道徳的動物日記

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「功利主義:5人を救うために1人を殺すことは道徳的か?」 by フランク・S・ロビンソン

 

Utilitarianism: Is Killing One to Save Five Moral? | The Rational Optimist

 

 

 今回紹介するのは、フランク・S・ロビンソン(Frank S Robinson)という人のブログに掲載された、ジョシュア・グリーンの『モラル・トライブズ - 共存の道徳哲学へ』の書評的な記事。功利主義の考え方の説明やよくある誤解・反論に対する再反論が短くまとめられていると思うので紹介することにした。

 

 

功利主義:5人を救うために1人を殺すことは道徳的か?」

 

 あなたは暴走したトロッコが5人の人間にぶつかって殺してしまいそうになっている状況に出くわした。あなたがスイッチを押せば、1人の人間しか殺されずに済む線路へとトロッコの進路を変えることができる。あなたはスイッチを押すべきだろうか?大半の人は、イエスと答える。しかし…あなたが橋の上にいて、1人の太った男を橋の上からトロッコの進路へと突き落としたら5人の命を救うことができる、と仮定してみよう。あなたは太った男を突き落とすべきだろうか?大半の人は、ノーと答える。あるいは…あなたは医者で、5人の患者がそれぞれ異なる臓器の病気のために死にそうになっている、と仮定しよう。あなたは道端から誰か一人を捕まえてきて彼の臓器を収集して5人の患者を助けるべきだろうか?これらの3つの事例は、道徳的に同一の問題ではないだろうか?

 私たちの脳による道徳的な直感は、3つの事例をそれぞれ違ったものとして扱う。橋の上から男を突き落とすことやある人の臓器を収集することは、直接的な暴力に対する倫理的タブーに違反しているように感じられるのだ(このことは、人間には暴力的な傾向がある、という一般的な考え方を否定するものだ。皮肉なことに、人間が暴力的であると信じる人たちは、彼ら自身に備わった反-暴力モジュールが高度に設定されているからこそそう信じているのかもしれない)。しかし、スイッチを押すという間接的な行為は、直接的な暴力に対する倫理的タブーに違反しているようには感じられないのだ*1

 ジョシュア・グリーンの著書 Moral Tribes(邦題:『モラル・トライブズ-共存の道徳哲学へ』)の中心となっているのはこのような問題だ*2。私たちの道徳的な直感は進化を通じて獲得されたものであり、構成員が密接に結びついた部族社会のなかで私たちの祖先が協力や生存をすることができるように適応したものだ。だから、私たちに備わっている道徳に関する反射的な反応は、道徳的なジレンマが「私」対「私たち」という形のものとなる傾向がある部族社会の中では上手く機能する。しかし、祖先たちの部族社会は他の部族社会と競合していたために、「私たち」対「彼ら」という事態になると問題は別である。そして、異なる部族は、道徳的な問題についても異なる見方をするかもしれない。これこそが、グリーンが真剣に考慮している問題だ。

 グリーンは、功利主義の一つのバージョンを主張している(グリーン自身は「深遠な実用主義」と呼んでいるものだ)。現在では、哲学界隈で功利主義は悪い評判を得てしまっている。「最大多数の最大幸福」という功利主義の規範は、その他の道徳的に考慮されるべき事柄を排除してしまっている、と見なされているのだ。例えば、トロッコや医者の事例は、犠牲にされた人間の権利を侵害しているし、人は常に目的として扱われるべきであり決して手段として扱われるべきではないというカントの格言にも違反している。

 グリーンの議論は、鍵となる問題だと彼が見なす問題から始まる…「本当に問題となるのは何なのか?(what really matters?)」(これは私が著書 The Case for Rational Optimism(合理的楽観主義の擁護)で行っているのと同じ議論だ)*3。様々な「善(goods)」を全て集めて並べたとしても、それらの「善」を分析してみれば、実際には「善」とは一つのものであることが判明する。感覚(feeling, 感情)を経験することのできる存在が持つ感覚であり、一言で言うなら「幸福」のことなのだ。

「幸福」を明確に定義しようとすれば、それが曖昧な概念であることがわかるだろう。幸福とは、誰かが幸せであるという「感覚」のことなのか?これは循環論法だし、単純過ぎる。満足した豚であることよりも不満足なソクラテスである方が良い、というジョン・スチュアート・ミルの言葉も有名だ。

 しかし、いずれの場合でも、感覚ある存在の持つ感覚だけが最終的には問題となるのだ。それぞれ名前の付いた他の価値は、全て、感覚に影響を与える場合に限って意味を持つ。そして、道徳哲学の(唯一の目標でないとすれば)最高の目標とは、良い感覚(または幸福、快楽、快感)の最大化と悪い感覚(痛みと苦しみ)の最小化であるべきだ。  

 功利主義は富(wealth)の最大化を目指すものだ、というのはよくある誤解の一つである。他の全ての条件が等しければ、より多くの富はより多くの幸福をもたらす。しかし、他の全ての条件が等しいということは有り得ないし、幸福と苦痛の対立という問題はずっと複雑なものだ。ある乞食たちはある富豪たちよりも幸福である。功利主義が目標とする「功利(utility, 効用)」とは富ではない。金銭とは目的のための手段でしかなく、そしてその目的とは感覚である。   

 これこそが「最大多数の最高幸福」の意味するところだ。功利主義創始者である思想家ジェレミーベンサムは、全ての感覚経験(experience)の価値を点数付けることを想像していた。これは文字通りの意味ではないが、しかし、もし良い感覚と悪い感覚とを数値化できたとすれば、点数が高ければ高いほどより多くの「功利」が達成されることになり、世の中がより良くなるということになる。

 

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 それでも、功利主義はトロッコや臓器手術の仮定に対する問題含みの回答…5人を救うために1人を殺すという回答をしてしまうのではないか?だが、実際には、5人を救うために1人を殺すという回答は功利主義のテストに落第する。自分の臓器が非自発的に他人から収集される可能性のあるような社会に暮らしたいと思う人間は存在しないからだ(このモンティ・パイソンのコントを見てみればいい*4)。命が救われた人の立場からすれば功利主義的に見えるかもしれないが、他の人にとっては非常に非・功利主義的である。誰かがトロッコ問題のように奇妙な仮定を作り上げたとしても、現実の世界はトロッコ問題のようには動かない。現実の世界では、例えば90%の人口が10%の人口を奴隷にするような方法では(これも反功利主義的な仮説の典型的なものだ)、「功利」は最大化されないのだ

 功利主義は、それぞれの状況や事態に制限される中で、狭量な「功利」計算を行うことを要求しない。そうではなく、大局的な視点を持て、ということを功利主義は私たちに教えるのだ。本当に問題となるのは感覚であること、全体的(grobally, 世界的)に感覚を良くするものは善であること、感覚を悪くするものは悪であること。グリーンが示すように、功利主義は異なる「部族」間での道徳的なジレンマについて評価するための「共通通貨」やフィルターを提供してくれる。  

 さて、ある人物Xが、より大きな善だとXが思う物事のためにX自身を犠牲にすることには問題がない。しかし、より大きな善だとXが思う物事のために別の人物Yを犠牲にすることは、全くもって大問題だ。それは地獄へと続く道だし、私たちはあまりにも多くの社会がこの道を通ってしまったことを知っている。 

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 だから、現実の世界に生きる本物の功利主義者は、他の人にとって善であると思われる物事のために人々が搾取されることを防ぐために、不可侵の人権という種類の概念を取り入れる。…なぜなら、不可侵の人権という概念は、幸福・快楽・人間の繁栄を最大化するのであり、痛みと苦しみを最小化するからである。

 

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「我々はいかに道徳的であるべきか?」 (道徳と直感の関係について) by ジェリー・コイン - 道徳的動物日記

道徳に関する意思決定と感情の関係について、心理学者兼哲学者のジョシュア・グリーンへのインタビュー - 道徳的動物日記

 

 

*1:ロッコ問題は道徳哲学の領域の中で大きく取り上げられている。他の観点については、The Economistの記事を参照

www.economist.com 

※トロッコ問題について外国語で考えることを求められると、人はより理性的になって功利主義的な判断を下すことが多くなる、という実験などについての記事

*2:

 

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)

 

 

*3:

 

The Case for Rational Optimism

The Case for Rational Optimism

 

 

*4:


Organ Donor - Monty Python's The Meaning of Life

ポリティカル・コレクトネスの問題点を指摘した記事の雑なまとめ

jbpress.ismedia.jp

 

