道徳的動物日記

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「猫戦争:自然保全の道徳的汚点」 by ウィリアム・リン

www.huffingtonpost.com

 

 本日紹介するのは、環境や動物に関する倫理や政策を研究しているウィリアム・リン(William Lynn)が英語版ハフティントンポストに発表した記事。

 

natgeo.nikkeibp.co.jp

 

 上の記事にて紹介されている、『Cat Wars』という著作とそれを巡る議論に関する記事で、リン氏は『Cat Wars』にかなり批判的。記事の中盤はちょっと陰謀論っぽいところもあるし、訳者である私は批判の対象となっている『Cat Wars』を読んでいないのでリン氏の議論がフェアであるかどうかも判断できないのだが、後半の環境倫理と自然保全に関する議論は日本ではなかなか紹介されにくいものであると思うので、訳して紹介することにした。

 

 

「猫戦争:自然保全の道徳的汚点」 by ウィリアム・リン

 

『猫戦争:可愛い殺し屋がもたらす悲惨な結果(Cat Wars: The Devastating Consequences of a Cuddly Killer)』と題された最近の本にて、著者のピーター・マラ(Peter Marra)とクリス・サンテラ(Chris Santella)は、屋外の猫たち(野生であるか人に懐いているか、飼い主がいるかいないかに関わらず)に潜んでいる恐ろしい脅威を人々に喚起しようとしている。著者たちの大局的な結論とは、私たちは生物多様性を守るために猫に対する戦争を"いかなる手段を取っても (by any means necessary)"実行する必要がある、というものだ。残念ながら、この本の科学的推論と倫理的推論には基本的な問題が存在している…猫と生物多様性を巡るより辛辣で規模の大きな議論に例示されているような問題だ。

 

科学、猫、生物多様性

 

 生物多様性の危機は確かに存在しているし、現在は人間が地球環境に対して集団的に与えてきた負荷のために引き起こされた6度目の大絶滅が起こっている最中だ*1。海で閉ざされた太平洋の島々のように、一部の地域における生態系は外来種の捕食者に対して"敏感"であることに疑いはないし、猫は生物多様性にネガティブな影響を与えることが可能である。これらの事実を否定することは、地球が平面であると主張したり気候変動は起こっていないと主張するのと同じことだ。

 それでもなお、猫は地球を破壊する殺害兵器である、という自然保全主義者(conservationists)たちの主張の核心は間違っている。マーク・ベコフ、バーバラ・キング、ピーター・ウルフのような人たちは…いずれも、人間と動物との関係を明敏に観察してきた研究者だ…『猫戦争』の研究における事実面と分析面の具体的な問題点を指摘している*2。その問題点としては、猫の実際の頭数についての実証研究の欠如、猫による捕食率の過剰な推定、疑わしい統計、改竄された研究を扱うことの失敗、猫がより大きな捕食者によって野生の生息地から排除されること(を想定していないこと)、野良猫を捕まえて"シェルター"で殺してきた数十年間の歴史、より効率的な非致死的政策の反応が考慮されていないこと、などが含まれている。これらの論点の詳細な議論については、2012年の「屋外の猫:グローバルな観点からの科学と政策」会議のオンライン動画を見てほしい*3

 ここで私が注目しているのはさらに大局的な図であり、科学的な議論の構造そのものだ。

 科学的な主張の背後に論理的な推論が存在していることは、データを収集する方法・仮説の検証・そして結果の分析と同様に、健全な科学の基礎となるものである。マラとサンテラと彼らの支持者たちが屋外の猫について主張を行う際、彼らはまさに論理的な推論という点でもがいているのであり、科学の基本的な教義を侵害しているのだ。彼らは、特定の箇所における地域的な研究が世界全体に通じるかのように過剰に一般化している。論理学でいう「合成の誤謬」(世界中の全ての箇所は、猫や野生生物が調べられたことのある環境と同様である)と「早急な一般化」(この箇所の野生生物にとって猫が問題であるなら、全ての箇所において猫は問題であるはずだ)が含まれているのだ。

 この論理的な問題は、彼らによるデータの解釈にも影響を与えている。個々の事例研究はその地理的な文脈から抜き出されて抽象化されているが、これは文脈を無視した引用を行うことと同様である。著者たちは、アメリカ合衆国鳥類保全協会による「猫は屋内に」キャンペーンなどと同様に、地球の地表全てが太平洋の小さな島々であるかのように表現している*4。その結果、屋外の猫が与える影響が歪められて人を不安にさせる形で表現されるのだ。

 猫と生物多様性についての個々の事例研究が正しかったとしても、その研究結果を世界全体に反映させることは間違いであるということには留意するべきだ。彼らの大げさな警告(alarmism)に対しては、あまりにも多くの変数が存在している…生物多様性に対する人間による略奪行為(猫による行為よりも遥かに重大である)、猫が発見される生態学的文脈の多様性、個々の猫の性格と行動の違い、など*5。猫に対する戦争を支持する人たちはあらかじめ決定された結論を作り上げて、蓄積されてきた事例研究の中から都合の良いものを選ぶことで自分たちの主張を補強しているのだ。

 

倫理と、猫に対する戦争

 

  彼らの研究の倫理面に目を向けると、二つの問題点がすぐに見つかる。その一つは『猫戦争』という著作を生み出した研究の公正さに関するものである。二つ目は、猫に対する世界的な戦争の倫理的正当化に関するものだ。まず、研究の公正さという問題から論じよう。

 猫に関する様々な研究を行った人たちの大半がその研究を公正さを保って行ったことを疑う理由はない。確かに、近隣の猫を自分で毒殺しようとしたり他人が毒殺することを推奨した科学者のニコ・ドーフィンやジャーナリストのテッド・ウィリアムズのような、反・猫活動家(anti-cat advocate)の邪な例も存在する*6。しかし、彼らは例外だ。

 更に、学術的著作の著者たちは、その著作に費やした時間と労力を補償されるべきだ。その補償とは、一般的には、コストをカバーするための立替金や補助金、研究と執筆に専念するために他の仕事の時間を買い取ること、学術的な成果に基づく給料の増加、そして著作の販売から得られるロイヤリティなどだ。これらの補償の重要な点とは資金元の透明性であり、その透明性は経済的・イデオロギー的な利害の政治的争いをコントロールするために必要なのである。

 猫に関する学術的著作の著者の片方がトラベルライター兼マーケティングコンサルタントであるというのは、一般的なことではない*7。『猫戦争』のストーリーを成り立たせるために使用されたインタビューの大半を行ったのはサンテラである。猫と生物多様性の問題についてサンテラが非常にコミットしたことがない限り、サンテラがマラと共作したことについて私は疑問を抱かざるを得ない。サンテラは彼の時間と労力の対価が支払われたゴーストライターなのか?だとすれば、誰がサンテラに支払ったのか?

 スミソニアン博物館は「ピーター・マラの著作はスミソニアンの従業員の義務の一部として書かれたものはないし、スミソニアンが資金を供給したプロジェクトでもない」と明白な声明を出している。この情報は、情報公開法に基づいた要求への返答として公開されたスミソニアン評議会のオフィスからのレターに掲載されたものである。マラはスミソニアン国立動物園の渡り鳥研究センターの所長であるが、著作の題材とは明らかに関係のある役職であるし、おそらく資金や労力も関連しているだろう*8。だから、この点についてスミソニアン博物館がマラから距離を取っているのは奇妙なことなのだ。

『猫戦争』という著作は特定の観点を正当化するために科学の外見を装った党派的なレトリックの一つとして構想されて資金を得た著作であるのか、という疑問を投げかけることは正当であるだろう。この著作を生み出すために、誰がどんな目的で資金を用意したのか?『猫戦争』を出版することに同意した時、プリンストン大学はこの著作を巡って起こり得る利益の衝突に関する問題について充分に知っていたのだろうか?

