道徳的動物日記

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「戦争は人間の本性に深く根付いているという生物学理論」に関する、ジョン・ホーガンとスティーブン・ピンカーの見解

 

Steve Pinker demolishes John Horgan’s view of war « Why Evolution Is True

 

 

 

 今回紹介するのは、進化生物学者のジェリー・コイン(Jerry Coyne)のブログに掲載された、「戦争は人間にとって生得的なものである」という主張を批判する科学ジャーナリストのジョン・ホーガン(John Horgan)の意見と、それに対する心理学者のスティーブン・ピンカー(Steven Pinker)のレスポンス。コインの記事のタイトルを訳すと「スティーブン・ピンカーがジョン・ホーガンの戦争に関する認識を粉砕する」。

 サイエンティフィック・アメリカン誌(Scientific American)に掲載された記事などで、ホーガンは「戦争は人間にとって生得的なものである」という主張を度々批判し続けてきた人である*1。ピンカーの著書『暴力の人類史』もホーガンは批判しているようだ。最近では、マイケル・シャーマー(Michael Shermer)が主催する科学的懐疑主義の雑誌であるスケプティック誌(Skeptic)の筆者たちに対して「懐疑主義者たちは、ホメオパシー地球温暖化否定論・ワクチンや遺伝子組み換え作物に対する反対といった狙いやすい対象(soft target)を攻撃する代わりに、戦争という解決するのが難しい問題(hard target)について取り組むべきだ」というようなことをホーガンが主張した*2。それに反応して、スケプティック誌に関わる人たちがホーガンに反論する記事を書いている*3。その流れで、ホーガンの主張に反論する文章をピンカーがジェリー・コインに送って、コインがピンカーの許可を得て自分のブログに公開した…ということであるようだ*4

 今回翻訳して掲載するのは、ホーガンの記事から「戦争は人間の本性に深く根付いているという生物学理論」への批判として書かれている部分をコインが抜粋したものと、それに対するピンカーの反論。ホーガンの記事には、過去にホーガン自身が書いた記事へのリンクがかなり多く貼られているのだが、多過ぎて煩雑になるので一部省略している。

 

 

 ジョン・ホーガン

 

 戦争は人間の本性に深く根付いているという生物学理論(訳注:deep-roots theory of war, 以下ではディープ・ルーツ理論と表記する)は、実に私をイラつかせる。この理論によると、集団による致死的な暴力は私たちの遺伝子に内在しているのだ。戦争はチンパンジーと人間の共通の祖先が存在していた数百万年前にまで遡るのだそうだ*5

 ディープ・ルーツ理論は、スティーブン・ピンカー、リチャード・ランガム、そしてエドワード・ウィルソンといった重鎮の科学者たちによって促進されてきた。スケプティック誌のマイケル・シャーマーも飽きることなくこの理論を押し売りし続けているし、メディアもこの理論を好む*6。なぜなら、血に飢えたチンパンジー石器時代の人間たちについてのけばけばしい物語がこの理論には含まれているからだ*7

 だが、戦争とは文化的な発明であることを示す証拠は反論の余地がない程存在している*8。農業や宗教や奴隷制と同じように、戦争は1万2千年前よりも後の時代に出現したものなのだ。

  私がディープ・ルーツ理論を憎んでいるのは、それが間違っているからだというだけでなく、戦争とは宿命的に起こるものであるという考え方を助長してしまうからだ*9。戦争は私たちが直面している問題の中でも最も差し迫ったものである。地球温暖化、貧困、疫病、政治的抑圧よりも戦争の方が切迫した問題なのだ。問題を解決するためのリソースが戦争に取られてしまうので、戦争は直接的にも間接的にも他の問題を更に悪化させるのである。

 しかし、戦争とは本当に難しい問題だ。大半の人々…おそらく、読者たちの大半も…世界平和という考えを空想に過ぎないとして退けている。あるいは、あなたはディープ・ルーツ理論を信じているかもしれない*10。もし戦争が古代から存在している先天的なものであるとしたら、戦争を避けることは不可能であるはずだ、そうではないか?

 また、宗教的な狂信…特にイスラム教の狂信は平和に対する最大の脅威である、とあなたは考えているかもしれない。そのような考えは、リチャード・ドーキンス、ローレンス・クラウス、サム・ハリス、ジェリー・コインのような宗教非難者たちが主張している考えであり、そして誰よりも挑発的な戦争屋であった生前のクリストファー・ヒッチンズが主張していた考えだ*11

 私が服従しているアメリカ合州国こそが、平和に対する最大の脅威なのだ。2001年の9月11日以来、アフガニスタンイラクパキスタンで行われたアメリカによる戦争は37万人の人間を殺害した。その中には21万人以上の市民が含まれているし、その多くは子供である*12。そして、この数字はあくまで控えめに推計したものだ。

 アメリカが行った行為は、イスラム教徒たちの闘争心を解決するどころか更にそれを悪化させる結果をもたらしてしまった。ISISとは、アメリカとその同盟国が行った反ムスリム的な暴力に対する反応であるのだ*13

 

 スティーブン・ピンカー

 

 ジョン・ホーガンは、戦争が人間の本性に深く根付いているという理論を「憎んでいる」のであり、ディープ・ルーツ理論は「戦争とは宿命的に起こるものであるという考え方を助長してしまう」から彼を「イラつかせる」と書いている。だが、ジョン・ホーガンが何を憎んでいるとしても、そのことは何が真実であるかということには全く関係がない。自身の憎しみに自分の思考を導かせるがままにしておくという数十年来の悪癖のために、ホーガンは誤った推論と事実の歪曲を行い続けている。

 戦争が先史時代から人間に深く根付いているのであれば戦争を減少させようとする試みは無益なものとなるはずだ、という飛躍した論理をホーガンは飽きることなく主張し続けている。彼の主張が誤っていることは明白である。なぜなら、 先史時代から人間に深く根付いている全ての物事について、それらを減少させることが私たちには可能であるからだ(無学であること、疫病、一夫多妻制、その他色々)。いずれにせよ、人間の進化の歴史を引き合いに出すことで戦争を正当化した指導者の例は歴史上存在していない。言うまでもなく、チンパンジーを引き合いに出した指導者も存在しない。 

「しかし、戦争とは本当に難しい問題だ。大半の人々…おそらく、読者たちの大半も…世界平和という考えを空想に過ぎないとして退けている。あるいは、あなたはディープ・ルーツ理論を信じているかもしれない。もし戦争が古代から存在している先天的なものであるとしたら、戦争を避けることは不可能であるはずだ、そうではないか?」と、ホーガンは書いている。だが、彼自身も、自分が書いていることはナンセンスだと知っているはずだ。ホーガンは私をディープ・ルーツ理論の支持者として持ち出しているが、ならば、世界平和は空想上の考えではないという主張を私こそが行っていることもホーガンは知っているはずだ。人類は正しい方向に向かっている、と私は繰り返し公式に発表し続けてきた(最近では先月に発表したところだ)*14軍事史家のアザー・ガット(ホーガンもよく知っている人物だ)も、私と同じように、戦争の根深さと近年における戦争の減少の両方について書いている。

 ディープ・ルーツ理論は戦争が永久に続くことを意味する、という誤謬に自分自身を鎖で繋いでしまったことで、ホーガンは戦争が「文化的な発明」であるという主張を行い続ける羽目になった。それも、彼自身が戦争屋になってしまうという代償付きである。16年前にニューヨークタイムス誌に書いたレビューで、ホーガンは文化人類学者のナポレオン・シャグノンに対する悪意に満ちた不当な中傷を是認してしまった*15。シャグノンが、ヤノマミ族における暴力の頻度の高さについて書いたためである*16。今日では、ホーガンは戦争が文化的な発明であることを示す証拠は「反論の余地がない程存在している」と書いている。まばらに分散していた集団からでたらめに得られた考古学的記録が、何かについての「反論の余地が無い程の証拠」になり得るなんて言われても、不思議に思わざるを得ない。ホーガンは疑わしい学者であるマーガレット・ミードも引用している(不名誉なことに、ミードは首刈り族であったチャンブリ族のことを平和愛好者たちであると誤って描写してしまった人物だ)*17。そして、ホーガンは「平和の文化人類学者」たちであるブライアン・ファーガソンとダグラス・フライも引用しているが、彼らはホーガンと同様の道徳主義的誤謬を数十年に渡って主張し続けてきた人物である(例えば、フライは「もし戦争が自然であると見られるなら、戦争を予防したり減少したり撲滅しようとすることにはほとんど意味がなくなるであろう」と書いている)。

 私が著書『暴力の人類史』にて国家によるものではない暴力の割合についての量的な推計のレビューを発表してから数年後、アザー・ガットやリチャード・ランガムも彼ら自身のレビューを発表した*18。いずれも、ファーガソンとフライの主張に関わるものだ(マーク・アレンとテリー・ジョーンズが最近編集した本である『 Violence and Warfare among Hunter-Gatherers(狩猟採集民における暴力と戦争)』も参照)*19。 ガットは、証拠が「平和の人類学者」たちの主張…国家が存在する以前の人々が致死的な暴力を行っていたことの否定、彼らが「戦争」を行っていたことの否定、そして彼らが暴力や戦争をかなり頻繁に行っていたことの否定…を着実に退け続けていることを示している。そのために、ファーガソンも最近の著書では「暴力と戦争は西洋の植民地主義が登場するまでは存在しなかった、あるいは暴力と戦争は国家や農業が登場するまでは存在しなかったと考えている人がいるとしたら、この本は彼らが間違っていることを証明するだろう」と書いている。また、「先史時代における戦争」という言葉の定義から争い・奇襲・個人レベルの殺人を除くことだけが先史時代における戦争を無かったことにする唯一の方法である、とガットとランガムは指摘している。しかし、被害者の親族たちが一人以上の人数によって殺人に対する報復を行うことはありふれているし、報復に対する報復が始まって、それは高い確率で争いのサイクルへと発展する。この現象を「戦争」と呼べるかどうかは、言葉の意味の問題となる。

 同様に、「文化的な発明」も言葉の意味の問題だ。農業や文字などは明確に文化的な発明と呼べるものであり、数千年前に少数の発祥地で誕生した発明が世界中に広がっていったものである。一方で、独立していて外界との接触がない多数の部族で、集団的な暴力が存在していたことが記録されている。2016年の初頭にケニアで発見された1万年前の狩猟採集民たちの遺跡にも、集団的な暴力の痕跡が示されている*20。もし戦争が「文化的な発明」であるとしても、戦争は人間がとりわけ発明や再発明を行う傾向のある物事の一つだということになる。そうだとすれば、「私たちの遺伝子に内在している」ことと「文化的な発明」との二分法は無意味になるだろう。

