道徳的動物日記

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「道徳の秩序」と「政治の秩序」(読書メモ:『資本主義に徳はあるか』)

 

資本主義に徳はあるか

資本主義に徳はあるか

 

 

 フランス人の哲学者である著者の講演に基づいて書かれた本。元々が講演であるせいか、内容は薄く感じられた。

 著者は物事の秩序を「経済-技術-科学の秩序」「法-政治の秩序」「道徳の秩序」「倫理の秩序、あるいは愛の秩序」の四種に分ける*1。そして、会社や資本主義に関わる秩序は前者の二つだけであり、道徳や倫理は資本主義とは無縁だと論じる。…これだけだと過激・逆張り的な主張のように聞こえるが、結局は「企業や政府は道徳的主体ではないから、私たちひとりひとりが道徳や倫理に関する判断をしましょう」という、穏当でなんのこともない主張に落ち着く*2。資本主義や経済に対する分析も、いかにも人文系の学者が経済学のなかでも思想の部分だけを参照して論じたという感じで、浅い。資本主義と道徳・倫理というテーマについての本なら、『資本主義が嫌いな人のための経済学』を読む方がずっと良い。

 

 ただし、物事を四種類の秩序に分類してそれを軸として論じる構成には、興味深い部分もある。たとえば技術に任せるべき領域に道徳を持ち込んだり、あるいは道徳の領域の問題として捉えるべきことを法的や政治的な問題として捉えることなど、人々が犯しがちな間違いが様々な例を挙げながら論じられている。技術と法・政治と道徳とのそれぞれの領域や互いの関係について理解しておくこと、経験的・実証的な問いと規範的な問いとを分けることなどは、学問的に考えるうえでは基本的で必須なことではあるのだが、改めて整理されるとそれはそれで気付かされることもある。

 著者は、1968年世代(学生運動の世代)の人々に存在していた思考形式を"「すべてが政治」のイデオロギー"(p.14)と呼び、道徳の秩序で物事をとらえることが軽視されていたと分析する。そして、現代(といっても原著は2004年)ではむしろ道徳の秩序が重視されるあまり政治の秩序からの物事をとらえる視点が後退してしまっている、と論じる。現在の日本でも、(実際には特定の立場にとって有利となるような偏向を生じさせる)「政治的中立」が叫ばれていて、本来なら政治が解決すべき問題がボランティア団体などにアウトソースされたり個人の自己責任で解決すべき問題とされてしまっているなど、政治の秩序の視点は軽視されていると言えるかもしれない。

 

 しかし、道徳の秩序と法律や政治の秩序の関係も、一筋縄ではいかないところがある。時として、ある問題をどちらの秩序に分類するかという線引き自体が、主義主張やイデオロギーの争いの最前線となる。たとえば「中絶の是非について論じることは道徳の領域の問題であり、法律は中絶の是非について関わるべきではないから、法律は中絶を禁止すべきでない」という主張は、胎児の生きる権利を主張する中絶反対派からすればたまったものではないだろう。「中絶の是非は個人の価値観に委ねられるべきだ」という主張は、裏返すと、「胎児の生きる権利は法的に保証されるべきほど重要なものではない」という主張になるからだ。

 動物の権利や安楽死の権利、あるいはアファーマティブ・アクションポリティカル・コレクトネスなどなど、様々な論点について同様のことが言える。ある問題…特になんらかの権利に関わる問題について、「その問題は個々人の価値観に関わる問題であり、法律や政治が関わるべき問題ではない」と主張することは、実際には「その問題は重要ではない」と言い放つのと同じであることが多々あるのだ。

*1:この本のなかでは、「道徳」という言葉は「価値観」という言葉と同じような意味合いで使われていることが多い。

*2:より具体的にまとめると、「企業は集団の論理という重力に従い非倫理的な方向に下降していくものであり、その重力に逆らって倫理的な方向に押し上げることは個々人にしかできない」という感じだ。しかし、個人の倫理的判断が集団に対して発揮できる力はきわめて僅かなのであり、個人にお依存しなくとも集団レベルで倫理的判断をさせるために企業倫理とかCSRとかコンプライアンスなどの諸々が考慮されている、というのが今の時代であろう。著者の主張はかなり時代錯誤なものに聞こえる。

