道徳的動物日記

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「分裂したアメリカ政治を乗り越える方法」 by ジョナサン・ハイト、ラヴィ・アイヤー

 

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 社会心理学者のジョナサン・ハイトとラヴィ・アイヤーが2016年の11月4日にウォール・ストリート・ジャーナルに発表された記事。ヒラリー・クリントンドナルド・トランプとの大統領選の結果が出る数日前に発表された記事だが、選挙の結果の如何にかかわらず民主党支持者と共和党支持者の両方に向けて書かれている記事であり、部族的・分極的で悲観的になりがちなアメリカの政治対立の現状を個人レベルで改善するための提案をしている記事である。

 

「私たちの部族的な政治をいかに乗り越えるか」by ジョナサン・ハイト、ラヴィ・アイヤー

 

 1983年に放送された『ザ・デイ・アフター』はアメリカの歴史上で最も多く視聴されたテレビ映画であり、ソビエト連邦とアメリカとの間の全面的な核戦争が起こる前後の数日におけるカンザスミズーリの人々の人生を描写したものである。火曜日の大統領選挙は世界の終わりや国家の崩壊をもたらすかもしれないという考えをあなたがほんの少しでも抱いたことがあるなら、 Youtubeで『ザ・デイ・アフター』を検索して、シークバーを53分までスクロールしてその次の6分間を見たほうがいいかもしれない。そこであなたが見るものこそが、この世の終末(apocalypse)である。

 言うまでもなく、大統領選挙の結果と核戦争の結果を比較するのは馬鹿らしいことだ。だが、その馬鹿らしさは参考になる。物事がどれほど悪く見えたとしても、感謝すべきことが私たちにはまだまだ残っている、ということを思い出させてくれるのだ。ソビエト連邦は過去のものとなり、大半の客観的な指標によるとアメリカ人の人生は1980年代よりもずっと良くなっている。犯罪は減っていて、経済的な成功(prosperity)や寿命は増している。そして、人種や性別等の人口グループに関わらず、成功へと続く扉は才能のある人に対して昔よりもずっと広く開かれている。たしかに、私たちは新しい問題を抱えるようになったし、進歩によって得られた恩恵も均等には広がっていない。しかし、大局的に見れば、私たちは驚くべき進歩を成し遂げているのだ。

 今回の選挙戦ではあまりにも多くのアメリカ人たちが終末論的な物言いをしているが、『ザ・デイ・アフター』を見ることにはそのような物言いを控えさせる効果もあるかもしれない。右派では、一部の人たちは今回の選挙のことを「ユナイテッド航空93便選挙(Flight 93 election)」と呼んでいる*1。アメリカは飛行機を破壊しようとしている悪逆無道な左派によってハイジャックされてしまったのであり、ドナルド・トランプを当選させてコクピットに駆けつけることが唯一の正気な選択である、ということだ。左派では、トランプが当選してしまえば憲政が危機に瀕して軍事クーデーターやファシズム独裁制が起こってしまうだろうと一部の人たちが考えている。

 そのために、11月9日の朝には、アメリカ国内の半分近い人が深く落ち込むことになるのだ。そして、負けた側の人々の多くは、アメリカはもう終わりだと考える。勝った側の人々は気持ちがほっとするだろう。しかし、勝った側の人々の多くも、道徳的には悪魔にも等しいような存在に対して自分の同胞たちの半分近くが投票したという事実にショックを受けて嫌悪をするのである。嫌悪とは対象を非人間化する感情であることをふまえれば、今回の選挙で両方の陣営が相手に対して示してきた嫌悪は、特に心配するべきものだ。嫌悪は、普通の市民たちが隣人を殺すことのハードルを下げる…多くの場合にジェノサイドの加害者達は嫌悪の感情を強く抱いていることもそれが理由である。

 手短に言えば…今回の選挙の次の日は、1860年以降にアメリカで行われたどんな選挙の次の日よりも暗くて不吉な日になる可能性が高いのである。果たして、アメリカ人たちがお互いを許し合い、認め合い、共に働いて共に生きることは可能なのだろうか?

 可能である、と著者たちは考える。結局のところ、市民性(civility)とは、同じ意見を持つことや批判を差し控えることを要求しない。お互いの誠実さや礼儀を尊重しながら、他人との意見の不一致を生産的なものにする能力こそが市民性なのである。感情が昂っている時には市民性を実践することは難しい。だが、蔓延している敵意の心理的な原因についてより良い理解を得ることができれば、敵意を弱める何らかの単純な手段を私たちの皆が実践することができるし、憎しみから自分たちを解放して次の四年間を私たちにとっても国にとっても良いものとできるはずだ。三つの由緒ある名言が、私たちの指針となってくれる。

 

私対私の兄弟、兄弟たちと私対私の従兄弟たち、そして従兄弟たちと私対部外者たち  -  ベドウィン族の諺

 

 人間の本性は部族的である。私たちは簡単にチームを組むことができるが、その理由として最も可能性が高いのは、人間は集団間の暴力的な紛争に適応して進化してきたということだ。私たちの精神は集団間の暴力的な紛争に対してあまりにも準備万端なのであり、私たちが迷信やゲームやスポーツ…"ペイントボール"のような戦争ゲームも含まれている…を発明してきたのも、恐怖や実際の戦争を経験しなくても集団間の紛争の快感を得られるようにするためにである。

 ベドウィン族の諺が示しているように、部族的な精神は脅威の対象の変化に対処するために同盟を変えることを得意とする。そのような変化の具体例は、各政党の予備選に見ることができる。敗北した候補者を支持していた人たちも、すぐに、指名された候補者の周りに集まって彼を支持するようになるのだ。9.11の同時多発テロ事件が起こった後にアメリカ中が団結して大統領とアフガニスタンに侵入する軍隊を支持した時にも、私たちは部族的な精神の変化の具体例を目にしていたのである。

 しかし、9.11の後の数ヶ月という例外を除けば、1990年代後半以降、アメリカにおける政治党派間の敵意は着実に伸び続けている。ピュー研究所が世論調査を行うようになったのは1994年からだが、相手の政党の意見を「支持できない」ではなく「とても支持できない」意見であると両方の党派の多数派が答えたのは今年が初めてだ。1990年代を通じて、「とても支持できない」という答えをする人は通常は20%以下であり続けた。だが、現在では両方の党派においてそれぞれ40%以上の人々が相手の党派の政策を「あまりにも間違っているために、アメリカの健康(well-being)を脅かす」と見なしている。2014年からのたった2年間で、その数字は両方の党派において10%も上がってきたのだ。

 では、次に大規模なテロ攻撃が起こった際にはどうなるだろうか?私たちは再び団結するだろうか?または、最近数年で小規模なテロ攻撃が起こった後の事態と同じように、数時間も経たない内にテロ攻撃は党派間の論争の題材となってしまうのだろうか?アメリカの部族主義では何かが壊れている。現在では、私たちは常に「兄弟たちと私対私の従兄弟たち」という状態になっているのだ…部外者たちが私たちを脅かしている時や、何も脅威が存在しない時でさえも。

 民主主義は、競争を必要とするのと同様に信頼と協力も必要とする。健全な民主主義の特徴とは、柔軟性があって同盟が変化することである。自分とは反対の側にいる市民たちを従兄弟であると見なす方法を私たちは見つけなければならない…時には議論の相手となるが、価値観と利害の大半を共有しており、決して道徳的な敵とはならない従兄弟であると見なす方法だ。

 

なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。 …偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。 – イエス・キリスト、「マタイによる福音書」第7章3節及び5節から*2

 

 私たちの部族的精神は強力なツールを備えている。それは、恥知らずで愚かな偽善である。「行動するために考える」とは、心理学の一般的なルールだ。私たちは特定の目的を心に抱いた上で思考を行うが、多くの場合には、その目的とは事実を発見することではなく自分たちを擁護して相手を攻撃することである。

 心理学者たちは、このような思考のプロセスのことを「動機付けられた推論」と呼ぶ。自己の利害が関わっている時には「動機付けられた推論」は常に発見される。集団の利害という要素が混ざれば、このバイアスがかかかった嫌らしい推論はポジティブで高潔なものへと変身する…それは、あなたがチームに対して抱いている忠誠を示す目印となるのだ。政党の支持者たちが、自分たちの政党の候補者のスキャンダルが判明した時にもあまりにも簡単にそれを無視するのに相手の政党の候補者のスキャンダルが判明した時にはひたすらそれに食い付くのも、動機付けられた推論が理由となっている。

 1990年代以降、動機付けられた推論は部族主義や新しいメディア・テクノロジーと不幸に相互作用してきた。相手の目から何百ものちりを発見することならソーシャルメディアハッカーGoogle検索が手伝ってくれるが、私たち自身の目にある梁を認識するように強制してくれるテクノロジーは存在しないのだ。

 

我々は全員の間に絆が生まれるようにできていて、距離が近づくにつれてその絆は強くなるのである。 – キケロ、『友情について』*3

 