 当ブログでは、ポリティカル・コレクトネスについて批判的であったりポリティカル・コレクトネスの問題点を指摘した英語記事をいくつか訳してきた。上記記事と上記記事に付いたコメントを見て思ったのが、ポリティカル・コレクトネスに対しては具体的にはどのような批判がなされているかということはまだあまり知られていないようなので、私が今まで訳してきた記事を紹介していこう。ついでに、まだ訳されていないが有意義な英語記事へのリンクも貼っておく。

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 ↑ 憲法学者のグレッグ・ルキアノフと社会心理学者のジョナサン・ハイトによる「アメリカン・マインドの甘やかし:トリガー警告はいかにキャンパスの精神的健康を傷付けいるか」は昨年の9月に書かれた記事で、英語圏ではこの記事をきっかけにポリティカル・コレクトネス批判に勢いが付いた感もある。

「トリガー警告」や「マイクロアグレッション」などの単語に象徴されるような、近年の大学で過熱する学生たちによるPCへの要求には、認知行動療法で分析されているような「認知の歪み」が背景にある、と分析している記事である。そして、学生たちのPCへの要求を受け入れることは批判的思考を教育する場である大学の本分に反する行為であり、学びや成長の機会を奪われ「認知の歪み」を修正する機会を与えられない学生たち自身にとっても害である、ということを主張している記事。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 ↑ 社会学者が「マイクロアグレッション」という概念の問題点についてによって書いた論文をジョナサン・ハイトが要約しながら紹介する、という記事。「マイクロアグレッション」というのは、悪意によって発せられたものではない些細な言葉でも偏見などが含まれていて聴く側にとっては差別的な言葉に感じられて危害を受ける、というような概念だが、「マイクロアグレッション」という概念を利用することで他人を「加害者」だと糾弾して自分たちは「被害者」だという社会的地位を得ようとする人たちがいるという現象が見受けられる、みたいなことを分析した記事。

 

davitrice.hatenadiary.jp

www.patheos.com

 

 ↑ これらの記事の著者のジョージ・ヤンシーはアフリカ系アメリカ人社会学者で、アメリカ社会におけるキリスト教徒に対する差別を研究している人。大学内でポリティカル・コレクトネスが強まることは左派的なイデオロギーを持っている人や人種的マイノリティなどにとっては心地よいが、保守的なイデオロギーを持っている人やキリスト教徒にとっては抑圧的な効果をもたらす、ということを指摘している。

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

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togetter.com

 

 ↑ 元イスラム教徒で無神論者でフェミニストのマリアム・ナマジエという人がロンドン大学で講演を行ったのだが、その講演がイスラム教徒の学生によって妨害されて、さらにロンドン大学内のフェミニスト団体もナマジエが講演を行うことを非難した、という事件に関連する諸々の記事。フェミニスト団体がフェミニズムリベラリズムよりも反植民地主義・反西洋などのポリティカルコレクトネスなイデオロギーを優先してリベラルなフェミニストを攻撃した、という皮肉な事件である。

 

 

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 ↑ いずれも、ポリティカル・コレクトネスやフェミニズムなどの左派的なイデオロギーがいかに学問の内容を歪めるか、学問の本分である真実の追求が軽視されるか、という問題点について論じた記事。

 

 

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 ↑ 文化人類学イデオロギー的になっていることを指摘した記事。

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

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 ↑ 文章が活動家っぽくて読みづらいのだが、性犯罪や性的暴行の容疑者に対してフェミニストや左派の集団は推定無罪を無視して私刑を行いたがる、という問題点を指摘した記事。また、その記事を書いたために著者が学生に糾弾された事件についての記事。

 

 

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www.washingtonpost.com

 

 ↑ ポリティカル・コレクトネスやフェミニズムが反西洋主義と結びついてユダヤ人に対する人種差別的な陰謀論を主張するようになる、という問題点を指摘した記事。 

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

 

www.thedailybeast.com

 

 ↑ 白人の警官による黒人の射殺事件が相次いだことからそれに対する抗議運動であるBlack Lives Matter運動が起こった訳だが、「黒人の射殺は人種差別が原因だ」という主張に統計的な面から疑問を呈する記事と、Black Lives Matter運動の問題点を指摘した記事。

 

www.thedailybeast.com

 

www.spiked-online.com

 

 ↑ 白人がブリトーを食べたりジャズを聴いたり中華料理を食べたり着物を着たり中東料理を食べたりヨガをしたりすることは、マイノリティの"文化に対する簒奪(Cultural Appropriation)"と批判されるのだが、その"文化に対する簒奪"という概念を批判する記事。


 

www.theguardian.com

heterodoxacademy.org

www.psychologytoday.com

 

 ↑ 心理学者のニック・ハスラムが最近の論文で主張した「Concept Creep」という概念に関連する記事。「Concept Creep」とは、心理学における「いじめ」「偏見」「トラウマ」や「マイクロアグレッション」などの概念が、当初は限定されていて客観的であった定義がより多くの些細な現象に当てはまるように拡大されることを指している。ジョナサン・ハイトは、心理学が他の多くの社会科学と同じように左派の学者ばかりになっているので、心理学の概念も社会正義運動家が論敵を告発して非難するのに便利になるように変化させられた、と分析している。

 

www.wsj.com

 

 ↑ 大学における人種的アファーマティブ・アクションの非有効性や問題点について心理学者のジョナサン・ハイトとリー・ジュシムが論じた記事。

 

 

 

 ………と、雑に紹介していった。後半は話題が逸れていたかもしれないが。

 

 ここで紹介した記事の多くは、大学や学問におけるポリティカル・コレクトネスの問題点を指摘したものである。大学や学問の本分とは、偏見やイデオロギーを排した自由な議論や研究によって真実を追求することなので、ポリティカル・コレクトネスとは相反するという訳である。

 大学とは離れた普段の生活の場や企業などにおけるポリティカル・コレクトネスや、創作表現や映像や広告などにおけるポリティカル・コレクトネスについてはまた違った論点があるだろう。私としては、普段の生活の場や企業などにおけるポリティカル・コレクトネスや創作表現や映像や広告などにおけるポリティカル・コレクトネスについてはあまり否定的な気持ちを抱いていない。

 

「環境運動の不都合な真実」by ジョシュア・ゴールドスティン & スティーブン・ピンカー

www.bostonglobe.com

 

 今回紹介するのは、国際関係学者のジョシュア・ゴールドスティンと心理学者のスティーブン・ピンカーが2015年の11月にBoston Globe誌に掲載した記事*1

 地球温暖化問題を解決するという環境保護運動の目標を否定する記事ではなく、環境保護運動の一部はイデオロギーのために事実を直視することができずに誤った戦略を行ってしまっている、という点を指摘する記事である*2

 

 

「環境運動の不都合な真実」by ジョシュア・ゴールドスティン & スティーブン・ピンカー

 

 

 共和党の議員たちは、票を得るための手頃な方法として気候変動を否定している。「私は科学者ではないが…」という前置きは(訳注:2010年頃の共和党のスローガン的な言葉であった)「石油をどんどん掘れ!(Drill, Baby, Drill)」に代わる言葉となっている*3。しかし、事実を否定することは環境運動の多くにも蔓延している。気候変動が人類にもたらす脅威に世界の目を向けさせたことについては、環境運動家たちは多大な称賛に値している。だが、気候変動という問題はあまりにも巨大であるからこそ、この問題を解決するための計画が断固として必要である。伝統的な環境運動家たちは解決策を提示することよりも自分たちの大義を主張することに気を取られてしまっており、大義を主張をするために環境運動家たち自身もいくつかの不都合な真実を否定してしまっているのだ。

 第一の不都合な真実とは、今のところ化石燃料は人類にとって善いものであるということだ。産業革命は先進国の平均余命を2倍に伸ばして裕福さを20倍にまで増殖させた。発展途上国に工業化が普及するのに伴って、何十億人もの人々が貧困から抜け出しているのだ…より多くの食料が得られて、より長寿で健康に生きられて、より良い教育を得られて、より少ない数の赤ん坊を育てている…安価な化石燃料のおかげで。インドのような貧しい国では、上述したような進歩を促進するために、市民たちは安定性のある電力を望んでいるしそれを提供できない政府を選挙で辞めさせるつもりでもいる。化石燃料を燃やすのは止めろとアメリカの環境運動家たちが世界に向けて言う時には、インド人たちが望んでいて手に入れるべきでもある繁栄をもたらすための代替案を提示する必要があるだろう。

