道徳的動物日記

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「私が功利主義者ではない理由」 by ジュリアン・サバレスキュ

 

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 昨日に引き続き、Practical Ethics からジュリアン・サバレスキュ(Julian Savulescu)の記事を紹介。

 

「私が功利主義者ではない理由」 by ジュリアン・サバレスキュ

 

 

 功利主義は多くの人々に嫌われていて、中傷されていて、誤解されている道徳理論である。

 あのカントも、功利主義とはイギリスの小売商人の道徳でしかないと論じていた(カントは、自分自身が考えた"物自体"の世界に踏み入れるというずっと高尚な野望を抱いていたのだ)。

"功利主義的な"という形容詞は、いまでは"マキャベリ主義的な"のようなネガティブな意味合いを含んでいる。"目的は手段を正当化する"ということや人々を単なる手段として扱うことや人間の尊厳を尊重しないこと、などなどと関連付けられているのだ。

 たとえば、以下の文章における"功利主義者"という言葉のネガティブな使われ方について考えてみよう。

 

「そんなに功利主義者になるなよ(Don't be so utilitarian.)」

 「その考え方はまるで功利主義者みたいね(That is a really utilitarian way to think about it.)」

 

 誰かが功利主義者のように振舞っていると言うことは、その行動に対して軽蔑的なことを言うことであるのだ。

 1700年代にジェレミーベンサムJeremy Bentham)が功利主義を取り入れた時には、それはラディカルで野心的で、そして歓迎された道徳理論であった。功利主義の核心とは人間の平等であった:1人は1人として数えられ、誰もがそれ以上にもそれ以下にも数えられない。それまでは、王子は貧乏人よりも大きな数として数えられていた。だが、ベンサムのような功利主義者は、全ての人々の幸福(well-being)と生命は平等に数えられると主張したのだ。正しい行為とは、公平に配慮したうえで幸福を最大化する行為である。功利主義の基本的な考え方ははっきりしている…倫理における共通通貨とは人間の幸福である、ということだ。私たちのそれぞれにとって重要であるのは、私たちの生活がどうなるか、ということである。道徳とは全ての人々を平等に扱うことであり、即ち、全ての人々の幸福に平等な配慮をすることであるのだ。

 およそ50年前から、全盛期を迎えていた功利主義は新カント主義やフェミニスト倫理・徳倫理によって追い出されていった。だが、10年ほど前から、ジョシュア・グリーン(Joshua Greene)による先駆的な研究に従って功利主義の復活が始まっている。グリーンの研究は、功利主義者は道徳について合理的で熟慮された決断を下している、ということを示唆するものであった*1。人々が功利主義者であるか否かを検証するために、グリーンはフィリッパ・フット(Philippa Foot)が"トロリーのジレンマ"と呼んだ昔ながらのジレンマを用いた。トロリーのジレンマ(トロッコ問題)はそれ自体が小規模な産業となっているほどだ(デイヴィッド・エドモンズ David Edmondsの最近の著書『太った男を殺しますか?』を参照してほしい)*2。グリーン(と、最近研究を行った他の研究者たち)が行った主要なテストによると、あなたが功利主義者であるかどうかは、暴走するトロリーの前に太った男を突き落として線路の先にいる5人の作業員の生命を助けることは正しいとあなたが考えているかどうかで判定できる。

 2014年の11月に発表された論文で、Guy Kahane、Jim Everett、Brian Earp、 Miguel Farias と私は、太った男を突き落とすという決断そのものは必ずしも功利主義的な心理を反映している訳ではなく、むしろサイコパス的な傾向やエゴイスト的な傾向を反映している可能性がある、ということを示唆するデータを示した*3。太った男を突き落とすこととサイコパス傾向との関係は以前にも他の研究者によって報告されていたが、私たちは既存の研究に更に研究結果を付け加えたのだ。また、相関関係は相当に強いとはいえ、太った男を突き落とすべきだと主張する人の全てが高いサイコパス傾向を持っているという訳では勿論ない…それは一つの要素に過ぎない。

 反対に、そしてより重要なことに…トロリーのジレンマより身近で現実的(familiar)な事例では、5人の生命を救うために太った男は突き落とされて殺されるべきだと考える傾向が高い人々であっても、全体にとってのより多くの幸福についての利他的な配慮を他の人より多く示す訳ではないし、遠く離れた他人に対するより大きな危害を予防するために犠牲を払うことについて他の人より意欲的である訳でもない、ということを私たちは発見した。以下は、初期の原稿で行われていた議論から抜粋したものである。

 

近年の研究の大部分では、より多くの数の人々の生命を救うためには一人の生命が犠牲にならなければならない、という架空の道徳ジレンマに焦点が当てられてきた。このような、犠牲に関する不自然な(far-fetched)シナリオは、倫理に関する功利主義的なアプローチと非功利主義的なアプローチとの間の根本的な対立に新しい光を投げかけることができる、と多くの研究者が想定している。

しかしながら、上記のような犠牲に関する(sacrificial)ジレンマは、功利主義的な考慮が他の対立する道徳的観点と衝突することになる様々な文脈の内の一つでしかない。犠牲に関するジレンマにおける"功利主義的な"判断に置いて、より多くの幸福(good)が考慮されている限り…つまり、功利主義の目的とは、分け隔てなく合計した幸福(welfare)の量を最大化することであるのだから…より多くの幸福を考慮する判断や姿勢を他の道徳的な文脈においても明確にすることと、犠牲に関するジレンマにおける功利主義的な判断とは結び付いている筈だと予測される。

この論文で示されている一連の研究は、犠牲に関する古典的なジレンマにおけるいわゆる"功利主義的な"決断と、より多くの幸福についての純粋に公平な配慮との間の関係とを調査することで、上記の予測を直接的に検証したものである。4つの実験を通じて、姿勢・行動・道徳判断に関する幅広い測定と調査を行うことにより、上記の予測が立証されないことを私たちは繰り返し確認した。より多くの数の人を救うために1人を暴力的に犠牲にすることを支持する傾向は、より多くの幸福に対する功利主義的な配慮の模範的な標識とは関連していない(または、むしろ負の相関がある)のだ。その標識には、人類全体への帰属意識、他の国の人を助けるためにチャリティに寄付すること、発展途上国で助けを必要としている子供を助けるという道徳的義務についての判断、動物の苦痛を防ぐこと、未来の世代の人々への危害を予防すること、自分自身・自分の家族・自分の国の利益を全体のより多くの幸福よりも優先しないという公平な道徳アプローチ、などが含まれている。道徳ジレンマにおいて多数のために少数を犠牲にする判断の功利主義的な正当化がはっきりと言明された時でさえも、その判断とこれらの標識との関連性の欠如は持続していた。対照的に、より多くの幸福に対する配慮を示す数々の標識は、(全てではないが)その多くが互いに相関していたのだ。

実際には、既存の研究において"功利主義的"であると示されてきた反応の多くが、サイコパス傾向・合理的エゴイズム・道徳的な罪を甘目に見る態度において主要である特徴・姿勢・道徳判断と強く結び付いているのであり、それは功利主義の倫理の核心であるより大きな幸福への公平な配慮と劇的に反対しているのだ。

 

 私たちが論じているように、功利主義は広範囲に影響を与える包括的な道徳ドクトリンである。実のところ、功利主義は非常に要求が多い。完璧な功利主義者と呼べる存在になれたことのある人は、存在するとしてもごく僅かであろう。功利主義は、全く知らない他人に対して腎臓の片方を提供することを要求する。他人たちの幸福を最大化するために、自分の人生や家族や睡眠時間を可能な限度まで犠牲にすることを要求する。やろうと思えば、多くの人々の人生…あまりにも多くの人々の人生を改善することがあなたには可能であるのだから、功利主義は実に膨大な犠牲を要求する。人々が自分の財産の大部分と片方の腎臓さえも寄付したとしても、功利主義が要求するレベルの犠牲にはまだ達していないのだ。

 そのため、功利主義に対する批判の一つは、功利主義はあまりにも多くを要求するという点に向けられている。

 功利主義の批判者として有名なバーナード・ウィリアムズ(Bernard Williams)は、TVインタビューにて、現代功利主義の父であるR.M.ヘア(原文ではDick Hare)を激昂させたことがある。ウィリアムズはこう質問したのだ。

 

あなたの乗っている飛行機がクラッシュして、自分の子供1人か他人の子供2人のどちらかしか救えないとしたら、あなたはどちらを救います?

 

 功利主義者なら、自分の子供1人よりも2人の他人を救うべきだ。

 私は功利主義者であると思われがちだが、私は功利主義者ではない。他のほとんど全ての人にとってと同じように、私にとっても功利主義はあまりに要求が多い。

 私は"簡単に行えるレスキュー・帰結主義(easy rescue consequentialism)"と自分で呼ぶ基準に従って人生を過ごそうとしている。自分にとっては小さなコストで他人に対して大きな利益を与えられる行為があるなら、その行為は行うべきである、という主義だ。実のところ、現代の最も偉大な功利主義者であるピーター・シンガー(Peter Singer)も、この"簡単に行えるレスキュー・帰結主義"に訴えることで人々の感情を掴んでいるのだ。シンガーの主張の中でも最も有名なのは、池で溺れている小さな子供の例えである。あなたは、自分の靴を濡らすという被害しか受けずに子供の生命を助けることができる。この場合、道徳は子供を救うことを要求する、とシンガーは主張する*4。しかし、これは簡単なレスキューに過ぎない。功利主義は、7人か8人の生命を救うために自分の生命を犠牲にして臓器を提供することをあなたに要求するのだ。

 対照的に、簡単なレスキュー・帰結主義は緩くて便利な道徳ドクトリンである。

 トロリーのジレンマについて妻と議論したことがある。妻は、自分自身がトロリーの前へと身を投げて5人の生命を救うことが正しい行為である、と言った*5

 妻の言ったことはまさしく功利主義者が行うであろう行為であり、サイコパスやエゴイストが行う行為ではない。

 普通の人たちについてはどうだろう? 彼らも、ある範囲までは功利主義的な傾向を備えいていたのだが、多くの場合にその傾向は一貫しなかった。例えば、私たちの研究では、自己犠牲を含んだジレンマも用いられていた(補足資料にて報告されている)。普通の人たちの大半は、(実行するかどうかには関わらず)自分自身を犠牲にするべきであると答えたが、太った男を突き落とすことは間違っていると考えていた。