 人間は部族的であるが、部族主義を超えることもできる。部族主義は、他の人間たちと絆を結ぶという類い稀なる私たちの能力と緊張関係にあるのだ。ロメオとジュリエットは恋に落ちた。第一次世界大戦の際、フランスとイギリスとドイツの兵士たちは塹壕から出てきて互いの食料やタバコやクリスマスの贈り物を交換した。

 鍵となるのは、距離の近さである。現代に行われた大量の研究はキケロの観察を裏付けているのだ。寮に暮らす学生たちが一つ隣の部屋の学生と友達になる可能性は、四つ隣の部屋の学生と友達になる可能性よりも高い。他の政治党派の友人を少なくとも一人は持っている人は他の政党の支持者を憎悪する可能性が少なくなる。

 だが、悲劇的なことに、アメリカ人たちは自分とは異なる側にいる人々との近さを失っており、政治的に純一化された環境で過ごす時間が増えている。1980年代以降、民主党支持者は都会へと引っ越して行き、田舎や準郊外にはより多くの共和党主義者が暮らすようになっていった。人々を団結させることに用いられてきた施設…教会など…も、同性婚のような問題をめぐる文化戦争のために引き裂かれてしまっている。

 そして、私たちの社交生活のうちオンラインで過ごされる時間は増え続けている。政治的に同質的なバーチャルコミュニテイやネットワークだ。反対側の政治党派とオンライン上で接触する場合には、相対的な敵意の高さは多くの場合に衝撃的なレベルの不作法さに繋がるし、そこには人種差別的・性差別的な侮辱や暴力を匂わす脅迫も含まれている。

 では、私たちは呪われた運命にあるのか?世論調査によって示されているような分極化(polarization)は、国が二つに分裂するまで進み続けるのか?もしかしたら、1814年にジョン・アダムズが書いたことは正しかったかもしれない。「民主主義が長く続くことはない。すぐに自らを浪費し、疲弊させ、その身を滅ぼすだろう」*4

 しかし、建国から240年、私たちは民主主義を保ってきた。そして、アメリカは戦って守る価値のある国であるという点には、どちらの政治党派も同意している。私たちが学ぶべきは、政治党派同士で互いに対して行う戦いばかりがアメリカを守るための戦いではないということだ。分極化した時代や分極的なテクノロジーに対して私たちの民主主義や習慣を適応させようとする努力も、アメリカを守るための戦いなのである。

 これらの適応の一部は、法律や制度の変革を必要とするだろう。一部はテクノロジーの改良によってもたらされるはずだ。例えば、生産的な不一致に報酬を与えて挑発や脅迫をフィルタリングするようにソーシャルメディアを微調整する、などだ。

 そして、多くの変革は私たちの各々からもたらされなければならない。自分たちとは異なる政党に投票をした友人や同僚や従兄弟たちを持つ個人としての私たちだ。顧客や従業員や学生や隣人としての彼らを、私たちはどのように待遇すればいいのだろうか?感謝祭のディナーで私たちは彼らに何を言えばいいのだろうか?

 11月9日、自分自身の道徳的な原則や政治的な原則は手放さずに怒りだけを手放したいとあなたが思っているなら、古代の叡智と現代の研究から得られた助言を授けることができる。

 第一に、ドナルド・トランプヒラリー・クリントンに対してあなたが抱く気持ちと、二人のそれぞれの支持者に対して抱く気持ちを切り離すことだ。政治科学者たちの研究によると、1980年代から、アメリカ人たちは自分自身の側の候補者を熱心に支持するために投票するのではなく相手の側の候補者に反対するために投票する傾向を増し続けている。今回の選挙については特にその傾向が当てはまっている。だから、相手の側の人々の大半はその候補者たちを好いていたり特定の問題についての意見を同じくしている、とは思わなくてもよい。彼らはあなたには理解できない恐怖やフラストレーションのために投票しているかもしれないし、もしあなたが彼らの話を聞けば、あなたは彼らに共感することができるかもしれない。

 第二に、一歩後ろに下がって、自分の目標について考えることだ。長い目で見て、あなたは人々を変えたいのだろうか、それとも憎みたいのだろうか?もしあなたが他人を説得して影響を与えたいと実際に望んでいるのなら、口論によって他人の意見を変えることはほとんど不可能であるということを知るべきだ。お互いが反感を抱いている時、そこにはお互いの動機付けられた推論が存在しているのであり、お互いの保身やお互いの偽善が存在しているのである。

 しかし、相手の心を開くことができれば、相手の意見を開くこともできる。だから、反対の側にいる人たちと個人的な関係を育むためにあなたができることを行うのだ。一緒に時間を過ごして、キケロが勧めるように距離を近づけることによって絆を強くするのである。相手と親しくなって相手のことを知ることは、相手に対する軽蔑を育まない。ある物や人が自分にとって慣れ親しみ深くなるにつれて私たちはその物や人を好きになる、ということは研究の結果でも示されている。

 多くの場合、感情は推論を駆動する。そのために、私たちの心が頑なになるにつれて私たちの思考も硬直化して、私たちは独善的になるのである。そして、自分が気にしている社会問題について柔軟に考えて対処をすることも難しくなるのだ。ジョン・スチュアート・ミルが1859年に書いたように「自分の側が言いたいことしか知らない人は、ほとんど無知に等しい」のである*5。だから、分極化が更に酷くなったとしても、党派を超えた友情がいくつか育まれていればあなたは賢く穏やかになれるのだ。

 そして、反対の側にいる人々と本当の会話を行う方法を見つけたとすれば、上手にアプローチすることである。会話の切り出しとして有効なテクニックの一つは、自分自身の目の中にある梁を指摘することだ…何らかの点について自分自身や自分の側は間違っていたということを、相手の目の前で認めるのだ。会話の開始時点で自分の間違いを認めれば、あなたは戦闘的なモードになっていないということを相手に伝えることができる。あなたが開放的であり、相手を信頼していて寛大でいれば、相手もあなたに報いてくれる可能性が高い。

 分極化を解消するのに有効なもう一つの行動は、相手を称賛することである。クリントンとトランプとの二回目の討論ではその実例が示された。90分以上にも渡る敵意の応酬の末、その夜の討論の最後に、公会堂の観衆の一人が「お互いに関して尊敬できるよい点を一つ挙げていただけますか?」という質問を投げかけたのだ*6。 

 はじめにクリントンが答えたのは、彼女はトランプの子供たちを尊敬しているという控えめな称賛だった。しかし、トランプの子供たちが「すごく優秀」であることや彼らが父親に献身的であることに言及して、「それはドナルドに関する多くのことを物語っていると思います」と加えることで、クリントンはトランプに対する称賛を強く寛大なものにした。トランプも優しく返答して「ヒラリーについてはこう申し上げましょう。彼女は諦めません。彼女は諦めない人です。私はそれを尊敬しています。」と言ったのであった。

 二人の短いやり取りは人々の感情を強く動かすものだった…多くの視聴者にとってはその夜で希望を抱けた唯一の時間であっただろう。もしこのやりとりが討論の最後にではなく開始時点で行われていたとすれば、討論はより高尚で生産的なものになっていたのではないだろうか?

 2016年はアメリカ人にとって恐ろしい年となっている。国内からも海外からも、民主主義の耐久性や正当さや叡智に対して疑問が投げかけられている。しかし、私たちの民主主義…そして、アメリカへの愛…にとっての本当の試練は、選挙の次の日からやって来る。自分がどのような人間になりたいのか、政治的に仲違いをしている従兄弟たちとどのような関係を築きたいのか、この水曜日から、私たち一人ひとりが決断していかなければならないのだ。

 

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社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学
 

 

ピーター・シンガーと資本主義

theconcourse.deadspin.com

 

  今回は、Concourseというwebサイトに掲載された「革命は行ってもよいだろうか?世界一の倫理学者に訊いてみた」というタイトルの記事を軽く紹介したい。

 

 記事の冒頭では、現代のアメリカにおける富裕層貧困層との間の圧倒的な格差について触れられている。サンフラシスコでは職を失った人たちがホームレスになっているそばで金持ちたちは豪華な高層住宅に住んでいて、アメリカの財産の大半はごく一握りの金持ちたちによって占められていて…といった事情が描写されて、このような現状では「金持ちの持っているものは奪ってもよいか」という問いは真剣に道徳的な問いとなる、と記者は書く。そして、現代のアメリカで革命や階級闘争を起こすことの是非を倫理学者のピーター・シンガーに訊きに行く…という趣旨の記事である。

 

 この記事の中でも私が特に紹介したいのは、以下の文章である。

 

右派はシンガーのことをどうしようもない理想主義者であるとみなしがちだ。資本主義を打ち砕こうとはせずにウォールストリートで働いてその収入の大半を貧困層に寄付することは良いことであるかもしれない、と最近にシンガーが提案した後には、左派の多くも彼のもとを去っていった*1。本当のところは、シンガーの道徳的理想主義は現実主義(プラグマティズム)によって大いに膨らまされているのだ。「私たちのみんなが、実際に存在するものとは全く違ったシステムが存在する状況を望ましいと思っているかもしれません。しかし、煉瓦の壁に向かって頭をぶつけ続けることには何の意味もありません。だから、評価を行う必要があるのです。いま私が立ち向かっているのは、頭をぶつけ続けるしかない煉瓦の壁なのか、実際に私が押し動かして全体的な構造を変革することのできるものなのか?」と、シンガーは言う。「私が講演を行うと、よく誰かが立ち上がって"問題なのはグローバルな資本主義だ、それこそが私たちが変革をするべきものなのだ。どうしてあなたは対処療法(band-aid)的な解決策ばかり話しているのだ?"と言います。私はいつも彼らに尋ねます。どうすれば実際にそれを行うことができるか?実際にグローバルな資本主義を取り除くためにはどうすればいいのか?半分程にもまともな答えを私に教えてくれた人はいませんよ」。

