道徳的動物日記

『21世紀の道徳』発売中です。amzn.asia/d/1QVJJSj

「動物に苦痛を与えてはいけない」という主張は功利主義?/功利主義は「苦痛」にしか注目しない?

 

  功利主義及び動物倫理に関するよくある誤解について、さくっと書く。

 

「動物に苦痛を与えてはいけない」という主張は様々な倫理学者が提唱してきたものではあるが、過去の人であればジェレミーベンサム、現代の人であればピーター・シンガーが有名であろう。彼らは二人とも功利主義者である。では、「動物に苦痛を与えてはいけない」という主張は功利主義者しか行っていないのか?

 もちろん、そんなことはない。

 

 トム・リーガンやゲイリー・フランシオンなどの「権利論」を主張する人々は、功利主義には反対している。功利主義は、「最大多数の最大幸福」を考慮した比較考量の結果によっては動物(や人間)に苦痛を与えたり殺害したりすることを認めてしまう可能性があるからだ。

 そのため、いかなる理由があろうとも苦痛を与えられることや殺害されることから保護される権利、他者の目的のための手段として扱われない権利を人間だけでなく動物にも認めよう、というのが彼らの主張だ。

 

 徳倫理やフェミニズム倫理においても、「動物に苦痛を与えてはいけない」という主張はされている。

 

 …というか、動物を倫理的配慮の対象とみなしたり、動物の道徳的地位を認めるのあれば、どんな理論であっても「(理由もなく)動物に苦痛を与えてはいけない」と主張されることは当たり前なのだ。

 功利主義では「(理由もなく)他者に苦痛を与えてはいけない」と論じられる。では、功利主義ではない権利論やフェミニズム倫理などにおいては「他者に苦痛を与えることは道徳的問題にならない」と論じられているのか?

 もちろん、そんなことはない。安楽死の権利を認めたり、肖像権やプライバシーの権利を認めたり、セクシュアル・ハラスメンを受けない権利は認めたりするが、棍棒で叩かれない権利や焼き印を押されない権利や生まれから死ぬまで屋内に監禁されない権利は認めない、なんて理論が存在する訳がないだろう。

「理由もなく苦痛を与えない」ということは規範としてもあまりに基本的過ぎて、功利主義以外の議論では強調される機会が少ない、というだけなのだ。

 …というわけで、下記の記事や、それに付いているしたり顔のブコメの多くは、いろいろな点で誤っている*1

 

anond.hatelabo.jp

…(前略)…じゃあ彼らが主張しているのは何か?それはあらゆる動物における「苦痛の回避」です。

なので、必然的に対象は痛みを感じる動物、基本的には大脳を持ち自由神経終末のある脊椎動物に限られてくる訳です。(対象の範囲についてはいくつか議論あり)

更にこの「苦痛の回避」の元になってるのは、皆さん大好きトロッコ問題でお馴染みの「功利主義」という考え方で…(後略)…

 

 上記の引用部分は、動物の道徳的地位を主張している、功利主義以外の倫理学理論の存在をまるっと無視してしまっている。また、功利主義と「権利論」は基本的には相反する関係なのに、記事の全体において権利の議論と功利主義をごっちゃにしてしまっている。

 しかし、上記の記事に限らず、"「動物に苦痛を与えてはいけない」という主張は、功利主義のみが行っている"という誤解は広く存在してしまっているようだ。倫理学の関係者ですら、本やネットでそういう誤解を振りまいていることがある。

 

 また、たしかに功利主義は「苦痛」に注目するが、「苦痛」だけに注目した議論ではない。そもそもが「最大多数の最大幸福」なり「関係者全員への利益への平等な配慮」などを目指す議論なのだ。痛みや乾きなどの身体的な不快感の他にも不安や恐怖などの精神的な不快感も考慮するし、楽しみや安らぎや性的快感などのポジティブな感覚にも考慮するし、愛や希望や正義感や知的好奇心などの高度な感情にも考慮するし、幸福(と不幸)や利益(と不利益)につながるものならなんだって考慮する。

 動物倫理において「苦痛」ばかりが注目されるのは、現在の世界では実際に動物たちが多大な苦痛を感じているからであり、他のことに注目することの必要性や緊急性が相対的に希薄だから、というだけのことなのだ。

*1:私の記事に対する批判に対して反論する、という形で書かれたものなので、批判するのはちょっと心苦しいのだが。

「攻めの倫理」と「守りの倫理」(『ふだんづかいの倫理学』読書メモ)

 

ふだんづかいの倫理学 (犀の教室Liberal Arts Lab)

ふだんづかいの倫理学 (犀の教室Liberal Arts Lab)

 

 

 

 前回の記事でも言及した内容とはまた別口で、『ふだんづかいの倫理学』を読んで考えたことについて書く。

 

 この本の後半の特徴は、倫理学の内容を「守りの倫理(消極的倫理)」と「攻めの倫理(積極的倫理)」に分別していること。義務論的な倫理や社会の調整を行ってマイナスを減らすための「正義」に関する倫理は守りの倫理に、目的論な倫理や個人がより善く生きるための「自律」に関する倫理は積極的倫理に分類される。