 トロリーのジレンマの正解とは自分自身を犠牲にすることだと妻が言った時、それはあまりにも要求が大きいと私は反対した。多大であるが一時的な苦痛を経験することで5人を救えるならそうするべきであるし、指を一本失うくらいならいいだろうが、5人を救うために自分の生命そのものを犠牲にする必要はない。それは行うのが難しくて、簡単なレスキューではないのだ。

 妻の返事は私の道徳観を揺らがせるものであった。「だけど、5人の他人の生命のために自分の生命を犠牲にすることが正しいに決まっているじゃないの」。

 結局のところ、道徳とは公平であることを意味するのであれば、正しいこととは功利主義者であることなのだ。私たちはあまりにワガママであり自分が可愛すぎる、というだけのことだ。

 そして、もし道徳とは公平であるのなら、私や他の人たちは正当化するのが困難な直感を持っていることになる。私は5人を救うために1人を犠牲にすることが正しい行為であると論じたことがある*6。だが、簡単なレスキュー・帰結主義は、5人を救うために自分の生命を犠牲にするべきではないと示す。したがって、道徳とは公平であるとすれば、5人のために自分以外の1人を犠牲にすることも間違っていると判断するべきだ。

 他の人たちは、自分自身の生命を犠牲にすることは正しいが太った男を犠牲にすることは間違っていると考えている。繰り返しになるが、もし道徳とは公平であるのなら、犠牲の重さは釣り合うべきだ。自分自身を犠牲にすることと太った男を犠牲にすることは、両方が正しいか両方が間違っているかのどちらかであるべきなのだ。道徳は、道徳ジレンマに巻き込まれているのは誰であるかということには目を向けないのである。

 もう一人の偉大な功利主義思想家であるヘンリー・シジウィック(Henry Sidgwick)は、一見するとジレンマに見えるこの状況の解答を知っている。行為には二つの理由があり、それらの理由は衝突する可能性がある、とシジウィックは論じた。その二つの理由とは、思慮分別(Prudence)と道徳である。思慮分別とは自分にとって何が良いか(自己利益)についてのことであり、道徳とは公平に考慮したうえで全員にとって何が良いかについてのことである。この二つを釣り合わせることができる明白な方法は存在しない、とシジウィックは論じている。

 私の場合では、どうやら私は道徳よりも思慮分別の方により重きを置いているようだ。他方で、他の人たちは…彼らは非・帰結主義的な道徳観を持っているのかもしれないが…道徳の方により重きを置いているようである。

 何にせよ、私は線路の上に立っている5人のために自分自身の生命を犠牲にはしないだろう。しかし、もしかしたら私は自分がなろうと思えればなれる筈の程には道徳的になっていないだけかもしれない。かつてピーター・シンガーが言ったように、道徳は常に簡単であるという訳ではないのだ。あるいは、私たちは道徳が要求する行為をいつもいつも行い損ねているのかもしれない。

 もしかしたら、私が功利主義者ではない理由とは、私が充分に善人でないからというだけのことなのかもしれないのだ。

 

 

 

f:id:DavitRice:20161023150237j:plain

 

 

 

*1:訳注:グリーンの研究の詳細に関する記事

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

 

太った男を殺しますか? (atプラス叢書11)

太った男を殺しますか? (atプラス叢書11)

 

 

*3:‘Utilitarian’ judgments in sacrificial moral dilemmas do not reflect impartial concern for the greater good

*4:訳注:池で溺れている子供を救うことが道徳的に求められるなら、飢えのために死にそうになっている外国の子供を同程度の労力で救える場合にもその子供を救うことが道徳的に求められる、子供が目の前にいるか外国にいるかは道徳的には関係ないのだから…という風にシンガーの主張は続く

*5:訳注:実際には、太った男が登場するジレンマ(歩道橋問題)では、ジレンマに答える人はトロリーを止められるほど太っておらず、太った男を突き落とす以外にトロリーを止める手段はない、という設定である

*6:

davitrice.hatenadiary.jp

環境倫理と動物倫理についての論文を雑に紹介

davitrice.hatenadiary.jp

 

 

 昨日に紹介したこの記事に関連して、倫理学者のゲイリー・ヴァーナー(Gary Varner)が The Oxford Handbook of Animal Ethicsに寄稿している記事「環境倫理、狩猟、動物の位置付け(Environmental Ethics, Hunting, and the Place of Animals)」を参考にしながら、環境倫理と動物倫理との関係について軽く紹介したい。私は基本的に環境倫理よりも動物倫理の文献を主に読んできており、今回のブログ記事も前者より後者に対して好意的な紹介になっているし環境倫理に対してフェアであるとは言えないかもしれないが、特に日本で出版されている環境倫理の教科書は動物倫理に対してかなり批判的だったりアンフェアな記述をしているものも多い気がするので、まあカウンターとしてこういう記事があってもいいだろう。

 

 

The Oxford Handbook of Animal Ethics (Oxford Handbooks)

The Oxford Handbook of Animal Ethics (Oxford Handbooks)

 

 

www.oxfordhandbooks.com

 

 

 一口に「環境倫理学」と言っても、"環境"や"自然"と言われるもののうち何がどんな理由で大切であり、何が道徳的な配慮の対象に値したり本質的な(Instrinsic/内在的な)道徳的価値を持つか、ということについては様々な見解がある。ヴァーナーは、環境倫理学の主な立場を5つに大別している。

 

・人間中心主義(Anthropocentrism):人間だけが本質的な価値を持ち、他の動物や植物や生態系は全て人間にとっての道具的価値しか持たない、という考え方。

 

・感覚中心主義(Sentientism):人間を含んだ感覚のある動物だけが本質的な価値を持ち、植物などの感覚を持たない生き物と、生物種や生態系などは感覚のある動物にとっての道具的価値しか持たない。

 

・生命中心的個体主義(Biocentric Individualism):感覚の有無を問わず生き物は動物も植物も本質的価値を持つが、生態系や生物種は道具的価値しか持たない*1

 

・多元的ホーリズム(Holism, pluralistic):個々としての生き物たちと、その生き物たちが集まった生物種や生態系などの両方が、いずれも本質的価値を持つ。

 

・純粋なホーリズム(Holism, pure):生物種や生態系という"全体"のみが価値を持つのであり、人間も他の動物も植物も個々としては本質的価値を持たない。

 

 学問としての環境倫理学アメリカで始まったようなものであるが、そのアメリカの環境倫理学の元祖的な存在であるアルド・レオポルド(Aldo Leopold)はホーリズムを主張していた。ホーリズム環境倫理学の中でもメジャーな立場であり、後の時代の代表的な環境倫理学者であるJ・ベアード・キャリコット(J Baird Callicott)やホームズ・ロールストン3世(Holms Rolston III)やマーク・サゴフ(Mark Sagoff)も多かれ少なかれホーリズム論者であるようだ*2。人間の利益と比べた上での環境や生態系の価値をどれだけ重く見積もってどれだけの強さで主張するかという点では論者によって差があるだろうが、ともかくこの人たちのみんなが生態系とか生物種とか生物多様性といったものに道徳的な価値を見出していて、人間中心主義・感覚中心主義・生命中心的個体主義を批判している。

 

 感覚中心主義的な生命倫理学はいわゆる「動物の権利論」とか「動物倫理学」であるが、それも、ピーター・シンガー(Peter Singer)のような功利主義者たちの代表されるような「動物の福祉(Animal Welfare)」を重視した論と、トム・リーガン(Tom Regan)のようなカント主義者に代表されるような「動物の権利(Animal Rights)」論とに分別できる。

 なお、世間的な意味においては、「動物の福祉/動物の権利」という二分法には「畜産や動物実験などで動物を利用して殺害することは認めるが、その過程における動物の苦しみを減らそうとする立場/畜産や動物実験などを一切認めずに廃止しようとする立場」という風なイメージがある。ヴァーナーは、現在のアメリカの獣医学や農学などの学問のカリキュラムでは、"動物の福祉主義者"たちは"私たち(獣医学者や農業従事者)"として好意的に扱われる一方で、"動物の権利主義者"は"私たち"と対立する危険で非科学的で狂った"彼ら"だとして扱われていることを指摘している。

 だが、少なくとも哲学的な議論における「動物の福祉/動物の権利」論は、どちらも伝統的な倫理学理論に連なる考え方として扱われているし、私たちの社会に共有されている道徳から引き出すことのできる考え方であるとも扱われている。実際のところ、倫理学的な意味での「動物の福祉」も「動物の権利」論も主張の内容は共通しているところが多くて、たとえば「動物の福祉」論者もその大半は畜産という習慣は殆どの場合には倫理的に不当であって撤廃すべきだと主張していたりする。では「動物の福祉/動物の権利」論の主な違いは何かというと、功利主義としての「動物の福祉論」では個々の動物の生命や道徳的地位を絶対的なものとして扱わず、最大多数の最大幸福のために個々の動物の生命や幸福を犠牲にすることを認める場合がある。他方で、「動物の権利」論では功利主義的な計算の元でも犠牲にならない"切り札"としての"権利"を動物に認めている。具体例を挙げれば、動物の福祉論者はごく少数の動物が実験動物として犠牲になれば大多数の人間と動物の生命が助かったり病から解放される、という場合には(実験において不要な苦痛を引き起こさないことを前提として)動物実験を認めるが、動物の権利論者はそれも認めない、といった感じである*3

 

「感覚中心主義者」としての「動物の福祉/動物の権利」論はホーリズム的な環境倫理学とは相性が悪く、ホーリズム論者は人間中心主義者と一緒になって感覚中心主義を批判したりする。ホーリズム論者による感覚中心主義に対する主な批判とは、個々の動物に道徳的地位を認めていたら生態系や生物多様性が守れずに破壊されてしまう、というものだ。マーク・サゴフは、動物倫理の考え方を実践するとなると、人間は捕食動物に傷付けられる被捕食動物を苦しみから救うために自然界に大規模な介入をしなければいけなくなる、と批判した。自然界の全てを人間の管理する農場にしてしまい、肉食動物たちに大豆で作った肉を与えることを是とする考え方が動物倫理なのだ、とサゴフは主張する。自然や生態系の秩序のためには動物が犠牲になることを認めるべきなのだ、とうのがホーリズムを唱えるサゴフの主張である。