 誤った二分法と言えば、私たちは「イスラム教の狂信」とアメリカ合州国のどちらを「平和に対する最大の脅威」と見なして非難するべきなのであるか、という論の立て方は、懐疑的な科学者が戦争について分析する洗練された方法からはかけ離れているものだ…ホーガンは、自分と同じ論の立て方を懐疑的な科学者も行うべきであると主張している訳だが。アフガニスタンイラクに対するアメリカの向こう見ずな侵略が、無能な政府や失敗した国家や公然とした無秩序状態をもたらして、スンニ派シーア派の間の戦いやその他の血生臭い殺し合いの暴力を激増させてしまったことは確かである。…しかし、その理由は、これらの地域に潜在していた狂信的な暴力は残忍な独裁制でしか抑えることができなかったからだ。ウプサラ紛争データプロジェクトによると、2014年の時点で継続していた11の戦争のうち、8の戦争(73%)で過激派イスラム教徒の戦力が戦闘当事者の1つとして関わっており、他の2つの戦争ではウクライナと戦う民兵プーチン大統領がバックにいる民兵である)が関わっており、11番目の戦争は南スーダンで行われた部族間戦争である。2015年の戦争について分析しても似たような結果になるはずだ。これら全ての戦争とISISの残虐行為をアメリカ合州国のせいにするのは、特定の政治的感受性を持っている人たちにとっては気分が良いことかもしれないが、今日の世界における戦争と平和の複雑な原因について科学者たちが理解する方法だとはとても言えないだろう。

 

 

*1:サイエンティフィック・アメリカン誌に掲載された複数の記事を見ると、政治的主張としてはかなりの反米・反戦的な左派であり、いわゆる「科学至上主義」の批判者的な人でもあるようだ。邦訳されているホーガンの本の例。

 

続・科学の終焉(おわり)―未知なる心 (Naturaーeye science)

続・科学の終焉(おわり)―未知なる心 (Naturaーeye science)

 

 

*2:

Dear "Skeptics," Bash Homeopathy and Bigfoot Less, Mammograms and War More - Scientific American Blog Network

*3:一例

NeuroLogica Blog » John Horgan is “Skeptical of Skeptics”

*4:ジェリー・コインのブログは、ほぼ毎日のように複数の記事が更新されるうえに、科学や宗教に関する様々な論争的な話題について挑発的な文体で書かれている記事も多いので、英語圏では読者が多くて影響力の強いブログであるようだ。背景の事情がよくわからないが、コインのブログで自分の議論を発表するのが効果的だ、とピンカーは判断したかもしれない。

*5:

Quitting the hominid fight club: The evidence is flimsy for innate chimpanzee--let alone human--warfare - Scientific American Blog Network

*6:

I am Innately Aggressive, Not Innately Warlike - Scientific American Blog Network

*7:

New Report on Chimp Violence Fails to Support Deep-Roots Theory of War - Scientific American Blog Network

*8:

Japanese Study Deals Another Blow to Deep-Roots Theory of War - Scientific American Blog Network

この記事の中で、ホーガンは中尾央らの研究を参照している。

日本先史時代における暴力と戦争 - 国立大学法人 岡山大学

*9:

Are predictions of endless war self-fulfilling? - Scientific American Blog Network

*10:

Let's Begin Talking about How to End Wars - Scientific American Blog Network

*11:

Book by Biologist Jerry Coyne Goes Too Far Denouncing Religion, Defending Science - Scientific American Blog Network

*12:

Where Is the Outcry Over Children Killed by U.S.-Led Forces? - Scientific American Blog Network

*13:

U.S. Bombs, Which Helped Spawn ISIS, Can’t Crush It - Scientific American Blog Network

*14:

The decline of war and violence - The Boston Globe

翻訳 

2016年4月の世界における戦争と暴力の状況 (ジョシュア・ゴールドスティンとスティーブン・ピンカーの記事) - 道徳的動物日記

*15:

Hearts of Darkness - NYTimes.com 

Darkness’s Descent on the American Anthropological Association

前者はホーガンのレビュー、後者はシャグノンに対してアメリカ人類学会が行った仕打ちに関するアリス・ドレガーの報告。ドレガーは他の場所でもアメリカ人類学会の問題点について書いている。

「科学はお断り。私たちは人類学者だ」by アリス・ドレガー - 道徳的動物日記

*16:

シャグノンに関する事件の詳細はこの記事にも書かれている。

「科学から政治的活動へと変貌させられる人類学」by グリン・カストレッド - 道徳的動物日記

*17:

Margaret Mead's war theory kicks butt of neo-Darwinian and Malthusian models - Scientific American Blog Network

*18:

Proving communal warfare among hunter-gatherers: The quasi-rousseauan error - Gat - 2015 - Evolutionary Anthropology: Issues, News, and Reviews - Wiley Online Library

Intergroup aggression in chimpanzees and war in nomadic hunter-gatherers: evaluating the chimpanzee model. - PubMed - NCBI

*19:

Violence and Warfare among Hunter-Gatherers: Mark W Allen, Terry L Jones: 9781611329391: Amazon.com: Books

 

*20:* PDF

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『ガリレオの中指』、『人はなぜレイプするのか』、学問における事実とイデオロギーの関係

 

Galileo's Middle Finger: Heretics, Activists, and the Search for Justice in Science

Galileo's Middle Finger: Heretics, Activists, and the Search for Justice in Science

 

 

 

 

  今回紹介するのは、私が最近読んでいる本である、アリス・ドレガー (Alice Dreger)の著書『ガリレオの中指:異端者、活動家、正義の探求(Galileo's Middle Finger: Heretics, Activists, and the Search for Justice)』に書かれている内容。

ガリレオの中指』は、活動家や学者たちのアイデンティティやドグマやイデオロギーがいかに科学的探求を歪めてきて、不都合な科学的知見を発表する科学者を攻撃してきたか…ということについての本。ヤノマミ族を通じて人間の生得的暴力性の研究をしたナポレオン・シャグノンや、トランスジェンダーに関する理論を著作で展開したマイケル・ベイリー、人間の行動を生物学的な見地から分析する社会生物学という学問領域の始祖の一人であるE・O・ウィルソンなどが取り上げられている。著者のドレガーによる科学者たち本人へのインタビューも混じえながら、中傷や人格批判をされて様々な危険にも晒されてきた科学者たちがどれほど傷付いてきたか、ということが描写されている。

 上述した人たちの中ではマイケル・ベイリーが日本では馴染みが薄い人だろう。ベイリーは2003年に発表した著書『The Man Who Would Be Queen: The Science of Gender-Bending and Transexualism(女王になろうとした男ジェンダーの変曲とトランスセクシュアリズムの科学)』の中で、 ある人が男性から女性への性別変更を行う理由を性的欲求や自己女性化愛好症によって説明した*1。その結果、ベイリーの書いている理論を否定するトランスジェンダーの活動家に人格攻撃・糾弾・脅迫・名誉毀損などをされる羽目になった*2。『ガリレオの中指』では、「ベイリーはトランスジェンダー差別を行っている」という批判のみならず「ベイリーは研究倫理違反をした」「ベイリーは研究対象とセックスした」などの虚偽の告発までもがまたたく間に拡散してベイリーの家族や友人なども中傷・脅迫の被害にあった様子が描写されている。中傷キャンペーンがあまりに大々的であったために、著者のドレガーも含めて、ベイリーの本を実際に手にとって読んでいない人は「ベイリーはトランスジェンダー差別を行っている」という批判を疑っていなかった。ドレガーが調査に乗り出して誤解を解く記事を書き出すまでは、その状況が何年も続いていた程である。また、誤解を解く記事を書き出したために、ドレガー本人も活動家の標的になったという事態も書かれている。

 

 ただし、『ガリレオの中指』は必ずしも「社会正義を求める活動と科学は相容れない」と主張する本ではない。むしろ、社会運動を通じて正義を達成するためには科学によって明らかにされたエビデンスを用いらなければならない、事実と理性に基づいた運動だけが目的を達成して世の中を良くすることができる、というような主張をしている本である。著者のドレガーの専門は医学を中心とした科学史であり、自身の専門知識を活かした社会活動も行っている。具体的には、インターセックスの人や結合双生児の人たちに対する医者たちのパターナリスティックな介入を止めさせる運動、先天性副腎過形成症の胎児に対するデキサメタゾンを用いた介入を止めさせる運動などである*3。『ガリレオの中指』でも、インターセックスの人たちに関する事実に基づいた冷静なアプローチがいかに医者たちの考えを変えたかについて書かれている。それまでは活動家っぽく短髪でラフな格好をしていたが、医者と対話する時にレズビアンの活動家だと思われて最初から警戒され怯えられて話にならないことが多かったので、あえて女性っぽい格好をするようになったら、今度は「敵と妥協している」として仲間の活動家から批判された、というエピソードが面白い。

 

 今回の記事では、前半はランディ・ソーンヒルとクレイグ・パーマーの著書『人はなぜレイプするのかー進化生物学が 解き明かす (Natural History of Rape)』を巡る事情について、『ガリレオの中指』で書かれているエピソードに沿いながら紹介する。後半では、科学における事実の探求とイデオロギーと の関係についての、ドレガー自身の考えを紹介する*4。引用部分は、いちいち引用枠に入れると文字が斜めになってしまって読みにくいので、『』で括っている。

 

 

人はなぜレイプするのか―進化生物学が解き明かす

人はなぜレイプするのか―進化生物学が解き明かす

 

 

 

 『人はなぜレイプするのか』出版当初から、パーマーとソーンヒルは批判の的となってきた。批判者の多くは、パーマーとソーンヒルが「レイプ犯がレイプをした理由は遺伝子に動かされていたからであるので、レイプ犯は免責されて許されるべきだ。また、女性も自身の遺伝子に動かされていたために、男性を誘ってレイプを求めていたのだ」と主張している、という理由で批判していた。だが、実際にはパーマーとソーンヒルは上記のような主張は行っていなかった。

 