 

倫理というものを「正しさ」に関わるものとイメージしている人は、倫理は人を縛る法のようなものだと感じるでしょう。一方、倫理を「善さ」のためのものだとする人にとっては、倫理は単なる法じゃありません。それ以上のものを倫理や道徳に求める。ところが、前者のタイプの人からすれば、「それ以上」の部分は余計なものに見えてしまう。

 ここに食い違いが生じます。今まで我々が見てきたことも、前者のタイプの人にとっては「倫理っていうより、余計なことが入ってるんじゃない?」と映ったでしょうし、後者のタイプの人にとっては「これって、倫理っていうより、単なる当たり前だし、せいぜい法律とかの話じゃん?」と見えたかもしれないと思うのです。(p.275-276)

 

 入門書なので「守りの倫理」も「攻めの倫理」も一通り解説されるのだが、本の主眼というか全体的なメッセージは「攻めの倫理」寄りである。本文パートの結論部分では、正義とのバランスを取りながらも、自分で倫理学的に考えて自分の人生を生きることが大事…という、実存主義っぽい「自律」を強調したメッセージが記されている。

 基本的には学生や若い人向けに書かれた本であり、大半の若者は「守りの倫理」よりも「攻めの倫理」の方に関心があるだろうから、この構成は正しいと思う。私にとっても、普段はもっぱら「守りの倫理」に関する領域の本ばかり読んでしまう性質であるから、愛とか自由とか自律とかの「攻めの倫理」に関する話を久しぶりに読めて新鮮だった。

 個人的な生活においても積極的義務を果たすこと、自己犠牲すら否定しないことなど、干渉を嫌って消極的自由ばかりを過度に重んじる現代の若者というか最近の風潮に逆らう主張を強調していることも特徴であると思う。

 

 …しかし、読んでいて再確認されたが、やはり現在の私が倫理学に求めるのは「守りの倫理」に属することばかりだ。私が基本的に関心があるのは動物倫理や環境倫理などの分野なのだが、これらの領域では、現状がひどくてマイナスばかりであることが前提となる。工場畜産や自然破壊などを通じて動物に大量の苦しみを負わせている現状では、マイナスを減らしたり人間と動物との間の圧倒的な不公正や不平等を解決したり是正したりすることが急務となる。このような状態では、「攻めの倫理」の出る幕はない。また、マイナスや不正義の状態を放置したままで、自律や実存の領域である「攻めの倫理」を導入すると、不正義の状態から目を逸らして個人の気持ちや考え方の問題に矮小化させる、おためごかしみたいな主張になってしまう可能性が高い。「食べるときに感謝の気持ちを抱いていれば、動物を食べることについての倫理的責任は問われなくなる」みたいな「いただきますの倫理」なんかが典型的な例であろう*1

 なお、本書では功利主義は「守りの倫理の側面も持つ攻めの倫理」と分類されているが、個人的には功利主義は「守りの倫理」の側面の方が強いと思う。功利主義は「最大多数の最大幸福」を目指すとはいえ、具体的な問題への実際の運用は「不幸をできるだけ減らす」「マイナスである状況をゼロに近づける」ということが多いからだ(社会における差別をなくす、グローバルな富の不平等を是正する、など)。

 

 また、「攻めの倫理」に属するテーマについて論じられている本を読んでいつもモヤモヤするのは、倫理学や哲学ではない他の学問にアウトソースしてしまった方が有益な議論ができるのではないか、ということ。たとえば幸福に関する議論は『しあわせ仮説』などのポジティブ心理学による検証を参照した方が有益であるように思うし、これまで私が読んできた「人生の意味」に関する議論の中で最も説得力があったのは哲学の本ではなく『野蛮な進化心理学―殺人とセックスが解き明かす人間行動の謎』でなされていた議論だ。基本的に「守りの倫理」でなされる議論というものは規範論に終始しており他の学問分野を参照しなくても論じられることができるが、「攻めの倫理」では事実に関する知見を参照しなければならない頻度が増えてくるように思われる。

 

『ふだんづかいの倫理学』では様々な漫画や小説、ドラマなどにおけるシチュエーションが倫理問題を考える事例として用いられている。

 

多くの小説家は、「文学に倫理なんて関係ない」と言いたがります。でも、私の見方ではそれは間違っています。倫理を自分自身で生きようとするなら、それだけでほとんど文学になるのです。(p.255-256)

 

 私も、特に「攻めの倫理」で論じられるテーマ(自律、実存)そのや前提となる価値観が文学の領域に隣接していることには同意する。そして、文学の領域に隣接しているからこそ、問題となる場合もある。たとえば、文学的な価値観というものは「孤独」をロマンティックに美化しがちだが、身体的・精神的な健康という面から見ると孤独は百害あって一利なし、という事例が思い浮かぶ。文学というものは一面では真実を映すこともあるだろうが、文学的に見栄えのいい真実や「真実っぽさ」ばかりが極端に重視されたり、逆に文学的なテーマとはなり得ないタイプの事実の重要性が軽視されることにもつながる。文学が孕んでいるものと同じような危うさを、実存主義や「攻めの倫理」にも私は感じるのである。