正しさに適ったシステムを持つ資本主義を想像することは理論的に不可能ではない、とシンガーは批判を退ける。それは、現在では金を稼ぐことへと向けられているモチベーションが、他人を救うことに向けられた資本主義である。そして、総体的な繁栄(prosperity)を最も多く生産できる経済システムが資本主義であるとすれば、資本主義よりも公平であるが全員にとっての繁栄が少なくなるシステムに置き換えることは、実際には非生産的なのである…「繁栄ということが、最底辺の人に対して割くことのできるリソースがより多く社会に存在することを意味する限りでは」。

 

 もちろん現時点で実際に存在している資本主義が理想的なシステムではないことはシンガーも認識しており、富裕層に対する課税を増す必要性なども認めている。そもそも誰もが億万長者にはなることができない社会も…それが人々の生産性や才能の発揮を妨げない限りでは…理想的であるかもしれない、とも論じている。

 ただし、多大な財産を持つこと自体は必ずしも非道徳的ではない、とシンガーは強調する。問題なのは財産の使い道であり、最終的により多くの他人を救うことに財産が使われていれば良いのである。また、資産家のウォーレン・バフェットを例に挙げながら、若いうちに財産をすべて寄付してしまうよりかは、財産を利用して自分がさらに豊かになったあとで増えた財産を寄付する方がよい、とも論じている。

 

 効果的利他主義を主張するシンガーの倫理学に対する、引用部分で言及されているようなタイプの批判…資本主義やグローバリズムを否定しないのは欺瞞だ、根本的な問題に目を向けない浅薄な実用主義だ…は、日本語圏でもよく目にする*2。この話題については私も以前に書いたが、現実に行うことが可能であるし実際的な効果も期待できる提案に対して「現状肯定」というラベルを貼り、具体案を示さずに口先だけで現状や資本主義などを否定して満足する、というのはやはり不毛であると思う*3

 

 記事の本題である革命については、革命が理想的に行われれば社会はより平等になるしそれは良いことだが、歴史上では多くの革命は悲惨な暴力を伴ったうえに理想を裏切って目的とは逆の効果を生み出してきた、とシンガーは言及する。そのうえで、「問題なのは、革命は必ず間違った方向に行ってしまうものなのか?、ということです。それは避けられないことなのか?革命が間違った方向に行ってしまうことは人間の本性なのか?」とシンガーは言う。また、フランス革命については「多くの血が流されたことや、多くの物事が間違った方向に行ってしまったことにもかかわらず、フランス革命は平等や市民権や法の支配をヨーロッパに拡大しました。それは、疑いの余地もなく良いことです」と、(物事の最終的な結果を重視する)功利主義者らしいコメントをしている。

 現在の世界で革命を行おうとすることについてはどう思うか、という論点については、歴史上に存在する数々の反例にもかかわらず、悲惨な暴力を伴わずに間違った方向に行かない革命というものが存在できる可能性はあるかもしれない、といったコメントをしている。

 

 

 

現実的な左翼に進化する 進化論の現在 (シリーズ「進化論の現在」)

現実的な左翼に進化する 進化論の現在 (シリーズ「進化論の現在」)

 

 

 

 

 

 

 

 

「長い目で見れば、戦争は人類を安全にして豊かにしてきた」by イアン・モリス

www.washingtonpost.com

 

 今回紹介するのは、2014年の4月に歴史家のイアン・モリス(Ian Morris)が Wshington Post に発表した記事で、自著『War! What is Good For ? : The Role of Conflict in Civilization, from Primates to Robots』 で行っている議論の要約紹介的な記事。私は本の方は半年前に読んだが、なかなか刺激的かつ説得的で面白かったので、こちらの記事を訳して紹介することにした。

 

「長い目で見れば、戦争は人類を安全にして豊かにしてきた」by イアン・モリス

 

 

 パリでデイリー・メイル誌の編集者をしていたノーマン・エンジェル(Norman Angell)は、傾聴に値する意見を持っている人であった。その彼でさえも、自著『大いなる幻想』の売れ行きには驚いた。戦争はもう時代遅れで廃れてしまった、とエンジェルは『大いなる幻想』で説いていた。「力によって前進していく時代は過ぎ去った」とエンジェルは書いている。これからは「理念によって前進していく時代となるか、そうでなければ何も前進しない時代となるだろう」。

 エンジェルがこの文章を書いたのは1910年である。政治家たちは誰も彼もが『大いなる幻想』を絶賛した。4年後には、同じ政治家たちが第一次世界大戦を始めていた。1918年に至るまでに彼らは1500万人もの人々を殺していた。1945年になると二つの世界大戦による死者数の合計は1億人を超えていたし、核兵器開発競争も始まっていた。1983年には、アメリカとソ連との全面戦争が起これば最初の数週間で10億人が殺されることになるだろう(当時の地球の人口の5分の1である)、とアメリカの戦争シュミレーション(war games)が予測していた。そして第一次世界大戦が始まってから一世紀経った今日(2014年)では、シリアでは内戦が起こっているし、ロシアの戦車がウクライナとの国境に押し寄せているし、テロリズムとの戦いは終わりが無いように見える。

 その通り、戦争は地獄である…しかし、戦争が無かった場合のことを考えたことはあるだろうか?長期的な視点で歴史を見てみれば、1万年間の争いを通じて、人類はより大規模でより組織化された社会を作り出してきたことは明白である。その社会は、構成員たちが暴力的な死を迎えるリスクを著しく削減してきた。これらのより良く組織化された社会は、高い生活水準を達成したり経済成長を迎えたりするための条件も満たしてきた。戦争は私たちを安全にしただけではなく、豊かにもしたのである。

 思想家たちは、平和・戦争・力の関係性という問題に長い間取り組んできた。1640年代にイングランド内戦がトマス・ホッブズの周辺で起こり始めると、ホッブズは『リヴァイアサン』を書いて強い政府の必要性を主張した。ドイツの社会学ノルベルト・エリアス(Norbert Elias)は第二世界大戦の前夜に上下二巻の『文明化の過程』を出版して、当時から遡って5世紀の間でヨーロッパはより平和な場所になっていったと論じた。ホッブズやエリアスと私たちとの違いは、彼らの主張を立証する証拠を現在の私たちは手にしているということにある。

 長い目で見てみよう。例えば、石器時代は厳しい世界であった。言い争いを解決するのに暴力を用いようとする人がいたとして、その人が直面することになる制約や束縛(constraint)は、1万年前にはごく僅かであったのだ。殺人や復讐や襲撃などの形で行われる殺害は通常は小規模なものであったが、人口数そのものも小さかったをふまえれば、安定して行われ続けた小規模な殺害を合計すると恐ろしい程の死者数となる。多くの推計によると、石器時代の人間たちのうち10%から20%は他の人の手にかかって殺されていたのである。

 この事実は、過去100年間について広い視野で見ることを可能にしてくれる。1914年以来、私たちは二つの世界大戦を経験してきたし、ジェノサイドや政府主導の飢饉も経験した。内戦や暴動、殺人事件については言うまでもない。その全てを合計すると、人類は1億人から2億人という驚異的な数の同胞たちを殺してきたのである。しかし、この100年の間ではおよそ100億人が生を過ごしている…つまり、世界の人口の中で暴力的に死んだ人はたった1%から2%しかいなかったのである。幸運にも20世紀に生まれてきた人々が陰惨な死を遂げる可能性は、石器時代の人に比べると平均で10分の1であったのだ。そして、国際連合によると、暴力的な死を迎えるリスクは2000年以降には0.7%にまで下がっている。

 このプロセスが展開するにつれて、人類は繁栄している。1000年前には地球上の人口は600万人程度であり、人々は平均で30年程度しか生きなかったし、1日当たり約2ドル相当の収入で生き延びなければならなかった。現在は70億人以上が地球に存在しており、平均寿命は1000年前の2倍以上(67歳)であり、平均収入は1日当たり25ドルである。

 このような成長が起こった理由は、およそ1万年前、戦争の勝者たちがより大規模な社会に敗者たちを組み込み始めたことにある(incorporating)。そのような大規模な社会を機能させる唯一の方法とはより強い政府を発展させることである、と勝者たちは理解した。そして、戦争の勝者たちが権力を手にしたままでいるためには、政府がまず行うべきは支配下の人間たちの間で起こる暴力を抑制することであった。