『ランディ・ソーンヒルとクレイグ・パーマーが主張したのは、レイプには性的な構成要素もある、ということだ。…レイプとは権力の発露であり他の要素は混じっていない、という一部のフェミニストの主張には反している。ソーンヒルとパーマーは、人間を含む一部の種類の生物種の間では、ある種の性的な強要行為は一部の男性の繁殖成功度を増す可能性がある、ということを示す証拠を集めて整理した。また、人間のレイプ犯は一般的には妊娠可能な年齢の女性を性的に魅力的であると感じて行為の対象とする、ということを示す証拠もソーンヒルとパーマーは集めた。特に注目するべきは、ソーンヒルとパーマーがレイプ犯が女性に与えた危害について真剣に捉えていて、レイプの被害者を本当にケアするということは性的な強要に生物学的な要素が影響を与えている可能性について真剣に考えことである、と論じていたことだ。ソーンヒルとパーマーの業績はレイプについて説明することを可能にするかもしれなかったが、それだけでなく、レイプを予防してレイプ犯を告訴することについても自分たちの業績が役に立つことを著者たちは願っていたのだ。間違いなく、彼らはレイプを免責したり、容赦したり、許したりはしていなかった。生物学者ジョアン・ラフガーデンによる非難に反して、彼らは「犯罪的な行動を免責するための"進化が俺にこの行為をやらせるんだ"論の最新版」を用意したのではなかったのである。』

 

フェミニストの著者であり活動家であるスーザン・ブラウンミラーは、特に激しく怒っていたようだったが、それも不思議なことではない。レイプは性欲の問題ではなく本質的に権力と支配についての問題である、というブラウンミラーの非常に影響力の強い主張をランディとクレイグは著書の中で直接取り上げていたからだ。』

 

 そもそも著者たちに『人はなぜレイプするのか』を書かせることになった理由の一つは、ブランミラーやその他のフェミニストたちが主張しているような「レイプは家父長制的な権力や支配が原因であり、性欲が原因ではない」という理論がアカデミズムやフェミニズム界隈での議論を超えて実社会に影響を及ぼしていたからである。例えば、以下はある日にクレイグ・パーマーの下にアリゾナ州の州検察官が電話をしてきた時についてのエピソードである。

 

『「私(クレイグ)が最初に思ったのは、アリゾナ州から引っ越す前に返し忘れていた図書館の本を数年以上延滞でもしてしまったのかな、ということだ。だが、実際には、私が引っ越す前に住んでいた近所で起こったレイプ殺人事件の裁判が近づいていて、レイプ殺人の犠牲者となった女の子と容疑者として告発された男性の間で喧嘩が起こっているところを見たことがある人を探すために、その検察官は事件が起こった近所に住んでいたことのある人たち全員に連絡を取っていたんだ」。クレイグは検察官に提供できる情報は持ってなかった。「なぜ被害者と容疑者の間との喧嘩という特定の事柄を報告する必要があるんだろうと、私は興味を持った。だから、私はその検察官に質問したんだ。"その男は被害者の女の子に性的に惹かれていたが、その女の子が喜んで自分とセックスしてくれることは絶対に有り得ないということもその男は知っていた、と論じることはできないのか?"」。その州検察官は、動機は性的なものであり殺人はレイプを隠蔽するために行われたのだ、と仮定することはできなかったのだろうか? 

 州検察官は、基本的には自分たちもその議論を行おうとしていた、と答えた。しかし、「弁護側は"レイプは性的な動機では行われない、と科学者たちが証明している。その代わりに、レイプは暴力や支配や権力の欲求に基づいているのだ"というようなことを言ったんだ。だから、暴力や支配や権力という動機で事件が起こったことを立証する必要があるんだ」。クレイグはかなりのフラストレーションを感じた。レイプは性的な行為ではない、という主張が道理にかなっている筈があるのだろうか?特に、まともに立証もされていないようなその主張が、レイプと殺人を犯した犯罪者を裁くことに支障を与えているとしたら?ポピュリストたちのドグマが「殺人者やレイプ犯たちを自由にしている可能性もあったんだ」と、クレイグは私に語った。』 

 

 ブラウンミラーのような主張は他の場面でも影響を与えていた。カリフォルニア大学デイビス校で行われていたレイプ予防教育プログラムで配布されていたパンフレットには「事実:性的暴行は物理的・感情的な暴力による行為であり、性的欲求を満たすための行為ではない。レイプ犯は女性を支配・中傷・コントロール・侮辱・恐怖・汚すために性的暴行を行う。レイプの主要な原因は権力と怒りである、と研究が示している」や「事実:性的暴行の被害者の年齢の範囲は幼児から高齢者にまで渡る。女性の外見や魅力は事件とは無関係である。レイプ犯は手近にいて弱そうな女性に性的暴行を与える」などと書かれていた。これらの主張はソーンヒルやパーマーが研究して明らかにした事実とはかけ離れているわけだが、事実よりもイデオロギーに基づいた主張が犯罪を予防するための教育という形で広められていたのである。


 また、ソーンヒルとパーマーは「レイプは進化生物学という観点だけで説明できる」と主張したわけでもなければ「レイプの原因は全て性欲である」と主張したわけでもなかった。人間の性的行動やセクシュアリティに進化が与える影響の強さを認識した上で、男性による女性へのレイプの一部は性欲によって説明できる、と主張したのである。だが、『人はなぜレイプするのか』は、出版直後からメディアでもアカデミズムでも単純化した解釈をされて取り上げられた。「被害者が性的に魅力的に見えることは、レイプ事件に影響する」などの事実を受け入れるのを拒んだ人たちは、単純な善と悪との物語の中に『人はなぜレイプするのか』を当てはめて、ソーンヒルとパーマーはレイプ犯を擁護するミソジニストの悪人であると断定した。批判はメディアや学会にとどまらず、ソーンヒルとパーマーの下にはヘイト・メールや脅迫電話が届くようになった。脅迫電話はあまりにも危険に聞こえたために、地元の警察が出動することになった。脅迫電話を聞いた警察は実際に危険は深刻であると判断して、車に乗る前には爆弾が仕掛けられていないか確認するようにパーマーに忠告した程である。

 当時のことを振り返りながら、パーマーはドレガーに伝えた。

『「これらの事態のおかげで、人間という生物がなぜ集団リンチを行ったりジェノサイドなどの行為を行ったりするのかということについて学ぶことができたよ。そんな知識を学べて嬉しい、とは言い難いけどね。私の経験はメディアというものに対する私の評価を下げさせたか、と同僚が聞いてきたことがある。いいや、と私は答えた。私の経験は人間という生物に対する評価を下げさせたんだ」。』

 

  しかし、ソーンヒルとパーマーには自分たちの著書が最終的には被害者を減らし女性を助けることになる、という確信もあった。『人はなぜレイプするのか』の出版後には、実際のレイプ事件の被害者から感謝の手紙が届いた。エリザベス・エクスタインという被害者は新聞記事上で公然とソーンヒルとパーマーを賞賛した。「レイプは権力や支配のために起こるのであり、性欲が原因で起こるのではない」という理論が虚偽であると実感していた被害者たちも存在していたのである。更には、刑務所に服役しているあるレイプ犯がソーンヒルとパーマーの記事を読んで、自分自身も刑務所内の他のレイプ犯たちも動機は制欲であったと告白している、と伝える手紙をパーマーに送った。「レイプ犯はどんな女性でも襲う、なんてくだらない迷信だ」とその手紙には書かれていた。パーマーに見せてもらった手紙を読んだドレガーは、以下のように書いている。

 

『この手紙を読んだことで、私は未だに恐怖を感じている。いくつかの恐怖の組み合わせ、と言うべきかもしれない。恐怖の一部は、この手紙を書いたようなレイプ犯の男性に対する恐怖だ。女性が鍵を拾うために身を屈めるだけで性的な誘いを見出してしまうような男性に対する恐怖だ。恐怖の一部は、フェミニズムのようなイデオロギーに対する恐怖だ。私のような理性的で進歩的な人を、心地よく感じられて便利な主張を守るために、故意ではなくても誰かを傷付けることに導いてしまうかもしれないイデオロギーだ。そして、恐怖の一部は、私が発言することの全てが私自身を攻撃するために使われることになるかもしれない、という事態への恐怖だ。クレイグに起こったような事態のことだ。』

 

 以下は、マイケル・ベイリーやクレイグ・パーマーたちへの取材を通じてアリス・ドレガーが至った結論である。

 

マイケル・ベイリーやクレイグ・パーマー、そしてその他数多くの白人でストレートで男性の科学者について、彼らは有害で危険な知見を生み出しているのだ、という物語を私は聞かされてきた。人文学におけるアカデミックなフェミニストとして、私が好んで聞きたがっていた物語だ。彼らは抑圧的な体制のために働く兵士に過ぎないのであり私たちのような善人が戦わなければならない敵である、という物語だ。彼らは人間の本性についての旧来のドグマから登場したのであるが、私たちは進歩と社会正義の下から登場したのだから、私たちの方が勝つべきなのだ。しかし、私は、彼らのような科学者たちはトランスジェンダーの人々やレイプの被害者の権利という点で政治的に進歩的な考えを持っているだけでなく、自分たち自身を苦境に陥らせるような事実を発見することに意欲的である、という事実に直面することになった。彼らは進歩のことも社会正義のことにも充分に気にしていたのだが、まず第一に、何が真実であるかということを知ることを気にしていたのだ。

 そのことは、彼らのような科学者(あるいは私や他の誰でも)はバイアスを持たない存在である、ということを意味しない。彼らの業績が政治やイデオロギーや権威に影響されることは一度もない、ということを意味するのではない。他の人たちからは最優先されていなかった政治的ではない知的なアジェンダから彼らは離れなかった、ということを意味するのだ。根拠のない権威から自分の解答を引き出しているだけでは正しい科学を営むことはできない、ということを彼らは理解していたのだ。正しい学問であるなら、真実の追求を第一に据えるべきであり、社会正義の探求はその次に行うべきなのだ。
 ミズーリで、この順番には実際的な理由があるということを私は理解した。持続的な正義は、世界において何が真実であるのかという知識を私たちが得ない限りは達成することができないのだ(レイプはいつ・どこで・なぜ起こるのかを理解しない限り、レイプを効果的に告訴して予防することは不可能である)。しかし、真実の探求を第一に置くことには更に本質的な理由がある。真実の探求を行うことは、学者である私たちが本来行うべきことであるのだ。ミズーリ州のコロンビアから東へと向かう小さなプロペラ飛行機のなかで私は確信を得たのだ。私たち学者は証拠を追求することを他の何よりも優先するべきなのだ。例えその証拠が私たちが目にしたくない物事を指し示しているとしても。世界は私たちという実例が存在することを必要としているのだ。思想の自由・研究の自由・言論の自由が保たれている世界、学び続け疑問を抱き続ける世界を維持するために、私たちが必要とされているのだ。
 それでも、私の同僚の人文学者たちの多くは同意しないだろう、ということはわかっていた。頭上で回転しているプロペラの音にも関わらず、フェイクレザーの窮屈な椅子に座って私たちを囲んでいる同僚の人文学者たちが私に大声で反論しているところが耳に聞こえるようだった。私たちの学者としての特権は社会的弱者のために行使されなければならない。私たちはベイリーやパーマーのような人たちに世界についての真実を言わせるままにしておくことはできない。私たちは弱者たちに声と力を与えて、何が真実であるかを彼らに言わせなければならない。科学は他の人間の営みの全てと同じようにバイアスがかかっているのだから、私たちは力を持たない人たちに力を与えなければならない、そして常に彼らとともに語らなければいけない。