『猫戦争』に関するこのような問題についての情報開示は行われていないので、私はこれらの疑問への答えを持っていない。著者たちはそのような情報開示は必要ないと主張するかもしれないし、彼らが正しい可能性もある。私や他の人たちも、この点に関する理由や証拠について開放的であるべきだ。だが、上述の奇妙な状況は経済的・イデオロギー的な利害に関する疑問を引き起こすものだし、それは提出されて答えられるべき疑問なのだ。

 

倫理的な(間違った)正当化

 

『猫戦争』のさらなる問題点とは、猫に対する戦争を"いかなる手段を取っても"…明らかに、狩り・毒・罠やその他の見境のない致死的な方法による"管理"を意味している言葉だ…実施することについての一貫した倫理学的分析が不在であることだ。『猫戦争』の中には、倫理学への短い言及がまばらに書かれてはいる。その大半はアルド・レポルドの「土地倫理」に賛意を示しているものであり、J・ベアード・キャリコットやホームズ・ロールストンと行った環境哲学者たちの著作からの断片的な抜き出しと共に並べられている*9。レオポルドは、倫理とは私たちが生存する能力を高めるために進化した社会集団の特徴である、と仮定した。私たちの福祉(well-being)は自然界…レオポルドが"土地(the land)と呼んだもの…にも依存しているのだから、自然とも倫理的な関係を持つ必要がある、とレオポルドは考えたのだ。

 レオポルドは自然のことを"土地"として集合的に語ったために、生態系の道徳的価値を強調することが彼の思想の主要な解釈となっている。倫理学の用語では「環境中心的全体論ホーリズム)」と呼ばれるものだ*10。自然には生態コミュニティ…頭数、生物種、そして生態系など…のレベルに本質的(内在的/instric)な価値が存在する、というのがこの言葉の意味だ。対照的に、個々の生き物には本質的な価値が存在しない*11。個々の生き物たちは、生体コミュニティの一部である限りにおいて道徳的な価値を持つのである。ハンマーはそれ自体は道徳的価値を持たないが、人間という本質的な価値を持つ存在のために家を建てることに使用することができるという点で価値を持つ、ということと同様である。この観点は、反猫派の自然保全主義者たちが屋外の猫の殺害を快活に正当化することができる理由でもある。彼らの道徳的観点からすれば、猫は大して価値を持たない…あるいは、全く価値を持たない。これこそが、伝統的な自然保全の標準的なイデオロギーなのだ*12。  

 
悲劇的な善(Sad-Goods)

 

 猫に対する戦争を正当化するために、著者たちはレオポルドの土地倫理だけではなく動物と環境の倫理についての私の研究も利用している*13。それは、アメリカ合衆国野生動物庁によるアメリカフクロウや北マダラフクロウの管理という文脈に関するものだ*14。生息地の消失という重篤な危険のために、北マダラフクロウはその領土を奪ったアメリカフクロウよりも遥かに深刻な絶滅の危機に晒されている。アメリカフクロウの致死的なコントロールを考えた野生動物庁は、フクロウを殺すことによって生じる倫理的な問題を検討するため、アメリカフクロウ・ステークホルダー委員会(Barred Owl Stakeholder Group)を設置した。私は倫理学者としてアドバイスを行い議論を促進するために、委員会に雇われたのだ。倫理的な問題について徹底的に審査した末に、アメリカフクロウの影響を和らげるための非致死的な手段が存在しないことをふまえて、一部のアメリカフクロウを致死的な手段を用いて排除することは正当である旨を委員会は全会一致した。私による"悲劇的な善(sad-goods)"という概念は、委員会の結論を導く鍵となるものだった。マラとサンテラは全ての猫を自然から根絶することを正当化するために、この"悲劇的な善"という概念を用いている(115~117ページ)。猫たちを殺すことによって生じる悲劇を一まとめにしたとしても、猫たちを殺すことによって生態系にもたらされる善の方が悲劇を上回る、と著者たちは論じているのだ。  

 私の友人や同僚たちにとっては残念なことに、私は純粋な動物の権利主義者ではない*15。死や捕食は自然なことであるのだから、限られた時や場所においては動物を殺害することが道徳的に正当化される、と私は考えている。"悲劇的な善"とはそのような状況を説明するための概念だ。例えば、鹿が狼や自給自足のハンターに狩られる場合においては、三者の全て…鹿、狼、そして人間…が本質的な道徳的価値を持っている。鹿が狩られて死ぬことは、生きている存在であり人間ではない人格(non-human person)が失われるということであるのだから、"悲劇"である。しかし、同時に、鹿の死は"善"でもある。弱く、病んだ、年老いた仲間が群れから消えるという点で他の鹿にとって善である。自分たちの家族を養うための食物を供給してくれるという点で、狼やハンターにとっても鹿の死は善だ。悲惨で痛ましくても、それは"悲劇的な善"なのである。

 だが、"悲劇的な善"とは、動物を殺すことのお手軽な言い訳として考えられた概念では全くない。アメリカフクロウの管理に関する倫理についてのアメリカ野生動物庁に対する私の返答が明確にしているように、"悲劇的な善"という概念は、問題となっている動物たちの本質的な道徳的価値を充分に認識すること、その動物たちに対する人間の直接的な義務を理解すること、可能な場合には何よりも優先して非致死的な手段を取ること、そして致死的な管理は限られた時と場所においてしか用いないように制限することを要求する*16。マラとサンテラの議論は上述した条件を何一つ満たしておらず、猫に対する戦争を正当化するものとしての"悲劇的な善"という概念の彼らによる解釈と用法を、私は否定しなければならない。

 

伝統的な自然保全の汚点

 

 個々の動物に対して正しいことを行うことに関わる道徳的懸念を払いのけようとするのは、マラとサンテラに限ったことではない。自然保全主義者の間では、レオポルドの土地倫理の背景にあるような環境中心的全体論は、批判的な倫理的思考を促進するものとしてではなく、信仰を告白して正しさを言い張るものとして機能することが大半である。科学的・倫理的な別の可能性を無視して、致死的な方法を動物に対して用いるというあらかじめ決定された結論を正当化するために、しばしば土地倫理は用いられるのだ。この事態の証拠は、文字通りどこからでも見つけることができる…オーストラリアにおける猫に対する戦争、アフリカのトロフィー・ハンティングの正当化、アメリカにおける狼や他の捕食動物の管理など*17。具体例は嫌になるほど挙げられる。

『猫戦争』の著者たちが科学的推論と倫理的推論に失敗していることは、屋外の猫たちが生態系に与える影響を無視することを正当化する訳ではない。むしろ、著者たちはより厳格な科学を促進するべきであり、より深い倫理的考慮を行い、猫たちに対する拙速で非人道的な行為に対して警告をするべきなのだ。

 そして、ここに問題の核心が存在する。『猫戦争』とそれが代表している観点は、不完全な科学と道徳的な正当さの不在だけに基づいているのではない。個々の動物の生命を矮小化する世界観に基づいているのだ。このことは、自然保全と野生動物の管理に関する伝統的なアプローチの汚点である…生物多様性への道程を殺しによって埋め尽くすことであり、それは大規模なブラッドスポーツでしかないのだ。

 

 

 関連記事:

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*1:

 

6度目の大絶滅

6度目の大絶滅

 

 

*2:

Facts, Myths in Cat Wars Book | The Best Friends Blog 

The Wars on Wolves, Cats, and Other Animals: It's Time to Forever Close Down the Killing Fields | Huffington Post

New Book, Cat Wars, Looks At What To Do With Free-Ranging Cats : 13.7: Cosmos And Culture : NPR

“By Any Means Necessary”: War is Declared on U.S. Cats » Vox Felina – Feral/free-roaming cats and trap-neuter-return/TNR: critiquing the opposition

マーク・ベコフとバーバラ・キングは著書が邦訳されている

 

 

死を悼む動物たち

死を悼む動物たち

 

 

*3:

Past Conferences : The Humane Society of the United States

*4:

Cats and Birds | American Bird Conservancy

*5:

Biodiversity: The ravages of guns, nets and bulldozers : Nature News & Comment

Invasive species will save us: The new way we must think about the environment now - Salon.com

Feral cats weapon of choice for some residents facing influx of rats - Chicago Tribune

* PDF http://www.kittycams.uga.edu/other/Loyd%20et%20al%202013.pdf

*6:

National Zoo employee found guilty of attempted animal cruelty - The Washington Post

