道徳的動物日記

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読書メモ:倫理学とはなんぞや、道徳における「理由」と感情についてのシジウィックの見解

 

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

 

 

 

『The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics(普遍的な観点:シジウィックと現代倫理学)』は、倫理学者のカタジーナ・デ・ラザリ-ラデク(ポーランドの人)とピーター・シンガーによる、19世紀の倫理学者ヘンリー・シジウィック(Henry Sidgwick)の主著『倫理学の方法』の内容を解説しながら現代にも通じる倫理学として擁護している本。

 以下では、『普遍的な観点:シジウィックと現代倫理学』の内容に沿ってシジウィックの主張やそれを発展した著者らの主張をメモしていく。『倫理学の方法』は邦訳も出ていないし、ラザリ-ラデクやシンガーも「重要だが退屈な本」と序文で強調しているくらいの代物らしいので現時点で読み通す気はちょっとないために、著者らがシジウィックについて書いている主張がどのくらい正しいかは私には判断できないのだが、ラザリ-ラデクはシジウィックの専門家らしいしシンガーも偉い人なのでまあ信用してもいいだろう*1

 

 第1章の前には、シジウィックの人生と思想遍歴についての短い伝記が書かれている。

 第1章の題名は「倫理学とは何か?(What is Ethics?)」であり、内容もタイトル通り。「シジウィックによると、どのようなことを行うことが合理的で理由のある(reasonable)ことであるかということに関わるのが倫理学であり、そして個人としての人間が行うべきである行為を決定する全ての合理的な手続きが倫理学の方法としてみなされる」(p.18)。シジウィックは倫理学の方法を「利己主義(Egoism)」「直観主義(Intutionism)」「功利主義(Utilitarianism)」の三つに分類している。カント主義や契約論、完全主義(perfectionism, 人間としての能力を最高に発揮して偉い人になることが道徳の目的、みたいな考え)などの他の倫理学理論は、実際には前述の三つのカテゴリのいずれかに収まる、とシジウィックは議論している。ただし、著者らはシジウィックのカント理解の不充分さや現代における契約論の発展などについて述べながら、シジウィックが現代に生きていればカント主義や契約論を独立したカテゴリとして扱っていた可能性はあっただろう、としている。

「利己主義」が倫理学の理論とされているのは奇妙な感じがするが、倫理学(Ethics)の定義に道徳(morality)の有無を含めずに「個人としての人間が行うべきである行為を決定する合理的な手続き」という点のみで判断すれば、利己主義は非常に強力な理論である、とシジウィックは考えていたようだ。

「もしシジウィックが"倫理学"と"道徳"との区別や私たちが行うべき理由が最もあることと道徳が私たちに行うように要求することとの区別を明確にしていなかったとすれば、ある行為が道徳的に不正であると私たちが言う時、その行為を行わないことについての決定的な理由が存在するということを意味している、とシジウィックは考えていたのかもしれない」(p.20)。

 

 第2章の題名は「理由と行為(Reason and Action)」であり、道徳における理性と感情の役割について論じられているメタ倫理学的な内容の章である。「ある人が道徳的な主張をする時には、その人の欲求や感情が先に存在しているのであり、理性は自分の欲求を満たしたり感情を正当化したりするための手段として使用されるに過ぎない。理性は感情の奴隷であり、一見理性的に聞こえる道徳的主張も感情を正当化したものに過ぎない」といった、デビッド・ヒューム(David Hume)に代表されるような主観主義・非認知主義の立場をシジウィックは否定する。著者らの解説によると、「…あることが正しいという私たちの信念は、行為へと私を導く。たしかに、その信念はある衝動や感情を引き起こすことによって私たちを行為へと導くのだが、それでもなお、動機は理解(cognition/認識)によって生じる場合があるとシジウィックは考えていた…その理解とは、道徳的な判断の真実を理解することである」(p.41)。私なりに要約すると、(1)まず、理性によって認識することができる客観的な道徳的真実が存在している(2)その客観的な道徳的真実を認識するという理性的な営みによって、道徳的な感情(moral feeling)が付随的に生じてくる、というのがシジウィックの主張の要旨であるようだ。また、この「道徳的な感情」は絶対的なものではなく他の様々な感情と競合関係にあり、「道徳的な感情」が生じたとしても他の感情(利己心など)が打ち勝って「道徳的な行為」をしない場合もある、ともシジウィックは主張しているらしい。

 

「客観的な道徳的真実」と言う書き方だとなんだか大層なものに聞こえるが、どうやら、「ある人が現時点で抱いている主観的な欲求や感情」とは独立に「〜という行為をするべきである」という「理由」が存在している、その「理由」を理解することで「現時点で自分が抱いている主観的な感情」とは別に「〜という行為をするべきだという道徳的な感情」が生じる、ということであるらしい。

 著者らは、『普遍的な観点』と同じくシジウィックの議論を取り上げているデレク・パーフィット(Derek Parfit)の著書『On What Matters(重要なものについて)』を参照しながら、客観的な道徳的真実としての「理由」という概念について説明している。この点については以前に私が訳したシンガーの記事に要約的な文章があったので、長くなってしまうがそれを引用する*2

 

…道徳的真実はトートロジーでも無いが経験的なものでも無いという考えは、未だに奇妙に聞こえるものだ。しかし、最近では、デレク・パーフィトが規範的な真実を擁護した注目すべき文章を書いている。

『On What Matters』にて、私たちが知識についての懐疑主義や倫理についての懐疑主義に陥らない限りは、私たちが信念を抱くための理由についての規範的真実が存在することや、望むための理由や行動をするための理由についての規範的真実が存在することを私たちは認めなければならない、とパーフィトは主張している。

 例えば、次の主張について考えてみよう。「ある議論は正当であると私たちが知っており、その議論が正しい前提を持っているなら、その議論の結論を受け入れることについて決定的な理由が私たちにはある」。この主張はトートロジーでもないが経験的な真実でもない、とパーフィトは論じる。この主張は、私たちが信念を抱くための理由についての真の規範的な主張なのである。

『拡大する輪』の第4章にて、私は「従われること(to-be-pursuedness)や「行なわれないこと(not-to-be-doneness)」の可能性が物事の本性に埋め込まれ得ることについてのマッキーの懐疑主義を持ち出している。世界についてのある信念が、その人が持っている望みや欲求にもかかわらず、その信念を抱く人を動機づけることがなぜそもそも可能なのか、ということを理解することにマッキーの議論の難点があるとパーフィトは主張している。

 このことは私にとっても問題であった。オックスファムに募金することは私の人生をはっきり悪くするほどの影響を私には与えず、募金することによって10人の子供の生命を救うことができて彼らの家族が感じている苦しみを大きく軽減することもできる、という信念を私は抱いているかもしれない。だが、この信念は、募金を行うように私を動機付けないかもしれない。なぜなら、私は他人の子供なんて気にもかけないかもしれないからだ。

 だが、パーフィットによると、ある信念が私たちに特定の行動をするための理由を与えるかどうかは規範的な問題であり、その信念が私たちを行動するように動機付けるかどうかは心理的な問題である。

 この例については、オックスファムが援助している人々について私が気にかけないとすれば私にはオックスファムに寄付する理由は何もない、と多くの人々が反論するかもしれない。だから、私がその行動を行うための理由はあるがその行動を行う欲求を私は持っていない、ということを否定するのが更に困難な事例を示そう。