 意識せずに頭を振りながら、私は反論するのだ。「正義は単に社会的立場によって決定されるものではない。 政治的目標に"真実"を決定させていても、正義を促進することはできない。学者たちのように非常識なまでの量の特権を持っている人間だけが、何が事実かも知らないのに何が正しいかを決定することを良い考えだと思えるのだ。非常識なまでの量の特権のおかげで、腐敗した警官が自分の家のドアを叩くことを恐れる必要のない人間だけが、罪と無罪は事実ではなくアイデンティティによって決定されるべきだなんて思えるのだ*5。科学とは証拠の探求であり、 "物事を知るための数多くの方法の中の一つ "ではない。互いに検証を行い、理論や実験を検証し、事実に対する主張を検証し、事実に対する別の事実も検証する、方法に伴ったプロセスこそが科学なのだ。科学は完璧ではないが、しかし、科学が私たちにもたらしたものを見てみればいい。抗生物質エイズの説明と治療方法、ホロコーストについての信頼性のある歴史、犯罪に関する虚偽の告発をされた人の無実をDNA分析を通じて証明すること、火星の表面に辿り着いた宇宙船、そして現在私たちが乗っていて空を飛んでいるこの飛行機だ」。』

 

 蛇足になるが、ベイリーとドレガーを糾弾したトランスジェンダーフェミニストの活動家・学者たちに関するドレガーの感想も紹介しておこう。

 

『…当然のごとく、私の立場に関する、予測できるような抗議がされた。私はクィアではない人だから、クィアの人々のリアリティを絶対に理解することができない。私の業績は、私が持っているということにされている特権を持たないトランス女性たちをアカデミズム内で沈黙させてしまう可能性がある。次から次へと、アイデンティというカードが投げ出されていった…単にアイデンティティというカードを最も多く保有している人が勝利する場所である " フェミニスト " たちの部屋の中でしか通じない行為だ。私は、ウーメン・スタディーズは磁石でおもちゃの魚を釣るゲーム程にしか洗練されていないのではないか、と思うようになってしまった。』

 

関連記事:

davitrice.hatenadiary.jp

 

*1:

www.amazon.com

*2:日本語で説明されている webページ

あるジェンダー理論への批判:血祭りになった一人の学者1 - Anno Job Log

*3:ドレガーの各活動や研究内容についての具体的な情報が載っているページ

Progress and Politics in the Intersex Rights Movement: Feminist Theory in Action | Alice Domurat Dreger

One of Us: Conjoined Twins and the Future of Normal | Alice Domurat Dreger

Prenatal Dexamethasone for Congenital Adrenal Hyperplasia

*4:ガリレオの中指』の原文の一部はネット上にもアップされていて、今回私が引用する部分はほぼ全て以下の webページに含まれている。非公式のwebページっぽいので著作権的にはマズいかもしれないが、私の翻訳が気になるとか疑わしいとか思う人は参照すればいい

physicshead: Alice Dreger: The Craig case

*5:共産政権時代のポーランドに暮らしていたドレガーの親戚は秘密警察を恐れていた、というエピソードに関係した文章

陰謀論としての「ピンクウォッシュ」

davitrice.hatenadiary.jp

 

 イスラエルに対する「ピンクウォッシュ」という批判(イスラエルの同性愛やその他のセクシュアル・マイノリティへの環境的な風土や政策は、パレスチナ人に対する人権侵害を隠蔽するためのイメージ戦略に過ぎない、という理論による批判)についての記事は以前にも訳したのだが、今回あたらためて紹介することにする。

 下記の二つの記事の中から、特に「ピンクウォッシュは陰謀論である」という批判をしている部分を取り上げて紹介。

 

 

 

www.queerty.com

 まず紹介するのは、Queertyというwebサイトに掲載された「ピンクウォッシングという主張に反対する、あるいはなぜ私はイスラエルを支持するゲイであるか」という記事。著者のジェイソン・リットマンはユダヤ系アメリカ人で、イスラエルにも度々行っており、イスラエル内のLGBTの権利を支持する団体とイスラエルを支持する団体などで活動しているようだ。

 

 

『ニューヨークタイムス紙の署名入り記事「イスラエルとピンクウォッシング」で、ユダヤレズビアンの作家・脚本家のサラ・シュルマンは「ピンクウォッシュ」という単語を「イスラエルにおけるゲイの生活に表現されるような現代性のイメージでパレスチナ人の人権に対する暴力を隠すための、計画的な戦略」と定義している*1

 ピンクウォッシングとは、ミスリーディングな単語である。この単語はイスラエルにおけるゲイの扱いは単なる(訳注:同性愛者や先進国からの)人気取りであるということを意味しているが、それには全く根拠がない。イスラエルでゲイが送っている生活の豊かさや多様さは周辺地域で起こっている別の問題から目を逸らさせるための政府による陰謀に過ぎないのだと、ピンクウォッシュ批判の活動家たちは本気で思っているのだろうか?イスラエルという広範囲において、ゲイが実際に過ごしている生活を捏造するのは、相当難しいだろう。

 プロガバンダという目的のためだけに、(訳注:ゲイに対する)寛容だけではなく受容まで行うような世論を創造することなんてできるわけがないのだ。

 ゲイ・コミュニティに対する進歩的な態度はパレスチナ人に対する特定の暴力を隠すために使われている、とシュルマンのような人たちは主張しているが、それなら彼女たちはイスラエルをウーマンウォッシング(イスラエルで女性が持っている権利のために)、スピーチウォッシング(言論の自由のために)、プレスウォッシング(出版の自由のため)、その他の罪でもイスラエルを糾弾するべきだ。

 …(中略)…

 私は、イスラエルにおけるパレスチナ人の扱いやイスラエルの政策を批判する人と争おうとは思っていない。他の数多くの国々よりも、ユダヤ人国家であるイスラエルだけが選択的に批判されてはいるのだが。活動家たちは、他の問題を取り上げるために、イスラエルにおけるLGBTの権利の記録を永久的に捨て去ろうとしている。

 これは間違っているだろう。』

 

www.slate.com

 

 この記事は以前にも紹介したが、Slateというwebページで法律とLGBTQに関する記事を書いているマーク・ジョセフ・スターンという人による「LGBTQ左派は反ユダヤ主義の問題を抱えている」という記事。

 2016年のCreating ChangeというアメリカのLGBTQ団体の全国会議において、A Wider Bridge(アメリカ内のユダヤ人LGBTQとイスラエル内のLGBTQコミュニティをつなげることを目的とした団体)がJerusalem Open House for Pride and Tolerance(イスラエルのLGBTQ団体)を招待した際に起こった事件について書かれたもの。

 会議が開催される前から反イスラエルの活動家たちが会場で「シオニズム」「ピンクウォッシュ」と批判し、登壇者の正体をキャンセルしようとしていた。運営は招待をキャンセルすることはしなかったが、当日の会場でも抗議者たちは「ピンクウォッシュをキャンセルしろ」や「シオニズムはクソだ」と書かれた看板を掲げなから抗議して、登壇者を会場から退場させた、という事件である。

 

『(前略。直前の段落では、イスラエルパレスチナ政策について批判的な意見が書かれている)…だが、Wider Bridge とJerusalem Open Houseは、イスラエルによるパレスチ人の征服を支持していない。実際には、どちらの団体もイスラエル-パレスチナ論争には特に関わっていないのだ。どちらの団体も、平等な権利をイスラエルのLGBTQの人にもたらすことと、運動の戦略を共有するためにイスラエルとアメリカのそれぞれのLGBTQコミュニティの間のつながりを育てることに集中した活動を行っているのだ。

 しかしながら、Creating Changeに居た200人の抗議者たちにとっては、団体がイスラエルと関係があるということだけでも充分であったようだ。彼らはWider Bridgeが「ピンクウォッシング」に協力していると怒りながら糾弾した。あるピンクウォッシュ理論家によると、イスラエルがLGBTQの人々に市民権を認めようとすることは、実は、他の場所でイスラエルが行っている人権侵害を隠そうとする狡猾な試みに過ぎないのだそうだ*2イスラエルは職業差別からLGBTQの人々を保護したり、軍隊の中でオープンに打ち明けることを認めたり、カップルが養子を得ることを認めたり、他の場所で行われた同性婚を認めたりしているのだが…だが、ピンクウォッシュ理論によると、これらの達成は全て策略なのである*3。実際にはイスラエル人はLGBTQコミュニティにゴミを投げつけているのであり、パレスチナ人の苦しみの声が聞こえてくる時にだけ寛容について大声で言い立てるのだ、とのことだ。

 ピンクウォッシュという概念は、非常に侮辱的なものだ。この概念は、他の集団に対する抑圧を隠すという目的を除けばイスラエル政府はLGBTQの権利を向上させることに関心を持っていない、と推測している。このような推測はイスラエルに対してだけ向けられるものだ。フランスが同性婚を合法化した時に、それはロマの移民に対する酷い虐待から目を逸らそうとする試みだ、とフランスを批判した人はいない*4南アフリカ同性婚を合法化したときに、未だに存在する苦痛に満ちたアパルトヘイトの残滓から注意を逸らそうとしているのだ、と考えた人はいない*5。だが、多くのLGBTQ活動家たちが、イスラエルが性的マイノリティに権利を拡大することについては悪意のある動機を躊躇なく見出している。

 ピンクウォッシュという批判の妥当性に対する私の意見を変えるつもりはない。また、イスラエル一般に対する擁護をするつもりもない。イスラエルによるパレスチナ人に対する扱いは擁護不可能となり続けているのだ。むしろ、私は200人の抗議者たちに、正確に聞いてみたいのだ。なぜ、それらの団体がつながっている国の罪のために、A Wider Bridge とJerusalem Open House に罰を与えたのか? Creating Change に参加していた団体のかなり多くが、非常に不正な法律や政策を実施している国に基盤を持つ団体であった筈だ。かなり多くの参加者たちが、イスラエルよりも遥かに抑圧的な国からやってきた筈だ。だが、抗議者たちはそれらの人々を選択的に抜き出して批判したりはしなかった。その代わりに、イスラエルとアメリカの団体がスポンサーとなっていてイスラエル人の登壇者たちが登場するレセプションの時にだけ、抗議者たちは会場を襲撃した。言い換えるなら、抗議者たちはユダヤ人たちが集まっていたレセプションを襲撃したのである。