人はなぜ過去の選択にこだわるのか

 

幸福はなぜ哲学の問題になるのか (homo viator)

幸福はなぜ哲学の問題になるのか (homo viator)

 

 

 昨日にも『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』の感想を書いたが、本書の中でも特に印象に残った「物語的完全主義」について論じている節から抜粋して紹介しよう。

 

……完全主義のなかには少し特殊な事例があります。本節ではそれを「物語的完全主義」と呼ぶことにしましょう。物語的完全主義に陥ると、自分が過去にやってきたことを望ましい人生の一部とするために、いま現在の選択にて、最善の選択をしないことがあります。なぜ、最善を選ばないのに完全主義かといえば、過去から今に至る自分自身の物語の完全性にこだわるからです。「私が過去にあれを選んだ以上、今これを選ばないことはーーそれが最前でないとは分かっていてもーー許せない」。(p.183)

 

 著者は、将棋ソフトと人間の棋士との将棋の指し方の違いという例を用いて、「物語的完全主義」を説明する。感情を持たない将棋ソフトは、過去の手にとらわれず、手番のたびに現在の局面における最善の手を探し続ける。一方で、人間の棋士は、"過去に自分が差した手の「方針を生かしたり」「顔を立てたり」すること"がある(p.185)。人間の棋士には、現在の状況から見ると自分が過去に指した手は完全に失敗であった、ということを認めづらいのだ。そのために思い切って全然違う手を指すことができなくなり、過去の手にこだわり続けてしまうのである。

 人生の場合、将棋と違って勝ち負けは明白ではない。しかし、いま現在の自分の状況が明らかに最善ではなく、また過去の行動が違っていれば現在の自分の状況が変わっていた可能性が高い、という場面は多々あるだろう。「現在における最善とは何かがだいだい分かっているケース」(p.186)でこそ、いまからでも方針を変えて次善を目指すか、過去の選択にこだわり続けて最善とはかけ離れた状況で過ごし続けるか、というジレンマが生じるのだ。

 著者が提示する「物語的完全主義」から脱する方法には、二通りある。一つは、"現在という「箱」のなかで最善を選ぶ練習を積む道であり、過去の失敗は失敗と切り捨てて、それに何らかの意味を与えようとしない態度を、意識的に選び取っていく道"(p.186)。もう一つは、”過去のある選択時点について、その時点では未来の点数化が不可能だったことを思い出すという道"である(p.186-p.187)。…私見をいうと、前者の道は有効であるがそれを達成できる人の数は限られていると思うし、後者の道は比較的容易ではあるが気休め程度の効果しかもたらさないような気がする。

 

 しかし、なぜ人間は「物語的完全主義」にとらわれてしまうのだろか?

 まず思いつくのは、サンクコスト効果の影響であろう。

 また、キャリアやスキルの形成という具体的な面からでも、自分にとっての「人生の意味」や他人が自分に対して持つイメージなどの抽象的な面からでも、選択の一貫性や行動の統一性などをある程度以上に保つことが必要とされる、という面もある。

 たとえば、自分がやりたい仕事のイメージを掴めずに別業種への転職を繰り返し続ける人はいつまでたっても給料が上がらないし、スキルが身に付かないことでできる仕事の種類も限られてしまうので、有意義でやりがいのある仕事に就ける可能性が少なくなってしまうだろう。また、いろんな物事につまみ食いするように手を出しては引っ込めることを繰り返していたり、人生の方針を定めずにフラフラしている人は、若い頃はいいかもしれないが年を経るにつれて魅力がなくなっていく。様々な経験を積んだり物事にとらわれずに自由に生きること自体はいいことなのだが、あまりそればっかりやっていると、人間としての厚みや実体性がなくなってしまい、他人から共感されたり仲間と見なしてもらうこともなくなってしまうのだ。

