主張している理論にもかかわらず動物の問題を無視してしまう。

 しかし、動物の権利を拒否する理由として、文化的影響や自己利益ではない、 左派ならではの理由も存在すると考えられる。それは、「動物の権利を擁護することは、その他の社会的弱者による闘争を侵害してしまうことに繋がる」という認識である。以下では、この認識が妥当であるかどうかを確かめ、左派が動物の権利を無視することを正当化する理由が本当に存在するのかどうかを議論しよう。

 

 

潜在的対立の原因

 

  アカデミズムの世界では、動物の権利に対して批判が存在してきた。例えば、社会学の中では、ゲイ/レズビアンスタディーズやラティーノスタディーズに 学問分野としての正当性を認めてきた社会学者であっても、アニマル・スタディーズには正当性を認めてこなかった。アニマル・スタディーズの研究者である アーノルド・アルクは、その他のマイノリティ・スタディーズの研究者がアニマル・スタディーズの正当性を認めないことについて、「大学の予算や、アカデミズム内での地位や存在感を巡って争うゼロサムゲームの敵役として警戒されている」「アニマル・スタディーズはその他のマイノリティ・スタディーズのパロディとして見なされており、マイノリティの闘争を貶めたり矮小化するものだと思われている」等の可能性を指摘している。「入れ替え/排除 (Displacement)」と「矮小化」が、左派が動物の権利を警戒する理由として考えられる。

 

 入れ替え/排除:左派が動物の権利の問題に時間や資源を投入すると、人種差別など他の問題についての闘争に費やされる時間や資源が失われる、という懸念。これは、他の多くの マイノリティの運動に対しても投げかけられてきた、ありがちな批判でもある。例えば、階級闘争をしている運動家は、女性差別や人種差別に反対する運動家に 対して、時間や資源を流用しているとして批判していた。

 しかし、現在の左派の多くは、社会正義を求める闘争はゼロサムゲームではないと見なしており、ある不正義を新しく取り上げることは、それまで取り上げられていた不正義を目立たなくさせるのではなく、正義一般の存在感を社会で目立たせることに繋がる、と考えている。また、多くの不正義は同じようなイデオロギーや構造に基づいて行われており、それぞれに繋がっているのだから、ある不正義を新しく取り上げることは、不正義全般と戦うのに有益である。他の運動を批判するのではなく、運動同士の共通点や交差点に注目して連帯するべきだ、というのが現在の左派の考えであり、動物の権利運動家は自分たちの考えを左派の考えの延長線上にあると見なしている。

 

 矮小化:左派の行動の対象に動物を含めることは、現在培われている正義を貶め、人間に対する不正義の深刻さを矮小化させる、という懸念。動物の「抑圧」や「奴隷化」について声を上げることは、人間に対する「抑圧」や「奴隷化」の深刻さを貶めてしまう、という考えである。

  この「矮小化」という懸念は、二つの種類に分けられる。一つ目の懸念は哲学的なものであり、人間の道徳的地位は動物の道徳的地位よりも実際に高いのだか ら、人間に対するそれと比べて重要性の低い動物に対する虐待や差別の問題と人間の問題を結び付けようとすることは、人間の問題の矮小化である、という考えである。しかし、人間の道徳的地位は動物の道徳的地位よりも高いという主張は、先述した理性中心主義やマルクス的な能力主義ユダヤ-キリスト教的な考えであ り、現在の左派には受け入れられるものではない。

 二つ目の懸念は哲学的なものではなく、社会正義の問題に動物の権利が関わるようになったときに起きるかもしれない事態に対する懸念である。動物の権利が社会的に受け入られるようになり、人間と動物との道徳的な境界が曖昧になると、抑圧された人や社会的弱者の権利の根拠が崩れしまうかもしれない、という考えである。社会的弱者が存在を認められる権利は、常に危険に晒されているからこそ、常に守 られていなければいけない。人間と動物を分け隔てる道徳的なヒエラルキーは、「人間であるから」という理由で社会的弱者の権利を認めさせることができるので、必要である。哲学的には擁護できない考えだとしても、人間の動物に対する優位を認めることは社会的弱者の権利を認めさせるのに最も有効な手段であるという主張は、多くの人が妥当だと考える。

 しかし、証拠は逆のことを示唆する。人間と動物とを分別すればするほど、移民などの外集団の人間 が非人間化されるのである。「人間は動物よりも優れている」という信念は「ある人間の集団は他の人間たちよりも優れている」という信念に繋がっている。そのことは心理学の研究でも実証されている。人間の心理的な機能の多くは、動物に対するネガティブな態度と外集団の非人間化を繋げさせる。逆に、動物の感情 や特徴を認められる人たちには、外集団の人間についても平等を認められる人が多い。人間と動物との地位の分断を抑えることは、人間集団間での偏見を減らして平等を促進することに繋がる。人間を特別視させるイデオロギーを批判することが社会的弱者の立場を弱めることに繋がる、という証拠はないのである。