  政府を運営する人間たちは聖人ではなかった。彼らは自身の良心から殺人を取り締まったのではなく、怒りっぽくて殺し合いを行う人間たちよりも行儀よく振る舞う人間たちの方が統治して税金を取るのが簡単であったから殺人を取り締まっていたのだ。しかし、意図せざる結果として、石器時代から20世紀にかけて暴力的な死の割合が急降下していくプロセスは戦争の勝者たちによって始動されたのである。

  それは野蛮なプロセスであった。ローマ人がブリテン島で行ったことにせよイギリス人がインドで行ったことにせよ、平和化(鎮定, pacification)はそれが鎮圧する野蛮と同じくらい血生臭いものになりえる。それでも、ヒトラーたちやスターリンたちや毛沢東たちの存在にもかかわらず、1万年間に渡って戦争は国家を作ってきたのであり、そして国家は平和を作ってきたのである。

 より大規模でより平和な社会を作る方法としては、戦争は想像できる中でも最悪の方法かもしれない。しかし、気の滅入るような事実ではあるが、ほとんどの場合において戦争だけが大規模で平和な社会を作る唯一の方法であるのだ。もしも何百万人ものガリア人やギリシャ人も殺さずにローマ帝国を創立することができていれば、または何百万人ものネイティヴアメリカンを殺さずにアメリカ合衆国を創立することができていれば、暴力ではなく議論によってローマやアメリカやその他の無数の争いを解決することができていれば…。だが、そんなことは起きなかった。人々が自分たちの自由を手放すことは殆どありえない…時には、他人を殺す権利や他人を貧しくさせる権利も含まれた自由であるが…力によって自由を手放すように強制されない限りは。そして、戦争での敗北か、敗北が差し迫っているという恐怖だけが、人々に自由を手放すことを強制することができるほとんど唯一の力なのである。

  文明化のプロセスは不規則であった。暴力は急増することもあれば急減することもあった。西暦400年代にフン族アッティラが登場する前から始まって1200年代にチンギス・ハンが登場した後までの1000年間、ステップ草原から馬に乗ってやって来る侵略者たちは、中国からヨーロッパにかけてのありとあらゆる場所で平和化のプロセスを実質的に逆戻りさせてしまった。大規模で安全な社会が戦争によって破壊され、より小さくより危険な社会に戻ってしまったのである。大規模な定住国家たちが遊牧民たちに対処する方法をようやく発見したのは1600年代である。走り回る騎手たちを停止させることができるだけの火力を銃に持たせることに成功したのだ。これらの銃と新型の外洋航行船を組み合わせることによって、ヨーロッパ人たちはかつてない量の暴力を世界中に輸出した。その帰結は恐ろしいものであった。それでも、ヨーロッパ人たちはそれまでの歴史で最大の社会を作り上げたのであり、そして暴力の割合をそれまでの歴史で最小にまで低下させたのである。

 18世紀には、海洋を跨る広大なヨーロッパ帝国が存在していた。スコットランドの哲学者であるアダム・スミスは、ある新しい事態が進行していることを発見した。数千年間に渡って、支配者たちは征服と略奪と課税によって豊かになっていた。しかし、今では市場がこれ程までに大きくなったために、国家が富を得るための新しい道が開けていることをスミスは理解したのだ。とはいえ、この道を通ることは複雑でもあった。政府が市場に介入せず、人々が自由に経済活動(truck and barter)を行うのに任せる時にこそ、市場は最も効率的に機能する。しかし、政府が介入してルールを強制したり取引を安全で自由に行えるようにしなければ、市場は機能しない。スミスがほのめかした解決策とは、ホッブズの主張したようなリヴァイアサン国家ではなく、グローバルな貿易の治安を守るスーパー・リヴァイアサンである。

 1815年にナポレオンが失脚してからは、世界はまさにスーパー・リヴァイアサンとなっていった。イギリスには地球上で唯一の産業経済が存在していて、その力はインドや中国といった遠方にまで投げかけられていた。イギリスの富は海外に財やサービスを輸出することからもたらされていたために、世界秩序を脅かさそうとするライバルを抑止することにイギリスは自国の経済力と海軍力を用いていた。戦争は終わらなかったが…アメリカと中国は内戦を経験したし、ヨーロッパの軍隊はアフリカやインドの奥深くにまで行進していた…、全体的には、イギリスの目の下で、地球はより平和でより豊かになり続けていったのである。

 とはいえ、イギリスの平和(Pax  Britannica)は矛盾に基づいたものであった。イギリスが財やサービスを売るためには、他の国にも商品を買える程には豊かになってもらう必要があったのだ。そのことは、好むと好まざるとにかかわらず、産業化して財産を蓄えることを他の国にも奨励する必要がイギリスにあったことを意味する。19世紀にはイギリスは世界システムを築いて勝利を得ていたのだが、同時に、それは戦略上の大失敗でもあったのだ。1870年代にはアメリカとドイツが産業界の巨人となっていたが、その成長のかなりの部分がイギリスの資本と専門的技術のおかげである。そして、アメリカとドイツはイギリスの世界秩序維持能力に疑問を抱き始めるようになった。世界の警察が職務の遂行に成功すればする程に、世界の警察の職務は難しくなっていったのである。

 1910年代には、エンジェルの『大いなる幻想』をあれ程までに称賛していた政治家たちの一部は、いまや戦争は最悪の選択肢でもないと結論していた。彼らが解き放った暴力はイギリスを破産させて世界を混沌の淵に引きずり込んでしまった。その戦争や極めて戦争に近い状態がついに終了するには、ソビエトが崩壊して、最盛期のイギリスよりも遥かに強力な警官としてのアメリカが残った1989年になるまで待たなければならなかった。

 前任者であるイギリスと同じく、アメリカは急拡大する貿易を監督して、世界秩序を乱すような戦争を起こさせないように他の国を脅して、世界における暴力的な死の割合を更に引き下げた。だが、これもまたイギリスと同じく、アメリカは自身が金を蓄えるために貿易相手を豊かにさせてしまったのである。アメリカは特に中国を豊かにさせたが、2000年以降、中国はアメリカのライバルとなる可能性を増し続けている。イギリスが経験した運命がアメリカにも待ち構えているかもしれない。不安定になり続ける世界における唯一の警官としての役割をアメリカ政府が果たし続けるなら話は別だが…その世界は、一世紀前のイギリスが想像できたものに比べて遥かに致命的な武器に溢れた世界である。

 そのため、アメリカ人たちの自国政府に対する態度はアメリカの国政だけに関わる問題ではない。それは地球上の全ての人に関係しているのだ。ロナルド・レーガンは第一期大統領就任演説で「政府は問題の解決策ではない、政府こそが問題なのだ」とアメリカ人たちに断言した。レーガンの抱いていた最大の恐怖…肥大した政府が個人の自由を抑圧すること…は、大きい政府と小さい政府それぞれのメリットについての未だ継続中の議論が、ホッブズが恐れていた事態について考えることから私たちをどれだけ遠ざけているかということを示している。別の場面では、英語で最も危険な10単語とは「こんにちは、私は政府の者だ、私は君を助けにきたんだ(‘Hi, I’m from the government, and I’m here to help.’)」であるとレーガンは言っている*1ホッブズが生きていれば、実際に最も恐ろしい10単語とは「政府は存在しないが、ところで私は君を殺しにきたんだ( “There is no government and I’m here to kill you.”)」であるとレーガンに伝えていただろう。

 私たちの時代より以前のほとんど全ての時代の人にとっては、極めて小さな政府が存在しているか政府が全く存在していないかということについての議論しか問題にならなかった。極めて小さな政府とは、少なくとも何らかの法と秩序が存在していることを意味している。政府が存在しないとは、法も秩序も存在していないということだ。

 このことにはレーガンでさえも同意するだろう、と私は思っている。「ある議員が、お前は法と秩序に対して19世紀の様な態度をとっている、と私のことを非難したんだ」とレーガンカリフォルニア州知事時代に言ったことがある。「しかし、それは全く言いがかりだ。私は18世紀の態度をとっているんだ。法律を守る市民たちの安全を守ることこそが政府が最優先するべき目標の一つである、ということをアメリカ建国の父たちが明言していた時代だよ」

 

 

 

 

 

 

「なぜヨーロッパが世界を征服したのか?」  by フィリップ・T・ホフマン

www.foreignaffairs.com

 

 今回紹介するのは、歴史学と経済学の教授であるフィリップ・T・ホフマン(Philip T Hoffman)が2015年の10月に Foreign Affairs に掲載した記事。同年に発売された自著の 『Why Did Europe Conquer the World ?(なぜヨーロッパが世界を征服したのか?)』の宣伝的な記事であると思われる。私は世界史に詳しい訳ではないのでこの記事や著書でされている主張の妥当性とかオリジナリティとかは判断できないのだが、英語圏ではそれなりに話題になっている本であるようだし、記事の内容も面白かったので紹介する。歴史や軍事関係の訳語に間違いがあるかもしれないが勘弁してほしい。

「ヨーロッパはいかにして世界を征服したか:戦争に対するひたむきな集中の戦利品(The Spoils of a Single-Minded Focus on War) 」by フィリップ・T・ホフマン

 

 1492年から1914年にかけて、ヨーロッパは地表の84%を征服した。ヨーロッパ人は植民地を設け、彼らが住み着いた全ての大陸はヨーロッパの影響を受けた。これは必然的な出来事ではなかった。実のところ、この出来事を説明するために、歴史家も社会科学者も生物学者も数十年にわたって悩んでいるのである。アジアや中東の社会の方がずっと発達していたというのに、なぜ、いかにして、ヨーロッパは世界のトップにまで登り詰めたのか?

