道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

市民的不服従の倫理

 

 先日に訳した記事に関連して、倫理学者のピーター・シンガーの主著『実践の倫理』で行われている、市民的不服従に関する議論も簡単にまとめてみよう。参考にしているのは第三版の原著(三版は未邦訳)、11章の「市民的不服従、暴力、テロリズム(Civil Disobedience, Violence, and Terrorism)」から。

 

 この章の冒頭でシンガーが市民的不服従の例として挙げているのが、ナチス政権下で当時のナチスの法を破ってユダヤ人を救ったオスカー・シンドラーペンシルヴァニア州立大学の研究所に不法侵入してそこで行われたサルの頭部を損傷させる実験の映像を撮影して公開した動物解放戦線、堕胎を殺人と同様の罪であるとみなして中絶を行う産婦人科病院に不法侵入などを伴った抗議をしていた中絶救助隊、また自然環境を守ったり気候変動を防ぐために不法行為を伴う抗議活動をした環境活動家たちである。シンドラーの行為を非難する人はほぼいないと思われる一方で動物解放戦線や中絶救助隊の行為に賛同しない人は多いように思われるが、いずれにせよ、ある道徳的・社会的な目的を達成するために法を破るという手段を取っているという点で、これらの人々の行為はいずれも市民的不服従とみなせるものであるのだ。

 

 市民的不服従という論点に関しては「目的は手段を正当化しない」という反論がまず思い浮かぶ人も多いかもしれないが、シンガーはこの反論を早々に却下している。たとえば「嘘をつくことは不正である」と考えている人であっても、嘘をつかなければ誰かが傷付いたり殺されたりすることが避けられないという場面では、嘘をつくことは認められると判断する人がほとんどだろう。「目的は手段を正当化しない」という言葉は大雑把なクリシェみたいなものであって、それが当てはまらない場合も多いのである。考えるべきなのは、どのような目的がどのような手段を正当化するか、ということなのだ。

  また、市民的不服従という概念を唱えた元祖的な人は19世紀のアメリカのヘンリー・デビッド・ソローである訳だが、ソローも以後に市民的不服従について論じた人の多くも、「悪しき法や政府には従うべきではない、それよりも良心の声に従うべきだ」と主張してきた。しかし、単に「良心の声に従え」と言うだけでは倫理的な行動の指針としてはあまりに頼りにならない。「良心」が人の内から湧いてくる道徳的感情だとすれば、感情というものは多くの場合に様々な点で非合理的であったり視野狭窄的なものであることをふまえると、感情的な判断は理性的な判断よりも推奨されるべきものではない。また、ある人が市民的不服従という選択肢を考慮する状況というのも、多くの場合には「この習慣や制度は道徳的に問題があるので従うべきではないし改められるべきだと思うが、法律を破ることにも道徳的な問題があるのだから、考えもなく過激な行動を取るべきでもないとも思う、さてどうしよう」という風に白か黒かで二分することのできない曖昧な状況である。結局のところ、様々な事情や関連要素を考慮したうえで「自分は何をするべきか」ということを理性的に判断するための、倫理的な原則や判断基準というものが必要になってくるのだ。

 

 ナチス政権下の法律ではユダヤ人の殺害が合法であったように、法律は必ずしも倫理を反映するものではなく、原則的には法と倫理は別物である。一方で、法律そのものや法律を尊重するという行為には道徳的な重要性があることも確かだ。法律というものは個人同士や関係者同士に任せていては解決できないような事件や争いなどを公平に穏当に解決するための伝統ある手段であって、人々がみんな法律を無視するような社会では事件や争いなども個人の手によって解決しなくてはならなくなるので暴力的で混乱した社会になってしまうだろう。だから、人々が法に従うことも法に対する敬意を示すことも基本的には必要だ。「この法律は道徳的に不当であるから従うべきでない」と心から思っていたりその判断が客観的・合理的に正しいとしても、市民的不服従という行為を行うことは他の人々に対して法に対する不服従の例を示してしまうことであるので、道徳的に正当であり従うべき法律に対しても人々が敬意を示さなかったり不服従をしてしまうようになる、というリスクを含んでいる。そのような悪影響をふまえると、基本的には、正当な目的を達成するためであっても違法行為はできるだけしない方がよい。…しかし、ユダヤ人がガス室に送られるのを防ぐには違法行為しか手段がないという場合であれば、得られる結果の重大さが市民的不服従や違法行為一般に含まれる副作用を優に上回るので、やはり市民的不服従や違法行為をするべきということになるだろう。