  「入れ替え/排除」と「矮小化」のどちらの懸念も、実際に懸念されている事態が起きるかどうかは疑わしい。そして、懸念されている事態が起きるという証拠はないが、逆の証拠は存在する。これは、現代の左派が理論の前提としている、人間の価値についての考えと「不正義は相互に繋がっている」という考えから予測できることである。 正義・権力・抑圧・ケア・民主主義などについての左派の意見から動物を排除すべきだという考えは、左派の理論そのものと反しているのである。

 

文化帝国主義と人種偏見

 

 

 左派が動物に対する暴力に関心を示さない理由が「入れ替え/排除」と「矮小化」に対する懸念だけであったら、問題は簡単だ。しかし、懸念は他にも存在する。文化帝国主義と人種的特権である。動物の権利運動家の目的は力の無い弱者である動物を守ることだが、多くの人は動物の権利運動が白人・中産階級・西洋人の特権を強めて、マイノリティ集団と非西洋社会の力を弱めさせてスティグマ化させることを懸念している。動物に関わる問題が、白人/西洋文化を特別に人道的で文明化された存在だと位置付けて、マイノリティ/非西洋文化を野蛮で遅れた文化だと位置付けてしまい、人種ヒエラルキーを正当化してしまうことを懸念しているのである。

 

 西洋社会が動物を搾取する工場畜産などを発明して普及させた一方で、非西洋社会は西洋に比べて動物に尊厳を認めてきた歴史をふまえると、動物の扱いが西洋の優越を主張する根拠となる、という考えは一見すると奇妙に思える。例えば、現在のインドで動物虐待が増加しているとすれば、それは西洋の会社や西洋式のライフスタイルがインドに進出した結果であり、インド社会特有の宗教や文化的習慣によるものではない。動物に対する尊厳はある一つの人種や文化に属するものではないし、西洋独特のものではないことは明白である。

 しかし、動物に関する問題が人種的な問題になる危険性は存在する。歴史的に、支配的な集団はマイノリティや先住民集団に対して、その女性・子供・動物に対する取り扱いを"野蛮"で"遅れた"ものだと非難することで、権力を振るうことを正当化してきた。ウィリアム・ジェームズは1876年にアングロサクソンが動物に対して抱ける共感は名誉に値するものであると書いているし、当時の動物愛護運動がジェームズの書いたような主張と結びついて、「文明化した集団だけが他の集団を"人道的"に取り扱うことができる」として他人種に対する優越を主張する言説が生じた。

 

 同じような人種差別的構造は、動物の扱いをめぐる現代の議論にも存在する。動物への危害が公的な問題として取り扱われるときには、マイノリティの慣習が標的になることが多い。例として、「先住民によるアザラシ・クジラの狩猟」「ユダヤ教イスラム教によるコーシャーやハラールなどの屠殺方法」「サンフラシスコの中国系アメリカ人による動物マーケットや、中国レストランでのフカヒレスープの販売」「アフリカ系アメリカ人による闘犬」「韓国系アメリカ人による犬食」などがあげられる。マジョリティがマイノリティの動物に対する慣習を取り上げて批判するとき、それらの慣習が対象とする動物の数に比べて遥かに大量の家畜に対する虐待にマジョリティ自身が関わっているということが無視されがちである。動物の扱いを向上させたいからという意図であったとしても、人種的マイノリティによる慣習を取り上げて批判することは、昔から続く偏見を再生産することに繋がりかねないし、そもそもマイノリティの慣習が無かったとしても救われる動物の数は少ないのである。

 ただし、マイノリティによる慣習が取り上げられることが多いことについては、動物の権利団体のキャンペーンが原因だということはほとんど無い。PETA、ファーム・サンクチュアリ、動物解放戦線などの動物の権利団体は「人間には、人間の利益のために動物に危害を与える権利は無い」という原則を掲げており、動物に対する組織的・商業的な搾取に反対している。動物の権利団体が反対する対象は畜産、動物実験、毛皮、サーカス、動物園、パピーミル(子犬の悪質なブリーディング)などであり、これらの慣習は特にマイノリティと関連付けられている訳ではない。

