道徳的動物日記

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メモ・功利主義と思考実験、功利主義と直観

功利主義に対してよくある批判が、「ある犯罪によって社会不安が起こり暴動が起こりそうになっており、暴動が起こると確実に何人以上かが死ぬ。政府には犯人を特定して捕まえることができないが、無実とわかっている一人の男を犯人だということにして処刑すれば暴動は未然に防ぐことができる」という状況や「心臓に病気を抱える患者と腎臓に病気を抱える患者が二人おり、彼らは臓器移植を受けないと死んでしまうが、たまたま彼らに移植可能な臓器を持った浮浪者一人が病院に迷い込んできたので、医師がその浮浪者を殺して彼の臓器を二人に移植すれば、二人の生命を助けることができる」といった特殊な状況を仮定して、最大多数の最大幸福という結果が持たされることを重視する功利主義ではこれらの状況では無実の男や浮浪者を殺してより多くの人間の生命を救うという選択を推奨する筈だが、そのような選択は道徳について私たちが抱いている考えや感情からはあまりにもかけ離れている、というものである*1

 

 R・M・ヘアは、私たちが日々の生活で一般的に遭遇するような事例に対処するための日常的・直観的レベルでの道徳判断と、直観的レベルでの道徳判断の妥当性を検証したり直観レベルの道徳判断では対処できないような事例に対処するための批判的な思考レベルという、2つのレベルに道徳を分けている。そして、批判レベルにおいては功利主義に基づいて考えるべきだが、直観レベルにおいては「いついかなる場合でも人を殺してはならない」などの非功利主義的で義務論的な道徳判断を採用した方が良い場合が多い、としている。二層理論功利主義と呼ばれるこの考え方に基付いて、ヘアは思考実験に基づいた功利主義批判に対して反論を行う*2

 

『簡潔に言えば、あなたの論敵が批判的レベルについて話しているのなら、どんな空想的な例でも好きなように持ち出すことができる。しかし、このレベルでは、一般に受け入られている直観に訴えることは許されない。なぜなら、直観を受け入れることができるかどうかを判定することが批判的思考の機能であり、したがって批判的思考の前提として直観に頼るなら循環に陥るからである。』(邦訳 p.197)

 

(浮浪者と臓器移植のケースに関して)

『論敵は今度はこう反論するであろうーー人々が(注:殺人はいけないという)こうした直観や感情を持つことは功利主義の見地からよいことであるとしても、いま考えている事例のように、直感に反する行為が仮定により最善である場合には、「人々はその直観を克服してそれに反する行為をすべきである」という判断もまた功利主義から出てくるではないか、と。そこで、その病院の医師たちが功利主義者であるなら、彼らはそのように直感に反する行為をすべきかどうか考えてみよう。問題は、そうすることが最善の行為にいき当る確率の見積もりにかかっている。…(中略)…この種の道徳的ディレンマにおいて最も合理的な行為(功利主義者にとっての最善の選択)を選ぶ方法としての功利主義は、効用(すなわち選好充足)の期待値を最大にすることを要求するからである。そして、見込み違いをしたなら結果は相当破局的なものになるから、医師たちは見込み違いはないという非常に強い確信を持っていなければならない。

 …(中略)…このような高い確率が数多くのーーもしありうるとしてもーー現実的状況において得られるわけでないことは、十分明らかである。…』(邦訳 p.199-200)

 

『他方、あなたの論敵が論理的に可能ならどんな例でも持ち出す権利があると主張するなら、彼は別種の攻撃にさらされることになる。というのは、その場合彼は直観の射程の外に出たのであり、したがって直観に訴えることはできないからである。批判的思考はもちろんこのような事例に対処することができ、しかも功利主義的な答えを出すはずである。彼がその事例を仕立てあげて、功利主義が「殺人が正しい解決だ」と答える形に持って行ったのなら、それが彼の得た答えなのである。あなたが聞き手に対して言うべきことは、「このような事例は現実には起こりえないので、この答えで全く問題はない」ということである。これから、議論にとって重要な2つの帰結がもたらされる。第一に、このような事例で殺人が正当化されることを認めたからといって、われわれが道徳生活をしなければならない現実の世界で殺人の指令を受け入れる必要は全くない、ということである。第二の帰結は、第一のものを一般化する。すなわち、批判的思考を行う人によってこの世界で使用するために選ばれる一見自明な原則もまた、殺人の禁止を含むことができるし、含むはずである。なぜなら、この特別な事例は現実世界では起きないので、一見自明な原則を選択する際には無関係だからである。』(邦訳 p.201)

 

 上述でヘアが言及しているのは浮浪者と臓器移植のケースに関してだが、同様の反論は暴動と無実の男のケースにも当てはまる。要するに、このタイプの思考実験には、「浮浪者や無実の男を殺害することのみが事態を解決する方法であり、他の方法は存在しない」という状況の不自然さや、医師や政府が「浮浪者や無実の男を殺すと確実に事態が解決すること」「他に事態を解決する方法が存在しないこと」に100%の確信が抱けることの不自然さ、殺害を行なった場合の副作用やリスク(犠牲となる浮浪者の類縁者や浮浪者の殺害に携わる医療関係者らに発生する負の感情、政府が無実の男を処刑したことが明るみに出た場合に更に酷い暴動が発生する可能性)がないことにされているなど、根本的な問題点が数多く存在している。日常的・現実的な問題に対処するための直観レベルの道徳を組み立てる際にここまで非現実的なケースを考慮する必要は全くないし、非現実的なケースで功利主義が導き出す答えが直観レベルの道徳に反していても問題はないのである。

 また、批判的思考を行う場合にも、思考実験はともかく現実世界においては「無実の男を殺害するのみが暴動を解決する方法であり、他に暴動を解決する方法は存在しない」という仮定に基づいて思考するべきではない、とヴァーナーは論じている(p.94)。実際に「無実の男を殺害するのみが暴動を解決する方法であり、他に暴動を解決する方法は存在しない」と確信を持って断言できるほどの情報や予測を現実世界で得られる可能性はほぼないのであり、疑わしい・誤った前提に基づいて思考を行うべきではないのだ。

 

功利主義に対する反論として、ヴァーナーは上述のものよりももう少し現実的な思考実験に基付いたものも取り上げている。取り上げられている事例の一つがバーナード・ウィリアムズによる「ジムとペドロの事例」であり、この事例は現実の世界にも存在するような「多数の生命を救うために少数を殺害する」という選択に似ている。

 

南米の軍事政権国家を訪ずれたジムはたまたま20人のインディアンの 処刑の場に立ち会う。彼らは囚人ではなく、 民衆のデモ活動を抑制するために適当に選ばれた無実の人々である。 悪人の長官ペドロは、ジムに名誉を与えると言って、次のような提案をする。 もしジムがインディアンの一人を自らの手によって射殺するなら、 長官はあとの19人を解放することを約束する。 しかし、もしジムがこの提案を拒むならば、 20人全員が兵隊によって射殺される。 また、ジムには他に行動のしようがなく、たとえば 銃を手にして長官ペドロ以下全員を射殺するという ような可能性は閉ざされているものとする。  *3

 

