タイトル通りリバリアニズムについて書かれた本であるが、政治哲学や経済学などにおける理論としてのリバタリアニズムについて書いた本ではなく、現在のアメリカに生きて社会的・政治的影響力を発揮しているリバタリアンな人々たちの姿を追ったルポルタージュのような本だ。
リベラルや保守とリバタリアニズムとの違いや、なぜアメリカで特にリバタリアニズムが発展したのかという思想史のおさらいがされている箇所はありつつも、著者自身は理論家ではないので、他の理論にリバタリアニズムを対比させて優劣や正否などを論じているわけではない。あくまで中立的な観点からアメリカのリバタリアンの人たちに話を聞いてみました、という内容の本である。
……とはいえ、著者がリバタリアニズムに対して明らかに好意を持っているというか、"肩入れ"していることは伝わってくる。たとえば、「あとがき」には以下のような文章が書かれている。
日本でリバタリアニズムの話をすると、「市場万能主義」や「弱者切り捨て」と同一視されることが多い。アメリカではそれらに加えて「ヒッピー」や「裕福な白人」などのステレオタイプもある。しかし、今回、私がアメリカ(そして他国)で会った多くのリバタリアンから受けた印象はかなり異なる。例えば、ケイトー研究所のデヴィッド・ボアズ副所長もアトラス・ネットワークのトム・パルマー副所長もヒッピーではない。両氏ともマリファナ解禁論者だが、自らはマリファナ嗜好家ではない。ほぼ全員が大卒以上だったのは確かだが、「裕福な白人」ばかりとの印象はない。パルマー氏の妻はタイの貧村出身である。何よりもフレンドリーで温かい人が多かった。不快な思いをしたことは一度もない。
では、私がリバタリアンかといえば、おそらく違う。……
(p.201)
言うまでもないことだが、リバタリアンに「フレンドリーで温かい人」が多かったとして、それはリバタリアニズムが市場万能主義で弱者切り捨て的な思想であるという批判への反証にはならない。リバタニアリズムの問題点のひとつは「政府をなくした方が人々の自発的な協力や助け合いが発生してより多くの弱者が救われるはずだ」などの素朴な性善説を採用していることにある。耳心地の良い理想論を唱えておきながら、その理想論が実行されてしまったときに生じるであろう惨事の可能性からは目を逸らしたがるということだ。リバタリアンたちの多くが"善意"の人であろうことはわたしにもなんとなく想像が付くが、リバタリアニズムが批判されるのはその思想が悪意に満ちたものであるからということではなく、人間の能力やモチベーションの差とか社会における不平等の構造などの事象に対する現実的な理解が欠けている点であるのだ。
そして、「リバタリアンといえば裕福な白人ばかりであるというイメージがあるが、実はちがう」ということがこの本では何度か言及されるわりに、数多く挿入されている写真に写っている人は、(中国のリバタリアンたち数人とアイン・ランドを除けば)見事にみんな白人男性ばっかりだ。ついでに言うとそのほとんどが中年男性であるし、いちばんの若年であるだろうパトリ・フリードマン氏はミルトン・フリードマンの孫のボンボンである。わたしが著者か編集者だったら、エクスキューズとして、女性リバタリアンの写真や有色人種リバタリアンの写真も挿入していたと思う。
自らのことを「いかなる〇〇主義者」(p.202)と称することも控える「メタ・イデオロギー」(p.202)を持っていると自認する著者の態度は、往年のはてななら「自称中立」と揶揄されていたものであろう。結果として、この本はアメリカのリバタリアンたちの言い分をただ垂れ流しているだけのものになってしまっているのだ。
リバタリアニズムのおさらいをしつつ近年のリバタリアンたちの運動や政治動向を簡潔にまとめた本としては価値があるだけに、イデオロギーに対する著者の距離の取り方(というか、距離の取れてなさ)が気になってしまった。このスタンスで書くなら、むしろ堂々と「わたしはリバタリアンだ/リバタリアニズムに賛同している」と明言してしまった方がずっとスッキリしていたと思う。