道徳的動物日記

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読書メモ:『感性は感動しない』

 

 

感性は感動しないー美術の見方、批評の作法 (教養みらい選書)

感性は感動しないー美術の見方、批評の作法 (教養みらい選書)

  • 作者:椹木 野衣
  • 発売日: 2018/07/13
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

  美術評論家のおじさんが書いたエッセイ集。第一部「絵の見方、味わい方」は著者なりの"批評"観や"美術"観が出ていてそれなりに面白かったが、第二部「本の読み方、批評の書き方」では読書や文章についての益体のない語りがダラダラと続くし("読書とはなにか"とか"文章を書くとはどういうことか"ということについて書かれた文章って他に書くことがなにもない人が紙幅を埋めるために仕方なく書きました、という感じのする文章が多い)、第三部の「批評の目となる記憶と生活」は「おじさんの思い出話」以外のなにものでもない(作家とか役者ならまだしも、さほど高名でもない批評家風情の思い出話に誰が興味を持つというのだろう?)。

 このエッセイを読む限りでは、著者は育ちが良くて人柄も良いが俗物的な要素も強い平凡な人物だという印象だ。特に「秩父と京都の反骨精神」という章がひどくて、「同志社の輩出する人材というのは、どこか一匹狼的です。」(p.150)と書いたり、京都のことを「死者と生者の境があいまいで」(p.152)と評したりする感性は完全に凡人のそれである*1。ただまあこれくらい大衆的で一般化された感性であるほうがキュレーターとしてはちょうどいいのかもしれない。

 

 それはそれとして、表題にもなっている「感性は感動しない」という章はよかった。

 

 美術大学で教えている手前、言いにくくはあるのだが、大学で美術を教えるのはひどくむずかしい。とにかく、ほかの学問分野のようにおよそ体型といったものがない。教えられるのはせいぜい美術の歴史をめぐる基本的な知識や、美術という制度をめぐる様々な社会的背景くらいではないか。しかし美術史や美学を修めたからといって、画家がよい絵を描くわけではない。彫刻家が見事な造形をなせるわけではない。むしろ、それに絡めとられ、わけがわからなくなってしまうことも少なくない。

…(中略)…

そして、どんな絵に心が揺さぶられるかは、結局のところ、その人にしかわからない。誰にもわかってもらえない。ましてや共有などできるはずがない。感性がみがけないというのは、煎じ詰めればそういうことだ。

つまり、芸術における感性とは、あくまで見る側の心の自由にある。決して、高められるような代物ではない。その代わり、貶められることもない、その人がその人であるということ、それだけが感性の根拠だからだ。

(p.4-7)

 

また、「美術批評家になるには」という章もよかった。

 

たとえば、批評家には認定試験のようなものはいっさいありません。それ見たことか、そんなのは信用できないよ、と思うかもしれません。しかしこれが、まったく逆なのです。批評家には、そういう資格のような公的なものがあってはいけないのです。

…(中略)…

個人の自由な表現で作られたものは、個人の自由な判断に任せるしかないのです。この場合の後者のうち、その「評」が社会のなかで、ある程度の信頼性を得ているのが批評家と呼ばれる人たちです。この信頼感というのが大事です。資格ではないのです。漠然としていますが、信頼というのは法的な拘束とは違うので、実は広く長く得ることはもっとむずかしいのです。試験勉強をすれば得られるというものではありません。地道に判断を積み重ね、その一つひとつが注目を浴びるようになり(いまではそれはブログやツイッターを含むかもしれません)、著作で思いを世に問うようになり、それがまた読者を得て、発言の場所や機会が広がっていく。そういう自発性がもっとも重んじられます。

(p.39-40)

 

「売り文句を疑う」という章からもちょっと引用しよう。

 

どんなに人が連日行列を作って並んでいる展覧会でも、自分がつまらないと感じれば、それが正しい。逆に、どんなにガラガラで閑古鳥が鳴いており、ネットでもどこでも話題になっていなくても、自分がおもしろいと思えれば、批評家としてはそれが絶対的に正しいのです。

(p.43)

 

 こうして引用してみると、よくある言説というか大したことが書かれていない気もするが、近頃の問題はこういう素朴で当たり前な批評観に対する「逆張り」が強くなり過ぎていることだ。ネット民というものは感性や感情を疑って、理論や合理性を信奉するものである。判断基準が明確でない物事はとかく毛嫌いするし、子供時代にガリ勉だったせいで「非合理な学校教育」に苦しめられたという被害者マインドな人も多いから、「美術鑑賞では最終的には個人の感性を大切にするしかない」という意見すら毛嫌いする人が多いのだ。その代わりに、美術史や美術理論の教育はやたらと持ち上げられて、「理論や背景知識がなければ美術の良さがわかるはずがない」という意見ばかりが横行する。

 ……「感性」派と「知識」派とのどっちが絶対的に正しいということもないだろうし、感性も知識もどっちも大事で中庸がいちばん良いのだろうが、ネット言説では「知識」派の金切り声ばっかりが聞こえてくるので疲れてしまう。そんななかでこの本に書かれているような素朴な意見は久しぶりに目にしたから、癒されたという感じである。

