道徳的動物日記

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労働者のエートスとエリートのエートス(読書メモ:『アメリカを動かす「ホワイト・ワーキング・クラス」という人々①』)

 

 

 2016年の大統領選では多くの人がヒラリー・クリントンの勝利を確信していたが、実際にはドナルド・トランプが勝利することとなった。それをきっかけに、「リベラルなエリートは世の中を読み違えていたぞ」とか「メディアや知識人は人種的マイノリティや性的マイノリティにばかり注目して、マジョリティである労働者に目を向けていなかったのだ」という問題意識がにわかに湧き上がり、それについて語る様々な記事や本が矢継ぎ早に登場することになったものだ*1。そのなかでも『ヒルビリー・エレジー:アメリカの繁栄から取り残された白人』『壁の向こうの住人たち:アメリカの右派を覆う怒りと嘆き』は特に注目されたものであるだろう。

アメリカを動かす「ホワイト・ワーキング・クラス」という人々:世界に吹き溢れるポピュリズムを支える"新・中間層"の実態』もそんな「"トランプ支持者とは何者か?"ブーム」の一環として世に出されたものである。邦訳書の毒々しい装丁やなんか陰謀論チックな香りのする副題に「大丈夫かよ」と思いながら読み始めたのだが、これが意外と面白かった。類書に比べると内容が軽くてゆるくて読みやすいところが特徴ではある。また、「アメリカ」や「白人」という特定の地域・人種にとどまらずに日本などの他の地域でも当てはまりそうな、「労働者」という属性全般の一般的な特徴を描いているところがポイントだ。

 

 たとえば、第3章「なぜ、ワーキング・クラスは貧困層に反感を抱くのか?」や 第4章「なぜ、ワーキング・クラスは専門職に反感を抱き富裕層を高く評価するのか?」などでは、労働者に特有の道徳観(エートス)が浮き彫りにされて、富裕層のそれと鋭く対比されている。

 

アメリカのワーキング・クラスの家庭で、フルタイムの仕事を二つ持ち、安定した生活を維持するのは大変である。それには、たゆまぬ努力と厳しい自己鍛錬が必要だ。そのため、どんな人間的特徴を高く評価するかを尋ねると、ワーキング・クラスのアメリカ人は白人も黒人も、道徳的な特徴を挙げる。道徳心よりも優秀さを自尊心の糧としているエリートとは対照的だ。ホワイト・ワーキング・クラスは、「気がつく人」「高潔な人」「問題を起こさない人」「正々堂々とした人」を好み、「思いつきで行動する無責任な人」を嫌う。また、「正直」「強い責任感」「誠実」「勤勉」といった特徴を高く評価し、「不正直」「無責任」「怠惰」といった特徴を軽蔑する

(p.35-36)

 

同じ政府からの給付でも、仕事にまつわる給付は受け止められ方が違う。失業者給付は、「その人のこれまでの労働の対価であり、受けるにふさわしい所得」と考えられる。一方、それとはまったく対照的に、所得制限のある給付を受ける者は、「怠け者」の烙印を押される。

(中略)ちなみに同じワーキング・クラスでも、政府からの給付に対するアフリカ系アメリカ人の考え方は、白人とは大きく異なる。 アフリカ系アメリカ人は、構造的に不平等が生まれることをよく理解している。そのためワーキング・クラスのアフリカ系アメリカ人はフランス人と同じように(ワーキング・クラスの白人とは異なり)、貧困層に対して批判的な判断をしない。むしろ「神の思し召しがなければ自分もあんな風になっていただろう」と思い、連帯して助け合うべきだと考える。

(p.43-45)

 

 上記の引用箇所は、生活保護バッシングが激しい日本にも当てはまることだろう(政府からの手当や給付金や生活保護に対するスティグマは、コロナ騒動によって多少は軽減されるようになったかもしれないが)。

 

ワーキング・クラスからすれば、専門職は常にあこがれの対象というわけではなく、その能力を疑いの目で見ている場合が多い。管理職のことは、「何をどうするべきかまるで知らないくせに、人にどう仕事をさせるべきについてはいろいろと知っている大学出のガキ」としか考えていない。バーバラ・エーレンライクは一九八九年の著書の中でこう回想している。「ワーキング・クラスだった父は、『医者』と言うときには必ずその前に『やぶ』をつけていた。弁護士は『悪徳弁護士』で、(中略)教授は例外なく『にせ教授』だった。」

p.48

 

エリートは社交を通じて、幅広い人々と円滑な関係を築き、相手に自分の洗練度を印象づける能力を育む。エリートの子供は幼いうちから、知らない相手でも目をじっと見て握手をするように教えられる。子供の将来は、起業家的ネットワークを形成・維持できるかどうかにかかっているからだ。調査によれば、専門職の五一〜七〇パーセントが、個人的な人間関係を通じて仕事を獲得している。だから前述のようなディナーパーティを催し、「人脈」を築こうとする。エリートの中心的価値観である自己実現の手段の一つなのである。

ワーキング・クラスには、この私生活と仕事上の戦略とが入り混じった特有の生活形態が偽善的に見える。出世に必要な駆け引きや工作も同様である。ワーキング・クラスにとって娯楽は、仕事から離れることを目的としており、決して仕事の延長ではない。パーティの目的は、よく知らない人に自分を印象づけるのではなく、なじみの料理をふんだんにふるまい、よく知っている人々の心を和らげ楽しませることにある。

