道徳的動物日記

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自己責任論の風景

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 ↑ 先日、上記の謝辞が話題になった。特に以下の部分が批判されている。

 

支えてくれた人もいるが、残念ながら私のことを大学に対して批判的な態度であると揶揄する人もいた。しかし、私は素晴らしい学績を収めたので「おかしい」ことを口にする権利があった。大した仕事もせずに、自分の権利ばかり主張する人間とは違う。 

 

 どのような批判がされているかというと、「権利を主張するためには"素晴らしい学績を収める"などの義務や実績が必要とされる、という発想がおかしい。権利というものは誰にも備わっているものであり、それを主張するために事前に果たすべき義務や収めておくべき実績など存在しない。卒業生総代のくせに"権利"という言葉が何を意味するかもわかっていないのか、学習院大学は学生に対して何を教えているのか」という感じのものだ。

 

 この卒業生の謝辞に限らず、日本の一般社会では「権利を主張するためには義務を果たさなければならない」という考え方は広く根付いている。

 しかし、(倫理学なり政治学なり思想史学なりの)学問的な意味での「権利」という言葉はそういうものではなく、本来の意味での「権利」とは万人に対して無条件に備わっているものである。

 また、謝辞において全体的に見られる自己責任論的考え方や能力主義的考え方、ひいては「ネオリベ」的考え方は、アカデミックな世界(特に人文系のアカデミック)とは相容れないものとされている。

 

 しかし、このような通俗的な「権利論」や自己責任論やネオリベ的主張は学問の外の世界では毎日のように見聞するものである。この謝辞を書いた学生が特に変わった主張をしているということでもない。会社に出勤すれば、社長や役員から出世頭の若手エリートや新入社員まで、みんながみんな多かれ少なかれ自己責任論的なことを言っているのを聞くことになるだろう。ミュージシャンや漫画家などのクリエイターたちは競争が激しい世界に住んでいるために一般の人以上にネオリベ的発想になりやすいし、表向きには美辞麗句を並べ立てるアカデミックな世界にすらそういうところはある。

「その"権利"という言葉の使い方は間違っている」とか「その自己責任論的発想は人権や民主主義や社会保障などの知見についての思慮が足りない短絡的な発想だ」などと批判すること自体は間違っていないが、多分そんな批判をされたところで本人は意に介さないだろう。どれだけ間違ったことを言っていようが、彼女の意見は「世間」ではみんなに同意されて賞賛されるものなのだ。

 ただ単に彼女の謝辞を叩いたところでしょうがなく、彼女の主張しているような自己責任論的発想やネオリベ的発想がなぜかくも支持を集めるのか、ということについて考えてみたり分析したりしてみるほうがまだしも生産的である。

 

 この種の事柄については、わたしは以前に以下のような記事を書いたことがある。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

davitrice.hatenadiary.jp

 上のほうの記事では、若者がネオリベ化する理由のひとつとして、以下のような事柄を挙げた。

 

ネオリベ的発想や自己責任論的発想は、個人単位では適応的である  

 

 謝辞を見てみると、彼女は「金」や「自立」にたいそうこだわっているようだ。「金」や「自立」を獲得するためには、たしかに相当な努力をして成功しなければならない。女性であるから、この日本社会で成功するためには、おそらくは男性よりも必要とされる努力の量も多くなってしまうだろう。

 ほとんどの人にとっては、ハングリー精神を抱いて努力を継続するためには、自己責任論的な考え方をし続けることが不可欠だ。他人に対しても自分に対しても甘えを許さずに厳しい態度をとることは、自分を追いたてる形で努力することへのモチベーションを与える。

 逆に、「努力をしなかったり義務が果たされなくても万人は平等に尊重されて権利を認められるべきだ」という考え方は、規範的な"べき論"としては正しいとしても、すくなくとも日本社会の現実にはそぐわない「甘い」考え方である。そして、「努力をしなくても人は尊重されるべきだ」という考え方を抱いてしまうことには、自分自身のハングリー精神を削減して努力へのモチベーションを失わせてしまう効果があるところが否めない。

 ……要するに、彼女の目的や人間性にとっては、自己責任論的な考え方をする方が矛盾がなくてメリットがあるのだ。これまでそういう考えで生き続けて努力して実際に成功したのだから、外野が学問的な正しさなり規範的な"べき論"を主張したところで、耳を貸すわけがない。逆に、それらの意見に耳を貸して自分の考え方を変えてしまうことはこれまでの自分自身の人生を否定することになってしまうだろう。

 

 さらに言えば、これから彼女が進んでいくであろうエリートたちの世界は、一般の世界以上に自己責任論的発想やネオリベ的発想が肯定されて讃えられる世界である。周囲の人間たちの価値観には、同調するにこしたことはない。上司も社長も「若者はこれくらい勝気で覇気があってハングリー精神を持ってくれていなくちゃ」と思ってくれることだろう。若者が大人に好かれるためには大口を叩いて自分をアピールするのが最善の方法であるのだ。

 ハングリー精神を持たず努力をしなくて能力のない凡人ですら、同じような凡人よりもハングリー精神を持ったエリートの方を好ましく思うものだ。間違っていない考え方だとしても、「努力をしなくても人は尊重されるべきだ」ということを言っていて、言葉通りに自分は努力せずにのんびりしている人は甘ったれで図々しく思われてしまう。間違っているとしても、「権利を主張するためには義務を果たさなければならない」と言明して言葉通りに自分は努力して義務を果たしている人はエネルギッシュで有能そうに思われる。そもそも、凡人の多くはエリートに対して引け目や気後れを感じているのであり、エリートに対して批判的なことはなかなか言えないものである。自分よりも優秀な人間を批判してしまうと自分がみっともなくてダサい「負け犬」の側に立たされている気になってしまうからだ。

 つまるところ、この謝辞は謝辞を書いている彼女自身にとっては得しかもたらさないものであるのだ。自分が好かれたいと思っている人間や世界に対して好印象を与えられる。一部の連中からは批判されるとしても、彼らはもともと彼女が目もくれておらずこれからも関わることのない世界に属する連中であるのだから、どうでもいい。

 

 なお、「20代ならこんなものだろう」「これから歳をとって経験を重ねて挫折するにつれて考え方が変わるかもしれない」という意見も散見したが、賛同できない。私がこれまでの人生で接してきた人のことを考えてみると…自己責任論的な主張を行うエリート層には30代や40代の人が多かったが、彼らの発想はおそらく10代や20代の頃から変わっていない。その頃から自己責任論的な発想を抱いていたからこそ努力して成功してきたのであり、年齢を経たからといって捨てるものじゃないのだ。

 ついでに言うと、私が10代や20代の頃にも周囲には自己責任論的な主張をしている10代や20代の連中がごまんといた。「相容れないなあ」という程度で済まされる相手もいれば、明確に「敵」だと見なす相手もいた。わたしは昔から「努力をしなくても人は尊重されるべきだ」という考えを抱いており、ハングリー精神にはずっと欠けてきた。自己責任論的な考え方をしていてハングリー精神を持っている人は、わたしのような人間を陰に陽に非難するものである。わたしだってそれをされると不愉快になるから相手のことを批判したり非難したりし返す。これからも連中のような人間が考え方を変えることはないだろうし、わたしが考え方を変えることもないだろうから、この抗争はずっと続く運命なのだ。