 

 しかしまあ、例えばこの本では「愛」とか「友情」などの個人的な人間関係についての倫理も紙面を割いて論じられており、「横の関係/縦の関係」「相補型/共同型」などの類型を用いた分析もなされているのだが、そこらへんの倫理に対する自分の無関心さを再確認させられて冷や汗を書いたりもした。「守りの倫理」ばかりに興味を持っているとネガティブでつまらない人間になってしまいそうだ。人間らしく生きるためには、ある程度は「攻めの倫理」に関心を持つことも必要だろう。*2

*1:ウィル・キムリッカクレア・パーマーなども、既存の動物倫理の消極性を批判して"積極的な"動物倫理を提唱しようとしている。つまり、単に動物の苦痛を減らすという消極的義務だけでなく、動物との関係性などから生じる積極的義務を提唱するのだ。しかし、私は、彼らの試みが成功しているとは判断していない。

*2:とはいえ、私の見立てだと、サイコパス的な経営者とか意識高い系の若者とか悪質なインフルエンサーとかは、「守りの倫理」をまるっと無視して「攻めの倫理」ばかりを意識しているせいで人に迷惑をかけたり苦痛を与えたりすることに頓着がない。「自分らしく生きる」や「自分の能力を最大限に発揮する」などのマイルールにばかり目を向けていて、社会における一般的な公正や平等や礼儀や平等などに対して無関心過ぎるのだ。現代の社会では、干渉が嫌がられて消極的自由が強調される一方で、他者への無関心と自己顕示欲ばかりが増大する傾向も存在している。「守りの倫理」が無視されて「攻めの倫理」ばかりが強調される風潮がますます強くなっていくであろう、と私は予測している。

「"正義"について語るのはもう止めよう」

 

 記事のタイトルは、過去に自分で訳した記事のパロディ*1

 

ふだんづかいの倫理学 (犀の教室Liberal Arts Lab)

ふだんづかいの倫理学 (犀の教室Liberal Arts Lab)

 

 

 先日から『ふだんづかいの倫理学』という本を読み始めた(この記事を書いている時点では、前半まで読んだところ)。

 この本は倫理学の入門書であるのだが、哲学者の名前や「〜主義」などの規範理論を並べ立てて概説するタイプの本ではない。すくなくとも前半では、「正義」や「愛」に「自由」などの倫理学で扱われる主要な概念が、一般的な言葉でわかりやすく噛み砕きながら説明されている。倫理学の用語の解説というよりも、倫理学における"考え方"の方法を示すことに重点を置いた入門書と言える*2。マンガのエピソードが例え話に用いられることも多い。

 

 さて、私が倫理学の入門書を読むときにいつも気にしているのは、素朴な道徳的相対主義(「道徳や正義なんて人それぞれだ」)や素朴なアモラリズム(「道徳や正義なんて存在しない」)的な主張についてどうやって解説していたり対処していたりするか、である。

 倫理学の入門書を手にとる時点で、大概の読者は倫理や道徳にある程度は関心があるだろうし、最初から道徳的相対主義やアモラリズムを強固に抱いている人ならそもそも倫理学の入門書は手に取らないかもしれない。しかし、例えば必修科目などの理由で嫌々ながら倫理学の授業を受ける学生や、倫理学自体への関心は希薄だが興味本位で読み始めたりとか"論破してやろう"という敵意を抱いている読者の場合は、道徳的相対主義やアモラリズムについてとりあえずは解説して対処しておかないと、本のその他の部分を真面目に読んでくれなくなる可能性が高まってしまう。「道徳や正義なんてそもそも存在しない」「道徳や正義なんて人それぞれだから、理論化して学問的に論じることなんて不可能だ」と思い続けている読者に対して倫理学の解説を続けても徒労になってしまうだろう。

 もちろん、倫理学の専門家であっても、道徳的相対主義やアモラリズムを理論化して主張する人は沢山いるだろうし、それらの主張について入門書で解説したり肯定したりすることに問題はない。しかし、日常生活やメディア・フィクションなどを通じて身に付けられるようなタイプのニヒリズム的な考え方についてはひとまず突っ込んでおくことが、入門書には求められるものだと思う*3

 

『ふだんづかいの倫理学』では、本の序盤の「正義」について解説するパートにて、相対主義的な主張が取り上げられている。道徳や倫理そのものについてではなく正義という概念に関する文脈なので、道徳的相対主義やアモラリズム全般への対処とはちょっと違うが、なかなかよくまとまって書かれていると思うので引用する。

 

学生さんたちからは、他にもさまざまなイメージが出るのですが、ぜひ取り上げておきたいのは、ずばり「正義なんてないと思います」というヤツです。その理由は「正義というのは人によって違うから」というのです。…(中略、「ボクのお父さんは桃太郎に殺された」云々の話題が取り上げられる)…正確に言うと、上のことから分かるのは、「対立している双方が『自分たちの方こそ正義だ』と主張することがある」というだけのことです。つまり、違っているのは「正義そのもの」ではなくて、「自分は正義だ」という主張だけです。こういう主張の対立はごく普通にあることです。…(中略)…正義を巡って対立が生じていても、そこから「正義なんてない」と結論することはできません。なぜなら「正義」というのは、「さまざまな主張がある」、もっと言うと「お互いの意見が対立することがある」からこそ必要になるものだからです。正義というのは「ある」とか「ない」とかじゃなくて、必要だから作らなければならないものなのです。(p.108~110)