 私はいま歯痛の初期徴候を感じたところであるが、私はこれから歯医者のない離島に行って一ヶ月ほどそこで過ごす予定である。過去の経験に基くと、もし私が今日歯医者に行かないとするならば私は次の一ヶ月間は激しい歯痛に苛まれ続けられる可能性が非常に高いのであり、島の自然美を眺めながらリラックスして過ごすという貴重な機会によって得られる楽しみが妨げられることになるだろう、という信念を私は抱いている。私が今日歯医者に行けば、私は穏やかな不快感を一時間以下味わうことになる。私が今日歯医者に行かないとすれば私は次の一ヶ月間激しい苦痛に苛まれ続けるであろう、という私の知識は、今日歯医者に行くための理由を私に与える。私が歯医者に行かないことによって感じる苦痛を無視することは、非合理的であるのだ。

 この例は、ある人の意識的な生活における全ての部分について偏りなく配慮しないことは非合理的である、というシジウィックによる思慮分別の公理にも一致している。また、この公理をより弱くした形でも…より離れた未来に対してはいくらか少なめに見積もることを認めるとしても、私が今日歯医者に行かないとすれば私は非合理的であると宣告するのに十分な根拠となるだろう。

 しかし、私が現在抱いている欲求については何も言われていないことについて注意をしてほしい。もしかしたら、私は明日や来週に自分に降りかかる出来事よりも、現在や数時間後に自分に降りかかる出来事の方により影響を受けてしまう種類の人であるかもしれないのだ。

 そうすると、もし現在の私が歯医者の診療所の前に立っているとして、私が最も望んていることとは今日受けるほんの僅かの苦痛でも避けることであるかもしれない。来週の私は苦痛に苛まれて島への滞在が台無しになってしまい、今日私が下した決断を後悔するであろうことを、知識としては私は理解している。だが、この瞬間には、来週に関する事実は私の欲求に何の影響も与えないのだ。しかし、来週私が苦痛に苛まれることはそのことを予防するための手段を行うように私を動機付けないという事実は、私には予防するための手段を行う理由があるという主張を無効にしないのだ。

 その理由が存在することを十分に理解している人であっても必ずしもその行動を行うように動機付けられるとは限らないということを認めなければ、ある行為を行うための客観的な理由が存在するという主張への理解が得られないとすれば、私たちは多大な犠牲を払う勝利しか得られないのであろうか?

 私たちには、あなたにはオックスファムに募金する客観的な理由があると言うことができるかもしれないが、もし私たちが募金するようにあなたを動機付けることができないとすれば、貧しい人たちの状況は全く改善されないことになる。しかしながら、客観的な規範的真実という概念を私たちが認めることができるなら、私たちには日々の道徳的直感とは違ったものに頼ることができるようになるのだ。

 

 上述の引用部分でも言及されているが、ヒュームのような主観主義・非認知主義には、突き詰めれば、「死にかけている子供がいたら助けるべきである」と言った根本的で自明であると思われるような道徳的な主張ですらも「私はそうは思わない、私はそうは感じない」と言われしまうと否定される、という問題点がある。主観主義によると、「死にかけている子供がいたら助けるべきである」という主と「野球ではヤクルトスワローズを応援するべきである」という主張はどちらも当人の感情を根拠とした主張であるので、等価である。しかし、「野球ではどの球団を応援するべきであるか」という問題は個人の感情や環境によって答えが変わる恣意的な問題であると言ってもいいし、結局のところどの球団を応援したとしてもそれは大した問題ではない(not really matters, 重要なことではない)。一方で、道徳的な問題とは人々の利害や場合によっては生死が関わる重要な問題であり、ある道徳的な問題について人々はどう判断するべきか/どう行為するべきか、ということには恣意的な感情に依らない理性的な要素があるはずだ(p.48-50)。

 

 また、「〜という行為をするべきである、〜という判断をするべきである」という理由を理解することによって生じる「道徳的な感情」は、「共感(sympathy, empathy)」とは別物である。多くの場合には道徳的な感情と共感は同じ問題に対して起こり、複雑に絡み合っているが、それでも別物なのである。共感は、理性的な道徳判断と相反する判断を導く場合がある。この点については、以前に私が訳したシンガーの記事で言及されている心理学の実験が『普遍的な観点』でも紹介されているので、引用しよう*3

 

共感は私たちに不正な行動をさせる場合がある。ある実験では、被験者たちは病気の末期患者である子供へのインタビューを聞かされた。一部の被験者たちは可能な限り客観的であり続けるように努めることを指示されて、別の被験者たちはその子供が感じていることを想像するように指示された。どちらの被験者たちも、治療の優先順位が高いと査定されている他の子供たちを差し置いて、インタビューをされた子供を治療待ちリストの先頭に移動させたいか、と質問された。子供が感じていることを想像するように指示された被験者たちのうち4分の3はそれを求めたが、客観的であるように指示された被験者たちは3分の1しかそれを求めなかった。

 

 また、心理学者のサイモン・バロン・コーエンやテンプル・グランディンの著作を引用しながら、重度のアスペルガー症候群自閉症である人々は他人の感情を理解する能力(共感)や社会的な作法を理解する能力が欠如しているが、それでも彼らは道徳を理解して道徳的に行為することができること…むしろ、場合によっては過剰に道徳的(hyper-moral)になって自分や他人がルールや秩序に従うことを熱望すること…が言及されている。シジウィックは、仮定的な存在として、感情に影響されずに理性によってのみ道徳的判断を行う「合理的な存在者(ratonal beings as such)」について書いたが、ある意味ではアスペルガー症候群を持つ人々は現実における「合理的な存在者」であるかもしれないのだ(p.59-61)。

 一方、サイコパスの場合には「〜という行為をするべきである」という理由を理解したとしても「〜という行為をするべきだ」という感情が生じない。しかし、多くのサイコパスは道徳的な物事のみならず自己利益に関わることについても、「〜という行為をするべきである」という理由を理解したとしても「〜という行為をするべきだ」という感情が生じないために不合理で自己破壊的な行動をとる。サイコパスはそもそも不合理な存在なのである(p.56-59)。

 

 通常の人の場合は、「〜という行為をするべきである」という理由を理解して「〜という行為をするべきだ」という感情が生じたとしても、自己利益を保ちたいなどの様々な事情から「〜という行為をしなくてもよい/〜という行為をするべきでない」という理由を数多く思い付いてしまい、「〜という行為をするべきだ」という感情が掻き消されしまうことがある。これは、現代の心理学の用語で言うところの「認知的不協和」という現象である。

 一方で、「自分は正しい行為を行っている誠実な人間である」という自己評価(self-esteem)は人間の幸福にとって欠かせない要素であるために、「〜という行為をするべきである」という理由を理解しているのにそれを無視し続けて自己利益を優先した非道徳的な行為をし続ける、ということも難しい。通常の人は、自分のことを非合理的な人間であると他人から思われたくないものだし、自分がある程度以上には合理的な人間であると自分でも思っていたいものである。このことも、「〜という行為をするべきである」という理由を理解することが「〜という行為をする」という行為を導く一因となっているのだ。

 

 第2章までのメモはこんなところ。余談であるが、G.E.ムーアが「シジウィックが既に発見してた/述べていたことを、自分の手柄のように主張していた」と書かれていて扱いが悪いのが印象的だった。ジョン・メイナード・ケインズもムーアの影響でケインズをシジウィックを過小評価していたらしい。

 

 

On What Matters (The Berkeley Tanner Lectures)

On What Matters (The Berkeley Tanner Lectures)

 

 

 

*1:『普遍的な観点』の序文に書かれているエピソードによると、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは『倫理学の方法』を読んでみたたらあまりにも退屈すぎたために、それ以来他の倫理学の本を読むことすらしなくなったらしい。