 今のところ、満足な答えは得られていない。だが、この設問の重要さは最大級である。どの国が奴隷貿易を運営したかということから、どの国が金持ちへと成長してどの国が貧乏の泥沼から脱出できずにいるのかということまで、全てのことをヨーロッパの力が決定したのだから。

 ヨーロッパが支配を行えた理由は明白だ、と考える人もいるかもしれない。ヨーロッパは最初に工業化した地域であり、先住民の人口を激減させた天然痘などの疫病に対する免疫も持っていた。だが、多くの若いネイティヴ・アメリカンの戦士たちが疫病を生き延びたことを考えると、後者だけではヨーロッパがアメリカを支配できた理由の説明にはならない。また、ヨーロッパ人たちと同様の免疫をインド人たちも持っていたので、インドの植民地化の説明にもならないのだ。免疫と同じく、工業化も説明としては不合格である。工業化を始める前ですら、ヨーロッパは既に地球の35%以上を支配していたのだ。もちろん、ヨーロッパ人が銃や武装船や築城術(fortifications)のテクノロジーを工業化によって発達させたことは決定的な影響を与えた。だが、アジアに存在していた他のどの主要な文明もヨーロッパと同様の火薬のテクノロジーを持っていたのであり、その多くがヨーロッパと同じく銃を用いて戦っていたのだ。

 では、何がヨーロッパの成功をもたらしたのか?…その成功の大部分は、ヨーロッパの政治指導者たちが直面していたインセンティブによってもたらされたのである。政治指導者たちに戦争を起こさせるのみならず、戦争に大金を費やすことにも駆り立てたインセンティブだ。たしかに、ヨーロッパの君主たちは宮殿を建てていた。だが、あの巨大なヴェルサイユ宮殿でさえ、ルイ14世がそれを建てるのにかかった費用は税収の2%以下である。残りの税収は戦争に使われたのだ。ルイ14世や他のヨーロッパの王たちは、子供の頃から、戦場で名誉を追求するように育てられていた。ただし、戦争に参加しても彼らには何もコストが発生しなかったが…負けた時に王位を失うリスクすらもなかったのだ。他の地域の指導者たちは、ヨーロッパのそれとは非常に異なるインセンティブに直面していた。そのために彼らの軍事力は弱いままであったのだ。例えば、中国の皇帝たちは税金を低く抑えることを推奨されていたし、その税収もヨーロッパの王たちが熱中してたような軍事的な名誉を追求するためにではなく人民の生活のために使うことを推奨されていたのである。

 上述の理由やその他の様々な理由により、戦争におけるイノベーションという点で、ヨーロッパの外の指導者たちはヨーロッパに太刀打ちできなかった。ヨーロッパ内における戦争に費やされた膨大な金額は、新しい武器や武装船を買ってみたり新しい戦術や築城術や補給メソッドなどを試してみることを可能にする柔軟性を軍事指導者たちに与えていたのである。この過程で、軍事指導者たちは自分たちが犯した間違いから学習していき、テクノロジーを改良していった。そしてヨーロッパの国々は小さくて地理的な距離も近かったために、ライバル国の犯した間違いから学んだりライバル国の行った改良をコピーすることも簡単だったのである。例えば、1628年にスウェーデン王のグスタフ・アドルフは2層の軍艦の中でも初期のものを建造したが(ヴァーサ号)、その船は海に出てから間もなく沈没してしまった。しかしスウェーデン海軍と他のヨーロッパ諸国の海軍はこの失敗からすぐに学習を行い、18世紀には2層かそれ以上の砲塔甲板(gun-decks)を備えた軍艦を建造するようになっていた。それらの軍艦は17世紀のものに比べて安定しているというだけでなく、より長距離を移動できたうえに機動性も高くなっていたのだ。

 ヨーロッパの外では、政治と軍事の状況が、戦争のイノベーション(特に火薬テクノロジー)がヨーロッパほどに容赦のないスピードで進歩することを妨げていた。例えば、中国で軍事に費やされる税収はヨーロッパと比べて遥かに少なかった。18世紀後半にはフランスの一人当たりの税金は中国の15倍であり、イングランドは中国の40倍であった。また、中国で集められた税金の大半は新しい形の戦争には使われず、弓騎兵団(archers on horseback)を強化するために使われた。中国にとって長い時代に渡って主敵であった遊牧民たちと戦うには弓騎兵の方がマスケット銃士よりもずっと有効だったのである。さらに、ほとんどの時期で中国は東アジアで支配的な勢力(dominant power)であり続け、中国に挑戦しようとする敵は少なかった。それは、中国には軍事に多大に費やすインセンティブが少なかったことを意味する。その結果、東アジアでは火薬武器を使用する機会が少なかったのである。

 対照的に、ヨーロッパには東アジアのように支配的な勢力が存在しなかった。そして、火薬テクノロジーを進歩させることについて西ヨーロッパが一度でも先を越せば、中国がそれに追いつくのは困難であった。進歩が起こっている場所は大陸の遥か向こう側であったからだ。

 ヨーロッパの軍事的優位は19世紀まで続いた。ヨーロッパが工業化するにつれて税収も上がり、産業革命による科学と工学のイノベーションは戦争を行うによってだけでなく研究を行うことによってもテクノロジーを改良することを可能にした。それはヨーロッパ人たちが戦場から学んだ物事を更に拡大させたのだ。

  1914年には、ヨーロッパは世界的な軍事支配を確立しただけでなく、戦争に費やすための多大な税収を調達することができる強力な国家を打ち立てていた。フランスとドイツでは、一人当たりの実質税収は前の2世紀から15倍以上に増えていたのである。このずば抜けた課税能力は、工業化がヨーロッパにもたらした一人当たりの税収の増加という事象だけで説明出来る範囲を優に超えている。この能力は、火薬テクノロジーを発達させたのと同じく学習の結果によるものである。今回は軍事テクノロジーではなく経済に関する学習であるということが唯一の違いであるが、その報酬は税収を増加させるための契約をエリート層と結ぶことに成功した政治指導者たちが得ることになった。そして、指導者たちは新たに増えた税収を陸軍と海軍を拡大して軍備を増強することに費やしたのである。

 ヨーロッパほどの課税能力を得ることは決して簡単ではない。19世紀になっても中国は税収をヨーロッパと同等にまで上げることができなかった。そして、サブサハラアフリカの国々は現代になっても基本的な課税能力に欠けているのであり、そのために自国の市民たちに安全やその他の公共財を提供することもできずにいる。

 ヨーロッパには他にもアドバテンージがあった。ヨーロッパの起業家たちは、征服・植民化・軍事貿易(militarized trade)を行うための探検をする際に火薬テクノロジーを用いることが許されていたのだ。通常は航海を行うためには公的な許可を取る必要があったが、起業家たちは海外に富を発見することを切望している権力者たちに奨励されることが多かった。そして、起業家たちは何の問題もなく武器を入手することができたし、事業に参加したが戦闘に慣れていない新米たちを鍛えるためのベテランを雇うこともできたのである。17世紀にはこのような私的な探検が巨大な企業を生み出しており、それらの企業は、海外へ事業を展開する出資として必要である莫大な資金をヨーロッパの急成長する資本市場から調達していた。その代表的な例がオランダ東インド会社であり、オランダの外交政策における唯一の私軍であったが、取引可能な株券(tradable shares of stock)を発行した最初の会社でもあったのだ。

 ヨーロッパとその他の国々との最後の違いは政治史に存在している。紀元前221年以降、中国は一つの巨大な帝国に統一されている期間の方がそうでない期間よりも長かった。中華帝国は創立後すぐに中央集権化された官僚制を発展させたが、それは地方のエリート層を政府の官吏にして政府に引き込むことによって地方エリートにも帝国が存在することに利益関係を持たせるものであった。地方の官吏に対する報酬は帝国を団結させたのであり、帝国が強力であり統一されている間は、東アジアの他の勢力は中国を攻撃するのに躊躇した。このことは、まだ見ぬ敵を捜し出したり新しい機会を追及するインセンティブが中国には少なかったことを意味する。

 対照的に、ローマ帝国崩壊以降の西ヨーロッパは中華帝国のように持続した統一を経験することがなかった。その代わりにヨーロッパは何世紀にも渡る戦争を耐えなければならなかったのである。その戦争は戦士団たちの間で行われたが、その戦士団の主導者たちは現代の将軍たちと似通っている。絶え間のない戦争によって、勝利を得ようとする指導者たちが鍛え上げられていった。争いはそれぞれの指導者とその従者たちから成る各集団の間に永続的な対立を生み出し、その対立はやがて永続的な政治的国境という形をとることになった。西ヨーロッパが単一の指導者によって統一されて何世紀も中国に存在していたような帝国が築かれることを妨げていたのは、自然の地理ではなく、集団間の悪意によるものだったのである。結局のところ、戦争の資金を調達するために重税を課す方法を学んだ軍事指導者たちが西ヨーロッパの勝者となった。その結果としてヨーロッパはファラオ王のごとく莫大な金額を戦争に費やす王たちと共にあることになったのだ。マキャベリに言わせると「戦争の他には何も目的がなく、戦争の他には何も考えておらず、戦争の他には何も適性がない」王たちである*1