 イスラエルに対する敵意の全てが、ユダヤ人に対する敵意と重なるわけではない。しかし、もしその敵意がイスラエルに対する一般化された憎悪からもたらされるものであり、イスラエルユダヤ人は邪悪な動機を持っているはずだという理論となり、二つのユダヤ人団体に対する醜い待ち伏せ行為に表れているようなものとなったなら、反シオニズム反ユダヤ主義を分ける一線はひどく曖昧なものとなってしまう。私は、抗議者達が悪意のある反ユダヤ主義者であったとは思わない。だが、私は、抗議者達の多数派がユダヤ人とイスラエルについての反ユダヤ主義に根付いた考えに影響されて行動していた、と疑っている。抗議活動の陰謀論的な傾向や、イスラエルの悪事に関してアメリカのユダヤ人を非難することをためらわない抗議者達の傾向は、反ユダヤ主義的なパライノアから発生したものである可能性が高い。激怒した集団がユダヤ人の登壇者を攻めたてる、という抗議の形も、過去の反ユダヤ暴力を思い起こさせるものだ。』

 

 

 

肉食を正当化する心理

 

nymag.com

 今回紹介するのは、 Science of Usというwebページにジェシ・シンガル(Jesse Singal)という人が掲載した「肉食を正当化する4つの方法(The 4 Ways People Rationalize Eating Meat)」という記事。

 

Why We Love Dogs, Eat Pigs, and Wear Cows: An Introduction to Carnism

Why We Love Dogs, Eat Pigs, and Wear Cows: An Introduction to Carnism

 

 

 心理学者のメラニー・ジョイ(Melanie Joy)の研究をふまえて、ジャレド・ピアッツァ(Jared Piazza)の研究チームが行った調査結果について書かれた記事である。メラニー・ジョイは動物の権利運動や動物愛護運動の支持者で、人々が肉食をすることやその他の動物に対して危害を与える行為をすることについて心理学的側面から分析しており、対策も研究しているようだ*1。ネット上には動物の権利団体によるジョイの本の書評やジョイへのインタビューも多く掲載されているのだが、今回はあえて動物の権利運動とは関係のない人による中立的な立場から書かれた記事を紹介することにした。

 文中ではJustificationとRationalizationの両方が出てきて、後者には「合理化」という意味もあるのだが、この記事では全て「正当化」として訳している。また、Omnivorousという言葉は「雑食」という意味だが、文中で使われている際は全て肉食について言及している文脈なので「肉食」と訳している。

 

 

「肉食を正当化する4つの方法」by ジェシ・シンガル

 

 

 あなたが菜食主義に対してどのようなスタンスをとっているとしても、肉を食べることについて本質的に存在しているパラドックスを否定するのは難しいだろう。肉を食べる人の大半は、動物に危害を与えることについての気のとがめを少なくとも "ちょっとは"感じるはずだ。肉を食べる人の多くはペットを飼っているし、多くの人は自分が食べる動物が殺される過程を見たいとは全く思わないだろうし、動物を殺す過程に自分が加わることについては言うまでもない。「肉を食べること」と「肉を食べるために必要とされる諸々の行為を原則としては否定すること」との組み合わせは、肉を食べる人たちは自分の食習慣を正当化するための心理的方法を見つけだすであろうと示唆する。 Appetiteという学術誌に掲載された最近の論文は、この論題に新しい光を当てている*2

 ランチェスター大学の心理学者であるジャレド・ピアッツァ(Jared Piazza)の研究チームは、人々が自分たち自身が肉を食べることについて正当化する方法についての知見を深めるという目的のために、社会心理学者であり『肉食主義についてのイントロダクション:なぜ私たちは犬を愛し、豚を食べて、牛の革を着るか(Why We Love Dogs, Eat Pigs, and Wear Cows: An Introduciton to Carnism)』という素晴らしい題名の本の著者であるメラニー・ジョイ(Melanie Joy)の研究を飛び越えることになった。ジョイは「肉食を正当化する3つのN」という概念を発明している。ピアッツァたちは以下のように書いている。

 

 肉食の正当化には、肉食は自然である(Natural)・普通である(Normal)・必要である(Necessary)という「正当化の3つのN」として知られるものがある。周期的に起こる社会化のプロセスを通じて、人々は以下のように考えるようになる。

 肉食は自然である:肉を食べることは人間の生物学的な特徴であり、私たちは自然に肉を欲求する。私たちは肉を食べるように進化したのだ。

  肉食は普通である:文明化された社会では大半の人々が肉を食べるし、周りの人々も私たちが肉を食べると思っている。

 肉食は必要である:生きるためや、健康で頑強な人間になるためには、少なくともある程度の量の肉を消費する必要がある。  

  上記の3つのNは広く普及しており、家族・メディア・宗教・様々な種類の民営組織や公営組織などの社会的なチャンネルによって強化される、とジョイは主張している。例えば、「肉食は必要である」という考えに関係する俗説として、充分なプロテインを含んだ食生活はある程度の量の肉を消費しなければ不可能である、というものがある。栄養に関するアメリカの組織の中でも先導的な立場にあるアメリカ栄養士会(American Dietetic Association, ADA)がそのような俗説は間違っていると伝える発表を多数行ってきたのにも関わらず、この俗説はしつこく残っている。

 

 ピアッツァの研究チームは(聞いた後に振り返って考えると明白に思えるような)4つ目のNを付け加えた。肉を食べることはナイスである(Nice)、というものだ。つまり…複雑でアカデミックな用語を使うことになって申し訳ないのだが…ハンバーガーは美味しい、ということだ。過去の研究で「ナイス」が無視されたのは、正当化の根拠としてはあまりにも薄弱であるように聞こえるからだ、とピアッツァたちは考えている。つまり、他の大半の文脈では、正当化されない限りは道徳的に問題となる行為を「だってこれは気分がいいんだよ!」と言って正当化しようとはしないだろう、ということだ。だが、肉食という文脈では「ナイス」という正当化も一般的である、とピアッツァたちは推測した。だから彼らは4つ目のNを加えたのだ。

 そして、ピアッツァたちは論文のために一連の調査を行った。最初の2つの調査では、2つのサンプルの回答者たち(ペンシルベニア大学の学部生176人と、アメリカンメカニカルタークで募集された107人)に「なぜ肉を食べることに問題はないのか」ということについての理由を3つ挙げてくださいという、単純な質問を行った。研究の目的のために、質問は制限のない自由回答として提起されて、回答者たちには何らかの情報が与えられないようにされていた。

 

 結果は以下の通りである(訳注:原文では円グラフが掲載されている)。

 

1回目:必要36%、ナイス18%、自然17%、普通12%、人道的屠殺3%、宗教1%、サステナビリティ1%、その他12%

 

2回目:必要42%、自然23%、普通10%、ナイス16%、人道的屠殺1%、宗教3%、サステナビリティ1%、その他4%

 

  ご覧の通り、回答のうちの大多数が4つのNによって占めている。また、「必要」が肉食の理由として最も頻繁に持ち出されていることにも注目すべきだ。「必要」という信念は実証的に否定するのが最も容易いものである。一方で、これ程までに多くの人が肉を食べることについて間違った情報を持っているというのは興味深いことでもある(ピアッツァたちが注記で書いているように、異なった文化では人々はどのようにして肉を食べることを正当化するかということを明らかにするのも重要であろう)。

 ピアッツァたちは「健康で環境的にサステナブルな食習慣を促進することを目的とした、肉の消費を削減するキャンペーンにとって、4つのNの中でもどの正当化が特に大きな障害となっているのか」ということを知るのは役立つかもしれないと書いている。また、最も多くの人が行っている「必要」という議論による肉食の正当化は、最も「手強い」ものであるかもしれないとピアッツァたちは書いている。つまり、「必要」という議論は肉食を止めることに対しての抵抗力を持っているということだ。

 活動家たちが「必要」という議論に対して反論を行うであろうことは簡単に予想できる。「必要」という信念は最も多くの人に抱かれているものであるのなら、ターゲットにして反論した際の効果が最も大きい信念であるということにもなるのではないか?そして、ほんの少しググるだけで、菜食主義の支持者たちが「必要」という議論に焦点を当てているのを見ることができる*3。このアプローチの問題点とは、人間が行動を変えることについての知見をふまえると、単に「肉は必要ではない」と伝えるだけでは食習慣を持続的に変える見込みは少ない、ということだ*4。「必要」という議論は肉を食べることを正当化するために人々が最初に思いつく議論ではあるが、実際には人々が肉を食べる理由は栄養的な利点よりもずっと根深いものである(ピアッツァたちは「必要」という信念は「結局、最もしつこいものであるし覆すのが難しいものであるかもしれない」と考えている)。

 他の行動と同じように、肉を食べることも社会的な規範や習慣の網の中に根付いているものであるし、注意深く合理的な思考よりも感情のレベルに位置する諸々のことに根付いている。肉の消費を削減しようと目指している人は、冷たくて血の通っていない事実を示すよりも、行動に影響する社会的な規範や感情などを標的にした方が成功するかもしれない。

 

 

 

*1:

http://www.carnism.org/ ジョイが代表である「Beyon Carnism(肉食主義を超える)」というホームページ

*2:

Rationalizing meat consumption. The 4Ns

*3:

Catching Up With Science: Burying the "Humans Need Meat" Argument -

動物の権利団体による、「人間は肉を必要とする」という議論に対しての反論

*4:

http://nymag.com/scienceofus/2014/07/awareness-is-overrated.html

情報や何らかの問題に対する注意などが人間の行動を変えることは少ない、というようなことを論じた記事

「人道革命」by ニコラス・クリストフ (消費者主導の、動物福祉の改善運動についての記事)

 

http://www.nytimes.com/2016/05/15/opinion/sunday/a-humane-revolution.html

 

 今回紹介するのは、ニューヨークタイムス紙にコラムニストのニコラス・クリストフ(Nicholas Kristof)が、全米人道協会(Humane Society of the United States)の会長のウェイン・パーセル(Wayne Pacelle)へのインタビューやパーセルの新著に基づいて書いた記事。

 注釈として書いておくと、人道という言葉は「Humane」の略で、訳語は「人道」なのだが英語圏では動物愛護に言及してHumaneという単語が使われたりする。Humane Societyも「人道協会」と訳すこともできれば「動物愛護協会」と訳すこともできる。そこら辺がややこしいのだが、この記事の中では基本的に「Humane」は「人道」と訳している*1