 

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

メモ:死がもたらす危害の「時間的利益相対説」

 ジェフ・マクマーン(Jeff McMhan)が著書『Ethics of Killing(殺すことの倫理学)』で主張している「時間的利益相対説(Time-Relative Interest Account)」についてのメモ。とはいえ、『Ethics of Killing』は現在手元にないので、デビッド・ドゥグラツィア(David Degrazia)による論文に基づいてメモ。

 

philpapers.org

 

 「ある人が死ぬことによってその人にもたらされる危害」「死が当人にとって悪い理由」や「(他の条件が全て等しければ)人間を殺すことが犬を殺すことよりも悪い理由」を説明する方法は様々だが、代表的なものとして、以下の二つが挙げられる。

 一つ目は、「死は、"生き続けていたい"という欲求を奪うから危害である」というもの。犬は人間のようには生や死の概念を持っていないから、"生きたい"という欲求も人間のようには明確には持っていないので、人間にとっての死の危害は犬にとっての死の危害よりも大きい、という説明ができる。しかし、生や死の概念を明確に持たないために"生き続けてたい"という欲求も明確に持たないという点では、人間の乳幼児も一緒である。だが、"生き続けていたい"という欲求を持たないとしても、人間の乳幼児にとって死は危害であるように思われる。「"生き続けていたい"という欲求を奪うから悪である」という説明によれば、犬や乳幼児を(苦痛を与えることなく)殺すことは何も悪くないということになってしまうが、やはり、"生き続けていたい"という欲求を持たないとしても、死は犬や乳幼児から何かを奪っているように思われる。

 二つ目は、「死は、未来に残っていたはずの生を奪うから危害である」というもの。この説によれば、乳幼児の死が危害であることは十分に説明できる。乳幼児には(通常の場合は)この先何十年にも渡って生き続けるという将来が待っているのだから、死によってその未来が奪われるのは危害である。同じように、10歳や25歳の人間にもまだ何十年分もの未来があり、中年以降にもまだ未来は残り続けているのだから、死によってそれが奪われるのは危害である。しかし、この説の問題点は、「若ければ若いほど、死によって与えられる危害の量が増える(若ければ若いほど未来に残っている人生の年数が増えるから、奪われる年数も増えるので)」ということになることだ。25歳の死よりも10歳の死の方が、10歳の死よりも乳幼児の死の方が、乳幼児の死よりも胎児の死の方が危害が大きい、ということになる。だが、25歳の死や10歳の死が本人にとって危害であり悲劇的な出来事であるということを疑う人はほぼいない一方で、胎児や乳幼児の死の危害や悲劇性については意見が分かれる。少なくとも、他の全てが等しければ25歳の死や10歳の死は乳幼児の死よりも危害や悲劇性が大きいし、乳幼児の死は胎児の死よりも危害や悲劇性が大きい、という判断の方がほとんどの人にとって妥当であると思われる。

 また、奪われる死の年数のみで判断すると、平均寿命が数百年の亀が20歳で死ぬことは人間が20歳で死ぬことよりも死の危害が大きいということになるし、80歳の老人が死ぬことよりも1歳の犬が死ぬことの方が死の危害が大きいということになりそうである。だが、これはどうにも妥当に思われない。人間は動物よりも知的能力が高いために、同じ期間の年数で得られる幸福の量や質が動物よりも大きい(だから死によって奪われる幸福も大きくなるので危害も大きくなる)、と論じることはできる。だが、人間が持たない能力によって動物が得られる幸福(たとえば犬は嗅覚が人間よりも鋭いために、人間には嗅げない良い匂いを嗅ぐことで幸福を得ているかもしれない)のことを考慮すれば人間の方がより多くの量の幸福を得ているとは限らない。幸福の質を論じるとしても、人間による一方的な基準という恣意性の問題がつきまとう。

 

 マクマーンの「時間的利益相対説」によると、死がもたらす危害の大きさは、「残っている将来の人生に対して、死ぬ時点の当人が持っている心理的な繋がり」によって変わってくる。死ななかった場合の未来に生きる自分と、死ぬ時点の自分とを結びつける心理的な繋がりが低い場合には、死がもたらす危害は小さくなる。たとえば、将来に対する計画を行わなかったり未来という概念を持たない動物にとっては、死ななかった場合に生き続ける自分というものを死ぬ当人が想像できないので、死によってもたらされる危害は小さい。一方で、ある程度成長して自分の人生というものに対する意識を持つようになった人間は、死ななかった場合に生き続けていた自分の人生というものを想像でき、それに対する心理的な繋がりが強い。心理的な繋がりが強ければ強くなるほど、死ななかった場合の自分の人生に対する"stake"…訳しにくい単語だが、賭け金・関心・利害などの意味を含む単語…が強くなるので、死によってもたらされる危害が大きくなるのである。

 自己意識能力や言語能力が高ければ高くなるほど、死ななかった場合の自分の人生に対する心理的な繋がりも強くなる。これが、人間の死が当人に与える危害が、大半の動物の死が当人に与える危害よりも大きい理由である。また、猿の死が当人に与える危害が亀の死が当人に与える危害よりも(おそらく)大きい理由も、これによって説明できる(自己意識能力は猿の方が亀より高いと思われるので)。また、このことは、人間の生に含まれている幸福は動物の生に含まれている幸福よりも質や量が大きい、ということを意味しないという点も特徴である。

 この「時間的利益相対説」は、10歳や25歳の人間の死が当人にもたらす危害が、乳幼児や胎児の死が当人にもたらす危害よりも大きい理由を説明する。乳幼児や胎児は十分に自己意識能力などを発達させていないので、死ななかった場合に生き続けていた自分の人生というものに対する心理的な繋がりが弱いからである(妊娠初期の胎児に至っては心理的な繋がりはほとんど存在しない)。

 …ドゥグラツィアの論文を読んでいても「死によって奪われる生の年数」という量的な要素が「時間的利益相対説」でも考慮されているのかどうかは、ちょっと分かりにくい。死がもたらす危害は「死によって奪われる生の年数」を「残っている将来の人生に対して、死ぬ時点の当人が持っている心理的な繋がりの強さ」に掛け合わせて求められるということ、たとえば健常な10歳や25歳の人間が「残っている将来の人生に対して、死ぬ時点の当人が持っている心理的な繋がりの強さ」は「1」であるが乳幼児は「0.1」で胎児は「0.001」なので、「死によって奪われる生の年数」が多いとしても死がもたらす危害は乳幼児や胎児にとっては小さくなる、ということだろうか。この論文の後半では、「時間的利益相対説」と同じくマクマーンが行っている主張である「体に埋め込まれた心(emboddied mind)」が取り上げられているが、これもドゥグラツィアの短い説明だけを読んでいてもちょっとよくわからないので、やっぱりマクマーンの本を読み直す必要がありそう。

 

 

The Ethics of Killing: Problems at the Margins of Life (Oxford Ethics Series)

The Ethics of Killing: Problems at the Margins of Life (Oxford Ethics Series)

 

 

 

 

「動物の権利と先住民の権利」 by ウィル・キムリッカ、スー・ドナルドソン

 

 

 

 政治哲学者のウィル・キムリッカとスー・ドナルドソンの共著『人と動物の政治共同体(現代:Zoopolis)』の邦訳が発売されたが、何週間か前にAmazonに予約したというのにまだ届かないので、代わりにキムリッカとドナルドソンが無料で公開している論文「動物の権利と先住民の権利(Animal Rights and Aboriginal Rights)」を読んでいた。

