道徳的動物日記

人々の議論を眺めながら考えたことや読んだ本の感想など。このブログは利益や金銭目的ではなく人々に対する啓蒙のために書かれています。ありがたがれ。

「お気持ち」はいけないのか?

 

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 先日の記事でも書いたが、ケアの倫理やフェミニズム倫理などの「理性」より「感情」を重視する倫理学理論には根本的に問題点があり、理論として破綻しているように思える。

 しかし、「“理性的”を標榜する既存の倫理学理論によって“感情的”だと見なされて排除された事象や物事のなかにも大事なものがある」という問題意識は理解できなくもない。

 また、「感情」を重視する倫理学理論がなぜケアやフェミニズムなどの“女性”的な要素と結び付きやすいかというと、西洋の哲学では古代ギリシアの頃から「理性=男性的/感情=女性的」という二項対立的な図式を作ったうえで前者を讃えて後者を貶める考え方が存在しており、それに対するカウンターとしてその二項対立の図式をひっくり返し、感情の重要性を強調したうえでそれを女性性と結び付ける、という流れがある。

 これに関しては、これまでの私は「そもそも当初の二項対立の図式自体が間違っているのであるし、古臭い図式であって現代の我々がそれに捉われる必要もない。“あえて”二項対立の図式をひっくり返すという戦略を採用したところで、正しい考え方にたどり着けるとも思えない。もっと単純に、“理性=男性的”や“感情=女性的”というステレオタイプを否定したうえで、純粋に理性や感情の役割について考えればよい」と考えていたし、今でも基本的にはそういう考えを抱いている。

 

 しかし、一昔前には「かわいそうランキング」という言葉が流行り、現在でも他人の主張を「お気持ち」と称することが揶揄として成立してしまう風潮があるのを見ていると、あまり単純に理性を肯定して感情を否定することもできなくなるのである。

 

 他人の主張を「感情的」として否定する、という行為には様々な問題点が見受けられる。

 

・「お気持ち」というレッテルは、女性の主張やフェミニズム的な主張に対して貼られることが多い。性差別を防止するための具体的な規制や制度改革を求める声や、性的表現の加害性を理論的に示そうとする試みも「お気持ち」というレッテルで済まされてしまう始末だ。

 これは、「理性=男性的/感情=女性的」という古典的な図式が(西洋ではない日本においてですら)いまだに幅を利かせていることを示しているように思える。

 

・先日に読んだ『魚たちの愛すべき知的生活』について他の人たちのレビューを探していたところ、以下のようなレビューがあった。

 

魚を売って生計を立てている身として感想を書く 水族館に行く前に読めば、より興味深く魚を個体ごとにじっくりと見てみようと思わせる良著 ただ著者が人道協会に所属し、生物愛護の考えがかなり強いので、最後の漁業に対する章で一気に科学的要素が減り感情的な記述が多い この章に至るまでは、同じ魚好きとして心が通じた気持ちを抱きながら読み進めることが出来たが、最後にガッカリしてしまった 著者が魚をいかに手軽に美味しく食べるかという、人間という生物の発展的努力には興味が薄いのがよくわかり悲しくなったのだ

『魚たちの愛すべき知的生活―何を感じ、何を考え、どう行動するか』|感想・レビュー - 読書メーター

 

 

 このようなレビューの他にも、動物愛護や人間以外の動物への道徳的配慮を主張する考えを「感情的」として批判する主張はよく目にする。たとえば、2018年にスイスでロブスターの保護規定が定められた時にも「感情的」だとの批判が多く目に付いた。その時に書いた私のコメントは以下の通りだ。

 

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…魚類や甲殻類、昆虫などのこれまでには「痛覚がない」とされてきた生物種に関する研究が深まり、彼らにも痛覚が存在するという事実(あるいは、痛覚が存在するかもしれないという可能性)を発見して、それに配慮する、というのも近年のトレンドだ。痛覚や意識の存在が未だに発見されていない(そして、今後発見される可能性もほぼないであろう)植物に対してはともかく、痛覚を持つ魚類や甲殻類などに対して哺乳類に対するのと同様の配慮を行うことは、論理的に一貫している。魚類や甲殻類は悲鳴を上げないために、彼らが苦しめられて殺害されることについての感情移入は他の動物が苦しめられて殺害されることについての感情移入よりもずっと低くなりがちだが、「魚類や甲殻類にも痛覚が存在する」という科学的知識に基づいて判断をすれば、他の動物に対してと同様の配慮が魚類や甲殻類にも必要である、という結論が導かれるのだ。要するに、「ロブスターの福祉に配慮をすべきである」という判断は、感情よりも理性や論理を優先した判断であると言えるだろう。

