道徳的動物日記

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動物に関する文化人類学の議論の有害性について

 

 今回書くことは数年来考えてきたことであり、これまでにもTwitterなどでぶつぶつと文句は言ってきたのだが、まとまった文章を書くタイミングはなかった。

 しかし、先月に文化人類学者の奥野克巳氏(以下敬称略)がアップした「分別と無分別の間で ~動物解放への違和感から考える~」という記事を見てみると、コンパクトな記事ながらも、文化人類学が動物に関する倫理規範や動物の権利運動などについて言及する時にあらわれがちな問題点がぎゅっと詰まっていた。

 ちょうどいい題材だと思ったので、この記事を叩き台にしながら、私の考えを述べさせてもらおう。

 

www.akishobo.com

 

 奥野のこの記事の副題は「動物解放への違和感から考える」であり、文中でも、西洋の反イルカ漁運動や動物の権利運動が取り上げられている。
 そして、動物愛護や動物の権利の歴史について、奥野なりのまとめが書かれている。
 だが、私から見ると、奥野のまとめは動物の権利運動や動物倫理学に対して様々な点でアンフェアなものとなっているのだ。

 

 たとえば、奥野は “今日の” 動物の権利をめぐる理念を参照するとして、 “2001年”に邦訳が出版された『大型類人猿の権利宣言』を取り上げている(原著の出版は1993年だ)。
 そして、「能力の点で私たちに劣る動物」たちを放っておく動物の権利運動には「現段階では奇妙な種差別、捻じれた種差別を抱えこんでいるように思われる」と述べているのだ。
 この文章より前の部分では奥野はシンガーの代表作である『動物の解放』について触れているのだから、シンガーが大型類人猿やイルカなどの "高度な能力" を持った動物たちだけでなく、ウシや豚や鶏などの家畜やマウスやラットなどの実験動物についての倫理的配慮の必要性を論じていることは知っているだろう。
 また、一昔前ならともかく現代のアニマルライツ運動が大半の場面でビーガニズムと結び付いていることは、この問題に少しでも関心を持っていてニュースを追っていたら誰にも気付けることのはずなのだ。
「動物の権利運動は能力主義に基づいてイルカや大型類人猿を優先して他の動物は後回しにする、差別的な発想に基づいた運動だ」というタイプの批判は、奥野に限らず様々な論者が行ってきた。
 だが、少し前なら多少は説得力があったかもしれないその類の批判は、もう時代遅れなものとなっているのだ。

 

 さらに、奥野は『私の恋人』という小説に出てくる登場人物のセリフを引用したのちに、その登場人物のセリフに動物の権利運動の発想を仮託させて、動物の権利運動は「「かわいそう」の中心をどんどん広げていくという発想」に基づいているとしながら、「いつになったら、虫や微生物が全て含まれるようになるのだろうか?」と疑問を呈している。
 だが、少なくとも私がググった限りでは、引用元の小説の著者である上田岳弘氏が動物の権利運動に関わっていたり動物の権利運動に関して造詣が深い、という情報は見つからなかった。
 つまり、奥野が引用しているのは小説家が頭の中に抱いている「動物の権利運動家はこう考えているだろう」という考えを反映したセリフにすぎず、実際の動物の権利運動家の考えを反映している保証は何もないのだ。
 そして、「虫や微生物が含まれない(or後回しにされる)理由」については、「かわいそう」という感情に基づかない論理的な議論によって、すでに様々なところで説明されているのだ。
 動物の権利の理論に関する本はここ数年でも何冊か翻訳が出ているのだから、小説を引用しているヒマがあるならそれらの本でなされている議論を引用して、それに対して正面から反論するべきだろう。
 総じて、奥野による動物の権利運動の紹介は「動物の権利運動は能力差別的であり、かつ感情的だ」という悪印象を読者に与えるためのチェリーピッキングになっているように思われる。

 

 その後の文章では、奥野は先の文章で(歪んだ形で)紹介した動物の権利運動の思想に「西洋」を代表させて、それと対比する形で「東洋」の動物観なり自然観なりを持ち出す。
 そして、「西洋」の自然観は「感覚や知能、理性や感情などの基準によって対象を分別することにより執着を生み出す…アリストテレス的な知」だからダメであり、アニミズムとか禅仏教とかに基づいており「「いま=ここ」に立ち現れている現実として、動物たちが分別される眼前の現実を認める」東洋思想の方がエラい、という風な議論を展開するのである。


 今回取り上げている奥野のこの記事に限らず、既存の動物の権利運動の理論や動物愛護の発想などをアンフェアな形で紹介して、「差別的なものだ」という悪印象を与えてから「西洋的」「近代的」「合理主義的」などのラベルを貼り、それと対比する形で東洋文化なり非西洋諸国の価値観なりを持ち出して後者を賞賛する…というのは、文化人類学比較文化論において動物の権利運動や動物に関する倫理規範が取り上げられる時のテンプレでスタンダードなものになっているように思われる。

 もちろんそうでない形式で議論を行っているものもあるのだろうが、少なくとも私が数年前に院生だった時に「人と動物の人類学」だとか「人と動物の関係学」だとかのタイトルが付けられた文化人類学系の論文集などを読んでいたときには、そんなのばっかりだった記憶がある。それでうんざりしてしまって、 動物に関する文化人類学の議論をフォローするのはすぐに止めてしまったのだ(なので、私のこの紹介の仕方もアンフェアなものである可能性は、大いにある)。


 さて、私はこのテの文章はテンプレ的な東洋-西洋の二項対立論に基づいており、動物の権利運動云々に関する部分に目をつぶっても他の部分で文章としての面白みや啓発性があるわけでもなく、読む価値のないものであると思っている。