 法律に関連するのが、民主主義という要素である。「ナチス政権下では独裁制のために民主主義が機能していなかったとすればシンドラーの行為は擁護できるとしても、たとえば現代のアメリカや日本では民主主義は機能しているのだから、ある法律や制度が悪であるとすればそれは選挙などを通じて合法的に変えるべきであり、逆に変えられていない間はその法律や制度に問題があると思っていても従うべきである」と論じる人がいるかもしれない。…しかし、民主主義的な手続きによって近い将来のうちに悪法を変えられるとは限らないということや、仮に変えられるとしても民主主義的な手続きにはかなり時間がかかるということをふまえると、この議論は必ずしも通用しない。法律を変えようとノロノロ頑張っている間にも幾多の実験動物や胎児が死んでいく訳だし、環境問題などに関しては法律が変わった頃にはもう手遅れになっていて失われた自然が取り戻せなかったり地球温暖化閾値を超えてしまう、などなどの事態が起こるかもしれない。それに、実際に市民的不服従を起こしている人の多くはまずは合法的な手段によって抗議をしていたこと、そして合法的な手段では世の中は何も変わらないと実感したからこそ市民的不服従という違法行為を選択した、という事情も存在する。…いずれにせよ、「民主主義的な手続きが存在している」ということだけでは「市民的不服従を選択してはならない」ということの決定的な理由にはならない。

  また、「民主主義の下で制定されている法や制度には多数派の意思が反映されているはずだ。市民的不服従は、尊重されるべき多数派の意思を無視しているので行うべきではない」と論じる人もいるかもしれない。だが、そもそも現代の民主制は間接的に代表者を選ぶというシステムである以上、「この点に関しては不賛成だが、他のこの点では賛成なのでこの候補者を選ぶ」とパッケージ式に選ばれているのであって、民主主義の下で制定されるすべての法や制度に多数派の意思が反映されている訳ではない。また、たとえばアメリカでは中絶の合法非合法は議会による立法よりも最高裁判所の判断に左右されるところが大きいが、最高裁判所の判事たちは有権者の多数派から選ばれたという訳でもないのだ。…更に、「多数派の意思は尊重されるべき」であるという原則自体にも、倫理的には大いに疑問である。「黒人奴隷は合法である」「ユダヤ人は殺されても良い」という明らかに非倫理的な判断も、ある時代のある社会では多数派の意思であったのだから。

 …とはいえ、法律は他の問題解決の手段よりも望ましいものであるから尊重されるべきであるのと同じく、民主主義も問題解決や意思決定の手段としてはその他の手段よりも望ましいものであることは確かだ。民主主義は必ずしも最善の回答を導く訳ではないとしても、独裁制や貴族制などのように特定の有力な層の意見しか反映されない社会よりかは、民主主義の社会の方が人々の利益がより平等・公平に配慮された状況を生み出しやすいのは確かだろう。となると、市民的不服従には、法律の権威を損なわせるリスクが含まれているのと同様に民主主義の権威を損なわせるリスクが含まれていることになる。たとえば「実験動物を救うために市民的不服従を行うが、女性が中絶をすることについては認められるべきだと思っているので中絶に関しては現行法を支持する」というような人は、胎児を救うために市民的不服従を行う人によって自分が支持する法律を破られた場合についても想像をはたらかせるべきだ。…ともかく、民主主義社会においては非民主主義社会よりも市民的不服従に慎重になるべきことは確かだし、可能であれば他の手段を取るべきだが、それは絶対的な原則ではない。極端な状況では、民主主義社会であっても多数派の意思に逆らうべきであるという場合は存在するだろう。

