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道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

家畜動物のシティズンシップ:『人と動物の政治共同体』(2)

 

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

 

 

 

 今回は『人と動物の政治共同体』の第4章と第5章、「家畜動物(Domestic Animals)」について扱っている部分を紹介する。なお、「家畜動物」のカテゴリのなかにはいわゆる畜産動物(牛、豚、鶏など)だけではなく、ペット動物や動物園で飼われる動物や動物実験に用いられる動物など、人間の生活圏で利用・使用されている動物一般が含まれている*1

 第4章の「動物の権利論における家畜動物」では、これまでの動物倫理の議論において家畜動物がどのように論じられてきたか、ということがまとめられている。特に取り上げられているのは「畜産やペットという制度は本質的に動物に危害を与えるものであり、これらの制度はどのような形になっても倫理的になることはありえないので、撤廃されるべきである」という、ゲイリー・フランシオンを代表とする「撤廃論(Abolitionist)」の主張だ*2

 著者らは、以下のような論理に基づいて「撤廃論」を否定している。

 

…これは明らかな誤りである。アフリカから南北アメリカ大陸へと連行された奴隷の事例を考えてみよう。正義は確かに奴隷制度の廃止を要求するが、そのことはもちろん、かつての奴隷たちとその子孫の生命を奪うことを意味しないのである。アメリカへ奴隷を連行したことは確かに不正であるが、その救済は、アフリカ系アメリカ人の根絶を求めることや、あるいは彼らをアフリカに送還することでなされるものではない。アフリカ人がアメリカ両大陸に足を踏み入れることとなった、その原初のプロセスは正義に反するものであった。だが、この歴史的な不正への救済は、アメリカ両大陸にアフリカ人が存在しなかった時点まで時計の針を巻き戻すことによって実現されるものではないのである。実際のところ、アフリカ系アメリカ人の根絶あるいは放逐を求めることは、原初の不正を正すことから程遠いことであり、彼らがアメリカ人コミュニティへ参加する権利を否定し、家庭を築き彼ら自身を再生産する権利を否定することによって、その不正を増幅させることになるのである。

 同様に、家畜化という原初の不正に対する救済が、飼育されている種を根絶することであると思い込む理由もない。…(p.113)

 

 ただし、「撤廃論」の反対としてよく提唱される「福祉主義(welfarism)」、つまり「肉食や動物実験などの制度は存続させ続けるが、その制度の対象となる動物たちに生じる苦しみは最小限に押させる」という立場も、著者らは否定する。デビッド・ドゥグラツィアによる「その動物が野生にいる場合よりも人間に飼育されている場合の方が幸福であることが保証できるなら、動物を家畜として使用することは認められる」という基準や、ツァチ・ザミールによる「人間によって生まれさせられてきた動物が、その生を生きる価値もないほどにする苦痛や危害に晒されずある程度以上に幸福に過ごすことが保証できるなら動物を家畜として使用することは認められる」といった基準を著者らは取り上げて、それぞれに対して反論を行っている。たとえば犬や猫などのペット動物の多くは野生では自活できないので彼らをペットとして飼うことはドゥグラツィアの基準を容易に満たすが、そもそもペット動物が野生で自活できないのはそのように人間が品種改良を行ってきた結果である。また、ザミールの議論は親が子に対して「私たちがお前を生まなかったらお前は存在しなかったのだから、私たちはお前に対して何をやってもいいのだ」という類のものであり、"その生を生きる価値もないほどにする苦痛や危害にさらされずある程度以上に幸福に過ごすことが保証できる"という但し書きがあるとしても、やはりかなりの程度の虐待や抑圧を動物たちに加えることが正当化されしまう恐れがある。また、著者らによるとこれらの論者の主張は「…彼ら(家畜動物)は既にここにおり、我々と共に暮らしており、長い歴史をもつ相互作用および相互依存の産物なのである」(P.132)ことを無視している。ドゥグラツィアやザミールの主張は「人間たちによって飼われる場合に動物たちに生じる危害が、そうでない(野生にいる/生まれてこなかった)場合に動物たちに生じる危害よりも大きくならないようにするべきである」という消極的な道徳的義務を主張しているとは言えるが、そうすると、人間たちが一切動物に関わらない場合は人間は道徳的義務を満たしていることになる。だが、人間たちはこれまでの歴史において何世代にも渡って家畜動物を繁殖させ続けてきたのであり、また野生から締め出して人間なしでは生きられないようにしてきた。このような歴史的経緯をふまえると、家畜動物の集団に対する集合的な責任が人間には存在すると考えられるのであり、それは家畜動物たちを「放っておく」ことでは満たされない、積極的な道徳的義務であると言えるのだ。

 廃止論者の主張の方に話を戻すと、廃止論者たちは家畜動物というあり方はそもそも自然に反しており、人間に依存していかなければ生きていけないような存在はそもそも生み出されるべきではなかった、という主張をする。これに対して著者らは障害学やフェミニズムの考え方を参照しながら、自立や独立していることを是とし依存を否とする発想は特定の偏った思想(健常者中心主義とか男性中心主義とか)を前提としたものであり必ずしも正しくない、依存という形で主体性を発揮することもできるのだ、みたいなことを言って反論する。

 あと第4章の終盤では著者らはマーサ・ヌスバウムの「種の規範」に基づいた潜在性アプローチを取り上げて批判している。ヌスバウムは種の境界を超えた交流とか繁栄とかのあり方を無視している、という批判である。

 

 第5章の題名は「市民としての家畜動物」であり、家畜動物がシティズンシップを持つということは何を意味するのか、ということについて具体的に論じられている。ある存在がシティズンシップを持つためには「(1)主観的な善をもち、それを伝える能力 (2)社会的規範に従い、協力する能力 (3)法の共同立案に参加できる能力」(p.150)が必要とされるが、家畜動物は(1)のみならず(2)も(3)も持っている、というのが著者らの主張だ。

 ここで著者らが参考にしているのが例によって障害学の理論であり、独立した主体ばかりを重視する健常者中心主義的な人間観を否定する、政治的な意思表明や合意形成を協力者を介して行う「依存的主体性」という考え方が取り上げられている。要するに、近年の障害者運動によってこれまで政治的な意思決定の場から排除されていた障害者の意思や利害が(健常者の協力を介して)反映されるようになったのと同じように、家畜動物たちの意思を反映することも可能である、という主張だ。

 シティズンシップの条件の「(1)主観的な善をもち、それを伝える能力」とは、簡単に言えば「自分が何をしたいかとか何が欲しいかなどの欲求を他者に対して伝える能力」のことである。家畜動物にこの能力が備わっていることは、ペットを飼っている人にとっては自明だろう。犬は遊んでもらいたい時にはおもちゃをくわえて持ってくるし、猫は腹が減ったら鳴く。ペットに限らず牛や馬などの農場にいる動物も自分の欲求を表明することはできるのだ。

「(2)社会的規範に従い、協力する能力」や「(3)法の共同立案に参加できる能力」を動物が持っているというのは変に聞こえるかもしれないが、犬やオオカミや猿の社会に顕著なように、そもそも動物たちの集団の間にも社会的ルールはある。また、家畜動物たちは(品種改良の結果として)人間によるしつけに従う性質を持ち、人間社会の規範に家畜動物たちを適応させることも可能なのである。「法の共同立案」も、要するに家畜動物たちはあるルールに従いたくない時はそれを表明できるので場合によっては人間がそのルールを変えてやってもよい、という程度のことだ。