 しかし、こういう文章は量産され続けており、それを好んで読む人たちが一定数存在することも事実だ。
 おそらく、「西洋」を否定して「東洋」を賞賛する文章であれば何にでも飛びつくという読者は一定数いるだろう。また、単に文化人類学の議論のファンであり文化人類学者の書いた文章であれば何でも読みたい、という人もいるのかもしれない。
  だが、こういう文章に需要が生じる最大の理由は、やはり「動物の権利運動」を「差別的」だと批判している点にあると思える。このような文章は、倫理学者のゲイリー・シュタイナーが「気分を良くするための倫理」と名付けたものの一種であるからだ。
 以前に私が訳したシュタイナーの文章を引用しよう(シュタイナーが直接に批判の対象としているのは人類学ではなくポストモダン哲学であるが、文化人類学でなされている議論に対しても大いに当てはまる批判である)*1。  

 

…私たちは動物たちにどのような義務を負っているのかということについての明白で定言的な主張を、ポストモダンの思想家たちは行おうとしない。ポストモダンの思想家たちは、私が「気分を良くするための倫理学(feel-good ethics)」と呼んでいるものに安住しているのだ。道徳的な不正義に対する嫌悪を表現することを私たちに許しながら、それ程までに嫌悪している不正義に対抗するための具体的なことは全く要求せず、快適な領域から私たちを押し出さない倫理学…それが「気分を良くするための倫理学」だ。ポストモダニズムはレトリックとして魅力的になるほど道徳的に無力となる。 

 

 

 シュタイナーの言うところの「気分を良くするための倫理」のメカニズムについて、奥野の文章を例にとりながら具体的に説明してみよう。

 

 動物倫理学の議論では、「肉食は行うべきでない」「動物実験は制限されるべきだ」「毛皮製品を着用することを認める倫理的根拠は一切ない」などなど、既存の慣習や社会制度や個人の行動に対して制限や禁止を要求する結論になることが多い。
 これらの結論に賛同して、実際に肉食や毛皮の着用を止めたり、動物実験に反対する運動に参加する人は一定数存在する。
 だが、改めて言うまでもなく、大半の人には「肉食を止めたくない」という気持ちがあるだろう。「動物実験を続けてほしい」「毛皮製品を着用し続けたい」などと思う人も多いはずだ。
 そして、倫理学の議論を読んだり聞いたりしたからと言ってなんらかの強制力が発生する訳ではない。だから、動物倫理の議論に触れた後でも、肉食などの習慣を変えることなくこれまで通りの生活を続けることも現実的には可能だ。
 だが、習慣や行動は変えないとしても、「自分のやっていることには倫理的に問題がある」「自分が容認している社会習慣は非倫理的である」という批判を心のうちに抱き続けると、大半の人には罪悪感が生じてしまうものである。

 そのため、「間違っているのは動物の権利運動や動物倫理学の側であり、自分たちは間違っていない。罪悪感を抱くことなくこれまでの慣習を続けてよいのだし、むしろ動物の権利運動や動物倫理学の方がその差別性を批判されるべきなのだ」ということをお墨付きしてくれる議論が提供されたら、多くの人はそれに飛び付いてしまうのだ。…そして、私には、奥野の文章もそのような議論の一例であるように思える。
 また、「動物たちが分別される眼前の現実を認める」などなどと大層なことは書いているが、「実際には動物に対して何をすればいいか」「具体的にはどういうことをすればいいのか」、ということを全く示さないのも、奥野の文章のポイントだ。 

 つまり、「西洋」のものよりも優れているとされる「東洋」の思想を示すことで「西洋」の思想を批判しつつ、「東洋」の思想がもたらす義務や要求する行為などについてはまったく示さないのである。これにより、読者は「倫理的な思考を行っている気分」や「動物と真剣に向き合っている感覚」を得られながらも、「自分の習慣を変えるべきだ」という倫理的要求や自分の属する社会に対する批判などの自分にとって不都合で不快感を与える要素を回避することができてしまうのだ。 …と、これこそが「気分を良くするための倫理」のメカニズムなのである。

 

 現在の社会では「種差別」という概念はあくまで動物倫理学や動物の権利運動とその周辺でしか理解されておらず、社会的な認知度を得ていない  。

 だから、動物は文化人類学者たちやポストモダン哲学者たちによる気軽な思考遊戯の題材として取り上げられやすい。そして、種差別を批判する理論や運動に攻撃を行うことも、大したリスクにならないのである。
 しかし、これがもし人種差別や性差別に関する議論であったなら、文化人類学者やポストモダン哲学者であっても気軽に扱うことは難しいはずだ。  

 ある慣習や社会制度を差別であると告発する理論や運動を無力化し、人々の罪悪感を解消して現状維持でよしとさせるような議論を行うことには、「差別に加担している」と批判されるリスクが存在するからである。


 だとすれば、一見すると挑発的で革新的なもののように思える人類学やポストモダン哲学の議論も、実のところは、「動物のことや動物の権利運動のことに関しては、どのような議論を行っても抗議されたり炎上になったりしない」という安心感に立脚した、既存の社会規範の枠内で行われる言葉遊びに過ぎないのかもしれない。 …そして、動物はその言葉遊びのおもちゃにされてしまうだけではない。動物倫理学や動物の権利運動が毀損されるということは、苦痛を与えられたり殺されたりする動物の状況を改善するために実際に行われている社会運動を妨害することである。その結果として、動物たちに対していま現実に与えられている危害が放置されてしまうのだ。これこそが、動物に関する文化人類学(あとポストモダン哲学)の議論が有害たるゆえんである。

 

 

大型類人猿の権利宣言

大型類人猿の権利宣言