 

www.academia.edu

 

 この論文のメインとなる主張は「先住民の権利を認めることや先住民の文化を尊重することは、先住民による捕鯨や狩猟などの動物の権利を侵害する行為までをも認めることにはならない」というもので、以前の二人の論文「動物の権利、多文化主義、左派(Animal rights Multiculturalism and the Left)」でされていた主張と共通するところがある*1

 

 著者たちによると、動物の権利の理論は、動物たちが"私"という自己認識を持つことを認めて、動物たちの主体性を尊重するものである。そして、動物の権利の理論はカナダなどの先住民たちの文化とは必ずしも相反しない。動物の権利の理論は、動物を人間よりも劣った存在であると見なし動物を所有物であると考えるキリスト教・西洋の世界観は批判するが、動物と人間とは対等な存在であると見なして動物と人間との相互性を重視する先住民たちの世界観とは共通点があるものだ、と著者たちは論じている。

 とはいえ、動物の権利の理論においては動物を殺害したり動物に苦痛を与えることは非常に限られた場合においてしか認められず、原則としては禁止される。他方で、捕鯨や狩猟などの行為は先住民の文化にとっては重要な要素であり、先住民たちは捕鯨や狩猟を行い続けているしそれを行う権利を主張してもいる。

 著者らによると、動物の権利運動を行う運動家や団体の多くは、先住民の文化と動物に関する問題には触れようとせずに無視している。その理由としては、「イヌイットのアザラシ漁など、先住民が生活する上で栄養摂取のために不可欠な狩猟は存在する」「工場畜産などの先進国の慣習が犠牲にしている動物の数に比べれば、先住民の文化が犠牲にしている動物の数はごく僅かなのだから、戦略上の問題として前者の方を優先的に批判するべきである」「先住民が持つ条約上の権利や自己決定の権利は尊重しなければならない」「捕鯨や狩猟などの文化は先住民の社会を結びつける大切な要素なのであり、外から侵害するべきではない」「西洋のマジョリティが先住民の文化を批判することは、西洋の文化や道徳観を押し付けることであり、文化帝国主義や人種差別につながってしまう」ということが挙げられる。

 著者らは、上述の「動物の権利運動が先住民の文化には触れようとしない理由」を一つずつ取り上げて、反論していく。例えば、文化の尊重という理由で先住民が動物の権利を侵害することを例外的に認めたとすれば、先住民以外の他の集団も、自分たちの文化を尊重するために自分たちが動物の権利を侵害することを認めろと要求してくることになる。例えば、国際捕鯨委員会にて日本やアイスランド北米大陸の先住民による捕鯨を支持しているのは、自分たちの「文化的捕鯨」も先住民の捕鯨と同じように認められることを期待してのことである。カナダでのフカヒレ漁禁止やサンフランシスコにおける動物の生体販売の禁止に対しても、中国系活動家たちによる「文化帝国主義だ」という批判があった。西洋諸国には先住民以外にも多かれ少なかれマイノリティである人々が数多く存在しているのだから、マイノリティ文化の尊重という理由で先住民が動物の権利を侵害することを認めてしまえば、他の数多くのマイノリティ文化が動物の権利を侵害することも同様に認めなければならなくなってしまう。

 しかし、文化帝国主義を避けるためや植民地的な歴史を反省するために先住民が捕鯨や狩猟を行うことを認めることは、人間同士の間で行われた不正義の後始末を動物に押し付けるようなものであり、そもそもおかしい。例えば、アメリカ政府は1855年に先住民のマカー族が捕鯨を行うことを認める条約を交わしたが、同じ条約では、捕鯨と同じくマカー族の伝統であった奴隷制を禁止することも要求していた。しかし、動物の権利の理論の考え方に基づけば、奴隷の対象とされる人々と同じく鯨たちも"私"を持つ主体なのであり、人間に殺されない権利がある。鯨たちの生命に関する権利の所有者は鯨たち自身なのであり、アメリカ政府とマカー族のどちらも「捕鯨の権利」を設定する権限は持たないのである。

 このように、動物の権利を侵害する先住民の様々な慣習が諸々の事情で法的に認められていたとしても、法的に認められているからといって倫理的に認められるとは限らない。マジョリティの文化だろうがマイノリティの文化だろうが、例外なく、それらの慣習に道徳的問題点があるか否かを問うのが動物の権利の理論によって求められるところである。

 

 動物の権利の理論は西洋・キリスト教的な文化の世界観よりも先住民の文化の世界観に近い、と著者らは書くが、実のところ先住民の文化の世界観における動物の扱いにも様々な問題がある。狩猟採集民の先住民たちの文化には「狩猟される動物たちは、自分が人間に狩猟されることを了承しているし、自分の身を人間に差し出しているのだ」「人間と、人間に食べられる動物の間には、お互いの契約や同意が存在している」という価値観が存在することが多い。だが、自分自身に激しい苦痛や死が引き起こされる行為に対して動物が契約したり同意したりしているというのは疑わしい。ある人が他人を殺しながら「この人は自分が殺されることについて私と契約して同意しているんだ」と言ったとしても、私たちがその発言を疑ってそのような同意や契約の存在を否定することは充分に合理的だが、同じことは動物に対する殺害にも当てはめられるべきである。また、実のところ、「狩猟される動物や家畜は人間に食べられることについて人間と契約を結んでいる」という物言いは西洋人が自分たちの狩猟や畜産を正当化する際にもよく用いられる言説でもある。人間が自己申告した「契約」を理由にして先住民の狩猟を認めてしまえば、工場畜産や動物実験などの慣習も人間が「契約」を自己申告すれば認められてしまうことになる。実際には、「契約」という考えによって動物の殺害を正当化することは、動物を狩猟することによって生じる哀れみや罪悪感を抑制するための心理的カニズムであると見なすのが妥当である。そして、そのような心理的カニズムは、動物の殺害を倫理的に正当化する理由にはならない。

 また、動物の権利の理論においても、「必要」であれば動物の殺害が認められる場合はある。人間が生きるために必須な栄養をとるための手段が動物の殺害のみであるなら、動物の殺害が認められるかもしれない。だが、この「必要」という概念が濫用される危険性もある。例えば、「現在では他にも栄養をとる手段があるとはいえ、イヌイットはこれまでずっとアザラシ漁を続けていたのだから身体がアザラシ食に適応しているのであり、他のものを食べることは危険かもしれない。だから、現在でもアザラシ漁は必要だ」という主張や、「栄養の問題ではなく、自分たちの文化によって認められたものを食べるという必要が私たちにはあるんだ」という主張である。動物の権利の理論からすれば、これは「滑りやすい坂」である。「必要」という概念を無限に拡大すれば結局何でも認められることになってしまうし、自分たちが必要とするものの範囲を都合良く拡大解釈してしまう心理的傾向が人間に存在することにも留意するべきである。また、狩猟などの行為は人間たちが主体的な意思決定に基づいて行う行為であるが、「必要」という言葉はそこを誤魔化して曖昧にしてしまう。必要だから仕方なく狩猟せざるをえないんだ、という風になってしまうからである。

 

 …このようにして動物の権利の理論と先住民たちの世界観の間にも不一致や齟齬はあるが、やはり(西洋やキリスト教の世界観と比べれば)動物の権利の理論と先住民たちの世界観の間には一致するところが多い。動物の権利運動家と先住民たちはお互いを敵視し合うか無視し合うことが多いが、お互いの世界観を結び付けて共に力を合わせれば、「動物は人間の所有物である」という西洋的な世界観に挑戦することができるはずだ…というのが著者らの結論である。

