道徳的動物日記

『21世紀の道徳』発売中です。amzn.asia/d/1QVJJSj

「文明が登場する以前の戦争」 by ピーター・ターチン

 

evolution-institute.org

 

 今回紹介するのは、進化生物学者・心理学者・人類学者たちなどが集まって進化に関する様々な記事を掲載しているサイトであるEvolution Institueに掲載された、ピーター・ターチン(Peter Turchin)の「文明が登場する前の戦争(War Before Civilization)」という記事。ターチンはコネチカット大学で生物学や人類学を研究する教授であり、戦争の歴史に関する著書を複数出版しているようだ。

 

 

Ultrasociety: How 10,000 Years of War Made Humans the Greatest Cooperators on Earth (English Edition)

Ultrasociety: How 10,000 Years of War Made Humans the Greatest Cooperators on Earth (English Edition)

 
War and Peace and War: The Rise and Fall of Empires

War and Peace and War: The Rise and Fall of Empires

 

 

 

国家興亡の方程式 歴史に対する数学的アプローチ

国家興亡の方程式 歴史に対する数学的アプローチ

 

 

「文明が登場する以前の戦争」 by ピーター・ターチン

 

 最近私が読んでいる本は、歴史家のバーナード・ベイリンの著書『The Barbarous Years(野蛮な時代)』だ*1。ベイリンは17世紀の北アメリカにおけるかなりぞっとするような状況を描き出している。私たちのもとにある歴史的資料はヨーロッパ人が関係している虐殺や非道行為に関するものが特に多いが、ヨーロッパ人は虐殺の加害者になる時と同じくらい頻繁に被害者にもなっていた。無慈悲で残酷な戦争は、アメリカ先住民たちの社会の間でも同じくらい普及していたのだ。

 狩猟のために遠出している男たちは待ち伏せされて殺されてしまい、果物や木の実を採集するために居留地を離れる女性たちも自身を危険に晒していた。時たまに、村の隅々までが大きな戦禍に晒されて荒廃させられることがあった。多くの村は防御壁によって守られていたのにも関わらずにだ。

f:id:DavitRice:20160404093541j:plain

フロリダにあった先住民の町は、防御柵と吹き藁の屋根が付いた家々を示している。上述の画像は、1564年に新世界に到着したジャック・ル・モワン・デュ・モルガスが描いた絵画に基づいて、1591年にテオドール・デュ・ブリーが彫った版画である。*2

 

 戦争の勝者は貯蔵されていた食物を略奪し、作物を破壊して家々を焼いて、生き残った人々を処刑したり損傷を与えたり攫ったりした。負けた部族の女性と子供たちは勝利した方の部族に連れて行かれることが多かったが、戦士たちは多くの場合は拷問されて殺された。

 

多くの場合、捕虜たちは身体に損傷を与えられた。次に戦争が起こっても参加できないようにするために、指は切り落とされるか噛み切られた。背中や肩を刃物で傷つけられて、計画的な拷問で責められた。女性たちが捕虜の身体を斬りつけて肉を削ぎ落としていった。固定されて動けない捕虜の身体の中でも最も敏感な場所に、子供たちが赤く焼けた石炭を押し付けた。最終的には、彼らは腹を割かれた後に焼かれて殺されることが最も多かった。彼らの身体の一部は食べられてしまい、彼らの血は祝祭として拷問者たちに飲まれてしまった。

 

f:id:DavitRice:20160404095705j:plain

 ジャック・ル・モワン・デュ・モルガスによる、カニバリズムの絵画*3

 

 危険と戦争の存在、突発的な死(さらに悪いことに、苦痛に満ちていて屈辱的な死)の脅威が絶えず続いていることは、「文明」…政府・官僚・警察・判事と法廷・複雑な経済・労働の複雑な分業を伴った大規模な国家…が登場する前の人間社会にとっては、典型的な状況であったのだ。

 一部の人類学者たちは、文明的な国家や帝国が登場する以前の小規模な部族社会における人間の生活を知るために、歴史的に知られているアメリカ先住民の社会を鏡とすることを拒否する。病原菌・金属製の道具・武器・特定の交易物(毛皮など)に対する飽くことなき強欲を伴ったヨーロッパ人たちがアメリカ大陸を訪れたために、先住民たちの社会は不安定になり部族同士の戦争の激しさと致死性を増したのだ、と人類学者たちは主張する。彼らの議論にも一理はある。一般的に、戦争の激しさは地域や時代によって非常に違うものである。とはいえ、小規模な部族社会における人間の生活は大半の人々が想像しているよりもはるかに不安定で暴力的であったのだ。

 歴史が登場する前の人間の生活について、近年の考古学は数十年前に比べて遥かに多くのことを伝えてくれるようになった。だから、小規模な部族社会の不安定さや暴力性も知ることができるのだ。例えば、700年前(つまり、コロンブスアメリカ大陸に到着する200年前)にイリノイ川に住んでいたオネオタ・インディアンの村について考えてみよう。考古学者たちはその村の墓地があった場所を特定して(ノリス・ファームス#36として知られる場所だ)、墓地に埋葬された264人の遺骸を調べた。少なくとも、264人のうち43人(16%)が暴力的な死に方をしていた。ジョージ・ミルナーは以下のように記している。

 遺骸のうちの多くが、石斧のような重たい武器によって正面・側面・背面に打撃を与えられていたか、弓矢に射たれていた。一部の人々は明らかに加害者を直面しながら死んでいったが、別の人々はそうではない。後者の人々は、自由になろうと逃走している時に攻撃されたのだろうと推測できる。時折、被害者は死をもたらされるのに十分な回数を遥かに超えた回数攻撃されていた。おそらく、一人を殺すために複数の戦士が共同して彼を攻撃したのだ。しばしば、死体からは頭皮・頭部・四肢が切除されていた。死体は殺されたその場に放置されて、動物たちによって食べられてしまった。その後で、残っていた部分が仲間によって発見されて、村の墓地に埋葬されたのだ。

 

 このような死に方は、戦争が絶えず続いていたことを示唆するものである。狩猟や採集に出かけた男や女たちは、個人や小グループを標的とした待ち伏せに晒されていたのだ。また、オネオタ村の状況はヨーロッパ人たちによって発見された後のインディアンたちの村の状況と非常に似通っていた。先述したように、一般的な暴力の程度はコロンブス到着後の時代にかなり顕著に上昇したのにも関わらずにだ。

 オネオタ村の墓地において暴力によって死んだと推定される人々の割合は16%であるが、この数字は先史時代の人々の暴力による死に関する他の推定でも平均的な数字である。先史時代の人々の生活が一律して恐ろしく残酷であった訳ではない。小規模な社会に暮らしていた人々にも、平和や繁栄を謳歌できる時期があった。しかし、別の時期には、オネオタ村の人々が耐えなければならなかった戦争よりもさらにひどい戦争が起こってもいたのだ。オネオタに居留地があったのと大体同じ時代、オネオタ村から北西の方向に数百マイル離れたところにあるサウス・ダコタのクロウ・クリークは、先史時代における虐殺が起こった場所の中でも特に有名だ。クロウ・クリークは堀によって堅固に守られた村であったのだが、それにも関わらず、敵によって侵略が行われて完膚なきまでに破壊されてしまった。

 

f:id:DavitRice:20160404113357j:plain

ジャック・ル・モワン・デュ・モルガス、火矢によるインディアンの村に対する攻撃*4

 

 およそ500人分の頭蓋骨が一つの墓に積み重ねられた。暴力的な死と、死体に対する大々的な損傷が行われたことの証拠である。ほとんど全ての死体から頭皮が剥がされいて、多くの死体は首か四肢が切り落とされていた。そして、一部の死体からは舌が切り落とされていた。

 

f:id:DavitRice:20160404114111j:plain

 ジャック・ル・モワン・デュ・モルガス、インディアンたちは敵の死体をどのように取り扱ったか*5

 

注:言うまでもないことだが、このブログ記事のタイトルは、ローレンス・キーリーによる先駆的な著書の題名に由来している。

 

 

War Before Civilization

War Before Civilization

 

 

 

「人権から感覚のある存在の権利へ」 by アラスデア・コクレーン

 

www.casj.org.uk

 

 

 先日に引き続き、イギリスの政治学者アラスデア・コクレーンがCentre for Animals and Social Justiceに掲載した記事を紹介。

 記事の原題はFrom Human Rights to Sentient Rights. 別のところで発表された論文の圧縮版のようである。記事のロングバージョンは以下から無料でダウンロードできる。

 

www.academia.edu

 

 

「人権から感覚のある存在の権利へ」 by アラスデア・コクレーン

 

 人権についての言葉・理論・実践の枠組みには大幅な変化がもたらされるべきだ、とこの記事で私は主張しよう。人権(human rights)は「感覚のある存在の権利(sentient rights)」という概念へと変わるべきなのだ。