*1:わたしの定義では、「◯◯大学の人材にはこんな傾向があって〜」とか大学の「学風」でなく素朴に語ったりしてしまうような人間は、すべて批評性を欠いた凡人となる。

ひとこと感想:『働く女子のキャリア格差』&『若者は社会を変えられるか?』

●『働く女子のキャリア格差』

 

 

働く女子のキャリア格差 (ちくま新書)

働く女子のキャリア格差 (ちくま新書)

 

 

 タイトルからして様々な属性の職業選択や出世に関する格差(地方と東京ではこんなに違う、大卒と非大卒とではこんなに違う、みたいな)に関して論じた社会学・経済学系の本かと思ったら、全くそんなことはなくて、どちらかと言うとビジネス書や自己啓発書に近い。経営学者である著者が、働く女性向けに「時短トラップにハマったりマミートラックに乗ったりすると出世できずに生涯賃金が大幅に下がるから、"経営者マインド"を持ちながら効率よく成果を上げられるような働き方をして、育児と仕事を両立させましょうね」とハッパをかける内容だ。出産したり育休を取ったりする女性を受け入れるうえでの企業側の心構えについても多少は論じられているが(出産したからといって女性社員の仕事や責任を減らすのは逆に女性のモチベーションを下げる結果につながる、など)。

 以前に読んだ『高学歴女子の貧困:女子は「学歴」で幸せになれるか?』とはある意味で真逆の本であり、あちらは「反・自己責任論」であり高学歴女子の能力を活かせなかったり高学歴女子を労働から阻害する「社会」の責任を問うという調子の本であったが、こちらは、現代日本の社会状況や労働環境を前提としながらそのなかで女子がサバイブする手段(だけ)を論じるものである。「経営者マインド」というのも、要するに「自己責任マインド」だし。とはいえ、新書本を一冊読んで自己責任論を相対化して批判する視座を身に付けたところでそれが現実の労働のつらさを緩和するわけでもなければキャリアになにか利益をもたらすわけでもないのだから、こういう本の方がまだしも実用的ではある。

 ……と言いたいところだが、Amazonレビューなどに寄せられている一部の人の怨嗟の声を見ればわかる通り「"仕事と育児を両立せよ"だなんて簡単に言われても、それができないんだから苦労しているんだよ」とか「子どもが障がいを持っていたり病弱であったりしたら、この著書で説かれているようなキャリアプランはすぐに破綻するよね?」とか、男性であるわたしからしても理想論ばっかりあることがすぐに察せられてしまうような内容ではある。逆に、この本で書かれているような理想を達成しているような人は相当バイタリティとガッツのある人なので、本なんか読まなくても元からそういうマインドで生きているであろうことが想像できる。だから誰の役に立つ本であるかもわからないという感じだ。

 

●『若者は社会を変えられるか?』

 

若者は社会を変えられるか?

若者は社会を変えられるか?

  • 作者:中西 新太郎
  • 発売日: 2019/08/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 SEALDsやAequitasなどの現代の若者による社会運動を取り上げつつ、マジョリティの若者が権力によって政治から遠ざけられている状態になっていることとか、若者たちが諸々の社会問題や労働環境により疲弊したり絶望を抱いていることにも触れながら、自己責任論を批判したり「若者が政治から遠ざかったり希望が抱けない状態になっているのはだいたい社会のせいであって若者たち自身のせいではない」と論じたりして、若者たちを擁護しつつ若者たちに期待をかけて……という感じの本。

 この本のなかで描かれている議論とか事象とかはよくネットで話題になったり議論になったりするようなことばっかりであり、わたしのような若者(?)が読んだところで特に新しい知見が得られるわけでもなかった。どちらかというと、若者の理解者であり頭の柔らかく人の良い高齢者である著者が、若者に対して偏見を抱いている頑固で厳しい他の高齢者たちに対して、「若者の現状や、彼らの感じているつらさや苦しみについて、もっと理解してあげましょう」と呼びかけるために書かれた本のようである。なので、当の若者向けに書かれているわけではない。ラノベとか若手論客の本からの引用とか漫画からの引用がされているところはちょっと痛々しい感じがあったが、まあ書いてある内容自体に特に間違ったところがあるわけではなかった。

リバタリアンはフレンドリーで温かい白人男性ばっかり?(読書メモ:『リバタリアニズム:アメリカを揺るがす自由至上主義』)

 

 

 タイトル通りリバリアニズムについて書かれた本であるが、政治哲学や経済学などにおける理論としてのリバタリアニズムについて書いた本ではなく、現在のアメリカに生きて社会的・政治的影響力を発揮しているリバタリアンな人々たちの姿を追ったルポルタージュのような本だ。

 リベラルや保守とリバタリアニズムとの違いや、なぜアメリカで特にリバタリアニズムが発展したのかという思想史のおさらいがされている箇所はありつつも、著者自身は理論家ではないので、他の理論にリバタリアニズムを対比させて優劣や正否などを論じているわけではない。あくまで中立的な観点からアメリカのリバタリアンの人たちに話を聞いてみました、という内容の本である。

 ……とはいえ、著者がリバタリアニズムに対して明らかに好意を持っているというか、"肩入れ"していることは伝わってくる。たとえば、「あとがき」には以下のような文章が書かれている。

 