 このことは第二の不都合な真実をもたらす。世界で最も豊富で拡張可能な無炭素エネルギーは原子力である、ということだ。今日の世界では、原子力発電所が建てられないとすれば化石燃料発電所が建てられることになるし、世界の大半では石炭が燃やされることになる。しかし、原子力の使用は停滞しているし、縮小すらもしている。

 原子力は諸々の心理的なスイッチを押してしまうので…毒に対する恐怖、大惨事を想像することの容易さ、慣れ親しんでいない人工物への疑念…化石燃料に比べて理不尽に高い基準が課されてしまう。炭鉱での災害で何十人もの人々が犠牲になったり、深海の原油が流出して海を広大な範囲に汚染したりしても、石炭や石油に関わる産業を閉鎖しようとする人はいない。一方で、2011年に日本の福島原子力発電所で起こった事故は誰も殺さなかったが、ドイツに原子力発電所を閉鎖させてしまった。ドイツでは汚れた石炭が静かに取って代わった。フランスですら…自国の電力の4分の3を原子力で賄っており、また原子力事故が一度も起きたことのない国であるのだが…環境運動家からの圧力のために、多くの原子力発電所を閉鎖することを計画中である。

 今日では原子力は比較的高価であるが、その理由の大部分は、原子力が膨大な規制のハードルを越えなければならないのに比べて化石燃料のハードルは低いからである。最新の第四世代原子炉の配置までには10年かかるが、現在の原子炉が出している廃棄物を燃やすので、より安価で安全に運転されることになるだろう。

 原子力がなければ、温暖化の危機を解決するために必要な電力の数は単純に足りなくなる。太陽光発電風力発電は迅速に成長しているが、それでもまだ電力の総生産量における割合は太陽光は1%で風力は4%であるし、世界における需要を満たす程の速さで生産量を増やすことはできない。さらに、太陽光や風力などのエネルギー源は途切れのある間欠的なものであって、未だに基礎科学の段階であるバッテリー技術が大きく進歩しない限りは、充分に送電することができないであろう。もしこの問題が解決されたとしても、再生可能エネルギーがもたらすであろうと見込まれているエネルギーを三倍に見積もるべきではない。現在の化石燃料による電力を補って、原子力発電を退場させて、天井知らずに増え続ける発展途上国の電力需要を満たす…その全てを再生可能エネルギーで行うことは不可能なのだ。

 この議論は、ジェームズ・ハンセンやステュアート・ブランドなどの現実主義的な環境運動家によって熱心に主張されてきたものである。しかし、グリーンピースやシエラ・クラブなどの最も規模が多くて声も大きい集団は反原子力固執し続けている。

 第三の不都合な真実は、気候変動の問題はイデオロギーを超えなければいけないということだ。この真実を否定するものとしても特に有害であるのは、気候変動に対処するためには不平等・企業の強欲・レイシズム・政治的な腐敗などの積年の社会病理を解決しなければならない、という政治的な左派たちの自惚れである。ナオミ・クラインによる"全てを変える(Change Everything)"キャンペーンは、地球温暖化の問題を左派による諸々の社会運動を前進させるための好機であると見なしている*4。左派による各種の社会運動の目標についてあなたがどのように考えているとしても、そして私たちもその目標の多くには同意しているとはいえ、気候変動がもたらす大惨事を防ぐことの優先順位が他の問題によって誤魔化されるべきではないのだ。

 人々からの指示を得ようとするために、憎むべき敵こそが問題の原因であるという物語も左派は語っている。コーク兄弟、エクソンモービル、そして共和党がこの物語の悪役に抜擢されたがっているようだ*5。だが、もしこれらの悪魔どもが奇跡的に消滅したとしても、もっと良い燃料を見つけるまでは私たちが化石燃料を燃やし続けることに変わりはないのだ。

 では、環境運動家たちは何を求めるべきなのか?第一に、政府は低炭素エネルギー技術を研究して発展させるための計画をアポロ計画並みの労力で実行する必要がある。バッテリー、原子力、液体バイオ燃料、そしてカーボンキャプチャーのための画期的な技術革新が必要とされているのだ。これらの最終的な公共善のために必要とされている資金は膨大であり、民間企業が行うにはリスクが大きすぎて報酬は少なすぎる。だが、政府なら簡単に資金を出すことができるだろう。

 第二に必要なのは炭素税である。個人や企業が大気中に炭素を排出することに課金をするのだ。このような税金は自然保護・脱炭素化・研究開発へのインセンティブを与えるであろうということに、経済学者たちは政治的立場を超えて同意している。特定の産業や製品を規制することよりも遥かに効率的にインセンティブを与えるのだ(産業革命より前の時代の生活スタイルに戻るように人々に説教することが与えるインセンティブについては、言うまでもないだろう)。炭素税がなければ、化石燃料…特に豊富であり、運搬が容易であり、エネルギーが圧縮されている燃料…を使用することには利点が多過ぎるのだ。だが、市民気候ロビー(Citizens' Climate Lobby)による大々的なキャンペーンにも関わらず、本来なら容易であるはずの炭素税という政策は政治家たちにも大衆にも目を向けられていない。

 今日では、気候変動を防ぐための社会運動はあまりにも多くの弾を放ち過ぎている。大臣を辞職させる、禁欲主義を力説する、資本主義を終わらせる、敵を悪魔のように見せる、終末の日を予言する、全てを変える。こんな手当たり次第のキャンペーンには道徳的痛快さがあるのかもしれないが、このようなキャンペーンのいずれも破滅的な気候変動は防げない、という最も不都合な真実を認識することから人々を遠ざけてしまっている。ひとまず運動に"一時停止"ボタンを押して、算数を行ってから、実際に問題を解決することができる政策群の組み合わせを実現するために改めて動き出すべきだろう。 

 

*1:

ピンカーのゴールドスティンのコンビによる記事は以前にも紹介している

2016年4月の世界における戦争と暴力の状況 (ジョシュア・ゴールドスティンとスティーブン・ピンカーの記事) - 道徳的動物日記

*2:ゴールドスティンは著書『Winning War on War』にて、「平和運動は"(経済格差の撤廃、ジェンダーの平等、反グローバリズムなどの)正義が達成されなければ、本当の平和も達成されない"というイデオロギーに結びつくことが多く、戦争反対とは別の論点を運動に持ち込んで"企業や資本主義やグローバリズムが戦争を起こす"などの誤った前提を広めたり、国連の平和維持活動や各国からの人道支援などが実際に平和を達成することに貢献をしているという事実が無視されがちになる」と、この記事で環境運動に指摘しているのと同様の問題を平和運動に指摘している。

 

Winning the War on War: The Decline of Armed Conflict Worldwide

Winning the War on War: The Decline of Armed Conflict Worldwide

 

 

*3:

参考サイト

"DRILL BABY DRILL"・・・今年のナンバーワン・ワード | 人力でGO

Drill, Baby, Drill - YS Journal アメリカからの雑感

*4:

 

This Changes Everything

This Changes Everything

 

 参考サイト

ナオミ・クラインの新刊書。資本主義の害毒 | social-issues.org online community

第29巻 気候vs資本主義 | Democracy Now!