 もちろん、他の人よりも優れていて有能で賢明な人であれば、傍目には一貫性や統一性がない生き方をしていても成果を出せるだろう。また、有能で賢明な人ほど、「過去の失敗を切り捨てて、現在における最善を選ぶ道」を実現できるだろう。しかし、賢明でない人の場合は、「現在における最善」すらちゃんと理解できないかもしれないし、新たな選択をしようと思ったところでまた失敗する可能性も高い。それであれば、最善ではなかったり非効率であったりしても、統一性や一貫性を重視した生き方を続けた方が自分に対しても他人に対しても何らかの意味を示せる…という、そういうリスクヘッジのような側面もあるのかもしれない。

読書メモ:『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』

 

幸福はなぜ哲学の問題になるのか (homo viator)

幸福はなぜ哲学の問題になるのか (homo viator)

 

 

 幸福論系の哲学をまとめて読んでいた時期があったのだが、その中でもこの本はかなり良かった。思想家の名前はちらほら出てくるが思想史は重要視されておらず、幸福についての哲学的な考察と(後半はかなり抽象的な分析哲学的思考も含まれている)、人生論に近い具体的な幸福論がバランスよく収まっている感じだ*1

 

・抽象的な議論ももちろん良いのだが、記憶に残るのは人生訓の部分の方だ。人生における選択の失敗やサンクコストに引きづられてしまう「物語的完全主義」への対処法、成功者の助言や年長者の助言との向き合い方、お金や健康などの「ゆとり」が幸福に占める役割、などなど。著者が分析哲学の中でも時間論を専門にしているだけあって、幸福と時間の関係性についての議論も豊富である。また、他者との比較による幸福、自分より幸せな人や不幸な人を見るときに生じる幸福/不幸についての分析も示唆に富んでいる。

 

・本の後半では「小さな子どもたち」と題された、本書の人生訓の部分を簡単な言葉でわかりやすくまとめたパートが挿入されるのだが、これがかなり良かった。

 

・陳腐な自己啓発本とバカにされがちなカーネギー『人を動かす』が、この本では好意的に取り上げられている。他者に対して誠実な関心を抱いて、相手の「自分が重要な人物であると思われたい」と満たすことの重要性なんかが触れられている。著者は中学生の頃に初めて『人を動かす』を手に取ってそれから何度も読み返したそうだが、私は社会人になってから会社に無理やり参加させられた「リーダーシップ・セミナー」の参考文献として初めて読まさせられて、内容に対してももちろん不愉快な思い出しかない。本の趣味というものも人それぞれだ(また、手塚治虫筒井康隆など、どちらかといえば私が嫌いな作家の作品ばかりがこの本では思考実験の題材として登場してくる)。

*1:私は漫然と思想史を語られる本が苦手で、たとえば下記の本は「ソクラテスやアランやラッセルの幸福論は現代の知見に照らせばどこまで妥当か、現代の私たちが幸福に生きようとするうえでどう参考になるか」という知見に欠けているように思えた。新書本にはこういうのが多い気がする。 

 

なお、同タイトルのこちらの本については『トロッコ問題批判批判』でも引用したが、様々な思考実験を紹介しつつ快楽説・欲求充足説・客観リスト説の利点と難点が整理されていてよかった。

 

幸福とは何か (ちくまプリマー新書)

幸福とは何か (ちくまプリマー新書)

 

 

読書メモ:『ポジティブ心理学の挑戦 - "幸福"から"持続的幸福"へ』

 

ポジティブ心理学の挑戦 “幸福

ポジティブ心理学の挑戦 “幸福"から“持続的幸福"へ

 

 

 著者のセリグマンはポジティブ心理学創立者の一人。ポジティブ心理学の成り立ちや著者自身の個人的エピソードについての思い出話・ポジティブ心理学の理論や知見・教育や軍隊の場などにポジティブ心理学を応用した結果などが、とりとめもなく書かれている。全体的に本の構成がグダグダというか焦点が見えない感じ。訳もイマイチ良くなくて、読んでいてけっこう辛かった。

 

・いちばんウンザリした箇所は、コミュニケーションにおける反応スタイルを「積極的/受動的」と「建設的/破壊的」に分類して、他人との関係を良好に自分自身のためにも「積極的-建設的」なコミュニケーションをこころがけましょう、と論じているところ。要するに他人の話にいちいち大げさに反応して具体的なところや些細なところまでに注目しながら褒め称えましょう、ということだ。