(p.55-56)

 

専門職のエリートが普通だと見なしているものはたいてい、ワーキング・クラスには、エリート階級の栄誉を見せびらかしているようにしか見えない。たとえば、一般的な専門職階級が会話のきっかけに使う「お仕事は何を?」という言葉を考えてみよう。この言葉は、仕事の内容やそれによる経済力を誇りに思える階層でこそ意味を持つ。私に尋ねられれば、すぐにこう答えられる。「法学の教授です」

しかしワーキング・クラスでは、この種の誇りを与えてくれる仕事は、消防士や警察官、兵士など、限られている。(中略)そのため、パーティでの最初の質問が「お仕事は何を?」にはならない。

だからこそワーキング・クラスの社会では、「何をしているか」よりも「どんな人間なのか」、仕事よりも人格に関心を向ける傾向がある。ホワイト・ワーキング・クラスは、ラモンの言葉を借りれば、「道徳的な秩序を維持」しようとする。これは多くの場合、「伝統的」な価値観を守ることを意味する。(中略)彼らにとって伝統とは、地元に根づき、家族的価値観を守ることにあった。家族的価値観とは、両親のいる家庭で安定した生活を築き、家族で家族の面倒をみることに重きをおく価値観である。

(p.57-58)

 

 上記の引用箇所で示されているような、知的専門職エリートの価値観や行動様式に鼻白むワーキング・クラスの感情には、わたしも共感できるところがある。

「人脈」を広げることに生きがいを感じてそれを誇りに思うタイプの人にわたしが出会うようになったのは社会人になってからであるが、彼らのような人間に対してはわたしも苦手意識を持つ。

 また、弁護士や医師や理系アカデミシャンなどの知的専門業に就いている人の大半もわたしは苦手である。自分の能力や知性を職業と収入に直結させるだけでなく、自分の職業や専門分野に自分という人間の人格や存在意義や行動指針やアイデンティティの全てを委ねているように見える人が多いからだ(文系アカデミシャンに関しては、まともな人であれば自分の職業とアイデンティティを直結させることに対してためらいや疑いやアイロニーを挟むものなので、また話が別だ)。Twitterを見ていても、弁護士ツイッタラーや医者ツイッタラーって小賢しくてイヤな奴が多いような気がする。

 ……ともかく、「仕事」を誠実にこなすことは重要視するが「職業」や「専門性」を誇る人間は軽蔑する、という感覚はわからないでもないのだ。これはわたしだけでなく、日本でもけっこう多くの人に共有されている感覚ではあるだろう。ネットはテレビなどの従来メディアに比べると「専門家」が賛美されやすい空間ではあるが、それでも、専門家に対する素朴な反感を表明する("反知性主義的"だと怒られそうな)言葉はちらほらと見えてくるものだ。

 ちなみに、この本では、ワーキング・クラスよりもむしろエリートの方が労働時間が長くて休日にも家庭に仕事を持ち込む傾向があることが指摘されている。そして、それもワーキング・クラスから見ればエリートによる家庭の軽視や伝統的価値観の蔑視でしかないのだ。

 

伝統的な家族的価値観に重きを置く態度もまた、専門職階級との対立を生み出す原因となる。エリートは、自分が洗練されていることを示すために、アバンギャルド(前衛的)な性的指向、自己表現、家族形態に寛容な態度を示す。アバンギャルドは、十九世紀初めに始まった、「主に文化的な領域で、規範や体制として受け入れられてきたものの境界を押し広げる」芸術運動である。この、当時のヨーロッパの芸術家の間で始まった「慣習への挑戦」が、二十一世紀アメリカのエリートの文化世界に受け継がれている。彼らエリートは"小市民"とは違い、アバンギャルド性的指向を受け入れることを誇りとする。

(p.59-60)

 

 "性やジェンダーの多様性に対する承認"がエリートの間での作法やファッションとなっているのも、よくわかるところだ。Netflixは配信作品のラインナップやオリジナル作品の内容からリベラルで多様性を肯定するイメージを振りまいているが、そのなかでも性的な多様性はちょっとしつこいくらいに推してくる。日本での消費のされ方を含めて、性的多様性への承認にファッション的な側面があることは、やはり否めないだろう。

 

階級格差を表すものには、食べ物や宗教のほかに、会話の役割もあげられる。エリートの家庭は非エリートの家庭に比べ、子供との会話量がはるかに多い。ワーキング・クラスから教授になったある人物は言う。「ワーキング・クラスも、自分を見つめ直したり自分の心の状態に関心を抱いたりしないわけではないが、一般的には自分の『心』にあまり目を向けない」。J・D・ヴァンスは、セラピストに相談に行った際、「自分の感情について他人と話をすると、胸がむかついて吐きそうになった」と言う。これも、彼らがプライバシーに高い価値を置いているからだ。「内面をさらけ出す」ことに抵抗を感じるのである。ノースダコタ州で育ち、階級の壁を乗り越えたある人物は言う。「私の家では、仕事や学校の話はたいてい一言で終わりました(「今日はどうだった?」「別に」)。それ以外に詳しい話をしたり、熱心に話し込んだりすれば、途方もないうぬぼれだと思われかねませんから」。自分が読んでいるおもしろい本の話はあきらめるほかなかった。

