道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

文系インテリが進歩や科学を嫌う理由(「啓蒙をめぐる戦争」の要約【その4】)

 

 前回前々回前々々回の続き。

 

 これまでは『現代の啓蒙(Enlightment Wars)』に寄せられた具体的な批判に答えてきたピンカーだが、記事の後半では「『現代の啓蒙』はなぜ一部の人々をここまで猛烈に怒らたのか?」という疑問を呈して、自らそれに答えようとする。

 

 ピンカーが挙げる理由の一つは、文芸批評家に代表される文系インテリたちのスノビズムだ。多くの文芸インテリはニーチェ的なロマンチシズムを抱く傾向があり、歴史的・芸術的な偉業(訳注:すごい文芸作品とか芸術作品など)だけを本物の価値があるものだとして褒めそやして、子供の死亡率や栄養状態や識字率の改善など、数字で明白に示されるような物事には興味を抱かない。

 1959年、物理学者でもあり小説家でもあったC.P.スノーが著書『二つの文化と科学革命』のなかで自然科学の発展が途上国の人々の苦痛を減少させる可能性を強調したとき、文芸評論家のF・R・リーヴィスはスノーを攻撃した。人間らしく生きるためには偉大な文学が必要なのだ、というのがリーヴィスの言い分であった。ピンカー自身も、「人類の最良の日は未来にあるのか?」という論題でディベートをした時に哲学者のアラン・ド・ボンから同様の論法で批判されたことがある*1。ド・ボンの出身国であるスイスは健康や幸福や教育や繁栄や平和などのいずれの点においてもで世界最高クラスの国ではあるが、それらの物事は国民がプルーストの著作の真価を理解してよく味わえることを保証するものではないのでスイスは他の国から羨望されるに値しない、というのがド・ボンの主張だったのだ。

 このような文芸主義は、人々の状態を改善するためにエンジニアやビジネスマンや公務員たちが行なっている卑俗な仕事をあざ笑ってしまいがちだ。ビジネスマンや公務員たちは近代的・資本主義的な制度の枠組みのなかで労働しており、数々の点で人類の状態を向上させてきた実績からも近代的・資本主義的な制度の価値は立証されているはずだ。しかし、多くのインテリたちは「批判理論」や「ラディカルな否定」や「疑いの解釈学」的なスタンスをとって、現代の西洋は堕落していると見なす。具体的にどのようなものでは定かでないがとにかく現在とはまったく違った形の社会制度が西洋的なものに取って代わらなければならない、と彼らは主張するのである。

 自然科学と人文科学は「知識の統合」という啓蒙主義的な理念に従いやがて「第三の文化」に統合されるだろう、とスノーは論じたが、リーヴィスはこの主張にも憤慨した。昔から今に至るまで、人文学と自然科学を架橋しようとする試みは人文学者の怒りを買ってきたのだ。理系と文系の知識を統合するための学際的な会合が開催されても、自然科学者が「視覚についての神経科学が芸術についての理解をもたらす可能性」とか「量的研究が音楽の普遍性についての理解をもたらす可能性」とかを提案すると、人文学者たちは怒り出してしまう。そして、ナチスを相手にするかのような勢いで、低俗な還元主義者のレッテルを自然科学者に貼るのだ。『現代の啓蒙』も歴史学政治学や哲学による分析を量的研究や認知科学進化心理学の知見でさらに豊かにしようと試みた本だが、主に文系インテリからの轟々たる非難にさらされることになった。

 

 精神医学者のスコット・アレクサンダーのエッセイでは、人々の思考形式を二種類に分けることで、現代の政治的争いが分析されている。一方の人々は「誤りの理論」で思考しており(Mistake theorists)、彼らは科学や工学や医学のように政治を扱う。現在の社会に生じている問題を病気のようにとらえて、人々は「最も正確な診断や、処方箋は何であるか」をめぐって論争している、と考えるのだ。ある人々の診断や処方箋は適切なものであるとしても、別の人々は的外れな診断をしてしまい、何ら効果がなかったり副作用の多すぎる処方箋を提案しているかもしれない。しかし、互いの診断や処方箋を分析しあって問題を指摘し合うことで、やがては適切な診断や処方箋が採択されることが見込めるだろう。…他方の人々は「争いの理論」で思考しており(Conflict theorists)、彼らは政治を戦争のように扱う。政治とはそれぞれの利害を持つ別々の立場の人々による恒久的な争いである、と見なしているのだ。エリートをさらに豊かにするものとして国家を機能させるか、それとも人民を助けるものとして機能させるか、その決定権をめぐる争いである。

 現代の世界では様々な論点において妥協の余地のない対立が発生している。議論や言論の自由の価値、人種差別主義の性質とは何か、民主主義の長所と短所、テクノクラティックな解決策と革命的な解決策のどちらが望ましいか、知的な分析と道徳的な情熱のどちらが望ましいか、などなどの論点だ。これらの対立の原因は「誤りの理論」と「争いの理論」の思考形式の違いで説明できる、とアレクサンダーは論じている。

『現代の啓蒙』は「誤りの理論」に基づいて書かれたものであるし、「進歩とは知識の適用である」という理念こそが啓蒙主義の本質である、とも論じている*2。しかし、「争いの理論」においては、知識による進歩なんてエリートたちの特権をさらに強めるための言い訳に過ぎなくなる。進歩とは、権力争いによってしか生じないものとされているのだ。

「誤りの理論」で考える人と「争いの理論」で考える人が妥協するのは、ひどく難しい。誤りの理論では互いの目標が一致していると見なされて、「君の診断や処方箋にはこのような点で問題がある」と批判し合うことで、より正確な診断や適切な処方箋についての合意や妥協が目指される。しかし、何事もメタレベルな権力争いで考えようとする争いの理論においては、そもそも合意や妥協は必要とされない。自分とは異なる立場の人々の主張を理解しようとしたり、相手と文脈や用語を共有すること自体が、敗北を意味してしまうからだ。

 

 

*1:日本語では、ディベートを書籍化した本の内容をshorebirdさんが要約した記事が読める。

*2:余談だが、ジョエル・モキールの『経済発展の文化:近代経済の起源』 では、「人間は知識によって自然界を理解してコントロールすることができ、自然界から有益なものを発見して利用することができる」「知識を通じて自然を征服することによって、人間社会を発展させて進歩させることは可能である」という信念自体が自然科学を発展させて、ひいては近代経済を生み出すことになった、ということが論じられていた。

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