 既に乗り込んでいる兵士たちを助けるために乗り遅れた兵士を見捨てる戦場の護衛艦の艦長、9.11の同時多発テロ事件の際にハイジャックされた飛行機を墜落させるように命じられたパイロット、戦争が続いて双方の国により多くの犠牲が出ることを防ぐために原子爆弾を投下することを命じられたパイロットなど、(特に戦争に関係した)特殊な状況では「多数の生命を救うために少数を(間接的・直接的に)殺害する」という選択に直面する場合はある。

 このような事例における判断については、功利主義者ではない人たちの間でも評価は分かれるのであり、原爆投下を正当だと見なす人も多ければジムが一人のインディアンを射殺することを正当だと見なす人も多い。なので、このような事例における功利主義判断は、人々が道徳について抱く考え方や感情から極端に離れている訳ではない。

 また、直観レベルと批判レベルの区別だけでなく、日常生活で一般人として過ごす際の直観レベルの道徳となんらかの職業や立場のプロフェッショナルとして活動する時における直観レベルの道徳とを区別することも、二層理論功利主義が求めるところである。戦争では兵士である人も、戦争がないところでは一般人である。兵士や政治家には、普段自分が過ごしている一般社会の一般的な状況では妥当である「殺人はいけない」という道徳を内面化しつつ、戦場や非常における特殊な状況では功利主義的判断を行うというプロ倫理も身に付ける必要がある。プロとしての功利主義判断を行う際にも、内面化された「殺人はいけない」という一般道徳が顔を出して良心の呵責となったりする場合もあるかもしれないが、そのことが功利主義に対する否定になる訳ではない。

 

アメリカでは対テロ戦争における拷問がよく問題になる。これも功利主義からすると「多数の生命を救うために少数を拷問することは許される」となってしまいそうであり、それが批判の対象になるが、拷問を行うことの副作用(自国の兵士も拷問の対象となりやすくなる、拷問によって得られた情報はどのみち信用できない、など)を考慮すれば功利主義的にも拷問は止めるべきであると判断される場合もある。しかし、事例によってはやっぱり拷問が認められる場合も有るだろう(多数の人間を犠牲にするであろう時限爆弾が設置されたが、一人のテロリストを拷問することは時限爆弾を解除して多数の人間の生命を救う可能性が高い場合など)。このような現実世界における問題では功利主義的に考えることも複雑で難しいことであると認めつつ、このような「ダーティハンドの問題(Problem of Dirty Hand)」について、ヴァーナーはシジウィックの「Aが特定の行為をして、同時にBとCとDがAの行為を責めるということこそが、最大の幸福を生み出す場合があるかもしれない」という文章を引用している*4

 

・ヴァーナーもヘアもピーター・シンガーも、ジョン・ロールズによる「反省的均衡」の考え方を批判している。

 

  1. われわれが道徳に関して持つさまざまな直観 (considered judgment 熟慮された判断) から、ある抽象的な道徳原理を導き出す。 (たとえば、「妊娠中絶はかまわない」と 「胎児は人格ではない」という直観から 「人格でない生命を殺すのはかまわない」 という抽象的原理を導きだす)
  2. その道徳原理とさまざまな直観を照らし合わせた場合、 その原理によってそれらを整合的に説明できるかを考える。 (「植物人間が人格でないとすれば、 植物人間を殺すのはかまわないか」)
  3. 当の道徳原理といくつかの直観が衝突する場合は、 新たな道徳原理を作り出すか、 あるいは衝突する直観が不合理なものであるとして その直観を放棄する。

反省的均衡は、このような仕方で抽象的な道徳原理を作り出す一方で、 直観同士の矛盾をなくし、 整合的な集合となることを目指すものである。

REFLECTIVE EQUILIBRIUM

 

 

 ヴァーナーによると、ヘアはロールズの本のレビューにて、我々が持っている道徳に関する直観の多くはそもそも教育や文化によって植え付けられたものである可能性が高く、二層理論功利主義では批判レベルの道徳が直観レベルの道徳よりも優先されており批判レベルの道徳によって直観レベルの道徳を修正・改善することができるが、原理よりも先に道徳に関する直観を前提として置いている反省的均衡ではそもそもの直観が間違っていた場合にそれが修正されるという保証がない、批判的に見れば道徳的には妥当ではない直観に基づいて誤った道徳原理が導き出される可能性がある、といったような批判をしているようだ(ヴァーナー、P11-12 を参照)。

 シンガーは「倫理と直観」という論文において、我々が道徳に関して持つ直観には文化や教育だけではなく進化心理学的な影響があることも指摘しながら、道徳的直観はあてにならないということを指摘して、反省的均衡を批判している*5。要するに、私たちに身に付けている道徳的直観とは、たまたま私たちが生まれ落ちた国や地域の文化や伝統や宗教に影響されたものであるかもしれないし、人類の進化の歴史における過程で遺伝によって受け継がれたものであるかもしれず、それらが正しいものであるという保証はない。文化や伝統や宗教に影響された道徳的直観は、過去の人たちによる事実についての誤った判断や過去から存在していた差別・不公平に影響されたものであるかもしれない。進化によって備え付けられた状況も、人類が歴史の大半を過ごしてきた状況(サバンナに暮らす狩猟採集民の少数集団の部族的な社会)に適応したものではあるかもしれないが現代の状況に適応している保証はないし、そもそも特定の状況に進化的に適応していることが道徳的正しさを保証するわけではない。結局のところ直観の正しさは批判的思考によって判断するしかないし、正しくなければ批判的思考によってその直観を修正するべきなのだ。

 

 

 

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*1:浮浪者と臓器移植の事例と似たようなものとして、「臓器移植を待つ5人の患者」の事例がある

ハーバード白熱教室 第1回 「殺人に正義はあるか」 Lecture1 犠牲になる命を選べるか - id:gule

*2:ゲイリー・ヴァーナーは、以下のヘアの反論を「非現実的なテストケースに対するヘアのテンプレート的反論」と呼んでいる

*3:

UTILITARIANISM

功利主義は個人の道徳的一貫性(integrity)を傷つける、というウィリアムズの批判に対しても、ヴァーナーは別の節で反論している。ある個人が自分の道徳的一貫性や人生にとっての中心的な計画を保ちたいと望んでいても、結局のところ自分と他人たちの利益について公平に普遍的に配慮することが道徳の要求するものなのであり、道徳的一貫性や人生にとっての中心的な計画を保ちたいという望みを犠牲にしてでも他人の生命を救うなどの場合が求められることがあるのは仕方がない、という感じの反論である。

*4:「ダーティハンドの問題」に関する日本語論文

www.eonet.ne.jp/~seiyuh/dirtyhand-problem-esp.Walzer.pdf

*5:www.utilitarian.net/singer/by/200510--.pdf

「共感の罠」 by ピーター・シンガー

www.project-syndicate.org

 

 今回紹介するのは倫理学ピーター・シンガーが先日にProject Syndicateに発表した記事。心理学者ポール・ブルームの新刊の書評的な記事である。

「共感の罠」 by ピーター・シンガー

 

 バラク・オバマがアメリカ大統領として選出されてから間もない頃、彼は若い女の子にこう言った。「今日の世界には共感が足りない。それを変えられるかどうかは、君たちの世代にかかっている」。オバマの発言は広く普及した考えを表現したものであることをふまえると、イェール大学の心理学者ポール・ブルームの新著『共感に反対する(Against Empathy)』の書名は衝撃的である。共感とは他人の立場に立ってその人が感じることを自分も感じることを可能にするものであるが、一体誰がそれに反対するというのだろうか?