(p.54)

  

 上記の引用箇所は読んでいてちょっとつらくなったところだ。たしかに、知人と会話していても、自分の内面を他人に伝えることへの抵抗感や苦手意識、自分自身の心に対する無関心さなどが察せられることはある。また、特に男性の場合は恋人や配偶者に対して自分の内面を伝えることにも無頓着になったり、そういうことをするのは格好悪いことであると考えてしまう人が多いように思われる。

*1:当時のこのブログでも、そのテの記事をいくつか訳している。

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読書メモ:『金持ち課税:税の公正をめぐる経済史』

 

金持ち課税

金持ち課税

 

 

公正さには多くの異なる意味があるだろうが、課税における公正さには共通する特徴がひとつある。それは、人びとは平等に扱わなければならないという考え方である。課税における市民の平等な扱いは、三つの異なるタイプに分けることができる。第一は「平等な扱い」論だ。これはすべての人が同じ率で税を払うべきだという考え方で、その理由は、これが基本的な民主的権利(各人の一票の重さは同じ、など)を模倣しているからである。第二のタイプは「支払い能力」論で、これは、支払う税の率はその人が自由に使える資源によって条件づけられるべきだという考え方になる。第三のタイプは「補償」論で、これは、支払う税率は国家が別の行動によってその人を特権的な地位に就けたかどうかによって決めるべきだと考える。

……(中略)支払い能力主義は多くの市民から共感を得ているし、これからもそうあり続けるだろう。

(しかし、)支払い能力論は多くの人に訴えるが、勝利することは滅多にない。

(p.227-229)

 

 というわけで、二十世紀の欧米諸国において富裕層に対する課税を強化する契機となったのは、世界大戦における大規模動員(徴兵)出あった。

 

 

戦時政府がほかの国民より富裕層への課税を増やしたのは、戦争のための動員によって、税の公正さに関する考え方が変わったためだった。戦争のための動員によって新しい、説得力の強い補償論の機会が生まれ、富裕層課税への支持が増大したのである。

……(中略)戦争は当時の政治環境に予期せぬ衝撃を与え、新たな不公平を生み出した。すなわち、国家が大多数の市民に求めるもの(戦争を遂行するためのマンパワー)と、国家が富裕層に特権を与えていること(多くの経済部門にとっての戦時利得の増大)との不公平である。

(p.148)

 

 しかし、この「補償論」の影響は長続きしなかった。第二世界大戦後の1945年以降から、世界大戦の記憶が薄れるに伴って補償論の力が弱まっていったのだ。その後も戦争は行われているとはいえ、欧米諸国ではもはや徴兵が行われているわけではなく、戦争による犠牲の不公正は「大多数の一般国民 vs ごくわずかの富裕層」から「ごくわずかの兵士 vs 大多数の一般国民(含むごくわずかの富裕層)」となっているから、戦争への補償論で金持ちに対する課税を正当化することはできなくなっている。

 もっと抽象的なタイプの補償論…「低所得層は売上税や物品税や社会保障などの支払いですでに十分に苦しんでいる」ことや「経済利益は不公正に富裕層に傾斜しているのだからもっと重い税を課すべきだ」(p.225)ということや「富裕層はほかのタイプの税による負担が少なく、しかも控除や抜け穴から利益を得やすい」(p.226)ということを根拠とした補償論は19世紀の時代から現代に至るまで主張され続けてはいるが、さほどの効果を挙げていないのである。

 

 著者たちの論理を実証するパートが大部分を占めているので堅実ながら地味な内容であるし、文章も読みやすくはない。しかし、その実証が示唆している内容はなかなか衝撃的かつ絶望的だ。要するに、「徴兵制による大規模動員があった時代には、庶民が文字通りの"血税"を支払っていたのだからその補償として金持ちへの課税強化にも説得力が生じて正当化できたけれど、それはごく例外的で限定的な事象であった」ということだ。

「支払い能力」論や戦争以外を理由とした補償論でも金持ちに対する課税は正当化されるはずだ、と考える人はわたしを含めて多数いるだろうが、課税強化を実行できるほどにそれらの議論が説得力を持って広範な支持を集めることはない……これは、日本の状況を見ていても「たしかに」と頷ける部分はある。要するに、これらの議論は「平等な扱い」論に比べて抽象的に過ぎるのだ。もっと直感的なレベルの価値観や通俗道徳は、金持ちへの課税を強化することに不公正さを見出してしまうのである。

 

 このご時世にこの本を読んでいると、嫌でもコロナウィルスとの「戦争」を連想してしまうところである。実際、コロナウィルスによる被害(健康被害と、自粛に伴う経済的被害)は貧困層〜中間層が大半なはずの非正規労働者や自営業者に集中しているようには思える。とはいえ、コロナウィルスで金持ちが得しているかどうかはわからない。新しいビジネスチャンスだとして得している金持ちもいそうな気はするが、それは一部だろうし、損している金持ちもいるかもしれない。それに、世俗的なレベルでは「自宅待機やリモートワークになって出勤しなかったり仕事サボったりしていても給料が貰えるし家族との時間も増えてラッキー」と嘯いている、中間層なホワイトカラー連中の方が目立ってしまうところである。貧困層の怒りや不公平感の矛先は、金持ちよりも先に中間層に向かっているかもしれない(すくなくとも、わたしは連中に対してわりと不快感を抱いている)。……というわけで、コロナウィルスへの「補償」も、金持ち課税を正当化する根拠になることは期待できないだろうなという気がする。