 

 上記の引用箇所に続く節では、「正義は必要だと思っているけれども、実現するのは不可能だとも思っているから、"正義はない"と主張する」人が取り上げられる。このような考え方への対処としては、正義の「理念」と正義を実現するための「手段」を切り分けて考ることが促されている。

 

 ところで、この本を含めて倫理学では一般的に「正義」とは「社会の秩序を保つために、釣り合いをとること」(p.112)と定義されているものと考えてよい。英語における"justice"という単語も、おおよそこのような意味合いを持つ単語であろう。しかし、日本語における日常的な用法では、「正義」という単語にはもっと様々な意味が込められていることが多い。

 たとえば、「10人いれば10通りの正義がある」や「正義の反対はまた別の正義」などのよく使われるクリシェに含まれている「正義」という単語は、実際には"justice"ではなく"morality"(道徳観)や"value"(価値観)を意味しているものであるように思える。上記のようなクリシェが使われる事態とは、「正義が存在する状態とはどうであるか」や「正義を実現する手段」などについての意見の不一致などが起こっているのではなく、ただ単に道徳観や価値観の不一致が存在している、という事態であることが多いからだ。

 これまたクリシェとしてよく使われる「正義の暴走」についても、正義が「釣り合いをとること」または「釣り合いが取れた状態」を意味する以上、イメージ的にかなり不自然な言葉になる(「釣り合い」が「暴走」する状態ってなんなのだろう?)。「正義を達成する手段や要求が暴走している」ということを意味している場合もあるだろうが、そうでない使われ方も多々見かける。このような言葉も、「道徳観の暴走」などに表記を改めた方がまだしも混乱が防げるかもしれない(そもそも、「正義の暴走」も「道徳観の暴走」も最初から使わないに越したことはない言葉である、と私は思っているが)。

 

 思うに、たとえばロールズなりなんなりの西洋思想について少しでも触れたり、そうでなくても西洋における"justice"概念の具体例について色々と触れられる環境であった人が「正義」という単語で意味していることと、そうでない人が「正義」という単語からイメージすることとの間には、かなりのギャップが生じている。「正義」という言葉はなまじ耳障りがよく、フィクションなどでもよく用いられるために、人々がそれぞれの思い入れを単語のなかに込めてしまい、結果としてバベルの塔のアレみたいな事態になってしまうことが多々あるようだ*4

「正義」について語りたくなったら、まず、その言葉はもっと別の簡単で限定的な意味合いの単語に置き換えられないか、というところから考えて行った方がよいだろう。正義に限らず、大概の抽象的な単語について同じことが言えるかもしれないが。

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:目次を見る限り、本の後半では規範理論の解説も行われるようだ。

*3:ついでに言うと、特に倫理学に関心がない人に対して日常会話やSNSなどで倫理学の話をする羽目になった場合も、このテの素朴な道徳的相対主義やアモラリズムに対処することがまず必要とされる。…と言うか、よほどこちらが話上手であったり根気のある人でなければ、相手側はニヒリズム的な主張を繰り返して、こちらもそれを取り下げさせたり別の考え方をしてもらうことができず、けっきょく話が一歩も進まず不毛なやり取りになる、ということが多々であろう。というわけで、私は日常生活では倫理学の話はほとんど行わないようにしている。

*4:このToggeterの本文やコメント欄やブコメ欄なんかは、そのような事態の典型であるように思われる。↓

togetter.com

読書メモ:『人生の意味:価値の創造』

 

人生の意味―価値の創造 (りぶらりあ選書)

人生の意味―価値の創造 (りぶらりあ選書)

 

 

 読んだ。いろんな哲学者が「人生の意味」について論じた主張を取り上げては否定していくのだが、著者自身の主張は最後までイマイチ明確ではなく、読んでいてフラストレーションがたまる。先に著者自身の主張や結論を明示してから他人の意見を取り上げて行く、というタイプの議論の方が好きである。

 特に書くことがないので、気に入った部分だけをメモとして引用。

 

 

人生の成功はもって生まれた才能と、長い年月を経て発達した自分の性質に忠実であるだけの勇気をもっているかどうかによるところが大きい。…(中略)…我々の本性を受容することーーそれは後で是正できる過ちに易々として黙従することを意味しないーーは有意味な人生、したがって意義のある人生を生きるのに欠かせない。本性を受け容れればこそ改善できるというものだ。理想を追求する過程でそれを変えながらも、我々はそれのあるがままの姿に敬意を払う。(p.186)

 