 「…このテクニックは自力で継続していける。だが、それはほとんどの人にとって自然に習得されるものではない。勤勉に努力しながら、それが習慣化されるまで訓練を重ねていく必要のあるものだ」(p.95)とされているし、実際に「積極的-建設的」なコミュニケーションを行なっている人は意識的に努力してそうしているのだろう。ビジネスの場などでは、人間関係を円滑にするための努力をすることは讃えられることかもしれない。しかし、何につけても「積極的-建設的」なコミュニケーションをしようとする人と話していると疲れてしまうことはあるし、本人自身の考えや性格から出た反応ではなくテクニックとしての型通りの反応を返されてしまうというのも、浅薄だったり相手の顔が見えずに不気味だったりするものだろう。

 他にも、ポジティブ心理学では「感謝」することがやたらと強調されるし、他人との関わり方についてあれこれと求められる。本人自身の社会的成功や精神的健康のためには必要なテクニックかもしれないが、自身の成功や健康のために他人への反応や向き合い方を理論に従って変えるというのも、他人を目的ではなく手段と見なしている感があって不道徳的な気がする。

 

・「ポジティブな発言対ネガティブな発言の比率が 2.9:1 を上回る会社では経営状態が良好で、その比率を下回る会社では悪化」(p.122)というのも、それはそうなのかもしれないが、そのためにポジティブな発言や態度を強要されるとしたら労働者としてはたまったものではない。こういう箇所を読んでいると、ポジティブ心理学や資本主義や新自由主義に利用される、という懸念も妥当ではないかと思えてしまう。

 

セリグマンはGDPウェルビーイングや幸福が考慮されていないことを批判しているが、このテの批判は的外れである、ということがダイアン・コイルの著作『GDP:小さくて大きな数字〉の歴史 』で触れられていた。また、群淘汰や利他的な行動の遺伝性など、本業の進化生物学者たちの間では否定されがちな主張を好意的に取り上げている場面もある。ここら辺は要注意だ。

 

先日の記事で取り上げた『ポジティブ病の国、アメリカ』の著者のエーレンライクはセリグマンやポジティブ心理学一般を批判しているが、こちらの本ではセリグマンがエーレンライクに反論を行なっている。

 エーレンライクは「ポジティブで笑顔になれば健康になってガンにもならなくなる、なんて詐欺みたいな主張だ」という批判を行なっていたが、セリグマンによると、楽観性は実際に健康や発ガン率に影響を与えることは様々なエビデンスが証明している。

…エーレンライクは、あらゆる研究を紹介することなく、一部の研究だけを「つまみ食い」して本を書いた。…(中略)…自分にとって都合のよい部分だけを「つまみ食い」するというのは、抽象的に言えば知的不誠実さの一つの現れである。だが、実際の生死に関わる問題としては、「つまみ食い」によって、ガンで苦しむ女性が楽観性と希望を持つことの意義を退けてしまうのは、危険な報道上の不正行為だと私は考える。(p.363)

 

セリグマンはエーレンライクの「…人間のウェルビーイングが、階級や、戦争や、お金といった外部性だけにしたがう…(中略)…マルクス主義的な世界観」(p.419)を批判するし、また、人類の歴史や進歩について悲観的な見方を吹聴するポストモダニストにも手厳しい。私も、エーレンライクによるポジティブ心理学批判や文明批評には左翼的イデオロギーの影響を感じた。スティーブン・ピンカーハンス・ロスリングのようにデータや理性を重視してポジティブな世界観を唱える立場と、思想やイデオロギーを重視してポジティブな世界観を「おためごかし」と批判する左派の対立、という構図がここでも見られる。

読書メモ:『不道徳的倫理学講義-人生にとって運とは何か』

 

不道徳的倫理学講義: 人生にとって運とは何か (ちくま新書)

不道徳的倫理学講義: 人生にとって運とは何か (ちくま新書)

 

 