読書メモ:『BOYS 男の子はなぜ「男らしく」育つか』

 

 

 男性たちが持つ「男らしさ」は先天的に備わっているものではなく、社会関係やメディア表象などを通じて後天的に身に付くものである、ということを主張する本。要するに、ジェンダー論にありがちな社会構築主義的な議論を説く本である。

「男らしさ」とか「女らしさ」とかをめぐる議論ではとかく社会構築主義が主張されがちで生物学的な要因が無視されがちであり、ちょうど一年ほど前にそのことについて文句を言う記事を書いた*1。とはいえ、「男らしさ」に社会構築的な要素がまったくない、と主張するのも馬鹿げた話ではある。男性であるわたしが自分の人生を振り返ったり知人のことを観察したりしてみても、「あの時は男らしさを押し付けされそうになってイヤだったな」とか「あいつは明らかに所属している集団の影響で男らしく振る舞おうとしているな」などと思うことは多々ある。その一方で、男性に典型的な特性や傾向を自分のなかに見出して、それがどう考えても文化や社会の影響ではなくもっと生物学的でどうしようもないものだな、と思うときもある。ケースバイケースでバランスよく考えるのが理想であるだろう。

 この本では第2章「本当に"生まれつき”?ジェンダーと性別の科学を考える」で、生物学的な男らしさ論が取り上げられて批判されている。いかにもチェリーピッキングな風味の漂う筆致であり、「ジェンダーが生得的なものであるはずがない」という著者の世界観が先にあってその世界観を補強するような論拠や資料を集めてきたという感じが強いが、まあこんなことは言い出したらキリがないしブーメランになってしまうし、まったく逆の立場で書かれた本に対しても同じようなことを思う人もいるのだろう。

 

 それよりも、この本を読んでいてわたしが「キツいなあ」と思ったのは、結局のところ著者は女性であり、他人事として無責任に好きなことを言っている感じが強いところだ。男の子や成人男性が人生において感じるプレッシャーであったり衝動であったり人間関係の緊張であったりを、著者自身が実際に体験してきたわけではない。

 同性愛者である著者が妻との間に迎えた養子の男の子の教育方針について悩んで考えたことが、著者にこの本を書かせたきっかけとなっているそうだ。「男性も女性も、男の子も女の子も、私たちみんなのために、男であることの意味を再考し、作り変えていくにはどうするべきかを考えたものである(p.21)」。しかし、この本のなかで"どうするべきか"を考えているのはあくまで女性である著者だけだ。たまに息子との交流のエピソードが引用されたりはするが、息子さんが母親の顔色を伺って母親の気に入るような振る舞いをしているんだろうなということだけが伝わってくる。

 最終章の最後の説で紹介されているエピソードが「"未来は女性だ"と書かれたシャツを着て登校してきたフェミニズム活動家の女子高校生と、彼女の活動に理解を示す男子高校生」のエピソードであることは、この本がどこに主眼を置いていてどんな人を対象読者にしているかをよく象徴しているように思える。……実際、日本語圏の感想を見る限りでは、この本に賛意を示している人の大半は女性である。

 ついでに言うと、ジェンダーの議論だけでなくことあるごとに人種やエスニシティの問題についても表面的に触れる、"お約束"感も気に入らない。

 個々の指摘については興味深いところもなくはないが(スポーツ選手だけでなくプロゲーマーやゲーム実況者も「有害な男らしさ」イメージの振りまきに関与しているという指摘は現代的であると思ったし、「男の子は弱みを見せあえないから健全な友人関係を築くことが難しい」という指摘はありがちなものであるが考えさせられるところもある)、全体的には、新たな知見や洞察を得るための本というよりもこのテの人たちの世界観を再確認するための本という感じになっている。

 わたしは読んでいて正直に「この人が自分の母親だったらイヤだな」と思った。息子や"男の子"の問題ではなく、その先にあるジェンダー平等の理想にばかり目が向いているように思えるからだ。

 

関連記事:

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道徳や規範を認識できない人たちについての省察

note.com

 

 みんなが批判している通りの酷い内容の記事である。特に以下の箇所がヤバい。

 

フェミニストという言葉はネットのごく一部の界隈でしか聞いたことがないので一体どこのイベントなのかと純粋に興味がありました。僕が参加するイベントでは一度も聞いたことがありません。

フェミニストという言葉そのものが分断を呼んでしまうと思ってるのでなるべく使わない方がいいでしょう。ジェンダー問題に携わっているとよく出てくる言葉なんですかね。

 

 しかし、上記の引用箇所で示されているような種類の鈍感さやアンテナの低さは、わたしには馴染みや見覚えがあるものだ。

 

 ちょっと思い出したことがあるので、書いてみよう(詳細はボカす)。

 以前に働いていた会社で、広告や宣伝のための動画作成をするプロジェクトが立ち上がったことがあった。単に商品やサービスの内容を宣伝する動画ではなく、時事問題に絡めた動画であったりネタ的なおもしろ動画であったり芸能人をゲストに呼んで社員と対談させるトーク動画であったりなどのバラエティに富んだ動画を作って耳目を集めることで会社の認知度をアップさせよう、という企画である。そして、その企画の一環として、グラビアアイドル的なポジションの女性芸能人を呼んで男性社員とトークさせるという動画が作られた。その動画は、女性芸能人の巨乳を強調する編集がされたりするなどの性的な要素がフィーチャーされたものとなった。