日本でリバタリアニズムの話をすると、「市場万能主義」や「弱者切り捨て」と同一視されることが多い。アメリカではそれらに加えて「ヒッピー」や「裕福な白人」などのステレオタイプもある。しかし、今回、私がアメリカ(そして他国)で会った多くのリバタリアンから受けた印象はかなり異なる。例えば、ケイトー研究所のデヴィッド・ボアズ副所長もアトラス・ネットワークのトム・パルマー副所長もヒッピーではない。両氏ともマリファナ解禁論者だが、自らはマリファナ嗜好家ではない。ほぼ全員が大卒以上だったのは確かだが、「裕福な白人」ばかりとの印象はない。パルマー氏の妻はタイの貧村出身である。何よりもフレンドリーで温かい人が多かった。不快な思いをしたことは一度もない。

では、私がリバタリアンかといえば、おそらく違う。……

(p.201)

 

 言うまでもないことだが、リバタリアンに「フレンドリーで温かい人」が多かったとして、それはリバタリアニズムが市場万能主義で弱者切り捨て的な思想であるという批判への反証にはならない。リバタニアリズムの問題点のひとつは「政府をなくした方が人々の自発的な協力や助け合いが発生してより多くの弱者が救われるはずだ」などの素朴な性善説を採用していることにある。耳心地の良い理想論を唱えておきながら、その理想論が実行されてしまったときに生じるであろう惨事の可能性からは目を逸らしたがるということだ。リバタリアンたちの多くが"善意"の人であろうことはわたしにもなんとなく想像が付くが、リバタリアニズムが批判されるのはその思想が悪意に満ちたものであるからということではなく、人間の能力やモチベーションの差とか社会における不平等の構造などの事象に対する現実的な理解が欠けている点であるのだ。

 そして、「リバタリアンといえば裕福な白人ばかりであるというイメージがあるが、実はちがう」ということがこの本では何度か言及されるわりに、数多く挿入されている写真に写っている人は、(中国のリバタリアンたち数人とアイン・ランドを除けば)見事にみんな白人男性ばっかりだ。ついでに言うとそのほとんどが中年男性であるし、いちばんの若年であるだろうパトリ・フリードマン氏ミルトン・フリードマンの孫のボンボンである。わたしが著者か編集者だったら、エクスキューズとして、女性リバタリアンの写真や有色人種リバタリアンの写真も挿入していたと思う。

 自らのことを「いかなる〇〇主義者」(p.202)と称することも控える「メタ・イデオロギー」(p.202)を持っていると自認する著者の態度は、往年のはてななら「自称中立」と揶揄されていたものであろう。結果として、この本はアメリカのリバタリアンたちの言い分をただ垂れ流しているだけのものになってしまっているのだ。

 リバタリアニズムのおさらいをしつつ近年のリバタリアンたちの運動や政治動向を簡潔にまとめた本としては価値があるだけに、イデオロギーに対する著者の距離の取り方(というか、距離の取れてなさ)が気になってしまった。このスタンスで書くなら、むしろ堂々と「わたしはリバタリアンだ/リバタリアニズムに賛同している」と明言してしまった方がずっとスッキリしていたと思う。

読者のことなんて気にしなくても「批評」はできるよ(読書メモ:『はじめての批評:勇気を出して主張するための文章術』)

 

はじめての批評  ──勇気を出して主張するための文章術
 

 

 この本の「はじめに」に書かれている、著者の問題意識は以下のようなものである。

 

…若い人々から、「書きたいけど、書けない」といった悩みを打ち明けられる経験が、ここ最近、少しだけ増えたように感じるのです。「うまく書けない」とか「書きたいテーマが見つからない」とかではなく、「書きたいけど、書けない」という彼らの問題意識をより掘り下げてみると、どうやらそうした悩みの背景には「訴えたいものがあり、それについて書きたいが、書くと反発を受けるのではないか」といった趣旨の、一種の躊躇、大袈裟な表現を使えば恐怖があるようでした。「炎上」などの言葉に象徴されるように、ある主張が特にインターネットを媒介として多くの人々に共有されると同時に猛反発の憂き目に遭い、総叩きを喰らうーーそうした現象は私も知っていましたから、なるほどと感じました。あるいは「炎上」ほど大規模なものでないとしても、書いた文章やつぶやいた言葉がすぐに誰かへと届き、間髪置かずにレスポンスが生まれる現状は、決して楽しいばかりの空間ではないという自覚が、彼らにはあるのかもしれません。

(p.12-13)

 

そして、著者が「批評」というものについてどういう風に考えているかは、以下の箇所で示されている。

 

本書の狙いは、要するにそうした価値を、めんどうくさがらず、丁寧に発見し、思考し、言葉に置き換えることをしてみようと呼びかける点にあります。その一連のプロセスを広い意味での「批評」であると考え、かつ「批評」の原点であると本書は位置づけています。

(p.21)

 

辞書などを紐解くと、「批評」という言葉は「物事の価値を判断すること」というように説明されています。やたら硬いイメージを持つ言葉ではありますが、本書の「価値を伝える文章」はまさしく対象の価値を判断する作業からスタートするわけですし、「批評」だって他者に伝えることを前提としているはずですから、意味の上では相違がなさそうに見えます。「レビュー(評価)とクリティシズム(批評)は違う」とする意見もあるかもしれませんが、前項で述べたように、価値を発見し、言語に置き換える過程を本書では「批評」の原点としていますから、両者は相互に包摂されていると考えています。「価値を伝える文章」には、当然ですが書き手の意志も反映されます。単に事物や事象の一次情報だけを拾ってその価値のみを言語化するのではなく、文章の読み手に対して行動を促したり、対象を含む社会全体への気付きをもたらしたり、あるいは新たな思考の萌芽を呼び起こしたりすることなども、目的意識に含まれるでしょう。