 

 以下は本題とはあまり関係ないが、個人的なメモとして引用しておく。

 

人間の場合と同様に、動物の基本的な権利も制限の対象となる。例えば、(人間または動物の)個体は、正当な自己防衛の行為によって殺害されることが認められる場合がある。更に一般的には、全ての正義論と同様に、動物についての正義論も、私たちが「正義の情況」にいることを前提としている。…正義の情況とは、私たちがお互いを破壊(distruct)することなく自分たちが繁栄(flourish)することを目指すことが可能である情況だ。人間たちは動物との正義の情況の中に常に存在してきた訳ではなかったし、隔絶していて不毛なコミュニティでは現在でも動物との避けられない衝突が続いているかもしれない(先住民のコミュニティであるかそうでないかに関わらず)。だが、今日の人間の大多数にとっては、動物を傷付けなくても繁栄することは可能である。更に、他者を傷付けずとも自分たちの善を追求することをこれまで以上に可能にし続けるために、正義の情況を維持して拡大する義務も人間は負っている。自己防衛や必要性のために正当に認められる例外は存在するかもしれないが、動物を傷付けることは推定的には常に不正である。このことは、厳密な意味での全ての動物の権利理論を結び付ける、根本的なコミットメントなのだ。( p.3)

 

読書メモ:デール・ジェイミーソンの環境倫理学入門

 

Ethics and the Environment: An Introduction (Cambridge Applied Ethics)

Ethics and the Environment: An Introduction (Cambridge Applied Ethics)

 

 

 先日に読んでいた本。著者のデール・ジェイミーソン(Dale Jamieson)はニューヨーク大学環境倫理学者で、気候変動の問題に関する著作と動物園に反対する議論で特に有名であるようだ。

 この本はCambridge Applied Ethicsシリーズの一冊で、同シリーズの本では、ローリー・グルーエン(Lori Gruen)の『Ethics and Animals』が『動物倫理入門』という邦題で訳されている*1。グルーエンとジェイミーソンは環境倫理学のリーディング集を共同編集したりもしている*2

 以前にも何度か書いたことだが、言わゆる"動物倫理"と"環境倫理"は、一見すると似たような物に見えるが対立するところも大きい*3環境倫理は自然保全生物多様性を維持することなどの必要性を主張する場合が多いが、自然や生物多様性を守る過程においては、"害獣"や"外来種"や"増え過ぎた"とされる動物の殺害が伴うことが多い。一方で、動物倫理においては多くの場合に動物の道徳的地位が主張され、自然を守るという理由で動物を殺害することは認められないと主張されることも多い。こういう事情もあってか、日本で出版された環境倫理学の入門書などを読んでも、功利主義やカント倫理学の立場から動物の道徳的地位を主張するピーター・シンガーやトム・リーガンなどの議論は扱いが悪くてあまりページ数も割かれないような傾向があるような気がする*4。しかし、グルーエンにせよジェイミーソンにせよ環境倫理と動物倫理のどちらにも造詣が深い人たちなので、グルーエンの『動物倫理入門』では環境倫理についてページが割かれているしジェイミーソンの『環境倫理入門(Ethics and the Environment)』では動物倫理についてページが割かれている。こういう点でバランス感覚があるのは入門書として好ましいだろう。

 

 ジェイミーソン『Ethics and the Environment』の具体的な章立てとしては、1章では「環境問題とは何か」「環境倫理とは何か」という概説的なことが書かれていて、環境経済学などの隣接分野と環境倫理学の違い、他の分野では補えない環境倫理独自の目的や意義とは何か、ということが説明されている。2章〜4章は応用倫理学としての環境倫理学からは一旦離れて、倫理学や道徳そのものについての解説がされる。2章は「人間の道徳性(Human Morality)」というタイトルで、道徳や倫理学の無意味さを主張しようとする「無道徳主義(Amoralism)」「神学主義(Theism)」「相対主義(Relativism)」が取り上げられて、それぞれの議論の欠点や不充分さが指摘されている。3章のタイトルは「メタ倫理」で、タイトル通りメタ倫理学の議論が解説されている。ジェイミーソンはメタ倫理を実在論と主観主義との二つに大別して、その二つの間の中間的な主張についても触れている。また、環境倫理学において特に問題となりやすい「本質的な価値(Intrinsic Value)」という概念についても一節を設けて説明されている。4章のタイトルは「規範倫理」で、帰結主義・徳倫理・カント主義という三つの代表的な規範倫理学理論がそれぞれ説明されている*5。この章では「それぞれの規範倫理学理論においては環境や動物の扱いはどうなるか」ということについても触れられている。過去の有名な環境倫理学者たちの多くは徳倫理学に近い考えを持っていたことや、カント倫理学における動物の扱いの微妙さなどの論点が興味深かった。

 5章のタイトルは「人間と他の動物たち」で、シンガーとリーガンという動物倫理の双璧的な二人の理論について具体的に説明されたのちに、工場畜産の現状についての情報が書かれて、殺すことと苦痛を与えることの違いや菜食主義などのトピックについての倫理学的な議論が説明される。6章は「自然の価値」であり、タイトル通り、自然が持つ価値とは何であるかとか我々はそれについてどう考えて対応するべきであるか、ということについての様々な考え方が説明されている。私は自然環境の(人間と動物にとっての)道具的価値を主張する議論には従来から馴染みがあるが、自然環境の美的価値や自然環境そのものの本質的価値を主張する議論はやや胡散臭いものだと思っていたのだが、この本では美的価値や本質的価値についての主張も説得力を持って紹介されているために、個人的にはこの章が一番有益で面白かった。7章は「自然の将来(Nature's Future)」で、地球温暖化の問題が取り上げられている。

 

 環境倫理学としてよくイメージされるような内容なのは1、6、7章で、2〜5章は倫理学一般や動物倫理の議論がされているので、環境倫理学だけの入門書を期待する人にとっては物足りないかもしれない。一方で、倫理学一般や動物倫理の議論を前に置くことで環境倫理学の議論を相対的な観点から理解しやすくさせているとも言える。環境倫理学の入門書といえば、環境問題についての事実的な情報や実際に環境問題に対処する際のプラグマティックな観点からの議論などにページ数が割かれているわりに、肝心の哲学的な議論がなあなあで済まされていて、物足りないことが多い*6。ジェイミーソンの『Ethics and Environment』でも環境問題についての事実的な情報は過不足なく説明されているが、なによりも、プラグマティックな観点に拘泥しない"哲学"としての環境倫理学への入門書として最適だと思う。

 

 

 

*1:

 

動物倫理入門

動物倫理入門

 

 

 

Ethics and Animals (Cambridge Applied Ethics)

Ethics and Animals (Cambridge Applied Ethics)

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

Reflecting on Nature: Readings in Environmental Ethics and Philosophy

Reflecting on Nature: Readings in Environmental Ethics and Philosophy

  • 作者: Lori Gruen,Dale Jamieson,Christopher Schlottmann
  • 出版社/メーカー: Oxford Univ Pr (Sd)
  • 発売日: 2012/08/31
  • メディア: ペーパーバック
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*3:

davitrice.hatenadiary.jp

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*4:この本では動物倫理の議論もページ数を割いて取り上げられているが、むしろ例外的である

 

実践の環境倫理学―肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ

実践の環境倫理学―肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ

 

 

*5:「学生はこれらのうち一つを気に入って残りを非難したがる傾向にあるが、それぞれのメリットとデメリットがあるのでどれか一つが正しいというものではない」というような注意書きが書かれている