 マイノリティの慣習は取り上げられがちなことは、動物の権利運動の結果ではなく、むしろ動物の権利運動が成果を収めていないことを示している。動物の権利の観点からすれば、犬を食べることも豚を食べることも、それらの動物の生命や自由の権利を奪っているという点で、等しく悪いことである。しかし、一般の人々は、「残虐な」「不必要な」危害を動物に加え無い限りは、人間には人間の利益のために動物に危害を与える権利があると考えている。しかし、どのような危害が「残虐・不必要な危害」であると見なすかは文化によって変わるからこそ、この考えは偏見へとつながる。「犬や馬を食べることは残虐であり、豚や牛を食べることは残虐ではない」「宗教的な儀式の生贄のために鶏を殺すことは残虐であるが、肉を食べる楽しみのために鶏を殺すことは残虐ではない」「狐狩りは残虐だが、狐の毛皮をとることは残虐ではない」これらの考えは、いずれも文化的な価値観が由来となっているものである。一般の人々がこれらの考えを主張してマイノリティを批判することは、動物の権利の考えが大衆に浸透していないということを表している。

 しかし、動物の権利団体にも、人種差別として批判されている点は存在する。動物の権利団体は家畜への苦しみを減らすためにビーガン(完全菜食主義)のライフスタイルになるべきだと主張しているが、ビーガンのライフスタイルは適切に努力すれば誰にでも実行可能だという考えは、個人間の文化的・経済的・人種的な環境の差を無視している。他者に対する抑圧の上で成り立っている特権的な階級である白人の価値観を強調しているという点で、動物の権利団体は白人主義的である(performing whiteness)と批判される。この点が、左派が動物の権利に対して道徳的な懸念を抱く理由である。北米の左派にとっては、白人主義的であることが何よりも重大な罪であり、進歩的な組織はいかなることであっても白人主義的であるとして批判されることが起こらないように苦心している。フェミニズム・ゲイ・障害者・反貧困運動は白人主義的であると批判された歴史があり、自分たちの運動に人種マイノリティを含めるために議論を重ねてきた。現在でも左派と人種マイノリティとの同盟関係は脆弱なものであり、この同盟を危険にさらす要素を左派は避けたがる。

 場合によっては、白人主義であることに対する左派の懸念は、動物の権利について考えることを避けるための単なる言い訳である場合がある。人種差別の再生産に反対する誠実で原理的な理由によって動物の問題を避ける左派もいるが、単に動物に対する暴力を無視し続けていてそれを正当化したいと思っている左派は「動物愛護運動は人種偏見や文化帝国主義につながる」という言い訳を好んで使う。誠実な信念にせよ、不誠実な言い訳にせよ、「動物愛護運動は白人主義的である」という考えは、動物の権利運動を左派から孤立させている。左派が動物の権利を主張するためには、白人主義・文化帝国主義だという懸念を解決する必要が有る。人種運動に関わる運動家や学者が抱いているような「動物の権利運動は、人種差別に対する闘争に興味がなくて無視している白人が行う、白人の特権を強化するための運動である」という考えを克服しなければならない。

 動物の権利を主張する人たちは、自分たちの運動が人種マイノリティに与える影響を認識していなければならない。しかし、人種差別改善を主張する人たちの方も、自分たちの運動が動物に与える影響を認識すべきである。

 

多文化主義的な動物の権利論へ

 

 文化帝国主義や人種偏見の間にも、いくつかのそれぞれ異なる動力があり、問題を解決するためにはそれらの違いを理解するべきである。

 一つは、動物の問題を文化帝国主義や人種差別のための道具として意図的に使用することである。例えば、マイノリティを攻撃するために動物の福祉を持ち出すことであり、具体例としては、動物に対して配慮を示したこともないような欧州の極右反イスラム団体がイスラムを攻撃するためにハラールを取り上げて残虐だと批判することである。このような場合、動物福祉は人間の間の不平等や不正義を正当化するのに利用されている。

 マイノリティ集団は、自分たちの動物に関する慣習に対する批判の全てを、マジョリティが差別を正当化するために偽善的なダブルスタンダードを唱えている、と認識することが多い。しかし、上述したように、動物の権利団体の主たる批判対象はマジョリティの慣習である。畜産や動物実験など、強力な企業や権力と結びついている慣習を批判しているために、動物の権利団体は嘲笑されて周辺化・犯罪化されている。動物の権利団体は、マイノリティによる慣習についてコメントを求められる際に、動物の問題を特定の文化や人種に対する差別に結びつけることを否定する。しかし、人種差別や文化差別の存在する現状では、動物の権利運動がマジョリティに利用され、マジョリティの慣習に対する批判を無視されてマイノリティの慣習に対する批判だけ取り上げられる危険性が常に存在する。動物の権利団体はこのような危険に備えていなければならない。