(p.22-23)

 

 上記の引用箇所では、「批評」とは「対象の価値を発見すること」に留まらず「その価値を他者に伝えること」である、と定義されている。そして、著者は前者よりも後者の方がむしろ重要であると思っているようだ。

 副題に「文章術」と書いてあるだけあって、この本の内容は「価値の伝え方」に終始している。つまり、他人に伝わりやすくて他人に強い印象を与えることができて他人を説得しやすいような文章を書くためにはどうすればいいか、というレトリックの解説ばっかりなのである。いわゆる「文章読本」というたぐいの本であるとも言えるだろう。理想的な文章の例として夏目漱石とか太宰治とかの文豪の文章ばかりが引用されているところ、そして肝心の"批評家"の文章はほとんど引用されていないところも、実に文章読本的だといえる。

 

 若者たち(と、もはや若者と言うこともできないわたしの同世代の連中たち)が炎上や軋轢を恐れて、せっかくインターネットでSNSをやっていたりブログをやっていたりするのに自分の考えていることや言いたいことを思うように発信できず、無難な意見かネットの趨勢に沿った意見かしか発信しない状態に甘んじているという場面は、よく見かける。

 ネットの世界に限らず、リアルにおいても「自己表現をすることは恥ずかしいことである」「他人と違う意見を言ったり他人に対して反論や批判をしたりすることは、他人を傷付ける可能性のある攻撃的なことだからやってはいけない」という風な考え方を抱いてきたがために自分の意見を表明する経験を積み重ねておらず、意見表明のやり方を知らないままだったりヘタクソだったりしたまま大人になった、という人はよくいる。よく言われるように個性抑圧的で同調圧力的な日本式の学校教育が原因となっていることはたしかだろうし、そのほかにもメディアの影響とか国民性とかがあったりするのかもしれない。

 

 他の人とは違った物の見方ができていて価値のある意見を持っている人は放っておいてもどこかで何らかの形で自分の意見を表明するだろうし、逆に、他人との軋轢や炎上のリスクがこわいという程度のことで口をつぐむような人はどのみち大した意見も持っていないだろうからそのまま黙っていていいよ、という気はしないでもない。意見を発信するための"勇気"なんて本を一冊読むことで他人から与えてもらえるようなものじゃなくて、思考や経験を積み重ねたうえで自力で獲得すべきものだろう、という気もする。

 それを言ったら元も子もなくなるから黙っておくとしても……他人からの反発がこわくて文章を書くことに尻込みしている若者たちに伝えるべきは、「他人から反発を受けないような文章の書き方」ではなくて、「他人のことなんて気にせずに自分の思っていることを素直に書け」という心構えであるだろう。

 

 実際、近頃のインターネットでは、他人からの反発を受けずより多くの人からの賛同を得られるようなレトリックを凝らした文章が目立つようになっている。たとえば、Twitterに投稿される映画感想が同調圧力に逆らわない範囲でのウケ狙いに終始している、という問題については以前に指摘した。Twitterよりもさらに匿名性が高くて本来は"自由"な意見発信が保証されているはずの5ちゃんねるやはてな匿名ダイアリーでも、それぞれのプラットフォームにおける内輪ノリ的な作法と文体が確立しており、それに従わない文章が投稿されると見向きもされなかったり不当に叩かれてしまったりする傾向がある。ブログを書いている人たちのなかにもブクマを稼いだりアフィリエエイトで稼いだりするために読者に好感度を抱いてもらうことに余念のない人はよく見かけるが、アフィリエイトがない代わりに記事単位で販売することが可能であるnoteでは好感度稼ぎがさらに加速して、丁寧で読みやすく読者に不快感を抱かせないことに腐心した記事がさらに目立つようになっている。

 しかし、既存メディアに対するインターネットの優位である「集合知」や「多様性」は、みんなが他人の目を気にして同調圧力に屈すると機能しなくなってしまう。誰にウケなくとも、みんなとは正反対の意見を持っていたり根拠がなかったりしても「私ならこう考える」「俺はこう思うんだぜ」と書き続ける人がいないと、インターネットの価値はなくなってしまう。

 ……そして、実のところ、そういう人は現在でも多数存在し続けている。みんなのシネマレビューFilmakersなどの映画レビューサイトでは時流や風潮など気にせずに思ったことを素朴に書く人がいまでもいてほっとするし、ブログやTwitterでもマイペースを貫いて好き勝手書いている人は沢山いる。こういう人たちこそが地の塩だ。(なので、わたしはインターネットの未来をさほど悲観しているわけではない。先ほども書いた通り、価値のある意見を持っている人はネットの風潮がどうであろうと気にせずにどこかに意見を書くものであるからだ)。

 

 閑話休題して、『はじめての批評』についての話に戻ると……著者の本業は編集者であるらしいが、批評についての本であると銘打っておきながら、「対象の価値を発見する方法」についてはほとんど議論せずに「その価値を他者に伝える方法」に終始するところは、悪い意味で編集者的な価値観であるなと思った。