 そんなこんなで家畜動物は人間のコミュニティの中で市民として生きられる訳である。動物たちにもある程度の社会規範には従ってもらう必要がある一方で、現行の社会は市民の一員としての動物たちの利害が十全に反映されているとはいえないので、社会の様々なルールなり環境なりを変える必要がある。健常者にとっては心地よくても車椅子の人にとっては移動に不都合があり道路の横断などに危険がある社会は十分にバリアフリーになっていないので不正であるのと同じように、家畜動物たちの移動に不都合があったり家畜動物たちを危険にさらすような社会は不正である。公共空間からも、合理的な理由がない限り家畜動物は排除されるべきでない*3。家畜動物に投票権を与えることは非現実的だが(そもそも投票ができないので)、議会などの政治的意思決定の場や役所などの公共サービスにおいては、家畜動物たちの利害を代表する人間や組織が存在するべきであるのだ。 

 …他にも、「家畜動物たちの食餌はどうあるべきか」「家畜動物たちの身体から得られる製品は利用するべきか*4」「家畜動物たちへの医療ケアはどうあるべきか」「家畜動物たちの生殖についてはどうするか」といった細かな具体的な論点について、この第5章では一つ一つ検討されている。基本的には「市民の一員として家畜動物にもある程度の義務は負ってもらうし我慢をしてもらう必要はあるが、私たち人間も家畜動物を市民として待遇するための様々な義務を負う」といった感じで、当然肉食などは禁止されて人間の行動はかなり制限されて、社会のあり方を大幅に変えるべきだと提唱されている。それはいいのだが、功利主義のように明白で一貫した道徳理論が背景にないつらみというべきか、一つ一つの提案が場当たり的でイマイチ説得力がないように思える。理論としての正当性とか厳密さを追求するというよりも、なにかといえば障害学の理論とかフェミニズムの理論とかを持ち出して政治的に正しい感じをかもし出すことで説得力を増そうとするやり口も鼻についてきた。

 

 

 

 

 

*1:「家畜」といえば牛や豚などの畜産動物のイメージが強いので、「屋内動物」と訳したほうが良いと思う

*2:ペットに関するフランシオンの主張は以下の記事で紹介したことがある

davitrice.hatenadiary.jp

 

*3:たとえばアメリカでは多くのレストランで動物の持ち込みは衛生上の理由が禁止されているが、そのような禁止のないフランスで特に衛生上の問題が起こっていないことをふまえると、実際にはこの禁止は非合理な差別である、という風に著者らは論じている

*4:羊毛などのように、家畜動物を傷付けたり害を与えたりせずに採取できる製品は利用してもよい、というのが著者らの考えである

「動物実験のコストとベネフィット」 by アンドリュー・ナイト

 

 今回紹介するのは、倫理学者のアンドリュー・ナイト(Andrew Knight)が2011年New Internationalist のwebページに掲載した「動物実験のコストとベネフィット(The costs and benefits of animal experiments)」という記事。ナイトは同じ題名の単著も出しており、他にも動物実験やその他の動物倫理に関する題材を取り上げた論文・記事を書いているようだ。本人のホームページはこちら

 

newint.org

 

動物実験のコストとベネフィット」 by アンドリュー・ナイト

 

 

 信じられないほど複雑な構成をしているとはいえ人間の身体は機械の一種である、という強烈な主張を、動物実験の支持者であるラリー・ピクロフト(Laurie Pycroft)が New Internationalist誌の最新号で発表した

 もちろん、人間たちも動物たちも、単なる機械ではない。そのように考えることは、人間や動物たちに含まれている他の特性…感情を抱けるということや、偽りのない社会的関係を結ぶ能力…を認識することについて根本的に失敗している、ということを示している。

 さらに嘆かわしいのは、そのような主張は道徳に対する無知の度合いも示しているということだ。機械は道徳的地位を持たない。生き者たちは道徳的地位を持っている。特に、機械と違い、実験動物と人間の両方が、病気を患った時あるいは実験室の環境に置かれた時や実験の手続きで使用された時に苦痛を抱く能力を持っているのだ。

 その実験が人間の健康の増進を具体的にもたらしたということが本当である場合にならば、「最大多数の最大幸福」に基づいた功利主義に基づいて、動物に対して実験を行うことを道徳的に擁護することは可能であるかもしれない。その場合には、類似する事例として、他の多数の人々を助けるために人間に対して実験を行うことも擁護されてしまうだろう。しかし、大半の人々は、人間に対して実験を行うことは道徳的に忌まわしい行為であると考えている。だが、動物実験を行う研究者たちとその支持者たちは、動物に対する侵襲的な実験を正当化するために、上述したものと同様の功利主義的な主張を行っているのだ。

 人間に対する実験を否定しつつ動物に対する実験を正当化するためには、動物の道徳的地位は人間のそれに比べてかなり小さなものでなければならない。化粧品のための実験や科学的好奇心を満たすなどの比較的些細な人間の利益のために、動物が深刻な危害を加えられたり殺害される時には、動物たちの道徳的地位は非常に小さなものであると考えられているはずだ。2011年に、Judith Benz-Schwarzburg と私は、動物たちに認知能力やそれに関係する能力が存在するという科学的証拠について詳細にレビューした。私たちの研究や他の研究からは、ほとんど全ての実験用動物を含む多くの動物たちが彼らを道徳的配慮の対象に含めることを正当化するのに充分な心理的特徴を持っていることを示す、充分以上の量の科学的な証拠が集められた。このことは、私たちがそれらの動物たちを使用する方法の多くは不正であるということを意味している。動物たちを強制的に閉じ込めて有害な可能性のある生物医学研究に用いることも、不正な方法の一つである。

 さらに付け加えると、侵襲的な動物実験の有用性も、議論の対象となっている。ある科学者たちは、メジャーな人間の病気に対抗することや人間にとっての毒性を検出することにおいてこれらの動物実験は必要不可欠である、と主張する。それとは真逆の主張を行う別の科学者たちは、動物実験を用いて開発された医薬品によって害を被った何千人もの患者たちの存在を指摘する。同様に、動物実験は高度な科学的基準に基づいて人道的に行われている、と主張する科学者たちもいる。だが、近年の数多くの研究は実験動物たちが非常なストレスを感じていることを明白にしたし、そして実験動物たちがストレスを感じていることは実験の結果までをも歪めている可能性があるのだ。さて、では、真実はどこに存在するのか?人間の健康を増進するうえで、動物実験にはどれ程の有用性があるのだろうか?実験の結果として、動物たちはどれ程の苦痛を感じているのだろうか?

 私の著書『動物実験のコストとベネフィット』では、十年以上に渡る科学的研究、個人的経験、そして500以上の科学的出版物の分析を掲載している。「動物実験は倫理的に正当化できるか?」という、鍵となる問題に対してエビデンスに基づいた解答を与えるためだ。ステマティック・レビューでは、バイアスを除去するためにランダムに選ばれた多数の動物実験を検証している。これらのレビューは、生物医学研究を評価するうえでの「黄金律(gold standard)」を示しているのだ。人間に対する臨床的介入の発展への寄与やあるいは臨床的結果に実質的に一致することにおいて動物モデルの有用性が有意にあると著者らが結論できたのは、20のレビューのうち2つしかなかった。さらに、その2つのうちの1つにも異論が出されていた。追加で行った7つのレビューも、発がん性や催奇性などの人間にとっての毒性の信頼性の高い予測を示すことに失敗しており、それに反する結果を示すレビューは存在しなかった。動物モデルの結果は、曖昧なものになるか人間の結果と一致しないことが頻繁にあったのだ。

 全体的なコストとベネフィットを考慮すれば、人間の患者や科学的好奇心を持っている人たちに生じるベネフィットは科学的手続きに用いられる動物たちに生じるコストを上回る、と結論付けることは合理的にできなくなる。反対に、動物たちに生じるコストを正当化できるほどに充分な、実質的なベネフィットが人間にもたらされることは…もしそんな場合があるとしても…珍しい、ということをエビデンスは示しているのだ。