 サゴフと同様に、ベアード・キャリコットも動物倫理を強く批判する。シンガーの有名な著作の題名は「動物の解放」であるが、現在人間たちに飼われている家畜を本当に解放するとなると自然界は滅茶苦茶になるし、生物多様性は大いに乱れて、家畜たち自身を含めた多数の生物種が絶滅するであろう、というのがキャリコットの主張である。屠殺を禁止して家畜を飼い続けるとしても家畜は増えすぎて環境に与える負荷が膨大なものになるだろうし、家畜の繁殖を止めさせて徐々に絶滅させることを道徳的な行為だというのならそれはいかにも皮肉である、とキャリコットは動物倫理を批判する。動物の道徳的地位はその動物の属している生物種によって変わる(絶滅危惧種の動物の道徳的地位は高いし、家畜の道徳的地位は低い)、人間は生態系を維持するために自然界への適切な介入を行って絶滅危惧種を守るべきだ、というのがキャリコットやその他のホーリズム論者の主張だ*4

 上述のような議論に対して、キャリコットの主張する未来予想図は個体としての動物の道徳的地位を重視する感覚中心主義者の主張を誤解している、とヴァーナーは批判している。感覚中心主義者たちは「種」としての家畜の存続を気にしているのではなく「個体」としての家畜たちそれぞれの幸福に配慮をするのだから、家畜に苦痛や死をもたらすような行為や政策は本末転倒となるので実行しないのだ。

「感覚中心主義は、捕食動物に傷付けられる被捕食動物を苦しみから救うという行為を実行することを要求するはずだ」という批判に対しては、ピーター・シンガーなどは「自然に対するそのような介入は、(感覚中心主義の)原理からすれば一見すると倫理的な行為に見えても、実行した際にはより多くの危害を生じてしまう可能性が高い。だから、感覚中心主義者であっても、そのような行為は実行しない」という風に反論している。

 

  キャリコットや環境倫理学者たちによる動物倫理に対する批判でも特に主となるのが、動物倫理を認めると動物を殺害する狩猟が行えなくなり、増え過ぎた草食動物の頭数管理や絶滅危惧種を狙う捕食動物の排除なども行えなくなるので、自然保全が行えなくなり生態系が破壊される、というものだ。ヴァーナーも、特にこの論点に対して細かく反論を行なっている。

 ヴァーナーは、狩猟という行為を「セラピー的狩猟(Therapeutic Hunting)」「生存のための狩猟(Subsistence Hunting)」「スポーツ・ハンティング」の三つのカテゴリに大別する。セラピー的狩猟とは、対象となる生物種の個体たちの世代を超えて合計した福祉を守るための狩猟か、生態系の健康や秩序を守るための狩猟のことである(前者と後者を同時に兼ねる場合もある)。「生存のための狩猟」は食料確保など生きるために不可欠な狩猟である。「スポーツ・ハンティング」のカテゴリには、宗教的儀式や文化的慣習などのための狩猟も含まれている。ただし、現実には狩猟という行為も複雑であり、ある場面での狩猟は必ずこの三つのカテゴリの内のいずれか一つに当てはまるという訳ではない。例えば、スポーツとしての狩猟を楽しむハンター達の行為がセラピー的狩猟の役割を兼ねている場合も多い。

 動物倫理は必ずしも狩猟を否定しない、ということがヴァーナーの主張だ。特に、功利主義的な動物倫理がセラピー的狩猟を原理的に否定しないという点は明白だ。例えば、ある地域で鹿が増え過ぎて、その結果として鹿たちの生息地から食料となる草木が壊滅して大量の頭数の鹿たちが飢えに苦しむという状況を、セラピー的狩猟は未然に防ぐ場合がある。自然に介入して動物を殺害することが、結果的にはより多くの動物たちの不幸を減らすことになるのであれば、功利主義や「動物の福祉」論は狩猟を否定しない。ただし、一口に草食動物たちと言っても種によって繁殖能力や食べる量が違うという点、同じ生物種であっても生息している地域によって事情は全く異なるという点など、現実には様々な変数が存在しており、最終的に動物たちの不幸を増やすことになるか減らすことになるかを判断するのも非常に複雑で難しい。

 他方で、「動物の権利」論を主張するトム・リーガンはそもそも反功利主義的な議論を行っており、動物たち全体の幸福を結果的に増やすか否かを問わず、動物の殺害を否定する。なので、リーガンの議論ではセラピー的な狩猟も否定されることになる。

 生物多様性を守ったり絶滅危惧種を守るための狩猟も、その行為が長期的な観点から見て人間と動物たちを含めた全体の幸福の量を増やすのなら、功利主義からは認められる。ただし、生物多様性絶滅危惧種そのものに本質的な価値はない、という点は変わらない。

 

 環境倫理学者は物事の「本質的な価値」についての直感主義的な見方を採用することが多いが、倫理学の議論において道徳的な直感にアピールするのは不適切だ、というのもヴァーナーの主張である。また、ホーリズムこそが適切な環境倫理学であると主張する環境倫理学者の多くは、「自然保全にとって重要な物事」と「道徳的な観点からして最終的に重要な物事」とを混同している場合が多い、というのがヴァーナーの見方だ。

 

 

 以上、ヴァーナーの議論をかなり大雑把にまとめてしまった。尚、ヴァーナーは他にも『動物の権利活動家は環境主義者になれるか?(Can Animal Rights Activists Be Environmentalists?)』という論文を発表しており、同じ題名の章が含まれた単著も出版している。

 最近では、動物園反対論で有名なデール・ジェイミソン(Dale Jamieson)がCambridge Applied Ethicsシリーズで環境倫理学の入門書を担当していたりと、環境倫理学内における動物倫理学の扱いも良くなっているような気がする。

 

 

In Nature's Interests?: Interests, Animal Rights, and Environmental Ethics (Environmental Ethics and Science Policy Series)

In Nature's Interests?: Interests, Animal Rights, and Environmental Ethics (Environmental Ethics and Science Policy Series)

 

 

 

Ethics and the Environment: An Introduction (Cambridge Applied Ethics)

Ethics and the Environment: An Introduction (Cambridge Applied Ethics)

 

 

 

 

*1:生命中心的個体主義は環境倫理学のなかでも特にマイナーな立場であるらしい

*2:私はだいぶ前にレオポルドの本を読んだりキャリコットとロールストンの論文を読んだくらいで、その内容もあまり覚えていない

*3:ただし、ヴァーナーによると、トム・リーガンは別として、倫理学的な動物の権利論者の多くも"動物を犠牲にする制度の完全な撤廃"を必ずしも求めているようではなく、狩猟なども認めているらしい。

*4:ほかにも、菜食主義は肉食よりも効率が良いために人間の数が増えすぎて結果として自然破壊につながる、などともキャリコットは主張している

「トロッコ問題:殺すことと死ぬに任せることとの間に道徳的な違いはあるのか?」 by ジュリアン・サバレスキュ

blog.practicalethics.ox.ac.uk

 

 Practical Ethicsに掲載された、倫理学者のジュリアン・サバレスキュ(Julian Savulescu)の記事。レクチャーとして口頭で発表した内容の書き下し文?であるようだ。英語圏の倫理学ではいわゆる「トロッコ問題」についてよく研究されているようで、Trolleyology(トロッコ学)というジャンルも出来ているくらいなのだが、それに関係する話題である。

 

「フランシス・カムのトロッコ問題、殺すことと死ぬに任せることとの間に道徳的な違いはあるのか?」 by ジュリアン・サバレスキュ

 

 哲学者のフランシス・カム(Frances Kamm)は、一連の著作で、5人の無実の人間を救うためには1人の無実の人間を殺さなければならない、という条件がある万華鏡のように多彩な状況を検討した。一部の状況では5人を救うために1人を殺すことは認められるが、別の状況では5人を救うために1人を殺すことは認められない、と彼女は論じた…あるいは、彼女の直感はそう反応している。彼女は、認められる殺しと認められない殺しとを区別する、道徳的に関連性のある考慮要素だと彼女が見なしている物事を指摘している。

 殺しが認められないケースの中でも最もわかりやすく、彼女やその他の多くの人たちが明らかな直感を抱くのは、"臓器移植(Transplant)"のケースだ。

"臓器移植"では、臓器に問題を抱えた5人を救うために、医者が1人の無実の患者を殺してその人の臓器を収集する。これはジョン・ハリス(John Harris)の"臓器くじ"の事例でもある*1

 しかし、これはダーティな事例だ。"臓器移植"は多くの直感を招き呼ぶ。例えば…医者は患者を殺すべきではない、臓器に問題がある人たちは年老いているが殺されて臓器を提供する人は若い、臓器に問題のある人たちは自分の病気に何らかの責任があるだろう、この行為はやがてより幅広い殺人が行われることになる滑り坂へと足を踏み出すことだ、この行為は臓器提供者として選ばれる可能性を人々に想起させて恐怖を撒き散らしてしまう、などなど、その他いろいろ。

 "臓器移植"を改良したケースが、"流行病(Epidemic)"である。

 

 流行病。人間を苦しませる、コントロール不可能な流行病を想像してみよう。この流行病は非常に伝染りやすく、やがて全ての人類がこの病気にかかってしまう。この病気にかかった人は意識を失う。6人中5人は意識を回復することもなく数日のうちに死んでしまう。6人中1人には有効な免疫反応が起こる。免疫反応が起こった人たちは数日経つと回復して、その後は正常な生活に復帰する。医者は患者が病気にかかった二日目に検査を行うことができる。二日目にはまだ患者は意識を失っているが、医者は、患者が効果的な抗体反応を起こしているか死ぬ運命にあるかを知ることができる。この病気の治療法はたった一つしか存在しない。免疫反応を起こした6人中1人に対して、その人が病気にかかった二日目…つまり、まだ意識を失っている間に、その人の体から血液を全て採取して抗体を抽出することが医者には可能であるのだ。免疫反応を起こしていない5人を救うのに充分な量の抗体が存在するが、血液を採取された人はその過程で死ぬことになる。抗体を抽入された5人は正常な生活に復帰するし、後の人生でも抗体が流行病から防護してくれる。

 もしあなたが"流行病"の事例に巻き込まれたとすれば、以下の二つの方針のうちどちらを支持するだろうか?第一の方針は"行動しない(Inaction)"であり、何も行動が行われない。世界人口のうち6人に1人が生存する。第二の方針は"抽出(Extraction)"で、1人を殺すが他の5人を救うことになる。誰が抗体の生産者になるか、ということを予測する方法は存在しない。あなたが抗体反応を起こすことのできる6人中1人になるか、抗体反応を起こすことができず抗体血清が無いと死んでしまう6人中5人の内の一人となるかを知ることはできない。

 シンプルに言うと、あなたは自分が生き延びることのできる側になるか治療が無いと死んでしまう側になるかがわからないのだ。あなたが確かに知っているのは、あなたは流行病にかかって意識不明になるということだけだ。あなたは回復するかもしれないし、意識を失っている間に死ぬかもしれない。"行動しない"は、6分の1の確率で生存者になる可能性をあなたに与える。"抽出"ならその確率は6分の5だ。

 帰結主義者にとっては簡単な問題だ。"抽出"は5倍の数の人命を救うことができるのだから、その方針が採用されるべきである。だが、ロールズ式の無知のヴェールの下、自分が免疫適格であるか免疫不全であるかがわからない状況で、あなたはどちらの方針を選ぶだろうか?