 この疑問に答えを出すためには、もう一つの疑問も問わなければならないかもしれない。「私たちは誰に対して共感を持つべきか?」。オバマの次の大統領として選ばれたのはドナルド・トランプであるが、ヒラリー・クリントンはアメリカ人たちに対する共感に欠けていたこと…特に、アメリカが製造業の大国であった時代に戻りたいと渇望しているラスト・ベルトの有権者たちに対する共感に欠けていたことが、彼女が先月の選挙に負けた原因である、とアナリストたちは示唆している。問題なのは、アメリカの労働者たちに対する共感はメキシコや中国の労働者たちに対する共感と緊張関係にあることだ。仕事が無くなったメキシコや中国の労働者たちは、アメリカの労働者たちに仕事が無い場合よりも更に酷い状況に陥るであろう。

 共感は、私たちが共感する相手に対して私たちを優しくさせる。それはよいことだが、共感には暗い側面もある。今回の選挙キャンペーンでは、ケイト・シュタインレ(Kate Steinle)という名の若い女性が一人の不法移民に殺害されたという悲劇的な事件を、トランプは自分の反-移民的な政策への支持を煽り立てるために利用していた*1。もちろん、不法移民が他人の命を救ったという出来事についてトランプが殺人事件と同じくらい迫真的に表現することは全くなかった。そういう出来事が実際に起こっていたことは報道されていたのだが。

 赤ん坊のアザラシなど、大きくて丸っこい目を持つ動物はニワトリよりも多くの共感を人間に引き起こす。人間はアザラシよりもニワトリに対して遥かに莫大な苦痛を引き起こしているのだが。何も感覚を持たないロボットに"危害を与える"ことにすら、人は躊躇する場合がある。その一方で、魚…冷たくて、ぬるぬるしていて、叫ぶことのできない生き物…は大して共感を引き起こさない。だが、ジョナサン・バルコンベが『魚の知っていること(What a Fish Knows)』で論じているように、魚類が鳥類や哺乳類と同様に痛みを感じることを示す証拠は充分に存在しているのだ*2

 同様に、ワクチンによって害を被った(あるいは、ワクチンによって害を被ったとされている)少数の子供たちに対する共感は、危険な病気に対処するための予防接種に対する反対運動の大きな動機となっている。反対運動の結果として、数百万人の親たちが自分の子供にワクチンを受けさせず、数百人の子供達が病気に罹る。ワクチンを受けなかったことで罹る病気によって被る影響は、ワクチンの副作用のために被る影響よりもずっと大きなものであるし、時には致命的なものとなるのだ。

 共感は私たちに不正な行動をさせる場合がある。ある実験では、被験者たちは病気の末期患者である子供へのインタビューを聞かされた。一部の被験者たちは可能な限り客観的であり続けるように努めることを指示されて、別の被験者たちはその子供が感じていることを想像するように指示された。どちらの被験者たちも、治療の優先順位が高いと査定されている他の子供たちを差し置いて、インタビューをされた子供を治療待ちリストの先頭に移動させたいか、と質問された。子供が感じていることを想像するように指示された被験者たちのうち4分の3はそれを求めたが、客観的であるように指示された被験者たちは3分の1しかそれを求めなかった。

「一人の死は悲劇だが、百万人の死は統計だ」。共感が個人に対する偏愛を高めさせ過ぎる一方で、大きな数字は私たちが持つべきである感情を麻痺させてしまう。最近、オレゴン州に基盤を持つ非営利団体である意思決定研究センター(Decision Research )が「同情の計算術(Arithmetic of Compassion)」というwebサイトを立ち上げた*3。"数字に対する麻痺 (numerical numbness)"を引き起こさせることなく大規模な問題に関する情報を人々に伝える、という能力を向上させることを目的としたサイトである。個人的で迫真的な物語がネットで急速に広まって公共政策にも影響を与える時代においては、人々がより広い視野から物事を見ることを手助けることよりも重要なことを想像するのは難しい。

 共感(empathy)に反対することは、同情(compassion)に反対することではない。『共感に反対する』の中でも最も興味深い節では、ブルームが共感と同情の違いをマチウ・リカールからいかにして習ったかということが書かれている。リカールは仏教僧であり、時には「地球上で最も幸福な男」と呼ばれる人だ*4。神経科学者のタニア・シンガー(苗字は一緒だが私とは無関係)は、彼女がリカールの脳をスキャンしている間に「同情的瞑想(compassion meditation)」を行うように彼に求めた。脳の中には通常なら人が他人の痛みに共感している時に活性化する部分があるのだが、同情的瞑想を行っているリカールの脳のなかではその部分で全く活動が行われていなかったことを見て、タニアは驚いた。他人の痛みに共感するように求められた時にはリカールも共感を行うことができたが、彼は共感を不快で消耗的なものだと見なした。対照的に、同情的瞑想は「強く向社会的な刺激を伴っている、暖かくてポジティブな心の状態」であるとリカールは表現している。

 タニアは、普段は瞑想を行わない人にも同情的瞑想が行えるようにトレーニングをした。同情的瞑想のトレーニングとは、その人にとって身近な人について思いやりをもって考えることから始めて、徐々により関係が遠くなっていく他人についても思いやりをもって考えていくことである。このようなトレーニングは、思いやりを持った行動につながる可能性がある。

 同情的瞑想は、時に「認識的共感(cognitive empathy)」と呼ばれるものに近い。私たちの感情ではなく、私たちの思考や他人についての理解を伴うものであるからだ。このことは、ブルームの著書の最後の重要なメッセージをもたらす。心理科学の進歩が、私たちの生活における理性の役割に対する軽視をどのようにしてもたらしたかについてのメッセージだ。

 慎重に考慮した結果であると思われていた私たちの選択や意見が、壁の色や部屋の匂いや手指消毒器が目の前にあるかどうか等の無関係な事柄に影響される可能性があることを研究者たちが示すと、彼らの発見は心理学の学会誌に掲載されるし、ポピュラー・メディアで大々的に取り上げられる可能性すらある。人々が関係のある証拠に基付いて意思決定を行うことを示す研究は発表するのが難しいし、取り上げられる頻度もずっと少ない。そのために、人間は分別のある方法で意思決定を行うという考え方に対する偏見が心理学にはビルトインされているのだ。

 ブルームは理性の役割について心理学一般よりも肯定的な見方をしているが、それは倫理についての正しい理解であると私が考えていることにも合致している。共感やその他の感情は、正しい行為をするように私たちを動機付けることも多いが、不正な行為をするように私たちを動機付けることも同じくらい多い。倫理的な意思決定においては、私たちの持つ理性の能力が果たすべき重要な役割が存在しているのだ。

 

 

Against Empathy: The Case for Rational Compassion

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*1:

Shooting of Kathryn Steinle - Wikipedia

*2:

 

What a Fish Knows: The Inner Lives of Our Underwater Cousins

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*3:

www.arithmeticofcompassion.org

*4:訳注:リカールに関する参考サイト

president.jp

www.ted.com

メモ・道徳的地位と道徳的重要性、なぜパーソンの生は特別な道徳的重要性を持つのか

 

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 前回の記事の付け足し、補足的な内容。書き終わってから気付いたが、前回では「人格」「準-人格」と訳していたところを「パーソン」「準-パーソン」と訳してしまった。直すのめんどくさいのでそのままにしておく。意味は一緒。

 