 ただし、動物たちの利益を相応に尊重することは、動物を用いた研究のすべてを終了させることを要求する訳ではない。動物を用いた研究には様々なものが含まれている。野生動物の野外調査、サンクチュアリや実験室にいる動物たちへの非侵襲的または心理学的な研究、軽度に有害な侵襲的実験、より有害な侵襲的実験、そして、多大な危害や死をもたらすことになるプロトコル。 倫理的な配慮を行うことは、動物を用いた研究の幅を、自由に生きているかサンクチュアリにいる動物たちを対象にした非侵襲的で観察的・行動学的・心理学的な研究にまで狭めることになるだろう。

 動物を用いた研究をこのように制限することは、必然的に、探求することができる科学的問題の幅を狭めることになるだろう。しかし、このような制限は、動物の利益を満たすことと人間の利益を満たすこととの間の正しい倫理的なバランスをもたらすであろう。人間も動物のどちらも、誰もが単なる"機械"であると見なされるべきではないのだ。

 

 

The Costs and Benefits of Animal Experiments (The Palgrave Macmillan Animal Ethics Series)

The Costs and Benefits of Animal Experiments (The Palgrave Macmillan Animal Ethics Series)

 

 

動物の市民権:『人と動物の政治共同体』(1)

 

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

 

 

 原著は数年前に読んだことがあるのだが、スー・ドナルドソンとウィル・キムリッカの共著『人と動物の政治共同体 「動物の権利」の政治理論(原題:Zoopolis
A Political Theory of Animal Rights)』の邦訳をようやく入手することができたので、この本の第2章と第3章で論じられていることをさくっとまとめて紹介しょうと思う*1

 

 第2章のタイトルは「動物の普遍的な基本権利」で、この本の議論の前提となっている「動物たちは普遍的な権利を持っている」という主張が論じられている。

 著者らによると、動物たちは感覚を持つ存在であるために「自己性」を持っている。「内面から自らの生を感じ、さらにその生が良くなったり悪くなったりするのを感じられる存在は、物ではなく、自己なのである。そして、我々はその存在を、喜びや痛み、欲求不満や満足感、楽しみと苦痛、恐れや死といったものに対して影響を受けやすい、脆弱性に悩まされる存在として認識する」(p. 37)。そして、「…自分の生が良くなったり悪くなったりすることを内面で感じられる主観的経験を持つ存在…」に対しては、「…彼らに知性や道徳的主体性のような可変的な能力があることを知るまでもなく、彼らの不可侵の権利を尊重すべきであることがわかるのである」(p.43)とされている。要するに、感覚を持つという時点で全ての動物が不可侵の基本的権利を持っているのであり、感覚以外の能力(高度な認知能力や、道徳的主体として行動ができる能力など)の有無は関係ない、ということである。

 感覚を持つ存在は全て「自己」であるので基本的権利が認められるべきだ、という主張に対しては、自己よりも上位な「人格性(パーソンフッド)」という概念を持ち出して「人格性には人にしか見られない何らかのより高い能力が必要とされる」(p.38)と主張する、という反論がある。人間は単に感覚を持つだけでなく、「言語」や「計画の立案」や「熟慮したうえで道徳的討論を行う能力や、そのような討論を通じて到達した原則に従うと表明する能力」(p.39)などのより高度な能力を持っているのだから、人間が持っているような基本的権利は人間が「自己」であることではなく「人格」であることに由来するとすれば、「人格」でない動物たちは人間のような基本的権利を持っていない、という主張だ。しかし、一部の動物たちは上述した能力の一部を備えているし、なによりも、高度な能力を必要とする「人格」は認知症高齢者や知的障害者をはじめとした多くの人々を排除してしまう。また、乳幼児である頃から理性的討論を行える人なんて誰も存在しないことをふまえると「この意味での人格性を持つことが人権の根拠だとすると、全ての人に対して人権を不安定なものにしてしまうだろう」(p.40)。ということで、著者らは「人格性」を重視する議論を退けている。以降で「人格」という言葉が出るときにも、それは「自己」と同じ意味で使われるものとされており、感覚より高度な何らかの能力を持つ存在を意味している訳ではない。

 動物以外の「自然」…植物や無機物や生態系に関しては、それらの存在に対しても人間は何らかの道徳的義務を負っていると著者らは考えているようである(ただし、それが具体的にはどういうことを意味するかということは詳しく論じられていない)。しかし、植物や生態系は「自己」を持たない「物」なのであり、そのために人間と動物が持っているような基本的権利を持たない。「…自然を尊び、保護する十分な理由は沢山ある。しかし、これらの理由をランやその他の感覚の無い生命体の利益を保護するものとして特徴づけることは間違っている。主観的経験を持つ存在だけが、利益を得ることができ、あるいは、それらの利益を守るために義務づけられた正義の恩恵を受けることができる。岩は人格ではない。生態系も、ランも、1株のバクテリアも、である。それらは物である。それらは、損傷されることはあっても、不正義を被るのではない。正義とは、世界を経験する主体に与えられるものであって、物に与えられるものではない。感覚の無い存在は、尊重や畏敬、愛情、配慮の対象となるにはふさわしいが、主観性を欠いているため、公正な扱いを受ける対象でもなければ、正義を動機付ける精神である間主観性を持った行為主体でもないのである」(p.51)。

 その他、第2章では、「私たちは岩などの自然に対して強い感情を抱くことがあれば動物に対して強い感情を抱くこともあるが、前者は一方通行であるのに対して後者は二つの自己が存在する双方向的なものである」という話がされていたり、動物の権利と多文化主義との関係について触れられていたりする*2

「不可侵の権利」を主張する著者らは、功利主義を「…他者の善のために個人を犠牲する悪」(p.31)について説明できない(否定できない)理論であると見なし、「…生に対する人々の権利の強さは、より大きな善にどのくらい貢献しているかによって測られ」 (p.33)てしまうということで、退けている。功利主義は人や動物の死の比較考量を認めて、例えば若くて才能のある人の死はそうでない人の死よりも重い、あるいは高度な認知能力を持った(「人格性」を持つ)動物の死はそうではない動物の死よりも重いとするが、「人権革命は、まさにこのような思考法を否定するものである」(p.33)。

 ただし、人間や動物の生命や権利は常に不可侵である、とは著者たちは主張していない。『正義は一定の情況下でしか適用されない。ロールズは(ヒュームに従って)それを「正義の情況」と呼んだ。当為は可能を含意するのである。つまり人は、自分の存在を危険にさらさずに互いの権利を尊重することが実際に可能な時にだけ、互いに対して正義の義務を負う。ロールズはこれを「適度な希少性」の要求と呼んでいる。つまり、資源は無限ではないので、誰もが欲しい物を全て手に入れることはできないために、正義が必要となるのである。しかし、正義を可能なものにするためには、資源をめぐる競争が過酷なものであってはならず、適度でなければならない。自分の生存を危うくされずに私があなたの正当な要求を承認する余裕があるという意味においてである』(p.57-58)。要するに、船が難破して救命ボートの定員がいっぱいになってしまったので人だか犬だかを海に投げ捨てなければいけない場合とか、銀行強盗に人質をとられていて事件を解決するためには犠牲を出さなければいけない場合、あるいは極寒地域で人々が生存するためには動物を狩猟して肉や毛皮を採取する必要があるという場合などでは、不可侵の権利は成立しないので犠牲を出すのは許される、ということだ*3

 

 第3章は「シティズンシップ理論による動物の権利の拡張」で、この本の本題である「動物の市民権」というアイデアのあらましが述べられている。

 私たち人間はみんな「不可侵の権利」を持っているとしても、全ての人がいついかなる場所でも平等な配慮を受ける訳ではない。「拷問されない権利」「殺されない権利」「奴隷化されない権利」などのごく基本的で普遍的な権利はどんな場所であっても配慮されるべきだが、例えば自分の国に入国するのと同じように無条件に外国に入国する権利を私たちは持っていないし、外国で投票したり、外国のどこかの都市のまちづくり計画に対して口を出す権利なども私たちは持っていない。権利には「市民的権利」や「人民主権」という種類のものも含まれているのであり、「我々は普遍的な人権(特定の政治的コミュニティとの関係を問わない)とシティズンシップ(特定の政治的コミュニティの構成員であるかどうかに基づく)とを区別しているのである」(p.77)。政治的コミュニティの利害のために部外者の普遍的権利を侵害することは許されないが、政治的コミュニティの内部の者にしか保障されない様々な権利も存在しているのだ。また、外国人であってもその国に長年にわたって居住している人には他の外国人が持たないような何らかの法的権利や政治的権利が付与されることも多いので、1か0かの問題ではなく中間的な部分が存在する多層的な問題でもある。