 戦争に対するひたむきな集中と類い稀なる課税能力がなければ、ヨーロッパ帝国は存在しなかったかもしれない。戦争とそれに費やされた税金は軍事的テクノロジーのずば抜けた優位をヨーロッパに与えた。それはヨーロッパが征服を行うことを可能にしたし、大量の部隊を海外に駐留させずとも現地民たちを管理下に置き続けることも可能にした。軍事的なアドバンテージがなくてもヨーロッパは豊かに成長できていたかもしれないが…もっと早くから工業化されていた可能性すら存在するのだが…、1914年に世界を支配してはいなかっただろう。

 

 

Why Did Europe Conquer the World? (Princeton Economic History of the Western World)

Why Did Europe Conquer the World? (Princeton Economic History of the Western World)

 

 

 

追記:この記事を書いた後に自分でも『なぜヨーロッパが世界を征服したか』を読んでみたので、感想を付けたそう。

 

 

●中国が統一されていてヨーロッパが分断されていた理由として、ジャレッド・ダイアモンド的な地形決定論を否定して政治史に理由を求めている箇所が印象深かった。
 ヨーロッパの人らは互いに争いあう好戦的な文化を進化させてきたこと(文化進化論が参照されている)、あとキリスト教会も皇帝とかの影響力を抑えて自分たちの権力を保ちたかったのでヨーロッパを統一するのではなく分断する方向にがんばっていた、みたいな。

 

●ヨーロッパがアメリカ大陸をはじめとして世界中を支配するようになった理由としては銃火器などのテクノロジーや軍事技術の優位と病原菌の抗体という二つの要素がよく指摘されるが、病原菌についてはその影響力は過大評価されていると論じて、じゃあなぜヨーロッパではそれほどまでに軍事が発達したか…その理由は、ヨーロッパでは「1:戦争が頻繁に起こり続けていた。2:支配者たちにとって戦争の勝利が魅了的であり、大量の金が戦争に注ぎ込まれていた。3:古い軍事技術ではなく銃火器が重点的に使用されていた。4:軍事技術のイノベーションを適用することに対する障壁が少なかった」から、と論じている。

 ダイアモンドとかは「1:戦争が頻繁に起こり続けていた」ことだけにヨーロッパの軍事の発達の理由を見出すんだけど、それだと同じように戦争が頻繁に起こり続けていたインドなどではヨーロッパのように軍事が発達しなかった理由が説明できないのであり、「2」以降の条件が必要になる、という議論。

「2」に関しては、好戦的な文化が培われていたヨーロッパでは支配者たちは戦争の勝利を得て名誉を得ることを追い求めており、戦争に熱心であった。

「3」に関しては、例えば中国などでは遊牧民に対処する必要性が常に存在していたが、遊牧民に対しては銃火器よりも弓矢騎兵の方が有効だったために銃火器にリソースがあまり注がれずに、銃火器同士で争っていたヨーロッパのように近代的な軍事(テクノロジー、戦略や技術)が発達することはなかった。

「4」に関しては、敵国同士の距離が近いので一方で発達した技術をもう一方が真似することが容易であったり、軍事製品そのものだけでなく軍事技術に関わる人的資本も国境を越えて移動しやすい環境だったから。

 あとは支配者が戦争をしようと思った時に国内から反発を受けることが少ない政治体制、戦争のために必要な資金をいつでも用意できる課税能力、力のバランスがある程度保たれていたこと(あまりに強すぎる国がいたら、他の国は戦争を起こす前に諦めて降伏してしまう)ことなど。国が動かずとも個人の探検家や企業などの民間レベルで海外征服を行うことが促進される環境があったことも一因。

●日本の戦国時代や中国の王朝交代期にも銃火器を含めた軍事の発達が起こっていたが、どちらも統一されてしまってヘゲモニーができたので戦争が起こらなくなり軍事の発達が途絶えてしまった。逆に言えば、統一さえされていなければこれらの国の軍事がヨーロッパを上回って世界を支配する可能性もあった。

 例えば、チンギスハンが登場せずに元による支配が行われずに、南宋西夏や金とずっと戦い続けていたとしたら中国でも軍事技術が発達し続けていたであろうし産業革命も早々に行われていたかもしれない…と論じられている。

*1:“no object, thought, or profession but war.”

「遺伝子選別という諸刃の剣」 by ピーター・シンガー

www.project-syndicate.org

 

 昼にアップした記事に関連して、倫理学者のピーター・シンガー(Peter Singer)が Project Syndicate に発表した記事を紹介する。10年前に発表された記事なので、記事内の情報は古くなっていることには留意してほしい。 

 なお、タイトルの原題は"The Mixed Blessing of Genetic Choice"であるが、この"Mixed Blessing"という単語のニュアンスはなかなか日本語に訳しづらい*1。とりあえずこの記事では「諸刃の剣」と訳している。Genetic  Choiceとか Genetic Slectionも「遺伝子選択」「遺伝的選択」とか色々と訳語が考えられるが、進化論における自然選択のソレと混同しないために、人為的な意味合いが強調されている感じのする「遺伝子選別」で訳すことにした。

 

 

「遺伝子選別という諸刃の剣」 by ピーター・シンガー

 

 しばしば、知識の発展とは諸刃の剣である。その端的な例の一つが、過去60年間における核物理学であろう。この先60年間には、遺伝学が諸刃の剣の新たな例となるかもしれない。

 今日では、あなたが手数料を払って自分の遺伝子について知ることを企業が提案する。自分の遺伝子に関する知識はより長くてよい人生を過ごす助けになる、と企業は主張する。例えば、自分が罹るリスクが最も高い病気を知れば、健康診断の際にはその病気の初期徴候を発見するための追加検査を行うことができるし、その病気に罹るリスクを減らすように食生活を改善することもできる。あなたの人生の寿命はあまり長いものにはならない可能性が高いということを知れば、あなたはより多くの生命保険を買うかもしれないし、自分がやりたいと思い続けていたことを行うために他の人よりも若い時期に退職することもあるかもしれない。

 プライバシーの保護を主張する人たちは、生命保険を発行する前に遺伝子検査を受けることを保険会社が客に対して要求することを防ごうとしてきたし、その運動はある程度の成功をもたらした。だが、保険会社を締め出した遺伝子検査を個人が行えるとして、不利な遺伝的情報を知らされた個人がその情報を保険会社に開示せずに追加で生命保険を買うとすれば、彼らは保険会社の他の顧客たちに対して詐欺を働いていることになる。損失をカバーするためには保険料を高額にする必要があるだろうし、有利な遺伝的予測を知らされた人たちが詐欺犯に金を余分に与えるのを避けるために生命保険を脱退するとすれば、保険料はさらに高くなるであろう。

 しかし、現時点で警戒し過ぎる必要はない。アメリカ政府監査院は同一の遺伝サンプルを複数の検査会社に送ったが、検査会社から送られてきたアドバイスはそれぞれの会社ごとにかなり異なるものであったし、そして大半が役に立たないものであった。だが、科学は発達し続けるのであり、保険の問題もやがては直面しなければならないものである。

 生まれてくる子供を選択することは、より重大な倫理的問題を引き起こす。この問題は新しいものではない。先進国では高齢で妊娠した女性への遺伝子検査が慣例的に行われていることは、中絶の実行可能性の高さとも合わさって、ダウン症などの状態で子供が生まれてくる可能性を著しく下げている。 インドや中国の一部の地域では両親たちは息子を持ちたいと切望していて、選択的中絶が性差別の最終的な形として存在しており、そして次世代の男性たちが女性のパートーナーの不足に直面しなければならなくなる程にまで選択的中絶が実行されてきた。

 子供を選択するのに中絶は必ずしも必要とされない。数年前から、遺伝的な病気を自分の子供に継承させてしまうリスクを背負っている両親たちが体外受精を行っている。複数の胚子を生産し、それらの胚子に障害のある遺伝子が含まれているかどうかを検査して、その遺伝子が含まれていない胚子だけを女性の子宮に移植するのである。現在では、特定の種類のガンが発生するリスクを有意に上昇させる遺伝子を子供に継承させることを予防するために、両親たちは体外受精を用いている。

 全て人が何らかの不利な遺伝子を持っているということをふまえると、病気に罹るリスクが高い子供を排除すること(selecting against)と、健康な人生を送る可能性が普通よりも高い子供を選択すること(selecting for)との間に明確な線を引くことはできない。つまり、遺伝子選別は必然的に遺伝的エンハンスメントへと移行することになるのだ。