 西洋の倫理思想史の中でも「運」について言及している哲学者たちの思想を取り上げて、論じている本。

 本全体のページ数のうちおよそ半分以上を古代ギリシャの思想の話題が占めており(『オイディプス』などの文学作品、プラトンアリストテレスストア派)、近代の思想家に割かれている紙面は比較的少ない。これには、西洋の倫理思想では近代になるに近づくにつれて「運」の問題が取り上げられることが少なくなった(しかし、現代になって再び脚光を浴びている)という事情が表れている。

 基本的には思想史の本なのだが、第10章とエピローグではバーナード・ウィリアズを中心に『グレート・ギャツビー』などの文学作品も取り上げながら、現代に生きる私たちが自分の人生や他人について考えるうえで「運」というものにどういう風に向き合うべきであるか、といった人生論・実存に関する議論もなされている。

 思想史の本なので感想は書きづらいのだが、以下に雑感を書いておく。

 

・この本で取り上げられた思想家の中たちでは、5章で取り上げられるストア派の思想家たちにいちばん共感できた。「……理性を備え、それをよく働かせて感情をコントロールし、何ごとにも動じない心を獲得すること。」(p.163)や「…そのつど置かれる個別の状況や、自己が属する共同体のあり方に束縛されない生き方」(p.163-164)を目指すディオゲネスには好意が持てるし、自分の知りうる限りの事情を考慮したうえで適切な判断を下すことや、自分の力やコントロールが及ぶものとそうでないものとを理性を行使することで判断することを重要視するのも、地味ながら堅実で良いと思う。

 

ポジティブ心理学の本ではアリストテレスの思想がしょっちゅう出てくるのだが、アリストテレスは「観想」というものを最も幸福な活動だと見なしていたそうである。観想とは哲学的な思考を行うことであるが、「アリストテレスによれば観想とは、善さと持続性と快さの点で何よりも優れ、また、一人でも可能な自足的活動であり、それ自体として愛好される目的である。したがって、観想を営む生活こそが完全な幸福である、と彼は言う」(p.152)。しかし、他者との関係やコミュニケーションを重視するポジティブ心理学では、観想が特権的な立場に置かれることはないだろう。実際、一人で考え続けることをあまりに重要視する考え方は鬱病とかにつながりそうで健康面ではよくなさそうだ。

 

・ウィリアムズはゴーギャンの生涯などを例に出しながら、「自分の行為に含まれる道徳的な問題を認識したうえで、道徳的な価値とその他の価値(美的価値など)を天秤にかけて、苦悩したうえで、後者を選択する」という場面について論じていたようだ。我々が個々の人生においてそれぞれに発する「いかに生きるべきか」という問いにおいては、道徳の次元に収まらない様々な次元や価値の問題が関わってくる、ということである。このようなことも論じようとすると倫理学は文学に近づくし、アンナ・カレーニナグレート・ギャツビーなどの文学作品の主人公たちの生き方を参考することにもなる。……が、私としては、生き方の参考として文学を参照することにはやっぱり抵抗がある。文学作品においては、話を面白くするという構造上の理由や、または文学者や文学ファンたちの性格的な問題から、道徳的な価値を低く積もって美的価値などを高く見積もる傾向があるからだ。また、文学作品の主人公や偉人などと自分を同一視した人が、露悪的であったり無謀であったりする行為を正当化しかねないという問題がある。

 

・本書の終盤では、「運」の要素を否認し過ぎると公正世界仮説的な誤謬や相手の事情を考慮せずに他人を責め立てることにつながるが、「運」の要素を認め過ぎると生まれや育ちの不平等などの不公正を放置してしまったり虚無的で無責任な世界観を抱いてしまうことにつながる、といったジレンマに触れられている。また、不運な立場にいる人に対して「自業自得だ」と非難することも、幸運な立場にいる人に対しても「不公平だ」「ずるい」と非難することも、どちらも問題となり得る。…が、マクロに考えてみると、前者に比べて後者の非難の方がずっと害は少ないのではないか、という気がする。というか、グローバルな富の偏在などの現代社会の諸々の事情を思えば、自分が幸運な立場にいることが不公正だとして道徳的に非難されることは、正当である場合が多いように思える。

進化心理学はなぜ批判されるのか?