 私なら"抽出"を選ぶ。 他の人と同様に私も意識を失うことが決定されているとしても、"抽出"の方針なら6分の5の確率で目が覚めて正常な生活に戻ることができるのだ。この方針はカント主義的な契約論を根拠としてでも採用されるだろう。無知のヴェールの下での合理的な自己利益によって採用されるだけでなく、普遍的な法則として意志されることもできるのだから。

 帰結主義と契約論が収束する。他の道徳理論でも"抽出"が選ばれるだろう、と私は考える。

"流行病"における"抽出"は5人を救うために1人を殺す道徳問題の中でも最もハードなケースであるのだから、"抽出"の方針が認められる(むしろ、"抽出"の方針を採用することが道徳的な義務である)とすれば、少なくとも帰結主義と契約論に基づけば、5人の無実の人間を救うために1人の無実の人間を殺す全てのケースが認められることになるのだ。

 多くの人が持っている直感とは相反しているのにも関わらず、殺すことと放置して死なせることとの間に道徳的な違いは存在しないのである。

 

 

 

太った男を殺しますか? (atプラス叢書11)

太った男を殺しますか? (atプラス叢書11)

 

 

 

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「文化相対主義と女子割礼」by ドミニク・ウィルキンソン

blog.practicalethics.ox.ac.uk

 

 今回紹介するのは、イギリスの Practical Ethics というサイトに掲載された、倫理学者のドミニク・ウィルキンソン(Dominic Wilkinson)による記事。

 

「文化相対主義と女子割礼」by ドミニク・ウィルキンソン

 

 2014年2月、イギリスの Guardian誌は女子割礼(女性器切除/ female gential mutilation, FGM)を終わらせるためのキャンペーンを開始した*1。 Guardian誌のキャンペーンは、イギリスに暮らすかなりの数の若い女性がイギリスでは違法である女子割礼の慣習を経験しているという証拠に対応したものである*2。世界的に見れば、現在生きている女性のうち1億2500万人以上に何らかの形の女子割礼が行われたことがある*3

 女子割礼は、ある文化では禁止されているが別の文化では許可されているという慣習の古典的な例である。歴史家のヘロドトスは、自分たちの死に関する対照的な慣習を持つ二つの文化について書いている*4古代ギリシャ人たちは死者を火葬していたが、カラティアのインド人たち(Callatian Indians)は病で死んだ父親の死体を食べていた。どちらの文化の人たちも、相手の文化が死者を扱う野蛮なやり方を知った時には戦慄した。 

 上述のインド人とギリシャ人との間におけるような対照的な世界観が存在することは、道徳に関する特定の観点を支持するものだと考えられる場合がある…つまり、文化相対主義である。文化相対主義は、何が正しくて何が間違っているかということについては文化によって様々に違うという点や、物事の基準は時と場所によって様々に違うという点に注目する。そして、普遍的な基準は存在しないのであり、したがって別の文化の慣習を批判することは間違っている、と論じる。文化相対主義によると、女子割礼は正しくもなければ不正でもない。西洋の基準からすれば不正であるが、別の社会の価値観では許可されるものかもしれない。

 文化相対主義に対しては数々の反論が存在する。哲学者のジェームズ・レイチェルズが効果的かつ説得的に論じたように、文化相対主義を支持する基礎的な議論には論理的な欠点がある*5。文化相対主義の結論はその前提から導かれないのだ。更に、相対主義は、ナチスドイツによる反ユダヤ主義を批判することをできなくしてしまうし、社会が時代を通じて道徳的に進歩した(例えば、奴隷制の廃止など)と考える理由も無くしてしまう。それは全く疑わしいことだ。

 しかしながら、女子割礼の議論に関係する、別の種類の文化相対主義も存在している。女子割礼(または、その他の、社会によって多様であって議論を起こす慣習)について議論する時に起こる疑問の一つは、特定の慣習の「文化的な価値」に対して私たちはどれほどの重みを与えるべきか、ということだ。ある文化では、女子割礼は若い女性たちにとって重要な通過儀礼となっている*6。イギリスのキツネ狩りイヌイットによるアザラシ狩り・Metzizah B’Peh(男子割礼の一種で、割礼を行う過程で口を使った吸引を含み、ヘルペスという性病にかかる危険がある)・議会制民主主義に世襲貴族を含むこと、などを支持する議論でも「文化的な価値」が登場する場合がある*7。「文化的な価値」とは、特定の文化は、その文化が長い時代にわたって実行されてきたこと・歴史的な文書や芸術の造形にその文化が含まれていること・その文化は文化的アイデンティティに関連していること、などの理由に基づいた価値を持っている、という考え方だ。私たちが女子割礼やキツネ狩りやMetzizah B’Pehを禁止すれば、何らかの文化的な価値が失われてしまうのである。

 倫理的な議論において、文化的な価値という要素にはどれ程の重要さが与えられるべきだろうか?文化相対主義によれば、私たちは他の要素と同じくらいに文化的な価値にも重きを置かなければならない。女子割礼という慣習がそこの文化にとって重要であるのなら、女子割礼は正当化されることになる。そこの文化が、例えば女性の権利と比べて、伝統に対してどれほどの重みを与えているのかということだけが問題となるのだ。しかし、文化相対主義は間違っているという点については既に言及した。第二に、より説得力があるのは、私たちは文化的な価値に対して"いくらかの"重みを与えるべきだという考え方だ。この考え方では、ある特定の慣習が認められるかどうかはその慣習がそこの文化にとってどれほど重要であるか、ということに依るかもしれない。場合によっては文化的な価値が倫理的な考慮を上回ることもあるし(アザラシ狩りに関するカナダの法律がそうであるように思えるように)、別の場合には上回らない*8。だが、第三の道も存在する。私は、倫理的な議論において文化的な価値には "一切の" 重みを与えるべきではない、と考えている。キツネ狩りや女子割礼やアザラシ狩りや貴族について賛成するか反対するための様々な道徳的理由の重みを合計する際に、文化的な価値の出番は全くないのだ。なぜこのような考え方をしなければならないか?道徳は相対的ではないとしても、文化は相対的である。文化的な価値は場所や時によって変わる。文化的な価値は不変ではないのだ。ある文化に価値があるかないか、どのような価値を与えられるかということは、まったく偶発的である。更に、文化慣習を意図的に変えることは十分に可能である。私たちを祖先と結びつける文化慣習の一部を残しながら、別の文化慣習を否定することは可能である。Sarah Tenoiは、彼女やその他のマサイ族の女性がこれまでの通過儀礼の代わりとなる通過儀礼を新しく発展させたことをガーディアン誌の記事に書いている*9。その新しい通過儀礼はこれまでの伝統的な儀式の要素を全て含んでいるが、性器は切らない。同様に、男の幼児がヘルペスにかかるリスクを排除するように文化的慣習を調整することも可能なのである*10

 文化は変えられるという点を認めても、議論が終わる訳ではない。キツネ狩りや女子割礼や世襲貴族制を認めるための説得力のある理由は他にも存在するかもしれない(私は疑わしいと思っているが)。しかし、特定の慣習の道徳性について考えるとき、文化的な価値は何ら重要ではないのだ。

 

 

 

 

倫理学に答えはあるか―ポスト・ヒューマニズムの視点から―

倫理学に答えはあるか―ポスト・ヒューマニズムの視点から―

 

 

「猫戦争:自然保全の道徳的汚点」 by ウィリアム・リン

www.huffingtonpost.com

 

 本日紹介するのは、環境や動物に関する倫理や政策を研究しているウィリアム・リン(William Lynn)が英語版ハフティントンポストに発表した記事。

 

natgeo.nikkeibp.co.jp

 

 上の記事にて紹介されている、『Cat Wars』という著作とそれを巡る議論に関する記事で、リン氏は『Cat Wars』にかなり批判的。記事の中盤はちょっと陰謀論っぽいところもあるし、訳者である私は批判の対象となっている『Cat Wars』を読んでいないのでリン氏の議論がフェアであるかどうかも判断できないのだが、後半の環境倫理と自然保全に関する議論は日本ではなかなか紹介されにくいものであると思うので、訳して紹介することにした。

 

 

「猫戦争:自然保全の道徳的汚点」 by ウィリアム・リン

 

『猫戦争:可愛い殺し屋がもたらす悲惨な結果(Cat Wars: The Devastating Consequences of a Cuddly Killer)』と題された最近の本にて、著者のピーター・マラ(Peter Marra)とクリス・サンテラ(Chris Santella)は、屋外の猫たち(野生であるか人に懐いているか、飼い主がいるかいないかに関わらず)に潜んでいる恐ろしい脅威を人々に喚起しようとしている。著者たちの大局的な結論とは、私たちは生物多様性を守るために猫に対する戦争を"いかなる手段を取っても (by any means necessary)"実行する必要がある、というものだ。残念ながら、この本の科学的推論と倫理的推論には基本的な問題が存在している…猫と生物多様性を巡るより辛辣で規模の大きな議論に例示されているような問題だ。