 ただし、マジョリティに利用されるという危険は、動物の権利に限ったものではない。動物の権利をマイノリティ差別に利用する右翼団体は、女性の権利・ゲイの権利・子供の権利もマイノリティ差別に利用してきた。女性の権利やゲイの権利に配慮を示してきた記録も無いような右翼団体が、イスラム系移民を差別するときには女性の権利やゲイの権利を持ち出すのである。しかし、女性の権利やゲイの権利が差別に利用された時にも、左派は女性の権利やゲイの権利についての主張を弱めたわけではなく、右翼団体や文化差別を批判しながら、権利の普遍性を改めて主張してきた。例えば、女性の権利を主張する人たちは女性の権利を主張するための道徳的な基盤は全ての社会に存在すると主張して、ある集団にはジェンダー平等が達成できるための文化的DNAが存在しているが別の集団にはそのような文化的DNAは存在していないという本質主義的な見方を否定してきた。また、左派は自分たちの運動の恣意性やダブルスタンダードを抑制するためのチェック・アンド・バランス機能を構築するようにしており、西洋主義やエリート主義を抑制して多種多様な人々の意見を包括するための継続的な努力がなされている。このような左派による努力の末、例えばフェミニズムにおいては、ポストコロニアルフェミニズムや多文化フェミニズムなどの新たなフェミニズムが誕生している。

 動物の権利についても、左派はポストコロニアルな動物の権利理論を主張することができる筈であるし、実際に多くの著者がポストコロニアルフェミニズムを参考にしながら動物への抑圧に対する反対と人間への抑圧に対する反対を結び付けるための議論を主張している。上述したように、ある権利の主張がある集団に対する差別や文化帝国主義に利用されるという危険は動物の権利に限らないし、他の権利と同じように動物の権利においても、文化帝国主義や人種差別の危険に対抗するための措置をとることができる。にもかかわらず、左派は動物の権利の問題に関わることを拒む。左派による人間の権利へのスタンスと動物の権利へのスタンスの非対称性を考えると、左派は単に動物の問題を重大な問題だとは見なしておらず、人間による動物に対する暴力に無関心であるのだと考えられる。

 動物の権利を無視するための根拠として文化帝国主義を持ち出すのは、理論的にも恣意的であるし、非生産的である。現状が維持されたままでは「"残虐"で"不必要な苦痛"はよくないが、それ以外の場合は動物を利用してもいい」という構造が残されて、動物に対しても多大な被害を与え続けるだけでなく、「"残虐"で”不必要”な苦痛を動物に与えている」として批判されるマイノリティに対する差別も残ってしまう。このような構造は法律において顕著であり、動物への残虐な処遇を禁止する法律は、畜産や動物実験などの慣習は「一般に受け入られているから」という理由で残虐ではないと定義して、マイノリティの慣習と個人による猟奇的な行為だけを禁止している。

 2008年のカリフォルニアの住民投票では仔牛・鶏・豚を対象とした「動物の残虐な扱いを予防する州法」が成立するなど、「残虐」や「不必要な苦痛」という言葉はマジョリティの慣習に対して向けられる場合もある。しかし、そもそも、人間による動物に対する暴力のほとんど全ては不必要である。人間は肉を食べなかったり毛皮を着なかったり動物園に行かなくても生きていける。現行の法律は、雌鶏を一生500㎠の檻で過ごさせるのは残虐だが、檻の大きさを750㎠にすると残虐でなくなるとしている。このような法律は、動物のためにあるというよりも、人間のマジョリティが残虐だと感じなくなる程度にだけ動物の状況を改善することで、マジョリティに安心感を与えて気分を良くするためのものである。

 法律の文章に「残虐」だと定義されている物事と比べると、実際の人々が「残虐」だと感じる物事の範囲は広く、時には、社会的に広く受け入られている慣習であっても抗議や批判の対象となることはある。しかし、「残虐」だという批判はマジョリティの不快感に基づいているのだから、マジョリティにとって物珍しく見慣れていないマイノリティによる慣習の方がより多くの不快感をマジョリティに引き起こすので、批判の対象になりやすい。結局、マジョリティが動物に与える苦痛は「必要な苦痛」だがマイノリティが動物に与える苦痛は「不必要な苦痛」である、ということになってしまうのである。

 人種間や文化間のヒエラルキーを問題だと思うなら、動物虐待防止に関する法律や規範に潜む上述したような構造も問題にするべきである。しかし、左派はこの問題について何も反応してこなかった。動物の権利を主張することは人種偏見に繋がると考える左派は動物に対する抑圧について沈黙を続けるのだが、沈黙を続けることは動物虐待防止に関する法律や政治が引き起こする文化偏見を永続させることにつながってしまうのだ。

 