 

 動物の問題と並んで、環境問題や気候変動の問題に関する議論でも同様の光景はよく見られる。

 これらの例に限らず、自然科学なり経済学なりの価値中立的で「理系的」な知識を紹介する文書や主張は「論理的」だと見なされやすい一方で、倫理学や政治哲学や社会学などの理論に基づいた規範的で「文系的」な主張は、その主張がどれだけ論理的に一貫した理論に基づいた主張であったとしても「感情的」だとレッテルを貼られてしまう可能性がある。だが、実際には、自分たちにとって不快感を与えたり都合の悪い結果をもたらす主張であるためにほとんど反射的に自己防衛的な状態になった人々が、その主張を真剣に取り扱うことを回避するために、その主張を過小評価して「感情的」というレッテルを貼って済ませようとすることが大半であるようだ。逆に言えば、価値や規範を主張しない「理系的」な知識はそれを聞く側にとって不快感を与えたり都合を悪くしたりするということもないために相手を自己防衛的にならせずに済む、というだけである。

 しかし、理系的で価値中立的な主張も、文系的で規範的な主張も、論理の属するレイヤーが違うだけでどちらも等しく「論理的」な主張であり得るのだ。

 

・また、そもそも、「論理的」な理論と「感情的」な言動や反応は、必ずしも二項対立になっている訳ではない。むしろ、倫理や法律に関する理論の多くは、「感情」が示す様々な要素を深掘りして体系化したものである(読んだのはだいぶ前で詳細はよく覚えていないが、たとえばマーサ・ヌスバウムの『感情と法―現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』は法律の感情的な期限を探って、感情が法や社会秩序にもたらす意味を問うものであった)*1。他の人や動物が傷付けられることについて「ひどいことだ」という感情を抱いてそれを表明することは、ケアの倫理はおろか、功利主義の理論でも正当化されることが多いだろいう。

 直接には誰も傷付けないはずの差別的表現や性的表現、また他人を属性に分けてカテゴライズ化したうえで行われる「分析」などに対しては、拒否反応が示されることが多い。そのような拒否反応の一部は道理に合わないものであるかもしれないが、一方で、他者の「尊厳」を認めない表現に対する拒否であったり、「他者を目的ではなく手段として扱う」ことに対するカント主義的・義務論的な拒否であったりする。というか、「尊厳」概念や義務論の理論は、こうした拒否反応に理論的な正当化を与えるためのものという側面があるはずだ。それに限らず、全ての規範論は、多かれ少なかれ何らかの感情から出発してその感情が意味するところを明白にするために発展したと言ってしまうこともできる。そして、「感情的」な反応だからと言ってそれが的外れなものであったり論理に反するものであるとは限らないのだ。

 

・なんといっても一番よく目につくのが、他人を「感情的」だと言って批判するその人の言動の方が感情的である、という事態だ。

 また、統計や論理的分析を駆使しているていで物事を主張している人であっても、統計の読み取り方が自分のしたい主張の都合のために歪んでいたり、自分が気に食わない主張ばっかりを恣意的に論理的分析の対象にしている、ということがよくある。このような場合、本人は素知らぬ顔をしてるつもりであっても主張の背後にある動悸や欲望があまりに明からさまであり、彼らの「感情」は嫌でもこちらに伝わってきてしまう。

 また、自分は論理的で客観的なつもりであっても、自分の主観や感情を排除するということは困難なものだ。だからと言って「論理的で客観的な言説なんて存在しないんだから何を好きに言ってもいいんだ」という開き直りをすればいいというものではないが、すくなくとも、他人を「感情的」だと批判するときはその批判が自分に跳ね返ってくる可能性についても重々に承知しておくべきだろう。

 

*1:

 

感情と法―現代アメリカ社会の政治的リベラリズム

感情と法―現代アメリカ社会の政治的リベラリズム