 

科学、猫、生物多様性

 

 生物多様性の危機は確かに存在しているし、現在は人間が地球環境に対して集団的に与えてきた負荷のために引き起こされた6度目の大絶滅が起こっている最中だ*1。海で閉ざされた太平洋の島々のように、一部の地域における生態系は外来種の捕食者に対して"敏感"であることに疑いはないし、猫は生物多様性にネガティブな影響を与えることが可能である。これらの事実を否定することは、地球が平面であると主張したり気候変動は起こっていないと主張するのと同じことだ。

 それでもなお、猫は地球を破壊する殺害兵器である、という自然保全主義者(conservationists)たちの主張の核心は間違っている。マーク・ベコフ、バーバラ・キング、ピーター・ウルフのような人たちは…いずれも、人間と動物との関係を明敏に観察してきた研究者だ…『猫戦争』の研究における事実面と分析面の具体的な問題点を指摘している*2。その問題点としては、猫の実際の頭数についての実証研究の欠如、猫による捕食率の過剰な推定、疑わしい統計、改竄された研究を扱うことの失敗、猫がより大きな捕食者によって野生の生息地から排除されること(を想定していないこと)、野良猫を捕まえて"シェルター"で殺してきた数十年間の歴史、より効率的な非致死的政策の反応が考慮されていないこと、などが含まれている。これらの論点の詳細な議論については、2012年の「屋外の猫:グローバルな観点からの科学と政策」会議のオンライン動画を見てほしい*3

 ここで私が注目しているのはさらに大局的な図であり、科学的な議論の構造そのものだ。

 科学的な主張の背後に論理的な推論が存在していることは、データを収集する方法・仮説の検証・そして結果の分析と同様に、健全な科学の基礎となるものである。マラとサンテラと彼らの支持者たちが屋外の猫について主張を行う際、彼らはまさに論理的な推論という点でもがいているのであり、科学の基本的な教義を侵害しているのだ。彼らは、特定の箇所における地域的な研究が世界全体に通じるかのように過剰に一般化している。論理学でいう「合成の誤謬」(世界中の全ての箇所は、猫や野生生物が調べられたことのある環境と同様である)と「早急な一般化」(この箇所の野生生物にとって猫が問題であるなら、全ての箇所において猫は問題であるはずだ)が含まれているのだ。

 この論理的な問題は、彼らによるデータの解釈にも影響を与えている。個々の事例研究はその地理的な文脈から抜き出されて抽象化されているが、これは文脈を無視した引用を行うことと同様である。著者たちは、アメリカ合衆国鳥類保全協会による「猫は屋内に」キャンペーンなどと同様に、地球の地表全てが太平洋の小さな島々であるかのように表現している*4。その結果、屋外の猫が与える影響が歪められて人を不安にさせる形で表現されるのだ。

 猫と生物多様性についての個々の事例研究が正しかったとしても、その研究結果を世界全体に反映させることは間違いであるということには留意するべきだ。彼らの大げさな警告(alarmism)に対しては、あまりにも多くの変数が存在している…生物多様性に対する人間による略奪行為(猫による行為よりも遥かに重大である)、猫が発見される生態学的文脈の多様性、個々の猫の性格と行動の違い、など*5。猫に対する戦争を支持する人たちはあらかじめ決定された結論を作り上げて、蓄積されてきた事例研究の中から都合の良いものを選ぶことで自分たちの主張を補強しているのだ。

 

倫理と、猫に対する戦争

 

  彼らの研究の倫理面に目を向けると、二つの問題点がすぐに見つかる。その一つは『猫戦争』という著作を生み出した研究の公正さに関するものである。二つ目は、猫に対する世界的な戦争の倫理的正当化に関するものだ。まず、研究の公正さという問題から論じよう。

 猫に関する様々な研究を行った人たちの大半がその研究を公正さを保って行ったことを疑う理由はない。確かに、近隣の猫を自分で毒殺しようとしたり他人が毒殺することを推奨した科学者のニコ・ドーフィンやジャーナリストのテッド・ウィリアムズのような、反・猫活動家(anti-cat advocate)の邪な例も存在する*6。しかし、彼らは例外だ。

 更に、学術的著作の著者たちは、その著作に費やした時間と労力を補償されるべきだ。その補償とは、一般的には、コストをカバーするための立替金や補助金、研究と執筆に専念するために他の仕事の時間を買い取ること、学術的な成果に基づく給料の増加、そして著作の販売から得られるロイヤリティなどだ。これらの補償の重要な点とは資金元の透明性であり、その透明性は経済的・イデオロギー的な利害の政治的争いをコントロールするために必要なのである。

 猫に関する学術的著作の著者の片方がトラベルライター兼マーケティングコンサルタントであるというのは、一般的なことではない*7。『猫戦争』のストーリーを成り立たせるために使用されたインタビューの大半を行ったのはサンテラである。猫と生物多様性の問題についてサンテラが非常にコミットしたことがない限り、サンテラがマラと共作したことについて私は疑問を抱かざるを得ない。サンテラは彼の時間と労力の対価が支払われたゴーストライターなのか?だとすれば、誰がサンテラに支払ったのか?

 スミソニアン博物館は「ピーター・マラの著作はスミソニアンの従業員の義務の一部として書かれたものはないし、スミソニアンが資金を供給したプロジェクトでもない」と明白な声明を出している。この情報は、情報公開法に基づいた要求への返答として公開されたスミソニアン評議会のオフィスからのレターに掲載されたものである。マラはスミソニアン国立動物園の渡り鳥研究センターの所長であるが、著作の題材とは明らかに関係のある役職であるし、おそらく資金や労力も関連しているだろう*8。だから、この点についてスミソニアン博物館がマラから距離を取っているのは奇妙なことなのだ。

『猫戦争』という著作は特定の観点を正当化するために科学の外見を装った党派的なレトリックの一つとして構想されて資金を得た著作であるのか、という疑問を投げかけることは正当であるだろう。この著作を生み出すために、誰がどんな目的で資金を用意したのか?『猫戦争』を出版することに同意した時、プリンストン大学はこの著作を巡って起こり得る利益の衝突に関する問題について充分に知っていたのだろうか?

『猫戦争』に関するこのような問題についての情報開示は行われていないので、私はこれらの疑問への答えを持っていない。著者たちはそのような情報開示は必要ないと主張するかもしれないし、彼らが正しい可能性もある。私や他の人たちも、この点に関する理由や証拠について開放的であるべきだ。だが、上述の奇妙な状況は経済的・イデオロギー的な利害に関する疑問を引き起こすものだし、それは提出されて答えられるべき疑問なのだ。

 

倫理的な(間違った)正当化

 

『猫戦争』のさらなる問題点とは、猫に対する戦争を"いかなる手段を取っても"…明らかに、狩り・毒・罠やその他の見境のない致死的な方法による"管理"を意味している言葉だ…実施することについての一貫した倫理学的分析が不在であることだ。『猫戦争』の中には、倫理学への短い言及がまばらに書かれてはいる。その大半はアルド・レポルドの「土地倫理」に賛意を示しているものであり、J・ベアード・キャリコットやホームズ・ロールストンと行った環境哲学者たちの著作からの断片的な抜き出しと共に並べられている*9。レオポルドは、倫理とは私たちが生存する能力を高めるために進化した社会集団の特徴である、と仮定した。私たちの福祉(well-being)は自然界…レオポルドが"土地(the land)と呼んだもの…にも依存しているのだから、自然とも倫理的な関係を持つ必要がある、とレオポルドは考えたのだ。

 レオポルドは自然のことを"土地"として集合的に語ったために、生態系の道徳的価値を強調することが彼の思想の主要な解釈となっている。倫理学の用語では「環境中心的全体論ホーリズム)」と呼ばれるものだ*10。自然には生態コミュニティ…頭数、生物種、そして生態系など…のレベルに本質的(内在的/instric)な価値が存在する、というのがこの言葉の意味だ。対照的に、個々の生き物には本質的な価値が存在しない*11。個々の生き物たちは、生体コミュニティの一部である限りにおいて道徳的な価値を持つのである。ハンマーはそれ自体は道徳的価値を持たないが、人間という本質的な価値を持つ存在のために家を建てることに使用することができるという点で価値を持つ、ということと同様である。この観点は、反猫派の自然保全主義者たちが屋外の猫の殺害を快活に正当化することができる理由でもある。彼らの道徳的観点からすれば、猫は大して価値を持たない…あるいは、全く価値を持たない。これこそが、伝統的な自然保全の標準的なイデオロギーなのだ*12。  

 
悲劇的な善(Sad-Goods)

 

 猫に対する戦争を正当化するために、著者たちはレオポルドの土地倫理だけではなく動物と環境の倫理についての私の研究も利用している*13。それは、アメリカ合衆国野生動物庁によるアメリカフクロウや北マダラフクロウの管理という文脈に関するものだ*14。生息地の消失という重篤な危険のために、北マダラフクロウはその領土を奪ったアメリカフクロウよりも遥かに深刻な絶滅の危機に晒されている。アメリカフクロウの致死的なコントロールを考えた野生動物庁は、フクロウを殺すことによって生じる倫理的な問題を検討するため、アメリカフクロウ・ステークホルダー委員会(Barred Owl Stakeholder Group)を設置した。私は倫理学者としてアドバイスを行い議論を促進するために、委員会に雇われたのだ。倫理的な問題について徹底的に審査した末に、アメリカフクロウの影響を和らげるための非致死的な手段が存在しないことをふまえて、一部のアメリカフクロウを致死的な手段を用いて排除することは正当である旨を委員会は全会一致した。私による"悲劇的な善(sad-goods)"という概念は、委員会の結論を導く鍵となるものだった。マラとサンテラは全ての猫を自然から根絶することを正当化するために、この"悲劇的な善"という概念を用いている(115~117ページ)。猫たちを殺すことによって生じる悲劇を一まとめにしたとしても、猫たちを殺すことによって生態系にもたらされる善の方が悲劇を上回る、と著者たちは論じているのだ。  