 多くの親たちにとって、自分たちの子供の人生の出発点を出来る限り最高のものにすることほど重要なことはない。親たちは子供たちの学習能力の可能性を最大限に引き出すために高価なおもちゃを買うし、それよりもずっと大きな金額を私立学校や学習塾に費やして、子供がエリート大学への入学試験を突破することを希望する。この賭けが成功する可能性を高める遺伝子が特定されるのも、さして未来のことではないかもしれない。 

 優生学とは、遺伝する特質は積極的な介入によって改良されるべきだという主張であり、20世紀の前半に特に流行っていた。多くの人は、上述したような遺伝子選別を「優生学」の復活だと非難する。…その通り、ある意味では、上述してきたことも優生学であるのだ。そして、権威主義的な政治体制の下で行われる遺伝子選別は、忌まわしく疑似科学的な"民族衛生"を鼓吹した初期の優生学によって行われた非道と似通ったものとなるだろう。

 しかしながら、リベラルで市場主導的な社会では、優生学は集団にとっての善のために国家によって強制的に押し付けられることはない。その代わりに、親たちの選択と自由市場の働きの結果として存在することになるだろう。そして、より優れた問題解決能力を持ったより健康でより賢い人々を生み出すとすれば、それは良いことであるのだ。だが、もし親たちが自分たちの子供たちにとって良い選択をするとしても、そこには恩恵(blessing)と同様に危険も存在している可能性がある。

 性別による選択に関しては、生まれてくる個々の子供たちの両親がそれぞれに独立して自分の子供にとって最善となるような選択を下した結果、誰も子供たちの性別を選択しなかった場合の方がマシであったような結果が全ての子供たちにもたらされることになる、という事態は簡単に予測できる。そのほかの種類の遺伝子選別でも同様の結果が起こる可能性はある。平均よりも高い身長は平均よりも高い収入と相関しているのであり、そして身長には遺伝の要素が存在していることは明白であることをふまえると、両親たちがより背の高い子供を選択することを想像しても非現実的ではない。その結果は、ほかの背の高い子供よりも更に背の高い子供が生み出され続ける、遺伝的な「軍拡競争」となるかもしれない。大きくなった人間たちはより多くの栄養を消費するので、 著しい環境コストがかかってしまうだろう。

 だが、この種類の遺伝子選別のなかでも最も警戒するべき可能性は、豊かな人だけが選択を行うことができるという事態が起こることである。現時点でも豊かな人と貧しい人との間の差は社会の正しさという概念を脅かしているが、 機会の平等を保証するだけでは橋を架けることもできないほどの深い淵を遺伝子選別が作り出すかもしれない。それは、私たちの誰もが否定するべき未来である。

 しかし、この結果を避けることは簡単ではない。遺伝的エンハンスメントを誰も実行できないようにするか誰もが実行できるようにするかのどちらかが求められるためだ。前者の選択肢は強制を伴うことになるし、他の国が競争優位を得ることはどの国も認めないであろうから、遺伝子エンハンスメントによってもたらされる利益よりも優先される国際的な合意が必要となる。後者の選択肢…遺伝的選別への普遍的なアクセスを保証するためには、貧しい人に対する前代未聞なレベルの社会的援助が必要とされるであろうし、何に対して助成金を出すべきかということについての非常に難しい決断が求められることになるであろう。

 

 

 

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「才能遺伝子の倫理:『ガタカ』の世界への道のりか?」 by ジュリアン・サバレスキュ

 

 オーストラリアの Conversation 誌に掲載された、倫理学者のジュリアン・サバレスキュ(Julian Savulescu)の記事。知能に関する遺伝子に関する研究結果について紹介しながら、生まれてくる子供に対する遺伝的な介入の是非について論じた記事である。特徴的なのは、遺伝的な介入を必ずしも否定していないどころか、むしろ肯定しているところだろう。日本では遺伝子介入や出生前診断を肯定する議論はなかなか紹介されないので、紹介することにした。

 

 

「才能遺伝子の倫理:『ガタカ』の世界への道のりか?」 by ジュリアン・サバレスキュ

 

 2015年7月にイギリスで発表された研究は、遺伝的な"一般学業達成因子(general academic achievement factor)"を特定したものである*1。一卵性双生児を用いて行われたこの研究は、学業に関する広範囲な題材の成績が、双生児たちが持つ多くの同一の遺伝子に影響されていたことを発見した。

 

共有された遺伝子による影響は、その大部分が、知能からは独立していた(…中略…)このことは、ある題材について良い成績を出す傾向のある子供は(別のレベルの知能を要するものであっても)別の題材でも良い成績を出す傾向にある、という現象のかなりの部分が遺伝的な理由によるものであるということを意味する。

 

 また、研究は以下のことも発見した。

 

様々な題材における子供たちの差異が遺伝子によって説明できる範囲(54−65%)は、家庭と学校の環境を合わせたものなどの環境因子によって説明できる範囲(14−21%)よりも大きい。

 

才能遺伝子(gifted genes)を弄ぶことの危険性

 

 どうやら、学業的な才能は(ここでは、より広く一般的な学業的素質を含む意味で、この単語を使っている)大部分が遺伝的であるようだ。上述の研究はきわめて重要なものである。しかし、もし私たちの知識がさらに発展して、才能に貢献する遺伝子を特定できたとしたら、この種の研究は厄介な倫理的意味を含むことになるかもしれない。以下では、研究結果が不適切に応用される五つの可能性を示そう。

 第一の可能性は、研究結果が優生学的な目的のために使用されるということだ。つまり、特定のポジティブな資質を増殖させることで人類を発達させようと試みることである。体外受精で生産される胚子は、生まれてくる子供に才能を与えて学術的な選抜を達成する可能性がより高くなる遺伝子を含むように選別されるかもしれない。そのような検査はイギリスでは違法だが、アメリカでは合法である。体外受精と教育にかかる費用のことを考えれば、学術的な才能のある子供がより多く誕生することを国家が要求し始めるようになるかもしれない。

 第二に、着床前の遺伝子診断や出生前診断による胚子と胎児の遺伝子解析は、学術的に成功する可能性が高い子供をその子供の人生が始まった段階で特定するために用いることができるようになる。才能が特定されてしまった子供たちは、その可能性を最大限に引き出して達成を行うことができるようになるために不自然な環境で育てられる(hot-housed)ことになり、子供たちは道具化されて自由も制限されることになるかもしれない。この種類の過剰な養育はよく見受けられるものではあるが、子供にとっては有害であり、それが遺伝子検査によって悪化されるかもしれないのだ。子供は、親の目的と成功のための手段になってしまうかもしれない。

 第三に、遺伝子検査はまた別の種類の差別の道具として使用されるかもしれない。才能が乏しい子供たちは"ゆったりした環境(slow streams)"に送られることになるかもしれないし、特定の仕事やキャリアを選択することが全く許可されなくなるかもしれない。投資に対するリターンが小さくなる可能性が高い人々に投資を行うのは金と時間の無駄であると思われるようになるかもしれないからだ。才能が乏しい子供たちは、遺伝を理由にして運命を社会から定められることになるかもしれない。このような種類のディストピアは映画の『ガタカ』で鮮やかに描かれている。

 第四に、遺伝的な不平等を特定することは社会的な不平等を悪化させるかもしれない。豊かな人は、子供を学校で成功させて有利で強力なキャリアの幅広い選択肢を与えるために、より才能のある胎児を選択するようになるかもしれない。豊かな人は賢くなり、賢い人は豊かになるのだ。

 最後に、もし才能の大部分が遺伝子に起因しているとすれば、能力の大部分は生物学によって決定されていることになる。未来には、人々の潜在能力を上げるためにドラッグなどを用いた生物学的介入が行われるようになるかもしれない。このことは低レベルの能力に対する医療介入を蔓延させてしまって、低レベルの能力を持った人たちはドラッグ漬けになってしまうかもしれない。

 

才能遺伝子を発見することの良い面

 

 才能遺伝子の発見に対する懸念はもっともなものであるが、検討する必要のある良い面も存在している。才能遺伝子の発見は、ある子供たちは学校で良い成績を取るのに別の子供たちは良い成績を取れない理由について、より正確な理解を行うことを可能にしてくれる。研究者たちは、良い成績を生み出している可能性がある複数のメカニズムを仮定している。モチベーション(動機)、パーソナリティ(性格)、そして精神病質の不在である。

 これらの理由について理解することは、新しい種類の介入を行うことに繋がるかもしれない。その介入は生物学的なものであるかもしれないし(子供の食事を改善することなど)、教育プログラムを改善するなどの社会的なものであるかもしれない。 

 なんらかの別の理由で体外受精を行っている両親にも、学術的な達成を行える可能性がより高く、より高い報酬が得られるキャリアを含んだ幅広い人生の選択肢が開けている子供が生まれることになる胚子を選ぶかどうかの選択肢が与えられるようになるかもしれない。要するに、より良い人生を過ごせる可能性が高くなる子供を産むかどうかの選択肢が与えられるのだ。決定権を両親に与えているため、この政策はナチス的な優生学ではなく、リベラル優生学と呼ばれるものである。現時点で行われている遺伝子検査でもダウン症や脆弱X症候群などの知的障害が検査されているが、これにもリベラル優生学の要素が混ざっている。

 両親たちは、子供の将来を制限するためではなく、子供の将来を広げるために遺伝子検査を行うことができる。遺伝子検査を行ったとしても、子供を道具化することからは程遠く、子供自身を目的として愛し続けることは可能である。子供自身が自分がどのような人間になりたいかを選ぶための選択肢の幅を両親が広げる、ということだ。

 才能遺伝子に関する知識は、自然に由来する不平等を是正してより正しい社会をもたらすことにも使用できる。遺伝的に不利な人たちに対するサポートを増したり教育を改善することで、遺伝のくじ引き(genetic lottery)の結果を是正するのである。

 

私たちはユートピアディストピアとを区別できるか?