 世の中には国境なき世界を是とするコスモポリタニズム的な思想も存在している訳だが、「民主主義や福祉国家というものは、信頼や連帯、相互理解を必要とするものであり、境界線で仕切られそこに根付いた政治的シティズンシップの感覚がない国境なき世界においては、維持するのが難しいかもしれない」(p.78)。ナショナル・アイデンティティや国民文化という要素を考慮しても、国という形式の政治的コミュニティは維持した方が良い、というのが著者らの考えである。

 過去の数十年に渡ってシティズンシップ論は大いに議論されてきており、「どのような立場の人々がどのような政治的コミュニティのどのようなメンバーとしての権利を持つべきか。様々な政治的コミュニティの境界線をどのように引くか。そうしたコミュニティ間の移動についてどこまで規制するか。様々な自治的なコミュニティ間の相互作用についてのルールをどうやって定めるべきか」(p.79)ということが論じられてきた。そして、シティズンシップ論の対象を動物たちにまで拡大し、政治的コミュニティの一員としての動物が持つ市民権を主張しようとするのが、著者らの試みである。

「シティズンシップ」という言葉には 1:国籍  2:人民主権 3:民主政治における行為主体  という意味が含まれている。現代の政治理論研究で特に注目されがちな「3」の意味でのシティズンシップは動物たちは持たないが、「1」と「2」の意味でのシティズンシップは動物たちも持っている、と著者らは論じる。政治的な行為主体ではない存在に政治的権利を与えることはできない、と主張する人はいるかもしれないが、そうすると子供や知的障害者といった人々もシティズンシップやそれに基づく権利を持たないということになってしまう(人格性を持たない存在は普遍的権利を持たない、という先述の主張と同様に)。「政治的な行為主体性の有無を、誰が市民であるかを決める閾値や判断基準として扱い、あれやこれやの主体性を発揮できない人々を非市民としての地位に追いやるようなことは重大な過ちである」(p.86)。

 そして、政治的な行為主体でない存在が持つ政治的権利はどのようなものであるかということを導きだすために、著者らは障害者の民主的政治参加に関する議論を参考にして論じていく。障害者運動は、通常の市民とは異なりコミュニケーションや討論を行うのが難しい障害者たちの利害や選好を様々な手段によって表明したり、健常者の協力によって議会やその他の政治プロセスに反映させるための様々な方法を生み出してきたりした。それでも障害者たちの政治的行為主体としての能力は健常者に比べると様々な限界があるが、健常者の政治的行為主体としての能力も、年齢や健康によって大幅に変わっていく。子供や老人の利害や選好を政治プロセスに反映するためには、障害者の場合と同じく、協力者に依存する必要が出てくるだろう。結局、多かれ少なかれ誰もが政治的行為主体としての能力に何らかの限界を持っているし、程度の違いはあるとはいえ誰もが他人に依存する必要があるのだから、政治的な行為主体である存在だけが市民権や政治的権利を持つとはいえない。とすれば、動物たちの政治的権利や市民権という発想も的外れではなくなるのだ。

  シティズンシップ論を動物に対して適応する意義のひとつは、動物の「普遍的権利」ばかりに注目していては論じることが難しい、様々な動物と人間との関係や人間のコミュニティにとっての各種の動物の位置付けという要素を反映することができることだ。また、これまでの動物倫理の議論の多くは動物に対する人間の消極的義務(動物を傷付けてはならない、動物を殺害してはならない、動物を人間の目的のために利用してはならない、などの「〜してはならない」という義務)を論じてきたが、動物との関係から生じる動物に対する人間の積極的義務(「〜をすべきである」という義務)についてはあまり論じられてこなかった。シティズンシップ論は動物に対する積極的義務についても光を当てることができる、というのが著者らの目論見である。

 著者らの分類によると、家で飼われているイヌやネコなどのペット動物や農場で飼われているウシやブタやニワトリなどの畜産動物を主とする、人間のコミュニティ内で飼育されている家畜動物は「市民」である。他方で、森や川や海などの自然に暮らす野生動物は外国人に近い存在だ。その中間に、リスやスズメやコヨーテといった、人間に飼育されている訳ではないが人間のコミュニティ内に出没する境界動物たちがいる。家畜動物と野生動物との間に位置付けられる境界動物に対して、著者らは「デニズン」という政治的地位を見出している*4。これらの属性を持つ動物はそれぞれにどのような権利を持っており私たちはそれぞれに対してどのような義務を負っているかということについては、第4章以降で個別に論じられていくことになる。

 従来の動物倫理は人間による抑圧や暴力から動物を「解放」させることを強調させてきたのに対し、著者らは人間のコミュニティ内で家畜動物を倫理的に処遇する方法を探ろうとする。野生動物についても、人間が行っている様々な活動が彼らの生息地を破壊したり食料を枯渇させていることなどを考慮すれば、自然の存在からといってただ単に放っておくだけでは野生動物に対する道徳的義務が果たされるとはいえない。『すべての動物を2種類に分類する考え方、すなわち野生に暮らす 「自由で自立した 」動物と、人間とともに暮らす「捕らわれの身で依存した 」家畜動物とに分けて考えるのは…』(p.95)的外れである、と著者らは主張する。ある種の野生動物の生存は人間の行動に大きく左右されることや、一部の希少動物の自然への復帰は人間の手に委ねられていることなどを考えると、野生動物たちは家畜動物よりも強く人間に「依存」している場合があるのだ。また、街中でゴミを漁るカラスや郊外や農地に出没するシカやイノシシなど、「害獣」と目されることもある境界動物との間に人間が築くことのできる道徳的関係性は、家畜動物に対するそれとも野生動物に対するそれともまた異なったものになるはずだ。…そんなこんなの具体的な各論については、次回以降、第4章以降の内容としてまた紹介していきたいと思う。

*1:第1章は全体のまとめ的な序論なので、ここではあまり触れない

*2:著者らによる動物の権利と多文化主義についての議論は、以前に紹介した

davitrice.hatenadiary.jp

*3:この判断はどう考えても功利主義的なものであるように思えるし、逆に功利主義であっても「正義の情況」が成立しているような場合に人や動物の生命を犠牲にすることを要求することはほとんどないように思えるので、功利主義に批判的な権利論者たちによるご都合主義的な議論のように私には思えてしまう

*4:デニズンは「永住市民」や「定住外国人」などの意味を含む言葉であるようだ

人文学は何の役に立つのか?