 私の友人や同僚たちにとっては残念なことに、私は純粋な動物の権利主義者ではない*15。死や捕食は自然なことであるのだから、限られた時や場所においては動物を殺害することが道徳的に正当化される、と私は考えている。"悲劇的な善"とはそのような状況を説明するための概念だ。例えば、鹿が狼や自給自足のハンターに狩られる場合においては、三者の全て…鹿、狼、そして人間…が本質的な道徳的価値を持っている。鹿が狩られて死ぬことは、生きている存在であり人間ではない人格(non-human person)が失われるということであるのだから、"悲劇"である。しかし、同時に、鹿の死は"善"でもある。弱く、病んだ、年老いた仲間が群れから消えるという点で他の鹿にとって善である。自分たちの家族を養うための食物を供給してくれるという点で、狼やハンターにとっても鹿の死は善だ。悲惨で痛ましくても、それは"悲劇的な善"なのである。

 だが、"悲劇的な善"とは、動物を殺すことのお手軽な言い訳として考えられた概念では全くない。アメリカフクロウの管理に関する倫理についてのアメリカ野生動物庁に対する私の返答が明確にしているように、"悲劇的な善"という概念は、問題となっている動物たちの本質的な道徳的価値を充分に認識すること、その動物たちに対する人間の直接的な義務を理解すること、可能な場合には何よりも優先して非致死的な手段を取ること、そして致死的な管理は限られた時と場所においてしか用いないように制限することを要求する*16。マラとサンテラの議論は上述した条件を何一つ満たしておらず、猫に対する戦争を正当化するものとしての"悲劇的な善"という概念の彼らによる解釈と用法を、私は否定しなければならない。

 

伝統的な自然保全の汚点

 

 個々の動物に対して正しいことを行うことに関わる道徳的懸念を払いのけようとするのは、マラとサンテラに限ったことではない。自然保全主義者の間では、レオポルドの土地倫理の背景にあるような環境中心的全体論は、批判的な倫理的思考を促進するものとしてではなく、信仰を告白して正しさを言い張るものとして機能することが大半である。科学的・倫理的な別の可能性を無視して、致死的な方法を動物に対して用いるというあらかじめ決定された結論を正当化するために、しばしば土地倫理は用いられるのだ。この事態の証拠は、文字通りどこからでも見つけることができる…オーストラリアにおける猫に対する戦争、アフリカのトロフィー・ハンティングの正当化、アメリカにおける狼や他の捕食動物の管理など*17。具体例は嫌になるほど挙げられる。

『猫戦争』の著者たちが科学的推論と倫理的推論に失敗していることは、屋外の猫たちが生態系に与える影響を無視することを正当化する訳ではない。むしろ、著者たちはより厳格な科学を促進するべきであり、より深い倫理的考慮を行い、猫たちに対する拙速で非人道的な行為に対して警告をするべきなのだ。

 そして、ここに問題の核心が存在する。『猫戦争』とそれが代表している観点は、不完全な科学と道徳的な正当さの不在だけに基づいているのではない。個々の動物の生命を矮小化する世界観に基づいているのだ。このことは、自然保全と野生動物の管理に関する伝統的なアプローチの汚点である…生物多様性への道程を殺しによって埋め尽くすことであり、それは大規模なブラッドスポーツでしかないのだ。

 

 

 関連記事:

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f:id:DavitRice:20161021112327j:plain

 

 

 

*1:

 

6度目の大絶滅

6度目の大絶滅

 

 

*2:

Facts, Myths in Cat Wars Book | The Best Friends Blog 

The Wars on Wolves, Cats, and Other Animals: It's Time to Forever Close Down the Killing Fields | Huffington Post

New Book, Cat Wars, Looks At What To Do With Free-Ranging Cats : 13.7: Cosmos And Culture : NPR

“By Any Means Necessary”: War is Declared on U.S. Cats » Vox Felina – Feral/free-roaming cats and trap-neuter-return/TNR: critiquing the opposition

マーク・ベコフとバーバラ・キングは著書が邦訳されている

 

 

死を悼む動物たち

死を悼む動物たち

 

 

*3:

Past Conferences : The Humane Society of the United States

*4:

Cats and Birds | American Bird Conservancy

*5:

Biodiversity: The ravages of guns, nets and bulldozers : Nature News & Comment

Invasive species will save us: The new way we must think about the environment now - Salon.com

Feral cats weapon of choice for some residents facing influx of rats - Chicago Tribune

* PDF http://www.kittycams.uga.edu/other/Loyd%20et%20al%202013.pdf

*6:

National Zoo employee found guilty of attempted animal cruelty - The Washington Post

Writer's Call to Kill Feral Cats Sparks Outcry

*7:

About Chris Santella

*8:

Smithsonian Migratory Bird Center

*9:

 

野生のうたが聞こえる (講談社学術文庫)

野生のうたが聞こえる (講談社学術文庫)

 

 

*10:

* PDF:  htttp://www.williamlynn.net/pdf/lynn-2015-being-animal.pdf

*11:

* PDF: htttp://www.williamlynn.net/pdf/lynn-1998-contested-moralities.pdf

*12:

* PDF: http://www.ifaw.org/sites/default/files/gaining-ground/ifaw-gaining-ground-chapter-01.pdf

*13:* PDF:

http://www.williamlynn.net/pdf/lynn-2006-between-science-ethics.pdf

*14:

OFWO - Barred Owl Threat

*15:

* PDF: http://www.williamlynn.net/pdf/lynn-2005-finding-common-ground.pdf

*16:* PDF: http://www.williamlynn.net/pdf/lynn-2011-barred-owls.pdf

*17:

Australia’s war on feral cats: shaky science, missing ethics

http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/conl.12254/abstract

*PDF: http://www.williamlynn.net/pdf/lynn-2010-discourse-wolves.pdf

"EXPOSED: America's Secret War on Wildlife" from Predator Defense Films

 

ナショナリストの道徳とグローバリストの道徳

 

http://www.nytimes.com/2016/07/15/opinion/we-take-care-of-our-own.html?_r=0

 

 本日紹介するのは、ニュヨークタイムスのコラムニストのデビッド・ブルックスによる記事。昨日はジョナサン・ハイトによる「ナショナリズムは、いつ、なぜグローバリズムに打ち勝つか」の第3章と第4章を訳したが、この記事では同記事の第1章と第2章の内容が主に取り上げられており、相互補完的な感じで読めると思う。

 

 

「俺たちは自分たちで支え合う」 by デビッド・ブルックス

 

 数年前、ブルース・スプリングスティーンは「We Take Care of Our Own(俺たちは自分たちで支え合う)」という曲を発表した*1。コーラスの主旋律は陽気で誇らしげなもののように聞こえる:私たちは自分たちから最も近い人たちのことを支える。しかし、「ボーン・イン・ザ・USA」も含めてスプリングスティーンの曲の多くがそうであるように、歌詞がコーラスされる調子と歌詞に書かれた文章の内容とは緊張した関係にある。

 歌詞を見れば、自分たちのことは自分たちで支え合うということは自分たちではない人たち(例えば、ハリケーンのカトリーナの犠牲者)のことは支えないということも意味しているのが明らかだ。「自分たちのことは自分たちで支え合う」という言葉は、突然、排他的で威嚇的で人種差別的ですらある色合いを帯びる。

 この言葉とそれが持ち得る二つの違った意味は、2016年のアメリカ大統領選挙の中心に存在しているものだ。

 ドナルド・トランプの支持者たちは、「自分たちのことは自分たちで支え合う」という言葉が持つ最初の意味を支持している。アメリカはまず自国の労働者に忠誠を尽くすべきなのであり、自国の文化に、自国の市民に忠誠を尽くすべきなのだ。

 この世界観は単なるワガママではない。人類の歴史の大半において、人々は団結したコミュニティを他の何よりも賞賛していたのだ。人類は、自分たち自身の親族と同胞の市民たちへの支えと忠誠の上に道徳システムを築き上げてきた。これらの絆は何らかの抽象的な社会契約に基づいているのではない。共有された親族関係、歴史、地理、そして正と不正についての共通認識から生み出された親密な絆なのである。

 団結したコミュニティにコミットしている人は、コミュニティを結び付けている規範を守るために戦う。彼らは既存の文化に同化する移民なら受け入れるが、相容れない習慣をもたらして社会を引き裂こうとする移民に対しては疑い深い。

 大昔から、この絆は人類の大半にとって事実上唯一の伝統的な道徳システムであった。しかし、ニューヨーク大学社会心理学者のジョナサン・ハイトが American Interest で発表した優れた記事の中で指摘しているように、この数十年間で別の考え方が現れたのだ*2

 この新しい考え方を持つ人たちは、団結したコミュニティよりも解放された個人に価値を置く。彼らは、自己表現、社会的自由、そして多様性に価値を見出すのだ…あるいは、少なくとも、価値を見出そうと試みる。彼らの道徳は自分たちに近い人々への忠誠に基づいているのではない。いかなる場所にもおける全ての人間の普遍的な平等に基づいているのである。

 この新しい考え方を持つ人たちは、人々を分け隔てる政治的・宗教的な壁を軽蔑する。記事の中で、ハイトはジョン・レノンの「イマジン」をこの世界観を体現する歌として引用している。

想像してごらん 国なんて無いんだと

そんなに難しくないでしょう?

殺す理由も死ぬ理由も無く そして宗教も無い

さあ想像してごらん みんなが ただ平和に生きているって...