ジョセフ・ヒースのナオミ・クライン批判(セルフまとめ) - Togetterまとめ

*5:コーク兄弟についての参考サイト

コーク(Koch)兄弟についての考察 宮田智之 | 現代アメリカ | 東京財団

「シンシナティ動物園の問題はゴリラを射殺したことではなく、動物園であることそのものだ」 by ローリー・グルーエン

www.washingtonpost.com

 

 今回紹介するのは、倫理学者のローリー・グルーエン(Lori Gruen)がワシントン・ポストに投稿した記事。グルーエンは霊長類保護に関するプロジェクトにも積極的に関わっている人のようであり、最近では動物や人間を監禁状態に置くことに関係する倫理問題を取り上げた論文集『 Ethics of Captivity(監禁の倫理)』を編集している。

 

 

The Ethics of Captivity

The Ethics of Captivity

 

 

 

シンシナティ動物園の問題はゴリラを射殺したことではなく、動物園であることそのものだ」  by ローリー・グルーエン

 

 シンシナティ動物園にて、柵を潜り抜けた4歳の男児がゴリラの囲いの中に落ちてしまい、絶滅危惧種のゴリラであるハランべが射殺された*1。この事件は大きなトラウマを残す出来事だった…男児にとっても、殺されずに済んだゴリラたちにとっても、目撃者たちにとっても、動物園のスタッフにとっても、そして檻に囚われている動物たちの苦境を悩ましく思っている人たちにとっても。このような悲劇が起きると、誰かが責められなければならないと感じてしまうものである。だが、非難の矛先は見当外れの方向を指している。真犯人は動物園そのものなのだ。

 動物保護団体の人々の多くが、ハランべは男児にとって脅威ではなかったと考えている。ゴリラは攻撃的にならない傾向があるし、もしハランべにそのつもりがあったなら200キロ近くの体重があるゴリラはあっという間に男児を傷付けることができたのであり、好奇心旺盛な生き物と10分間も関わっていなかっただろう。だが、動物保護団体の人々は現場にはいなかった。

 動物園のスタッフたちは、ハランべを射殺する前に彼を子供から引き離すための方策を十分に取っていたのだろうか?雌のゴリラを囮で釣って子供から離れさせることができたのに、なぜハランべは引き離せなかったのだろうか?一部の活動家たちは、ハランべの射殺は動物園のスタッフたちが無能で臆病なために起こったのだと主張している。しかし、シンシナティ動物園のスタッフたちや、別の動物園でハランべを幼児の頃から育てていたスタッフたちは、今回の事件に困惑して途方に暮れている。もしかしたら、一部のスタッフは射殺という軽率な手段に反論したのかもしれない。詳細はまだ分からないところだ。

 男児の母親を責めている人々もいる。どうして母親は自分の息子が野生動物たちの囲いの中に落ちるのを放置したのだ?なぜ母親は息子を制御していなかったのか?囲いを潜り抜けるには相当の時間がかかった筈だが、一体どれ程の時間、母親は息子を監督者がいない状態でうろつかせていたのだ?母親を自称する女性がソーシャルメディアに投稿した内容では、ハランべの死に対する自責の念は示されておらず、ただ神を讃えて彼女の息子を救った動物園の当局者への感謝の意が書かれているだけだった

*2。一部の人々は、母親はネグレクトを行っていたと法律的に認定されるべきだと主張しているし、絶滅危惧種の動物を死に至らしめた咎で訴えられるべきだとも主張している。しかし、彼女は子供を動物園に連れてくる何百万人もの母親の一人に過ぎない。この事件は酷い事故だったが、野生動物を眺めることが娯楽であると子供に教えているのは彼女だけではないのだ。

 私にとっては、責めるられべきは誰なのか、ということは問題ではない。そもそも、人間の子供一人の命と絶滅危惧種の動物一体の命との間で選択を下さなければならない、という状況が起こってしまうこと自体が問題なのだ。野生動物を監禁状態に置くことそのものが問題をはらんでいる。私たちが動物園に動物たちを閉じ込めているからこそ、今回のような悲劇的な選択が行われたのだ。

  ヨーロッパの動物園で定期的に行われている "間引き"の慣習に比べると、アメリカの動物園における動物の殺害数は少ない。とはいえ、動物園が死を引き起こす場所であることには変わらない。ハランべの生命は意図的・直接的に終わらせられたが、動物園に居る動物たちの多くは、監禁されていることそのものによって寿命を短くさせられている。シーワールドのクジラたちがその実例を示している。ゾウも、動物園では若いうちに死んでしまう*3。では、なぜ動物園は存在しているのだろうか?

 よく挙げられる理由の一つは、動物園は絶滅危惧種の野生動物を護り保全している、というものだ。生物種保全を行っている動物園は少数であるが…問題のシンシナティ動物園はその少数の中の一つである。生物種保全のための努力は賞賛に値するものであるし、今回の悲劇を受けてシンシナティ動物園がこれまで以上にローランドゴリラの保護に取り組んでくれることを私は望んでいる。ローランドゴリラたちの生息地は、他のあまりにも多くの野生動物たちの生息地と同じように、危機に瀕しているのだ。

 しかし、監禁された動物たちを"自然に帰す"ことはできない。ハランべのように、生まれた時から監禁状態で育てられた大型動物の場合は特にそうである。敏感で、賢く、寿命の長い生き物であるゴリラが、自然の中における自由を味わう機会もなく閉じ込められ続けることを運命付けられている。動物園に居る動物たちとは、せいぜいが、野生に暮らす同種の動物たちを代表するためのシンボルであるのだ。だが、動物園を訪れる客たちを楽しませるために、そのシンボルも歪められている。動物園は、素晴らしい野生動物たちについての私たちの理解を歪めてしまうし、動物たちは人間の目的のために存在しているのだという認識を与えてしまう。

 もし今回の事件について誰かを責めなければいけないとしたら、私たちは自分たちが暮らす社会そのものに目を向けるべきかもしれない。つまり、動物を監禁する制度を支持する社会だ。サンクチュアリという場所で飼われている野生動物たちは、大声をあげている群衆に見られることもなく、自分たち自身のせいではない危険に晒されることもなく生きることができる。もし動物園が今よりもサンクチュアリに近い場所であったならば、誰もハランべを殺すことを選択する必要はなかったであろう。サンクチュアリとは野生動物の幸福が最優先に配慮されている場所であり、動物たちは尊厳を持って扱われている。4歳の男児とその家族たちはIMAXの映画館でゴリラを眺めることもできたのだ。人間たちは好奇心を安全に満たせることができたし、ゴリラたちは尊厳を持って平和に生きることができていただろう。

 

 

 グルーエンに関する、当ブログの過去記事。

 

davitrice.hatenadiary.jp

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「原爆の夏から70周年」 by マイケル・シャーマー(世界的な核兵器廃絶の展望についての議論)

www.scientificamerican.com

 

 今回紹介するのは、マイケル・シャーマー(Michael Shermer)がサイエンティフィック・アメリカン(Scientific American)に掲載した記事「原爆の夏から70周年(The 70th Anniversary of the Summer of The Bomb)」。2015年の8月6日に発表された記事である。

 

「原爆の夏から70周年」 by マイケル・シャーマー

 

 7月16日。8月6日。8月9日。9月2日。70年目の原爆の夏(Summer of the Bomb)が近づいている。ニューメキシコ州の砂漠で原子爆弾「ガジェット」を用いた人類初の核実験が行われた日付、日本の広島市に「リトル・ボーイ」が落とされた日付、長崎市で「ファットマン」が爆発した日付、そして日本が降伏して第二世界大戦が終わった日付だ。

 それぞれの結果は、それまでの人類の歴史で目にされてきたどんなことからもかけ離れていた。 7月16日に行われたトリニティ実験では、TNT20キロトン(18100メートルトン)の爆発力を持ったプルトニウム爆弾が30メートルの鉄塔の頂上に落とされ、12キロメートルの高さのキノコ雲が待機中に巻き起こり(現代の民間機が飛ぶのと同じ高さだ)、トリニタイトと呼ばれる放射能ガラス(溶けた石英が砂と混ざり合った鉱物)で一杯になった76メートル幅のクレーターが残された。爆発の音はテキサスのエル・パソにまで届いた。8月6日に530メートルの高度から投下されて広島で爆発したリトル・ボーイはガンバレル型のウラン235爆弾であり、TNT13キロトンに相当するエネルギーを持っていた。リトル・ボーイは広島市の建物の69パーセントを含んだ爆発範囲を全て更地にしてしまい、推計7万人から8万人の人々を殺害した(更に7万人を負傷せさた)。8月9日に爆発したファットマンは爆縮型プルトニウム爆弾であり、TNT21キロトンの爆発は長崎市の44パーセントを破壊し推計3万5千人から4万人の死者を残し6万人を負傷させた。それ以降も日本が降伏しなかったとすれば、マンハッタン計画の指揮者のレズリー・グローブスは8月19日にまた一つ爆弾を落とす準備が出来ていたし、9月にもう三つ、そして10月に更なる三つの爆弾を落とす準備がされていた。ハリー・トルーマンは「未だかつて地球上で起きたことのない空からの破壊の雨」と日本を脅したが、彼は大袈裟に言っていた訳ではなかったのだ*1。(核兵器の威力と破壊性について理屈抜きの感覚を味わいたいなら、アメリカ公共放送サービス(PBS)のドキュメンタリー『 The Bomb 』を視聴するといい…この題材について私が観た中でも最も優れた映画だ*2。映画を製作したローンウルフメディア社は、それまで未公開であった映像を入試しデジタル技術で改良した。その映像の厳粛さには息を飲まされる。)