 

「人道革命」by ニコラス・クリストフ

 

 1903年、ニューヨークの住民たちは1頭の象をコニーアイランド(遊園地を含むリゾート施設)に連れてきて、その象に拷問を与えて死に至らしめてしまった。

 この出来事についてはいくつかの違った伝聞が存在しているのだが…サーカスで働かされていた象のトプシーは数年間にわたって虐待を受け続けていて、ある日彼女の鼻に葉巻で火傷をつけていた1人の男性を殺してしまったのだ。トプシーはその後にもしばらく持ち主に酷使された後に、青酸カリを与えられて、感電死させられた末に、巻き上げ機で吊るされた*2エジソン映画会社はこの様子を映して「トプシーの電気処刑」という映画を製作した*3

 このような昔のことを思えば、道徳的な進歩は起こっているのだと考えてもいいのかもしれない。リンギング・ブラザーズというサーカス団では、数多くの動物虐待が告発されたために、動物たちを解放してフロリダで余生を過ごさせることになった。水族館のシーワールドは今年の春から館内でのシャチの繁殖を中止して、その代わりに海洋動物をレスキューして環境に復帰させる事業に数百万ドルを投資することになった。

 スーパーマーケットチェーンのウォルマートは、販売する卵をケージ内で飼われている鶏ではなく平飼いの鶏から生産された卵へと切り替えていくと先月に発表したことで、動物福祉に配慮することへの要求に応じた*4ウォルマートの発表は、アメリカとカナダにおいてコストコデニーズ・ウェンディーズ・セーフウェイ・スターバックス、そしてマクドナルドが行った同様の発表に続くものである*5

  これは人道革命( Humane Revolution)なのだ、とウェイン・パーセルは言う。パーセルは全米人道協会の会長だ。パーセルの素晴らしい新著『人道的な経済( The Humane Economy )』では、企業に動物の扱いを改善しろと脅すという方法の代わりに、企業と協力することで動物の扱いを改善する方法が解説されている*6。企業が変わることは莫大な影響をもたらすことになる。動物を保護するシェルターが10年間の合計で扱って生活状況に影響を与えてきた動物の数よりも、ウォルマートマクドナルドが1日間で扱って生活状況に影響を与える動物の数の方が大きいのだ。

 動物愛護運動だけではなく環境運動や地球上の女性の健康を守る運動などにとっても、パーセルの本から学べる教訓はある、と私は考えている。その教訓とは、非営利団体が大規模な結果を成し遂げるためには、行いを変えることを拒否する企業を攻撃するのと同時に、企業と協力することで行いを変えさせたり供給線を改善させる必要もある、ということだ。

 環境保護基金(The Environmental Defense Fund)やコンサベーション・インターナショナルなどの団体は、環境運動という領域で全米人道協会と同様の戦略を行っている。国際協力 NGOの CAREは世界の貧困問題について、ヒューマン・ライツ・キャンペーンという団体はL.G.B.T.の人権問題について、企業と協力するという同様の戦略を採用している。

 批判者たちは、このような戦略は道徳について妥協しているのだと言う。悪を打倒するのではなくに悪と契約を結んでしまっているのだ、という批判である。だが、私はこのような戦略はプラグマティズム(現実主義)であると考えている。31年間ビーガン(完全菜食主義)を貫いているが、肉となるために育てられている動物の生活状況を良くするためにファストフード企業との協力を行うパーセルも私と同様の見解だ。

「檻や木枠の中に押し込められている動物たちは、世界中がビーガンになるまで待っていられません」とパーセルは私に言った。「身動きもできずに欠乏だけを感じる生活から動物たちはすぐにでも解放されたがっている、ということについて私は確信を抱いています。そもそも肉のために動物を養殖するべきであるかどうかという議論は、家畜たちの酷い生活環境という問題が解決された後に、分別のある人たちの間で改めて行えばいいのです」。

 現時点での世界の状況は酷いものだが、パーセルは希望に満ちた展望を解説する。大衆はチャリティや募金によってある程度の影響を常に与えてきたし、これまでにもボイコットは度々行われ続けていた。だが、時には、消費者としての日々の購入力を用いることが最大級の影響をもたらしてきたのである。

 「人道的な経済の論理や作法が機能して力を発揮されることによって、旧来の状況が終わっていく」とパーセルは著書の中で書いている。「人間の欲求や必要品を満たすことが動物の虐待に基づいたものでなくなった時に、全ての尺度において生活は向上する。本来擁護できない慣習は、もはや擁護を必要ともせず失われることになのだ」。

 動物に対する残虐な行為が続いているのは事実であるし、象のような動物の殺害もいまだに続いている。25年前のスーダンには1万3千頭の象がいたのだが、現代ではスーダン南スーダンスーダンから分離した国)を合わせてもおよそ5千頭ほどしか残っていないだろう、とパーセルは書いている。

 だが、象のような大型動物を生存させ続けるためのビジネス・モデルも存在している。ある分析では、1頭の死んだ象から採取できる象牙は2万1千ドルの価値があるが、1頭の生きている象がその生涯を通じて観光事業に与える価値は160万ドルである*7。知識に基づいた自己利益に従う国々が象を保護するのと同じように、マクドナルドが平飼いの鶏から取れた卵に移行するのも自己利益に基づいている。

 動物の扱いに関する世論に対して企業がこれ程までに敏感になったことも、驚くべきことだ。ジンバブエでライオンのセシルが射殺された時には、トロフィー・ハンティングで殺された動物の死骸の郵送を禁止するように動物保護団体が航空会社に訴えた。そして、デルタ航空アメリカン航空ユナイテッド航空・エアーカナダ航空やその他の航空会社たちは即座に動物保護団体の要求に従ったのだ。

 ペット業界では、ペットスマートとペトコという二つのチェーン企業が、 パピーミルを始めとした大量生産ブリーダーから仕入れた犬と猫を売るという業界の慣習に逆らっているのにも関わらず、繁盛している。ペットスマートとペトコは、動物レスキュー団体が保護した動物の里親を募集するためのスペースを1990年代から設けている。保護動物が里親にもらわれても企業は金を得られないが、客からの支持を永久的に得られることはできる。そして、ペットスマートとペトコはこれまでに1100万匹の犬と猫が新しい飼い主を得られることを助けてきた。

 動物虐待…特に農業(畜産)における動物虐待は、これから先も人間の道徳の死角として残り続けるだろう、と私は考えている。とはいえ、消費者の力によって革命が起きている様子を目にするのは元気付けられることである。

「動物の虐待の上に成立している業界は、もうすぐ崩壊の危機に瀕することになるだろう」とパーセルは書いている。世界は恐ろしいことに溢れているが、進歩も起こっているのだいうことを思い起こさせる文章は有難いものだ。象を虐待する様子を映した映画を製作していた日から1世紀と少し経った後には、私たちは象をサーカスから解放してフロリダの施設で余生を過ごさせているのだ。だが、残念ながら、やらなければいけないことはあまりにも多く残っている。

 

効果的利他主義は現状肯定だからダメなのか?

 

 

ピーター・シンガーの効果的利他主義という主張には色々と批判があるのだが、目立つのが以下に引用するようなもの。

 

倫理的な問題を扱う哲学者であれば、資本主義システムをどう倫理的に批判し変革すべきかを思考すべきではないでしょうか 。代替案の提出は他人に預けておいて、いとも簡単に資本主義を追認するのが倫理的な姿勢と言えるのでしょうか。それとも、哲学者であれば、自分の手に負える問題だけを切り離して論じる権利を持っているのでしょうか。 

【連載】「効果的利他主義」批判 ‐ その3 ‐ 圧倒的な現状肯定の思想 - 45 For Trash

 

  似たような批判でこういうものもある。

 

富の再分配とそれによる社会保障機能いうのは国家の機能だったはずなんだけ れど、富がグローバルにあまりに偏在してしまったために、再分配が1%の恣意に大きくコントロールされるようになって、「みんなで支えあったり負担しあったりしてきた(公的な)仕組み」が崩壊し始めている。それは世の中が1%を利する弱肉強食の世界へと急速に変貌しているということなんだけれど、シンガー が唱えていることは、そっちの問題にほっかむりして、むしろそういう正当化し補強し永続化させようとする方向だということかな、と。

ピーター・シンガーの新刊はeffective altruism(効果的利他主義) - 海やアシュリーのいる風景 - Yahoo!ブログ

  

・「効果的主義は貧困の原因に対してラディカルに切り込まないから、現状追認である」というタイプの批判に対しては、シンガー自身が既に反論をしている。

 以下はBoston Review(ボストン・レビュー)に掲載された「効果的利他主義の論理 The Rogic of Effective Altruism」というシンガーの記事に対する有識者へのレスポンスに対するシンガー自身のリプライとして掲載された文章から抜粋して引用して訳したもの。

 

The Logic of Effective Altruism | Boston Review

 

 アンガス・ディートン、ダロン・アセモグル、レイソン・ガブリエル、ジェニファー・ルーベンスタインたちのいずれもが、「効果的利他主義者は、貧困の症状ではなく原因に対処するための大規模な政治的・経済的改革を無視する可能性が高いであろう」と主張している*1

 たしかに、大規模な改革の効果を無作為試験で査定することはできない。だが、大規模な改革が貧困を削減するという結果の見通しがある程度あるとすれば、効果利他主義者たちは大規模な改革がどれほどの善をもたらすかという可能性を査定するであろうし、より限定的な介入がもたらすであろうと予想される価値よりも大規模な改革がもたらすであろうと予想される価値の方が高いのであれば、効果的利他主義者たちは大規模な改革にむけて働くことを支持するであろう。

  同様の論点は、レイラ・ジェイナによる「貧困者を救うための最も効果的な方法とは、(訳注:寄付ではなく)フェア・トレードのプログラムを支持することや、環境的に持続可能であり生活賃金を払うことのできるソーシャル・ビジネスを始めることである」という主張に対しても当てはまる。「"低い木に生えている果物(訳注:実行することが比較的容易な試み、という意味)"が実行された後には、貧困を削減するための試みは貧困国の活動家と共に行動し活動家の指導に従わなければ成功しない」というルーベンスタインの主張にも、同様の論点が当てはまる。