 人権が感覚のある存在の権利へと変わることは、権利についての思考や実践において過去に起こってきた変化と同様のものになるだろう。何はともあれ、権利という概念が登場して権利に関する制度が創設されたのは比較的最近のことに過ぎない、ということは覚えておくべきだ。権利という概念が登場した時から、権利から恣意的に排除されている人たちは常に存在していた。現代における人権という概念も、ホモ・サピエンスという生物種に属さない他の全ての生き物を排除することによって、恣意的な排除を継続している。人間の権利という概念は不当に狭くて排他的であると見なされるべきだ、というのが私の主張である。権利についての私たちの理解と実践はこれまでにも進歩してきたが、感覚のある全ての生き物を含めるという革新を必然的に行うべきであるのだ。

  感覚とは「意識のある生(conscious life)」を送るために必要な能力のことだ。世界と、その中における自分の位置について経験する能力である。感覚のある存在は「独立した道徳的価値」とでも呼べるものを持っている。感覚のある存在の全てが、福祉(well-being)と利益(interest)を必然的に持っている。感覚のある存在は、自分自身の生についての利害関係(stake)を持っているのだ。

 感覚を持つ全ての生き物は権利も持っている、と私は主張しよう。権利とは何であるかという定義や、権利とは何を意味するのかということについては、これまでにも膨大な数の議論がなされてきた。とはいえ、実のところ、権利という概念は比較的単純な概念である。権利とは「保護されている利益」なのだ。他人に対して義務を生じさせるのに充分な程の重要さを持つ利益のことが、権利なのである。

 他人に対して義務を生じさせるのに充分な程の重要さを持つ利益は、人間が持っているのと同じように、感覚のある他の動物たちも持っている。そのことを私たちは実際に認識しているし、その認識はイギリスの法律に反映されている。酷い責め苦を感じないことについてクマが持つ利益は、クマを残酷な罠で捕らえない義務を私たちに生じさせる。肝臓が異常に肥大させられるまで強制的に穀物を飲み込まさせられないことについてガチョウが持つ利益は、フォアグラを製造しない義務を私たちに生じさせる。その他諸々の利益と義務がある。

 感覚を持つ全ての生き物が権利を持っているし、その権利は全て同じ根拠に基づいている。だからこそ、人権という概念が他の生物種を排除していることは、正当化するのが困難なのだ。感覚のある存在の権利という概念へ変えるべきだという主張の方が、正当な主張であるように思われる。

  しかし、人権と動物の権利ははっきり区別したままにするべきだ、と主張する人がいるかもしれない。そのような人は、人権と動物の権利は非常に異なる概念なのであり「感覚のある存在の権利」という言葉で括って一緒にするべきではない、と主張するかもしれない。例えば、人間だけが持っている特質を保護するものが人権であるのだ、と主張するかもしれない。その特質とは「人格(personhood):道徳的・反省的・合理的に行為する能力」である。

 しかし、権利についての彼らの説明には重大な問題が含まれている。まず、全ての人権が人格を保護するために存在している訳ではない。例えば、健康である権利・保護を受ける権利・拷問されない権利やその他諸々の権利は、私たちの自由意志や自律とはほとんど関係がないものである。苦しみや激痛に悩まされない最低限度以上の生活を送る権利も、自由意志や自律とは関係がない。要するに、これらの権利は人格ではなくて基本的な利益を保護するために存在しているのだ。

 とはいえ、人権を動物の権利から区別する最も明白な理由は、人権は動物の権利とは異なる内容を持っているということだろう。人権の中には動物に与えても意味のないものが存在する、ということが指摘されるかもしれない。例えば、投票する権利や公平な裁判を受ける権利などだ。

 だが、そのことが本当に問題であると言えるかどうか、疑うべきだ。結局のところ、人間に当てはまる多くの権利は動物にも当てはまるように思える。拷問されない権利、奴隷のように扱われない権利、生きる権利、健康である権利、保護される権利などだ。そして、動物の権利と人間の権利の全てが同じではないとはいえ、人間同士の間でも全ての人間が同じ権利を持っている訳ではない。人権は、一般に認識されているよりもずっと複雑であり人によって異なるものだ。大人は子供が持っていない人権を持っている。投票する権利などだ。また、障害者は健常者が持っていない人権を持っている。自分の意志で動くことが可能になるための援助を受ける権利などだ。これらの権利はそれぞれ異なるものであるかもしれないが、全ての権利は個人の基本的な利益と最低限度の生活(minimally decent life)を保護するために存在している。ただ、最低限度の生活を過ごすために必要とするものが、人によって違うということなのだ。

 同じことが、動物の権利にも当てはまる。ある動物はある人間と全く同じ権利を持たないであろうという事実は、動物の権利と人間の権利が異なる種類のものであるということを意味しないのだ。人間の権利も動物の権利も、どちらも同じ体系の一部分であるのだ。権利は、動物の基本的な利益と最低限度の生活も保護する。つまり、人間の権利と動物の権利を分別することを止めて、全ての人間の権利と動物の権利は道徳的かつ政治的に追及されるものべきであると見なす理由は、充分にあるのだ。人間の権利も動物の権利も、感覚のある存在の基本的な利益を保護するという目標の一部分なのである。人権という概念を感覚のある存在の権利という概念に改めることは、この目標を達成する助けになるだろう。

 上述した目標を達成する手段の一つは、すでに私たちが手にしているものを使うことだ。つまり、現在存在してしている人権の枠組みに、感覚のある他の存在たちの要求を繋ぎ合わせるのだ。実際に、この手段を実践した試みは行われている最中である。アメリカで行われている訴訟では、チンパンジーの憲法上の権利が訴えられている*1。この記事を掲載した団体であるCentre of Animals and Social Justiceも、ヨーロッパ人権条約を他の生物種へと拡大することを呼びかけている*2

 もちろん、条約や憲法を制定することは感覚のある存在の権利の保護を達成するための最良の手段であるのかどうか、という大きな問題は残っている。実のところ、一部の思想家たちは、動物の権利の保護を法律的な手段によって達成しようとすることは根本的に反民主主義的であると主張している。法律的な手段ではなく、文化の変革や政治過程を通じて動物の権利の保護を制定することが最良の手段である、と彼らは主張しているのだ。とはいえ、法律的な手段と政治的な手段を相互に排他的なものであると見なすのではなく、動物の権利を保護するために私たちに可能な全ての手段を追求することこそが最良の答えであろう。

 いずれにせよ、人間の権利と動物の権利とを結びつけるために働きかけることが、学者たちも活動家たちも差し迫って行うべきことである。人間の権利も動物の権利も同じ目標を共有した体系における一部分であることを認識して、この極めて重要な問題について熟議を行うべきであるのだ。

   

 

An Introduction to Animals and Political Theory (The Palgrave Macmillan Animal Ethics Series)

An Introduction to Animals and Political Theory (The Palgrave Macmillan Animal Ethics Series)

 

 

 

「誰が動物の福祉に責任を負っているのか?」 by ロバート・ガーナー

www.casj.org.uk

 

 

 今回の記事はイギリスのレスター大学の政治学部の教授であるロバート・ガーナー(Robert Garner)によるもの。ガーナーは以前から動物に関する政治学的な著作を書いており、この分野では有名な人。

 先日の記事と同じく、イギリスの「Centre for Animals and Social Justice」に掲載された記事である。

 

 

「誰が動物の福祉に責任を負っているのか?」 by ロバート・ガーナー

 

 誰が動物の福祉に責任を負っているのか?この質問は、今日の英国議会の下院で問われているものだ。また、2014年の7月に行われた、RSPCA(Royal Socity for the Prevention of Cruelty to Animals, 英国動物虐待防止協会)の創設190周年を記念するイベント(1824年に協会が創設されたのと同じ場所で行われた)でも、同じ質問が問われた。二百周年を前にしたRSPCAの活動の目標や中心はどのようなものであるべきか、ということについて考えるための議論を始めるきっかけとなる質問である。

 この質問は、少なくとも初耳の人にとっては、奇妙な質問のように聞こえるかもしれない。たしかに、私たちのみんなが動物の福祉に責任を負っているのだ、と言うことはできるだろう。しかし、それが満足のいく答えであるとは私には思えない。単純化され過ぎていて誤解を招く答えであるし、それどころか意図せずに動物の福祉に危害を与えてしまう答えでもある、と私は考えている。

 私の考えを説明するために、まず、二つの領域をはっきりと区別しておこう。一つ目の領域とは、個人(individuals)と、個人によって占められる市民社会(civil society)と呼ばれるものの領域だ。市民社会は、多くの場合は国家制度に圧力を与えることを目的として(そうではない場合もあるが)個人が参加する非政府組織によって構成されている。現代では国民国家の境界も穴だらけになっているので、グローバルな市民社会という言葉を使うこともできる。

 二つ目の領域は、国家(state)の領域である。公式的な集合的決定を下すことに責任を負っている諸制度によって構成されている領域であり、その集合的決定に従う義務を市民である私たちは負っている。グローバリーゼーションはほぼ間違いなく国民国家の力を減少させたのであり、かつて一つの国民国家が持っていた力も複数国民国家と国際的組織によって共有されるようになった。国際的組織には、欧州連合(EU)のように恒久的で広範囲な協定が結ばれているものもあれば、特定の問題や限定された範囲の問題に集中して取り組むための一時的な条約が結ばれたものもある。