 民主主義のルールを尊重したうえで、「私は多数派の意思に従いたいと思っているが、現在の法律や制度には多数派の意思が反映されていない。だから、私が市民的不服従を行うことで、多数派の意思を反映させて民主主義を適切に機能させる」という選択肢も存在する。民主主義であっても、企業や利益団体によって法律が歪められたり操作されたりする場合もあれば、偏見や差別などによって少数派の利害が無視されている場合もあり、そして多数派がその事実に気付いていなかったりその事実が多数派から隠されているということもある。そのような時には、市民的不服従を行うことで多数派にその問題に注目させたり、情報が足りない状況で自分たちが下してしまった判断について考え直させたりすることで、"本当の"多数派の意思を法律や制度に反映させることが可能となるということがあるのだ。このようなタイプの市民的不服従は、多くの場合に正当化できる。…一方で、"本当の"多数派の意思にも反対するタイプの市民的不服従は(他に取れる手段が残されていたり、法や民主主義の権威を損なったり、また単純に非多数派の意見は間違っている可能性が高いということなどをふまえると)正当化することが難しくなる。しかし、繰り返しになるがナチスシンドラーのことをふまえればそれも絶対的なものではないし、要するに程度問題である。

 

 ここで問題となるのが、ではどのようなケースの市民的不服従オスカー・シンドラーの行為と同じように擁護できるものであり、そうではないケースとはどのようなものか、ということだ。種差別を批判するシンガーは動物解放隊の行為は市民的不服従の行為として認められるものであると判断している一方で、中絶は殺人と等価ではなく妊娠している女性の利益は胎児の利益より優先することができるとして中絶救助隊の行為は認められないとする。しかし、中絶救助隊が間違っているのは「中絶は殺人と等価である」という中絶に関する倫理的判断なのであって、市民的不服従に関する倫理的判断ではない。現行法の下で中絶される胎児の数をふまえると、もし中絶は殺人と等価であるとすれば確かに大量虐殺が合法的に行われているという事態になるので、「大量虐殺を止めるために市民的不服従を行う」という中絶救助隊の判断は選択肢は充分に正当なものとなるのだ。…「どのような事態が非道徳的であるか」ということについての倫理的判断と、「その事態を止めるために市民的不服従を行うことは正当であるか」ということについての倫理的判断は、分けて考えるべきなのである。

 

 他にも、「アメリカや欧州のように民主主義の伝統が長い国では多少の市民的不服従があっても法や民主主義への信頼は揺らがないので市民的不服従は認められやすくなるが、最近に民主主義ばかりになった国では多少の問題や不当さには目をつぶっても民主主義や法への信頼を培うことを優先するべきであるので市民的不服従は認めづらくなる」とか、「動物や胎児を守るために市民的不服従を行うと、テロリストと見なされて自分たちの行動が制限されやすくなったり、批判者から"あいつらはテロリストだ"とラベルを貼られて大衆の支持を得づらくなる」などなど、考慮するべき要素は数多く存在する。

 その行為がもたらす直接的な結果も間接的な結果も、行為に含まれる様々な可能性も、全て出来る限り考慮したうえで選択を下すべきである。このことは市民的不服従のみならず、暴力を用いたテロリズムや体制破壊行為などについても当てはまるし、逆にデモや投票などのより一般的で合法的な政治行為にも当てはまるだろう。政治にかかわらず倫理的な判断や行為一般にも当てはまるものであるかもしれない。

 

 

ソローの市民的不服従―悪しき「市民政府」に抵抗せよ

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