 もし私たちが"何もしない"ということを選択するとすれば、私たちは可能性を最大化することや次世代の人々の可能性を現実化することを怠ることについての責任を負う。才能遺伝子の研究結果は、子供たちがより良い人生を過ごす可能性を高めるために使うことができるし、より正しくて平等な社会をもたらすために使うことも私たちにはできるのだ。

 あるいは、私たちは危害を引き起こし、自由を削減して不平等を悪化させてしまうかもし。知識には力が伴うのであり、力には責任が伴うのである。今回の研究結果は、認識能力を理解して改善するための道筋を示している。そして、認識能力とは21世紀の社会に参加する人々にとっては欠くことのできない本質的な要素であるのだ。

 

 

 

 

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davitrice.hatenadiary.jp

 

「生命倫理学者?邪魔だからどっか行け」by スティーブン・ピンカー

www.bostonglobe.com

 

 本日紹介する記事は、心理学者のスティーブン・ピンカー(Steven Pinker)が2015年の8月1日に Boston Grobe に発表した記事。タイトル通り、生命倫理学者たちを生命医学研究の障害だと見なして痛烈に批判している記事である*1

 

 

生命倫理学者たちへの道徳的要請」 by スティーブン・ピンカー

 

 CRISPR-Cas9は新しく強力なゲノム編集技術であり、生命医学研究の倫理に対する懸念を人々に抱かせて研究の一時停止や新しい規制を呼びかける声を生じさせてきた一連のバイオテクノロジーの中でも、最新のものである。確かに、バイオテクノロジーには実に膨大な道徳的意味が含まれている。だが、その道徳的意味とは人々が心配しているようなものではないのだ。

 あなたの友人や親族のなかに、癌・心臓病・アルツハイマーハンチントン病パーキンソン病・精神分裂症などの肉体的・精神的な病気のために若くして死んだ人や何年も苦しみに耐えなければいけなかった人はいるだろうか?もちろん、いるだろう。病による犠牲(cost)は、生きている全ての人が感じている。世界の疾病負担研究プロジェクト(The Grobal Burden of Disease Project)は、若年死によって失われた生存年数や障害によって犠牲になってしまった年数を推計することで、病による犠牲を数量化しようとした。2010年には、25億人分…つまり、地球人口のおよそ3分の1の人命とその人生の豊かさ(flourishing)が、病によって失われていた。犯罪・戦争・そしてジェノサイドによる犠牲者数を合わせても到底及ばないような数だ。

  長い間、身体的な苦痛や若年死は人間という存在にとって避けられない物事であると考えられきてた。しかし、運命は人類の叡智によって変えられている。過去20年間で、病による一人当たりの生存年数の損失は35%も減っている(統計は年齢別や障害という要素で調整されている)。地理的な偏りが存在しているとはいえ、この進歩は世界的に起こっている。生存年数は全ての大陸で大幅に増えているのだ。

 この進歩の一部は、経済発展の恩恵によるものである。より豊かな国では、市民たちはより長くより健康な人生を過ごす。感染性疾患・妊娠時の疾患・新生児疾患・栄養疾患は、発展途上国においては犠牲者を出し続けているが(ただし、その数も減少している)、豊かな国では公衆衛生政策と医学的介入によってそれらの疾患の大半が排除されているのだ。しかし、進歩の全てが経済発展のついでに簡単に達成された訳ではない。豊かな国でも貧しい国でも、上述の疾患よりも厄介な全ての年齢幅における病気のために生じる生存年数の損失は、薬品・手術・疫学の進歩によって削減されてきた。治療法が安くなり、貧しい国が豊かになるにつれて、さらに多くの人々が恩恵を得られることであろう。

 つまり、生命医学研究は生命・健康・人生の豊かさの大幅な増加を保証する。愛する人が若くして病気にかかっても生きていることや、衰弱していたその人が元気になったことを想像してみればいい。あなたはどれだけ幸せを感じることだろう。…そして、数十億人もの人が永続的にその幸せを感じることを想像するのだ。この幸福が実現する可能性をふまえると、今日の生命倫理学者たちの第一の道徳的目標は一文にまとめられる。

 

 邪魔だからどっか行け。(Get out of the way)

 

 本当に倫理的な生命倫理学者であれば、"尊厳"だとか"神聖さ"だとか"社会正義"だとかの漠然としているくせに大ざっぱな原則を根拠にして、煩雑な手続きや一時停止や裁判の脅威などで研究を泥沼に引きずりこんで遅延させようとするべきではないのだ。遥か未来に生じるかもしれないとされる不確かな危険でパニックを煽ることで、現在や近い将来に利益を与える可能性のある研究を妨害しようとするべきでもない。核兵器ナチスの非道、『すばらしい新世界』や『ガタカ』といったディストピアSF、ヒトラーのクローンたちで編成された軍隊だとか人々が眼球をeBayで売りに出すようになるだとかスペアの臓器を他人に提供するために作られたゾンビたちで詰まった貯蔵庫だとかのフリークショーじみたシナリオなどと研究内容を結び付けるような、悪意のあるアナロジーでパニックを煽るべきではないのだ。もちろん、個人は特定可能な危害から守られるべきである。しかし、患者や研究対象者の安全やインフォームドコンセントを保証するためのセーフガードは、もう既に有り余るくらいに存在しているのだ。

 ある研究が慌ただしく向こう見ずに人間の状況を変えてしまう前に研究を一時的に停止してその研究が含んでいる長期的な意味合いについて考えることは、慎重な思慮であるに過ぎない、と一部の生命倫理学者たちは主張する。だが、それは幻想だ。

 まず、研究を遅らせることには多大な人的犠牲が含まれている。ある効果的な治療法の実現が一年間遅延されるだけでも、何百万人もの人々に死や苦痛や障害が引き起こされる可能性があるのだ。

 第二に、数年先の科学技術の状況についての予測はあまりに当てにならないので、その予測に基づいた政策はほぼ確実に利益よりも危害の方を多く引き起こしてしまうのである。私が子供の頃に人々が確信していた未来予想に反して、21世紀になっても都市はドームに覆われていないし、ジェトパックは実用化されていないし、メイドロボットはいないし、機械性の心臓はできていないし、月への定期飛行は行われていない。もちろん、未来に存在しない技術への無知の裏には未来に存在する技術への無知がある。WWW・デジタルミュージック・コンピュータ内蔵のスマートフォンソーシャルメディアシェールガスを採掘するための水圧破砕法(fracking)などがもたらした破壊的なまでの影響を予測できた人はごく僅かであったのだ。

 とりわけ、生命医学研究の未来を予測することは挑戦的なまでに難しい。昨日まではガンを治す魔法の特効薬として新聞の一面に載っていたインターフェロンや血管新生抑制剤なども、バイオックスやホルモン補充療法といった錬金術(elixirs)と同じように、固唾を飲んで見守っていた人たちの期待を裏切ってしまった。クローン羊のドリーが誕生してから19年経っているのに、現在の世界は、親たちが生まれてくる子供に音楽やスポーツや知的な才能の遺伝子を移植する世界からは全くかけ離れている。

 他方で、ワクチン・輸血・麻酔・人工授精・臓器移植・体外受精といった治療法は、それらが登場した当時には地獄への道につながる技術だと貶められていたが、実際には人間の幸福にとって例外のない恩恵となったのである。

 生命医学の進歩は常に漸進的であり達成するのが難しく、また、予測される危害にはその危害が実際に起こった時に対処できる。人間の身体は驚くほど複雑であり、経年劣化に弱く、若い時期に元気であるために寿命を代償にするという進化によって形作られていて、ある箇所に介入が行われたとしても身体の別の箇所で補われることを保証する入り組んだフィードバック・ループによって管理されている。生命医学研究とは、線路に沿って走り続ける電車よりも、丘の頂上へと向かって石を押し上げ続けるシシューポスに近い作業であり続けるだろう。…そして、倫理学者たちと呼ばれる連中のロビー活動は石が転がり落ちるのをわざわざ後押しするのであり、それは何よりも必要とされていないものだ。

 

 

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

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*1:当時、この記事は倫理学者たちの間でも話題を起こしたらしく、倫理学者からのレスポンスも多く発表されている。記事内でピンカーが行っている主張自体が倫理学で言うところの功利主義に近いというのもあって、必ずしもピンカーの主張を全否定するレスポンスばっかりではなかったりする。今回の記事に反響があればレスポンスの方も訳して紹介するかも。

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