 これに対して、会社内にある匿名の意見表明システムを通じて、女性社員と称する人からの批判の声が挙がった。「他の社員たちの同意も得ずに、女性をモノ扱いするような動画を制作して公表するとはどういうことか」という趣旨の批判である。

 わたしの印象に残っているのは、この批判に対するプロジェクト責任者の反応だ。それは「批判者がなにに対して怒っているのかさっぱり理解できない、なにが問題なのかわからない」というものであったのだ。開き直りでそう言っているのではなく、本気でそう思っているようだったのである。

 

 フェミニズム的な考え方は、幾多の反発やバックラッシュを受けながらも、なんだかんだで日本にも少しずつ広まっているものである。それに伴い、性差別的表現や女性を利用した性的表象に対する敏感さや感受性も浸透していった。性差別や性的表象を含む広告や企画やフィクション作品などの炎上は毎月のように目にする。このような表現は差別的でダメ、このような性的表象の仕方は広告でやっていいことではない、という「コード」の存在も、ときには明文化されることもありつつ大体は暗黙の了解として、多くの人に理解されるようになってきている。ある程度ネットをやり慣れた人であったり、流行や風潮に敏感な人であったりすれば、ある種の広告や企画などを一目見た段階で「これは炎上するな」ということが察せられるようになっているのだ。

 とはいえ、この「コード」の存在を全く認識していないであろう人たちも多くいる。広告なりメディアなり創作なりに携わるクリエイターたちのなかでも、そういう人たちはいる。だからこそ、素人目でも炎上することが一目でわかるような制作物が懲りずに世に出され続けているのである。

 話題作りや認知度アップのためにあえて炎上を狙ったものを製作する、という場合もあるだろう。しかし、おそらくそれは少数事例である。わたしの独断で言わせてもらうと、彼らは「コード」の存在を本気で理解していないのだ。つまり、自分たちがいま作っている性的な要素がある製作物が性差別などの「悪さ」を含むものであるかもしれないという危険性に気を配ったり、その性的表象で誰かが不愉快な思いをする可能性に思いを巡らしたりするという発想がないのである。

 

 こういう話題に対しては「自分たちの主張を明文化しないフェミニストたちが悪い、自分たちの意見を広い世間に伝える努力をしないフェミニストたちが悪い」という批判がされることが多い。しかし、その批判は見当外れである。上述したように、フェミニズム的な価値観や発想は世間に膾炙しつづけている。もちろん、フェミニズムの理論を本格的に理解していたり急進的なジェンダー平等を主張したりしている人はごく僅かかもしれないが、「こういう表現は差別的だ」という理解や「こういう表象の仕方は不愉快である」という感性などは多くの人が身に付けるようになってきている。薄く浅くとはいえ、フェミニズムは新たな規範や道徳として、世間に広まっているのだ。

 ……しかし、フェミニズム的な感性は規範や道徳としてしか広まっていないところが、ある種の人たちにはその存在が認識されない理由でもある。というのも、ある種の人たちは、法律や規約として明文化されたものではない不定形な道徳や規範の存在を認識することができないからだ。

 

 この人たちは、たとえばネット上のアンチフェミニストとはかなり性質が異なる存在である。アンチフェミニストたちはフェミニズムというコードの存在を認識しているからこそ、そのコードに対して不快や脅威を感じて、反発や反抗をする。フェミニズム的理解が歪んでいたり偏っていたりするがために反発や反抗の仕方も藁人形論法的なものとなってしまう場合も多いが、ともかくフェミニズム的な道徳や規範が存在していて広まっていること自体は認識できているのだ。

 また、「法律には俺も従うが、強制力を持たず明文化もされていない道徳や規範に従うなんて同調圧力でしかない、そんなものに俺は従う気はない」というリバタリアニズム風味のマッチョイズムな開き直りも、また性質が異なるところだ。この場合は、「法律ではなく道徳や規範に従わさせられることは不当である」という信念が前提となっている。そして、その信念自体が、ある種の規範意識や道徳意識の表れであるのだ。しかし、わたしが想定している人たちは、そのような信念や規範意識を持つという発想自体がそもそも無いように思われる。

 

 彼らが物事を判断する際に規範や道徳が考慮に入れられる余地はなく、ただ損得や利益だけが判断基準となっている。

 法律を破るとほぼ確実に損害を被るのだから、大半の場合は違法なことは避けられる。しかし、道徳や規範は破ったところでどんな損害が生じるかは不確かだ。批判されること自体は損害には直結しないから、何か言われたところで気にする必要を感じない。炎上はイメージダウンや不買運動につながったら損害になるかもしれないが、世間で騒がれて耳目を集めることは認知度アップという利益に転じることの方が多いかもしれない。ヘタに規範や道徳を意識することで制作物が無難なものになったり制作のペースがスローダウンすることを考えれば、危ういものであっても構わずにイケイケドンドンで制作し続ける方が総合的な利益が増す可能性は高い。人々に広まっているらしい規範や道徳を気にかけることは非効率的で時間の無駄であるのだ。