 パーソン、準-パーソン、感覚だけの存在はいずれも"道徳的地位(Moral Standing)"を持つ。「ある個体(やその他の存在)は"道徳的地位"を持つとか"道徳的な配慮対象である(Morally Considerable)"と主張することは、その個体は道徳行為者(Moral agents, 道徳的主体)の熟慮において配慮されるべき請求(claim)を持つということである」(P.23)。私なりに説明すると、例えば動物は道徳的地位を持つが木は道徳的地位を持たないと仮定した場合には、ある人間がある事例において「この事例では倫理的にはどうするべきだろうか」と考える際には、その事例の関係者として動物が含まれている場合にはその動物の利益なり権利なりを人間にとっての都合ではなくその動物自身の立場から考慮しなければならないが、木が関係者として含まれていても木の利益なり権利なりは考慮しなくてよい、ということだ。ただし、道徳的地位を持つ時点でその存在は道徳的配慮の対象となるが、"どれくらいの"道徳的配慮の対象となるかはまた別の話である。

 パーソン、準-パーソン、感覚だけの存在はそれぞれに異なる"道徳的重要性(Moral Significance)"も持つ。「"道徳的重要性"は、(道徳的地位とは)対照的に、程度の問題だ」(P.23)。パーソンの生は準-パーソンの生よりも道徳的重要性が高く、は準-パーソンの生は感覚だけの存在の生よりも道徳的重要性が高い、とヴァーナーは説く。ただし、パーソンの生が感覚だけの存在の生よりも"常に"優先して配慮される訳ではない。「"正しい行為とは、幸福を最大化する行為である"という功利主義の黄金律」(p.3)からすれば、感覚だけの存在の生をパーソンの生よりも優先して配慮した方が幸福が最大化する場合があるとすれば、批判的なレベルで考える場合には感覚だけの存在の生の方を優先するべきである。ただし、多くの場合にはパーソンの生を優先した方が幸福が最大化される可能性が高い。だから、「ヘア的な功利主義においては、日常的なルールや法律ルールなどの直感的なレベルでのルールに、パーソンや準-パーソンに対する特別な尊重を設定しておくことを認めるのに充分な理由があるのだ」(P.23)*1

また、パーソン論に対するありがちな誤解への返答は以下の通り。

 

また、根本的な誤解を防ぐために、パーソンと準-パーソンの生は「より価値が高い(more valuable)」のではなく 「特別な道徳的重要性を持つ」と、私は表現している。ある存在の生は他の存在の生よりも"価値が高い"と言ってしまうと、その存在の生は道徳的な観点からして他の生よりも望ましくて善いものである、という意味に受け取られてしまう可能性が高い。功利主義の言葉を使えば、前者の生は後者の生に比べてより多くのポジティブな価値を世界に付け足す、と言っていることになってしまう。しかし、パーソンの生はパーソンでない生よりも「多くの特別な道徳的重要性を持つ」と言う時、パーソンの生がパーソンでない生よりも善であるとか望ましいなどと私は主張しているのではない。そうではなく、パーソンの持つ特別な認識能力はある種類の利益や危害をパーソンが受けることを可能にするのであり、その利益や危害をパーソンでない生が受けることは不可能なのである、ということを意味しているのだ。このことはパーソンの生をパーソンでない生よりも望ましいものにする可能性もあるが、パーソンの生をパーソンでない生よりも遥かに酷いものにする可能性もある。「満足した豚よりも不満足な人間である方がよい」と言った点についてはミルも正しかったとしても、ある種類の惨めで不幸な状態の人間に比べれば満足した豚の生の方が望ましいことも確かなのだ。パーソンと準-パーソンの生は「特別な道徳的重要性を持つ」と私が言う時、彼らの持つ特別な認識能力が彼らの生を感覚だけの存在の生よりも言わば道徳的な請求性の高い(more morally charged)ものにしている、ということを私は意味しているのだ。これは、パーソンや準-パーソンに対処するときには私たちは特別なケアをするべきである、ということを意味する…

(P.23-24)

 

 

Personhood, Ethics, and Animal Cognition: Situating Animals in Hare's Two-Level Utilitarianism

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*1:法律を「直感的なレベルでのルール」と言うのは違和感があるかもしれないが、ヴァーナーによるヘアの二層功利主義の解釈ではそうなっているのである

「捕鯨に対する文化的偏見?」 by ピーター・シンガー

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 今回紹介するのは、倫理学者のピーター・シンガーが2008年の1月に Project Syndicate に発表した、「Hypocrisy on the High Seas?(公海上の偽善?)」という記事。2016年に発売されたシンガーの倫理学エッセイ集である『Ethics in the Real World : 82  Brief Essays on the Things That Matters (現実の世界における倫理学:重要な物事に関する82の短いエッセイ)』にも、「Cultural Bias against Whaling? (捕鯨に対する文化的偏見?)」というタイトルで同じ内容のエッセイが収録されている。

 

「公海上の偽善?」by ピーター・シンガー

 

 

 30年前には、オーストラリアの西海岸では政府の賛同を得たオーストラリアの船がマッコウクジラを殺していた。先月には、50頭のザトウクジラを殺すという日本の計画に対して、オーストラリアは国際的な抗議を行った。圧力をかけられた日本は、その計画を1年か2年延期すると発表した。捕鯨についての世論の変化は劇的なものであるし、それはオーストラリアだけで起こったことでもないのだ。

 オーストラリアの捕鯨に対する抗議を始めたのは環境保護団体のグリーンピースであり、政府は元裁判官のシドニー・フロストを任命して捕鯨という制度の調査を開始させた。この問題に関心を抱いている一人のオーストラリア人として、また動物の取り扱いについての倫理を研究している一人の哲学者として、私は意見を提出した。

 鯨は絶滅危惧種だから捕鯨を止めるべきだ、とは私は論じなかった。私が言わなくても、生態学や海洋生物学の専門家たちの多くがその主張をするだろうということを知っていたからだ。その代わりに、鯨は大きな脳を備えた社会的な動物であり、人生を楽しんで苦痛を感じる能力を持つこと…それも身体的な苦痛だけでなく、仲間の一員が死んだことに対しても悲痛を感じる可能性が非常に高いということを、私は論じたのだ。

 鯨を人道的に殺すことはできない*1。彼らはあまりに大きく、爆発銛でさえ、鯨の急所に正確に当てることは難しい。さらに、爆発銛は鯨の体を吹っ飛ばして粉々にしてしまうが、そもそも捕鯨の目的とは貴重な鯨油や鯨肉を回収することにあるのだから、捕鯨船の乗組員たちはあまり多くの爆発銛を使用することを好まない。そのために、捕殺される鯨の大半は長時間かけて苦痛を味わいながら死んでいくのだ。

 その行為を行わなければならないという非常に重大な理由もないのに無実の存在に苦痛を与える行為は、不正である。鯨を殺す以外の方法では満たせられない、生死に関わる必要性が人間にあるとすれば、捕鯨に対する倫理的批判は反論されるかもしれない。だが、鯨を殺すことが求められるような、人間にとって不可欠な必要性は存在しない。鯨から入手できるものの全ては、残酷な行為をする必要もなく他の方法で入手することができる。だから、捕鯨は非倫理的なのだ。