Writer's Call to Kill Feral Cats Sparks Outcry

*7:

About Chris Santella

*8:

Smithsonian Migratory Bird Center

*9:

 

野生のうたが聞こえる (講談社学術文庫)

野生のうたが聞こえる (講談社学術文庫)

 

 

*10:

* PDF:  htttp://www.williamlynn.net/pdf/lynn-2015-being-animal.pdf

*11:

* PDF: htttp://www.williamlynn.net/pdf/lynn-1998-contested-moralities.pdf

*12:

* PDF: http://www.ifaw.org/sites/default/files/gaining-ground/ifaw-gaining-ground-chapter-01.pdf

*13:* PDF:

http://www.williamlynn.net/pdf/lynn-2006-between-science-ethics.pdf

*14:

OFWO - Barred Owl Threat

*15:

* PDF: http://www.williamlynn.net/pdf/lynn-2005-finding-common-ground.pdf

*16:* PDF: http://www.williamlynn.net/pdf/lynn-2011-barred-owls.pdf

*17:

Australia’s war on feral cats: shaky science, missing ethics

http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/conl.12254/abstract

*PDF: http://www.williamlynn.net/pdf/lynn-2010-discourse-wolves.pdf

"EXPOSED: America's Secret War on Wildlife" from Predator Defense Films

 

ナショナリストの道徳とグローバリストの道徳

 

http://www.nytimes.com/2016/07/15/opinion/we-take-care-of-our-own.html?_r=0

 

 本日紹介するのは、ニュヨークタイムスのコラムニストのデビッド・ブルックスによる記事。昨日はジョナサン・ハイトによる「ナショナリズムは、いつ、なぜグローバリズムに打ち勝つか」の第3章と第4章を訳したが、この記事では同記事の第1章と第2章の内容が主に取り上げられており、相互補完的な感じで読めると思う。

 

 

「俺たちは自分たちで支え合う」 by デビッド・ブルックス

 

 数年前、ブルース・スプリングスティーンは「We Take Care of Our Own(俺たちは自分たちで支え合う)」という曲を発表した*1。コーラスの主旋律は陽気で誇らしげなもののように聞こえる:私たちは自分たちから最も近い人たちのことを支える。しかし、「ボーン・イン・ザ・USA」も含めてスプリングスティーンの曲の多くがそうであるように、歌詞がコーラスされる調子と歌詞に書かれた文章の内容とは緊張した関係にある。

 歌詞を見れば、自分たちのことは自分たちで支え合うということは自分たちではない人たち(例えば、ハリケーンのカトリーナの犠牲者)のことは支えないということも意味しているのが明らかだ。「自分たちのことは自分たちで支え合う」という言葉は、突然、排他的で威嚇的で人種差別的ですらある色合いを帯びる。

 この言葉とそれが持ち得る二つの違った意味は、2016年のアメリカ大統領選挙の中心に存在しているものだ。

 ドナルド・トランプの支持者たちは、「自分たちのことは自分たちで支え合う」という言葉が持つ最初の意味を支持している。アメリカはまず自国の労働者に忠誠を尽くすべきなのであり、自国の文化に、自国の市民に忠誠を尽くすべきなのだ。

 この世界観は単なるワガママではない。人類の歴史の大半において、人々は団結したコミュニティを他の何よりも賞賛していたのだ。人類は、自分たち自身の親族と同胞の市民たちへの支えと忠誠の上に道徳システムを築き上げてきた。これらの絆は何らかの抽象的な社会契約に基づいているのではない。共有された親族関係、歴史、地理、そして正と不正についての共通認識から生み出された親密な絆なのである。

 団結したコミュニティにコミットしている人は、コミュニティを結び付けている規範を守るために戦う。彼らは既存の文化に同化する移民なら受け入れるが、相容れない習慣をもたらして社会を引き裂こうとする移民に対しては疑い深い。

 大昔から、この絆は人類の大半にとって事実上唯一の伝統的な道徳システムであった。しかし、ニューヨーク大学社会心理学者のジョナサン・ハイトが American Interest で発表した優れた記事の中で指摘しているように、この数十年間で別の考え方が現れたのだ*2

 この新しい考え方を持つ人たちは、団結したコミュニティよりも解放された個人に価値を置く。彼らは、自己表現、社会的自由、そして多様性に価値を見出すのだ…あるいは、少なくとも、価値を見出そうと試みる。彼らの道徳は自分たちに近い人々への忠誠に基づいているのではない。いかなる場所にもおける全ての人間の普遍的な平等に基づいているのである。

 この新しい考え方を持つ人たちは、人々を分け隔てる政治的・宗教的な壁を軽蔑する。記事の中で、ハイトはジョン・レノンの「イマジン」をこの世界観を体現する歌として引用している。

想像してごらん 国なんて無いんだと

そんなに難しくないでしょう?

殺す理由も死ぬ理由も無く そして宗教も無い

さあ想像してごらん みんなが ただ平和に生きているって...

僕のことを夢想家だと言うかもしれない

でも僕一人じゃないはず*3

 

 この新しい考え方を持つ人たちは、「俺たちは自分たちで支え合う」に含まれる排他的な意味合いに憤りを示す。アメリカ人に価値を見出すのは構わないのが、移民のことも考えるべきだし、外交関係においては多国間の協力に積極的であるべきなのだ。

 ハイトは、この二つの考え方の境界はナショナリストとグローバリストとの境界であると論じる。道徳的個別主義者と道徳的普遍主義者との境界でもある。また、血と歴史の絆が優先されるべきだと考えている人と、目の前で溺れている子供に対する道徳的義務と南スーダンで飢えている子供に対する道徳的義務は等しいと論じる哲学者のピーター・シンガーのような人との境界でもある。

 数十年もの間、グローバリスト・普遍主義者的な考え…移民に賛成、グローバリゼーションに賛成…は大手を振るっていた。今、個別主義者たちはトランプと共に逆襲を行っている。移民は彼らの怒りを焚き付ける燃料となっているのだ。

 ハイトが書いているように「2015年の夏(シリアの難民危機が起こった時期)にはナショナリストたちは既に沸騰点に達しており、"もう充分だ、栓を閉めろ"と叫んでいた。その間、グローバリストたちは"水門を開けよう、移民を受け入れることは思いやりのある行為なんだ、それに反対するなら君はレイシストだ"と宣言していた。グローバリストの言葉は、充分に理性的な人にさえも怒りを引き起こすのではないだろうか?」。

 実際には、二つの考え方のどちらにもそれぞれの美点がある。個別主義者は親密な愛情や忠誠を強調するし、それは本物のコミュニティにとって必要なものだ。普遍主義者はどんな場所における不正義にも心を動かすし、苦痛を目にして行動もせずに関心も示さないことを道徳的に拒絶する。

 今回の選挙の悲劇は、アメリカは既にこの問題を解決していたということだ。フランスや中国と違って、アメリカは普遍主義者の国として創立された。世界中から人々を受け入れて新しい何かとしてその人々を結び付ける国としてアメリカは創立されたのであり、アメリカ人は激しい愛国者であると同時に比較的開放的な人となることができるのだ。

 残念ながら、多文化主義の勢力が文化的な統一へのコミットメントを破壊してしまった。だからこそ、トランプが普遍主義的なアメリカのナショナリズムをひっくり返して、星条旗を装ったヨーロッパ式の血と土のナショナリズムへと置き換えてしまったのだ。

 この問題を解決する方法とは、ナショナリストになることでもなければグローバリストになることでもない。ウォルト・ホイットマンのような人々が信奉した、アメリカ式ナショナリズムへと回帰することである。誰が「私たち」なのかということについては多くの人々を包括するような定義をしつつ、調和することと「支え合う」ことについては熱烈なコミットメントを行うナショナリズムである。

 

 

 

BORN IN THE U.S.A.