 動物の権利の考えは、マイノリティとマジョリティの両方に対して、動物の取り扱いに倫理的な正当性を要求することである。明らかに、マジョリティ同様にマイノリティもこの考えを拒みたがっている。北米における動物の権利に関する論争では、マジョリティもマイノリティも、自分たちの動物の取り扱いは倫理的に正当であると示そうとすることすらしない。「不必要な苦痛」の言説は、マジョリティが自分たちの慣習を倫理的に審査することから免れさせているだけでなく、マイノリティに言い訳を与えてもいる。批判を受けたマイノリティは、自分たちによる動物の取り扱いには倫理的な正当性があると示すのではなく、マジョリティの慣習の方がより悪質なのだから自分たちの慣習だけ取り上げて批判するのは恣意的なダブルスタンダードだ、と指摘することで反論する。マイノリティとその擁護者は、自分たちに対するマジョリティによる権力の行使に目を向けることで、動物たちに対する自分たちによる権力の行使から目を逸らす。この文脈では、多文化主義帝国主義的な機能を担ってしまうのである。

 マジョリティとマイノリティの両方による動物に対する権力の行使を批判するためには、私たちが多文化的動物政治空間(Multicultural Zoopolis)と呼ぶ、ポストコロニアルで人種非差別的な動物の権利論を主張しなければならない。動物に対する搾取は現代の社会に根付いている以上、多文化主義的な動物の権利論はマジョリティにとってもマイノリティにとっても心地よくないものとなるだろう。しかし、マイノリティの慣習を批判することは、必ずしも(少なくとも、左派が提唱しているような)多文化主義と相反するわけではない。コミュニティには自分たち文化や伝統を維持し再生産する権利があり、それらの文化や伝統は批判や倫理的な審査からは免除される、と主張する保守的・コミュニタリアン的な多文化主義については、多文化主義的な動物の権利論とは相反するだろう。しかし、このような多文化主義は強制的な結婚や名誉殺人などの慣習を維持する権利も認めてしまうものであり、左派によって支持されたことは一度も無い。左派は流動的(transformative)な多文化主義を支持しているのであり、それは社会正義や人権・市民権の考え方に根付いており、主流集団の特権もマイノリティのスティグマ化も批判するものである。進歩的な多文化主義の考えは、権力の行使に道徳的な説明責任を求める。このような多文化主義と動物の権利論は、相反するのではなく、正義や道徳的な説明責任への深いコミットメントという根源を同じくするものである。人間の権利についても動物の権利についても、道具化や文化帝国主義の危険を避けることはできる。ポストコロニアル多文化主義的な動物の権利論は、マジョリティに対してもマイノリティに対しても、自分たちの動物に対する慣習を大幅に変革することを要求するのであり、だからこそ多文化主義的なのである。

 

 また、多文化主義的な動物の権利論は、現行の「残虐」や「不必要な苦痛」の考えよりも、文化間の相互理解に開かれている。動物の権利論はマジョリティの慣習を非合法であると見なし、人間と動物の関係を考えるための新しい枠組みを求める。西洋社会は動物を所有物と定義し続けてきて、現在の動物に関する議論も「家畜」や「ペット」など動物を所有物と見なす枠組みに影響を受けている。人間と動物の関係を考えるためには、「所有物」ではない全く別の新しいカテゴリーが必要なのであり、非西洋社会はこのような考えの宝庫である。また、動物に対する搾取を終わらせたいという願望は、白人だけが抱いているわけではない。世界を見ると菜食主義者の大半は白人ではないし、北米に限っても、菜食主義の支持者に有意な人種差や民族差は存在しない。むしろ、白人の方が他の人種よりも菜食主義に賛成していない。いずれにせよ、動物の権利論の考え方や動物の権利への賛意は、ヨーロッパや北米の白人からも、マイノリティや非西洋社会からももたらされるものなのだ。

 擁護に価する全ての多文化主義の考え方がそうであるように、多文化主義的な動物の権利論も、マジョリティの慣習を脱中心化・脱神聖化して、多文化間の交流への道を開き、進歩的な主張の道具化を防ぎ、倫理的な説明責任から免れている特権や権力の行使を白日の下に晒す。このような動物の権利論は、左派による規範的・方法的なコミットメントから自然に発生するものである。人間による動物への暴力を左派が無視し続けることについて、正当な根拠を見出すことはもはや難しい。

 

 

 

ジェリー・コイン「障害者運動家たちがピーター・シンガーの辞任を要求」

 シカゴ大学に勤める進化生物学者のジェリー・コーンが、当人のブログWhy Evolution Is Trueで、障害者運動家たちによるピーター・シンガーへの辞職要求について話題にしていた。元記事が掲載されたのは今年の6月なので、半年近く前の記事ではあるが、翻訳して紹介する。

元記事はこちら。

Disability activists call for Peter Singer’s resignation « Why Evolution Is True

 

 

 