*6:読んだのは数年前なのだが、特にこの本は印象が悪かった

 

環境倫理学

環境倫理学

 

 

「限界事例の議論」に関する、ゲイリー・ヴァーナーの議論

 道徳的地位やパーソン論に関する議論では「限界事例の議論(Argument from Marginal Cases)」がよく出てくる。

「人間はパーソンであるが動物はパーソンではない」と論じるとき、人間がパーソンである理由として「過去・現在・未来に渡って自分が存在するということを理解できる認識能力を持っていること」なり「言語が使えること」なりを挙げるとすると、人間の中でもそれらの能力を持たない人はパーソンではないということになってしまう。「パーソンであるかどうか」を「道徳的地位を持つかどうか」に置き換えても同じで、「人間だけしか持たない特定の能力Xを持つことが、道徳的地位を持つことの条件である」としてしまえば、動物たちだけでなく特定の能力Xを持たない一部の人間にも道徳的地位がないことになってしまう。限界事例の人間の具体例とは、乳幼児や子供、恒久的な昏睡状態(植物状態)の人々、知的障害や精神病を持つ人々だ(どの年齢の子供まではパーソンでないとか、どの程度以上の知的障害や精神病を持つ人は道徳的地位を持たないかなどは、パーソンであることや道徳的地位を持つことの条件とされている能力によって変わってくる)*1

 限界事例の議論は、「人間はパーソンであるが動物はパーソンではない」という議論に対して矛盾を突きつけるために論じられることもあれば、「ある種の動物は人間と共通する能力Xも持っているのでその動物も人間と同じく道徳的地位を持つ」という主張に対する直観的な違和感を指摘するものとして論じられることもある(能力Xを持たない一部の人間も道徳的地位を持たないことになってしまうことについての違和感)。

 イヴリン・プラハー(Evelyn Pluhar)の『Beyond Prejudice: The Moral Significance of Human and Nonhuman Animals(偏見を超えて:人間と人間以外の動物の道徳的重要性)』では「限界事例の議論」が「無条件的(categorical)」「双条件的(biconditional)」の2つのバージョンに分けられている*2*3プラハーを引用している、ゲイリー・ヴァーナー(Gary Varner)の『Pesonhood, Ethics, and Animal Cognition: Situating Animals in Hare's Two-level Utilitarianism(人格、倫理学、動物の認識能力:ヘアの二層功利主義で動物を位置付ける)』を引用して紹介しよう。

 

プラハーが「無条件的なバージョン」と呼んでいるものは、以下のような議論だ:

 

1.道徳的に重要な関係のある全ての点が同様である存在たちは、同等の道徳的重要性を持つ

2.道徳的に重要な関係のある全ての点において、限界事例の人間と同様である人間以外の存在がいる

3.限界事例の人間は最大限の道徳的重要性を持つ

4.そのため、道徳的に重要な関係のある全ての点において限界事例の人間と同様である人間以外の存在は、最大限の道徳的重要性を持つ

 

このバージョンの議論では、私たちは限界事例の人間を"最大限の道徳的重要性を持つ"存在として扱う義務があることが前提となっている。プラハーが「双条件的なバージョン」と呼んでいる議論では、それは前提とはなっていない:

1.道徳的に重要な関係のある全ての点が同様である存在たちは、同等の道徳的重要性を持つ

2.道徳的に重要な関係のある全ての点において、限界事例の人間と同様である人間以外の存在がいる

3.そのため、限界事例の人間が最大限の道徳的重要性を持つ場合にのみ、道徳的に重要な関係のある全ての点において限界事例の人間と同様である人間以外の存在は、最大限の道徳的重要性を持つ

 

しかし、この第二のバージョンの議論は、限界事例の人間と動物との間に異なる"道徳的重要性"を置かせることは、何らかの道徳的に重要な関係のある相違が限界事例の人間と動物との間に特定されない限りは不可能である、という意見を表している。そして、もしあなたが通常の人間と限界事例の人間の両方に最大限の道徳的重要性を見出そうとするのなら、その場合には多くの動物たちにもあなたは最大限の道徳的重要性を見出さなければならない、ということを伴っているのだ。( varner, p.250-251)

 

 ピーター・シンガーは、『動物の解放』にて、「ホモ・サピエンスという生物種の一員であること」だけではその存在を殺すことは常に不正であるという理由にはならない、と論じている。プラハーはシンガーの議論は「双条件的」なバージョンであると見なしているが、ヴァーナーは、シンガーの議論はもっと微妙なものであると見なしている。一部の限界事例の人々の生は通常の人間の生よりは道徳的重要性が低いが動物たちの生よりは道徳的重要性が高いと論じようとしているのではないか、というのがシンガーの主張に対するヴァーナーの見方だ。彼は、シンガーの議論を以下のようにまとめている。

 

…個人が生きる権利を持つと認めることを正当化する理由としての以下の意見を保ち続けることは、種差別の罪を犯さずとも可能である、とシンガーが言っていることには留意するべきだ。

1.「自己意識をする能力、未来についての計画を行う能力、意義のある関係を他者と結ぶ能力」を持つことが、生きる権利を基礎付けるものである

2.「または、人間は持っているがネズミは一定以上は持たない、家族や他の人々との絆に訴えることもできるかもしれない」

3.「または、(訳注:限界事例の人間を殺すことが)他の人間にもたらす結果、他の人間にも自分自身の命に関する恐怖が与えられることが、(訳注:限界事例の人間を殺すことと動物を殺すこととの)決定的な違いであると考えることができるかもしれない」

(varner. p252)

 

 …要するに、限界事例の人々の生の道徳的重要性は、直接的な理由(認識能力などがもたらす、本人にとっての生の価値)では動物と同等であるとしても、間接的な理由(限界事例の人間の周りにいる人々がその人に対して抱いている愛着や友情など、限界事例の人間の生きる権利を認めないことが社会に与える影響)のために、限界事例の人々の生を動物の生よりも丁重に扱うことは種差別ではない、というのがシンガーが『動物の解放』で行っている議論である、というのがヴァーナーのまとめだ。

 

 プラハーによると、「最大限の道徳的重要性」という言葉は「生きる権利を含めた基礎的な道徳的権利か、その人を殺すことに対する反対が強く前提されていることか、どちらかの意味を含む(pluhar p.63-64 孫引き)」。だが、「最大限の道徳的重要性」という言葉や「基礎的な権利」という言葉の解釈によっては、現行の一般的な社会ルールにおいても限界事例の人々には最大限の道徳的重要性が認められている訳ではない、とヴァーナーは論じる*4。一般的な社会ルールにおいては、子供や一定以上の知的障害の人々は通常の人間よりもパターナリスティックに取り扱われている。例えば、医療に関する決定を自分自身で行う権利・法廷に立って被告人答弁を行う権利・一人で独立して生きる権利などは、一般の人にとっては「基礎的な権利」であっても限界事例の人々には認められない場合がある。また、QOLが著しく低い生を過ごすであろう重度の障害を持った新生児に対する医療停止や、著しい苦痛に満ちており認識能力も損なわれた生を過ごしている末期患者への医療幇助自殺など、特定の場合における限界事例の人々の殺害(に間接的につながる行為)も、一般的な社会ルールにおいては認められることが多い(認められる程度は国や社会によって違うが)。

 とはいえ、食料やその他の用途に用いるために限界事例の人々を育てて殺すことを認める社会ルールは例外なく存在しない。結局のところ、現行の社会ルールでは、限界事例の人々の生と動物の生は異なる道徳的重要性を持つものとして扱われていることは確かである。