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WRECKING BALL

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関連記事:

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トランプ支持者の心理・権威主義と反移民

 

www.the-american-interest.com

 

 本日紹介するのは、 社会心理学者のジョナサン・ハイト(Jonathan Haidt)が American Interest 誌に発表した「ナショナリズムはいつ、なぜ、グローバリズムに打ち勝つか(When and Why Nationalsm Beats Globalism)」という記事。近年の西洋民主主義国家において、普遍主義的・自由主義的で多様性を尊重する価値観を持ったグローバリストとそれに反対する価値観を持ったナショナリストとの争いが各国における移民問題をきっかけに表出するようになっていて…という記事なのだが、かなり長い記事なので、今回は後半(4章構成のうちの3章と4章)を紹介する。この記事における「グローバリスト」と「ナショナリスト」という言葉の定義の説明などは1章と2章でされるので、その辺りは少し分かり難くなるかもしれないが、文章の大筋を理解するのに支障はないと思う。

 

 

 「ナショナリズムはいつ、なぜ、グローバリズムに打ち勝つか(When and Why Nationalsm Beats Globalism)」by ジョナサン・ハイト

 

(前略)

 

3章:イスラム移民は権威主義アラームを刺激する

 

 ヨーロッパのナショナリストたちは数十年も前から移民の集団移住に反対してきたのだから、2015年に到来した亡命者たちの大波がナショナリストたちの怒りを増加させて右翼国家主義的な政党へ支持を増加させることも明白ではあったのだ。グローバリストたちは、ナショナリストたちの反応を「純粋で単純なレイシズム (racism, pure and simple)」であるとしたり、仕事を失いたくなかったり外国人に利益を与えたがらない人々の狭量で田舎臭いワガママであると説明したがる。

 一部のナショナリストたちがインタビューで答えた内容・サッカーの試合での応援(チャント)・匿名性に守られたインターネットの書き込みなどの一部には、レイシズムが明らかに示されていることもある。しかし、「レイシズム」という言葉は、物事の説明として用いるには浅はかな用語だ。レイシズムという言葉で説明することは、一部の人たちは自分たちとは違う人間…特に自分たちよりも濃い色の皮膚を持っている人間をただ好まないのだ、と主張することだ。 レイシストたちが他の人たちを嫌うのに正当な理由はなく、彼らはただ違いが嫌いなだけなのであり、それだけがレイシストたちの怒りについて私たちが知る必要のあることの全てなのだ、という訳だ。

 しかし、私たちが知る必要のあることはそれだけではない。より注意深く観察すると、多くの場合にはレイシズムは道徳的な懸念(moral concern)と深く結び付いていることが明らかになる(ここでは、私は"道徳"という単語を純粋に記述的な意味で用いている。つまり、"道徳的な懸念"とは、ここで分析の対象となっている人が本人にとっては善か悪かの問題だと思われることについて抱いている懸念、ということを意味する。私は、レイシズムは実際に道徳的に良いことであるとか道徳的に正しいことであると主張している訳ではない)。人は、他人が自分よりも濃い色の皮膚をしていたり自分とは違った形の鼻をしているというだけでは、他人を嫌わない。自分たちの価値観とは相入れいない価値観を持っているように思われる人々・自分たちが嫌悪している行動を行う(と思われている)人々・自分たちが大切にしている何かにとっての脅威になると思われる人々を、人は嫌うのである。これらの道徳的な懸念は事実からはかけ離れたものであるかもしれないし、しばしば扇動家たちによって拡大させられることもある。しかし、近年の右翼ポピュリスト運動の隆興について理解したいと思うのなら、「レイシズム」という言葉は終着点にはならない。むしろ、そこから研究を出発させるべきなのだ。

 この研究の最も重要な導き手は、政治科学者の カレン・スティナー(Karen Stenner)である。彼女が2005年に出版した『権威主義の力学(The Authoritarian Dynamic)』は、大量のグラフ・回帰分析とその記述・権威主義の性質についての学問的論争についての議論などが掲載された学術的な著作だ(そのため、多くの人に読まれた本ではない)。スティナーの研究結果の核となる点は、権威主義とは安定した人格特性ではない  (is not a stable personality trait) 、ということである。むしろ、権威主義とは、ある人が特定の種類の脅威を知覚した時にその人は不寛容になるという 心理的傾向 なのである。例えて言うと…ある種の人たちの額にはボタンが付いており、そのボタンが押されると、突然、ボタンを押された人は自分の属する内集団を守ることに激しく集中するようになる。外国人や集団に調和しない人を蹴り出すようになり、集団内で異議を唱えている人を踏み付けて抑圧するようになるのだ。脅威を感じている人々は、強力なリーダーや実力行使に惹き付けられる。別の時、脅威を何も感じていない時には、彼らも異常に不寛容である訳ではない。つまり、鍵となるのは、何が彼らのボタンを押すのかということを理解することである。  

 スティナーが示唆する答えとは、彼女が「規範的脅威 (normative threat)」と呼ぶものである。規範的脅威とは、基本的には、道徳的秩序の統一性(integrity of the moral order)に対する脅威(と人々に見なされるもの)のことを意味している。「私たち」がバラバラに分解される、という認識こそが規範的脅威なのだ。

 

集団の権威に対する不服従や尊敬に値しない権威、集団の規範に調和しないことやいかがわしい規範、集団の価値や信念についてのコンセンサスの不在、そして、一般的に、多様性や自由が "暴走して見境をなくす"  こと…これらを認識するという経験は、心理的傾向を作動させて、(訳注:権威主義に)特徴的な態度と行動が出現することを増加させるだろう。

 

 つまり、権威主義者たちはワガママである訳ではない。彼らは自分の財布を守ろうとしているのではないし、自分の家族を守ろうとしているのですらない。自分たちの集団と社会を守ろうとしているのだ。たしかに、一部の権威主義者たちは自分たちの人種や血統を守られるべきでものであると見なすのであり、そのような人々は右翼ポピュリスト運動の中でも非常に人種差別的な部分集団を作り上げる。ネオナチズムに惹かれるような派生集団もその中に含まれている。そのような人たちは、充分に社会に同化した移民すらも受け入れないだろう。しかし、現代のヨーロッパやアメリカでより典型的なナショナリストたちが守ろうとしているものは、彼らの国と文化なのである。

 スティナーが行った数多くの研究では、子供たちが家庭で学ぶべき最も重要な価値として何を挙げるかによって、権威主義者が特定されている。彼らが支持する価値とは、例えば、"従順 (obedience)"だ(対する価値は"自立" や"他人に対する敬意と寛容"である)。次に、スティナーは様々な方法や国家間のデータセットを用いて彼女が行った一連の研究について説明する。ある実験では、被験者のアメリカ人たちは自分たちの国がいかに変わりつつあるかということを伝える架空のニュース記事を読まされた。アメリカ人たちはお互いがそれぞれ似通うように変わっている、というニュースを読んだ時には、権威主義者たちは他の人に比べてもレイシストでもなければ不寛容でもなかった。しかし、アメリカ人たちはより道徳的に多様になっているということを示唆するニュース記事を与えられると、ボタンが押されて、"権威主義の力学"が起動し、彼らは他の人よりもレイシストで不寛容になった。例えば、「国家の秩序を維持すること」が国家の事項としての優先度が高くなった一方で、「言論の自由を守ること」の優先度は低くなった。そして、同性愛・中絶・離婚に対して、権威主義者たちはより批判的になったのだ。

 スティナーの研究の中でも最も有益な貢献は、権威主義者たちは「現状維持保守(status quo conservatives)」たちとは心理学的に区別される、という調査結果だ。現状維持保守とは保守主義者のなかでも原型的な存在であり、過激な変革に対して警戒している人たちのことである。エドマンド・バークによる先見性のある省察と初期フランス革命に対する恐怖から、自分が創刊した雑誌『ナショナル・レビュー』は「歴史の道の往来に立って"止まれ!"と叫び続けるだろう」というウィリアム・F・バックリーの声明まで、現状維持保守の系図は旧くて誉れ高い。