 以上をふまえたうえで本題の「誰が動物の福祉に責任を負っているのか?」という質問に答えると、個人と市民社会に動物の福祉の責任を負わせることもできるし、国家に責任を負わせることもできる。もちろん、実際にはどちらの領域も責任を負っているのだ。動物を保護することを目的として制定された法律は、法律だけでなく個人も動物に配慮することの価値を理解していなければ、機能することはないだろう。同様に、なんらかの形の法的制裁が存在しなければ、動物に対する虐待は蔓延してしまうだろう。

 付け加えると、動物の福祉とは主に個人の道徳的良心の問題である、と見なすことには危険が存在する。実際に、一部の動物保護運動は個人を対象にキャンペーンを行っており、個人の道徳性に関する議論を行っていると見なすことができる。「ビーガン(完全菜食主義者)になろう!」というよく知られた呼びかけが具体例だ。別の例は、動物福祉に配慮した食品や動物実験が行われていない化粧品を買うことを消費者に促すキャンペーンである。動物の福祉は個人の良心の問題に過ぎないとしたらどうなるか、想像してみよう。個人は、自分自身の道徳的信念に従って動物を好きなように取り扱うことができるようになるだろう。国家は動物の問題には関われなくなる。その対象が動物である限りは個人が自分自身の個人的な道徳信念を自由に実行に移すことが可能である環境を作る、ということだけが国家の仕事となるだろう。人々に干渉して、一つの個人的な道徳信念に過ぎないものを全ての人に押し付ける、ということは国家が行うことではないのだ。

 上述したような道徳についての多元主義的な考えは、私たちが暮らすリベラルな社会にとっては極めて神聖なものである。道徳多元主義を重んじるリベラルな社会では、道徳についての競合し合い互いに矛盾し合う様々な見解が許されていて展開されている。ただし、他人に危害を与えるような道徳的見解は許されず、そのような場合には国家が干渉することになる。私たちが動物をどのように取り扱うかということは個人的道徳の領域に属する問題であると主張する限り、動物の問題がリベラルな道徳多元主義の範囲内に収まってしまうことは避けられない。動物の取り扱いは、人々が従うべき道徳的義務に関する問題ではなく個人の選好の問題に過ぎないと見なされてしまうのだ。

 もちろん、動物のために行われてきた運動のなかでも個人の道徳を対象にした運動がいくつかの望ましい結果を生み出してきたことには疑いがない。現代には過去よりも多くのベジタリアンやビーガンが増えており、その結果として、ベジタリアンやビーガンの消費者にとっては商品の選択肢が増えている。また、工場畜産ではなく放牧されて育てられた動物による畜産品が過去よりも市場に増えている。更に言うと、人々の道徳的見解には避けられない違いがあるということをふまえれば、個人の選択を重視するというリベラルな方法は開明的で礼儀正しい方法のように思える。更に、動物を良く取り扱うことについて人々が積極的になり個人の道徳的選好としても普及したならば、世論を変えることができるかもしれないし、それにより政策決定者たちにも影響を与えることができるかもしれない。

 それでも、動物の取り扱いを個人的な道徳の問題であると見なすことには非常な欠点がある。結局のところ、ある人が自分の生活習慣を改めるかどうかはその人の個人的選択の問題のままであり続け、行動を変えることを国家が個人に強制するのは禁じられている。さらに重要なのは、個人の道徳を強調することは、動物を保護するための措置を実施することから逃れるための言い訳を政策決定者たちに与えるということだ。

 動物が感じている苦しみに道徳的に配慮している人のための選択肢が用意されていることと、動物の福祉を守るための制定法が比較的に不足しているということに関連性があるかどうかは証明できない。だが、膨大な選択肢が存在しているという事実が、動物に苦しみを与えるといういまだに許されている行為を更に口当たり良くして受け入れやすくしていることには疑いがない。動物の福祉を守る法制度が不足していることや現存する法制度の効力が弱いことを国家に対して批判した時にも、動物の福祉は個人の選好の問題だと国家に言われれば、それで済んでしまう。つまり、ビーガンになることや工場畜産ではなく放牧された動物から生産された畜産品を食べることが大多数の人から選択されない限り、国家は動物の福祉のために行動する義務を見出さないのだ。

 結果的には、動物を搾取する行為を私もあなたも止めるかもしれないし、私の道徳的な選択は他人から尊重されるか、少なくとも否定はされずに認めてもらえるかもしれない。私はビーガンかベジタリアンになるかもしれないし、畜産品は放牧された動物から生産されたものしか食べなくなるかもしれない。しかし、大多数の人々は、国による強制がない限りは私たちと同じ選択をしないだろう。動物の福祉が道徳的な選択の問題なら、他の人々は私たちとは反対の選好をする権利を持っている。私もあなたも他人の選好を尊重しなければならないし、誰かと根本的に考えが合わないとしても、その人が自分自身の選好を追求するのを邪魔してはいけないのだ。そして、放牧された動物による畜産品も存在しているが工場畜産で生産された畜産品も存在しているのであり、動物実験が行われていない化粧品も存在しているが動物実験が行われている化粧品も存在しているのだ。

 上述したような事情こそが、動物の福祉とは個人の道徳的良心に委ねれば済む問題ではない理由だ。個人の道徳を対象とした運動を行うことによってのみ動物を保護しようとすることは、動物の問題を政治的な領域から排除してしまい、全ての人に対して強制力のある法規制を成立させる可能性も潰してしまう。個人の道徳を対象にした運動には、意図していないとはいえ、これまでの進歩を無かったことにしてしまう可能性がある。動物の利益を保護する直接的な義務を国家も法制度も見出しておらず、人間に対する危害につながらない限りは動物の虐待に対して国家による行動がとられることがなかった時代へと後戻りしてしまう可能性だ。

 動物の扱いについては社会が集合的な責任を負うべきであり、つまり国家が責任を負うべきなのだ。その理由は、私たちが動物に対して何を行うかということは慈善事業やボランティアの問題ではなく正義の問題であるからだ。私たちが動物に行うことは動物に危害を与える可能性があるから、私たちが行うことは動物にとって問題となるのであり、動物には道徳的地位がある。だからこそ、動物は正義の対象であるべきだ。

 

 

A Theory of Justice for Animals: Animal Rights in a Nonideal World

A Theory of Justice for Animals: Animal Rights in a Nonideal World

 

 

 

「動物の福祉 VS 動物の権利:誤った二分法」 by アラスデア・コクレーン

 

www.casj.org.uk

 

 今回は、イギリスのシェフフィールド大学の政治学部で政治学理論の講師をしている政治学者アラスデア・コクレーンの記事を紹介。コクレーンは動物の権利・動物倫理に関する単著も出版している。

 原文が掲載されているサイトは「Centre for Animals and Social Justice」で、動物と社会正義について扱うシンクタンクである。この記事も、動物保護運動を行っている・賛成している人向けに書かれていると思われる。

 

「動物の福祉 VS 動物の権利:誤った二分法」 by アラスデア・コクレーン

 

 先日、イギリス保守党の下院議員サイモン・ハートが、RSPCA(Royal Society for the Prevention of Cruelty to Animals, 英国動物虐待防止協会)を「団体の動物福祉的な起源の影に隠れた、動物の権利団体」になりつつあると非難した*1。この非難の背景にある理由も(意外性がないとはいえ)興味深いものであるが、私が最も興味をそそられるのは、この非難の前提になっている考えだ。「動物の権利」と「動物の福祉」との間には基本的な違いがあって矛盾が存在している、という考えである。

 もちろん、この考えはハート議員だけが抱いているものではない。実際、動物の権利と動物の福祉という二分法は動物たちにより良い保護を与えることを目標に努力している人たちのことを区別するのに有意義で便利な方法だ、という考えはありふれている。

 しかし、私はこの二分法は誤っていると主張しよう。動物の保護についての考えや議論において、この二分法が普及してしまっている事態は無益である。 動物の権利と動物の福祉との間に根本的な違いは存在しない、と私は考えている。動物保護運動を行っている人たちはこの二分法によって自分たち自身を分割するべきではないし、他人から分割されることも拒否するべきだ。

 では、一般的には動物の権利と動物の福祉はどのように区別されているだろうか?多くの場合は、人間による動物の使用についてのそれぞれ違った考えであると表現されている*2。世間に定着している説明は以下の通りだ。動物の福祉という立場は、動物に対して不必要な苦しみを与えない限り人間による動物の使用自体には全く問題が存在しないと見なしている。他方で、動物の権利という立場では、生じる苦痛の量がどれ程のものかということには関係なく人間による動物の使用と搾取は全て拒否される。

 上述の二つの立場が動物保護運動の代表的な理念として見なされているのは、奇妙なことだ。そもそも、どちらの立場も、私たちは動物にどのように接するべきかということについての首尾一貫した考えであるという評価はさほど得られていない。さらに、動物保護運動を行っている個人や団体の中でも、動物の権利と動物の福祉とのどちらかの立場に従って運動を行っている人や団体を見つけることは難しい。例えば、自分たちは動物の権利という考えに基づいて運動を行っていると称している団体でも、実際には、動物に苦しみを与えることに対して反対活動を行うことが多い。