幸福と意味は関係があるけれども同じものではないわけだ。幸福になるには自分と自分を取り囲むものの間に調和のとれた調整を行う必要がある、と言えるだろう。しかし、考えてみればどうも調和がとれていない、自分の経験はおおむね敵意のある環境を向こうに回して戦いを挑むことで成り立っている、と言う人がいるとすれば、彼はそれにもかかわらず意味のある生き方をしているのである。(p.133)

 

ソクラテスの人生であれ愚か者のそれであれ、意味のある人生とは目標を決め、それに向かって邁進する継続的過程である。人の行動が意味をもってくるのは、何であれその人にとって重要な目的によってである。そのときまわりの世界は彼の活動が貢献する一つのパターンとして理解できるものとなる。これがそれ自体、またはそれの結果において満足を与えるならば、人間はあるていど幸福ということになる。また、少なくとも彼らがいささかなりと幸福になるのでなければ、およそ彼らが関心を抱くほとんどの計画は実行に移すことができないだろう。このように幸福と意味の概念は絡み合っている。(p.137)

 

人間が環境に首尾よく順応するのにバッハやベートーヴェンの作品は必要ではない。…(中略)…時代を通じて起こるのは、人間という種が物理的環境を支配する手段として発達してきた知性が広範な合目的性の無限に多様なシステムを創造することだ。このシステムは人類にとって重要なものになる。それらが特別の価値を獲得し、更なる価値の探求を促すからだ。それらはまた、種の構成メンバーの一部に、一定の並外れた基準が満たされなければ人生は生きるに値しない、と信じ込ませさえするだろう。(p.121)

 

人は幸福を求めるべきでない、などと示唆するのは野蛮というものだろう。しかし、我々がいま直面しているさまざまな困難は、一般に恵まれた人間が陥りがちな生きることは無意味だとする意識から起こることが多く、日々の糧を稼ぐために苦闘している人々はそうした意識をあまりもたない。これが当たっているとすれば、幸福を追求し達成することは逆説めいた言い方だが自己破滅的な行為のように見えるかもしれない。幸福になればなるほど、本当の意味で幸福な状態にとどまるために欠くことのできない、生きることの意味を生活のなかに見出すのが難しくなるのである。(p.6)

 

読書メモ:『資本主義が嫌いな人のための経済学』など

 

私たちはなぜ働くのか マルクスと考える資本と労働の経済学

私たちはなぜ働くのか マルクスと考える資本と労働の経済学

 

 

「自己責任論」をのりこえる―連帯と「社会的責任」の哲学

「自己責任論」をのりこえる―連帯と「社会的責任」の哲学

 

 

 

 半月ほど前になるが、資本主義やネオリベラリズムを批判するタイプの書籍をまとめて読んでいたタイミングがあった。

『私たちはなぜ働くのか マルクスと考える資本と労働の経済学』は、タイトル通り、マルクス主義における労働についての考え方を解説した本。タイトルから期待したほど「私たちはなぜ働くのか」というテーマについて面白い答えが得られた訳ではなかったが、まあ哲学の解説書としてはよかった。『「自己責任論」をのりこえる』は、これもタイトル通り、イラク日本人人質事件や貧困バッシングにあらわれるような、世間に蔓延する自己責任論を批判する本。

 私自身、俗流の自己責任論は視野が狭く浅はかな考え方であると思うし、根拠も薄弱で規範的にも到底認められる訳ではないと思う。なので、『「自己責任論」をのりこえる』で主張されていることにも大体は同意できた…のだが、単純に読んでいてつまらなく、虚しくすらあった。おそらく、この本を手に取る人のほとんど大半はこの本を読む前から自己責任論に対して批判的であるだろうし、この本を読むことで自分の意見を補強したり思想的な裏付けを得るなどのことはあっても、それまで知らなかったような新鮮な考え方や異なる意見を知ることはほとんどないだろう。そして、自己責任論に批判的でない人の多くはこの本を手に取らないだろうし、そもそもそういうタイプの読者に向けて書かれているような本でもなかった。要するに、自己責任論に賛同的であるか中立的であるような人の意見を変えさせられるほどの強度を持たない、同じような意見や価値観を持っている人同士でのパンフレット的な本に思えたのだ。しかし、世の中にはそういう本がごまんとあるし、そのような本の大半に比べたら学術的にもしっかり丁寧に誠実に書かれている本ではあると思うので、批判するのも酷かもしれない*1

 まあともかく、上記のような本を読んでいてもイマイチ物足りなく不満に思っていたところで、ジョセフ・ヒースの『資本主義が嫌いな人のための経済学』を再読すると、かなり面白かった。

 

 

資本主義が嫌いな人のための経済学

資本主義が嫌いな人のための経済学

 

 

『資本主義が嫌いな人のための経済学』の良いところは、この本が「同じような意見や価値観を持っている人同士でのパンフレット的な本」とは正反対である、というところだ。

 まず、著者は経済学に関する様々な誤謬を右派と左派の二つに分ける。そして、本の前半では右派の間で見受けられる誤謬(「自由市場は全てを解決する」「反グローバリゼーション」「自己責任論」など)に反駁して、本の後半では左派の間で見受けられる誤謬(「公正価格を実現するための価格操作」「最低賃金の上昇」「レベリング・ダウンによる格差是正」など)に反駁する、という構成を取っている。つまり、右派か左派(または、自由主義者社会主義者)のいずれの読者にとっても、半分ほどの内容には気分良く賛成できる一方で、半分ほどの内容には苦々しい抵抗感を抱かざるを得ない。そのおかげで、大半の人にとって、自分がこれまで知らなかった考え方に出会ったり自分の考えを改める必要に迫らされる著作になっていると言える。