 「価値を発見すること」は批評の本質である一方で、「価値を伝えること」は副次的なものである。「伝え方」やレトリックが大切でないとは言わないが、批評においてのそれは対象の価値が発見できてこそだ。対象の価値について客観的に見定めたり自分なりの意見を持ったりできるようになることが批評をするうえでは欠かせないのであり、それを差し置いて「伝え方」の技術ばっかり磨いたところで、中身のない空虚なものとなってしまう。

 

 

 従来の「文章読本」とは、プロの文筆家によって同業者や同じくプロになりたいと願っているワナビー向けに書かれたものであり、その内容も「プロのような文章を書くためにはどうすればいいか」ということに主眼が置かれている。そして、編集者がその職業生活を通じて培う文章技術も、作家のそれと多少異なるものであるとはいえども「プロ」のものであることには変わりない。

「プロ」の文章ということは、要するに商品として市場に流通させることを目的とした文章であるということだ。だから、客である読者の存在を常に念頭に置かなければいけない。広く流通させるために内容はある程度は一般的なものにしなければならないし、余計な粗や棘を残さないように洗練させなければいけない。文章のリズムを整えるとか語り口を意識するとか助詞の使い方に気を付けるとか語彙を増やすとかの工夫をしなければいけないのは、そうしなければ読者のことを無視したものになってしまって、商品として不適当になるからである。

 そのような文章が悪いとは言わないが、問題なのは、「商品として適当な文章」と「良い文章」、そして「良い文章」と「良い批評」とを同一視してしまうことだ。

 

 特に日本では、いまも昔も、有名で尊敬されている「批評家」の大半は「レトリックの巧みな人」である。批評の中身が妥当であるかどうか、その批評が価値を正しく発見しているかどうかよりも、「いかに価値の伝え方が巧み(で独特)であるか」ということばかりが注目されるのだ。……出版界で活躍する批評家が商品としての文章を書く技術を洗練させることは当たり前であるかもしれない。問題なのは、ネットのブログだったり同人誌だったりに批評を書く人たちまでもが、出版界で活躍している「批評家」に憧れてそれを模倣しようとしてしまうことである。

 批評というものは"ああいう風"にするべきである、というのはあくまで出版界という局地的な世界におけるルールだ。本来なら、同人誌やブログで書く我々がそのルールに従わなければいけない、と決まっているわけではないのである。

 文章をダイレクトに「商品」と販売できるプラットフォームであるnoteに書かれる記事は、読者の顔を伺いながら粗や棘をなくして読みやすい文章にする傾向が高く、出版におけるレトリックのルールがそのまま持ち込まれている感じが特に強い。……しかし、noteに書かれる記事って大概のブログよりもさらにつまらないものが多い。というか、商品と整えられて流通している本だって、中身があったり面白いものであったりするとは限らない。売るための文章を書くためのルールは、価値のある文章を書くためのルールとはまた別物なのである。

 

 最後に、「批評」について話を戻そう。以前にも書いたように、たとえばネットの映画批評に関して言うと、映画メディアの署名記事やnoteやSNSよりも、みんなのシネマレビューや5ちゃんねるのような匿名性が高くて属人性の低い場所の方が活き活きとした「批評」が見られることは間違いない。そこに書き込んでいる人の大半は他人への伝え方なんてことに気を配らずに、思ったことや考えたことを直球に表現しているからだ。……これらのサイトで長文が投稿されることは少ないから、作品に踏み込んだ深い批評が見られないという問題はある。そのような深い批評に関しても、やはりメディア記事やnoteよりかは金銭的欲求や功名心の感じられない個人ブログなどの方が、より質の良い批評が揃っているように思える。これはインターネットの民主主義性がきれいにあらわれた事象であるとも言えるだろう。やっぱり、読者のことや他人のことなんて気にかければ気にかけるほど、批評は堕落していくのだ。

「トランプ支持者の白人労働者」について書かれた本をまとめて読んでみて…

 

 

 

 

 

壁の向こうの住人たち――アメリカの右派を覆う怒りと嘆き

壁の向こうの住人たち――アメリカの右派を覆う怒りと嘆き

 

 

 

 

 ↑ 世間ではブラック・ライヴズ・マターが話題だが、あえてこのご時世に、ひと昔前に邦訳された「トランプを支持した白人労働者の問題とはなにか、彼らはどんな特性や性質を持っているのか、なぜ既存メディアやリベラルでインテリなエリートは彼らの存在を無視してしまいトランプの当選を予期できなかったのか」というタイプの本をまとめて読んでみた。

 このなかでは『ホワイト・ワーキング・クラス』がいちばん面白かったので、この本については個別に感想記事を書いている。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 なぜこんな本ばかり読んだかというと、さいきんはネットフリックスで映画ばかり見ていたのだがアメリカ映画全体に多かれ少なかれ漂う「保守的な白人はいくら馬鹿にしてもいい存在である」「田舎は脱出すべき場所であって、まともな人間はニューヨークかカリフォルニアのどちらかに住むものだ」という価値観に耐えられなくなってきて反動的な気持ちになったというところが強い。また、『アメリカン・ファクトリー』を見て、改めて「アメリカの田舎労働者」問題に興味を抱いたというところもある(そして、『アメリカン・ファクトリー』は例外として、ネットフリックスで観れるほかのドキュメンタリー作品のラインナップは「ネットフリックス的価値観」に縛られていて多様性や自由のイメージを強調すぎるあまり逆に多様性や自由を失っている感じが強く、「こんなんばっか観ていたら洗脳されちゃうから、ちゃんと本も読んで別の考え方にも触れなきゃな」と思ったというところもある)。