 ……だから、なにかのきっかけで批判をされたときには、キョトンとなって心外に思ってしまう。ここで規範や道徳の存在に気が付いて、一時的には制作物を撤回したり規範や道徳への配慮をした制作を行うようになるかもしれないが、それも長くは持たない。やはり規範や道徳を無視した方が利益が出やすいはずだと計算し直して、以前と同じことを繰り返していき、そのうちに規範や道徳の存在をまた忘れてしまうのである。

 

 この種の人たちにとっては、炎上することは恥や汚点にはならない。炎上によって注目度が上がって利益が出たのならそれはプロジェクトの成功でしかないし、炎上によって損害が出るということはプロジェクトの失敗でしかない。失敗したなら問題点を分析して改善して、次のプロジェクトでは上手くやって成功を目指すようにすればいいだけだ。

 ……ここに欠けているのは、炎上というものは多くの人の道徳意識や規範意識に触発して、人々に不快感や怒りの感情を抱かせたから起こるものであるということについての認識だ。つまり、なにかの制作物が炎上するということは、その背後で傷付いていたり尊厳を侮辱されたと感じたりしている人が多数いるということである。このような人たちの存在について彼らが想像力をめぐらすことは、もちろんない。彼らが心配するのは数字としてあらわれる損害だけであるし、彼らが相手をするのは実際に利益をもたらす顧客だけであるのだ。

 

 前の段落でフェミニズムという新しい規範や道徳の存在を認識して理解するようになった人の数は増えていると書いたが、それと同時に、規範や道徳の存在をそもそも認識しない即物的で合理的な世界観に生きる人々の存在も目立つようになってきている*1。たとえば、「若者叩き」として非難もされている「テラハ問題を理解できない若者たちの闇」という記事は、わたしは読んでいて「若者に限らないかもしれないが、こういうことを言っている人は相当多いだろうな」と思った。N国の立花孝志堀江貴文による「選挙ハック」「政治ハック」に対しては幸いにして批判の方が目立つが、「スマートでクールな手段だ」と絶賛している人たちのしたり顔も想像できるところだ。この風潮の背景に、自己責任論的な価値観の隆盛が、そしてさらにその背景にある格差社会化が関わっていることは間違いない……ような気がする*2

 この世界観で生きている人たちにとっては、炎上したり多数の人を不愉快にさせたり傷付けたりした人であっても、自分の職業なりプロジェクトなりで成功を収めて多大な利益を得た「勝ち組」であれば、その人は尊敬すべき先駆者となる。だからこそ、そのような人を指導者として仰ぐオンラインサロンが隆盛するのである。

 そして、冒頭にリンクを貼ったnote記事に象徴されるように、道徳や規範に基づいた「批判」はこの世界観に生きる人たちにとっては訳のわからない行為である。批判は何の利益も生み出さないのというのに、なんでそんなに面倒で無駄で非効率的な行為をするんだろう、と思ってしまうのだ。……だが、それだけでなく、この種の人たちからは「批判」という行為そのものに対する強烈な忌避や嫌悪を感じることもあるのだ。もしかしたら、そこにこそ彼らの世界観の核心があるのかもしれない。

*1:合理的と言っても、かなり浅薄で限定された合理性であるが。

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

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「ていねいな暮らし」のなにが悪い?

www.webchikuma.jp

 

 大塚英志による上記の記事は、はてブでも先日から人気記事となっておりおおむね好意的に受け止められているようだが、わたしは読んでいてモヤモヤ……というよりも「うんざり」という感情を抱いてしまった。

 なので、わたしが共感するブコメも次のようなものである。

 

「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち||大塚 英志|webちくま(1/4)

クソみたいな状況を少しでも楽しいものにしようと工夫してる人たちを「体制に加担」とか「問題の隠蔽」とかいう語彙でしか語れない左翼の言葉こそ問題がある

2020/05/23 08:25

b.hatena.ne.jp

「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち||大塚 英志|webちくま(1/4)

戦時下が起源であり、一斉に右向け右させる権力がけしからんことはよくわかったが、今日の感染防止対策と戦時下の大政翼賛体制をあまりにも同列に語りすぎではないかと思ってしまった。

2020/05/23 09:22

b.hatena.ne.jp

「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち||大塚 英志|webちくま(1/4)

嫌なのはわかるけど、じゃあどうするの?って話だよな。政治からは逃げられない

2020/05/23 08:15

b.hatena.ne.jp

 

 記事のなかで特に気になったのは、以下のような箇所である。

 

ぼくは以前から「日常」とか「生活」という全く政治的に見えないことばが一番、政治的に厄介だよという話をよくしてきた。それは近衛新体制の時代、これらのことばが「戦時下」用語として機能した歴史があるからだ。だからぼくは今も、コロナ騒動を「非戦時」や「戦争」という比喩で語ることの危うさについても、一人ぶつぶつと呟いているわけだが、それは「戦争」という比喩が「戦時下」のことばや思考が社会に侵入することに人を無神経にさせるからだ。 

 

なるほど、かつての戦時下と違って私たちは「ステイホーム」しながら、日々の料理に工夫を凝らしインスタにあげ、この機会に断捨離を実行し、私生活を豊かなものにしようと工夫をしているではないかと言う人がおられるだろう。マスク、トイレットペーパーに続き、パンケーキ用の小麦粉が品薄となり、東京都は「こんまり」動画を配信し、家庭菜園が人気だとニュースが報じる。webでエクササイズもあれこれと配信される。飲食業の自粛に伴うフードロス問題にも熱心だ。
その一つひとつは悪いことではない。