 

  以下では、ヴァーナー自身は限界事例の人々についてどのように論じているかをまとめよう。

 ヴァーナー自身のパーソン論では、限界事例の人々は「準-パーソン」か「感覚だけの存在」のカテゴリに入る場合がある*5。「しかし、通常の場合は、若い子供たちはやがてパーソンになる。そのことは、子供たちと同程度に認識能力が優れている動物よりも、子供の方をよりパーソンに近く取り扱うことについての正当な理由を与える」(varner, p 180)。恒久的な昏睡状態の人々については、多くの場合には、そもそもその人の昏睡状態が本当に"恒久的"に続くのかどうかということについて不確かさが付きまとうのであり、医療倫理においてはその不確かさを考慮に入れるべきである。知的障害や精神病についても、それらの障害や病の程度というものは連続的なものであること、何らかの利害関係者や団体が病の程度を大袈裟に見積もろうとする可能性、現在では健常者である人もいつ知的障害や精神病を持つことになるかはわからないということから、慎重な予防原則として、重度の知的障害者精神病者にもパーソンに近い扱いや法的保護を与える十分な理由がある。

 重複になるが、先に挙げられた「限界事例の人間の周りにいる人々がその人に対して懐いている愛着や友情」や「社会に対して与える間接的な影響」なども、限界事例の人々を動物よりも丁重に扱う理由として大きい。限界事例の人間の家族は、自分の大切な家族が動物と同じ扱いを受けるということを拒むだろう。また、どんな人にでも自分が限界事例の人間になるという可能性は潜在しているのだから、限界事例の人間の生命を軽んじる政策に対して人々は大いに恐怖を抱くだろう。

 …しかし、限界事例の人間の生を重んじる理由として挙げられているこれらの理由は、いずれも「間接的」で「付随的」である。例えば、ある限界事例の人間が自分の家族から愛されなかったら、その人間の生の道徳的重要性が低くなるとすれば、それは非常に不穏に思える。直観的に考えれば、ヴァーナーの議論は受け入れ難い。

 だが、ヴァーナーのパーソン論では、認識能力や言語能力の欠如のために限界事例の人間の生の直接的な道徳的重要性が低いことは誤魔化せない。しかし、直観的なレベルのルールを設定するうえでは、限界事例の人間の生をパーソンの生と同等の道徳的重要性を持つ生として見なす十分な理由がある。そして、現実の社会における道徳や法律も、例外があるとはいえ多くの面では限界事例の人間の生をパーソンの生と同等の道徳的重要性を持つ生として見なしている。私たちの多くは既に現行の社会に存在している直観的なレベルのルールを内面化しているのであり、限界事例の人間をパーソンとして取り扱うことの理由を間接的で付随的なものとする批判的な思考に対して直観的な違和感を抱くのは当たり前なのである。それは二層功利主義の理論の内に収まることなのだ。そして、改めて直観的なレベルのルールを設定したりルールの妥当性を検証するための批判的な思考を行う場合には、現在の自分が抱いている直観も棚に上げなければいけない…。

 

 以上がヴァーナーの議論である。私は筋が通った正論であると思うしヴァーナーの議論を受け入れるが、まあ狡い感じや歪んでいる感じも確かにするし、受け入れられない人も多いだろう。

 

 

Personhood, Ethics, and Animal Cognition: Situating Animals in Hare's Two-Level Utilitarianism

Personhood, Ethics, and Animal Cognition: Situating Animals in Hare's Two-Level Utilitarianism

 

 

 

*1:この記事では、"marginal person"を「限界事例の人間」として訳している。直訳すれば「限界状態にある人間」「限界の人間」であるし、「限界事例の人間」を英語にすれば"person in marginal case"になるだろうが、わかりやすさを優先してこの訳にした。

*2:残念ながら私はこの本を持っていないので確認できないのだが。

 

Beyond Prejudice: The Moral Significance of Human and Nonhuman Animals

Beyond Prejudice: The Moral Significance of Human and Nonhuman Animals

 

 

*3:「道徳的重要性 Moral Significance」という言葉の意味は誤解されがちだが、この記事で解説している。

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*4:一般的な社会ルールとは、この記事で論じられている「直観的なレベルのルール」のこと。

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*5:

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メモ・二層功利主義とはなんぞや

 R・M・ヘアが『道徳的に考えること』にて論じている「二層功利主義」という考え方を、『道徳的に考えること』や他のヘアの著作を読み解きながら書かれたゲイリー・ヴァーナーの著作『Pesonhood, Ethics, and Animal Cognition: Situating Animals in Hare's Two-level Utilitarianism(人格、倫理学、動物の認識能力:ヘアの二層功利主義で動物を位置付ける)』を参考にしながら、私なりにまとめてみた。

 

 まず、ヘアは道徳言語の分析というメタ倫理的学的な作業を通じて、正しい道徳判断には「普遍化可能性」「指令性」「優越性」という三つの特性がある、と論じている。

 例えば、「汝の欲するところを他人にもせよ」という戒律はキリスト教のみならず(「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」という消極的な形で)儒教ヒンドゥー教などの様々な文化や宗教に伝わるものであり、「黄金律」と呼ばれるものである*1。ヘアによるとこの黄金律には正しい道徳判断の三つの特徴が全て含まれている。ヴァーナーによると、黄金律をヘア的に解釈すれば厳密には以下のように表現される。

 

ある状況で自分が行おうとしていることは道徳的に正しいと判断するためには、自分が道徳的であると判断した行為を行わなかった場合のその状況の関係者全ての経験を体験すること(live through the experience)よりも、自分が道徳的であると判断した行為を行った場合のその状況の関係者全ての経験を体験することの方を自分が心から望むことが要求される。

(Varner, p.13)

 

 

 上述のように道徳判断を行うことは、功利主義者のように道徳判断を行うことにつながる。関係者全員の立場に立って、それぞれの経験をそれぞれの立場から味わうとすれば、全員分に生じるコストやベネフィットを全てひっくるた上で全員の幸福が最大化するような選択を行うはずだからだ。このようにして、「普遍化可能性」「指令性」「優越性」という特徴を持つ道徳判断を正しく行おうとすればそれは功利主義的な道徳判断になるはずである、だから功利主義が正しい道徳理論である、という風に論じられる。

 

 しかし、幸福を最大化する行為を選択しようと望んでも、現実世界に生きる人間には様々な壁が立ちはだかる。人間は、「超人的な思考力と、超人的な知識を持つ…選択可能な行為の帰結も含めて、その状況のすべての特質を直ちに調べることができる」(ヘアの邦訳, p. 67-68)という存在である「大天使」ではないのだ。人間には、現在の状況や自分の選択がもたらす結果などの状況をすべて把握して理解することはできない。また、人間は不完全であり非合理的な存在であるために、手に入れることができた情報についてもデータ処理能力が不足しているために間違った解釈をすることもあれば、自分にとって都合が良いようにデータの解釈や取捨選択を意識的・無意識的に歪めるこという傾向もあるだろう。

 このような人間の不完全な性質のために、いついかなる場でも「幸福を最大化する」というルールに従って行動することはできないし、事態が緊急で計算するヒマがない場面や自己利益が多大に関わっている場面では、「幸福を最大化する」というルールに従おうとしたせいで結果的には幸福を最大化できない非道徳的な選択をしてしまうこともあるだろう。

