道徳的動物日記

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学問的営みを蝕む批判理論

 

 

Academic Freedom in an Age of Conformity: Confronting the Fear of Knowledge (Palgrave Critical University Studies)

Academic Freedom in an Age of Conformity: Confronting the Fear of Knowledge (Palgrave Critical University Studies)

 

 

 

 イギリスの教育学者のジョアンナ・ウィリアムズ(Joanna Williams)という人による本『Academic Freedom in an Age of Conformity: Confronting the Fear of Knowledge(同調圧力の時代における学問の自由:知識への恐怖に対抗する)』を軽く読んだので、この本の内容についての短めの著者インタビューを訳して紹介しよう。

 この本は、英語圏の大学において、不愉快であったり暴力的なイメージを排除しようとする「トリガー警告」や些細な言動をも暴力と見なして排除しようとする「マイクロ・アグレッション」、またイスラエルの学者などを学会などに呼ぶことはパレスチナの弾圧につながるという理由でイスラエルの学者を排除するBDS運動など、諸々のポリティカル・コレクトネス的な概念に基づいた運動が蔓延して学問の自由が軽視されている現状について分析している本なのだが、その一因として著者のウィリアムズが指摘しているのが人文系や社会科学系の学部における批判理論(クリティカル・セオリー)の浸透である。

 マルクス主義ポストモダン思想などとも関連している批判理論は「どのような学問的議論にも背景には様々なイデオロギーや権力関係などが潜んでいるのであり、客観的で普遍的な学問的議論など存在しない」という考えを大学にもたらし、競合する学問的議論を付き合わせて真実を探求するという学問的営みの価値を人々に疑問視させるようになった。結果として、「どんな学問的議論も所詮はイデオロギーなんだったら、学問の自由なんて大して重要ではない。それよりも人権とか人々が傷付かないようにすることのほうが重要だ」という発想や「学問的議論も権力関係の反映なんだとすれば、主流派の議論はマジョリティの権力が反映されてマジョリティにとって都合の良いものになっている筈であり、自分たちマイノリティは自分たちにとって都合の良い議論をでっちあげてそれに対抗しよう」という発想がもたらされたのであって、事実に基づいた正確な議論であってもそれが暴力や差別につながると見なされたら禁止される一方で、ジェンダー学などマイノリティの側に立った議論であると称すればどんなにデタラメな議論であっても容認される、という風潮ができあがった…みたいなことが論じられている本である。

 

quillette.com

 

 (前略。著者や本の内容について軽く紹介している部分。)

 

 インタビューにて、ウィリアムスは彼女が学問の自由のモデルとして提唱する「アイデアの自由市場(marketplace of ideas)」について論じた。つまり、最も議論の余地があり、論争を呼ぶような、そして非難されるような意見であっても、その意見が人々に公開される場所だということだ。

 

「ある特定の問題は大学において議論の対象とするべきでない、という考えは私には実に奇妙に思えます。大学こそが、自由でしっかりした議論を行うのに最もふさわしい場所であるべきなのですから。だからと言って、全てのアイデアは等しく正当であるとか、全てのアイデアは大学のカリキュラムで等しく扱われるべきであるなどと考えている訳ではありません。しかし、学生たちが挑戦的だと見なすであろう知識や考え方、あるいは学生たちを不快にさえしてしまうかもしれない知識や考え方を学生たちに提起することは、大学に属する者の義務であると私は考えます。そのような知識や考え方に接触することこそが、学問を学ぶということなのですから!」

 

 アイデアの自由市場モデルは、学者たちが「既存の権威に挑戦し、どちらの主張が真実であるかを競わせる」ことを行うためには学問の自由は必要不可欠である、という考え方に基づいている。しかし、大学の目的とされるものは変わってしまったように思われる。大学は、全てのアイデアが自由市場における競争に参加することが認められた場所から、社会的・経済的・政治的な目標を達成するための道具へと変わってしまったのだ。大学の目的が変化したことの結果について、ウィリアムズは以下のように論じる。

 

「政府の大臣たちにとっては、学問の自由を守る理由はあまりありません。学問の自由を守る責任は大学の教員たちに課せられていますが、学問の自由を[訳注:差別につながるからとかマイノリティにとって不利な制度であるからという理由で]問題視することが主流になり、学問の自由はエリートたちが自分たちの利益を追求するための手段に過ぎないとする見方のために、大学の教員たちは学問の自由を守ることができなくなっているのです。」

 

 また、(学問の自由を守る責任を課せられている筈である)大学の教授たちの多くが、学生たちによる検閲(censorship)運動が活発化することを助長している、とウィリアムズは示唆している。その理由は、そのような大学教授の多くが社会的現実の主観的な性質を強調しており社会的現実は主に言語の使用によって構築されるのだと論じていることにある、とウィリアムズは指摘する。

 

 「多くの場合、言語は現実を構築する力の全てを担っているのだと学生は教えられます。言葉は人を傷付けることができる、と学ぶのです。言語は私たちを狼狽させたり心を動かしたり感情を刺激したりするレトリックであるのを超えて身体的な危害や本当の暴力を実際に引き起こすこともできるのだ、と教えられるのです。」

 

  実際、そのような見方や考え方は多くの大学に存在しており、イギリスの学生たちによる検閲文化を活性化させて、学問の自由を侵食している。ウィリアムズは、批判理論(クリティカル・セオリー)がいかに学生たちの偏狭さと検閲文化を助長しているかということについて特に懸念を抱いているようだ。

 

「批判理論の問題点は、昨今に行われているようなアイデンティティ・ポリティックスを補強してしまい、検閲を行うことに知的な正当化を与えてしまう政治的傾向をもたらすということです。批判理論は、全ての知識は本質的に政治的であり権力関係に還元することができる、と教えます。そうすると、学生たちとっては、自分自身のアイデンティティ・グループの外からもたらされる知識を学ぶ意味は非常に少なくなります。また、言葉とイメージが現実を構築する力の全てを担っており、言葉とイメージを変えることは世界の実際の有り様にも影響を与える、と批判理論は教えます。このことは、ある特定の言葉や画像を禁止することで世の中を良くすることができる、という反民主主義的で非現実的な考えを学生たちに教えることになります。」

 

 インタビューの結論として、大学における知的な多様性を増させてアイデアの自由市場へと復帰することをウィリアムズは呼びかけた。アイデアの自由市場は、きっと、自分たちが支持しない考え方に対峙することへと学者たちとその学生たちに挑ませるだろう。このことは、自分たちが支持しない考え方や非難すべきであるように思える考え方をも守るという意志を学者たちに求める。非難されるような考え方を検閲したとしても、その考え方を立ち去らせたり、打ち負かしたりすることはできない。開かれた議論と討論こそが、それを可能にするのだ。

 

 

 

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