 ある効果的利他主義者が行っている戦略よりも他の戦略の方が効果的である、という証拠が示されたところで、効果的利他主義が論駁されるわけではない。なぜなら、効果的利他主義者はその新しく示されたより効果的な方の戦略を採用するからだ。著書『あなたが世界のためにできる たったひとつのこと』のなかでは、私は貧困に対処するための活動の具体例を説明して、読者に推薦している。私が書いた活動の具体例の一部は、発展途上国政治活動家と協力して行うものである。なんらかの活動がもたらす効果を査定するのは簡単ではない。だが、ある介入がもたらすであろうと予想される価値は現在行われている他の介入がもたらしている価値を数倍上回ると予想できるのなら(そして、この予想が正しいことには疑いの余地はないとすれば)、今以上に人々を助けて現在よりも更に多くの善をもたらす行動について、効果的利他主義者は重要な役割を果たすだろう(訳注:シンガーの主張している案よりも批判者たちの主張している案の方が本当に効果的であると証明されたなら、効果的利他主義者たちはそちらの案を実行するだろう、という意味)。

 いずれにせよ、「効果的利他主義は、貧困の原因には対処せずに貧困の症状にだけ対処する、バンドエイドのような対策になってしまうことが多い」という理由で効果的利他主義を否定する人は、時には私たちには貧困の原因が何であるのかわからない場合がある、ということを忘れるべきではない。

 貧困の原因の一部を理解できたとしても、それを変革することが不可能な場合もある。そのような状況では、症状に対処することが私たちが貧困に対してできる最善のことなのだ。

 …そして、貧困の症状に対処することとは、人々の生命を救うこと、飢餓や慢性的な栄養失調から人々を救うこと、寄生虫を撲滅すること、教育を配備すること、女性たちが妊娠をコントロールするのを可能にすること、人々が視力を失うのを防ぐことなのだ。

 バンドエイドにしては悪くないだろう。

 

 

 また、「現状を追認する」から効果的利他主義はダメだ、というタイプの主張に対しては「そもそも現状はそんなに悪いものであるのか?」という疑問を呈することができるだろう。様々な悲観論や印象に反して、現状のシステムにおいても世界における貧困は減り続けているのだ。

 以前に私が訳した、シンガーが別の場所で発表した文章から引用しよう。

 

「2015年に起こった(隠れた)善いこと」 by ピーター・シンガー - 道徳的動物日記

 

…2015年に起こった2番目に重要な出来事は、疑いの余地なくポジティブなことである。世界における極限的な貧困状態で暮らす人口の割合が、世界銀行が世界の貧困のモニタリングを始めた1990年以来で初めて10%を下回ったのだ。 

  極限的貧困が減るにつれて、途上国における「労働中産階級」(1日あたり4ドル以上で暮らしている人々、と定義されている)の割合は、1991年の18%から今日の50%にまで増えた。同じ期間には、途上国における栄養不良状態の人口の割合は、23.3%から12.9%にまで急速に減少している。 

  極限的貧困の急速な減少は、テレビの視聴者や新聞の読者の関心を惹くものではないかもしれない。しかし、このことが人類の福祉に与える影響は、テロリズムが与える影響を確実に上回っている。1990年には、当時の世界人口のおよそ37%である19億5千万人が極限的貧困の状況下で暮らしていた。今日では、その人口は7億200万人である。 1990年と同じ割合であったままなら、27億人が極限的貧困で暮らしていたはずだ。言い換えると、貧困の減少は20億人近くもの人々の生活を改善しているのだ。

 極限的貧困は、食料の不備やマラリア・はしか・下痢などの病気によって、人を殺す。だから、極限的貧困が減ることつれて乳幼児死亡率が減っていることにも驚くべきではない。1990年には、1日に3万5千人の子供が5歳の誕生日を迎える前に死んでいた。今日では、その数は1万6千人にまで下がっている。

 1万6千人もの子供が1日に死ぬというのは、あまりにも多過ぎる。…(中略)…もしあなたが裕福な社会に暮らしているのなら、極限的貧困を減らすために役割を果たすことを国に要求するべきだ。更に、私たちの政府が何をするかに関わらず、私たちには貧困に対して最も効率良く戦っている慈善団体を調べて見つけることができる。  そして、寄付することができるのだ。

 

「現状のシステムの否定を行うのではなく、地道で長期的な場合も有るが実行可能な改良案や対処案を提唱する」というタイプの思想は「現状のシステムを大々的に否定して、ラディカルな革命的構想を提唱する」というタイプの思想に比べるとウケが悪いことが多い。

 哲学とはなにかしらラディカルなことを言うべきものである、という思い込みを抱いている人も多いだろう。また、現状とは様々な不愉快な事実を含んでいるものだから、現状を否定しない本を読んでいると歯がゆい気持ちになる読者も多いのだろう。本に書かれている実行可能な提案が読者にも負担を強いるものであれば(例えばシンガーの本の場合であれば、読者も途上国への寄付を行うべきだと書かれている)、負担を行っていない自分が否定されているように感じられて気分が良くない読者も多いだろうし、負担をしない自分を肯定するために実行可能な提案を意地でも否定しようとする人もいるだろう。

 一方で、革命的な構想が書かれている本は、悪い政府や悪い金持ちや悪いマジョリティなどのせいで世の中が悪くなっているとでも書くことで不愉快な現状を否定してくれるし、述べたてられる提案は大体がそもそも実現不可能なので読者としても本に書かれている提案を実現するために何かを行う必要はないし、読んだ後はただ気分が良くなるだけである。読者もデモとかに行って政府や金持ちやマジョリティを非難すべきである、みたいな指示が書かれている本はあるかもしれないが、まあ寄付などに比べると他人を非難することは楽しいものだ。

 だが、実現可能でない提案に意味はないし、マルクス主義なんかがもたらしてきた数々の負の側面を思い起こしても分かる通り、有害ですらある。現代の経済学では、グローバルな資本主義の問題点は数多く指摘されているだろうが、資本主義そのものを否定する経済学者はいないだろうし、グローバリズムはマイナスしかもたらさないと主張している経済学者もそうそういないだろう。経済学者や政策立案者たちは、現状を直視した上で、資本主義やグローバリズムのプラスの側面を残しつつマイナスの側面を軽減できる実行可能な対策を改善案を日夜必死で考えている訳である。彼らの活動は賞賛されるべきであり、現状を追認しているなどとして非難されるべきものではない。

 そして、使用する知識や言及する対象や提案の枠組みなどは違うとしても、哲学者が行うべき仕事は経済学者や政策立案者たちと根本的には一緒である筈だ。

 

 

*1:ディートンは2015年度のノーベル経済学賞受賞者で『大脱出』の著者。アセモグルも経済学者で『国家はなぜ衰退するのか』の共著者である

心理学者ポール・ブルームの反・共感論

 

 

 

 今回は心理学者ポール・ブルーム(Paul Bloom)の議論を紹介する。ブルームは乳幼児の心理と道徳心理を主に研究しており、「共感」に基づいた道徳は恣意的で頼りなく、真に道徳的に振る舞うためには感情よりも理性を優先しなければいけない…的な主張をあちらこちらで言っている人である。本人の主張を要約した動画も公開されている。

 

gigazine.net

 

 この記事では、ブルームが2013年にニューヨーカー紙(The New Yorker)に発表した記事と2014年にボストン・レビュー(Boston Review)に発表した記事を、内容を大幅にカットしたり大雑把に要約したりしながら適当に紹介する。どちらの記事もかなり長い(特にボストン・レビューの記事はブルームの本文も長いだけでなく、12人の有識者によるブルームへのレスポンスと、それを受けたブルームのリプライも含まれている)が、英語が読める人は原文を参照する方をお勧めする。

 

 

www.newyorker.com

 

 ニューヨーカー紙の記事のタイトルは「井戸の中の赤ん坊(The Baby in the Well)」。アメリカでは子供が井戸に落ちる事件が度々起こっているようであり、その子供のレスキュー劇がテレビを通じて全米に放映されることもあるようだ。

 オバマ大統領の文章などを引用して、アメリカでは共感に対する関心が高まっていることを示した上で、ブルームは共感の問題点を指摘する。

 

1949年カリフォルニア州サン・マリーノにて3歳の女の子であったキャシー・フィスカスが井戸に落ちると、全米中の人々がフィスカスの運命を心配した*1。40年後には、アメリカ人たちはジェシカ・マクルーアの苦境に釘付けとなった。ベイビー・ジェシカと呼ばれた彼女は生後18ヶ月であったが、1987年の8月に彼女もテキサスの井戸に落ちたのだ。ジェシカを救出するために、48時間にも渡るレスキュー作戦が実施された。当時の大統領であったレーガンは「ジェシカのレスキュー作戦が行われている間、アメリカ中の全ての人が彼女のおじさんやおばさんになっていたのです」と発言した。

 共感が持つ果てしない力は、何度も何度も発揮されてきた。アルバという国に行って行方不明になったティーンエイジャーのナタリー・ホロウェイの運命にアメリカ人たちが釘付けになったのも、共感が理由だ。ある悲劇や災害…2004年のスマトラ島沖の津波、2005年のハリーケン・カトリーナ、2012年のハリケーン・サンディなど…について大々的に報道された直後には、人々が自分の時間や金を捧げて、献血することで血すらをも捧げるのも、共感が理由だ。 

 

 心理学者のポール・スロヴィックは、ホロウェイという一人の女性が行方不明になったというニュースについてテレビで放映された時間は、当時にスーダンで起こったダルフール族に対するジェノサイドについて放映されている時間を遥かに上回っていた、という事実を指摘する。世界的に見れば、ハリケーンカトリーナで死んだ人の10倍の数の人が予防可能であったはずの病気によって毎日死んでいるし、13倍の数の人が栄養失調で死んでいる。アメリカ国内における殺人も、コロンバインの銃乱射事件のような劇的な大量殺人であったらメディアで大々的に取り上げられて人々の記憶に残ることになるが、一人の人間が殺されるという毎日どこかで起こっているような殺人については、自分の知り合いが巻き込まれでもしない限り、ほとんど注目されることはない。

 共感を発揮されるかされないのかの鍵となるのが「身元が分かる被害者効果(the identifiable victim effect)」と呼ばれる現象だ。経済学者のトマス・シェリングは「6歳の茶髪の女の子がクリスマスまで生き永らえるための手術を行うのに数千ドル必要であると示せば、郵便局は彼女を助けようとする人からの募金で溢れかえるだろう。しかし、予算が足りないせいでマサチューセッツの病院の質が低下して予防可能な死を防ぐことができなくなると示しても、大して注目を惹かないし、涙を流す人や小切手を切る人は多くないだろう」と言っている。ある実験では、「1人の子供の命を救うための薬を開発するのに、どれだけ募金できるか」という質問を被験者たちにして、別の被験者たちには「8人の子供の命を救うための薬を開発するのに、どれだけ募金できるか」と質問した。被験者たちが答えた募金額の平均は1人でも8人でも変わらなかった。しかし、第三のグループの被験者たちに1人の子供の名前と年齢を教えて写真を見せた上で質問をすると、募金額は跳ね上がった…顔の見えない8人の子供を救うよりも、名前や顔の見える1人の子供を救う方に、遥かに多く募金が集まったのだ。