  実のところ、動物保護運動を行っている人と団体の大半は、動物の権利や動物の福祉よりも思慮深い考えを抱いているのだ。人間による動物の使用について、一部は完全に正当であると見なしているし別の一部は全く許されないことであると見なしているのである。

 例えば、猫をペットとして飼うことは動物の使用としても全く問題のない行為である、と大半の人は考えている。盲導犬や障害者の補助犬として犬を使用することについても、全く問題のない行為だと大半の人は感じている。同時に、人間が武勇を誇示するためにショットガンを持ってゾウを追い回すことは動物の使用としても全く許されない行為である、と私たちの大半は考えている。化粧品のために行う有害な動物実験にラットやマウスを使用することも、許されない行為であると私たちの大半は感じている。

 人間による動物の使用のうち何が認められて何が許されないか、ということについて全ての人が同じ意見を持っているのだと主張している訳ではない。そのような主張をするのは馬鹿げているだろう。動物保護運動を行っている人たちの間でも、人間による各種の動物の使用について、それぞれ違った意見が抱かれていることは明白だ。そのような意見の多様性が存在していることは予期できるし、成功している社会運動では歓迎される特徴でもある。私が強調したいのは、動物の使用は全て認められないという考えに基づいて運動を行っている動物保護団体は存在しないし、動物の使用は全て認められるという考えに基づいて運動を行っている動物保護団体も存在しない、ということだ。動物保護に関わる思想家や活動家がとっている立場は、動物の権利や動物の福祉という立場よりも遥かに繊細な立場なのである。

 さらに言うと、思慮深い唯一の立場とは上述したような繊細で洗練された立場であるし、このことは特に驚くべき事態でもないのだ。結局のところ、人間の使用という問題について論じる際にも、物事を黒か白かで判断する意見は思慮深いものではない。問題の文脈や事情について敏感でありながら考える繊細な意見こそが、思慮深い唯一の意見なのだ。例えば、ラジエーターを修理するために配管工を使用することが認められるのは明らかであるが、鉛管に問題が起こった時にはいつでもすぐに配管工を使用することができるようにしておくために配管工を地下室に監禁することが認められないのも明らかだ!

 同じように、これまで世間で考えられてきた動物の福祉と動物の権利という二つの立場は、どちらも首尾一貫していないし、動物のより良い保護を求める思想家や活動家たちを分別するのに有意義な二分法でもない。では、動物保護運動において、動物の福祉や動物の権利という言葉を使う意味はあるのだろうか?

 意味はある、と私は考えている。ただし、動物の権利や動物の福祉という言葉は、動物のために闘っている人たちの間の共通点や団結を表現するために使われるべきである。

 まず、動物たちの経験している窮状が気がかりであり彼らに保護を与えたいと思っている人たちは、全員が福祉主義者である。つまり、動物たちのために戦う人たちの動機となっているのは、動物たちの福祉であるということだ。動物たちは自分たち自身の生を過ごしており、その生は楽しく過ごせるものになる場合もあれば耐え難いものになる場合もあるという事実こそが、私たちが動物たちの窮状について懸念する理由である。感覚があり、意識があり、経験をできる全ての生き物たちが抱く苦しみへの配慮こそが、動物保護運動を成り立たせて結びつけるものだ…だから、根本的には、動物保護運動に参加している人々は全員が福祉主義者なのだ。

 そして、動物保護運動に参加している人々の全員が動物の権利に携わってもいる。私たちの全員が、動物の使用の一部はまったく許されないのであり禁止されるべきだ、という考えを共有している。この考えは、必然的に動物の権利に携わることを要求する。もちろん、動物を巻き込む慣習のなかでもどの慣習が禁止されるべきでありどの慣習は禁止されるべきではないか、ということについては私たちの間でも意見の違いがあるだろう。だが、上述したように、そのような意見の違いは健全な社会運動にとっては避けられないことである。認められない習慣が存在しているということに私たちが同意していて、動物たち自身のためにその習慣は法的な強制力を用いて禁止されるべきだということに同意しているのなら、私たちは動物の権利に携わっていることになるのだ。

 要するに、動物の権利運動を行っている人たちは自分たち自身を「福祉」や「権利」というラベルで分割するべきでないし、他人から分割されるべきでもない、と私は提案したいのだ。むしろ、動物の福祉と動物の権利はどちらも価値があり矛盾せずに両立する考えなのだ。重要なのは、動物の福祉と動物の権利という考えは、動物たちにより良い保護を求める人たちを結び付ける核心となる考えであるということだ。

  

 

 

Animal Rights Without Liberation: Applied Ethics and Human Obligations (Critical Perspectives on Animals)

Animal Rights Without Liberation: Applied Ethics and Human Obligations (Critical Perspectives on Animals)

 

 

 

 

 

 

 

「動物の感情、動物の感覚、動物の福祉、動物の権利」 by マーク・ベコフ

www.psychologytoday.com

 

「動物の感情、動物の感覚、動物の福祉、動物の権利」 by マーク・ベコフ

 

 私が書いてきた本やブログ記事の多くは、動物の感情や感覚という話題を扱ったものだ*1。この記事では、動物は実際に苦痛を感じることができるし深い感情を持っている、という結論がもたらす意味について手短に論じよう。動物が苦しむことができるとしたら、私たちは動物に対して不必要な苦痛を意図的に引き起こさないように注意しなければなくなる。不必要な苦痛を意図的に引き起こすことは道徳的に間違っているからだ。もちろん、飼い犬の肺感染症を治療するためや脚部の重度の関節炎によって時おり引き起こされる苦痛を和らげるために、痛みを伴う注射を飼い犬に処置することは認められるだろう。ここでの主な論点とは、苦痛を引き起こされることがその動物にとって苦痛を上回る利益を与えない限りは動物に対して不必要な苦痛を意図的に引き起こすことは不正である、という考えを出発点にすべきだということだ。

 人間は動物を檻や籠のなかに入れたままにしておくべきなのか、人類の繁栄のために動物を絶滅させるべきなのか、快適に生きられている場所から(動物の種を守るためという理由で)死ぬ可能性がある環境へと動物を移動させるべきなのか?人間と動物や自然との関係は、大量の複雑な問題を引き起こす。動物の身体的健康や心理的健康について配慮している人たちの間でも既存の問題の解決策について意見が一致していないことは、不思議に思われる場合が多い。動物の保護に関心のある人たちのなかには動物の福祉(aninal welfare)を主張する人もいれば動物の権利(animal rights)を主張する人もいるが、どちらも同じ解決策を支持する筈だろうと思われているのだ。だが、多くの場合、実際にはそうならない。

 不必要な苦痛を引き起こすことは認められないが動物に苦痛を引き起こすこと自体は認められると考える人たちは、動物の福祉(welfare)や生活状態(well-being)や生活の質(quality of life)について配慮することが私たちが行うべきことの全てである、と主張する。彼らは「福祉主義」を実践する「福祉主義者」と呼ばれている。人間は動物をみだりに虐待するべきでない、と福祉主義者たちは考えている。また、動物の福祉に配慮することとは身体的にも心理的にも快適な生活を動物に過ごさせることである、と福祉主義者たちは考えている。動物が快適さを感じていて、生活のなかで経験できる喜びをいくつか経験しており、幸せそうに見えて、苦痛・恐怖・飢餓やその他の不快な感情を慢性的または激しく感じていないとしたら、動物は元気に過ごしているのだと見なされる。動物が健常に成長や生殖できており、病気・怪我・栄養失調やその他の苦痛を経験していないとしたら、動物たちは良好に生きているのであり私たち人間は動物に対する義務を完遂しているのだ、と福祉主義者は主張する。

 福祉主義者たちは、一定の保護措置がとられているなら人間の目的を満たすために動物を使用することには全く問題がない、とも考えている。動物を実験に使用したり人間の食料とするために屠殺することは、その実験や屠殺が人道的な方法で行われている限りは問題がない、と考えているのだ。死亡率の高い動物園や水族館に動物を拘束することも認められる、とも考えている。動物が不必要な苦痛を受けて苦しむことを福祉主義者たちは認めないが、どのような苦痛が「必要」であるかということや具体的にどれ程のケアをすれば動物に対する人道的なケアと見なせるか、という点については福祉主義者たちの間でも意見が一致しないことがある。だが、動物が経験する苦痛や死は、その苦痛や死が人間に与える利益を理由に正当化できる場合がある、という点では福祉主義者たちの意見は一致している。彼らにとっては、目的は手段を正当化するのだ。動物を使用することが人間の利益にとって必要であると考えられるなら、動物が苦痛を経験するとしても、動物の使用は認められるのだ。

 基本的には、福祉主義者は功利主義者である。動物を使用することによって人間が得られる利益が使用されることによって動物が経験する痛みや苦しみを上回っている場合には、犬・猫・プレーリードッグやその他の動物を使用することも認められる、と功利主義者は考えている。動物の苦痛や死を引き起こすことは、それが人間にもたらす利益によって正当化される。動物が苦しむとしても、人間が利益を得るためには動物を使用することが不可欠であるなら、目的(人間の利益)が手段(動物の使用)を正当化するのだ。人間の利益のために動物をあちこちに移動させたり、医学生の教育のために犬を使用することを正当化しようとする人は、功利主義的な主張を用いることが多い。放し飼いで育てられたニワトリの肉は抵抗なく食べることができるが、残酷な方法で嘴を切り取られて非人道的なバタリーケージに閉じ込められて育てられたニワトリの肉を食べることには抵抗を感じる、という人も功利主義的な主張を行っている場合が多い。