 二日前の記事では、ドイツで行われた哲学の学会で、プリンストン大学の哲学者ピーター・シンガーの招待が取り消されたことについて取り上げた。*1シンガーの招待が取り消された理由は、ひどい病気や奇形である新生児の安楽死についての、彼の見解だった(シンガーはそのような安楽死について、長い間賛成を表明し続けている)。この招待取り消しは、最近チューリッヒの新聞に掲載されたインタビューで、上述の安楽死についての見解が取り上げられたことによって引き起こされた。

 病に侵された乳児と大人それぞれに対する安楽死についてのシンガーの立場は、彼の公式FAQページに掲載されている。*2 以下は乳児の安楽死についての彼の見解であり、彼の批判者の多くが非難しているものよりもずっと微妙なニュアンスの見解である。

 

 

Q:あなたは「障害のある乳児を殺すことは、人格(person)を殺すことと道徳的に等しいことではない。時には、全く不正ではないこともある」と言ったとされています。この引用は正確でしょうか?

 

A: 引用は正確ですが、私が人格(person)という単語にどのような意味を与えているかを理解していないと、ミスリーディングな引用になります(引用元で ある『実践の倫理』で、人格という言葉についての議論を行っています)。私が「人格」という単語で指し示しているのは、未来について予想することができ未 来について期待や欲求を持つことができる存在です。先の質問でも回答したように、人格である存在を殺すことは、自分が時間を通じて存在するという感覚を持 たない存在を殺すことよりも、通常は重大な不正であると考えています。人間の新生児は自分が時間を通じて存在するという感覚を持ちません。なので、新生児 を殺すことと、この先も生き続けたいと欲求する存在である人格を殺すこととは、決して道徳的に等しくありません。このことは、新生児を殺すことはほとんど 全ての場合では酷いことではない、ということを意味するわけではありません。むしろ、ほとんど全ての場合で、乳児を殺すことは酷いことです。なぜなら、ほ とんどの乳児は両親から愛されて大事にされており、乳児を殺すことは両親にとって非常な不正をもたらすことであるからです。

 時には、例え ば赤ん坊が深刻な障害を持っている場合などには、新生児を死なせる方が良いと両親が考えることがあります。多くの医者は、生命を延長するための医療措置を 赤ん坊に与えないという方法で、両親の願いを聞き入れます。医療措置を与えないことは、多くの場合、赤ん坊を死なせることにつながります。両親と医者が赤 ん坊を死なせたほうが良いという決定をした際に実行する手段の範囲をどこまで認めるか、という点で私の意見は違います。延命のための医療措置を行わなかっ たり中止したりするという手段だけでなく(これらの手段は、脱水症状や感染症によって時間のかかる死を赤ん坊にもたらします)、速やかで人道的に赤ん坊の 生命を終わらせるための積極的な手段も認められるべきである、と考えています。

 

Q:健常な赤ん坊についてはいかがですか?あなたの人格性(personhood)についての理論では、もし両親が赤ん坊をいらないと思えば、赤ん坊には未来についての感覚が無いという理由から、両親が健常な赤ん坊を殺すことが認められるのではないですか?

 

A: 幸運なことに、ほとんどの親たちは自分たちの子供を愛しており、彼らを殺すという考えに恐れおののきます。もちろん、それは良いことです。我々は親たちに 子供のことを配慮するように勧めたり助けたりしたいと思っています。さらに、新生児は未来の感覚が無いからパーソンではないとはいえ、それは赤ん坊を殺す ことに全く問題が無いということを意味するわけではありません。乳児を殺すことで乳児にもたらされる不正は、パーソンを殺すことでパーソンにもたらされる 不正よりは重大ではない、ということを意味しているのです。しかし、我々の社会には、その赤ん坊を喜んで受け入れて愛するであろうカップルが多くいます。 ですから、もし両親が自分たちの子供をいらないと思っていても、子供を殺すことは不正となります。

 

 

 

 

 

 

 

 これらの見解は、道理にあったものであるように思えるし…少なくとも、正当化できる余地のある見解である…長きにわたって知られてきた見解でもある。だから、シンガーが前から賛成してきた意見を改めて表明したことが理由で彼の招待が取り消されてるというのは、不公平なように思える。とはいえ、ナチスが悪意のある安楽死を大量に行った歴史のために、当然ながら、ドイツ人は安楽死について非常に神経質である。

 

 ところが、ワシントン・タイムス紙によると、シンガーに教授職の辞任を要求する嘆願書のために、障害者運動家たちがchange.orgで署名を集め始めている。*3

シンガーの辞職とプリンストン大学が公式に彼の意見を否定することを要求する嘆願書には、800以上もの署名が集まっている。また、この嘆願書は、政治家のクリス・クリスティに「プリンストン大学生命倫理学者ピーター・シンガーが賛同している、致命的で差別的な公共健康政策を公的に否定すること」を要求している。*4