 各種の誤謬に対する著者の反駁はかなり念入りでねちっこいが、統計やデータはほとんど持ち出さず論理の矛盾を鋭く指摘して本質を抉るタイプの論じ方をしてくれるので、知的な快感が得られる。ある意味、哲学の本道を往くタイプの著作と言えるだろう。

 

 先ほどの自己責任論の話に戻すと、自己責任論が批判されるべき考え方であるのは当たり前であって、それを単に批判する本は必要なのかもしれないが読んでいて面白くはない、ということだ。例えば、自己責任論が発生してしまう心理学的・社会学的メカニズムを明らかにするなど、単に批判するだけではなくて物事の背景を分析するものであればより面白くなると思う。

 さらにヒースの本に話を戻すと、第5章の「すべてにおいて競争力がない:なぜ国際競争力は重要ではないのか」(右派による反グローバリゼーションの議論に反駁する章)と第10章の「同一賃金:なぜあらゆる面で残念な仕事がなくてはいけないのか」(左派による賃金平等論や最低賃金上昇論に反駁する章)が特に白眉であるように感じられた。反グローバリゼーション論も最低賃金上昇論のどちらも、現在の日本でも熱心に論じられている主張だ。最低賃金上昇論の方には私も基本的に同意はしているのだが、いずれにしても、分析や議論の結果というよりも道徳的直観に基づいたスローガンのような主張の方が目立っていることは否めない。すこし立ち止まって見て、根底となる考え方について議論している本やその問題点について論じている本を読んでみるのもいいものだと思う。

*1:ついでに書くと、安楽死に賛成する議論をネオリベラリズムと結びつけて批判する箇所があって、かなりイラっとしたところもあった。以前にも論じたが、私は、日本の左派における安楽死否定論は現実から乖離したイデオロギー議論であると思っている。左派の著作であるからといって左派の間と定番となっている主張を安易に持ち出されると、思考停止している感があってイヤである。

中立的で客観的な考え方ができる人がこんなにも少ない理由

 

その部屋のなかで最も賢い人 ―洞察力を鍛えるための社会心理学―

その部屋のなかで最も賢い人 ―洞察力を鍛えるための社会心理学―

 

 

『その部屋のなかで最も賢い人 -洞察力を鍛えるための社会心理学』の冒頭で出てくる小ネタが面白かったので、紹介しよう。

 

 この本では、社会心理学の知見が教えてくれる人間の心理についての様々な特質、および複雑な個人的問題や社会問題に対処するうえで社会心理学の知見はどう活かせるか、ということが論じられている。第1章のトピックは、「客観性の幻想」、つまり、「私たち人間は、自分の知覚が現実と一対一で対応していると反射的に思い込むだけでなく、自分自身の個人的な知覚が特別に正確で客観的であると思いがち」(p.23)という性質について論じられている。

 客観性の幻想は、車の運転など身近なところでも発生する(自分よりゆっくり車を走らせているやつはバカで、自分より速いやつはイカれてる」)。また、政治観という複雑な心理においても、客観性の幻想は発生する。著者たちは、「あなたがこの本を読んでいるという事実だけから、あなたの政治的な見解を私たちが見抜ける」ことを証明するとして、以下のように書く。

 

あなたは、自分がだいたい政治的にリベラルだと思っている。ほとんどの事柄について、自分より左側の人たちはやや単純で、現実主義者というよりも理想主義者で、あまりにも政治的な正しさにこだわりすぎだと思っている。同時に、自分より右側の立場の人たちは、どちらかというと利己的で思いやりがなく、いくらか心が狭く、多くの人の生活や、人々が今日の世界で直面している問題にあまり関心がないと見なしている」(p.23~24)

 

この描写は、あなたの政治的な立場をぴったりととらえているだろうか。きっとそのはずだ。それには仕掛けがある。ここに描いた政治的な人物像は、あなたを始めとする本書の読者だけでなく、事実上他の誰にでも当てはまるにちがいないからだ。…(中略)…つまり、あなた(と他の誰でも)は、自分自身の政治的な見解や知識を、私たちが生きている特定の時代や、私たちが直面している特定の問題に対する最も現実的な反応であると見なしているのだ。(p.24)

 

 いかがだろうか?おそらく、著者たちが記している「あなたの政治的な見解の予測」はアメリカの読者用に書かれているものなので、細かい点では日本の読者には当てはまらないかもしれない*1。しかし、少なくとも私は読んでいてかなりギクリとした。常々から私は現実性のなく単純なリベラルや道徳心のなく利己的な右派にほとほと呆れているし、このブログ自体もそんな彼らを啓蒙するために書いている面があるからだ。