 災害などが起きても、被害者の数の差は私たちの感情にはあまり影響してこない。理性的に考えると、200人が死ぬ災害よりも2000人が死ぬ災害の方がずっと悲惨で深刻であると理解できるはずだが、心理的には大して違いを感じられないのだ。

 募金や人道支援においては、支援や募金がどのような結果をもたらすかを理解せずに共感に導かれた行動をすることは逆効果となる場合も多い。インドの一部の親は、子供が生まれた時にその子の手足を切断する。手足がない子供の物乞いは普通の子供の物乞いより惨めに見えるので、旅行客の共感を惹いて、より多くのお金をもらえるからだ。途上国の政府に対する援助が、独裁制や暴政を行っている為政者の政権を延命させて更に被害者の数を増やすという場合がある。

 政治的な議論においては、リベラルも保守もそれぞれが具体的な被害者を持ち出して人々の共感を刺激することで、自分の主張への支持を獲得しようとする。銃規制を主張するリベラルは銃による犯罪の被害者のことを持ち出すし、銃規制に反対する保守は防衛手段が無かったために死んだ被害者のことを持ち出す。安全規制を主張するリベラルは労働中の事故のために怪我をした労働者のことを持ち出すし、安全規制に反対する保守は過度の設備要求のために破産してしまった零細経営者のことを持ち出す。

  被害者について考えることによってもたらされる感情的な衝動は、報復への欲望を掻き立てることにもなる。ある実験では、被験者たちは、一人の子供を副作用で死亡させたワクチンを作った会社に対する罰則はどのようなものがふさわしいかと質問された。ある被験者たちのグループは「罰金のプレッシャーによって会社はより安全なワクチンを製造するようになる」と聞かされていたが、別の被験者たちのグループは「罰金を与えると、リスクを恐れた会社はワクチンを製造することを一切止めてしまう。また、他の会社も同様のワクチンを製造することはできない。そのため、ワクチンによって防げる病気を防ぐ手段がなくなるので、多くの人たちが死ぬことになる」と聞かされた。しかし、どちらの被験者たちも、会社には罰金を与えるべきだと主張した。さらに悪い結果がもたらされるとしても、罪を犯したものが罰を受けることの方が重要なのである。この現象は実験室に限ったものではなく、現実の司法制度にも影響を及ぼしている。マサチューセッツ州では服役中の模範囚を一時的に解放することで社会復帰を効果的に行わせるプログラムが実践されていて、統計的には再犯率を大幅に下げる成果を出していたのだが、一人の囚人が解放中にレイプと暴行を行ったためにプログラムへの非難が殺到した。プログラムのために生じた犯罪の犠牲者となった人は実在するために人々の共感を惹くことになるが、プログラムが犯罪を予防したために犠牲者とならなかった人に共感することは難しい。ワクチンの副作用の犠牲者には共感できるが、ワクチンのために病気が予防されて死なずに済んだ人を想像して共感するのが難しいのと一緒だ。社会的な問題や政治的な問題について共感によって判断することは、地球温暖化を予防するための規制を妨げもする。地球温暖化によって将来の世代の多数の人々に対して多大な被害がもたらされるとしても、その人たちは目の前にはいないのだから、規制によって迷惑を被っている現代の人たちに対する共感の方が優先される。地球温暖化予防が進行しないのは政治や資本のせいだとよく言われるが、未来にもたらされる結果について理性的に考えず共感で判断している市民たちにも責任があるのだ。

 自分の家族や部族から人類全般へと共感の輪を広げることが道徳的進歩である、とはよく言われる。だが、身近な人や顔の見える人に共感することは可能であっても、地球上の7億人全員に共感することは不可能である。大切なのは、自分が共感するかどうかには関わらず、全ての人の命には価値があるという事実を理解しておくことだ。アスペルガー症候群の人たちは他人に対する共感が乏しい場合があるが、彼らはルールに沿って人を公平に扱うことを重視するために、普通の人よりも道徳的である場合が多い。公平に人を扱う・ルールや規範を重視する・人権という概念を理解して他人に当てはめるなど、道徳的に振る舞うためには感情に反対して理性に従うことが求められるのだ。

 

 コネチカット州のサンディフック小学校で銃乱射事件が起こった時には、アメリカ中の人々が犠牲者たちに共感し、子供たちの苦痛を感じて、助けようした。子供たちのために大量のおもちゃが送られて、町の倉庫はあまりにも多過ぎて使い道のないおもちゃに溢れることになった。そして、比較的裕福な町に数百万ドルの募金が集まった。一方で、アメリカではおよそ2000万人の子供が毎日空腹に苛まれているというのに、貧困層への食糧支援であるフード・スタンプのプログラムに対する予算はカットされている。井戸から救われた赤ん坊のジェシカの医療費のために募金したのと同じ人々が、医療保険プログラムの予算カットを支持している…こちらは数千万人の人に影響を与えることになるにも関わらずだ。そして、将来世代の何億人へもの影響にも関わらず、アメリカ人の多くは地球温暖化対策に反対している。

 

これらこそが共感のパラドックスだ。共感の力とは、私たちの道徳的な配慮を一点に集中させるレーザーポインターのようなものである。だが、何億人もの人々が生きる地球では、私たちはまだ危害を受けていない人の幸福についても考えなければいけない…まだ生まれていない人たちのことだって考慮に入れなければならないのだ。名前もなく、顔もなく、私たちの良心や同情を掴むような物語も持っていない人たちである。彼らが未来に存在するであろうことは、感情ではなく熟慮や計算によって判断することを私たちに要求する。私たちの心は、常に井戸の中の赤ん坊へと注がれる。そのような心は私たちの人間性の指標となるものである。だが、人類の未来を保つためには、感情は理性に道を譲らなければいけないのだ。

 

 

Against Empathy | Boston Review

 

 ボストン・レビューの記事のタイトルは「共感に反対する」。この記事では、ブルームは共感の問題点について更に多岐にわたる議論を行っている。やや専門的な議論も多く、記事自体もかなり長いので、一部分だけを抜き出して雑多に紹介する。

 

「共感(empathy)」という言葉は多くの意味で使われているが、この記事では、最も普及している意味で「共感」という言葉を使うことにする。18世紀の哲学者アダム・スミスが「シンパシー(sympathy)」という言葉で読んだものと対応する意味だ。つまり、他人が世界を感じているのと同じように自分も世界を感じること、または、少なくとも「他人は世界をこのように感じている」と自分が思っていることと同じように自分も世界を感じることだ。誰かに共感することとは、その人の立場に自分も立つこと、その人の痛みを自分も感じることである。一部の研究者は「共感」という単語の範囲を拡大して、他人の考え・動機・計画・信念を計るという、より冷静な行為のことも共感と呼んでいる。このような意味での共感は、"感情的"共感と対比して"認識的"共感と呼ばれることもある。…(中略)…そして、共感には道徳的にはどのような意味が含まれているか、という議論の大半は"感情的"共感についての議論である。

  

共感が利益をもたらすことはレイシズムが害悪をもたらすことはどちらもあまりに明白であり証明する必要すらない、と大半の人が思っている。だが、これは間違いだと私は考えている。共感の持つ特定の特徴のために、共感に従って社会政策について考えると道を誤ってしまうことになる、と私は別の記事で論じた。共感は偏っている。私たちは魅力的な人に共感を抱きやすいし、自分たちと民族や国籍などの背景を共有している人に対して共感を抱きやすい。そして、共感の視野は狭い。共感は特定の個人(実在するか想像上の人であるかには関わらない)と私たちとを結びつけるが、統計上のデータにおける数字上の違いには反応しない。マザー・テレサが言ったように「人々の集団を目にしても、私が行動することはありません。しかし、1人の人間を目にすると、私は行動します」。…(後略)

 

 共感(empathy)と同情(compassion)の違いについて論じることには価値があるだろう。共感の支持者のなかには、共感と同情の違いについて理解しておらず、共感的な刺激がなければ私たちは親切な行動を行わないと考えている人たちがいるからだ。だが、彼らは間違っている。あなたの友人の子供が溺死した、という事態を想像してほしい。非常に共感的な反応とは、あなたの友人が感じている非常な悲しみと苦痛を出来る限り自分も同じように感じることである。対照的に、同情には友人への配慮や愛情が含まれており、友人を助けたいという欲求や動機が含まれている。だが、同情の場合は、友人が感じている苦悩を反映して自分も苦悩する必要はない。

 長期的な寄付について考えてみよう。飢餓に苦しんでいる子供の苦境について聞かされた人が、死ぬほどに飢えるという事態はどのように感じられるだろうと共感を働かせて想像するという行為を実際に行う、ということはあり得るかもしれない。だが、寄付を行うからといって、共感によって自分も苦しむ必要は全くない。同情を持つ人であれば、他の人の生命の価値を抽象的に判断して、飢餓によって生じる悲惨さを認識して、それらの判断や認識に動機付けられて寄付を行うかもしれない。

 要するに、同情によって人を助けることは、あなたにとっても他人にとっても善いこととなる。だが、共感によって苦痛を感じることは、長期的に見れば共感している人自身にとっても有害であるのだ。

 

 続く段落では、他人の苦痛にいちいち共感する人は燃え尽き症候群になりやすいが、共感による苦痛を避けて効果的に同情を行なう訓練を行った人ならポジティブな感情を保ちつつ長期的に利他行動を行い続けられる、という研究結果が紹介されている。また、医者などの人を助けるのが仕事の人たちにとっても、職務を果たすうえで共感が必ずしもプラスにはなるとは限らないと説明されている。

 記事の終盤では、ブルームは共感と「怒り」という感情の類似性を指摘している。どちらの感情も非合理的であり、恣意的であり、自己破壊的である。不正に対する怒りは社会変革などの道徳的な行為に繋がる場合もあるとはいえ、怒りという感情は知性・他人に対する配慮・自己抑制・合理的な熟慮などによってコントロールされるべきである。人々が怒りに任せて動くよりも、人々が理性を保ち穏当な同情をしつつ怒りを抑制できる方が、世の中は優しくなり世界は善い場所になるだろう。そして、このことは怒りだけではなく共感という感情にも同様に当てはまるのだ、とブルームは論じる。

  

*1:訳注;フィスカスの救出劇はテレビで放送されたようだが、結局フィスカスは助からなかったようだ。

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Kathy Fiscus - Wikipedia, the free encyclopedia