プリンストン大学は、シンガーの意見をヘイトスピーチの一種として否定することをせず、目立った教壇を16年にも渡って提供し続けて、米国のメディアと政策決定者にシンガーが接近することを支援し続けてきた。プリンストン大学は、大学そのものを、全ての年齢の障害者に対する公然として致命的な最悪の偏見の拠点にし続けてきた」と嘆願書は主張している。

 

 

 シンガーの意見は、少なくとも議論を引き起こすものではあるし、私から見ると考慮されるべき正当化がなされている意見であるが、上記の嘆願書ではシンガーの意見が「ヘイトスピーチ」とされていることに注意してほしい。これは、議論を引き起こすような問題を提起した人の経歴を傷つけようとする大学運動家たちが行う、よくある手段である。更に、実際には、少なくともアメリカでシンガーの提案が採用される可能性は非常に低いのである。

  

 嘆願書は、多くの障害者を含む運動家たちのグループが6月にナッソー・ストリートを封鎖して行った、シンガーの辞職を要求するデモがもたらしたものの一つである(プリンストン大学がシンガーを雇用した1999年から、このような抗議は定期的に行われている)。

 プラネット・プリンストン紙によると、*5

ある時点で、抗議者たちはナッソー・ストリートを回りながら行進して、「ヘイ、ヘイ、ホー、ホー、シンガーは出ていけ」と叫んでシンガーの辞職を要求した。

…参加者の一人は「私はシンガーのことを教授だとは言いたくありません。彼が教授になり得るとは考えないからです」と言った。「彼は安楽死について語っているのですから」

 

 

 以下は、プラネット・プリンストン紙に掲載されていたデモの写真である。

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 デモに参加していた人たちの一部については、私は彼らの怒りを理解できる。とはいえ、シンガーの見解によれば乳児の時に安楽死されることが考慮されるような健康状態であったような人が彼らのなかにいるかどうか、私には確かではないのだが。もしいたとしたら、私は彼らの気持ちに同感できる。その気持ちは「私はここに存在しているし、私は自分の人生に問題を感じていない。しかし、もしシンガーの言うとおりになったら、私はここに存在できなかったのだ」というようなものだろう。

 しかし、そのような意見は中絶された全ての胎児にも当てはまる。中絶された胎児のほとんどは、生まれていたとしたら障害を負っていなかっただろう。大人になることができたなら、ほとんど全ての胎児は、自分を中絶するという欲求を非難していただろう。しかし、「中絶」が生まれてくる前に行われるのか生まれてきたすぐに行われるのかということや、後者はシンガーが言及しているような種類の病気に侵された赤ん坊にだけ行われるということは、本質的な違いをもたらすようなことなのだろうか?さらに、障害を負っているが自己認識ができる程に成長した人と、彼らの両親の幸福、そして(シンガーが強調しているように)そのような人々に対する配慮が社会にもたらす負担と、それぞれの間の対立について、見解を調節する必要がある。

 そして、これらの人々がシンガーの意見についてどのように考えるかに関わらず、「ヘイトスピーチ」という理由で彼を非難したり辞任を要求することは不当である。シンガーは哲学者であり、「差別者(hater)」ではない。我々が考えるのを避けたがるが社会的に深刻な結果につながる難しい問題について、人々に考えさせることができたから、シンガーは名声を獲得してきたのだ。肉に対する欲望を満足させるために動物を食べることは正当化できるのか?豊かな西洋人である私たちは、残りの世界の国々で貧困に苦しんでいる人を助けるために収入の大半を手放すべきなのか?これらはソクラテス流の難問である。このような問題を問いかけることで、ソクラテスは死刑に処された。現代の我々はもっと人道的であり、心地よくない問題を問いかける哲学者をクビにしようとする程度で済んでいる。

ローリー・グルーエン『動物倫理入門』

 

 本書は、Lori Gruen, Ethics and Animals: An introdution (2011)の翻訳である。

 

 本書の構成としては、まず1章「動物問題とは何か」と2章「自然なことと規範的なこと」で動物のことを倫理学的に考えるために必要な基礎的な用語や理論を説明されてから、3章から6章までの各章で肉食・動物実験・動物園などでの動物飼育・野生動物という問題が個別に取り上げられている。また、7章「動物保護運動の現状」では、動物に関する問題を解決するための運動はどのようになされるべきか、ということが論じられる。

 1章と2章では「動物は道徳的配慮の対象となるのか」「人間と動物の間に道徳的な差異は存在するのか」という動物倫理の基本的な問題設定、「自然なことや文化的慣習と、規範的なことや道徳的なこととの違い」「人間と人格の違い」「道徳的行為の行為者と受け手の関係」などの倫理学的な考え方の説明、「功利主義」「権利論」「フェミニスト倫理」「潜在能力アプローチ」「徳倫理」などの様々な倫理学理論が説明される。著者のグルーエンは自身ではフェミニスト倫理を支持しているが、基本的には、特定の理論を主張するのではなく様々な理論について中立的に説明している。