 現状維持保守は必ずしも権威主義者たちの同盟者ではない。権威主義者たちは、しばしば過激な変革を好むし、試行されたことのない政策を実施するという大きなリスクを伴う行為にも意欲的である。これこそが、多くの共和党員たち…そして、ほとんど全ての保守知識人たちがドナルド・トランプに反対している理由なのだ。彼の気質を見ても価値観を見ても、トランプは全く保守主義者ではない。しかし、進歩主義者たちは国家の伝統とアイデンティをあまりにも酷く失わせてしまったと現状維持保守が認識した場合には、彼らは劇的な政治的行動(イギリスのブレクジットや、アメリカにおけるイスラム移民の禁止など)だけが「止まれ!」と叫ぶために唯一残された方法であると見なすだろうし、権威主義者たちと同盟を組むことになるだろう。ブレクジットも、EUが"さらに緊密な連合"となることでイギリスが吸収されてしまう未来に比べると、まだ過激さが少ないのだ。

 さて、これまでの議論によって、なぜ移民が…特に、最近のシリアからやって来たイスラム系移民の波が…ヨーロッパの国々とアメリカ(イスラム移民の数は少ない国であるのに)でこれ程までにも強烈に分極化した反応を引き起こしたのか、ということが理解できただろう。ナショナリストにとって、他のどんな地域や宗教からの移民と比べても、中東のイスラム移民たちは遥かに深刻なテロリズムの脅威を示している。だが、スティナーの研究は、安全保障上の 脅威だけを見るのではなく規範的な 脅威を調査することを私たちに促してくれる。イスラム教が信者に要求する生き方は、世俗的で平等主義的な西洋の社会にイスラム教徒たちが同化することを、他の集団と比べて難しくする(同様のことは正統派ユダヤ教徒にも言える。スティナーによる権威主義の力学の分析は、なぜ近年のアメリカで右翼反ユダヤ主義運動が復活しているのかということの説明も可能にする)。イスラム教徒たちはプライベートな生活における習慣の違いを目にするだけには留まらない。特にジェンダーに関する問題について、しばしば、イスラム教徒たちは自分が滞在している国の法律と政策を自分たちの宗教に妥協させることを要求するし、その要求は認可される。ここ10年のフランスや他のヨーロッパ諸国で起こっている争いの中でも最も激しい争いの一つが、ヴェールやその他の形で女性の外見を覆い隠すことについてと、それに関係したプライバシーの必要性やジェンダー差別を論点とした争いである。例えば、スウェーデンの公共プールは、女性と子供のみが泳ぐことを認められる時間帯を設けるようになった。この政策は、スウェーデン人たちがジェンダーの平等と反ジェンダー差別に関して強く抱いている価値観とは相反するものである。

 つまり、あなたが急速な変化を懸念する現状維持保守であるにせよ規範的脅威に対して非常に敏感な権威主義者であるにせよ、あなたが暮らしている西洋の国におけるイスラム移民の比率が高くなることは、あなたにとって核となる道徳的懸念に対する脅威となる可能性が高いのだ。しかし、あなたが自分の懸念を声に出して表明した途端に、グローバリストたちはあなたのことをレイシストで田舎者だと嘲笑するだろう。グローバリストたちが…中道右派政党を運営している人たちでさえもが…あなたのことをそのように扱うとすれば、あなたはどこに助けを求めればいいのだろうか?その答えとは、ヨーロッパでは極右国家主義政党、アメリカでは(共和党敵対的買収を成し遂げた)ドナルド・トランプであり、この答えに辿り着く人々はますます増えているのだ。

権威主義の力学』は2005年に出版された本であり、"イスラム教徒" という単語は6回しか登場しない(対照的に、"黒人"という単語は100回登場する)。しかし、スティナーの著作は、2016年における反イスラム教徒に集中した右翼ポピュリズムの隆興を読み解くためのロゼッタストーンとなる。スティナーによると、彼女の理論は「"どこからでもないところから登場した" ように見える不寛容を説明する。その不寛容は寛容な文化からも不寛容な文化からも同様に登場する可能性があり、文化的な伝統の緩慢な変化ということでは説明のできない、行動の急速な変化をもたらすのだ」。

 スティナーは、伝統から離れて「個人の自由と差異へのより大きな敬意」へ向かう方向へと止まることなく流れている歴史の潮流を見出し、人間は「より完全なリベラルで民主主義的な市民」へと進化し続けることを予期する人たちの理論と自分の理論とを比較している。具体的には誰を想定しているかはスティナーは明らかにしていないが、おそらく、クリスチャン・ヴェルツェル(Christian Welzel)と彼と共に世界価値観調査を行った人たち*1、そしてフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」論を想定している可能性が高いであろう。スティナーは、ヴェルツェルやフクヤマのように西洋リベラル民主主義社会の将来を楽観視していない。一般的な傾向が寛容へと向いていることはスティナーも認めているが、その傾向こそが権威主義を非常に活性化させる状況を作り出して強力な反動を生み出すであろう、と彼女は予測している。彼女は以下のように予言しているのだ。

 

近年発展し続けている文化によって認められてしまっている過度の自由や放埓のために発生した状況は、潜在している権威主義者たちを刺激するそして、突然で激しく、暴力的でもあり、そしてほとんど確実に予測不可能な不寛容の表出が行われる…そのような事態を確実なものにしてしまっているのだ。そして、もしも不寛容とは伝統への単なる愛着からほとんど偶然に生み出される副産物なのではなくて、文化的な規範よりも個々人の心理によって生み出されるものであるとすれば…私たちは異なる将来の展望を得るだろうし、この問題は誰にとっての問題であり将来的にはどうなるかということについての違った理解を得るだろう。普及している文化的規範を無心に吸収した結果としての不寛容ではなくて、個々人の異常な心理状態から湧き出る種類の不寛容は、寛容を促進する文化による学習よりも重大な影響を与えるものとなり、より激しく非合理的であり、予測できず、説得に従わないものとなるはずだ。

 

 2004年の文章では、スティナーは「不寛容は過去の遺物ではない、未来にもたらされるものであるのだ」と予測している。

 

4章:いま、何をするべきか?

 

 とどのつまり、ナショナリストたちを観察して彼らの経済的状況や彼らの一部が実際に示しているレイシズムを指摘しているだけでは、この記事の冒頭で私が提示した疑問…いったい世界では何が起こっているんだ?…の答えは得られない。まずグローバリストたちに目を向けて、彼らの変容した価値観がいかにして他の市民たちを右翼的な政治的指導者を支持することへと追い立てる場合があるか、ということについて考えなければならない。特に、グローバリストたちは大規模な移民の受け入れと国家主権の削減を支持していること、グローバリストたちにはヨーロッパ連合のような汎国家的な存在のことを国民国家よりも道徳的に優れたものだと見なす傾向があること、そしてグローバリストたちがナショナリストたちと彼らの愛国主義を「純粋で単純なレイシズム」だと中傷していることについて考えなければならない。グローバリストたちによるこれらの行為は、権威主義的な傾向を備えている人々の心の中にある「規範的脅威」のボタンを押してしまうし、グローバリストとその普遍主義的なプロジェクトに立ち向かおうとする現状維持保守が権威主義者たちに合流するように仕向けてしまうのだ。

 もしこの議論が正しければ、グローバリストの政策のための明白な処方箋が導き出されるだろう。真っ先に行うべきは、自分の国が移民の移住をどのように行っているかについて注意深く考えて、権威主義的な反応を引き起こす可能性が低くなるように移住を管理することだ。三つの変数に対して注意を払うべきである:外国生まれの住民の比率(いかなる時においても)、新しくやってくる各集団の道徳的な差異の程度、そしてそれぞの集団の子供たちが成し遂げている同化の程度である。

 異なった道徳を持つ文化からの合法的な移民は、同化の程度が低いとしても移民の人口数自体が低ければ問題にはならない。小さな民族集団による飛び地的な異種文化圏は、十分な大きさを持つ国家にとっては規範的脅威とならないのだ。異なる道徳を持つ民族集団からの移民が中程度の規模で行われたとしても、移民たちが移住先の文化に同化することに成功していると見なされる限りにおいては、問題ない。移民たちが新天地の言語と価値観と慣習に応じているなら、自分たちの国は良いものであり価値があって外国人にとっても魅力的だ、というナショナリストたちのプライドとも調和する。しかし、強力で成功の見込みがある同化プログラムも無いのに、異なる道徳を持つ国々から歴史的に大規模な量の移民を受け入れるとなると、権威主義的な反動が起こることはほとんど確実であるし、数多くの現状維持保守たちがその反動を支持することも予期できるだろう。