 

 近年、「学問は役に立つのか?」「人文学を学ぶ意味はあるのか?」「利益を上げない学問に税金を投入する意味はあるのか?」みたいなことが言われることが多くなっているような気がする。大体の場合、やり玉に挙げられるのは人文学や文系の科目全般だったりする。

 私は学生時代に人文系の学問を専攻していたし家族にも人文系の大学教授がいるのでわかるのだが、人文系の大学教授の大半は、「人文学は役に立つのか?」あるいは「お前のやっている学問は何かの役に立つのか?」ということを問われると憮然としたり心外だと言わんばかりに憤ったりする。それで「役に立つかどうかという理由で学問をやっている訳ではない」「何かの役に立つからという不純な動機で学問を始めた訳ではない」ということを言いだすし、「学問に対して役に立つ/役に立たないなんて基準を持ち込む方が非学問的だ」「学問に実利を求める奴は学問の何たるかをわかっていないのだ、けしからん、そういう奴らが日本をダメにしたんだ…」みたいなことを言い出す。

 

「人文学は役に立つのか?」という質問に対して正面から答えようとせずに、「そもそも、"役に立つ"とはどういうことか?」などと言葉の解釈について話をずらして、ウダウダ理屈を連ねてそもそもの問いを誤魔化す、というのもよくある風潮だ。具体例は以下みたいなもの。

 

役に立つ学問とは何か。
    
「役に立つ学問」とは何のことなのだろう。
そもそも学問は役に立つとか立たないとかいう言葉づかいで語れるものなのか。
正直に申し上げて、私はこういう問いにまともに取り合う気になれない。というのは、こういう設問形式で問う人は、一般解を求めているようなふりをしているけれど、実際には「その学問は私の自己利益の増大に役に立つのか?」を問うているからである。
だから、にべもない答えを許してもらえるなら、私の答えは「そんなの知るかよ」である。何を学ぶかは自分で判断して、判断の正否についての全責任は自分で取るしかない。「役に立つ」ということには原理的に一般性がないからである。

役に立つ学問 (内田樹の研究室)

 

 こういうのは、書いている本人にとっては自分が賢いことを言っているような気がして気分がいいのだろうが、「学問は役に立つのか?」という問うている人たちに対して正面から向き合っている文章であるとはとても思えない。

 

 また、よくあるのが「自分は学問が役に立つか立たないかなんて考えたことがない」みたいな回答。

 

…私は「役に立つ学問」というものに興味がない。それを識別することに何か意味があると思っている人にも興味がない。それはたぶん「お前のやっていることは何の役にも立たない」と若い頃から言われ続けてきたせいである。自分でも「そうかもしれない」と思っていたから反論もしなかった。でも、自分にはぜひ研究したいことがあったので、大学の片隅で気配をひそめて「したいこと」をさせてもらってきた。私が30年にわたって「何の役にも立たないこと」を研究するのを放置していてくれた二つの大学(東京都立大学神戸女学院大学)の雅量に私は今も深く感謝している。私が選んだ学問領域は四十年にわたって私に知的高揚をもたら続けてくれた。私はそれ以上のことを学問に望まなかったし、今も望んでいない。

役に立つ学問 (内田樹の研究室)

 

 これも言外には「本当に学問に精通している人間は役に立つか立たないかなんて考えないものだ、そんなことを質問してくる時点で学問のことをわかっていない門外漢の馬鹿だ、自分の学問が何かの役に立つと思って研究している連中も学者としては二流だ…」みたいな気持ちが込められているんだと思う。

 

 私がよくわからないのは、なぜ「自分のやっている学問はこれこれこういう風に役に立ちますよ」とか「人文学はこのような点で社会にとって有益ですよ」ということを素直に示さないのか、ということだ。議論の前提を "問い直して""脱構築"してみたり議論に使われている用語についてグダグダと掘り下げてそもそもの議論を曖昧にして誤魔化そうとする、ということばかりが人文学や哲学の仕事ではないはずである。

 

https://www.nytimes.com/2017/03/30/opinion/president-trump-vs-big-bird.html

 

 たとえば、2017年3月30日のニューヨークタイムス誌に掲載されたニコラス・クリストフ(Nicholas Kristof)の記事では、人文学を軽視するドナルド・トランプが大統領になってしまったアメリカの状況をふまえた上で、歴史上で文学や哲学などの人文学がどのような利益を社会に与えていったか、ということを論じている。

 この記事でクリストフが論じていることの一つは、文学を読む習慣が普及したことは人々を道徳的にさせた、ということだ。例えば、アメリカで奴隷解放運動を支持する人を増やしてやがては運動を成功させた要因の一つは、ハリエット・ビーチャー・ストウの小説『アンクル・トムの小屋』が広く読まれたことであった。最近の心理学実験においても、フィクション作品を読むことが人々の他者に対する共感を強くさせる、ということが示されている。

 読書(文学)が人々を道徳的にさせるということを指摘した人として、クリストフは心理学者のスティーブン・ピンカーの名前を挙げている。ピンカーについては私も何度かこのブログで取り上げてきたが、「なぜ、文学者たちは"文学が役に立つ理由"を尋ねられても文学が人々を道徳的にするということを示さないのか」という点については、ピンカーは以下のように論じている。

 

 

小説が人々を道徳的にする、という考えはピンカー以外にも多くの学者たちが論じている考えなのだが、小説というものを最も直接的に研究対象にしているはずの文学研究者は、この考えを好まない。「今日では、歴史学者のリン・ハント、哲学者のマーサ・ヌスバウム、心理学者のレイモンド・マーやキース・オートリーなどが、共感を拡大して人道主義的な進歩を推進するものとして、フィクションを読むことの有効性を支持している。その仲間には文学者も入るだろう、と普通なら思うかもしれない。自分たちの専門分野が学生にも資金にもこぞって敬遠されている時代にあって、これぞ進歩の推進力なのだと示したくてたまらないはずだからと。しかし、『共感と小説』のスザンヌ・キーンを始め、多くの文学研究者は、フィクションを読むことが道徳的によい効果を与えるのではないかという考えに苛立ちを隠さない。彼らからすると、その見方はあまりにも中級知識人的で、セラピー志向で、キッチュで、センチメンタルで、オプラ的に思えるのだ。」(『暴力の人類史』下巻、389ページ)

 

 

www.theguardian.com

 また、ガーディアン誌に掲載された小説家・著述家のレベッカ・ゴールドスティン( Rebecca Goldstein)のインタビュー「科学は私たちにとって最良の答えだ、だがそれを証明するためには哲学的な議論が必要だ」でも、科学が私たちにとってどのように"役に立つ"かということと対比させる形で、哲学が私たちにとってどのように"役に立つ"かということが論じられている*1

 現代では、事実に関する議論("What is?")に関しては科学の専門分野であり、科学は事実を理解する上で最良の答えを与えてくれる(ただし、事実とはそもそもなんぞやということを考えたり科学的議論の正確さなどを担保するためには哲学も必要となる)。だが、価値に関する議論("What matters?")に関しては現代でも哲学が専門分野なのであり、そして哲学が進歩することは私たちの社会全体の道徳を進歩させてきた、というのがゴールドスティンの主張である。

 

社会に起こってきた主要な変化のいずれを見ても、そのきっかけは哲学者たちにさかのぼることができる、とゴールドスティンは言う。それらの変化はまず知的な議論として始まって、そしてかなり時間が経った後にようやく社会の主流派にも変化が受け入れられるようになり、そしてやがてはその変化はあまりにも日常的なものとなり過ぎて見えなくなってしまう。それこそが、哲学の進歩に対して私たちが恩恵を感じない理由である、とゴールドスティンは考えている…常識を変えてしまうことにより、哲学は常に人々に吸収されて標準的なものとなっていくのだ。

 

 例として、奴隷制にまず最初に反対したのは哲学者であることをゴールドスティンは挙げている。物事について考える学問である哲学は、私たちの間で常識となっていたり標準となっている慣習や規範についても考え直すのであり、「現在では奴隷(や女性や外国人や同性愛者など)を虐待したり迫害したり差別したりすることは当たり前となっているが、よくよく考えると、それは誤りかもしれない」という考えを生み出すきっかけとなり、それがやがては社会の慣習や規範を実際に変えてしまうのだ。

 

 クリストフもゴールドスティンも、現在進行形で人文学や哲学が人々の思考・行動を変えさせて社会にも変化をもたらしている例として、ピーター・シンガーの『動物の解放』を挙げている。シンガーの哲学は、工場畜産という制度に対する反対運動を活性化させて多くの人々を菜食主義者にして、家畜が育てられる環境を良くするための法的な規制を実現させて、"動物に対して道徳的に配慮する"ことを一部の変人の行うことではなく社会における規範として広く定着させつつあるのだ*2