 3章から6章では、肉食や動物実験などそれぞれのテーマについて、「現代の社会では肉食はどのように成立していて、それが家畜にどのような影響をあたえているか」「動物実験はどのように行われていて、実験動物はどのような生を過ごしているか」といったことが、事例を取り上げながら詳しく説明されている(主にアメリカでの事例が紹介されている)。また、動物実験の章なら「実験動物に苦痛を与えることは、実験で生まれる新薬がもたらす利益で相殺されるか」、野生動物の章なら「ライオンによるガゼルの捕食など、野生動物が別の野生動物に危害を与えることは、人間が介入して防ぐべきか」「在来種や生物多様性を守るために外来種を駆除することは正当化されるか」など、各種の問題に特有の倫理的ジレンマについて検討される。

 

 グルーエンは自身も動物保護運動に参加しており、動物は道徳的配慮の対象になると主張している立場である。個々の事例についても、例えば肉食を正当とする主張や動物実験を正当とする主張を紹介しつつも、「動物に対して重要で新しい方向づけをするのでなければ、食べる必要がないのに食用に動物を殺すことの倫理的正当化は疑わしいままである。」(p.111) 「動物の利害が考慮されず、実験者に変わるための動機がない限り、動物実験に反対するのは倫理的に妥当なことであると思われる。」(p.138) という結論を書いている。

 「動物は道徳的配慮の対象となる」という立場のなかにも様々な理論があり、利害の衝突をどう考えるかということや、抽象的な事柄や理論的な細部などについては、それぞれの理論の間でも意見が分かれる。例えば、多くの権利論者は「それがどんな利益をもたらすとしても、動物を殺害することや監禁することは動物の道徳的権利を侵害するので正当化できない。そのため、動物実験はいかなる場合でも正当化できない」と考えるのに対して、多くの功利主義者は「実験の過程で殺害や監禁などによって動物に苦痛を与えるとしても、実験の結果から得られる新薬が多くの人間や他の動物の命を救ったり苦痛を和らげたりするなどの多大な利益をもたらすのなら、動物実験は正当化できる場合もある」と考える。しかし、実際の現代社会で生じている事態のほとんどについては、ほとんどの理論が同じ回答をすると考えられる。例えば、ほとんどの功利主義者は、現代社会で行われている工場的畜産や動物実験や動物園・水族館などは、それがもたらす利益を考慮としたとしても相殺できないほどに多大で不必要な苦痛を動物に与えているので正当化できない、と考えるだろう。倫理学のなかには「動物は道徳的配慮の対象にはならない」と主張する立場もあるが、現代ではマイナーな立場だと思われる。このような事情を考慮すると、単に様々な立場を紹介したり各種の事例に関係する倫理的ジレンマについて記述したりするだけでなく、倫理的ジレンマについての著者自身の結論(また、多くの倫理学者が同意するであろう結論)を書いているのは、適切であると思う。

 

 グルーエン自身の立場は、エコロジカル・フェミニズムに基づくものである。本書のなかでも「倫理は感情ではなく理性に基づくものである」「自律した他者を尊重することが道徳的配慮である」といった考えを否定して、「理性ではなく、他者に対する共感やケアの感情こそが道徳の源である」「自律を強調するのではなく、他者との関係性や依存性を尊重することこそが道徳的配慮である」といった、フェミニズム倫理・ケアの倫理の考えがところどころで紹介されている。7章では、ポルノに反対するフェミニズムの立場から、動物愛護団体PETAがキャンペーンに女性のヌード写真を利用したことについて批判している。そして、動物に対する差別は性差別や人種差別は社会的・構造的に結びついているのだから、ある抑圧と戦っている人たちは自分たちの運動に孤立するのではなく他の抑圧と戦っている人たちと連帯すべきだ、ということを主張する。さらに、倫理学的な理論や社会運動としてのイデオロギーにこだわりすぎることは保護の対象である動物にとっても助けにならないとして、倫理的な感性を養って積極的な共感に基づいて行動することが大切だ、と主張する。

 私としては、グルーエンの主張するようなエコロジカル・フェミニズムには理論面でも事実認識の面でも問題があると思っている。とはいえ、英米の動物倫理においてエコロジカル・フェミニズムフェミニスト倫理は一定の支持を集めてきた。日本では、動物倫理とエコロジカル・フェミニズムフェミニスト倫理を結びつけた議論はあまり紹介されてこなかったので、その点でもグルーエンの本が翻訳されて紹介されることには価値があると思う。

 

 

 

Ecofeminism: Feminist intersections with other animals and the earth

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