僕のことを夢想家だと言うかもしれない

でも僕一人じゃないはず*3

 

 この新しい考え方を持つ人たちは、「俺たちは自分たちで支え合う」に含まれる排他的な意味合いに憤りを示す。アメリカ人に価値を見出すのは構わないのが、移民のことも考えるべきだし、外交関係においては多国間の協力に積極的であるべきなのだ。

 ハイトは、この二つの考え方の境界はナショナリストとグローバリストとの境界であると論じる。道徳的個別主義者と道徳的普遍主義者との境界でもある。また、血と歴史の絆が優先されるべきだと考えている人と、目の前で溺れている子供に対する道徳的義務と南スーダンで飢えている子供に対する道徳的義務は等しいと論じる哲学者のピーター・シンガーのような人との境界でもある。

 数十年もの間、グローバリスト・普遍主義者的な考え…移民に賛成、グローバリゼーションに賛成…は大手を振るっていた。今、個別主義者たちはトランプと共に逆襲を行っている。移民は彼らの怒りを焚き付ける燃料となっているのだ。

 ハイトが書いているように「2015年の夏(シリアの難民危機が起こった時期)にはナショナリストたちは既に沸騰点に達しており、"もう充分だ、栓を閉めろ"と叫んでいた。その間、グローバリストたちは"水門を開けよう、移民を受け入れることは思いやりのある行為なんだ、それに反対するなら君はレイシストだ"と宣言していた。グローバリストの言葉は、充分に理性的な人にさえも怒りを引き起こすのではないだろうか?」。

 実際には、二つの考え方のどちらにもそれぞれの美点がある。個別主義者は親密な愛情や忠誠を強調するし、それは本物のコミュニティにとって必要なものだ。普遍主義者はどんな場所における不正義にも心を動かすし、苦痛を目にして行動もせずに関心も示さないことを道徳的に拒絶する。

 今回の選挙の悲劇は、アメリカは既にこの問題を解決していたということだ。フランスや中国と違って、アメリカは普遍主義者の国として創立された。世界中から人々を受け入れて新しい何かとしてその人々を結び付ける国としてアメリカは創立されたのであり、アメリカ人は激しい愛国者であると同時に比較的開放的な人となることができるのだ。

 残念ながら、多文化主義の勢力が文化的な統一へのコミットメントを破壊してしまった。だからこそ、トランプが普遍主義的なアメリカのナショナリズムをひっくり返して、星条旗を装ったヨーロッパ式の血と土のナショナリズムへと置き換えてしまったのだ。

 この問題を解決する方法とは、ナショナリストになることでもなければグローバリストになることでもない。ウォルト・ホイットマンのような人々が信奉した、アメリカ式ナショナリズムへと回帰することである。誰が「私たち」なのかということについては多くの人々を包括するような定義をしつつ、調和することと「支え合う」ことについては熱烈なコミットメントを行うナショナリズムである。

 

 

 

BORN IN THE U.S.A.

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WRECKING BALL

WRECKING BALL

 

 

 

 

関連記事:

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トランプ支持者の心理・権威主義と反移民

 

www.the-american-interest.com

 

 本日紹介するのは、 社会心理学者のジョナサン・ハイト(Jonathan Haidt)が American Interest 誌に発表した「ナショナリズムはいつ、なぜ、グローバリズムに打ち勝つか(When and Why Nationalsm Beats Globalism)」という記事。近年の西洋民主主義国家において、普遍主義的・自由主義的で多様性を尊重する価値観を持ったグローバリストとそれに反対する価値観を持ったナショナリストとの争いが各国における移民問題をきっかけに表出するようになっていて…という記事なのだが、かなり長い記事なので、今回は後半(4章構成のうちの3章と4章)を紹介する。この記事における「グローバリスト」と「ナショナリスト」という言葉の定義の説明などは1章と2章でされるので、その辺りは少し分かり難くなるかもしれないが、文章の大筋を理解するのに支障はないと思う。

 

 

 「ナショナリズムはいつ、なぜ、グローバリズムに打ち勝つか(When and Why Nationalsm Beats Globalism)」by ジョナサン・ハイト

 

(前略)

 

3章:イスラム移民は権威主義アラームを刺激する

 

 ヨーロッパのナショナリストたちは数十年も前から移民の集団移住に反対してきたのだから、2015年に到来した亡命者たちの大波がナショナリストたちの怒りを増加させて右翼国家主義的な政党へ支持を増加させることも明白ではあったのだ。グローバリストたちは、ナショナリストたちの反応を「純粋で単純なレイシズム (racism, pure and simple)」であるとしたり、仕事を失いたくなかったり外国人に利益を与えたがらない人々の狭量で田舎臭いワガママであると説明したがる。

 一部のナショナリストたちがインタビューで答えた内容・サッカーの試合での応援(チャント)・匿名性に守られたインターネットの書き込みなどの一部には、レイシズムが明らかに示されていることもある。しかし、「レイシズム」という言葉は、物事の説明として用いるには浅はかな用語だ。レイシズムという言葉で説明することは、一部の人たちは自分たちとは違う人間…特に自分たちよりも濃い色の皮膚を持っている人間をただ好まないのだ、と主張することだ。 レイシストたちが他の人たちを嫌うのに正当な理由はなく、彼らはただ違いが嫌いなだけなのであり、それだけがレイシストたちの怒りについて私たちが知る必要のあることの全てなのだ、という訳だ。

 しかし、私たちが知る必要のあることはそれだけではない。より注意深く観察すると、多くの場合にはレイシズムは道徳的な懸念(moral concern)と深く結び付いていることが明らかになる(ここでは、私は"道徳"という単語を純粋に記述的な意味で用いている。つまり、"道徳的な懸念"とは、ここで分析の対象となっている人が本人にとっては善か悪かの問題だと思われることについて抱いている懸念、ということを意味する。私は、レイシズムは実際に道徳的に良いことであるとか道徳的に正しいことであると主張している訳ではない)。人は、他人が自分よりも濃い色の皮膚をしていたり自分とは違った形の鼻をしているというだけでは、他人を嫌わない。自分たちの価値観とは相入れいない価値観を持っているように思われる人々・自分たちが嫌悪している行動を行う(と思われている)人々・自分たちが大切にしている何かにとっての脅威になると思われる人々を、人は嫌うのである。これらの道徳的な懸念は事実からはかけ離れたものであるかもしれないし、しばしば扇動家たちによって拡大させられることもある。しかし、近年の右翼ポピュリスト運動の隆興について理解したいと思うのなら、「レイシズム」という言葉は終着点にはならない。むしろ、そこから研究を出発させるべきなのだ。

 この研究の最も重要な導き手は、政治科学者の カレン・スティナー(Karen Stenner)である。彼女が2005年に出版した『権威主義の力学(The Authoritarian Dynamic)』は、大量のグラフ・回帰分析とその記述・権威主義の性質についての学問的論争についての議論などが掲載された学術的な著作だ(そのため、多くの人に読まれた本ではない)。スティナーの研究結果の核となる点は、権威主義とは安定した人格特性ではない  (is not a stable personality trait) 、ということである。むしろ、権威主義とは、ある人が特定の種類の脅威を知覚した時にその人は不寛容になるという 心理的傾向 なのである。例えて言うと…ある種の人たちの額にはボタンが付いており、そのボタンが押されると、突然、ボタンを押された人は自分の属する内集団を守ることに激しく集中するようになる。外国人や集団に調和しない人を蹴り出すようになり、集団内で異議を唱えている人を踏み付けて抑圧するようになるのだ。脅威を感じている人々は、強力なリーダーや実力行使に惹き付けられる。別の時、脅威を何も感じていない時には、彼らも異常に不寛容である訳ではない。つまり、鍵となるのは、何が彼らのボタンを押すのかということを理解することである。  

 スティナーが示唆する答えとは、彼女が「規範的脅威 (normative threat)」と呼ぶものである。規範的脅威とは、基本的には、道徳的秩序の統一性(integrity of the moral order)に対する脅威(と人々に見なされるもの)のことを意味している。「私たち」がバラバラに分解される、という認識こそが規範的脅威なのだ。

 

集団の権威に対する不服従や尊敬に値しない権威、集団の規範に調和しないことやいかがわしい規範、集団の価値や信念についてのコンセンサスの不在、そして、一般的に、多様性や自由が "暴走して見境をなくす"  こと…これらを認識するという経験は、心理的傾向を作動させて、(訳注:権威主義に)特徴的な態度と行動が出現することを増加させるだろう。

 

 つまり、権威主義者たちはワガママである訳ではない。彼らは自分の財布を守ろうとしているのではないし、自分の家族を守ろうとしているのですらない。自分たちの集団と社会を守ろうとしているのだ。たしかに、一部の権威主義者たちは自分たちの人種や血統を守られるべきでものであると見なすのであり、そのような人々は右翼ポピュリスト運動の中でも非常に人種差別的な部分集団を作り上げる。ネオナチズムに惹かれるような派生集団もその中に含まれている。そのような人たちは、充分に社会に同化した移民すらも受け入れないだろう。しかし、現代のヨーロッパやアメリカでより典型的なナショナリストたちが守ろうとしているものは、彼らの国と文化なのである。

 スティナーが行った数多くの研究では、子供たちが家庭で学ぶべき最も重要な価値として何を挙げるかによって、権威主義者が特定されている。彼らが支持する価値とは、例えば、"従順 (obedience)"だ(対する価値は"自立" や"他人に対する敬意と寛容"である)。次に、スティナーは様々な方法や国家間のデータセットを用いて彼女が行った一連の研究について説明する。ある実験では、被験者のアメリカ人たちは自分たちの国がいかに変わりつつあるかということを伝える架空のニュース記事を読まされた。アメリカ人たちはお互いがそれぞれ似通うように変わっている、というニュースを読んだ時には、権威主義者たちは他の人に比べてもレイシストでもなければ不寛容でもなかった。しかし、アメリカ人たちはより道徳的に多様になっているということを示唆するニュース記事を与えられると、ボタンが押されて、"権威主義の力学"が起動し、彼らは他の人よりもレイシストで不寛容になった。例えば、「国家の秩序を維持すること」が国家の事項としての優先度が高くなった一方で、「言論の自由を守ること」の優先度は低くなった。そして、同性愛・中絶・離婚に対して、権威主義者たちはより批判的になったのだ。

 スティナーの研究の中でも最も有益な貢献は、権威主義者たちは「現状維持保守(status quo conservatives)」たちとは心理学的に区別される、という調査結果だ。現状維持保守とは保守主義者のなかでも原型的な存在であり、過激な変革に対して警戒している人たちのことである。エドマンド・バークによる先見性のある省察と初期フランス革命に対する恐怖から、自分が創刊した雑誌『ナショナル・レビュー』は「歴史の道の往来に立って"止まれ!"と叫び続けるだろう」というウィリアム・F・バックリーの声明まで、現状維持保守の系図は旧くて誉れ高い。