quillette.com

 上記のQuilletteの記事を要約紹介しつつ、雑感を書く。…というか、ダラダラと長ったらしい記事なので、思い切って要点や特徴的な点だけ紹介する。

 

 上記の記事では、デビッド・バスとウィリアム・フォンヒッペルという二人の進化心理学者が行った、"社会心理学者たちが進化心理学について抱いている認識"についての調査が参照されている。この調査によると、動物のみならず人間について進化心理学を適用することについては、社会心理学者たちの意見は分かれているそうだ。ダーウィンの進化理論が真実であることや、人間の様々な身体的特性が進化の産物であることにはほぼ全ての社会心理学者たちが同意しているのだが、身体のみならず心理や精神についても進化論を適用することに関しては、かなり賛否が分かれるのである。

 進化心理学に批判的な社会心理学者たちは、宗教的信念や「人間は他の動物に比べて特別だ」という信念から批判している訳ではない。進化心理学についての意見が割れるのは、遺伝的な暴力的傾向、美についての普遍的な基準、心理の性差などのセンシティブなトピックが原因なのだ。

 一般人の間では進化論に対する反発は現在でも根強いが、科学者の間では進化論が正しいことは合意されている。動物や人間の眼球は機械のように複雑な機能を備えているが、それも進化の産物であることを疑う科学者はいない。しかし、眼球ではなく(人間の)脳にまで話が及んだ途端、多くの科学者は進化論を当てはめることに尻込みしてしまうのだ。

 進化心理学はその成立当初から様々な批判や反発を受けてきたが、特に近年では、"心理の性差"というトピックについて炎上することが多い。例えば、最近では「男の子には、先天的に暴力な傾向がある」ということを論じたニューヨークタイムスの記事が批判にさらされた*1

 また、ガーディアンの記事によると、『ジェンダー化された脳』という本を記したジーナ・リッポンという神経科学者は「脳には性差がある」という主張をたわ言だと一蹴しているそうだが、実際には「脳には性差がある」ということ示す脳科学神経科学の文献は大量に存在するのである。

 リッポンのような学者は「脳科学神経科学の知見が性差別的な目的のために用いられる可能性」を恐れているのだが、それを言うなら、遺伝学やその他の様々な学問も、何らかの目的のために悪用される可能性はある。「悪用される可能性があるから」は、学問的に蓄積された知見を無視することを正当化する理由にはならないのだ。また、「この知見を認めることは差別になる」と言う恐れは、事実的な事柄である「同質性」(sameness)と、規範的な事柄である「平等」(equality)を混同してしまっている。

 右派も長年にわたって進化論を否定してきたとはいえ、近年では左派による進化の否定が顕著となっている。左派による進化心理学に対する批判の多くは、「進化心理学者は自然主義的誤謬を犯している」と言う誤解に基づいている。つまり、"進化心理学者は「人間には暴力的傾向が先天的に備わっている」「男女の心理には生物学的な差がある」と主張することで暴力や性差別を肯定しているはずだ"、という思い込みだ。

 しかし、進化心理学者が「人間には△△の遺伝的特性が備わっている」「人間には▲▲の先天的な傾向がある」と主張したとしても、「全ての人には△△の遺伝的特性が現れる」「▲▲は先天的な傾向なので、社会や環境によって変わることはない」と主張しているとは限らない。進化心理学は「心は空白の石板である」という主張は否定するが、教育や文化や社会規範などの環境的要因によって人々の心理的傾向や特性が変化すること自体は否定しない。だが、批判者たちは進化心理学者の主張をあえて極端な形で解釈して、藁人形論法を行うのである。 

 

 バスとフォンヒッペルは、進化心理学に対する反発それ自体が進化心理学で説明できる、と論じている。それは、「自分の集団の連携を保持して、敵対する集団の連携を破壊しようとする心理的適応」である。これは、左派の場合にはジェンダーの平等や社会正義の達成など、"集団において望ましいとされている目標に自分がコミットしていること"を他人に広く知らしめるために主に用いられる行動であり、心理学的には「Virtue Signalling(美徳のシグナリング)」と呼ばれるものだ。