 

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(訳注:トリニティ実験を写した唯一のカラー写真、撮影者は実験に参加した科学者のジャック・アビー) 

 

 70年後の現在では、9カ国が核兵器を所有している(アメリカ、イギリス、ロシア、フランス、中国、インド、パキスタンイスラエル、そして北朝鮮)。また、アメリカや他の国々は、イランが10番目の核兵器保有国となることを制するために、低濃縮ウラニウムの生産量の98%と遠心分離機の備蓄数を削減させる暫定合意を結んでいる。70年後の現在も、私たちは核兵器と共に暮らしているのだ。私たちは楽観的になるべきだろうか、それとも悲観的になるべきなのだろうか?楽観的になるのに充分な理由がある、と私は考えている。

 

 第一に、核の抑止力は現在のところ機能している。別の核保有国に対して先制攻撃を始めたとして何か利益を得られる核保有国は存在しないために、相互確実破壊(mutual assured destruction, MAD)という戦略は有効に機能しているのだ。両方の国に報復のための能力が備わっているために、先制攻撃の結果は両方の国(と残りの世界の大半)の徹底的な壊滅となる可能性が最も高い。もちろん、核の抑止力が永続的な解決策になると考えるのは馬鹿げている。失敗した場合の代償はあまりにも高いのだ。西洋を核で壊滅させて世界をカリフ制の時代に戻してやろうと考えている狂信的なイスラム教徒のテロリストや『博士の異常な愛情』に出てくるような偏執狂的な将軍たちは、ハリウッドの脚本家たちが生み出した人物であるとは限らない*3 。だから、私たちはより持続的な解決策を考える必要がある。

 

 第二に、信じようが信じまいが、世界における核兵器の数は減っている。イランや北朝鮮のような国が核による威嚇を行っているのにも関わらず、世界における核兵器保有数の推計値は、最大であった1986年の7万発から今日の1万5700発にまで減少したのだ(私の著書『 The Moral Arc』の66ページにも掲載されている、下記のグラフを参照)。アメリカ科学者連盟の発表によると、アメリカの7200発とロシアの7500発が現在の核の保有数のうち94パーセントを占めている*4。更に希望が湧くのは、現在の世界には操作が可能になっている状態の核弾頭は4100発しか存在しないことである。その大半はロシアの1780発とアメリカの1900発で、フランスの290発とイギリスの150発がそれに続く。世界が粉々に爆破させられてしまう脅威に対しては、1945年以降では現在が最も安全な状態であるのだ。

 

 

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(訳注:縦軸は核保有数、横軸は年号。黒線がアメリカ、点線がロシア、太線が世界全体の核保有の合計を示している。)

 

 第三に、9か国という核保有国の数は世界全体の国々の合計数のたった5パーセントであるという事実が注目に値する。つまり、残りの95パーセントの国々は核が無くてもうまくやっていけているのだ。

 

 第四に、1964年以降、核兵器開発の計画を開始したがその後に中止した国の数は、計画を開始してそのまま完成させた国の数よりも多い。前者には西ドイツ、スイス、スウェーデン、オーストラリア、韓国、台湾、ブラジル、イラクアルジェリアルーマニア南アフリカ、そしてリビアが含まれている。核兵器保有しないことを妥当にする理由は数多くあるが、その一つは核兵器にかかる費用が非常に高いということだ。クレイグ・ネルソンの2014年の著書『The Age of Radiance: The Epic Rise and Dramatic Fall of the Atomic Era(輝きの時代:原子力時代の劇的な興亡の叙事詩)』によると、冷戦時代のアメリカとソビエト連邦は12万5000発の核兵器を製造するために5兆5千億ドルという計り知れないほどの費用をかけており、またアメリカは現在でも核兵器計画のために年に350億ドルを支払い続けている*5

 

 第五に、「核兵器ゼロ」を達成するための重要な努力は現在も進行中である。その中には、ヘンリー・キッシンジャージョージ・シュルツ、サム・ナン、そしてウィリアム・ペリーなどの冷戦を戦った人々によって示された計画も含まれている*6。彼らのような専門家たちやグローバル・ゼロのような組織の多くが、私たちが核兵器ゼロの世界を達成するための様々な方法を提案してきた*7。新書『 The Moral Arc: How Science and Reason Lead Humanity toward Truth, Justice, and Freedom (道徳の弧:科学と理性はいかにして私たちを真実と正義と自由に導くか)』にて、私はこれらの提案を要約しており、私たちの道徳の長い弧において核兵器ゼロがいかに論理的に達成されるかということを示している*8。以下では、私の議論を手短に紹介しよう。

 

 

 1:核兵器保有数の減少の継続。これまでの傾向に従いながら、世界における核兵器保有数を2020年までに1000発にまで減らして、2030年までには100発以下に減らすのだ。100発以下とは、核兵器保有国の間での最小限抑止(相互確実破壊という戦略を調節したもの)を維持するには充分な火力である。そして、もし間違いが起こったり狂人が登場して核戦争になったとしても、文明を全滅させるのには足りない火力でもある。

 

 2:先制攻撃の禁止。すべての「先制攻撃」戦略を国際法で違法とする。核兵器の使用は自衛上の目的でしか認められないようにするのだ。この法律に違反して先制攻撃を行った国があれば、国際的な非難や経済制裁の対象として、核による報復や場合によっては侵略も行いその国の政府を倒壊させて、その国の指導者たちを人道に対する罪で裁判にかけるのである。

 

3:核を保有する大国同士で協定を結ぶ。核兵器保有しているか獲得しようと試みており、核兵器を使用する意思も持っている小国やテロリストに対して、大国同士の同盟は強固な抑止力となるだろう。

 

4:核兵器を「使用すること」のタブーを「保有すること」のタブーへと移行させる。タブーという心理的カニズムは、すべての種類の人間の行動について効率的に抑止させることができる。第二世界大戦で毒ガスが使用されるのを防いだのにも、タブーが有効に働いていた。化学兵器生物兵器に対するタブーの背後にある心理は、核兵器に対するタブーにも容易く移転する。核兵器が引き起こす殺人的な高熱と放射能は、毒ガスや致命的な病気と同様に、それらが引き起こす地獄の中で無差別に人を襲う不可視の殺人者である。人々が核兵器に対して抱く反感は、脳の中で嫌悪感という感情と結び付いているのかもしれない。心理学者たちは、目にすることができない病気の感染・有害な毒物・不快を催す物質(吐瀉物や糞便など)などに関連付けられた感情が嫌悪感であることを確認してきた。…嫌悪感とは、生存にとって危険な物質から遠ざかるように身体に指示するためのものとして進化してきた反応であるのだ。

 

5:経済的相互依存。二国間での貿易が増えれば、その二国が戦う可能性は低くなる。これは完全な相関関係でなく、例外も存在する。しかし、経済的に相互依存し合っている国々の間では、戦争が起きるほどにまで政治的な緊張が悪化する可能性は低くなる。戦争には費用がかかる。経済制裁、通商停止、経済封鎖などはコストがかかるのだ(プーチンがクリミアを侵略したことがロシアの経済にもたらした効果を見ればいい)。そして、戦争が起これば両方の国でビジネスが停滞することになる。良くも悪くも、民主主義の国では政治家たちは金持ちの利益を気にしなければいけない。金持ちは商売にかかるコストが出来る限り低く保たれることを望むが、戦争となると商売のコストは引き上げられるのだ。このようにして、北朝鮮やイランなどの国々が経済貿易に招き入れられたなら、彼らも核兵器保有する大国と共依存することになる。そうすれば、北朝鮮やイランもそもそも核兵器を開発する必要性を感じなくなるだろうし、核兵器を使用する必要性はそれ以上に薄くなるだろう。

 

核兵器ゼロへの最も危険性の低い道」とでも呼べる方法を探求するためのシナリオは何十本もある。イスラエル首相のベンジャミン・ネタニヤフはイランの核兵器開発に対して懸念を抱いているが、イランの前大統領(訳注:マフムード・アフマディネジャド)が「イスラエルは地図から抹消されるべきだ」と発言したことを踏まえると、ネタニヤフの懸念は理解できるものだ。それでも、バラク・オバマ大統領が追求しているような種類の外交政策が主な理由となって、過去20年間において核兵器は劇的に減少しているのだ。北朝鮮が核を保有するのを防げなかったのは確かだが、全体としてはオバマが行っているような戦略は他の選択肢よりも優れたものである。何にせよイランは核兵器保有することになるかもしれないが、イランや北朝鮮経済制裁を行うよりも彼らを世界の国々のコミュニティに仲間入りさせる方が核戦争を予防する可能性は高くなるのだ。