 

 

 …文学や哲学が奴隷制を始めとした人間に対する様々な暴力や差別に対抗してそれらを撤廃させる力となってきたのなら、実際に文学や哲学は多くの人々を苦痛から解放してきたということになり、それを「役に立たない」「社会に利益を与えない」ことだと言える人はそうそういないだろう(動物に関してはまだ意見がわれるかもしれないが)。クリストフやゴールドスティンが言及しているのは文学や哲学が主であるが、歴史学などの他の人文学の学問だって様々な形で役に立っているはずである。

 

 私としても、(現在は学生でも研究者でもないのだが)自分が学問をするならそれが何らかの形で人々や社会の役に立つことを望みたいものだし、「あなたのやっている学問は何の役に立つのか?」と問われた時には(問いの前提についてどうこう言うばかりでなく)正面からはっきり答えられるようになりたいし、自分が行っている学問がどういう役に立っているのかについて常に調べたり考えたりしたいと思う。また、例えば大学教授とか研究員の研究に対しては何らかの税金が投入される訳で、そこで自分の研究の社会的意義を問われた時に煙に巻いてごまかそうとしたり役に立つかどうかなんて考えたことないと開き直ったり心外だとばかりに憤慨するとすれば、社会の成員としても道義的にダメだと思うし、大人としても格好悪いだろう。日本でも、クリストフやゴールドスティンの記事のように、「学問が役に立つ理由」を真っ向から魅力的に論じた文章をもっと読みたいものだ。

*1:本筋とは関係ないがゴールドスティンは先述のピンカーとはカップルであり、記事の中ではピンカーの論的であるスティーブン・J・グールドをきっかけとしたピンカーとゴールドスティンとの馴れ初めも書かれている

*2:シンガーの議論の例:

ピーター・シンガー「私たちが肉を食べるのを止めない限り、動物たちへの虐待は終わらない」(2015年2月11日) — 経済学101

野生動物とペット・家畜に対する道徳的責任の違い - クレア・パーマー『文脈のなかの動物倫理』

 

Animal Ethics in Context

Animal Ethics in Context

 

 

 

 数年前にClare Palmer(クレア・パーマー)という人が書いた『Animal Ethics in Context(文脈のなかの動物倫理)』を読んだことがあるのだが、著者本人が著作の内容について解説しているページがあったので、せっかくだから一部抜粋して訳して紹介してみる。

 

rorotoko.com

 

 

「動物は様々な環境に住んでいる。私たちの家、住宅地や街中、農地、野生。一部の動物たちは、人間と直接対面することは決してない。別の動物たちは人間によって意図的に生み出された存在だ。動物たちとの間の異なる文脈や関係性は、道徳的に問題となるのだろうか?

 問題になる、と私は『文脈のなかの動物倫理』で論じている。

 今日まで、動物倫理の議論は、人間にとっての利益は動物に苦痛や死を与えることを正当化するか、正当化するとしてそれはどのような時か、という問題に焦点を当てて論じられてきた。もちろん、それは重要な問題だ。だが、人間同士の倫理では、誰かに危害を与えることが正当化されるか否かやどのような時に正当化されるかということ以外にも考えるべきことが大量にある。例えば、いつどのような時に誰かを助けるべきであるか、ということについても私たちは知る必要があるのだ。このような場合には文脈はきわめて重要になる、と私は論じている。

 嵐が起きて洪水が起こったとしよう。被害にあった野生動物たちを、私たちは援助するべきだろうか?彼らを助けるために私たちに何らかのことができるとすれば、彼らが苦痛に苛まれているのを放置することは間違っているのだろうか?自然災害のような事例では私たちは野生動物を助ける義務は無い、と私は主張している。野生の世界で起きることは、私たちの道徳には関係のないことなのだ。

 しかし、自然災害ではなく、人間が野生動物たちの居住地を破壊して、自然災害が引き起こすのと同様の苦痛を野生動物たちに与える場合についてはどうだろうか。このような場合には私たちは動物たちを助けるために何らかの行為をするべきである、と私は論じている。"助ける"とは具体的には何を意味するかということも、文脈によって変わってくるのだが。

 さらに、全く野生ではない数十億の動物たちが存在している。人間は彼らの存在に責任があり、人間にとって都合が良い方法で彼らを繁殖させて、人間が作り出した環境に彼らを閉じ込めている。多くの場合に、このことは動物たちを人間に依存させて、私たちが彼らの世話をおろそかにした場合には彼らの生命や健康は危険に晒されることになる( This often makes them dependent on us and vulnerable to our neglect.)。人間に依存するヴァルネラブルな存在を生み出すことは、彼らをケアすることについての特別な責任…人間に依存しない野生動物たちに対しては存在しないような責任…を生み出すことになる、と私は論じている。

 

『文脈のなかの動物倫理』は、動物倫理における理論的な議論と動物の扱いに関するより現実的な関心との両方について、何らかの貢献をしようと試みている本である。

 理論の面では、動物倫理学者たちは動物たちが持っている特定のキャパシティ(capacities, 能力)の重要性…苦痛を感じることができるというキャパシティや「自己という感覚(sense of self)」を持つキャパシティなど…について焦点を当ててきた。私も、これらのキャパシティが重要であることを否定はしない。動物たちが道徳的な重要性を持つのは、彼らは苦痛や不快を感じることができてそのために彼らの生は良くなることもあれば悪くなることもあるからだ、という主張はかなり妥当であるように思える。しかし、動物のキャパシティに焦点が当てられ続けてきたことは、動物倫理学が論じられることをかなり制限してしまった、と私は論じている。

 苦痛を感じるキャパシティなどの道徳に関係のあるキャパシティがある動物たちの間で共通しているとすれば、それらの動物たちに対して私たちは同等の道徳的責任を持つ、ということはよく主張される。その動物が家のなかで飼われているイエネコだとしてもヨーロッパヤマネコだとしても、私たちは同じだけの道徳的配慮をしなければならない、という訳だ。

 動物たちのキャパシティは重要ではあるが道徳に関係のあることの全てではない、と私は『文脈のなかの動物倫理』にて論じている。私たちは、文脈や関係性という要素も考慮に入れる必要があるのだ…人間同士の倫理問題で私たちがそれらの要素を考慮に入れているのと同じように。

 倫理学の理論では、特定の種類の関係は特別な道徳的義務を支える、ということが主張されることが多い。…たとえば、依存しなければ生きていけない子どもを生み出すことや、他人を害することの原因に関わっている、などの関係だ。生き延びるためには私たちを必要とする存在を生み出したり、本来なら満たせたはずの誰かの利益を妨げたりするとすれば、私たちは他人一般に対しては負わないような特別な責任をそれらの人々に対して負うことになる。人間と動物との関係の一部も、人間同士との関係と同様の構造をしている、と私は論じている。

 第一に、この議論は重要なものであると私には思える。動物を助けるべき場合や動物に危害を与えることが許容される場合とはどのようなものであるか、ということに関する一連の新しい問題を提起するからだ。この点に関しては、『文脈のなかの動物倫理』は議論を開始させたに過ぎないと私は考えているし、別の誰かが私よりも優れた議論を行うことを望んでいる。そのことはやがて動物倫理学の知見がより幅広く複雑なものになるという結果につながるだろう。

 第二に、私は環境倫理学において長らく行われている議論に対して介入しようと試みている。生物種や自然の生態系に倫理的配慮の焦点を当てている人々と、個々の動物たちに倫理的配慮の焦点を当てている人々との間には、長年にわたって亀裂が存在してきたのだ。

 生物種や自然の生態系を重視する人々と個々の動物たちを重視する人々が特に争っているのが、野生動物の苦痛を解消するために人間は野生に介入するべきであるか否か、という論点だ。同様のキャパシティを持った動物たちに対しては人間は同様の責任を負うという見解をあなたが持っているとして、そして飼い犬に対しては獣医学的なケアを与えるべきであるとあなたが考えているのあれば、野生のオオカミに対しても飼い犬に与えるのと同様の医療ケアを与えるべきだということになる筈だ。このことは、私たちは特定の状況において自然に介入する義務がある、という結論を導くように思える。