 

(…中略…)

 

 民主主義は、普通の市民が声を発することが認められることを必要とする。イギリスのマジョリティは6月23日のブレクジットで声を発したし、やがて他のヨーロッパ諸国からもイギリスと同様のマジョリティたちの声が発せられるかもしれない。そして、11月のアメリカにおける大統領選挙でも同様の可能性があるのだ。2016年が西洋民主主義が辿ってきた道程の大きな転機として記憶されることになる可能性は高い。世界で何が起こっているのかということについて本当に理解をしたいのなら、グローバリゼーションと移民と価値観の変容との間の複雑な相互作用を考慮するべきなのだ。

 この記事で私が論じたストーリーが正しいとすれば、グローバリストがナショナリスト政党から情熱と投票数を吸収するための発言や行動や法律の制定を行うことは簡単にできる。しかし、それをするためには、国家のアイデンティティや団結した道徳的コミュニティが備えている価値について深く考え直すことが求められるであろう。移民についての多文化主義的なアプローチを棄却して、移民の同化を推奨することが求められるのだ。

 それぞれが独自の伝統と道徳的秩序を備えた世界中の数多くの地域的・国家的・その他の "偏狭な" アイデンティティを…中傷したり崩壊させたりするのではなく…尊重しながら、同時に、貿易・文化・教育・人権・そして環境保護に関するグローバルな協力を行うことによって得られる利益を手にするためには、どうすればいいのだろうか?どのような世界なら、グローバリストとナショナリストが平和に共存することができるのだろうか?これこそが、2016年以後の西洋国家にとって重大な問題なのであるかもしれない。

 

 

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davitrice.hatenadiary.jp

*1:クリスチャン・ヴェルツェルや世界価値観調査については原文の第1章で論じられている

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「性別間の生物学的な差異は存在しない、という社会学者たちの宗教」 by ジェリー・コイン 

The sociological religion of no biological differences between the sexeswhyevolutionistrue.wordpress.com

 

 昨日に引き続き、進化生物学者・無神論者のジェリー・コインのブログからまたまた記事を紹介。

 

「性別間の生物学的な差異は存在しない、という社会学者たちの宗教」 by ジェリー・コイン 

 

 

 アカデミック業界にはタブーであって自由な議論を行えない二つの論点が存在する、ということを私は生物学者として学んできた。第一の論点は「人種」…または、人口間の遺伝的な差異である。文化人類学者たちは、人種は「社会的に構築された」と言う。たしかに、それぞれの人種を明確に区別することのできる有限数は存在しないのだから、その限りにおいては文化人類学者たちの主張にも真実は含まれている。しかし集団間には遺伝的な違いが存在しているのであり、クラスタリングアルゴリズムを使えばそれぞれの地理上の場所に対応した5つか6つの明確に区別できる集団に分けることができるだろう。集団間のマーカー遺伝子の違いは、疑いもなく、地理的に隔絶していた初期の人類史における遺伝的浮動か自然選択を介して進化したものである。

 しかし、人口集団における行動・生理機能・心理状態やその他の非身体的な属性は、議論にすら挙がらない。それらを研究するべきではないというだけではなく(そのような研究は差別的な社会的結果をもたらす可能性があるから、と言うことはできるだろう)、とにかく "集団間の遺伝的な差異は存在しない" ということになっているのだ。人間集団間には行動の遺伝的な差異がある可能性を "示唆した" だけの人々が、文化人類学者たちから「レイシスト」だと呼ばれるのを聞いたことすらある(文化人類学は、イデオロギーに動機付けられた学者たちが蔓延している分野の中でも特に最悪な分野の一つだ)。あなたはこの論点について議論することはできるが、たった一つの立場しか認められない。

 私自身の主張は、人類の下位グループの分離はあまりにも最近に起こったことであるので、 "身体的な" 差異が進化するには明らかに充分な時間だったとしても、それよりも広大な遺伝的差異が進化するほどの時間はなかっただろう、というものである。それに、人間における混血は移動能力の高まりによって促進されたが、混血は全ての種類の遺伝的差異を削減する方向にはたらくことは明白だ。しかし、明らかな身体的差異を除けば全ての種類の特徴は集団間で完全に均等に存在している、と言い張るべきではないだろう。

 

「性別」の話となると、また別の問題である。ヒト科の系統において、オスとメスは600万年にわたって(協力的にも敵対的にも)共進化してきたのだ…男性と女性との間の形態的な差異が明らかに進化してきたのと同じように、行動・欲求・思考パターンやその他の差異が進化するのにも充分な時間である。性別間に思考と行動との遺伝的な差異は存在するのか? 少なくとも性欲(sexuality)や性的な行動に関連した特徴については、差異は存在すると私は思っている。動物たちには、ハエから哺乳類まで、性的な行動についての一貫した(ただし、普遍的ではない)差異のパターンがオスとメスとの間に存在している…その差異は性淘汰によって説明できる。だから、同様のパターンはヒト科の系統でも進化してきたはずだ。なんといっても、男性は女性よりも大きくて強いのであり、そのことは何らかの方法で説明されなければならない。おそらく性淘汰に基づいた行動の進化的な差異という説明をせずに、どうやってそれを説明できるのだろうか?

 しかし、男性と女性には行動に進化的・遺伝的な差異があるという考えはリベラルなアカデミアでは忌み嫌われているし、人口間に差異があるという考えも同じ理由で忌み嫌われている。発想が進んで、そのような差異は人種差別や性差別を支持するはずだ、ということになってしまうのだ。だが、もちろん、そんな発想は間違っている。進化的な差異が存在することを受け入れたからといって、それを社会政策に結び付けないことは可能である。それに、私を含めた多くの進化生物学者たちが興味を持っているのは、集団や性別が分岐経路を辿って進化していった範囲を知ることである*1

 それでも、フェミニスト・リベラル・社会学者、そして文化人類学者たちは、人種間や性別間の差異の存在を "すべて" 否認する。もちろん、身体の大きさや強さや構造という点では、男性と女性は異なっている。しかし、彼女らに言わせると、脳や行動には性別間の差異は存在しない。身体以外の全ての特徴について男性と女性は等しいと言うのだ。そして、男性と女性は興味も才能も等しいはずなのに、なにかの職業の男女比が50%ずつではないとすれば、その理由はただ一つ、文化的な圧力 …つまり性差別が理由で "なければならない" 。つまり、職業における男女比の不均等は性差別の"自明な (prima facie)" 証拠であるのだ。だが、先日に私が紹介したジョナサン・ハイトによる講義動画のなかで言及されているように(素晴らしい動画なので是非とも見てほしい!)、職業における男女比の不均等にどのような対策を行うかを決定するためには、その前にまず第一に原因を特定しなければならないのだ*2

 何にせよ、人文学では…特にイデオロギーに偏り過ぎているために科学ではなく(いい加減な)人文学と見なさなければならない文化人類学では…、(訳注:人種間や性別間の差異を否定する)これらの意見は経験的な実証を欠いているために本質的に宗教的であるのみならず、その論じ方は神学的ですらある。著者たちはまず自分が証明したがっていることを仮定して、その仮説を支持するデータを収集する前に主張を進めてしまうのだ。確証バイアスに満たされている。それは神学者が行うことであって、科学者が行うことではないのだ。

 

 本日私が紹介するのは、ストックホルム大学社会学部の准教授であり副学部長であるシャーロット・スターン(Charlotta Stern)による論文だ(論文はここから無料ダウンロードできる)*3*4。スターンは勇敢な人物である。彼女の論文は、性別によって差異のある行動を説明する際に生物的な要素を考慮することを拒否してしまう社会学者たちを白日の下に晒しているのだ。彼女自身が言っているように、スターンは手加減をしない。

 