 現状維持保守は必ずしも権威主義者たちの同盟者ではない。権威主義者たちは、しばしば過激な変革を好むし、試行されたことのない政策を実施するという大きなリスクを伴う行為にも意欲的である。これこそが、多くの共和党員たち…そして、ほとんど全ての保守知識人たちがドナルド・トランプに反対している理由なのだ。彼の気質を見ても価値観を見ても、トランプは全く保守主義者ではない。しかし、進歩主義者たちは国家の伝統とアイデンティをあまりにも酷く失わせてしまったと現状維持保守が認識した場合には、彼らは劇的な政治的行動(イギリスのブレクジットや、アメリカにおけるイスラム移民の禁止など)だけが「止まれ!」と叫ぶために唯一残された方法であると見なすだろうし、権威主義者たちと同盟を組むことになるだろう。ブレクジットも、EUが"さらに緊密な連合"となることでイギリスが吸収されてしまう未来に比べると、まだ過激さが少ないのだ。

 さて、これまでの議論によって、なぜ移民が…特に、最近のシリアからやって来たイスラム系移民の波が…ヨーロッパの国々とアメリカ(イスラム移民の数は少ない国であるのに)でこれ程までにも強烈に分極化した反応を引き起こしたのか、ということが理解できただろう。ナショナリストにとって、他のどんな地域や宗教からの移民と比べても、中東のイスラム移民たちは遥かに深刻なテロリズムの脅威を示している。だが、スティナーの研究は、安全保障上の 脅威だけを見るのではなく規範的な 脅威を調査することを私たちに促してくれる。イスラム教が信者に要求する生き方は、世俗的で平等主義的な西洋の社会にイスラム教徒たちが同化することを、他の集団と比べて難しくする(同様のことは正統派ユダヤ教徒にも言える。スティナーによる権威主義の力学の分析は、なぜ近年のアメリカで右翼反ユダヤ主義運動が復活しているのかということの説明も可能にする)。イスラム教徒たちはプライベートな生活における習慣の違いを目にするだけには留まらない。特にジェンダーに関する問題について、しばしば、イスラム教徒たちは自分が滞在している国の法律と政策を自分たちの宗教に妥協させることを要求するし、その要求は認可される。ここ10年のフランスや他のヨーロッパ諸国で起こっている争いの中でも最も激しい争いの一つが、ヴェールやその他の形で女性の外見を覆い隠すことについてと、それに関係したプライバシーの必要性やジェンダー差別を論点とした争いである。例えば、スウェーデンの公共プールは、女性と子供のみが泳ぐことを認められる時間帯を設けるようになった。この政策は、スウェーデン人たちがジェンダーの平等と反ジェンダー差別に関して強く抱いている価値観とは相反するものである。

 つまり、あなたが急速な変化を懸念する現状維持保守であるにせよ規範的脅威に対して非常に敏感な権威主義者であるにせよ、あなたが暮らしている西洋の国におけるイスラム移民の比率が高くなることは、あなたにとって核となる道徳的懸念に対する脅威となる可能性が高いのだ。しかし、あなたが自分の懸念を声に出して表明した途端に、グローバリストたちはあなたのことをレイシストで田舎者だと嘲笑するだろう。グローバリストたちが…中道右派政党を運営している人たちでさえもが…あなたのことをそのように扱うとすれば、あなたはどこに助けを求めればいいのだろうか?その答えとは、ヨーロッパでは極右国家主義政党、アメリカでは(共和党敵対的買収を成し遂げた)ドナルド・トランプであり、この答えに辿り着く人々はますます増えているのだ。

権威主義の力学』は2005年に出版された本であり、"イスラム教徒" という単語は6回しか登場しない(対照的に、"黒人"という単語は100回登場する)。しかし、スティナーの著作は、2016年における反イスラム教徒に集中した右翼ポピュリズムの隆興を読み解くためのロゼッタストーンとなる。スティナーによると、彼女の理論は「"どこからでもないところから登場した" ように見える不寛容を説明する。その不寛容は寛容な文化からも不寛容な文化からも同様に登場する可能性があり、文化的な伝統の緩慢な変化ということでは説明のできない、行動の急速な変化をもたらすのだ」。

 スティナーは、伝統から離れて「個人の自由と差異へのより大きな敬意」へ向かう方向へと止まることなく流れている歴史の潮流を見出し、人間は「より完全なリベラルで民主主義的な市民」へと進化し続けることを予期する人たちの理論と自分の理論とを比較している。具体的には誰を想定しているかはスティナーは明らかにしていないが、おそらく、クリスチャン・ヴェルツェル(Christian Welzel)と彼と共に世界価値観調査を行った人たち*1、そしてフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」論を想定している可能性が高いであろう。スティナーは、ヴェルツェルやフクヤマのように西洋リベラル民主主義社会の将来を楽観視していない。一般的な傾向が寛容へと向いていることはスティナーも認めているが、その傾向こそが権威主義を非常に活性化させる状況を作り出して強力な反動を生み出すであろう、と彼女は予測している。彼女は以下のように予言しているのだ。

 

近年発展し続けている文化によって認められてしまっている過度の自由や放埓のために発生した状況は、潜在している権威主義者たちを刺激するそして、突然で激しく、暴力的でもあり、そしてほとんど確実に予測不可能な不寛容の表出が行われる…そのような事態を確実なものにしてしまっているのだ。そして、もしも不寛容とは伝統への単なる愛着からほとんど偶然に生み出される副産物なのではなくて、文化的な規範よりも個々人の心理によって生み出されるものであるとすれば…私たちは異なる将来の展望を得るだろうし、この問題は誰にとっての問題であり将来的にはどうなるかということについての違った理解を得るだろう。普及している文化的規範を無心に吸収した結果としての不寛容ではなくて、個々人の異常な心理状態から湧き出る種類の不寛容は、寛容を促進する文化による学習よりも重大な影響を与えるものとなり、より激しく非合理的であり、予測できず、説得に従わないものとなるはずだ。

 

 2004年の文章では、スティナーは「不寛容は過去の遺物ではない、未来にもたらされるものであるのだ」と予測している。

 

4章:いま、何をするべきか?

 

 とどのつまり、ナショナリストたちを観察して彼らの経済的状況や彼らの一部が実際に示しているレイシズムを指摘しているだけでは、この記事の冒頭で私が提示した疑問…いったい世界では何が起こっているんだ?…の答えは得られない。まずグローバリストたちに目を向けて、彼らの変容した価値観がいかにして他の市民たちを右翼的な政治的指導者を支持することへと追い立てる場合があるか、ということについて考えなければならない。特に、グローバリストたちは大規模な移民の受け入れと国家主権の削減を支持していること、グローバリストたちにはヨーロッパ連合のような汎国家的な存在のことを国民国家よりも道徳的に優れたものだと見なす傾向があること、そしてグローバリストたちがナショナリストたちと彼らの愛国主義を「純粋で単純なレイシズム」だと中傷していることについて考えなければならない。グローバリストたちによるこれらの行為は、権威主義的な傾向を備えている人々の心の中にある「規範的脅威」のボタンを押してしまうし、グローバリストとその普遍主義的なプロジェクトに立ち向かおうとする現状維持保守が権威主義者たちに合流するように仕向けてしまうのだ。

 もしこの議論が正しければ、グローバリストの政策のための明白な処方箋が導き出されるだろう。真っ先に行うべきは、自分の国が移民の移住をどのように行っているかについて注意深く考えて、権威主義的な反応を引き起こす可能性が低くなるように移住を管理することだ。三つの変数に対して注意を払うべきである:外国生まれの住民の比率(いかなる時においても)、新しくやってくる各集団の道徳的な差異の程度、そしてそれぞの集団の子供たちが成し遂げている同化の程度である。

 異なった道徳を持つ文化からの合法的な移民は、同化の程度が低いとしても移民の人口数自体が低ければ問題にはならない。小さな民族集団による飛び地的な異種文化圏は、十分な大きさを持つ国家にとっては規範的脅威とならないのだ。異なる道徳を持つ民族集団からの移民が中程度の規模で行われたとしても、移民たちが移住先の文化に同化することに成功していると見なされる限りにおいては、問題ない。移民たちが新天地の言語と価値観と慣習に応じているなら、自分たちの国は良いものであり価値があって外国人にとっても魅力的だ、というナショナリストたちのプライドとも調和する。しかし、強力で成功の見込みがある同化プログラムも無いのに、異なる道徳を持つ国々から歴史的に大規模な量の移民を受け入れるとなると、権威主義的な反動が起こることはほとんど確実であるし、数多くの現状維持保守たちがその反動を支持することも予期できるだろう。

 

(…中略…)

 

 民主主義は、普通の市民が声を発することが認められることを必要とする。イギリスのマジョリティは6月23日のブレクジットで声を発したし、やがて他のヨーロッパ諸国からもイギリスと同様のマジョリティたちの声が発せられるかもしれない。そして、11月のアメリカにおける大統領選挙でも同様の可能性があるのだ。2016年が西洋民主主義が辿ってきた道程の大きな転機として記憶されることになる可能性は高い。世界で何が起こっているのかということについて本当に理解をしたいのなら、グローバリゼーションと移民と価値観の変容との間の複雑な相互作用を考慮するべきなのだ。

 この記事で私が論じたストーリーが正しいとすれば、グローバリストがナショナリスト政党から情熱と投票数を吸収するための発言や行動や法律の制定を行うことは簡単にできる。しかし、それをするためには、国家のアイデンティティや団結した道徳的コミュニティが備えている価値について深く考え直すことが求められるであろう。移民についての多文化主義的なアプローチを棄却して、移民の同化を推奨することが求められるのだ。

 それぞれが独自の伝統と道徳的秩序を備えた世界中の数多くの地域的・国家的・その他の "偏狭な" アイデンティティを…中傷したり崩壊させたりするのではなく…尊重しながら、同時に、貿易・文化・教育・人権・そして環境保護に関するグローバルな協力を行うことによって得られる利益を手にするためには、どうすればいいのだろうか?どのような世界なら、グローバリストとナショナリストが平和に共存することができるのだろうか?これこそが、2016年以後の西洋国家にとって重大な問題なのであるかもしれない。

 

 

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davitrice.hatenadiary.jp

*1:クリスチャン・ヴェルツェルや世界価値観調査については原文の第1章で論じられている