 しかし、環境倫理学者たちはこの見解に対してかなり強く反対している。野生のオオカミを治療するような行為は生態系の健康を損って生態系の野生さを弱めてしまう可能性がある、と彼らは論じるのだ。野生と屋内(domestic)とのそれぞれの文脈の区別を認める私の議論は、この論点を解決する助けとなる。私たちが繁殖させてきた犬に対しては、私たちは特別な関係を持つのであり、私たちは犬に医療ケアを与えるべきだ。しかし、私たちはオオカミに対しては犬と同様の関係を持っていない。個々のオオカミをた助けることについての道徳的義務を、私たちは全く負っていない。私たちが何を行うべきかということは文脈に依存しているのであり、動物と人間との関係の歴史、動物たちの苦痛の原因に人間が関わっているかどうか、などなどによって変わってくるのだ。環境倫理学者たちと個々の動物へ配慮する人々との間の理論的な橋渡しを補うのに『文脈のなかの動物倫理』で行われている議論が貢献することを、私は望んでいる。

 第三に、そして最後に、私は具体的な文脈の詳細にも関心を抱いている。自分が発展させようとしている理論的な視点は実践ではどのように機能することができるのか、数々のケース・スタディを用いて思考することを私は試みた。私が考えていたのは、より抽象的で理論的な立場を発展させることと動物の扱いに関する地に足のついた判断との間に存在するギャップを埋めることだった。実際、個々の事例を通じて考えることには多くの意味があった。特に、自分が以前に行っていた理論的な主張の一部について考え直させられることになった。実のところ、特定の動物をどう扱うべきかということについての地に足の着いた判断をするうえで行わなければならない全ての種類の正しい考慮を示すことができたかどうかについて、私は未だに自信がないのだ。

…」

 

 

The Oxford Handbook of Animal Ethics (Oxford Handbooks)

The Oxford Handbook of Animal Ethics (Oxford Handbooks)

 

 

 

  ついでに紹介しておくと、上記の本に収録されているパーマーの論文「屋内動物と野生動物との区別(Distinction betweem Domesticated and Wild Animals)」にも彼女の主張が短くまとめられている。

 要するに、人間がいなくても存在していた野生動物に対する道徳的義務と、人間が生み出してきた(さらに、人間によって世話をされなければまともに生きていくことができないように人間によって品種改良されてきた)家畜やペットとの道徳的義務は全く異なるのであり、後者に対して私たちは特別で強い義務を負っているということだ。

 興味深いのが、家畜に対する人間の責任を論じるうえで、パーマーはトマス・ポッゲのグローバルな加害責任論を参照しているところだ*1。ポッゲの理論は要するに「先進国は途上国に対して歴史的に危害を与え続け、現在でも自分たちに有利で途上国に不利な政治経済制度を築き上げることで利益を得続けている。先進国に暮らす人々は、途上国の人々に対する加害を含んだ歴史や制度の受益者であるために途上国の人々に対する加害責任を負っているのであり、(先進国に暮らす個々の人々は途上国の人々に対して悪いことをしているつもりはないとしても)先進国に暮らす人々は途上国の人々を助ける道徳的な義務がある」みたいな主張だが、パーマーは「先進国の人々→人間」「途上国の人々→家畜」に変換することで、家畜に対する人間の加害責任を論じている。ここら辺は着眼点が優れているし妥当であるように思えた。

 ちなみに、パーマーの議論はドナルドソンのキムリッカの『人と動物の政治共同体』でも大いに取り上げられている。

 

 

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:ポッゲの議論について簡単に紹介されているページ

note.mu

ジョエル・モキール『経済発展の文化:近代経済の起源』

 

A Culture of Growth: The Origins of the Modern Economy (Graz Schumpeter Lectures)

A Culture of Growth: The Origins of the Modern Economy (Graz Schumpeter Lectures)

 

 

 経済史学者のジョエル・モキールの『経済発展の文化:近代経済の起源』を飛ばし飛ばしながら読んだので、内容をごく短く要約して、適当な感想も付け足しておく。私はこの分野に全く詳しくないので著者の主張がどれくらい妥当であるかといった評価はできないのだが…。

 

 近代的な経済成長とか産業革命はなぜ他の地域ではなくヨーロッパで初めて起こったのか、ということについては色々な人々が様々な議論を提起している訳だが、モキールは所有権の確立とか自由な通商といった「人と人との関係」の変化についてではなく、科学やテクノロジーの発達やイノベーションといった「人と外的環境との関係」の変化を強調して論じている(モキール自身は、前者はアダム・スミス的な観点であり後者はヨーゼフ・シュンペーター的な観点であって、この本はシュンペーター的な観点によって書かれているとしている)。モキールによると、ヨーロッパで産業革命が起こったのは「人間は知識によって自然界を理解してコントロールすることができ、自然界から有益なものを発見して利用することができる」「知識を通じて自然を征服することによって、人間社会を発展させて進歩させることは可能である」という考え方がヨーロッパに普及したことが理由である。

 

 …これだけだとよくある議論のように聞こえるかもしれないが、モキールの本のポイントは「人間は自然を操作して利益を生み出すことができる」「人間社会の進歩は可能である」という考え方が、"いつ""誰に""なぜ""どのようにして"普及したかということを、文化進化論のモデルを使いながら詳細に描いていることにある。経済史の本であるのに、序盤の数十ページは文化進化論の考え方やモデルの説明に割かれているのだ。私はいわゆる比較文化論というものは論者の議論にとって都合の良い証拠とか資料だけをピックアップしたうえで都合の良い理論をでっちあげて説明するみたいな胡散臭いものが多いと思っていたのだが、文化進化論はモデルとか理論とかがしっかりしている感じがしてなかなか面白いと思うし、もっといろんなトピックについて文化進化論による解説を読みたいものである。

 

 モキールの主な主張は、「知識は力なり」で有名なフランシス・ベーコンや『自然哲学の数学的諸原理』を著したアイザック・ニュートンの考え方がヨーロッパの知識人たちの間で普及して、知識人たちは科学的知識を追求し始めるようになったこと、それも単に自然についての知識を増そうとするだけでなく人間社会にとって利益になるような「実用的な知識」を追求することが一般化したことが、やがては産業革命をヨーロッパにもたらした、というものである。「科学知識によって自然を征服する」というベーコンの発想はいかにも悪者っぽくて、キャロリン・マーチャントの『自然の死:科学革命と女・エコロジー』などの様々な反科学・反西洋・反近代的な著作で槍玉に挙げられている訳だが、しかし、産業革命と経済発展のおかげで現代の我々が甘受できている豊かな生活はベーコンがいなければ存在しなかったのかもしれないである。

 文化進化論の理論からすれば、肝心なのは、ベーコンやニュートンが何らかの考え方を提唱したこと自体ではなく、むしろ彼らの考え方が普及するために必要な要素や環境が当時のヨーロッパに存在していたことである。ではなぜベーコンやニュートンの考え方がヨーロッパに普及したかというとそれには色々な要素があって、この本ではその色々な要素が詳細に語られている。キリスト教会は両義的な役割を果たしていたとか中東やアジアのように強大な帝国がなくて各国の勢力が均衡していたことが知識の普及や切磋琢磨などを促進したなど、とにかく色々あるので全部はまとめきれないのだが…。「ヨーロッパにはやがて必然的に産業革命がもたらされるであろう背景や環境や文化が存在していた」と主張するのではなく、ある時代における様々な要素のバランスの作用によってベーコンやニュートンの考え方が(ある意味では偶然として)普及した、ということが強調されているのがこの本のポイントだろう。