 

 長い目で見れば、私たちは抑止力という罠から抜け出すことが可能である。いまだに脅威が存続していることをふまえると、私たちは核兵器ゼロの世界に向けて早急に行動を開始するべきだ。もしかすれば、原爆の夏の100周年目には世界に原爆はもう存在していないかもしれない。

 

「昆虫に意識はあるか?」 by ピーター・シンガー

 
 
 今回紹介する記事は、Project Syndicateに掲載された倫理学ピーター・シンガーのコラム「Are Insects Conscious?」。

「昆虫に意識はあるか?」 by ピーター・シンガー 

 

 昨年の夏、私が栽培していたルッコラの葉にモンシロチョウが卵を産んだ。まもなく、そのルッコラは葉の緑色に上手く迷彩した青虫だらけとなった。私は他にもルッコラを育てていて、その一部は離れたところにあったのだが、サラダにするには充分な量の葉が既に育っていた。そして殺虫剤も使いたくなかったので、私は青虫たちを放置することにした。すぐに、ルッコラの葉は一つ残らず茎まで食べ尽くされてしまった。もはや食べるものがなくなった青虫たちは蛹になることもできずに飢えて死んでしまった。 

 私が目にしたのは、私が長い間知識としては受け入れてきた物事の縮図だ。進化は非個体的な自然過程であり、進化が生み出した個々の生き物の幸福に進化それ自体は配慮を行わない。世界は全知全能である神によって造られたのであり…全知全能だから世界で起きていることを全て見ているはずだ…そして神は善であり崇拝に価するという信仰と、彼らが目にする実際の世界とを神学者たちはどうやって辻褄を合わせているのだろうかと、私は疑問に思う時がある。 

 人間が苦痛を感じるのはアダムの原罪を私たちの全員が受け継いでる筈だからだ、とキリスト教徒たちは伝統的に論じてきた。だが、青虫はアダムの子孫ではない。この問題へのデカルトの解決策とは、動物が苦痛を感じる能力を持つことを否定する、というものだった。しかし、犬や馬については、デカルトの考えを受け入れられる人はほとんどいないだろう。デカルトが存命していた当時ですら受け入られていなかったのだ。今日では、哺乳類や鳥類についての解剖学・生理学・行動学などの科学的な研究が、デカルトの主張に対する反証となっている。しかし、少なくとも青虫には苦痛を感じる能力はない、という望みを持つことはできるのではないだろうか? 

 以前には、科学者たちは昆虫は中央脳を持たないと説明してきた。脳の代わりにそれぞれ独立した神経節が昆虫の身体の各部位をコントロールしている、と言われてきたのだ。もしその説が正しければ、昆虫に意識があるということは想像するのすら難しくなる。 

 しかし、米国科学アカデミー紀要に最近掲載された論文は上述のモデルを否定している*1マッコーリー大学の認知科学者であるアンドリュー・バロンと哲学者のコリン・クレインは、主観的な経験は私たちが認識している以上に多くの動物たちに普及している…そして、私たちが認識している上に旧くから進化の過程で存在してきた、と論じている。 

 主観的な経験(subjective experiences)とは、意識の最も基本的な形態である。ある生物が主観的な経験をすることが可能であるなら、"その生物である"ことというなにかが存在する…そして、その"なにか"には快適か苦痛な経験をすることが含まれている可能性もある*2。対照的に、自動のロボットカーには衝突を避けるため障害物を感知できる探知機が備わっており、そのような障害物を避けるための行動をとることもできるのだが、"ロボットカーである"ことは存在しない。  

 人間の場合、主観的な経験と高度な意識は区別することができる。高度な意識とは自己意識などであり、大脳皮質の機能を要求するものだ。主観的な経験には大脳皮質ではなく中脳が関わっており、大脳皮質に多大な損傷を受けたとしても主観的な経験は継続することができるのだ。 

 昆虫は中枢神経節を持っており、それは哺乳類にとっての中脳と同様のものだ。中枢神経節は感覚情報の処理、目標を選ぶこと、そして行動を指示することなどに関わっている。また、主観的な経験を持つためのキャパシティを提供する可能性も持つ。 

 昆虫というカテゴリの中には非常に多くの多様な種類の生き物が含まれている。ミツバチは100万個近くの神経細胞を持っているが、人間の新皮質は200億個の神経細胞を持つことや、ゴンドウクジラは370億個の神経細胞を持つことが最近明らかになったのと比べると少ないかもしれない*3。だが、花や水や巣の候補地などについての方角や距離に関する情報を伝達するために有名な「ミツバチのダンス」を踊ったり相手のダンスを理解したりするのには、100万個の神経細胞は充分な数なのである。青虫には、少なくとも人間の知る限り、ミツバチのような能力もない。しかし、飢えることに苦痛を感じることができる程度の意識を青虫が持っている可能性はまだ残っている。
 植物についてはどうなんだ?これは、動物は苦痛を感じるのだから彼らを食べるのはやめようと私が提案する時によく投げかけられる質問である。 植物が驚くべき能力を持っていることはよく主張されるが、適切な実験状況で再現可能な観察結果としては、植物が主観的な経験を持っていることを私たちに認めさせるものは現時点では存在していない。バロンとクレインは、植物は意識を持つことを可能にする機構を持っていないと主張している。同様のことはクラゲや回虫などの単純な動物にも当てはまる。他方で、甲殻類や蜘蛛などは、昆虫と同様に、意識を持つことを可能にする機構を持っている。 

 もし昆虫が主観的な経験を持つとしたら、私たちが考えていたかもしれないよりも遥かに多くの意識が世界には存在することになる。スミソニアン協会の推計によると、およそ100京匹(10 の 18 乗、10,000,000,000,000,000,000)の昆虫の個体が世界には同時に生きているのだ*4。 

 彼らについて私たちがどのように考えるかは、彼らの主観的な経験とはどのようなものに成り得るかということについて私たちがどのように信じるか、ということにかかってくる。このことについては生物の機構を比較したとしても得られる情報はあまりない。もしかしたら、青虫たちは私のルッコラで饗宴を開催することで充分な幸福を味わったために、その惨めな死にも関わらず彼らの一生は生きるに値するものであったかもしれない。
 だが、その反対の場合も少なくとも同じだけ有り得る。 モンシロチョウのような非常に多産な動物の場合、彼女らの子供の多くは孵化した瞬間から飢え続けることになるのだ。

 

 西洋では、進行方向にいる蟻を踏んでしまわないようにホウキで払うジャイナ教の僧侶たちに対して微笑んでしまう人々が多い。しかし、微笑むのではなく、論理的な結論に基づいた同情を実践する僧侶たちを私たちは賞賛するべきなのだ。

 だからと言って、私たちは昆虫の権利を主張するための運動を行うべきである、ということにはならない。権利運動を行う程には、昆虫が持つ主観的な経験とはどのようなものであるかということについて私たちはまだ充分に知っていない。また、いずれにせよ、世界は昆虫の権利運動を真剣に受け止めてくれるには程遠い。まず、真摯な配慮の対象を脊椎動物へと拡大することを完遂する必要があるだろう。脊椎動物が苦痛を感じることには、昆虫と比べて遥かに疑いが少ないのだから。

 

 

動物の解放 改訂版

動物の解放 改訂版

 

 

*1:What insects can tell us about the origins of consciousness

*2:訳注:原文は以下のとおり。

"If a being is capable of having subjective experiences, then there is something that it is like to be that being, and this “something” could include having pleasant or painful experiences. "

訳者としては、トマス・ネーゲルの「コウモリあるとはどのようなことか(What is it like to be a bat?)」を連想した。

 

コウモリであるとはどのようなことか

コウモリであるとはどのようなことか

 

 

*3:Quantitative relationships in delphinid neocortex

*4:Encyclopedia Smithsonian: Numbers of Insects

「弾劾の政治」 by クリスティアン・ウィリアムス

towardfreedom.com

 

 今回紹介するのはクリスティアン・ウィリアムス(Kristian Williams)の「弾劾の政治(The Politics of Denuncation)という記事。