 しかし、私に限らず、「自分の見解がいちばん政治的に中立でバランスが取れている」「他人の見解はイデオロギーの影響を受けた極端なものが多い」と思っている人はやはり多いだろう。はてなTwitterなどのSNSでも「ネットの世界にはネトウヨサヨクが多過ぎる」「冷静で客観的な立場からの判断や分析や議論が少な過ぎる」という批判や愚痴のコメントはよく見かける。だが、そのようなコメントにおける「冷静で客観的な立場」とは、ただ単に当人自身の立場のことを指しているのかもしれない(客観性の幻想により、自分の立場とは違う立場はすべて主観的で感情的な立場ということになるから)。

 古(いにしえ)のはてなでは、上記のような態度は「自称中立」「自称中道」として糾弾されたものだ。また、最近のTwitterでは、プロフィール欄に「普通の日本人」「右でも左でもない」と書いている人は自己認識のできていないネトウヨとして揶揄されている。

 

 政治観における「客観性の幻想」に対処する手段のひとつは、「自分は明らかにリベラル/左派(保守/右派)的な傾向があるんだから、リベラル/左派(保守/右派)と自認して、その立場から意見を発信していこう」というものだ。そうすれば、「自分の主張は特定の立場に偏ったものである」ということを自分に対しても他人に対しても示せるので、「自分の見解がいちばん政治的に中立でバランスが取れている」と思い込むことは避けられる。

 ただし、この手段は、思考停止とも言える。例えば大概の問題に対してはリベラル的な意見を主張する人であっても、ある特定の問題に対しては保守的な意見を主張するかもしれない。また、すべての問題に対してリベラル的な意見を主張する人であっても、それぞれの問題に対してその意見を主張するまでの過程には、問題の性質についての分析やその対処についての検討など、何らかの思考プロセスがあったはずだ。だが、自分の旗色を鮮明にしてしまって、「自分はリベラルだから、この問題に対してはこのような意見を主張する」という風にしてしまったら、それまでは存在していた思考プロセスを失ってしまうことになる。一方で、自分に対して「中立で客観的な立場から意見を発信しよう」というプレッシャーや制約を課している人は、様々な問題に対していちいち考えてから意見を発信し続けることになるので、思考放棄はしなくなる。

 結局、ほんとうの意味で「中立的で客観的な考え方」を行うことはかなり難しいか不可能かもしれないとして、自分の政治的ポジションを固定させて開き直ったり居直ったりするのではなく、精一杯に考えて中立的で客観的な考え方を目指していく…というくらいが丁度いいのだと思う。その際に「客観性の幻想」という心理的傾向の存在を意識して、「"自分の考え方がいちばん中立的で客観的で、他のやつらの考え方はイデオロギー的で感情的だ"と思い始めたら赤信号」というブレーキなりチェックポイントなりを意識しておく、という措置もいいかもしれない。…しかし、それも気休めに過ぎないかもしれないが。

 

 心理学的な知見を読むときに困るのは、「なるほど、人間にはこういう心理的傾向があるんだな、気を付けよう」と思ったところで、肝心な場面では結局はその心理的傾向に流されてしまう、ということである。大概の心理的傾向というものはあまりに人間の心理にハードにインプットされているので、意識して気を付けようと思ってもできなかったりするものなのだ。

 という訳で、私はこれからも現実性のなく単純なリベラルや道徳心のなく利己的な右派を啓蒙するため、冷静で客観的な意見を発信していくことになるだろう。

 

*1:自由の国であるアメリカは右派も自分のことを"本当のリベラル"だと思っているが、日本では右派にとってはリベラルは蔑称にしかならないので「自分がだいたい政治的にリベラルだと思っている」とはならない、など。

読書メモ:『ポジティブ病の国、アメリカ』

 

ポジティブ病の国、アメリカ

ポジティブ病の国、アメリカ

 

 

 内容はタイトル通り、アメリカに蔓延するポジティブ・シンキングや楽観主義を批判する本。

 著者によるポジティブ・シンキングの批判点は「ポジティブ・シンキングはカルト化しやすい」ということと「ポジティブ・シンキング野放図な資本主義を肯定して、経営者や資本家にとって都合よく、過剰労働や経済的不平等を助長する考え方だ」という二点。

 

 ポジティブ・シンキングのカルト化とは、「笑っていればガンが治癒する」式な似非科学やエセ医療方法、また悪名高い『引き寄せの法則』や「コーチング」など。

 エセ医療が有害なのは私も同感だが、引き寄せの法則とかコーチングなんかはやりたい奴には好きにやらせてやってもいいじゃないか、という気がする。だが著者のエーレンライクは昔ながらの偏屈な知識人というタイプの人であるらしく、「引き寄せの法則」まわりに漂う「おためごかし」感をかなり嫌っているようで、徹底的に批判する。