(…この後も記事は続くが、上記部分で論じられたことの繰り返しや進化心理学の基本的な考え方の紹介ばかりなので省略)

 

 ここからは私の雑感。

 

・"左派による進化心理学に対する反発は、仲間に対してシグナルを示すための行動である"という点には、私もかなり同意する。特にSNSなどで進化心理学やその他の学問を批判する一言コメントを書くという行為は、当然ながら、進化心理学そのものや特定の進化心理学者を論破したり挑戦しようとしたりする行為ではない。SNSのコメントの大半がそうであるように、ある学問的知見を批判/否定するという行為も、共通の価値観を持つ仲間たちに対してのデモンストレーションやグルーミングという側面がかなり強いはずだ。

 また、右派や左派を問わず、何らかのイデオロギーに偏った集団の間では「こういう主張に対してはこういう反応をすべきである」「こういう主張は肯定して、こういう主張は否定すべきである」という定式化されたマナーのようなものが発生してしまうものであろう。特にフェミニストたちの間では「進化心理学とか脳の性差とか聞かされた、とりあえず否定する」というヒューリスティックが出来上がっていても不思議ではない。

 要するに、進化心理学(やその他の学問的知見全般)が批判されるとき、大半の場合は「事実は何であるのか」「理論や論旨展開は妥当であるか」「証拠はあるか」といったことは問題にされていないのだ。批判者の目が向いているのは、批判対象ではなく、自分の仲間たちなのだ。

 

・余談だが、「進化心理学の知見に対する批判が生じる原因を、進化心理学の知見に基づいて解説する」という嫌味っぽい論法は『だれもが偽善者になる本当の理由』でも行われていた。

 しかし、こういう論法もあんまり多発されてしまうと、それこそが進化心理学者たちの間でのシグナリングだと批判されたり、「進化心理学者が、進化心理学の知見に対する批判が生じる原因を進化心理学の知見に基づいて解説したがる理由を、社会学的に解説する」などとやり返されてしまう可能性もあるだろう。議論をあまりメタ的な領域に持っていくのも良くないものである。

 

・「進化心理学は社会や文化などの環境要因を一切否定している」という誤解は、確かに根強い。しかし、私が見た限りでは、人間の特性についての生得的要因を肯定する議論の大半では環境要因の存在も肯定されている一方で、環境要因を強調する議論では生得的要因が全否定されてしまうことも多い。

 少し自分の経験を振り返ったり内省したりするだけでも、自分の考え方や行動が文化や社会や教育に影響されていることは意識できてしまうのだから、環境的要因を全否定する議論が説得力を持つことはほとんどないだろう。他方で、先天的傾向の影響を意識して把握することは難しい場合が多い。この非対称が、「心は空白の石板」的な考え方がいまだに説得力を持つ理由であるのだろう。

 

・一般的な進化心理学者は自然主義的誤謬を犯さず、「人間には△△の傾向があるから△△は道徳的に善い」というような主張は行わないとしても、一部の例外や、アカデミズムの外で進化心理学を濫用する論者が目立つことも確かである。

 とはいえ、上記の記事でも論じられていた以上に、ダーウィン的な進化論を認める以上は、動物には進化論を適応しても人間には進化論を適応しないこと、また人間の身体的特徴に進化論を適応しても心理的特徴には進化論を適応しないと、論理的におかしくなるだろう。先天的要因の影響や射程をどこまでのものと見積もるかは人それぞれの判断や解釈で変わってくるだろうが、進化心理学の考えそのものを否定することはできないのだ。

 だから、一つの著作から「進化心理学は疑似科学である」と堂々と断言することや、それに対して好意的なコメントが集まることはかなり奇妙だ。方向は真逆だが、、一つの著作の記事から「フェミニズムを大学の場で教えることはふさわしくない」と断定するのと同レベルの行為である。まあ、結局はどちらもシグナリング的行為であり、進化論心理学やフェミニズムそれ自体について本気で考える気はないのかもしれないが。

 

 

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*1:この話題については、以前の記事で論じている。

davitrice.hatenadiary.jp

「動物に苦痛を与えてはいけない」という主張は功利主義?/功利主義は「苦痛」にしか注目しない?