 フロストは私の意見に同意した。鯨を殺す際に用いられていた方法が非人道的であることには疑いの余地もないとフロストは言ったし、「非常に恐ろしい」とまで彼は表現したのだ。「私たちが関わっているのは、驚くべきほどに発達した脳と高度な知性を備えた生き物であるという可能性」にもフロストは言及した。マルコム・フレーザー首相の保守政権はフロストの勧告を受け入れ、捕鯨は禁止された。間もないうちに、オーストラリアは反捕鯨国となったのであった。

 ザトウクジラを殺す計画は停止されたが、依然として、約1000頭の他の種類の鯨を日本の捕鯨船団は殺そうとしている。その大半は小型のミンククジラだ。捕鯨は「調査」である、と日本は正当化している。国際捕鯨員会の規則は、加盟国が調査研究のために鯨を殺害することを認めているからだ。だが、その調査の目的は、商業捕鯨を科学的に正当化する口実を設けることに向けられているようだ。だから、捕鯨が非倫理的であるとすれば、 調査捕鯨そのものも不必要なうえに非倫理的であるのだ。

 捕鯨に関する議論は冷静に行いたい、科学的な証拠に基づいた、"感情"を排した議論を行いたい、と日本は言う。50頭殺しても種の存続には何の危険ももたらさない程にまでザトウクジラの頭数は増している、と日本人たちは考えている。この論点に限れば、日本も正しいかもしれない。だが、いくら科学を持ち出したところで、それだけで鯨を殺してよいか悪いかということの答えが出せる訳ではないのだ。

 実のところ、捕鯨に対する環境保護主義者の反対と同じくらい、捕鯨を続けようとする日本の欲求も"感情"に動機付けられたものだ。鯨を食べることは日本人の健康や栄養にとって必要不可欠なことではない。おそらく一部の日本人が感情的に愛着を持っているという理由のために、捕鯨は日本人たちが存続させたいと思っている伝統になっているのだ。

 日本人たちも、そう簡単には否定できない主張を一つ持っている。捕鯨に対して西洋諸国が反対しているのは、ヒンドゥー教徒にとっての牛が特別な動物であるのと同じように西洋人にとっては鯨が特別な動物であるからだ、と日本人たちは主張しているのだ。そして、西洋諸国は自分たちの文化的な信念を他の国に押し付けようとするべきでない、と日本人たちは主張する。

 この主張に対する最善の応答は、感覚のある生き物たちに不必要な苦痛を生じさせることは不正であるという考えは特定の文化に基づいたものではない、ということだ。例えば、日本の主要な倫理的な伝統の一つである仏教の主要な戒律の一つも、前述の考えである*2

 だが、この応答を行うには西洋諸国の立場は弱い。西洋諸国も、非常に大量の不必要な苦痛を動物たちに引き起こしているからだ。オーストラリア政府は捕鯨には強く反対する一方で、毎年数百万頭のカンガルーたちを殺すことを認めている…動物の苦痛が大量に含まれた虐殺だ。同様のことは他の国々の様々な種類の狩猟にも当てはまるし、工場畜産によって引き起こされている莫大な量の動物の苦痛については言うまでもない。

 自分自身の生を豊かに過ごす能力を持った社会的で知的な生き物に不必要な苦痛を引き起こす制度であるから、捕鯨は止められるべきだ。だが、自分たちの裏庭で動物たちに引き起こされている不必要な苦痛の問題を解決しない限りは、文化的な偏見であるという日本の批判に対する西洋諸国の反論は心許ないままであるだろう。

 

 

 

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*1:訳注:英語圏で「人道的に殺す, humanely kill」は「苦痛を与えずに殺す」「虐待を与えずに殺す」などの意味合いを持つ。 

アメリカを読む辞書: humane slaughter

*2:訳注:日本では「草木国土悉皆成仏」の考えが普及しているとはいえ、「有情」と「無情」の区別も仏教の伝統に含まれるものであり、シンガーが言及しているのは後者の考えであると思われる

有情とは - 難読語辞典 Weblio辞書

草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)とは - コトバンク

『動物と、ポストモダニズムの限界』 by ゲイリー・シュタイナー

 

 哲学者のゲイリー・シュタイナー(Gary Steiner)が、本人の著書『Animals and the Limits of Postmodernism(動物と、ポストモダニズムの限界)』について短く解説している記事を紹介する。

 私はポストモダニズムにはあまり詳しくないのだが、いくつかの本やネット上の記事、学会発表などを聞いた結果、ジャック・デリダに代表されるようなポストモダニズム的な動物論や倫理学のことをかなり胡散臭く思うようになった。シュタイナーの著作を読んだのは数年前だが、彼が「気分を良くするための倫理学(feel-good ethics)」と呼んでいるポストモダニズム的な動物論や倫理学が一冊丸々かけてこき下ろされていて、読んでいて痛快だった思い出がある。

 

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 近年では、動物の道徳的地位についての文章は大衆的なものと学術的なものとの両方が大量に書かれている。アカデミックな界隈ではそれらの文章の大半が「ポストモダン」な性質を持っており、還元不可能な多様性や、動物の他者性についての私たちの捉え難い経験などについて焦点を当てて書かれているとされている。そして、それらのポストモダンな文章は、明白で曖昧でない用語を用いて動物や人間を定義したり動物と人間との境界を定義しようとする伝統的な試みを激しく非難している。動物に対する人間の道徳的優位を説く伝統的な人間主義的主張は人間と動物の両方の経験に対する還元的で過剰な単純化に基づいているのであり、その単純化は私たちの感覚的生活の経験に備わる還元不可能な豊かさに対する暴力なのである、とポストモダン作家たちは説く。主体、個体(individuality)、責任といった人間主義的な概念は経験的現象の多様性を歪めるだけでなく、その歪みは道徳的な考慮の対象から周縁的な他者を排除しようとする試みを覆い隠しているのだ、ということを多くのポストモダン作家たちが示そうとしてきた。ポストモダン作家たちは女性や有色人種といった人間の他者に対する疎外に焦点を当ててきたが、最近では一部のポストモダン作家たちがこの批判の対象を拡大しており、人間が動物に対して長年行ってきた支配に対しても批判を行おうとしている。そのようにして、デリダや他の作家たちは、多くの動物たちがロゴス(理性や言語)に携わっていること、人間の特定のロゴスには携わっていなくても他のロゴスに動物たちは携わっているのだということを示そうとしてきたのだ。

 動物たちは、人間と同じように、苦痛を感じる存在であるしやがて死ぬ運命にある存在である。そのことだけでも、動物たちは西洋の歴史において人間たちに与えられてきたものよりもずっと大きな道徳的配慮を受けるべき存在である、ということを認めるのに充分な理由となる。しかし、私たちは動物たちにどのような義務を負っているのかということについての明白で定言的な主張を、ポストモダンの思想家たちは行おうとしない。ポストモダンの思想家たちは、私が「気分を良くするための倫理学(feel-good ethics)」と呼んでいるものに安住しているのだ。道徳的な不正義に対する嫌悪を表現することを私たちに許しながら、それ程までに嫌悪している不正義に対抗するための具体的なことは全く要求せず、快適な領域から私たちを押し出さない倫理学…それが「気分を良くするための倫理学」だ。ポストモダニズムはレトリックとして魅力的になるほど道徳的に無力となる。私が著書『動物と、ポストモダニズムの限界』で論じているように、ポストモダニズムは、暗黙のうちにであり本来の意図には反しているとしても、自身が悪意のあるものとして拒絶しようとしているはずの動物やその他の周縁化された他者に対する暴力を、むしろ正当化して強化してしまうのだ。