 最近、エーレンライクは「こんまり」への嫌悪感を表明したツイートをしたために猛批判を受けた*1Twitterなどで事件に対する感想を調べてみると「リベラル派として優れた著作を残してきたエーレンライクが人種差別的なツイートをするなんてショックだ」という感想が多々あったが、『ポジティブ病の国、アメリカ』を読んでいると「そりゃエーレンライクはこんまりも嫌いだろうなあ」という気はしてくる(「片付けをしたら人生が変わる」なんてのもポジティブ・カルトの一種と言えなくもないだろう)。近年では知識人と大衆との間の垣根が低くなっているために、大衆の間での反知性的なくだらないブームを肯定したり乗っかったりする知識人も増えてきているが、エーレンライクのような偏屈さを持ってブームに水を差したり否定したりすることが、本来の知識人に求められる役割なのだ。知識人であるならタピオカを食べてはいけないし、Netflixの番組はこき下ろすべきである。

 

 従業員に過剰労働をさせたり、低賃金やリストラをごまかす「おためごかし」としても、ポジティブ・シンキングは用いられる。『ポジティブ病の国、アメリカ』の原著は2009年に出版されたが、それから10年後の現在となっても、シリコン・バレーやそれに憧れる日米の有象無象のベンチャー企業では「ポジティブ・シンキングによる、不当な労働環境や賃金のごまかし」という現象は増加し続けているように思われる。

 たとえば、「モチベーション」という言葉はおためごかしの一環として使用されやすい。日本ではモチベーションアップ株式会社の悪名高いポスターのおかげで「モチベーション」という単語もすっかりイメージが悪くなったが、元はと言えばアメリカ発祥であったようだ*2。なぜ労働現場におけるポジティブ・シンキングが不当な過剰労働につながるかというと「自分を信じて頑張ればもっと成果が出せる!」「仕事が楽しめないのは、自分のなかのネガティブな考え方を追い払えていないからだ!」というタイプの精神論を招き寄せてしまうからである。また、ビジネスにおけるポジティブ・シンキングは『チーズはどこに消えた?』などの自己啓発本自己啓発セミナーを介してアムウェイなどのカルトに吸い寄せられていく。

 近年の映画『ザ・サークル』では、シリコンバレーの企業ではいかにポジティブ・シンキングが違法行為や不当労働をごまかすお為ごかしとて使われているかがたっぷり描かれていた(映画自体はつまらないけど)*3。私自身の経験や周りの人の経験を見聞した限りでも、外資系やベンチャー系の企業のカルチャーは「ごまかされてるなあ」と思うことが多々ある。労働者の立場としては、常にネガティヴ・シンキングをして会社や上司の言葉の裏を疑ってかかるくらいが自己防衛として適しているのだろう。

 

 なお、この本の6章では主にマーティン・セリグマンが槍玉に挙げられて、ポジティブ心理学が徹底的に批判される*4。しかし、この章でのエーレンライクの論旨にはとうてい賛同できなかった。

 エーレンライクによるポジティブ心理学批判の要点は、「ポジティブ心理学は幸福の要因として個人レベルの習慣や考え方や気質ばかりを強調して、環境が幸福に与える影響を低く見積もる。そのために、経済格差や差別問題などの社会問題が人々の幸福を減らしていることを看過してしまう。自己責任論的で現状維持的な主張だ」と言うもの。しかし、これはいかにも左翼知識人的な、何の役にも立たない不毛な批判であると思う。

 まず、科学的に研究した結果「環境よりも個人差の方が幸福に与える影響が大きい」と言う結論が出たんだから、それは事実として認めなければならない(エーレンライクはポジティブ心理学が「科学的」「客観性」を目指すことに対しても皮肉を書いているが、科学性や客観性という単語は疑って批判するというのもダメなタイプの知識人にありがちだ)。「ポジティブ心理学は"結婚した方が人は幸せになる"など"宗教を信じている方が人は幸せになる"などの、保守的で右派的な価値観を肯定する結論を出すことが多い」というタイプの批判も行なっているが、これも事実としてそうなんだったら仕方がないだろう(そもそも、事実として人を幸福にする価値観であるからこそ、長く社会に残ってきた価値観となった、とも考えられる)。

 また、社会環境を変えたくても個人レベルの努力には限界があるし、すぐに変えられる訳でもない。不当な経済格差や差別問題を解決するという努力をすることと、個人の習慣や考え方を変えて自分の幸福度を上げようとすることは、両立するだろう。現状の問題に対処する考え方に対して「現状維持だ」と批判するのは不毛もいいところだ。現実性のない革命的な考え方ばかりを肯定して、現実に対処するための漸進的な考え方を否定するというのは、ほんと左翼的知識人にありがちなパターンである*5

 …という訳で、『ポジティブ病の国、アメリカ』は良くも悪くも、偏屈でお高くとまった知識人による社会批評本の典型といえる。知識人が大衆に媚びる最近の日本では「偏屈でお高くとまった知識人」自体が絶滅しかねないので、こういう本も珍しくなっていくかもしれない。

 

*1:

headlines.yahoo.co.jp

*2:

matomame.jp

*3:

gaga.ne.jp

*4:

 

ポジティブ心理学の挑戦 “幸福

ポジティブ心理学の挑戦 “幸福"から“持続的幸福"へ

 

 

*5:「現状を肯定するからダメ」というタイプの批判は「効果的利他主義」に対してもよく寄せられるものだ。

davitrice.hatenadiary.jp