 ウィリアムスはアナーキストの研究者だが、本人のホームページを見るとコミックに関する研究も行っているようだ*1。活動家でもあるようで、この記事も活動家して最近のフェミニズム運動や社会運動一般の独善的・排他的な傾向を批判する、という趣旨の記事。正直言って読みにくいしあまり論理的な文章でもないと思うが、社会運動一般に対する指摘として的を得ている部分も多いと思うので訳して紹介することにした。翻訳もところどころキツいところがあったので原文を読む方を推奨する。

 また、この記事を書いたために著者は一部の活動家から目の敵にされることになり、ポートランド州立大学でスピーチを行おうとしたら妨害された、という後日談的な事件についての記事も以前に訳している。

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

「弾劾の政治」 by クリスティアン・ウィリアムス

 

 2013年の2月28日に行われた「家父長制と運動」と題された会合にて、ラディカルな組織運動の文脈でドメスティック・バイオレンスやその他の虐待に取り組もうと試みることについて、私の友人が彼女自身の実体験に基づいたいくつかの質問を投げかけようとした。

「なぜ、私たちが見てきたようなラディカルなサブカルチャーでは、説明責任のプロセス(accountability process)がこれ程にも頻繁に失われるのでしょうか?」と彼女は質問した。「サバイバー(訳注:性的暴力事件等の被害者)が癒えることを支援することと、加害者が責任を釈明できるように保つこと(holding perpretrators accountable)との間には緊張関係があるのでしょうか?」

 

 その時点で、まさに文字通り、彼女の発言は途絶えさせられた。観衆とパネリストの両方を合わせた群衆から怒りの叫びが湧き上がった。あっという間に彼女の声を聞くことは不可能になり、数秒後、彼女は喋ろうとすることそのものを止めてしまった。

 

 その次の週に起こった不信用と相互告発のムードは、20年間に渡りラディカルな組織運動を行ってきた私も初めて経験するようなものだった。数人が、具体的な罪を犯したとして非難された(私の友人もその一人だ。彼女は会合の「セーフ・スペース」のポリシーを侵害し、観衆の人々の「辛い感情を引き起こし」(triggering)」、彼女の発言には「家父長制のメカニズム」が用いられていた、として非難された)。別の人々は、明示はされていないが虐待的で性差別的な行動を行ったとして呼び出された。そして遥かに多くの人々が、有罪とされた人々の行為を支持していたか擁護していたか容認していたということにされた。

  

 争議は続き、少なくとも一つの政治的組織運動が破壊されることになった。そして、驚くほど多くの活動家たちが(その多くは10年以上活動してきた人たちである)、政治運動をそのものを止めてしまうことを口に出していた。友人や恋人を失った人もいるが、彼らが行った何らかの行為が理由ではなく、事態について抱いた感情が別れた理由だ。複数の人々が(興味深いことにその大半は女性だ)、論争について何か発言をすること自体を恐れていると私に打ち明けた。台本にない発言をしてしまうことで、彼女ら自身も悪いフェミニストであると弾劾されてしまうことを恐れていたのだ。

 

疑問

 

 虐待的な行動にいかに取り組むかということと相互が釈明をできるように保つことの間には特に関係性があるはずだ、という疑問が論争の最中に提起されるだろうと思った人もいるかもしれない。しかし、会合の後に匿名の「家父長制と運動」運営者たちが発表した声明では、そのような疑問が提起されることそのものが禁じられていた。

 

サバイバーが必要とすることに関わる言説を「政治的な意見の不一致」または「政治的な議論」と意味づけようとすることそれ自体が性差別的である、と我々は考えています…このような議論からは主観的な語りは欠けるべきであるかのように装い、また議論そのものは実際の権力に関することではないから人々は議論の場では平等であるかのように装い、この議論そのものがすでに人種やジェンダーの影響を受けているのでは無いかのように装うからです。この議論には中立的か客観的な合理性が存在すると示唆している点でも問題です。むしろ、議論そのものや議論の内容とは、支配的な権力の動態によって社会的に左右された結果なのです。

 

  客観性、平等、非歴史性、人種とジェンダーの中立性、そして権力の不在…これらの全てが政治的な枠組みによって成り立つものであるとしたら、そもそも政治的な議論が可能であると考えることすら難しくなる。ジェンダーに関する議論に限らない、全ての政治的な議論においてだ。他方で、もし政治的な議論がこれらの条件に依存しているとしたら、政治的な議論は不可能であるどころか不必要になってしまう。政治的な議論とは真実を巡る論争であり、歴史・アイデンティティ・不平等・権力に関する事実が問題となる。議論が、政治を形作り意味や意義を与えるのである。引用した声明の2文目は1文目と矛盾している。この論争に関する議論は政治的であり得るはずがない、なぜならこの議論は必ず政治的であるからだ。

 

声明は続く。

 

この「議論」は直接的な結果をもたらすのであり、物理的な身体が関わっているのです。サバイバーとしてもフェミニストとしても、私たちは自分自身の身体について気をつけなければいけません。自分自身の安全、自分自身の幸福に気をつけるのです。同様に、私たちの身体の周辺にあるニーズ(needs)、安全、幸福が「政治的な議論」の対象にされてしまいます。私たちにとっては「議論」の利点とやらよりも重大なものが賭けられているのです。私たちの身体、安全、健康、個人的な自律、幸福が賭けられているのです。私たちを犠牲にして「政治的な議論」を行おうとする人に私たちは同意しません。議論の結果は私たちの生死に関わるものとなるのかもしれないのです。

 

 これは事実だ。説明責任についての議論には深刻な結果が存在する。原則だけでなく、生命も賭けられている。だが、そのことはこの問題について議論をしない理由なのではなく、むしろ、まさに私たちが議論をしなければならない理由であるのだ。

 

 政治が何かを意味するとすれば、私たちが下す判断には結果が…時には、文字通り生死に関わる結果が …存在するということだ。戦争、気候変動、移民、警察、健康保険、労働条件…これら全ての領域で、ジェンダーと同じように「身体、安全、健康、個人的な自律、幸福が賭けられている」。それこそが、政治が問題となる理由だ。

 

誤謬

 

 フェミニズムを政治よりも上位に位置づけようとするために、実のところ、運営者の声明はまさに具体的な種類の政治を行っている。「家父長制と運動」の運営者たちは、権威的にかつ匿名的に語ることで、特定の疑問は禁止であると断言している。彼女ら自身が行った会合について(遡って)疑問を投げかけることだけではなく、どのような場合でもその疑問を禁止しているようである。それらの疑問には一つしか答えがないと想定されているのであり、その答えは既に知られているから、それらの疑問を投げかけることは許されないのだ。その答えとは、事実上、「サバイバーが言うことはすべて正しい」ということである。   

 

 この理論の下では、サバイバーだけが要求を行う権利を持っているのであり、他の人々は疑問の余地なく加害者に対する懲罰を認めなければならない義務を負っている。ここでは、被害者による全ての主張を事実として扱う、ということが明白な前提となっている。そして、多くの場合は特定の主張が行われる必要すらない。ある人の行動を…そして、彼の人格そのものを…「性差別主義」「女性嫌悪的」「家父長的」「人を黙らせる」「人に危険を引き起こす」「安全ではない」「虐待的である」と形容すれば、それで充分なのである。そして「悪は悪であり、悪さがマシであることはなく、悪さの間に差異はない」という原則(on the principle that bad does not allow for better or worse)の下では、これらの単語は好きなように入れ替えて使用できる。結局、証明される可能性もあれば反証される可能性もある告発を行うことが要点なのではない。判決を下すことが要点なのだ。そして、悪し様に言われた人のことを、多くの人々の集団が嫌いになり、 彼が何をしたとされているかということを知っている振りすらすることもなく、彼を罰することが可能になってしまう。彼が加害者であると「告発された」こと が大切なのであり、他のことは関係ないのだ。

 

 このような手法は、実際の人間の生活の複雑さに蓋を閉じて見えなくしてしまう…それこそが、この手法の魅力であるのだが。私たち全員が演じている様々な役割、私たち全員が体現しながら生きている緊張関係、私たちを抑圧する権力のシステムを維持することに私たち全員が関わっているということ、などの複雑さを見えなくさせるのだ。  

 