 

 で、これらの本の内容だが、『ヒルビリー・エレジー』のように個人的なメモワールもあれば『新たなマイノリティの誕生』のような無機質な学術的調査もあり、その切り口や語り口はそれぞれ違う。

 インテリの学者が都会からオハイオ州に赴いて参与観察した『壁の向こうの住人たち』ではトランプ支持者やティーパーティー運動の参加者に対して「理解してあげよう」という寛容なスタンスが全面に出ているのに対して、白人労働者の世界で生まれ育った末にそこから逃れた著者の回想録である『ヒルビリー・エレジー』では彼らに対する愛着やノスタルジーを記しつつも批判すべきところでは手厳しく突き放す、という違いも面白い。

 

 トランプを支持するような白人労働者の世界観について、いずれの本でも多かれ少なかれ共通して描写されている特徴がある。

 

(1):彼らは自分たちが「勤勉」「誠実」「真面目」だと自認しており、労働倫理がアイデンティティや誇りの中核を構成している。(『ヒルビリー・エレジー』で強調されているように白人労働者のなかでも仕事がまともにできなかったり福祉に頼りっきりの人が多いのだが、そういう人たちですら「真面目な自分が仕事を続けられないのは国や社会の現状のせいであり、アメリカがまともな状況であったら自分だって仕事をまともにしていたはずだ」という意識を持っていたりするのだ)。

 

(2):黒人や移民に対する敵意は「連中は真面目に労働をせずに、福祉に頼ったり犯罪をしたりして怠惰に生きている」という認識から醸成されている。そして、本来なら自分たちが得られていたはずの仕事や福祉や尊厳が彼らに「横取り」されているという気持ちを抱いている。

(『壁の向こうの住人たち』では、この感覚を「アメリカンドリームが待っている山頂の列に自分たちが並んでいると、黒人や移民が割り込んできた」という風に表現している)。

 

(3):都会のインテリやエリートやマスメディアは自分たちのことをバカにして蔑ろにして黒人やマイノリティばかりを気にかけている、という敵意や被害者意識を彼らは抱いている。そして、都会のインテリは労働倫理もキリスト教的倫理も持っていなくて道徳的に腐敗している、と考えている。

(ただし、トランプのように成功した実業者に関しては道徳的腐敗が見過ごされて、カリスマとして崇められる。このダブルスタンダードともいえる感覚は『ホワイト・ワーキング・クラス』や『壁の向こうの住人たち』などで描写されている)。

 

 

 また、アメリカン・ドリームはもはや形骸化した理想であり現実のアメリカにはそんなものは存在しない、ということは散々指摘されているが、彼らは未だにアメリカン・ドリームの幻想にすがり着いている。だからこそ「労働」や「努力」が誇りの中核となり、敵対者に対する最大のレッテルは「怠惰」になる。

 そして、『ヒルビリー・エレジー』や『ホワイト・ワーキング・クラス』で描かれているように、実際のアメリカはアメリカン・ドリームの理想とは真逆で生まれ育ちや文化資本社会関係資本の有無にその人の成功や人生が左右されてしまう国であるのだ。そういう点では、「都会のエリート連中はたまたま三塁に生まれついただけなのに、自分は三塁打を打ったのだと思い込んでイキっている」という彼らの怒りは、妥当でもある。

 

 ところで、「自分たちは真面目で誠実に生きているのに、怠惰な"奴ら"が福祉などを通じて自分たちの取り分を奪っている」という感覚は日本でも見られるものだろう。「在日特権」という言葉は最近あまり聞かなくなってきたとはいえ、社会福祉と公務員を共通敵に仕立てあげることで支持を得てきた維新の会は、最近またもや支持率を上げているところだ。維新の会の組織基盤がある大阪が、反・都会(東京)で反・インテリなエートスがあり被害者意識や"主流"に対する敵対意識が強い地域であることはよく指摘されている。わたしはカール・シュミットは読んだことないが、政治は「友と敵」の概念によって動くという彼の理論は現代の社会にも不気味なくらいに当てはまっている……かもしれない。

 

 トランプのようなポピュリストが彼らの被害者意識や敵対意識を煽って支持を得ていることは言うまでもないが、リベラルなメディアの責任もやっぱり大きい。今年に公開された映画だけでも、『ナイブズ・アウト』『デッド・ドント・ダイ』など「保守的な白人は作中で悪役認定してボロクソに扱ってもいい存在だ」という安直な意識で作られているものがいまだに散見される。

 より上等な映画でも、「リベラルで芸術ファンな知識人のみんながこれを見て絶賛しているようなら庶民や労働者との対立は深まるよなあ」と思わされるものはある。これはアメリカではなくフランスの映画になってしまうが、黒人・移民による擁護の余地のない犯罪や暴動がなんだか肯定的に描かれている『レ・ミゼラブル』とそれに対する絶賛はどうかと思った。