しかしそれでも引っかかるのは、それらが、「咳エチケット」や「ソーシャルディスタンス」や「テレワーク」とセットになって求められている、新しい日常や生活の一部である、ということだ。私たちが「日常生活」に求める豊かさは、コロナ政策の「実践」の場になってしまっている。 

 

ぼくは、自分の生活、日常に公権力が入り込み、そこに「正義」が仮にあっても、それはやはり不快である。そして、その「不快である」ということ自体が言い難く、誰かがそれを言い出さないか互いに牽制しあい、「新しい日常」を生きることが自明とされる。そういう空気はきっと近衛新体制下の日常の基調にあった、と想像もする。
ぼくはそのことがとても気持ちが悪い。
本当に気持ち悪い。 

 

花森が戦後『くらしの手帖』を創刊したことはよく知られるが、「報研」のメンバーたちはマガジンハウスをつくり、あるいはコピーライターやアートディレクターとして電通を始めとする広告代理店や広告制作の現場で戦後の生活を設計していく。雑誌や広告の歴史ではよく知られた事実だ。そういうものの果てにぼくたちのこの「生活」や「日常」があり、だからこそ、ぼくはコロナという戦時下・新体制がもたらした「新しい生活様式」や喜々として推奨される「ていねいな暮らし」に、吐き気さえ覚えるのである。

だから、この「日常」がいかにして出来上がったのか、その歴史というものが、もう一度、書かれなくてはいけない、と強く思う。

 

 

「生活」や「日常」に権力の介入を見出す著者の発想は、フーコー的な生-権力論に基づいたものであると思われる。

 そして、フーコー的な権力批判につきものの問題点とは、公権力の介入は実際に私たちに利益をもたらして私たちの生命を救ってくれることがある、という事実が忘れられがちなことである。権力の介入は私たちに益を与えるものであるかもしれないし、害を与えるものであるかもしれない。公権力の介入自体は価値中立的なものであって、「良い権力の介入」と「悪い権力の介入」とに分けることも可能であるはずだ。戦時下のそれが悪いものであったとしても、現在のそれが悪いものであるとは限らない。

 現時点での日本は、世界各国のなかでもコロナの感染者やコロナによる死者の数が極めて低い方であり、コロナの抑え込みに成功している国だと評価されているはずである。そして、日本政府が「咳エチケット」や「ソーシャルディスタンス」や「テレワーク」を推進したことは、コロナ抑制の成功に大なり小なり貢献しているはずだ。……むしろ、責任回避のために"自粛"の"要請"で済ませて飲食店や各種施設の強制的な営業停止を行わなかったことと、自粛要請によって損害を被った経営者や従業員への経済的補償があまりに不十分であることなどの方が批判されているはずである(また、アベノマスクをはじめとする明らかに無意味な政策に注力してしまったことなど)。つまり、権力の介入が不足していたことの方が批判されているのだ。

 ウィルスにかかって苦しんだり死んだりすることは誰だって嫌なはずであるし、政府にはそれを防ぐための政策を行うことを要求するものだろう。そして政府はそれを実行して、成果を出した……こうして単純化すれば、日本政府が今回実施したコロナ対策は、権力が国民から求められている役割を求められている通りに果たした事例であるに過ぎない。理想を言えば、もっと無駄がなく副作用も起こらない形でコロナ対策を実現してもらいたかったかもしれない。その場合でも、権力がさらに強く介入することが正当化されることになる。

 

 また、この記事の冒頭で取り上げられている、ステイホームしながら「日々の料理に工夫を凝らしインスタにあげる」ことであったり「パンケーキ」を焼くことであったり家庭菜園をすることであったりエクササイズをすることであったりなどの、現在版の「ていねいな暮らし」に公権力がどこまで介入しているかも、この記事では具体的な検討は全くなされていない。

 わたしとしては、現在のコロナ禍において人々が実践している「ていねいな暮らし」は、広告代理店の影響は多少はあるとしても、その大半は自然発生的なものであると思っている。

 通勤時間がなくなったり仕事が減ったりすることで時間が余り、そして外出する機会も減った人たちが、家のなかでの暮らしの仕方を見直して、普段よりも時間をかけて暮らし方を「ていねい」なものにすることは、ごく当たり前の発想である。

 たとえば、わたしが残業の多い職場から残業のない職場に転職して平日の余暇時間が増えたときには、まず、仕事から帰ったあとに料理にかける時間を増やしてよりクオリティの高い晩ご飯を食べるという習慣を新しく取り入れた。その後に無職になったあとには、散歩をしたりステッパーを買ったりなどしてエクササイズの時間を増やしている。そうやってわたしが「日常」や「生活」における新しい行動習慣を実践したことに対して権力は何も関与しておらず、ただ、「もっと時間があったら毎日こんなことができて健康になれるし人生が豊かになるのにな」とわたしが前々から思っていたことを実行に移しただけである。