 また、ヨーロッパにおける科学の発達で特に重要だったのは、近世のヨーロッパにはいわゆる「文芸共和国」が成立しており、知識人たちは国家や宗教の境界を越えて知的に交流できたこと、また自国では弾圧を受けるであろう意見を持っている知識人にとっても他国に移動することが比較的簡単であったことのために、自由な意見の表明や議論を行えて知識の交換や促進されたことである。さらに、知識人たちにとって自分の知識を公開することは文芸共和国内での名声を高めることにつながり、そして当時は名声それ自体が知識人たちにとって非常に価値のあるものとされていたのであり、またパトロンを確保しやすいなどの実益につながるということもあって、知識人たちはこぞって自分の知識を公開した。普通なら知識を公開するということは他人に自分の知識が利用されたりして自分にとって得にならないことが多いのだが(だから特許という制度があったりするわけだ)、近世のヨーロッパでは「名声」というインセンティブが働いたことが科学の飛躍的な発達につながったのである。また、知識の力によって社会を発展させることは宗教的な義務であるという考えも広まっていた。特にイギリスなどのプロテスタント協会はベーコンの考え方を宗教的義務と結びつけて、それがまた科学を発展させた。

 では他の国はどうだったかというと、そもそも現状維持を望む国家や官僚や宗教の力が強すぎて知識の発展が歓迎されなかったり弾圧されたり、知識を公開することへのインセンティブが存在しなかったので科学的知識も密教みたいになって発展が停滞したり、科学によって自然を征服しようとか社会を進歩させることは可能であるという発想が諸々の事情で普及しなかったり、などなどの理由で前近代的なままであった。

 

 最近私が読んできたいくつかの本と同じく、この本でも、経済や科学の発達のためにはトップダウンではなくボトムアップで自由に交流して自由に意見を交換することが大切であると論じられている。また、「人間社会を進歩させて発達させることは可能である」と知識人たちが信じたことそれ自体が実際に社会の進歩や発展をもたらした、という点もかなり強調されている。最近ではよく保守主義の考え方が再評価されていて、「ある社会慣習が昔から残っているということは、その社会慣習は優れているはずだ」「理性の力によって社会改良をするなんて考えは災いしかもたらさない」あるいは「現在の社会は過去に比べて堕落している」みたいなことが盛んに言われているような気がするが、モキールの議論によれば、近世のヨーロッパの人々が「社会を発展させることはできる」「我々は理性と科学によって昔よりもすぐれた社会をもたらすことができる」といった考えを抱いたことによって(産業革命とか経済発展とかが起きたおかげで)現在の我々も大きな恩恵に授かっているのだ。そのことには十分に留意するべきだし、安直に保守主義をもてはやすのも有害であるかもしれない、などのことを改めて思った。

 

動物愛護運動は人間の苦痛から目を逸らすための運動?

 

階級としての動物―ヴィクトリア時代の英国人と動物たち

階級としての動物―ヴィクトリア時代の英国人と動物たち

 

 

 

 イギリスやアメリカなどで18世紀〜19世紀に行われた動物愛護運動について書かれた歴史の本はいくつかあり、特にイギリスは動物愛護運動の発祥の地ということもあってか注目度が高く、ジェイムズ・ターナー著『動物への配慮―ヴィクトリア時代精神における動物・痛み・人間性』やハリエット・リトヴォ著『階級としての動物―ヴィクトリア時代の英国人と動物たち』などが邦訳されている。

 ただ、ターナーにせよリトヴォにせよ、動物愛護運動に対して批判的に書かれているところが強い。リトヴォは動物愛護運動を主に行っていたのは中産階級であり、彼らは上流階級や下流階級の習慣を非難していたのであり動物愛護運動も階級間の闘争の一環に過ぎないのだ、という風に論じている。また、ターナーの議論は以下のようなものだ:当時のイギリスでは産業革命による工場の発達に伴い多くの労働者が都市に流入して、都市に暮らす中産階級や上流階級の人々は子供や女性を含む虐げられた労働者や身体障害者などの苦痛を目の当たりにするようになったが、工場を批判して下層階級に配慮を示すことは労働者の犠牲のうえに成り立っている自分たちの豊かな生活を否定することになるし階級社会に甘んじている自分たち自身の否定になる…だから、人々の苦痛を目にして感じた罪悪感を動物への苦痛に "転移"させて動物の苦痛を減らす動物愛護運動を行うことで、中産階級や上流階級の人々は自分たちの立場を危うくせずに安全に罪悪感を解消することができたのである。

 

 

For the Prevention of Cruelty: The History And Legacy of Animal Rights Activism in the United States

For the Prevention of Cruelty: The History And Legacy of Animal Rights Activism in the United States

 

 

 

The Animal Rights Movement in America: From Compassion to Respect (Social Movements Past and Present Series)

The Animal Rights Movement in America: From Compassion to Respect (Social Movements Past and Present Series)

 

 

 …しかし、このような議論、特にターナーの"転移"仮説は、かなり疑わしいものといっていい*1。理屈としては筋が通っているように見えても、その理屈を証明するための手続きはほとんど取られておらず、邪推と言っていいようなものなのだ。また、ターナーの主張では「動物愛護運動は人間の苦痛に対する罪悪感を動物の苦痛に転移させて、人間の苦しみを無視して罪悪感を解消するためのものだ」ということになり、動物愛護運動を行っている人は人間の弱者を対象にした運動を行わなくて済むということになるはずだが、実際には動物愛護運動を行っていた人々の多くは貧困救済運動・反奴隷運動・女性参政権運動・児童保護運動などの人間の弱者を対象にした様々な運動も並行して行っていたのだ*2。動物愛護運動を主に実践していたのは上流・中産階級であるということも、他の多くの社会運動の担い手が上流・中産階級であったことと同じく、金銭的・時間的な余裕がある層が運動の担い手になったということに過ぎないだろう。

 

  以上は昔の動物愛護運動についての議論だが、現在の運動についても「人間の苦痛から目を逸らして動物愛護運動を行っているのは偽善だ」「本当は動物への配慮が理由ではなく、価値観の押し付けをしたいんだろ」みたいな批判をしたがる人は多い。動物愛護運動についてあまり肯定的な意見を持っていない読者の多くはリトヴォやターナーの議論を好むだろうし、他の学者とか著述者とかも読者のウケがいいことを書こうと思って似たような議論を再生産しているかもしれない*3

 動物愛護運動を行っているからといって人間の苦痛に配慮していないと限らないし(人間を対象にした社会運動も並行して行っているかもしれないし、人間の問題も重要だと思っているが優先順位などを考えて動物の問題を対象にした運動を行っているのかもしれない)、倫理学的には人間の苦痛よりも動物の苦痛に優先して配慮することは必ずしも間違いとは言い切れないのだが(苦痛の質や規模が人間よりも動物の方が大きかったり、人間の苦痛よりも動物の苦痛を解消することに力を入れた方が費用対効果が良いという場合など)、それは置いておいても、他の社会運動にはあまり向けられないような言いがかりに近い批判が動物愛護運動には向けられることが多い。これも、「人間の苦痛は重大に配慮するべきことだが、動物の苦痛はどうでもいい」といった種差別的な考えを(学者を含めた)多くの人が未だに持っていることに由来するのかもしれない。

 

*1:上に挙げた本はどちらもアメリカの動物愛護運動の歴史について書かれた本だが、イギリスの動物愛護運動やターナーの主張についても取り上げられている

*2:例えば、これまたイギリスではなくアメリカの話になってしまうが、アメリカで児童保護運動を初めて起こしたのは動物愛護運動に関わっている人々であり、最初の児童保護団体も動物愛護団体から派生したものである。

davitrice.hatenadiary.jp

*3:repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/192592/1/kjs_008_081.pdf 例えばこの論文も、2000年に書かれたものなのに、英語圏の他の議論は参照せずに1980年に出版されたターナーの議論に頼りきりで、どうかと思う。