 では、動物の権利を主張している人はどのように考えているのだろうか?ノースカロライナ州立大学の名誉教授であるトム・レーガンは、現代における動物の権利運動の創始者であると見なされることが多い*2レーガンが1983年に出版した著書『The Case for Animal Rights』は動物の権利に関係する業界の間で多くの関心を引き付けてきた。動物は権利を持っていると考えている人たちは、動物の生命は動物自身にとって重要であるから価値があるのであり、人間に与える利益のために価値があるのでもなければ動物が人間に似ていたり人間と同じような行動をするから価値があるのでもない、ということを強調する。動物は所有物や「物」ではなく、生物なのであり、生活の主体であるのだ。動物は同情・敬意・友愛を示して援助をするのに価する存在である。権利主義者たちは、私たちが一定の権利を認めている生物種の領域を拡げようとしている。動物は人間と比べて「劣っている」のでもなければ「価値が少ない」存在でもないのだ、と権利主義者たちは主張する。動物は、人間に虐待されたり支配されたりする可能性のある所有物ではないのである。動物に起こる苦痛と死は、それがどれ程の量であっても、不必要であり認められないものとされるのだ。

 福祉主義者たちと同じように、権利主義者たちも動物の生活の質を問題とする。だが、権利主義者によると、動物を虐待したり搾取することも動物に痛みや苦しみを引き起こすことも不正であるので、動物が食べられる・動物園に閉じ込められる・大半(または全て)の教育機関や研究機関で使用されることはいずれも認められない。生きる権利や危害を受けない権利を含めた、一定の道徳的権利と法的権利を動物は持っているのだ、と権利主義者は主張する。ラトガー大学の法学者ゲイリー・フランシオーンによると、動物には利害を保護される「権利」があるという主張が意味するところは、動物に権利を認めることが私たちに利益を与えたり他の効果をもたらさないとしても動物は利害を保護される権利への資格を持っているのだ、ということである*3。同意能力がなくて自分自身の利益を保護することができない人たちについても、私たちは彼らの権利を認めて主張している。同じように、動物についても権利を認めて主張する義務が私たちにはあるのだ、と権利主義者は主張している。つまり、ある犬が餌を与えてもらう権利を持っているとすれば、あなたにはその犬が餌を与えられることを確かにする義務があるのだ。ある犬が餌を与えてもらう権利を持っているとすれば、あなたには犬が餌を与えてもらうことを妨害しない義務もある。もちろん、ゴミや犬に危害を与える可能性のある餌が犬に与えられようとしていたなら、あなたにはそれを防ぐ義務があるかもしれない。だが、それは本筋とは関係のないことだ。

 動物の生命は内在的な価値を持つのだ(inherently valuable)、と権利主義者は強調する。動物の生命には価値があるが、それは人間の利益になるからという理由ではない。動物は人間よりも価値が少ない存在ではないのだ。また、動物は所有物や「物」ではなく、生物である。主観を持って尊い生命を過ごしている存在であり、同情・敬意・友愛を示して援助をするのに価する存在である。動物に起こる苦痛と死は、それがどれ程の量であっても、不必要であり認められない、と権利主義者は主張する。

 では、多くの保全生物学者や環境主義者はどのように考えているのだろうか? 典型的には、彼らは福祉主義者である。個々の動物の命を、それよりも高度で重要だと判断される生態系や各生物種の人口の代償とすることに、保全生物学者や環境主義者は肯定的なのだ。このことはカナダオオヤマネコのコロラドへの再導入やオオカミのイエローストーン国立公園への再導入などの事例に示されている。権利主義者とは対照的に、生物種全体にとって利益となると判断されるなら一部の個体が死亡することは(十分な食料が存在しないと知られている場所に移住させられたヤマネコが、非常な飢餓に襲われて死んだとしても)認められるのだ、と一部の保全主義者や環境主義者は主張している。死んでいたり行方不明になっている動物たちにではなく、生存していると判明している動物たちに対して専心して自然保全をするべきだ、と主張する人もいる。ドブネズミや他の「害獣」たちには膨大な数の個体が存在しているから「害獣」の個体を殺すことは全く問題ではない、と主張している人たちは功利主義的な立場をとっているといえる*4。捕食動物が野生に放てられても問題が無いようにする訓練のために、監禁された捕食動物が(逃げられないようにされた被食動物である)他の動物を殺して食べることを認める人も、功利主義的な立場を採用しているのだ。

 ある人に「福祉主義者」や「権利主義者」というラベルを貼ることは、動物の搾取に対するその人の意見についての重大なメッセージを表現することである。これらの言葉がどのように考えられているかということについては、慎重になるべきだ。福祉主義者と権利主義者との間では、互いの認識や考え方や目標は非常に違っている。問題に対する解決策も非常に違ったものだし、それぞれが説いている行動規範も非常に違ったものだ。福祉主義と権利主義を一致させることは極めて難しいだろう。実際、多くの専門家は福祉主義と権利主義の一致は不可能だと思っている。それでも、自分たちの意見を発することができず人間たちに耳を傾けてもらえない動物たちを守ろうとする努力についての、福祉主義たちと権利主義者たちとのそれぞれ異なった考え方を理解することが必要だ。動物たちにとっては、自分たちが直面している人間が福祉主義者であるか権利主義者であるかということは非常に気になることだろう。動物たちの生活と生命そのものが、動物たちに対して行いたいことを何でも行える人間の手にかかっているのだから。

 

 

 

 

 

 

 

「自発的安楽死:信心家にご用心!」by ラッセル・ブラックフォード

theconversation.com

 

  今回紹介するのは、オーストラリアのThe Conversationというサイトに掲載された、哲学者のラッセル・ブラックフォード(Russell Blackford)による「自発的安楽死:信心家にご用心!(Voluntary euthanasia: Beware of godly ! )」という記事。

 カンタベリー大主教ジャスティン・ウェルビー(Justin Welby)がイギリスのThe Guardianに掲載した、医師幇助自殺を認める法案を批判する記事に対して反論している記事である。ウェルビーの記事はこちら(

Why I believe assisting people to die would dehumanise our society for ever | Justin Welby | Opinion | The Guardian

。英語が読める人はウェルビーの記事を先に読んでおいたほうが公平な視点を持てると思う。ブラックフォードは無神論者としても積極的に発言している人物であり、キリスト教的な生命倫理観に否定的であるようだ。

 日本における自発的安楽死への反対論には、キリスト教の影響は少ないように思われる。だが、記事内で批判されている「自発的安楽死を認めることは法律や倫理の一線を超える」「自発的安楽死を認めると、本心では安楽死を望んでいない患者も家族や病院や社会からの圧力に負けて安楽死を選んでしまう。社会的立場の弱い人を危険に晒すことになる」「自発的安楽死を認めてしまうと、人間の生命に価値を認めない方向へと社会の倫理や価値観が滑っていってしまう(滑りやすい坂論法)」などの主張は、日本でもよく目にする主張である。その種類の主張に対する反論は意外と目にしないので、今回はブラックフォードの記事を訳して紹介することにした。

 

 

「自発的安楽死:信心家にご用心!」by ラッセル・ブラックフォード

 

 

 イギリスでは、自発的安楽死や医師幇助自殺をめぐって長く続いている社会的・政治的な議論が新しい段階に達した。労働党の議員であるロブ・マリス(Rob Marris)が自発的安楽死に賛成する議員立法を提出し、今月(2015年9月)には庶民院で議論されることになったのだ。イギリスは幇助自殺の問題に関心のある人たちからの注目の的になるだろう。

 この記事では、マリスとその支持者によって提案された特定の法案の擁護論を展開する訳ではない。なぜなら、法案に対する批判のほとんどが、自発的安楽死を支持するどんな提案に対しても反対する人たちによるものだからだ。以下では、自発的安楽死に反対する主張について論じよう。その主張は正当化できるだろうか?