 

 

 

Animals and the Limits of Postmodernism (Critical Perspectives on Animals)

Animals and the Limits of Postmodernism (Critical Perspectives on Animals)

 

 

 

科学的知識に基づいた動物倫理:ゲイリー・ヴァーナーのパーソン論

 

  動物について言及する倫理学的主張の多くは「人間だけでなく動物も道徳的地位を持つ」「人間だけでなく動物も道徳的配慮の対象になる」と主張するが、「人間と動物は全く全く同じ道徳的地位を持つ」とは主張しない。例えば人間と猫を比較する場合には、多くの倫理学者は「人間一人が死ぬことは猫一匹が死ぬことよりも重大である」「人間一人を殺すことは猫一匹を殺すことよりも非道徳的である」と説くだろう。

 ただし、世間一般や倫理学以外の学問などで挙げられる「人間が動物よりも特別である理由」「人間を動物よりも道徳的に優遇する理由」の多くは、倫理学では否定される。「人間は神の似姿だから動物よりも特別だ」と言った宗教的な理由は根拠がないので否定するし、「ホモ・サピエンスの一員として種の保存に努めるのは人間の義務であり、ホモ・サピエンス以外の生物を優遇する理由はない」というタイプの主張も科学的にも論理的にも色々と間違っているので否定される。「人間は道徳を理解して道徳的に行為することができるが、動物には道徳を理解して道徳的に行為することができないので、動物は人間と違って道徳的地位を持たない」「動物は社会契約に参加できないので道徳的配慮の対象とならない」といったタイプの主張については、それを認める倫理学者もいるかもしれないが、否定する倫理学者も多いだろう。

 では、"なに"が人間一人が死ぬことを猫一匹が死ぬことよりも重大であるとしているるのか、人間の持っているどのような性質や特徴が人間を動物よりも特別な存在にしているのか…それを、宗教や文化や心理などに由来する偏見や予断や非合理的思考などを排して、合理的・客観的に考えることが倫理学では求められる。

 

 よく主張される考え方の一つは、以下のようなものだ。人間は動物と違って言語が使えたり理性的思考ができたりするために将来についての計画や"自己意識"を持つのであり、人間は動物と違って「"自分"が過去・現在・未来に渡って存在すること」や「"自分"の生を生きているのは"自分"であるということ」が理解できるので、一人の人間にとっての「"自分"」の命は一匹の猫にとっての「"自分"」の命よりも重い、だから人間一人を殺すことは猫一匹を殺すことよりも重大な不正だ、という考え方である。この、人間の命を当人にとって価値のあるものにする、人間の持つ心理学的な性質や能力に「人格(person)」という名を与えたものが、いわゆるパーソン論と呼ばれる議論である。

 

一般に、「人格とは何か?」という問いをめぐる議論のことを指す。 生命倫理学でこの問いが重要になるのは、 この問いの答え方次第で、胎児、 植物状態脳死状態の患者などをどう取り扱うかが変わりうるからである。

たとえば、人格というのを「自己意識を持った存在」と定義づけるならば、 ある時期までの胎児や脳死状態の患者は人格とみなされないことになるだろう。 すると、これらの「人格を有しない者」に対しては 「人格を有する者」とは別の取り扱い方が許されることになる。

…(中略)…もし1.人格を殺すことの不正さが、 本人にとっての自分の生の価値と関係しており、 2.さらに本人にとっての自分の生の価値が、 (1)で述べられたような人格の条件となる特徴の程度によって異なるならば (たとえば、合理的思考能力の程度に応じて、 生の価値が増減するならば)、 人格があるかないかは程度の問題であることになる。 この議論を認めるならば、動物にもある程度人格を認めなければならないかもしれないし、また、通常の人間も小さな頃や老いた頃にはより少ない人格を 有するということになるかもしれない*1

 

 

 上の引用に付け加えると、「本人にとっての自分の生の価値が…人格の条件となる特徴の程度によって異なる」ことは、それぞれに異なった生物種に属する動物たちにも当てはまる。例えば、類人猿は何らかの自己意識を持っているように見える一方で、昆虫が自己意識を持っているとは考えづらい。

 

 ゲイリー・ヴァーナー(Gary Varner)の『Pesonhood, Ethics, and Animal Cognition: Situating Animals in Hare's Two-level Utilitarianism(人格、倫理学、動物の認識能力:ヘアの二層功利主義で動物を位置付ける)』では、動物の認識能力と動物の人格や道徳的地位との関係について論じられている*2。ヴァーナーは、人間と動物を「人格(Person)」「準-人格(Near-Person)」「感覚だけの存在(Merely Sentient)」の三つのカテゴリに分けている。このカテゴリ分けはあくまで便宜的なものであり、例えば人格はいついかなる場合でも準-人格に優先されるという訳ではなく、功利主義的な計算のために準-人格を人格を優遇することが求められる場合もある、ということは留意される必要がある。ただ、人格にとっての自分の生の価値は準-人格や感覚だけの存在にとっての自分の生の価値よりも大きいために、一般論的・基本的には人格を優遇すべき、ということである。

 

 ヴァーナーによる「人格」の定義は以下の通りだ。

 

伝記的な自己意識(biographical sence of self)を持つために、その生が特別な道徳的意義(moral significance)を持つ存在(p. 134)

 

 過去や未来に自分が存在しているという意識は準-人格も持っているのだが、準-人格と人格の違いは、人格の生は「物語的(narrative, storytelling)」であるということだ。人間である私たちのアイデンティティは、過去の出来事についての記憶や自分は未来にも存在するであろうという意識だけでなく、過去や未来と現在を有機的に結びつける「自分自身についての物語として私たちが語ることのできる、私たちの伝記」(p. 134)にも由来している。自分の人生を物語的に理解することで、自分の生が自分自身にとって持つ意味を認識して主張することが私たちにはできる。そして、健常な大人の人間のほとんどは物語的な生を過ごしているが、人間以外の動物が物語的な生を過ごしているという証拠は発見されていない。人間の持つ特別な言語能力が、物語的な生を過ごすことを可能にしているのだ*3

 物語的な生という概念について、ヴァーナーは哲学者のマリャ・シェクトマン(Marya Schechtman )による議論を特に参照している*4。また、人間の生は物語的であることこそが人間の生を動物の生よりも特別にする、という考えは古来より様々な哲学者たちが主張してきたことでもある*5。物語的な生という概念の解説として、ヴァーナーの本の書評を書いている、タル・スクライヴン(Tal Sriven)の書評から引用しよう*6

 

…この考えによると、自分自身の生の物語に自分を位置付けることができる個人たちの内にしか、完全な人格は存在しない。他の存在や他の自我が存在する世界において自分を位置付けるために人格が語る物語が持っている特別で道徳的な意義は、ソクラテスを特別にしていてブタには欠けている性質とはなんであるか、ということを説明する。ソクラテスは物語のなかに生きているのだ。ブタは、ソクラテスのような人間が語らない限りは物語を持てない。語られたとしても、実際にはブタが自分自身の物語を意識することはできない。ブタの生を、過去・現在・未来を強く結び付ける複雑な物語にまで高めることはできないのだ。人間が物語を語ったとしても、日々を生きるブタの人生そのものに意味を与えることはできないのだ。そのため、人格が過ごしている生に対するのと同じだけの敬意を、ブタの過ごしている生に対して払うことはできない。人格が過ごす生には、過去についての認識から生じる人生の軌道が存在しており、また将来についての計画に人格自身が投影されている。人格の計画に干渉することは人格に危害を与えるし、人格が持っている計画を理由もなく無視することは人格を冒涜するということなのだ。(p. 201-202)