本調査では、ストックホルム大学の社会学者としての長きに渡る経験が参考になっている。私の教育活動と研究活動ではジェンダーの問題に触れることが多い。ジェンダー社会学やそれに関連した論題について審理する論文審査委員会の委員を5回は務めてきたし、ジェンダー社会学に触れるセミナーにも何十回も参加してきた。私と同僚や学生との関係は熱いものではない。神聖視された信念に疑問を呈するような考えを主張するときにも、私はさりげなくにしか行わないようにしている。男性と女性との間の数学の能力には差異があるという可能性や、男性と女性は異なる選好や動機を持っているという可能性を私や他の人が示唆したときに人々はどのように反応したか、ということを目の当たりにしてきた。私の経験からすると、才能や動機の生得的な差異という主張に、ジェンダー社会学者たちは難色を示す。私は、ジェンダー社会学者たちの間に根深く蔓延しているタブーと狭量さに気が付いている。そのことは私を悲しませる。自分の懸念を表明して他の人にも伝えなければならないと思っているし、この論文で示されているような神聖視された信念や主張にはまり込んでしまう前に、学生たちやその他の人々が私の懸念を聞いてくれることを期待している。

 

 スターンの調査方法はシンプルであるし、やや主観的でもある。スターンは社会学のジャーナルの中から被引用数が高い23件の論文を選んで調査しており、いずれの論文も、1987年にキャンデス・ウエスト(Candace West)とドン・ジンマーマン(Don Zimmerman)が発表したジェンダー社会学の古典的な論文 "Doing gender(ジェンダーを実践する)" を引用している("Doing Gender"の論文の無料リンクはこちら)*5

 ウエストとジンマーマンは、男性と女性との間の非-身体的で行動的な差異は生殖器に基づいて "構築された" ものであると結論付けて(あるいは、論じる前から決めつけて)、人生で私たちが目にする差異とは全て社会化の結果であると論じた。スターンは以下のように書いている。

 

"ジェンダーを実践すること" とは社会コントロールの嘆かわしいシステムの一部である、と表現されている。論文の最後の段落は以下のように描かれている

 

ジェンダーは強力なイデオロギー装置であり、性別のカテゴリーに基づいた選択と限定を生産して再生産して正当化する。社会状況においてジェンダーはいかに生産されているかということを理解することは、ジェンダーを維持する社会構造と社会コンロール過程との相互作用的な土台を解明することにつながるであろう」

 

 スターンが審査した23件の社会学の論文は、影響力のある論文 "Doing Gender" を引用した論文の中でも2004年から2014年の間に発表されたものの内から特によく引用されている論文を各年から2本ずつ選んできたものである。スターンはスプレッドシートを作成し、男性と女性との間の生物学的差異という仮説を真剣な可能性として受け止めているか否かという点から、それぞれの論文にコードを付けた。彼女が行ったクラス分けは以下の通りである。

 

・Neutral (中立) :ジェンダーの差異について議論はされているが、生物学的な根拠については議論されておらず、生物学的な根拠の否定もされていない。(4記事)

 

・Blinkered (視野狭窄):スターンによると、生物学的差異という仮説はこれらの論文で論じられている内容と関係があるのにも関わらず、無視されているか、棄却されて相手にされていない。(15記事)

 

・Unblinkered(視野狭窄ではない):子どもと過ごす時間、教育のための貯金やその他の「家庭的なプロセス」などの物事における性別間の差異を生物学で説明できる可能性を考慮した論文を、スターンはたった一つしか見つけられなかった。彼女によると、この論文は「因果関係についての繊細な議論」を含んでいた。

 

・Not rated(レート対象外):これらの論文は「明らかに生物学的な差異が関係している、という問題を扱っていない」(4記事)

 

 以下が、スターンが作成した論文のリストとレート表だ。

  

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 もちろん、スターンの手法や評価が妥当であるかどうかについて議論を行うことはできるだろう。しかし、(最も明白な身体的差異を除いた)人口間や性別間の測定可能な差異には何らかの生物学的な根拠がある、ということを示唆するのが大半のアカデミアではタブーになっていることは、分析をするまでもなく明らかだ。だが、学問にタブーは存在するべきではないのだ。ある論題(例:「ユダヤ人は遺伝的に欲張りなのか?」)について研究することの賢明さについて議論することはできるだろうが、何かについて研究もする前からそれを真実であると想定することは行うべきではない。そして、ジョナサン・ハイトが注意しているように、問題であると思われている差異(例えば、数学における女性の少なさ)についての経験的な原因を理解しなければ、その問題に対処することもできないのだ。

 

 スターンの結論は落ち着いたものである。

 

私の調査から定量的な推計を引き出すことはできないが、この調査の結果は、重要な科学的試みから自分たちの神聖化された信念を隔絶した下位分野としてのジェンダー社会学のイメージと一致している。

ジェンダー社会学の狭量さに関して、私には豊富な直接的経験がある。しかし、ジェンダー社会学の中で反論が広まっていることも知っているし、キャサリン・ハキムのように異端的な考え方をする学者に触れた学生たちが「なるほど!」となる光景も目にしてきた。改善を行うことはできる、と私は信じている。人々は "ジェンダーを実践する" ことを控えるべきであるのか、また人々はどのように "ジェンダーを実践する" べきなのか、という論題は、個人的な省察・学問的な探求・公共的な議論のいずれにとっても価値のある論題である。私が思うに、研究や議論の結果をより確かなものにするためには、人々は狭量さを減らして研究や議論を行うべきなのだ。

 

 

 

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「"権利"について語るのはもう止めよう」by ジェリー・コイン

Let’s stop talking about “rights”, or at least don’t assert them as unquestionable givens « Why Evolution Is True

 

 今朝にアップした記事に引き続き、進化生物学者であり無神論者であるジェリー・コイン(Jerry Coyne)のブログから記事を紹介。コインは哲学を専門にしている訳ではないが、倫理学道徳心理学に関するブログ記事を他にも書いており、どの記事もなかなか興味深いと思う*1

 

「"権利"について語るのはもう止めよう、あるいは、せめて"権利"とは私たちに与えられた疑問の余地がないものであると主張することはもう止めよう」 by ジェリー・コイン

 

 さて、自分が哲学者であるという信用を固めたところで、"権利(rights)"について話をさせていただこう*2。下に投稿した動画に触発されたおかげで、いくつかの考えが頭に浮かんできたのだ。

 

 人間や動物に適用されるものとしての「権利」という単語の意味は、二つの方法で解釈することができる。

 

 a. 社会が私たちの望むように機能することを助ける、社会的・政治的・法律的な慣習(conventions)。全ての人が持つ、法の下で平等に扱われる "権利"とは、このような慣習の一つである。

  b.義務論的な哲学的原則または神の指令からもたらされるとされている、人間が持つ "疑問の余地のない(unquestionable)"所有物(property, 特性)。 

 

 このブログの読者には、権利は神に由来すると信じている人は少ないだろう(もっとも、以下に出てくる人のように、多くの信者は権利は神に由来すると信じているが)。だが、私たちの多くが、権利とは人間に先天的に内在している(innate)徳目や特権であると考えている…権利とは疑ってはならないものであると考えているのだ。私は、権利という問題について別の観点から考えてみたいと思う。

  私は"a"の意味での"権利"には確かに同意するが、"b"の意味には同意しない。なぜなら、根本的には、"b"の意味での"権利"とは答えを必要とする疑問を更に呼び寄せるものであるに過ぎないからだ。全ての人々、性別、人種は"なぜ"平等に扱われなければならないのか?女性は妊娠をしている時にも自分の身体をコントロールする"権利"を"なぜ"持っているのか?"なぜ"全ての人々は医療や清潔な水を得る権利を持っているのか?私は"a"の意味ではこれらの"権利"に同意する。円満な社会や世界にとってこれらの権利は必要不可欠であるからだ。しかし、これらは"権利"であると言い張るだけの行為は、更なる分析を閉ざしてしまって議論を停止させてしまうものである。

 実際的には、例えば中絶や同性婚などの物事について、人々がそれらを"権利"だと呼ぶことに理由はあるのだが、そのことは更なる熟慮や正当化を行うことを要求するのである。私の考えによると、それらの権利は帰結主義的な道徳からもたらされるものだ。同性婚は社会にとって(そして、もちろん同性愛者にとって)良いことであるから、私たちは同性愛者が結婚することを認めるべきだし、結婚に付随する特権を同性愛者が異性愛者と同様に行使することも認めるべきだ。"b"の意味での"権利"を主張するということは、なぜその"権利"が存在するのかという理由についての議論を先回りして潰そうとすることである。