 

「信仰指導者」たちのロビー活動

 

 驚くべきことでもないが、イギリスの様々な宗教団体の指導者たち(「信仰指導者 Faith Leaders」)が、法案に反対するロビー活動を行う連合を結成した。信仰指導者たちの一人である、カンタベリー大主教ジャスティン・ウェルビー(Justin Welby)は、医師幇助自殺への反対を主張する記事をガーディアン誌に掲載した*1。ウェルビーの記事には芝居がかったタイトルが付けられている。「人々が死ぬことを助けることは私たちの社会を永久に非人間的にする、と私が考える理由」。

 ウェルビーは以下のように主張している。「私たち[信仰指導者たち]は、"宗教的"な意見を他人に押し付けるためでなく、幇助自殺に関する現行法の変更が人々と社会の両方に有害な影響をもたらすことを懸念して、法案に対する反対意見を書いたのだ」。だが、彼の主張は不誠実だ。

 信仰指導者たちが共同して連合を結成したのは、この文脈では「宗教的な意見」といっても差し支えのない意見を主張するロビー活動を議員に対して行うためだ。また、彼らは自分たちの意見が公共政策に反映されること…つまり、他人に押し付けることを求めているのだ。信仰指導者たちは、いつかその日が来た時にも幇助自殺を行うのは止めるように個人を説得しようとしているだけではない。良くも悪くも、ウェルビーと他の宗教的ロビイストたちは、彼らが共有している意見を政府の政策と権力を通じて他人に押し付けようとしているのだ。

 とはいえ、他にも重要な問題が残っている。ウェルビーの主張が、非宗教的で説得力のある議論として支持を得られるものであるかどうか、という問題だ。ガーディアン誌に掲載した記事では、ウェルビーは3つの論点を示して主張を展開している。ウェルビーの主張は、いかなる超自然的な概念についても直接には言及していない。だが、(私が推測したところ)ウェルビーの主張は宗教的な前提から完全に切り離されている訳でもない。ロブ・マリスの提案しているような法案を制定することは以下の結果をもたらす、とウェルビーは主張している。

 

 1・法的・倫理的な一線を越えてしまう*2

 

 2・膨大な数の弱者(vulnerable people)を危険にさらす。

 

 3・もはや「人々の生命について、守る価値・讃える価値・守るために戦う価値を見出す」ことをしなくなってしまう社会をもたらす。

 

 これらの仮定されている結果はいずれも望ましくないものであるから、マリスの提案する法案は受け入れるべきではない、とウェルビーは主張している。さて、彼の主張する仮定のなかに説得力のあるものは一つでも存在しているだろうか?全く存在しない、と私は考えている。

 

「一線」を超える

 

 幇助自殺を認めることは規範に関する一線を超えてしまうことだ、という主張の詳細は以下のようなものである。「刑法と人権法の核心である、他者の生命に対する敬意が捨て去られてしまうだろう」。だが、この主張は詭弁に過ぎない。幇助自殺を認めるための慎重に規制された手続きの存在は、もはや我々が他者の生命を尊重しなくなることを要求したりほのめかしたりすることには繋がらない。他者の生命について配慮が必要であると見なさなくなる、ということを要求したりほのめかしたりすることもないのだ。

 幇助自殺が認められたとしても、計画的に他人の生命を奪うことや無闇に他人の生命を奪うこと(殺人)は、法律によって禁じられたままであるだろう。過失など、殺人程ではないが非難に値する理由によって他人の生命を奪うこと(故殺)も、禁じられたままになるはずである。法律は、他者の生命への敬意に関連している重要な価値に基づいて運営され続けるだろう。むしろ、どのような状況で幇助自殺が認められるかということが法律の文言として入念に記述されることは、個人の生命が法律上でも十分に配慮されることを示すだろう。

 生き続けることがその人自身にとって苦しみとなる時点が存在することを、私たちは認めるべきだ。制御できない極度の苦痛に襲われている場合もあるだろうが、身体的な苦痛が制御されているとしても生き続けることが苦しみとなる場合もあるだろう。多くの末期患者は自分自身について様々な感情を抱いているが、とりわけ無力で屈辱的に感じており、かつては人生に喜びを与えたどんな活動も行うことができないと感じている。そのような状況では、自分の人生は実質的にはもう終わっているので、現在はただ引き伸ばさせられているに過ぎない、と感じられる場合もあるだろう。

 このように制限されていて不幸な状況では、通常の私たちが死に対して抱く恐怖(殺人に対する恐怖や故殺に対する恐怖、その他の死に対する恐怖など)は、全くもって的外れな感情となる。早まった死を恐れたり死の危害から守られている環境を要求するのではなくて、自分自身の苦しみに満ちた人生を自分で終わらせることができないということに対して、まことに理に適った恐怖を抱くかもしれない。上述した状況において、私が死ぬことを他人が助けてくれることが刑法によって禁止されているとしたら、もはや法律は私たちを恐怖から守ってくれるために存在するものではなくなる。むしろ、恐怖から人々を守ることとは正反対に法律が機能してしまう。私たちが自分の人生を制御するために残された手段が法律によって奪われてしまう。私たちの抱く理に適った恐怖を法律が増してしまうのだ。

 刑法の存在する最大の理由は、他人から危害を与えられることから私たちを守るためである。このことに議論の余地はほぼ無い。もちろん、一部の状況では、自分自身の選択の結果から私たちを守るために刑法がパターナリスティックに機能する場合もある。だが、パターナリスティックな法律が存在することに楽観的であるべきではない、と私は考える。一般論として、パターナリスティックな法律は私たちを侮辱して子供扱いするものであるし、私たちの自律を侵害するものである。パターナリスティックな法律に対して私たちは疑い深く審査を行うべきなのだ。

 時には、パターナリスティックな規制が特別に必要になる事態も存在するだろう。そのことは私も認めよう。しかし、パターナリスティックな法律は通常ではなく例外的な存在であるべきだ。私たち自身に関する私たちの選択について政府が干渉することは、実際的に可能な限り、できるだけ制限されるべきだ。ある状況においては私たち自身の選択は制限されるべきだと主張するなら、選択を制限するのに見合うその状況に特有の事情というものを示すべきである。特に、私たちの選択に対する干渉が私たちの自律の領域を大幅に減少させるものである場合には。

 屈辱的で喜びが無い人生、非常な苦痛に耐え続けなければいけない人生…人生が苦しみに満ちたものとなる時点を過ぎた後にも生き続けることを国家権力に強制させられることは、私たちの自律を根本的に否定することだ。 そのような法律が私たちに敬意を払っているとは言えない。私たち自身の選択に対するこのような「保護」に対して怒りを抱く理由はいくつも存在している。

 極限的な状況で死ぬことを選択することが認められたとしても、なんらかの「一線」が超えられる訳ではない。私たちの生命について大いに敬意を示している法律とは、制度や家族からの圧力に対する保護を保証しつつ、資格のある人の援助を用いて自分の人生を終わらせることを選択する余地を残している法律である。

 

弱者を守る

 

 安楽死を促す不当な圧力から弱者を守る必要性についてはいかがだろうか?この論点については、ウェルビーの主張は他の論点よりも強固である。幇助自殺を認める法律はかなり多くの弱者たちを危険に晒すことになる、とウェルビーは主張している。そのような法律が制定されたならば「この懸念について有効に対処できる予防手段は存在しない。患者の負担を背負わされたくないと思っている、患者に対して非協力的なごく少数の親戚たちから発せられる、かなり陰険な圧力については言うまでもない」。

 本当だろうか?本当に、死を選ぶことを選択させる不当な圧力に対して有効に対処できる予防手段は存在しないのだろうか?

 たしかに、法律の悪用につながりかねない動機は多く存在しているし、どの動機についても空想上のものだと軽んじることはできない。しかし、イギリスやオーストラリアのような国々に実際に存在している医療文化においては、幇助自殺が最後の手段としてではなく積極的に賞賛されるものとして病院や医師から見なされる程までの変化がそう簡単に起こるということは有り得ないだろう。現時点で存在している医療ケアの文化を失わせるのではなく、医療ケアの文化を反映して補強するように新しい法律を設計することは可能である。

 家族内の関係や感情には様々なものが存在しているということをふまえると、家族による法律の悪用の方が、より現実的な懸念であるかもしれない。この懸念は、幇助自殺を合法化することを拒否する理由になるだろうか?

 いいや。患者が家族と相談した時に発生するどんな不当な圧力についても、その圧力を軽減するための手続きを法律に導入することが可能であるからだ。家族の意見が与える影響は、他の影響を与えることによってある程度は和らげることができる。専門的なカウンセラーと議論することやアドバイスを受けることを義務化するなどの方法だ。それらの方法の目的は、死を選ぶことを止めるように患者を説得することではなく、死を選ぶという決断が感情的な圧力に対する反応ではないことを保証するためである。

 ウェルビーも指摘しているように、死を決断する際の患者が、人生が終わる間際になって自分は他人にとって重荷になっている、と感じているという可能性は確かに存在する。これについては私も認めざるをえないが、このことがショッキングであるとも私には思えない。もし私がひどく無力な状況で、屈辱と苦痛を感じており、私が愛する人たちの資源と時間が私の死を引き延ばすために使われるとしたら、その事実は私の考えに対して影響を与えるだろう。当たり前のことだ。なぜ、その事態に何か邪悪なことが含まれているかのように想像したり装ったりする必要があるのだろう?