 

  功利主義及び動物倫理に関するよくある誤解について、さくっと書く。

 

「動物に苦痛を与えてはいけない」という主張は様々な倫理学者が提唱してきたものではあるが、過去の人であればジェレミーベンサム、現代の人であればピーター・シンガーが有名であろう。彼らは二人とも功利主義者である。では、「動物に苦痛を与えてはいけない」という主張は功利主義者しか行っていないのか?

 もちろん、そんなことはない。

 

 トム・リーガンやゲイリー・フランシオンなどの「権利論」を主張する人々は、功利主義には反対している。功利主義は、「最大多数の最大幸福」を考慮した比較考量の結果によっては動物(や人間)に苦痛を与えたり殺害したりすることを認めてしまう可能性があるからだ。

 そのため、いかなる理由があろうとも苦痛を与えられることや殺害されることから保護される権利、他者の目的のための手段として扱われない権利を人間だけでなく動物にも認めよう、というのが彼らの主張だ。

 

 徳倫理やフェミニズム倫理においても、「動物に苦痛を与えてはいけない」という主張はされている。

 

 …というか、動物を倫理的配慮の対象とみなしたり、動物の道徳的地位を認めるのあれば、どんな理論であっても「(理由もなく)動物に苦痛を与えてはいけない」と主張されることは当たり前なのだ。

 功利主義では「(理由もなく)他者に苦痛を与えてはいけない」と論じられる。では、功利主義ではない権利論やフェミニズム倫理などにおいては「他者に苦痛を与えることは道徳的問題にならない」と論じられているのか?

 もちろん、そんなことはない。安楽死の権利を認めたり、肖像権やプライバシーの権利を認めたり、セクシュアル・ハラスメンを受けない権利は認めたりするが、棍棒で叩かれない権利や焼き印を押されない権利や生まれから死ぬまで屋内に監禁されない権利は認めない、なんて理論が存在する訳がないだろう。

「理由もなく苦痛を与えない」ということは規範としてもあまりに基本的過ぎて、功利主義以外の議論では強調される機会が少ない、というだけなのだ。

 …というわけで、下記の記事や、それに付いているしたり顔のブコメの多くは、いろいろな点で誤っている*1

 

anond.hatelabo.jp

…(前略)…じゃあ彼らが主張しているのは何か?それはあらゆる動物における「苦痛の回避」です。

なので、必然的に対象は痛みを感じる動物、基本的には大脳を持ち自由神経終末のある脊椎動物に限られてくる訳です。(対象の範囲についてはいくつか議論あり)

更にこの「苦痛の回避」の元になってるのは、皆さん大好きトロッコ問題でお馴染みの「功利主義」という考え方で…(後略)…

 

 上記の引用部分は、動物の道徳的地位を主張している、功利主義以外の倫理学理論の存在をまるっと無視してしまっている。また、功利主義と「権利論」は基本的には相反する関係なのに、記事の全体において権利の議論と功利主義をごっちゃにしてしまっている。

 しかし、上記の記事に限らず、"「動物に苦痛を与えてはいけない」という主張は、功利主義のみが行っている"という誤解は広く存在してしまっているようだ。倫理学の関係者ですら、本やネットでそういう誤解を振りまいていることがある。

 

 また、たしかに功利主義は「苦痛」に注目するが、「苦痛」だけに注目した議論ではない。そもそもが「最大多数の最大幸福」なり「関係者全員への利益への平等な配慮」などを目指す議論なのだ。痛みや乾きなどの身体的な不快感の他にも不安や恐怖などの精神的な不快感も考慮するし、楽しみや安らぎや性的快感などのポジティブな感覚にも考慮するし、愛や希望や正義感や知的好奇心などの高度な感情にも考慮するし、幸福(と不幸)や利益(と不利益)につながるものならなんだって考慮する。

 動物倫理において「苦痛」ばかりが注目されるのは、現在の世界では実際に動物たちが多大な苦痛を感じているからであり、他のことに注目することの必要性や緊急性が相対的に希薄だから、というだけのことなのだ。

*1:私の記事に対する批判に対して反論する、という形で書かれたものなので、批判するのはちょっと心苦しいのだが。