 

 

 物語として自分の生を語れないため存在は人格ではないが、現在だけでなく未来や過去における自分の存在を理解できる動物たちは準-人格である。ヴァーナーは、準-人格を持つ存在とは自伝的記憶(Autonoetic consciousness)を持つ存在であると定義している*7。どの動物が自伝的記憶を持っておりどの動物が自伝的記憶を持たないかをどう調べるのかということについては、ヴァーナーは自伝的記憶を以下の3つのカテゴリに分けて、それぞれを調べればいいとしている。

 

1・エピソード記憶。自伝的記憶のなかでも、過去に向けられるものである。

 

2・鏡を見て自己を認識すること。これは、現在における自伝的記憶の存在を示唆する。

 

3・心の理論の使用や、特定の種類の計画を行うこと。両方とも、自伝的記憶のなかでも未来に向けられるものと関わりがあるように思われる。

 

…(中略)…この3つのカテゴリーを通じて、自伝的記憶の存在を示す最も強い証拠を私たちが発見できる動物が、準-人格である可能性が最も高い動物である。

(P.182)

 

  そして、心理学や動物行動学の様々な研究結果を参照しながら、大型類人猿・クジラやイルカ・ゾウ・カラス科の鳥(カラスやカケスなど)が、準-人格である可能性の高い動物たちであると論じられる*8

 

 残るは「感覚だけの存在(Merely Sentient)」だが、もちろん、彼らも道徳的配慮の対象となる。人格や準-人格に比べると地位が低くなる、というだけだ。相手が高度な記憶や理性を持たないとしても、苦痛を感じられる存在に無意味に苦痛を与えることは不正なのだ。ではどの動物が感覚を持ち苦痛を感じられるか、ということは生物学や解剖学などの科学的知識によって知ることができる。ヴァーナーがまとめた結果によると、哺乳類や鳥類だけでなく、魚類や両生類や爬虫類を含めて全ての脊椎動物は苦痛を感じる能力を持つ可能性が高い。一方で、無脊椎動物が感覚を持ち苦痛を感じるという証拠は少ない。イカやタコなどの頭足動物については、他の無脊椎動物に比べると感覚を持ち苦痛を感じる可能性が高いが、脊椎動物に比べると可能性は低い。

 

 このように、ヴァーナーの議論は科学的知識に頼っている部分がかなり大きい。この種類のアプローチに対してよくある反論は、「科学的知識が正確とは限らない」「人間たちがまだ知らないこともあるかもしれない」「動物たちが痛みを感じていると確実に断言できる証拠はない」「植物も痛みを感じるかもしれない、それを完全に否定する証拠はない」「曖昧な知識や可能性に基づいた恣意的な基準で、特定の動物を他の動物よりも優遇するのは人間の傲慢だ」といったものだ。このような主張に対するヴァーナーの返答を引用して、この記事を締めくくろう。

 

基準に基づいた私の議論に対する、哲学者のコリン・アレンによる批判に対する私の最初の返答は、「ラムズフェルドの返答」と呼ぶことができるかもしれない。最高の装備や改良型の高機動多用途装輪車両が、イラクに向かうアメリカ軍の全軍に対しては配備されていない、という批判に対してアメリカの元国防長官のドナルド・ラムズフェルドが言ったとされる返答に由来しているからである。ラムズフェルドはこう言ったのだ。「君も知っているように、戦争には手元にある軍隊で行かなければならないんだ。自分がこれだけ欲しいと思っている軍隊や、後からこれだけ欲しかったと思うことになる軍隊で戦争に行ける訳じゃないんだ」。ラムズフェルドと同様に、私もこう言おう。倫理的な判断は、自分が欲しいと思っている証拠ではなく、自分が手にしている証拠に基づいて行わなけばならない。

 科学者や、心の哲学を専門にしている哲学者なら、無期限に結論を保留する余裕があるかもしれない。しかし、倫理学者や立法者は、その判断を下すときに入手可能な最善の証拠に基づいて判断を下さなければならない。そして、日々の生活においては全ての人が倫理学者なのだ。私はいつも自分のことを「倫理学者」ではなく「倫理理論学者(ethical theorist)」と呼んでいる。ポピュラーメディアは、「倫理学者」のことを自分に投げかけられた全ての倫理的問題についての答えを持っている人だと描写するからだ。しかし、問題が投げかけられた時の私の答えとは、多くの場合は「その答えは、事実がどんなものであるかということによる」というものだ。「日々の生活においては全ての人が倫理学者なのだ」という私の主張は、全ての倫理的問題に対して表明できる意見を全ての人が持っている、ということは意味していない。私が言いたいのは、私たちの全員が、倫理的な議論の対象となる判断を数え切れないほど多く下している、ということなのだ。その判断の多くは待つヒマのないものであるし、その問題に関して必要であったり求められたりする情報を全て集める前に判断を下す必要がある。このことは、立法者にとっては明白なことだ。立法者は、広い範囲に重大な結果をもたらす政策や法律を不完全な情報に基づいて頻繁に制定しなければならない。しかし、立法者に比べると判断の与える影響は少ないといえ、同じことは私たちの全員に当てはまるのだ。

(p.115-116)

 

 

 

Personhood, Ethics, and Animal Cognition: Situating Animals in Hare's Two-Level Utilitarianism

Personhood, Ethics, and Animal Cognition: Situating Animals in Hare's Two-Level Utilitarianism

 

*1:

THE PERSON THEORY

*2:この本は三部構成であり、第一部では副題にも書かれているR・M・ヘアの二層功利主義の解説と擁護が行われている。動物の認識能力と人格について論じられているのは第二部で、第三部では応用的な問題が論じられているが、第二部も第三部も、第一部で論じられた二層功利主義が前提とはなっている。

 しかし、二層功利主義について解説しなくてもヴァーナーによる動物の認識能力と人格についての議論を説明することはできるので、話が散漫になるのを避けるために今回の記事では二層功利主義についての説明は省いた。

*3:人間であっても言語能力が未発達な子供は「人格」に含まれないこと、証拠は発見されていないがゾウやクジラ・イルカは物語的な生を過ごしている可能性があることなどを、ヴァーナーは読者に留意させている。

*4:

 

The Constitution of Selves

The Constitution of Selves

 

 

*5:アリストテレスフリードリヒ・ニーチェ、バーナード・ウィリアムズ、アラスデア・マッキンタイアなど。

*6:

"Review of Varner's Personhood, Ethics, and Animal Cognition" by Tal Scriven

*7:Autonoetic consciousnessには「想起意識」や「自己思惟的意識」などの訳語もあるようだ。「自伝」的記憶といっても、前述で出てくる「物語」や「伝記」とは意味合いが違うので注意。

*8:カラス科の鳥を除けばみんなアメリカ人たちに人気のある動物たちだが、「この件については世間の常識も十分に正当であることが示唆されるかもしれない」(p. 217)とヴァーナーは書いている。

ペット動物の去勢に関する倫理

 