 私の人生が引き延ばされることによって他人に対してもたらされる影響について私が思考してしまうことは、ほとんど避けられないことである。死を選ぶかどうかという決断にとって、それは充分に関連性がある事柄であるのだ。また、他人に対する影響が私の思考の対象となったとしても、私が自分自身の人生を生き続けることが喜びが無く、苦痛で、もどかしく、屈辱的であると思っているとしたら、他人に対する影響がそれらの感情に取って代わる訳ではない。私は他人に対する影響と自分自身の人生について同時に考えるだろうし、後者の方が私にとっては重要に思えるだろう。たしかに、医療的な援助によって死のうと決断した人たちの多数が、自分が他人に対して重荷になっているということを決断の理由の"1つ"として挙げている。だが、ウェルビーが行っているようにその"1つ"の理由に注目して大体的に取り上げるのはアンフェアである。他人にとって重荷になっているという感情が影響していることは、予想できることなのだ。

 より正当な懸念として、患者を適切に保護するための手続きはあまりに要求が多くて複雑なものになるから実際には有効に機能しないだろう、という予測がある。その手続きは患者による死の決断を妨げるだろうし、実際には苦しみを増して意図していない侵害を起こすかもしれない。意図しているものとは反対の結果が生じることになる訳だ。

 ウェルビーが実際に主張している議論以上に、上述の議論には説得力がある。とはいえ、この議論は必要以上に悲観的である。法律の悪用の可能性を最小化するための手続きが実用的に機能するように設計することは可能であるはずだ。 

 詳細な手続きの範囲内にきちんと含まれないような事例についても、「慈悲殺」の例に倣って比較的広い範囲の擁護論を主張することは可能であるだろう。いずれにしても、現在のイングランドウェールズには医師が自殺幇助を遂行する際の処置に関するガイドラインが存在している*3。死を選ぶことについての安定していて、明確で、充分な情報に基づいた決断を「犠牲者」が下している際や、自殺に対する幇助が同情にのみ基づいている場合であったとしても、処置が行われる可能性はガイドラインによって低くされている。

 公平のために記しておくが、ウェルビーもこのようなガイドラインを否定してはいない。安楽死に関する法律改正が制定されたとしても、残酷な処置から患者を守るための保護を追加するためのガイドラインを維持することが妨げられる訳ではないのだ。

 

「滑りやすい坂」を滑る?

 

 ウェルビーの第三の論点は明らかな長所もないものだ。その論点は、滑りやすい坂論法と似通ったものである。私たちが自殺を合法化してしまったなら、私たちの社会はもはや「自殺を考えるほどの年齢や段階に達してしまった人に対して、愛情やケアや同情を示すことが無くなってしまう」し「人々の生命について、守る価値・讃える価値・守るために戦う価値を見出す」ことを行わなくなるであろう、とウェルビーは示唆している。

 第三の論点は第一の論点に少しだけ議論を付け加えたものに過ぎないし、第一の論点と似たり寄ったりの問題を抱えている。幇助自殺を合法化しつつつ規制する法制度が存在することは、自殺を考えている人への「愛情やケアや同情」に欠ける社会であることとはいかなる意味でも繋がらない。絶望的としか言いようがない状況に陥ってしまった人や生き続けることが自分にとって苦しみであると感じられる人に対して、彼らが自分の人生を終わらせることを認めるということは、そのような人々に対して本人の意思に反してでも生き延びることを要求する社会と比べて、社会がより多くの同情を示しているということなのだ。

 しかし、第三の論点には他の主張も含まれている。その生命を持つ本人自身が生き続けることについて価値を見出せる段階を過ぎたとしても、我々は人々の生命を「守るために戦う価値」があると見なさなければならない、という主張だ。

 もう死んでしまいたいと人に思わせるような、一時的ではあるが非常に衝撃的な事態が多数存在することには疑いがない。そのような事態が起こった時には、その事態で苦しんでいる人を助けて気を安らげるために、私たちはできる限りのことをするだろう。そして、早まったことをしないように思いとどまらせようとするはずだ。しかし、だからといって、苦痛であり惨めであると本人が感じている経験に耐え続けている末期患者の人に対しても、その人を生き続けさせるために我々は力の限りを尽くすべきだということにはならない。

 同情のある人なら、耐え難い生を送っている人を本人の意思に反してでも生き続けさせるべきだ…そんな主張を正当化する理由で、宗教的でないものは聞いたことがない。その人の生を終わらせることの援助を否定し続けるとは、傲慢で残酷に思えてもいいはずである。

 神や運命などの超自然的な仮説を受け入れたならば、人の生を終わらせることの援助を否定し続けることも正当化できる。いつ人が死ぬかということは神や運命が決めているのであり、幇助自殺を含めた全ての種類の殺人は神の特権を侵害することだ、という訳である。イギリスの信仰指導者たちによる意見の裏にもこのような考えが潜んでいるはずだ、と私には思える。だが、このような宗教的な考えは、世俗的な法律に携わる政治家や官僚に影響しようとするべきではないのだ。

 

信心家にご用心
 

 生命の始まりと終わりに関する問題について、ウェルビー大主教のような宗教的指導者たちが知的権威や道徳的権威などの特定の権威を持っている訳ではない。宗教的指導者たちはそれぞれが所属している宗教の教義の専門家ではあるが、その宗教と関係ない人々にとっては意味の無い専門性であるのだ。

 もちろん、宗教的指導者たちも、公共空間における議論に参加する権利を持っている。自由民主社会に暮らす他の全ての人々と同じように、宗教指導者にも言論の自由は存在しているのだ。だが、宗教指導者が主張している議論だからといって、その議論に信憑性が付け足される訳でもない。超常的な存在がいるという仮定に依存している限り、彼らの議論は政府による政策の基盤としては不十分である。宗教的指導者たちが自分たちの主張を非宗教的で現世的な言葉に言い換えたらなら、私たちは彼らの主張に利点があるかどうかについて検討することができる。だとしても、多くの場合は彼らの主張には説得力が無いと判断することになるだろう。

 以前に私のブログに掲載した短い記事で言及したように*4、ウェルビーのような宗教家たちによる「心からの同情 profound compassion」というレトリックには、退屈で、鬱陶しく、そして独り善がりなところが含まれている。実際には同情的でない人や実質的には苦痛を減らすことになる政策を支持しない人であっても、「同情」や「同情のある」という言葉を持ち出すことはできる、という点に注意しよう。「心からの」という単語についても同じである。このような単語で飾り立てることで、自分の議論を聖人っぽく厳粛に見せることができる訳だ。昔ながらの効果的なレトリック戦略である。

 素直な無神論者であるオフェリア・ベンソンは、私以上にウェルビーを批判したブログ記事を書いている*5。ベンソンは、ウェルビーのレトリックの大半を感情的な脅迫だとみなしている。私とベンソンとは別の問題については相容れないこともあるが、今回については彼女の意見が正しいと私も思う。ガーディアン誌に掲載されたウェルビー大主教の記事の大部分は、巧妙で操作的な言葉によって書かれている。読者に恥の念を与えることと、自分の議論に感心させて同意させることを意図している言葉だ。ベンソンはウェルビーの議論にどぎつい言葉を与えている。「たわごと」、「でたらめ」、「ブルシット」。

 私はウェルビーの議論をプロパガンダと呼ぼう。

 

 

f:id:DavitRice:20060603005834j:plain

 

「科学から政治的活動へと変貌させられる人類学」by グリン・カストレッド

www.popecenter.org

 

 今回は、カリフォルニア州立大学イーストベイ校の人類学者グリン・カストレッド(Glynn Custred)による記事「Turning Anthropology from Science into Political Activism(社会科学から政治的活動に変貌させられる人類学)」を紹介する。カストレッドは、言語人類学やフォークロアを専門に研究している人類学者であるようだ。

 

 

「科学から政治的活動へと変貌させられる人類学」by グリン・カストレッド

 

 

 1960年代から、アカデミアの内部では学術的な研究を社会変革の道具に変えてしまうことを目的とした運動が続いている。マルクス主義・フェミニズム・西洋文明全般に対するトレンディな反感といった、知的にファッショナブルな考えがこの運動を引き起こしていた。やがて、この運動は人文学を占拠して社会科学にも深刻な影響を及ぼすようになってしまった。

 私の専門分野である人類学の領域では、この運動の影響力は場合によって違う。人類学には4つの下位分野があり、研究の対象となる範囲は自然科学から社会科学や人文学にまで及んでいるからだ。下位分野のうち3つ(考古学、自然人類学、言語人類学)は、人類学を政治的正しさの植民地にしようとする運動にもほとんど影響を受けずに済んでいる。

 しかし、4つの下位分野のなかでも最大の分野である社会-文化人類学(世界中の様々な社会と文化を研究する学問)は、かなり歪められてしまっている。社会-文化人類学は、科学から政治的イデオロギーの道具に変えられてしまったのだ。

 まことに露骨な事例が2010年に起こっている。人類学の専門職団体のなかでも主要な団体であるアメリカ人類学会(American Anthropological Association)の執行委員会が、団体の綱領(mission statement)やその他の公式声明から「科学(science)」という単語を取り除いたのだ*1。それ以来、AAAは巷で流行っている問題にばかり注目するようになった。環境、暴力、気候変動、人種、その他色々。

 現在のAAAは、事実を理解して説明することよりも「問題を解決する」ことを求めている。AAAの内部にはラディカルな政治的意見を反映した部門が新しく設立された。 フェミニスト人類学会やクィア人類学会などの内部団体であり、いずれもかなり政治的な団体だ。AAAの委員会は政治的問題に対してかなりの労力を費やしており、「世界的な気候変動についての特別委員会」や「人種とレイシズムについての特別委員会」などの特別委員会を設立している。