 この図式のもとでは、あるサバイバーが同時に加害者であることは有り得ず、ある加害者が他の誰かの暴力のサバイバーであることも有り得ない。もちろん、過去に被害を受けたことは現在の加害を正当化もしないし許しもしないが、ここで用いられている二分法は事態をあまりにも狭く定義している。同様の理由で、将来の癒やしや成長の可能性もこの二分法は先回りして潰してしまっている。

 

 代わりにこの図式がもたらしているのは、二分法の再保証だ。サバイバーと加害者を、私たちが時には演じることのある役割や時には立つことのある立場として見なすのではなく、特定の種類の人々は本質的にサバイバーや加害者なのでありそれらのカテゴリに永久に囚われている…という二分法である。そして、社会的慣習やステレオタイプに基づいた二つの成分に(付随的にではなく)ジェンダー化される。それぞれの人には役割が割り当てられているのであり、物語における彼らの立場のためにある程度まで矮小化される。ある人は加害者でしかなく、別の人は被害者でしかない。それぞれが、自分が起こした苦しみか自分が耐えた苦しみによって定義される…だが、両方はあり得ない。

 

 二重の変動が起こることになる。権力の形態や社会的階層のシステムとしての家父長制は消滅し、その代わりに、ある男性の個人としての振る舞いや思考までもが家父長制を擬人化したものだということにされる。同時に、加害者とサバイバーの両方が脱人格化されて、彼女らの生の物語や文脈は抜き取られてしまい、ある種の道徳劇における記号的な役割にされてしまうのだ。

 

 そして、私たちの吟味(sccrutiny)の対象は虐待から虐待者へと移行し、行為から行為者へと移行することになる。すでに行われた危害を癒す方法を見つける代わりに、その危害の責任者である男性の人格を審判することに私たちは集団的な労力が費やされる。被害者への支援が加害者への辛辣な批判と同一されて置き換えられてしまう。このように道徳的な憤りを表現することは、無罪であるという宣言や問題となっている人の美徳を示す証拠を上回るのだ。そのようにして、彼女らは奇妙に義務的な方法を見つけることになる。私たちはある特定の人が擁護できない行為に手を染めたかどうかを知りたいのではなく、彼が台無しになってしまったかどうかを知りたいのだ。そして、彼を「容認」するか「擁護」するか「支持」する人も、あるいは彼のことを好きに思っている人さえも…あるいは、単に彼を弾劾することを怠った人も…非難の分け前を受けなければいけない、と考えることにも何らかの意味が通るようになってしまう。そして、「正しい」側に並ぶことへの強烈な衝動がもたらされることになる。他の人たちと同じように自分までもが呼び出されて非難される前に、弾劾に同調してしまえばいいのだ。

 

含意

 

 ここには自滅的なイデオロギーが働いている。性的暴行、ドメスティック・バイオレンスやその他の家父長制の影響を取り巻く問題に対処する能力を増加させるのではなく、むしろそのような能力が減少した運動をもたらす。議論において特定の疑問を禁止することは、学習や改善を向上させはしない。公然と人を辱めるムードは、悪事を犯した人に対して、罪を認めることや罪を償うことを行わない方に導く強烈なインセンティブを与える。人々の感情が昂ぶった環境は、説明責任を果たそうとする人や支援を行う人にとって物事を難しくするし、説明責任のプロセスに参加することに意欲的な人に汚名を着せることになる。そして、特定のイデオロギーを発展させるための政治的なシンボルとして、サバイバーを矮小化して彼女の経験やニーズが利用されることになるかもしれないのだ。

 

 権威・説明責任・懲罰・排斥に関わる疑問を考慮することを禁止するという、非常に権威主義的な政治も関わっている。実質的にはフェミニストたちの慣習の独占が主張されており、他のフェミニストの観点は排除されている。そして彼女らは自分と同意しない人を黙らせるのだ…「家父長制と運動」の会合で文字通り黙らさせられた人のエピソードが示しているように。

 

  私が描写してきたような状況では、これらの動向はフェミニズムの名の下に行われてきた。だが、このような傾向がフェミニズムだけに止まると考える理由はどこにもない。同様の戦略は、アイデンティティ・ポリティクスのどのような派閥にも実行可能であるし、自分たちからブルジョワジーの影響を取り除くことを目指しているイデオロギー的なセクトや暴力的な文化を完全に脱出したいと願っている平和主義者や文明からの脱出を目指している環境主義者たちにも実行可能であるし、人伝えに聞いた他人の短所を非難することでラディカリズムを成り立たせている全ての人たちに実行可能だ。

 

 相互に欠点を見つけあうことは政治的な同調を執拗に必要とすることを更に過剰にし、敵に包囲されていて孤立しているという感覚は…一方では独善的なある種の競争性と、他方ではマゾヒスティックな罪の気持ちと合わさって…私たちが見てきたような相互を傷付け合う争議が起こることを保証してしまう。ポートランドだけでなく、オークランド、ミネアポリス、ニューヨークなどでも同様の事態が起きることになるのだ。

 

 全体主義的な衝動は表出されており、それはあまりにも破壊的であることが明らかになっている。ある部分では私たちが意見の不一致・論争・暴力に対処する手段を見つけることに常に失敗し続けているからであるし、お互いの説明責任を保つことに失敗し続けているからである。それらに対処する手段を持っていないので、私たちは…あまりにも頻繁に…イデオロギー的純度のテスト、友人集団間の部族主義、同調圧力、辱めて追放すること、攻撃的な影口やインターネットでの罵倒戦争などに頼ってしまう。このような行動は、長い間私たちの政治文化の一部となってしまっている。

 

 そうすると、人々を惹きつけようとするのではなく追い出そうとする私たちの傾向に驚くべきではない。だが、私たちが人を追い出そうとするとき、有意義な行動をするための能力は減少してしまう。懐疑と排斥のサイクルが登場することになる。私たちが能力を失い、社会全体に影響を与えることへの興味さえも失ってしまうにつれて、私たちは自分たちの自身の集団内での考えやアイデンティティに更に集中してしまうことになる。私たちは悪意を持ってお互いを監視して、誰かが違反をしたときには…あるいは、単に誰かに腹を立てられただけでも…仲間からの支持を失ったその人を追い出してしまう。私たちの集団が更に小さくなり続けるにつれて、些細な違いの重大さが増し続けて、更なる疑惑・非難・そして排斥へと導かれる…そして、さらに集団は小さくなる。

 

 言い換えるなら、私たちは運動ではなく舞台(scene)のように振る舞うのだ…それも、特に排他的で、狭量で、非友好的な舞台だ。
   

ヴィジョン

 

 ここで起こっている問題は、政治的な運動が持つべきヴィジョンからはあまりにもかけ離れている。

 

 あるヴィジョンでは、ある運動とそれに関わっている人々は全ての物事において非の打ち所がなく、人々が見習うべき模範例として存在しているのであり、光り輝く丘の町であって、現在存在している社会の欠点からは離れたところに存在している。このような理想を達成するためには、私たちはヤギの群れからヒツジを取り出さなければならず、悪い人々から良い人々を、その他全ての人々から本物のフェミニストを取り出さなければならない。このような見解は、ほとんど自動的に、自分たちの内集団のドグマに従う傾向を生み出す。ただ正しいことを行うだけでは充分ではないのだ。ある人は正しい思考で考えていなければいけないし、正しい人々の眼鏡に適わなければいけない。

 

 対照的に、別のヴィジョンによると、運動は人々を惹き付けなければいけない。傷ついた人たち、悪い行為を行ったことのある人たち、自分自身の政治をまだ探している途中の人たちも惹き付けなければいけない。そのため、性的暴行や他の虐待に立ち向かうためには、実際にそれらの行為を行っている人と関わることが要求される。私たちは、抑圧に対して立ち向かうのと同様に、抑圧を行っている人に取り組む必要もあるのだ。

 

 どちらのアプローチも簡単ではない。性差別的な社会の中でフェミニストの慣習を発展させるという困難に直面するであろう。だが、フェミニストの慣習を生み出した人たちは家父長制の悪徳から自由である人々であると見なすヴィジョンと、私たちの全員が抵抗している力によって形作られるのであり私たちを抑圧する権力のシステムに私たちも連座しているという認識から物事を始めるヴィジョンとが存在する。前者は主に排斥を行うことによって家父長制を打ち砕こうとするが、後者は変容によって家父長制を打ち砕こうとする。

 

 言い換えると、私たちが直面している問題はこれだ。私たちの政治は純潔さを目指しているのか、それとも変化を目指しているのか?