 そのために、普段の場におけるルールは、「幸福を最大化する」よりも即座で明白な答えを出せる、わかりやすいルールでなければならない。これが直観的なレベルのルールである。直観的なレベルのルールは「人を殺すな」「人のものを盗むな」「人に嘘をつくな」などの義務論的な風味を持つものとなる。一般的には功利主義は"道徳的権利"という概念を認めないが、直観的なルールとしては「功利主義的な計算に対する切り札」としての「権利」を認めることが、二層功利主義では求められるのだ。

 

直観的思考には、個々の状況で大天使のように考えることができない人のために、これに実用的に近いものをもたらすという機能がある。われわれがもし大天使の宣告に最大限一致するよう保証したいと願うなら、そういう効果を持つ傾向性、動機づけ、直観、あるいは一見自明な原則(どのように呼んでもよい)の一式を、自分と自分が影響を与える人々に植えつけようと努めなければならない。時間も能力もないときに大天使のように考えようとするよりは、このようにしたほうが全体として成功の見込みが高い。しかしながら、この一見自明な原則自体は、批判的思考によって選ばれなければならないーーわれわれ自身の批判的思考でないにしても、われわれがそれをできると信頼している人たちの批判的思考によって選ばれなければならない。(ヘア, p. 71)

 

 直観的なルールは大切であり、私たちはほとんどの場面で直観的なルールに従うべきであるし、直観なルールを内面化したほうがいい。ただし、それはあくまで直観的なルールが批判的思考によって選ばれていること、批判的な思考からみてその直観的なルールが妥当であるという前提の上での話だ。また、「幸福を最大化する」ことや黄金律を実践するためには、直観的なレベルのルールでは対処できないために批判的なレベルに移行して思考することが求められる場合がある。

 

 批判的なレベルに移行して功利主義的な思考を行うべき場合を、ヴァーナーは以下のように挙げている。

 

1. 新しい事例(直観レベルのルールはその新しい事例に対処するようにデザインされていないため、直観レベルのルールが私たちの道標となるところが少ないような事例)

2.直観レベルのルール同士が衝突する場合

3.新しい情報や経験に照らし合わせて、時間をかけて直観的なルールを選択して修正する時

4.ある行為は、ある人が内面化した直観的なルールによって禁止の対象となるが、(a)直観的なルールを侵害することが幸福を最大化することが明白であるように思われ、かつ(b)前述の判断をその人自身が信頼できる時

(Varner, p.15-16)

 

 

 では直観的なルールとは具体的にはどんなものであるかというと、ヴァーナーは直観的なルールを「共通道徳」「個人道徳」「職業倫理」「法律」の4つに分けている(「法律」が直観的なルールであるという考えは、ヘアではなくヴァーナー独自のものであるらしい)。

 

 

共通道徳 Common Morality:ある社会においては、そこに含まれるメンバーたちが基本的に同意するような道徳ルールが存在する。それぞれの社会は環境や技術や経済などに関する状況や背景がそれぞれに違っているから、その違いに応じて共通道徳も社会によって変わるところがある。しかし、文化間の倫理観の違いというものはとかく強調されがちだが、「乳幼児をケアすること」「真実を重んじること」「カニバリズムの禁止」など、かなり多くの共通道徳が複数かほとんどすべての社会や文化に存在していることも重要である(そもそもこれらの共通道徳が存在しないような社会は存続できないから)。

 

個人道徳 Personal Morality:それぞれの人々が個人的に抱く道徳であり、家庭の教育や文化・宗教によって教えられた道徳観を、自分自身の経験や反省を通じて調節や修正をしたものであることが多い。人はそれぞれに気質や能力が違うので、それに合わせて直観レベルのルールを個人ごとに多少調節したほうがよい。「自分はいつ直観レベルに従うべきで、いつ批判レベルに移行するべきか」ということや「どのような道徳的な行為なら自分にとって過剰な負担なく行えて、どのような道徳的な行為は自分にとって負担であったり自分の手には負えないことであるか」といったことも、人それぞれに自分をわきまえながら考えた上で直観レベルのルールを設定したほうがうまくいく。

 

職業倫理 Proffesional Ethics:それぞれの職業は、通常の生活では直面しないような倫理的問題に直面する場合がある。また、直観レベルのルールは基本的には「異常でない、よく直面する事例(normal and commonly encountered case)」に対処するために設定されるものだが、職業倫理は「異常ではないが、稀にしか直面しない事例(normal but uncommonly encountered case)」を想定して設定されるものも含まれる。例えば、現代の兵士の多くは軍人生活の大半を戦場以外の場所で過ごすが、それでも、戦場に行くことが兵士の仕事として含まれている以上は戦場は兵士にとって「異常」な場所ではなく、兵士を教育する際には戦場における職業倫理を直観的なルールとして内面化させることが期待される。

 異なる職業同士の職業倫理が似ている場合が多いことも特徴(仕事上で直面する倫理的問題というものは、業種が違っても似ている場合が多いから)。また、既存の職業倫理には成分化されていないような特殊な状況でも、「この状況と関係ある、成文化されている他の職業倫理を内面化しているなら、この場面ではこうするだろう」ということが期待される場合もある(医者には医者らしさが、警察には警察らしさが求められるということ)。

 

法律 Laws:ヴァーナーによると、法律とは直観レベルの道徳ルールの一部を成文化したものである。ただし、法律が制限する範囲は共通道徳よりも狭くあるべきである。功利主義的な観点からすれば非道徳的な物事であっても、それを法規制の対象とすることによる副作用のほうが大きい場合があるからだ。また、個人の生き方も基本的には法律でどうこうするべきではない(どのような生き方が自分にとって好ましいかは人それぞれに学んでいくものであり、権威によって強制しても良い効果はでない)。「このような道徳的な行為をするべきだ」ということも法律が押し付けるものではなく、共通道徳や私的領域の範疇である。しかし、他者に危害を与えないことなど、司法や警察による規制・強制力を持ってしてでも人に課されるべき根本的で重大な義務も存在する。そして、制裁のための暴力装置というものは警察・司法が独占していることをふまえると、警察や司法が強制するルール(法律)が成文化されて公開されていることは重要である。

 

 繰り返しになるが、上述の4種類のルールはいずれもあくまで直観的なレベルのルールなのであり、批判レベルの思考による精査や修正の対象となるものである。ある社会の共通道徳はある時代には妥当であったかもしれないが、時代の変化や新しく人々が手にした知識・経験などに照らし合わせればもはや幸福を最大化するものでないことが明白であるとすれば、その共通道徳は変わるべきなのだ。同様のことは個人道徳・職業倫理・法律にも当てはまる。ヴァーナーの著作も、動物について現代の私たちが手にしている知識に基づきながら、直観的なルールは動物をどのように扱うように設定されるべきか、ということを批判レベルの思考によって論じているものである。

 ただし、功利主義はルールを変える際のコストも計算する。直観的なレベルのルールをあまりに急速にラディカルにルールを変えることが最大多数の幸福をむしろ減らすとすれば、直観的なレベルのルールを緩やかに変えたりルールを変えないことも考慮される。功利主義は長期的には革新的だが短期的には保守的である、とヴァーナーは論じている。

 

 …ヘアやヴァーナーによる二層功利主義の細かい部分の説明はまだまだあるのだが、とりあえず今日はこんなところで。

 

 

 

道徳的に考えること―レベル・方法・要点

道徳的に考えること―レベル・方法・要点

 

 

 

Personhood, Ethics, and Animal Cognition: Situating Animals in Hare's Two-Level Utilitarianism

Personhood, Ethics, and Animal Cognition: Situating Animals in Hare's Two-Level Utilitarianism