 人類学が政治的になる要素の一つが、西洋の植民地主義時代の過去だ。活動家である人類学者にとっては、植民地主義時代に西洋が領土を拡大したことは歴史の単なる一局面とは見なせない。帝国の周期的な登場という、文明が誕生した時から続いている現象と多くの面で似通っている現象だとは見なせないのだ。そうではなく、改心を誓わなければならない永久に続く罪であると見なされているのである。

 活動家である人類学者の一人はカリフォルニア大学バークレー校のナンシー・シェパー=ヒューズだ。人類学を学術的なディシプリンから「裁判的な(forensic)」人類学と彼女自身が呼ぶものに再定義したとして、しばしば言及される人物である*2

「裁判的な人類学」という言葉でヒューズが意味しているのは、人類学は客観的な科学的分析ではなく政治的な活動になるべきだということだ。それも、過去の人類学者たちが行った「犯罪」に注目した活動である。

 ヒューズによると、人類学者たちは事実の客観的な観察者であろうとすることを止めるべきである。その代わりに、研究対象である人々に対して行われてきた「不正を明らかにする証人」となるべきなのだ。

 ヒューズの主張は「高貴な野蛮人」の神話から連続しているものだ。ジャン・ジャック・ルソーが表現したことで有名な、18世紀に西洋のエリートたちの間に広まっていた神話である。原初状態の自然は平和と調和にあふれていて生態系のバランスも完璧であった、という物語だ。太古の楽園、エデンの園がこの世にあったのだとされる。そのため、「高貴な野蛮人」の神話からすると、人類学者たちによって報告されている、競争・闘争・社会の不調和・戦争が世界中の原住民たちの間で起こっていることがあまりにも頻繁に見受けられるという事実は、西洋文明の包括的で破壊的な力が原因となって起こされているのだということでなければならないのだ。

「高貴な野蛮人」の神話を維持して拡散するために、活動家たちは不都合な事実を伝えている人類学的研究を抹殺しようとしてきた。それらの研究を否認するか、研究を報告した人物を中傷するという方法によってである。

「高貴な野蛮人」の神話と矛盾している膨大な数の証拠が存在していることを記録は示している。資源をめぐる競争が虐殺という結果を引き起こした事例が過去から存在していたこと、襲撃・戦争・男性と女性と子供の虐殺・奴隷制・カニバリズムやその他色々の事件がおびただしい数で起こっていたこと。これらの事件のいずれも、想像上の高貴な野蛮人の楽園に侵入した邪悪な西洋によって持ち込まれたのではない。最初期から人類に普及していた特徴なのだ。しかし、活動家たちは人類の暴力性に関する研究を停止したがっているし、既になされた研究の記録も抹消したがっている。彼らにとっては、自分たちの政治的目標の方が重要なのだ。

 また、人間の行動はどの程度までが遺伝に基づいており、純粋に養育や歴史的な要因に基づいている行動はどれ程なのか、ということも論争の的になっている。昔ながらの「生まれか育ちか」論争だ。この問題は複雑であるし、人種的ステレオタイプの「科学的な」正当化を避けるためにも、慎重な分析や主張に対する厳密な検証が行われるべきだ。過去には科学的な概念がイデオロギー的・経済的・政治的目的のためにどれ程歪められてきたかということを、私たちは知っている訳だから。

 活動家の人類学者たちが行っていることは、人間の行動が生物学的な要素に関連している可能性の研究を放置することや、そのような主張を厳密な審査にかけることではない。人間の行動が生物学的な要素に関連している可能性に関する言及は、主張の程度に関わらず全てが異端的であり根絶させられなければならない、と活動家の人類学者たちは考えているのだ。

 上記の問題についての有名な事例は、ミズーリ大学の人類学者ナポレオン・シャグノンへの、政治的団体になったAAAによる卑劣な対応だろう。シャグノンは、アマゾンのジャングルの奥地に暮らす部族であるヤノマモ族の長期的な研究で知られている。ヤノマモ族のように外部との交流が非常に少ない社会は、シャグノンが彼らと初めて接触を行った時にはほとんど消滅していた。シャグノンはヤノマモ族と共に暮らして、彼らの石器時代的な生活の様式について詳細に報告する機会を得たのだ。

 シャグノンは、ヤノマモ族に特有の戦争のパターンを観察して報告した。資源を求める競争が戦争のパターンを説明する場合があるが、現地では資源を求める競争は存在していなかった。また、ヤノマモ族の暮らす世界は非常に限られているので、外部からの影響も戦争のパターンを説明しなかった。自分自身の観察とヤノマモ族の住民たちからの証言に基づいて、女性を獲得することと過去に行われた襲撃に対する報復こそがヤノマモ族が戦争を行う理由である、とシャグノンは主張した。

 活動家たちにとっては、シャグノンの調査結果は異端であった。シャグノンは「高貴な野蛮人の神話」を否定しただけでなく、暴力が生物学的な要因に基づいているかもしれないという考えを真剣に取り上げてしまったのだ。自分自身の専門的な業績のために、シャグノンの信用は傷つけられてしまった。

 事件の始まりは1976年のAAAの会合までに遡る。会合にてシャグノンは中傷されて、「レイシズム」や「ナチス」などの言葉で非難された…左派が議論を打ち切ろうとする時にいつも使う言葉である。後の会合では、シャグノンは先住民たちの間の戦争について「嘘をついた」のだと活動家たちが言い出した。本を書いたりドキュメンタリーを撮ったりする題材を得るために、シャグノンはヤノマモ族に報酬を払って殺人を行ってもらったのだと言ったのだ。また、シャグノンは優生学を奉じておりジョセフ・マッカーシーの政治的意見を支持しているのだ、と活動家は言った。

 シャグノンに対する野蛮で扇情的な非難の根拠は、ジャーナリストの書いたたった一冊の本だけであった。しかし、活動家たちに屈服したAAAはシャグノンの疑惑に関する特別委員会を設けた。2002年に設立された特別委員会は、2005年になってようやくシャグノンに対する疑惑を否定した。委員長はジャーナリストの本が「いかがわしい代物」であったことを認めたが、もしAAAがシャグノンに対して何も対応をしなかったら「臆病である」ように思われていただろうと言ったのだった。

 この事件は、2013年にシャグノンが著書『Noble Savages: My Life Among Two Dangerous Tribes: The Yanomamo and the Anthropologists(高貴な野蛮人:二つの危険な部族と私の人生:ヤノマモ族と人類学者たち)』を出版するまでは、おおよそ忘れられていた*3。専門職としての人類学の凋落を明らかに示したスペクタクルな出来事であったのにも関わらず、事件はたった一つの公文書にしか記録されていなかったのだ。

 だが、人類学にも希望は残っている。素晴らしくもHeterodox Academyのホームページで発展しているような知的エネルギーを生き返らせるための処方箋を、他の社会科学と共に人類学も受け取ることになるだろう、と私は楽観的に考えている*4。人類学の下位分野のなかでも、エビデンスに基づいた分野…自然人類学と考古学、また言語人類学の大部分…は、以前から変質せずに続いている。AAAの内部団体である科学的人類学協会も、伝統的な科学的手法を継続しているのだ。

 また、そもそも科学を成り立たせる基本的な設問を無視し続けている社会-文化人類学が、自己利益と空虚さに占められた狭まり続ける領域へと更に引きこもるにつれて、闘争的で政治的な人類学の派閥もやがては力尽きてしまう可能性もあるかもしれない。

 トレンドに目敏くて洒落た方法でトレンドを持ち出すことにも定評のあるウディ・アレンは、最近の監督映画『ブルージャスミン』で、サンフランシスコに向かう飛行機の中で主人公に彼女自身についてのセリフを言わせている。主人公の当てにならなさ(flakiness)を強調するために、誰に向けたわけでもない独白のなかで、自分の専攻は人類学だと彼女に言わせているのだ。

 

 

 

 

*1:※この話題については先日に私が訳した記事も参照

「科学はお断り。私たちは人類学者だ」by アリス・ドレガー - 道徳的動物日記

*2:たとえば、『Current Anthropology』1995年6月号に発表された彼女の評論、「The Primacy of the Ethical: Propositions for a Militant Anthropology(倫理の優先:闘争的な人類学のための試案)」を参照

http://www.unl.edu/rhames/courses/current/hughes.pdf

※PDF

*3:

 

Noble Savages

Noble Savages

 

 

*4:

heterodoxacademy.org

※ Heterodox Academyは「学問(特に社会科学)における視点の多様性を増加させる」ことを目的とした、主に社会科学者や心理学者たちによる団体。基本的には、社会科学で主流となっている左派・リベラルな意見に対して、保守的であったり非リベラルな意見を展開している。Heterodox Academyのホームページに掲載されている記事は、過去にもいくつか訳している。

「聖域なき社会科学」by ボー・ワインガード - 道徳的動物日記

イデオロギーは社会学の知見をいかに妨げたか by クリス・マーティン - 道徳的動物日記

「警官による黒人の殺害(の大半)は偏見が原因ではない」 by リー・ジュシム - 道徳的動物日記