 私としては、"権利"について語るのを我々が止めてしまうことを望んでいる。もちろん、そんなことは起こらないのだが。しかし、"権利"について語り続けるとしても、権利とは"社会的な選好(social preferences)"が法律や行動に成文化されたものであることを明確にするべきだし、権利とは"理由(reasons)"があって存在しているものであるということを明確にするべきだ。このことは、権利とは議論に開かれたものであるということを意味するし、勿論、社会が変化するにつれて"権利"も変化するのである。現在の私たちは幇助自殺を行う権利を持っている(あるいは、そうであると私は感じている)が、その権利とは社会的な習慣における機会を反映したものである*3。私としては、"rights(権利)"ではなく"right(正しい)"という言葉を使いたい。「同性愛者が結婚することを認めることは正しいことだ」や「病状が末期的な人が自分自身の生命を終わらせることを認めることは正しいことだ」という風に。このような考え方は、なぜそれらのことが"正しい"のかということについて私たちが議論を行うことを認めてくれるし、建設的な対話を行う可能性や私たち自身が抱いている信念を問い直す可能性を導いてくれる。

 

 上述したことは、以下に掲載した動画「理性の終焉:新無神論者への応答」を見ている間に考えていたことだ。この動画は、著作家でありキリスト教の弁証家でもあるラヴィ・ザカリアス(Ravi Zacharias)による42分の講演を撮影したものだ(10分だとしても聴くに耐えないものだが!)*4。講演の内容は、2008年にザカリアスが出版した著書『理性の終焉:新無神論者への応答』から抽出されたものである*5

 ザカリアスの動画からは、権利と道徳は神によってのみ与えられるものであるという考えを確認することができる。 YouTubeに載っている説明文は以下のとおりだ。

 

ラヴィ・ザカリアスは、リチャード・ドーキンス(『神は妄想である』)、サム・ハリス(『キリスト教国への手紙』)、クリストファー・ヒッチェンズ(『神は偉大ではない』)、そしてダニエル・デネット(『解明される宗教 進化論的アプローチ』)などの新無神論者へ応答する。この動画は、2012年の「キリスト教の批判者と戦う」会議の一部を撮影したものである。

 

 ザカリアスが講演で行っている主張とは…おそらく著書で行っている主張と同一なのだろうが(私は読んでいない)…私たちが"共有している価値(shared values)"である人生の意味と目的を破壊するので無神論は悪である、というものだ。そして、その共有された価値とはどこからやって来たものなのか?それらは「全ての人間の心と良心に植えつけられた神聖な命令」であり…すなわち、神に由来するものである。以前までは、そのような価値を私たちの"全員"が共有していて、共有された価値が社会の土台を成り立たせていた、とザカリアスは主張する。しかし、新無神論者は社会の土台を削り取っているのであり、共有された価値を疑問の余地のあるもの(questionable)にしようとしており、疑問を呈しているのであり、そして、共有された価値の一部は疑問に耐えられないものなのである。ザカリアスによると、我々新無神論者は「共有された意味」に対して分裂を起こさせる有害な文化的革命を作り出してしまったのだ。

 イスラム教は同じ意味や価値を共有しない、と論じなければならない時にザカリアスが行う宗教に関するダブルスタンダードを見るのは愉快なことである(結局のところ、ザカリアスはキリスト教が真の信仰であると正当化しようとしているのだ)。なんといっても、イスラム教徒たちも自分たちの道徳と価値は神からもたらされたものであると主張しているのだから。なぜイスラム教徒たちが間違っているかということについて、ザカリアスは愉快な主張を行っている。その議論は動画の15分から見ることができるが、ネタバレを書くのは止めておこうではないか。

 ザカリアスが行っているように、人々が「神や何らかの普遍的な道徳的絶対物(ほとんど神と同じようなものである)に基づいた権利」を主張する時、彼らは悪い行為を行っている。なぜ私たちは人々を他の別の方法ではなく特定の方法で取り扱わなければならないのか、ということについて私たちが疑問を呈することを妨害しようとしているのだ。確かに、人間には奴隷にならない"権利"があることや理由もなく投獄されない"権利"があるということは確定している。だが、それらの"権利"には"理由"が存在するのであり、私たちはそのことを覚えておかなければならない。

「聾者がアクセスできなくて不平等」という理由で、カリフォルニア大学バークレー校の無料公開オンライン講義が中止されるかも、という記事

 

 タイトルに書かれている事態について、生物学者のジェリー・コインがブログで書いていた短い記事を紹介。

 今回の事態についてはこちらの記事などでも紹介されている*1

 

UC Berkeley cancels free online courses because they weren’t accessible to the deaf « Why Evolution Is True

 

「聾者がアクセスできなかったという理由で、カリフォルニア大学バークレー校が無料のオンライン講義を中止する」 by ジェリー・コイン

 

 

 これは嫌な事態だし、どうすればいいのか私にはわからない。しかし、この事態に関係する人たち全員が敗者になっているということは明らかだ。

 

 何が起こったかというと…カリフォルニア大学バークレー校は、学生向けの無料大規模公開オンライン講義(Massive Open Online Courses, MOOCs)を提供している。資金や移動力の問題のために学校に通うことができない人にとってはまさにボーナスだ。問題なのは、抗議を受けた司法省が判断したように、大半の講義には聾者向けの字幕や手話が用意されていなかったことだ。以下は「市民権の教育と促進センター」のサイトからの引用である*2

 

司法省はバークレーのオンラインページを通じてMOOCsをレビューし、一部のビデオには字幕が無かったこと、ドキュメントがスクリーンリーダー(画面読み上げソフト)を使う人向けに作成されていなかったこと、その他の問題があると判断した。司法省はYouTubeに掲載された講義をサンプリングして、それらの動画には数々の障壁があることを発見した。例えば、不正確であり不完全な自動再生字幕、講義の内容についての視覚に依らない説明が用意されていない、また、視力障害者向けの適切なコントラスト調整がされていない、などの障壁が発見された。また、司法省はiTunes Uに掲載された講義をサンプリングし、サンプルされた動画のいずれにも字幕がなかったこと、動画に含まれている視覚情報が他の形式で代替して提供されてもいなかったことを発見した。

司法省は、バークレーアクセシビリティの基準の違反していると結論した。特に、バークレーは「聴覚や視覚、または手先に障害のある人たちにも効果的なコミュニケーションを保証するアクセス方法が必要であるのに、大半のオンライン講義でそのようなアクセス方法を提供していなかったために(訳注:米国障害者法の)第二章に違反している。加えて、バークレーのオンライン講義の運営方法は、障害のある人たちにもオンライン講義を利用するための平等な機会が得られることを保証していない」ことを、司法省は発見した。これらの発見に加えて、バークレーが将来的にアクセシビリティを保証するために実施しなければならない6つの改善策を掲載したリストを、司法省は発表した。

 

  司法省の発表はここから見ることができる*3バークレーによる応答を見ると、司法省の要求を満たす方法を見つけるまで(そもそも見つけることが可能であったとしての話だが)、オンライン講義は中止されるようだ*4

 これは、誰もが勝者とならない「ピュロスの勝利」と呼ばれる事態だ。聾者たちやその他の人たちがオンライン講義へのアクセスを得る訳ではない(オンライン講義を修正するためのリソースをバークレーが発見しない限りでだが、オンライン講義は無料であるということを忘れないでほしい)。そして、バークレーのオンライン講義やその他の同様の講義が単に消滅してしまう、という可能性も十分にあるのだ。それは良いことなのか?

 私が思うに、この問題の良い側面とは、聴覚障害者たちが必要としていることについて私たちに注意を促したということだ(盲者については、私たちはまだ考慮すらもしていないのだ)。リソースがあるなら、全ての人が講義にアクセスできるようにするべきなのだ。

 しかし、もしリソースが不足しているためにオンライン講義を修正できないとすれば、どのような解決策があるだろう?私にはわからない。だが、全てのオンライン講義をしばらく中止するとは、粗悪な解決策であるように思える。