 社会のルールを守らないこと、宗教的な規範や保守的な規範に唾を吐きかけて性的な自由や解放を讃えること、調和や礼節よりも逸脱や反抗のほうが格好良くてエラいとすること……こういうカウンターカルチャー的な価値観は、20世紀の後半以降、どこの国でも知識人やリベラルや芸術家や芸術ファンや都会民の主流であり続けている。そして、これこそが、道徳を守りながら真面目で誠実に生きている(と自分では思っている)市井の人々を苛立たせて彼らの被害者意識や敵対意識を強化させている根本的な問題なのではないかと思う。だいたいこのテの価値観はもうだいぶ形骸化して陳腐化しているし、現在となっては、もう少し「中道」や「良識」に寄せた価値観の方がもっと知的で刺激的なものではないかという気もする。

「再分配に関心はあるが、政党には無関心」(読書メモ:『アンダークラス:新たな下層階級』)

 

アンダークラス (ちくま新書)

アンダークラス (ちくま新書)

 

 

 同じ著者の『新・日本の階級社会』は以前に読んだが、その本から内容はあまり変わっていない。社会科学らしく統計情報が大量に出てくる本ではあるのだが、大量に出てくる図表はいずれも小さくて見づらいし、本文中にも漢数字が多過ぎて嫌気が差してくる。本の内容としても、似たようなテーマを扱っているが著者による解説がうまくて文化人類学的な面白みも感じられた『日本の分断:切り離される非大卒若者たち』に比べると、内容が堅くて味気ない。

 日本のインテリとか出版人とかって「新書文化」を誇りに思っているフシがあるが、特に社会科学系の新書と歴史学系の新書は、読みやすいと言えないかたちで情報の羅列に終始しているものが多い。そういう本を読み通せる人は元から本好きであったり知的好奇心がすごい人であって、普通の人はわざわざ読み通そうとしないだろうし、そうなると「新書本が日本人の教養を下支えしている」的な言説もウソなんだろうなという気がしてくる。

 

 ともかく、この本のなかで印象に残ったところを箇条書き。

 

●第四章「絶望の国の絶望する若者たち」は、章のタイトルから予想される通り、古市憲寿の『絶望の国の幸福な若者たち』でなされていた主張を批判する内容である。古市(やその元ネタの大澤真幸)の問題点は、「満足感」と「幸福」を同一視していたこと(「現状に満足している」ことは「現状は幸福である」ことを示さない)、そして若者の所属階級を考慮していなかったことだ。アンダークラスの男性はどの年齢層においても他の階級の男性よりも幸福感が低いし、特に若者のアンダークラス男性は抑うつ傾向が大人より高いのである。

 

アンダークラス男性、とくに二〇ー三〇歳代の若い男性は、精神的にかなり追い詰められているといっていい。若い男性が幸福だなどとは、とてもいえない。とりわけ雇用の悪化の犠牲者であるアンダークラスの若い男性は、絶望と隣り合わせにいるのである。

(p.169)

 

アンダークラス男性は金銭面だけでなく健康面や心理面でも様々に不利な状況にいるが、そのなかでも際立つのは「信頼できる人間の少なさ」だ。20歳〜59歳までの男性の場合、信頼できる家族の正規労働者なら平均8.5人だがアンダークラスは平均4.9人であるし、信頼できる友人の数は正規労働者なら平均8.8人だがアンダークラスは平均3.2人である(結婚していないアンダークラスはさらに友人知人の数が少なくなって平均2.9人である)。貧乏だと友人が3人前後しかいない、というのは我が身を振り返っても周りの人のことを考えてみてもいやにリアリティがあって身につまされる。

 

●自己責任論が叫ばれる日本であるが、貧困の当事者であるアンダークラスたちは「いまの日本では収入の格差が大きすぎる」とか「貧困になったのは社会の仕組みに問題があるからだ」という考えが他の階級よりも強く、再分配の拡大や福祉の充実にも最も強く賛成している。「日本では貧困層の人たち自身も自罰的になって福祉を敵視している」というイメージがなんとなくあるが、実際には全然そんなことないのだ。

 

アンダークラスを代表するような有力な政党も、労働組合などの団体も、見当たらない。彼らはいまのところ、政治的に無力である。彼らは孤立しがちで、組織されにくい。しかし彼らの社会への不満と正当な怒りは、社会を変えるための行動に踏み出す十分な動機となり得る。これを組織する回路が作られるなら、彼らは日本の政治に大きな影響を及ぼすようになるだろう。若年・中年アンダークラス男性は、日本の希望なのである。

(p.132)

 

 しかし、問題なのはアンダークラスは政治参加への意識が低いことである。第八章「アンダークラスと日本の未来」では、どの階級にも通じる一般的な傾向として「現状に満足している人は自民党を支持する傾向が高く、現状に不満がある人は自民党以外を支持する傾向が高い」ということが示されているが(とはいえ、どの階級のどんな満足度の人でも「支持政党なし」が60%を超えてはいるのだが)、"現状に不満を抱いているアンダークラス"の人は「支持政党なし」が80%を超えているのだ。「…生活に不満を持つアンダークラスは、政治に対して何を期待することもできず、政治に対する関心を失ってしまう。だから支持政党のない人の比率が、極端に上昇してしまうのである」(p.223)。満足度を幸福度に置き換えても、同じ現象が起こる。

 この現状を打破するための著者の提案は、以下の通り。

 