 猫や犬などのペット動物に去勢・不妊手術を行うことは日本でも一般に行われているし、動物愛護協会も各都道府県の獣医師会も環境省も支持しているようだ*1。だが、インターネットやメディアではペット動物に去勢・不妊手術を行うことへの反対意見を見かけることもある。反対の理由は様々だが、「去勢・不妊手術を行うことで性的な快楽や本能を動物から奪うのは人間のエゴだ」という理由を最も多く見かけるような気がする。動物の "自然"な状態に人間が手を加えることへの反対や、強制的な不妊手術に人間の社会問題を重ねて連想する意見などもある。

 しかし、それらの反対意見には、猫や犬の安易な擬人化(猫や犬は人間と同様の性的欲求を持っているだろうという判断、動物に対する強制不妊手術と人間に対する強制不妊手術の同一視)や、"自然"を無根拠に善とする発想が含まれているなどの問題点がある。

 最近読んでいた『Ethics for Everyday』という応用倫理学の論文集に載っていたゲイリー・ヴァーナー(Gary Varner)の論文「Pets, companion animals, domescated partners」に、この論点について簡潔にまとめている箇所があったので、訳して紹介する。参考文献や引用ページ数、一部の文章は省略している。

 

 

 

「(前略)

初期の著作で、バーナード・ロリン(Bernard Rollin)は新しい社会倫理を主張するために "テロス(telos)"という概念を広範囲に活用している*2。テロスという考え方の基本は、生き物たちはそれぞれに "進化論的に決定されて遺伝的に埋め込まれた本性、機能、その生き物にとって本質的な活動"を備えている、ということだ。ロリンの主張する新しい社会倫理は、畜産農業の慣習や正当な理由を持たない科学研究はテロスを侵害するものであると非難する。同様に、この新しい社会倫理によると、問題となる動物のテロスを深刻に侵害する方法で行われるとすれば、ペットを飼うことも認められない。…

 …(中略)…第三に、飼い主の都合や虚栄心のためにペットとして飼われる動物たちの身体の一部を切断することは慣習的に行われている。ロリンが言及しているのは、犬の声帯切除、猫の爪の除去、アメリカンケネルクラブの基準に合わせるために犬の尻尾を切ることである*3。鳥の翼を切断することなど、他にも印象的な事例はあるだろう。その数ページ後にはロリンは同じ調子で去勢と卵巣除去についても言及しており、"動物はおそらく人間と同じくらいに性的な行為を楽しんでいる"ことを私たちに思い出させて、"この理由により、私はオスのペット動物に対して去勢を行うことよりも精管切除を行うことや効果的な避妊薬を開発することを支持している"と書いている。ロリンは言及していないとはいえ、類似した選択肢はメスの動物にも用意されている。彼女たちの卵管を切除するか、子宮を除去する(卵巣を除去する)かという選択だ。しかし、動物を去勢・不妊化することを犬の声帯除去や猫の爪の除去と効果的に比較することで、動物を去勢・不妊化させることは後者の行為と同じくらいに深刻に動物のテロスを侵害しているとロリンは示唆しているが、この点について私は懐疑的である。去勢・不妊化されていない動物たちが性的な交渉を楽しむことは、私も疑わない。しかし、性的な交渉をする機会を失うことが犬や猫などの動物たちにとって何を意味するかについて、おそらく人間はその損失を拡大解釈する傾向がある。まず何よりも重要なのは、犬や猫などの動物は人間のように1年中ずっと性的に活発であるのではない、ということだ。一般的には、メスの犬や猫は発情期にしかセックスに興味を示さないし、オスの犬や猫は発情しているメスが近くにいない限りは性的興奮を抱かない。また、去勢・不妊化には様々な健康上のメリットが存在している。特に猫に関して言えば、不妊化されていないメス猫が乳ガンを発症する可能性は卵巣が除去されたメス猫の7倍である。また、去勢されていないオス猫は去勢されたオス猫よりもずっと頻繁に徘徊して喧嘩を行う。喧嘩が原因の負傷のことは置いておいても、屋外(特に屋内よりも"自然な"屋外)に出ることは猫の心理を特に刺激することであると思われるので、去勢されたオス猫は去勢されていないオス猫よりも家から遠く離れて徘徊する可能性が明らかに高いが、猫が徘徊する領域には車が通る道路や他の危険が含まれている場合もあるのだ。このように、全体として見れば、去勢や不妊手術によって猫が失うものは猫が得るものに比べると少ないように思われるし、猫の場合と同様の理由で、他の動物の場合についても同じことが言える可能性は高い。だから、去勢や不妊手術が明らかに動物のテロスを侵害しているとしても、全体的に見れば、そのテロスの侵害は正当化されるものである可能性が高いのだ。対照的に、猫の爪を除去することは猫から自律を奪うことである(猫の爪を除去する場合、実際には爪だけでなく猫の各爪先の骨の一部か全てを除去している)。猫は日常的に多様な用途で爪を使用するのであり、そのことは人間に猫の爪を除去させたがるような問題も発生させてしまう(人間が猫に引っ掻いてもらいたくないと思っているところを引っ掻く、人間を引っ掻いて攻撃する、など)。だが、それらの問題には、爪の除去に比べて侵害的でない様々な方法によって対処することができる*4。同様のことは犬の声帯除去にも言えるのだ。」

 

 

 要するに、去勢・不妊手術を受ける対象の動物自身にとってのメリットとデメリットを比較して、メリットの方が大きいので動物に対する去勢・不妊手術は認められる、とヴァーナーは論じている。

 ヴァーナーの論文はペットとして飼われる個体について言及して論じられているが、ペットではない野良猫に対して行われる去勢・不妊手術には、生まれてくる野良猫の数を減らすことで猫と地域住民との間の問題や環境問題などを抑制するという目的もある(また、ペットとして飼われる動物に対する去勢・不妊手術も、多頭飼育崩壊を防いだり飼いきれずに動物が捨てられることを予防するという面が強い)。また、かなり高い確率で不幸で悲惨な生涯を過ごすであろう野良猫が新たに生まれてくるのを防いで、猫を助けるためのリソースを現在生きている猫や未来に生まれてくる他の猫に割くことを可能にする、という側面もある。つまり、去勢・不妊手術の対象となる当の動物自身にとってのメリットに、現在・未来に生きる他の動物や人間にとってのメリットが加わる訳で、去勢・不妊手術を支持する倫理的根拠はますます強くなるだろう。もちろん、「悲惨や不幸であっても生きていることそれ自体が善であり、未来に生まれてくる存在の数を減らすのは悪である」といった主張を認めれば話は別だが、私がこれまで学んできた限りでは、そのような主張を支持する倫理学的な根拠や理由はほぼ無いように思われる。

 

 

Ethics for Everyday

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*1:適当に参考サイト:

飼い主のいない猫の不妊去勢手術助成事業|公益財団法人 日本動物愛護協会

公益社団法人 徳島県獣医師会 ┃ 事業内容

環境省 _ 人と動物が幸せに暮らす社会の実現プロジェクト | アクションプラン

*2:

 

Animal Rights & Human Morality

Animal Rights & Human Morality

 

 

*3:アメリカンケネルクラブは、純犬種の管理や認定を行っている団体であるようだ

American Kennel Clubの意味 - 英和辞典 Weblio辞書

*4:日本語で、猫の爪の除去の問題点について説明しているページ

猫の爪除去手術反対!