道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

読書メモ:『真実の終わり』

 

 

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 

 以前にも紹介したんだけれど、改めて再読。しかしまあやっぱりあんまり中身がある本ではないような気がする。著者は文芸批評家であるんだけれど、文芸批評らしく皮肉や比喩や気の利いた表現が散りばめられているので、冗長になり論旨がボケているのだ。もうこのタイプの文章そのものがどっかに捨てられてしまってもいいだろうと思うんだけど、文章や本が好きな人に限って「文芸批評」風味の文章にメロメロになっちゃうんだから世話がない。

 以下は個人的に興味のあるところのメモ。

 

さらに皮肉なのは、右派ポピュリストによるポストモダン的議論の流用、その客観的実在の哲学的否認の採用だ。これらの学派は何十年間も左派およびトランプとその仲間が軽蔑する極めて名門とされる学会と結びついてきた。学者によるこうしたしばしば深遠な議論を、なぜ我々が気にしなければならないのか?トランプが、デリダボードリヤール、リオタールの作品を読破したことがないのは明らかだ(仮にその名前を聞いたことくらいはあったとしても)。世の中に流布している漠然としたニヒリズムのすべてが、ポストモダニズムの思想家のせいだとは到底いえない。しかし、思想家たちの理論は、俗物化された産物として大衆文化に浸み出し、大統領の擁護者に乗っ取られてしまった。彼らは、その相対主義的な主張を、大統領の嘘を弁明するために用いようと欲したのだ。右派はそれを、進化論に異議を唱えるため、気候変動の現実を否定するため、もう一つの事実を売り込むために使った。悪名高いオルタナ右翼トロール陰謀論者のマイク・セルノビッチでさえ、『ニューヨーカー』誌による二〇一六年のインタビューで、ポストモダニズムを引き合いに出した。「ほら、私は大学でポストモダンの理論を読んだんだ。何もかもが物語であるならば、主流な物語に対する他の物語が必要じゃないか」。彼は付け足した。「私がラカンを読むような人間には見えないだろう?」

(p.35 - 36)

 

大学キャンパスでも個人的な証言が流行りだした。客観的真実という概念が支持を失い、伝統的な研究によって収集された経験的証拠に疑いの眼差しが向けられるようになったのだ。学界の執筆者は、自身の「立ち位置」に関する断り書きから学術論文を始めるようになった。人種、宗教、ジェンダー、背景、個人的経験が、分析に貢献したり、それを歪曲したり、裏付けたりするかもしれない。一九九四年、アダム・ベグレーは『リングワ・フランカ』誌で、新しい「わたし批評」の提案者の中には、本格的な学問的自伝を書く者も現れたと記した。彼によれば自伝的傾向は六〇年代にまで遡って初期のフェミニスト意識向上グループから始まり、しばしば「多文化主義と連携して拡大した。マイノリティとしての経験はたいてい一人称単数視点で語られる。ゲイ研究や性的なマイノリティの理論についても同様だ」。

(p.57)

 

すべての真実が不完全(および個人の視点の結果)だというポストモダニズムの主張は、ある出来事を理解したり表象したりするうえで数多くの正当な方法があるという、関連する議論に繋がった。それは、より平等主義的な議論を促し、過去に権利を剥奪されていた者たちの声が聞こえるようにもなった。しかし同時に、侮蔑的な、または反証済みの理論の擁護に、そして同等に扱うことのできないものを同等に扱おうとする者たちによって悪用されてきた。例えば万物創造説の推進者は学校で進化論と並行して「インテリジェント・デザイン」を教えるよう求めた。ある者は「両方とも教えるべきだ」と言い、他の者は「論争について教えよ」と主張した。

(p.59)

 

実のところ、脱構築主義とは非常にニヒルである。注意深く証拠を収集し吟味することで入手可能な最良の真実を突き止めようとするジャーナリストや歴史家の試みが、空虚であるとほのめかしている。また理性は時代遅れの価値である、言語とはコミュニケーションのツールではなく、絶えず自らを混乱させる当てにならないインターフェースだと示唆している。脱構築主義の支持者たちは、著者の意図がテキストに意味を与えると信じておらず(それは読者や視聴者など受け手次第だと彼は考える)、多くのポストモダン主義者は個人責任という概念が過大評価されているとまで言う。学者のクリストファー・バトラーの言葉を借りるならば、それは「内在する経済的構造の役割よりも、個人的自律の重要性を優先させる、遥かに小説風でブルジョワ的な信念」を奨励する。

(p.131 - 132)

 

現代文化をめぐる長文エッセイを通じて(デイヴィッド・フォスター・)ウォレスは、ポストモダンの皮肉が物事を爆破するうえで強力な道具となり得る一方で、本質的には「批判的で破壊的な」論理であると論じた。障害物を排除するには有益だが、「暴露した偽善に取って代わる何かを構築するには」、きわだって「使い物にならない」と。シニシズムの普及は物書きを誠意や「オリジナリティ、高潔、誠実といった昔風の価値観」から遠ざけると彼は記した。「嘲りを頻発する者にとって嘲りからの盾となり」「いまだに時代遅れの見せかけに騙される大衆の上を行く、嘲りの後継者を」祝福する。「発言が真意でない」という態度は、自分たちが偏狭なのではなく、ただのジョークだと装うオルタナ右翼トロールに作用されることになる。

(…中略…)

ポストモダニズムからしたたり落ちた遺産は「風刺、シニシズム、度を越したアンニュイ、あらゆる権威に対する不信、行動に対するあらゆる制御への不信、診断し嘲笑うだけでなく救済するという願望の代わりに、皮肉な不快感の診断を下す酷い傾向だ。こうしたものが既に文化に浸透していることを理解しなければならない。我々の言語となってしまった」とウォレスは主張した。「ポストモダン的皮肉は我々の環境となった」。我々が泳ぐ水そのものなのである。

(p.132 - 133)