ある意味では、答えは簡単である。格差の縮小と貧困の解消だけを旗印とし、アンダークラスを中心とする「下」の人々を支持基盤にすることを明確に宣言する、新しい政治勢力があればいい。

(p.237)

 

 つまり、左翼は護憲とか環境保護とかの従来のお題目は捨ててしまって、再分配による格差是正というシングルイシューの政治運動をせよ、ということである。この本のなかでも引用されている松尾匡的な主張であるし、ネット論壇でもだいぶ昔から叫ばれている主張であるだろう。だから目新しい主張ではないし、わたしの興味はむしろ「そういうシングルイシューの政治運動はなぜ実現したことがないのか/失敗してきたのか」という方に移っている。

 

 それはそれとして、「再分配に関心はあるが、政党には無関心」(p.210)というのは身近な知人を見ていてもネットを見ていても、たしかによく感じるところだ。そもそも、アンダークラスじゃなくても「支持政党なし」が60%を超えている点がおかしいと言える。政治や政党への無関心が日本を蝕む根本的問題であるのかもしれない。

 

●第5章「アンダークラスの女たち」では、アンダークラス男性とは微妙に異なるアンダークラス女性たちの特徴が示されている。若いアンダークラス女性の抑うつ傾向は際立っているし健康状態も悪いが、知人や友人の平均値はアンダークラス男性の2倍近い6.0人であるし(正規労働者女性は7.9人)、余暇活動や消費生活もそれなりに充実している。また、女性はどの階級でも男性に比べて自己責任論を否定して再分配を支持する傾向にあるが、アンダークラス女性はアンダークラス男性ほどには再分配を支持していない。

読書メモ:『アメリカを動かす「ホワイト・ワーキング・クラス」という人々』②

 

 

 

●ワーキング・クラスの人種差別

 

カナーシーのワーキング・クラス出身だが教養のある主婦は言う。「実際には階級の問題なんです。相手がいい人であれば肌の色なんて気にしません。学校の行事で一緒に仕事をしている黒人のご両親はみな、洗練されたすばらしい人たちです。私たちと変わりありません」。カナーシーの住民が腹にすえかねるのは、「貧民街」に暮らす黒人たちだ。「あの人たちが興味を持つのは、派手な車と酒と女だけ。家族のためにがんばろうともしない」。 社会学者のジョナサン・リーダーはこう述べている。「人種差別的に見える判断の奥には、相容れない階級文化という避けられない現実がある」。それも一理あるが、階級の問題だけではない。生活難を安易にアフリカ系アメリカ人に結びつけすぎている。これも一種の人種差別である。

(p.107-108)

 

 勤勉さを尊ぶ労働倫理が人種差別に結び付いているところがポイントだ。なお、エリートはエリートで、「アフリカ系は能力が低いだろう」という予断を抱いてしまっていることも本書では指摘されている。前回の記事で紹介したのと同じように、エリートは「能力」を、保守派は「勤勉さ」を重視するという価値観の違いが差別の場面でもあらわれるのだ。

 

●メディアの問題

 

ホックシールドは言う。「私が話を聞いた人はほぼ全員、自分たちの経済的基盤が揺らいでいると感じていた。(中略)また、社会的に無視されているという意識もあった」。彼らは、その伝統主義的な考え方を全国メディアで嘲笑されて、見くびられ、責めたてられているように感じた。ヒラリー・クリントンは選挙期間中、彼らを「嘆かわしい人々」と読んだが、それでは彼らの支持は取り戻せない。

(p.118)

 

 わたしはアメリカの全国テレビは見ていないが、Netflixを見ているだけでも、知的でリベラルな映画やドラマやドキュメンタリーがワーキング・クラスを無視したりコケにしたりしていることはよく伝わってくる。労働者を主人公にしたり田舎での人間ドラマに焦点を当てたものもたまにあるとはいえ、大概の作品はニューヨークかカリフォルニアが舞台であるか、田舎が舞台であるがその田舎のことを「否定すべき/脱出すべき場所」として描いている。そのくせ人種的な多様性や性的な多様性は賛美するので、こういうメディアに対する反動としてワーキング・クラスがさらに保守化したり差別的になっていったりするのも宜なるかなというところだ。トランプ誕生から4年が経ち、このテの指摘はアメリカ国内でも出まくっているだろうが、(おそらくブランディングや商売戦略を優先して)「Netflix的価値観」はまったく変わる様子がないところもどうかしている。

 

●「権利」概念の危うさ

 

一般的に言って「人権」という言葉が出てくると、「ほどほどの余裕を持つ」こと自体が難しくなる。中絶問題(賛成、反対を問わず)や、性的少数者の権利、人権、宗教、ジェンダーなど、現代のアメリカに存在する多くの論点にこうした傾向があてはまる。 これらすべてを人権問題という枠でくくることは、いろいろな意味で便利だが、同時に危険でもある。なぜなら「人権」とはもともと、ジェノサイドや人道に対する罪はいかなる場合でも許されないということを知らしめるために発明された概念であり、本質的に妥協は許されず、何をさしおいても優先されなければならないものだからだ。

(p.194)

 

 権利という概念の硬直性や非妥協性は倫理学では功利主義の立場からも批判されているが、政治問題でも実害を及している感じはたしかにする。「権利」という言葉は絶対的なイメージが強すぎて、利害を調整してバランスをとるという現実的な対処法とは水と油であるのだ。