 そして、コロナ禍のステイホームで人々が新しい行動習慣を身に付けたことも、わたしが転職したり失業したときに新しい行動習慣を身に付けたのとおおむね同じことだと考えられる。単純に、現代人の大半は時間がなくて、心身ともに不健康で味気ない生活を強いられているのだ。普段よりも余暇時間が増える状況になったら、自身の健康と豊かさのために「新しい生活様式」や「ていねいな暮らし」を実践することは、ごく自然の成り行きなのである。

 この現象に対して著者が「ぼくはそのことがとても気持ちが悪い。本当に気持ち悪い。」と書いたり「吐き気さえ覚えるのである。」と書いたりするのは、著者には戦時下の現象に関する知識があって、戦時下のそれと現在のそれとを重ね合わせて考えることのできる見識があるから……というだけではないだろう。むしろ、一部の男性知識人によく見られる、「生活」や「暮らし」を軽んじて蔑視する傾向が表出している、という面の方が大きいように思われる。

 一時期までは、無頼で破天荒な生活をして暴食したりアル中になったりした末に若くして死ぬのが文学者の理想だ、という価値観が蔓延した。だからこそ村上春樹はその風潮に逆らって、デビュー後すぐからマラソンとシャツのアイロン掛けと健康的な食事を主とした「ていねいな暮らし」を実践して、エッセイなどでもそのことを書き続けたのである。フィクション作品などでも、"天才"的な博士や芸術家のキャラクターは家事能力に欠如していて暮らしの仕方がめちゃくちゃであると特徴付けられて、さらにその特徴はそのキャラクターの欠点というよりも魅力だとして描写される。また、わたしのリアルの友人でも、芸術作品や評論や哲学や社会問題などに対して多大な関心がある一方で食事には価値を全く見出しておらず料理も全くしない、という男が何人かいる。

「知性」や「批判的思考」や「崇高な価値」を重視する人々の間には、日々の生活の実践や日常レベルのささやかな幸福はそれらの対極に位置する無価値なものである、と見なす風潮が根強いのだ。「ポジティブ心理学」(あるいは功利主義)が左派的な人文系学者から批判されがちなのも、この風潮が理由となっているだろう。この問題は追求していけば古代ギリシアにまでさかのぼるかもしれないし、ジェンダー論的な側面もかなり関わってくる問題である(「料理」や「家事」の軽視は再生産労働の軽視と一直線であるからだ)。

 

 そして、実はわたしがこの記事を読んでいちばん疑問に思ったのは「…コロナ騒動を「非戦時」や「戦争」という比喩で語ることの危うさについても、一人ぶつぶつと呟いているわけだが…」とか「…「不快である」ということ自体が言い難く、誰かがそれを言い出さないか互いに牽制しあい…」という箇所であるのだ。

 というのも、「コロナ騒動を戦争の比喩で語ることを危惧する」にせよ「公権力が生活に介入してくることの不快さを言明する」にせよ、それ自体は禁止されているわけではないし、Twitterをちょっと見たらわかる通り、実際に多くの人が危惧したり言明したりしているからである。著者だけが一人ぶつぶつと呟いているわけじゃないのだ。

 文系の素養が一定以上にある人だったら災害を安易に戦争になぞらえることの問題点や危険性は大半の人がわかっているだろう(3.11のときだって同様の危惧を多くの知識人が表明していた)。毎日の一定の時間にスピーカーから流れる自粛要請のアナウンスにはわたしもイラっとさせられるが、それは多少なりとも反抗精神のある人なら誰でもそうであるし、わたしには「イラっとするよね」と言い合える友人もいる。出版業界やアカデミアなどのインテリの世界に属している著者なら、自分と同じ危惧や不快感を共有して表明しあえる友人や知人はわたしよりもずっと多いだろう。だから、孤独ぶっているのは筋違いというものだ。

 外山恒一高円寺駅南口で連日行っていた"独り酒"闘争は盛況であった。「ステイホーム」や自粛要請への反意を表明するアナーキズムやパンク精神は日本でもいたるところに見られるし、それ自体は珍しいものではない。そして、目下の社会問題となっている"自粛警察"も、権力の統率下にあるのではなくてむしろそこから逸脱して暴れている存在であるのだ。現時点において「権力」や「翼賛」を危惧する理由が、わたしにはどうにもピンとこないのである。

 

 わたしがこの記事を読んだときに抱いたうんざり感は、あまりにも手垢のついた批評家特有の「仕草」に対するものだ。この記事のメインとなる、戦時下のプロパガンダなり生活コントロールなりについて書かれた箇所はたしかに興味深いが、そのことと現在におけるコロナ対策や「ステイホーム」下の生活様式の問題とは、連想ゲーム的にしか繋がっていない。

 フーコー的な生権力の発想から針小棒大な危惧を表明するところも、社会構築主義的な発想から人々の日常的な営みを侮蔑的に批判するところも、人文系の批評としては定番過ぎて陳腐化しているくらいだ。

 最近ではこのタイプの批評に対する批判的見解も浸透してきたようであるし、ジョセフ・ヒースに代表されるような、カウンター的な論客の存在もだいぶ認知されてきたようだ。今回の記事のような文章もここしばらくはネットでも見かけることがなかった。……しかし、気付かない間に、フーコー的な議論を行う論客がまた目立つようになってきた風潮も見受けられる。それが悪いこととは限らないのだが、最早わたしは彼らの議論に新鮮さを感じられなくなっているのだ。

 

 

 

読書メモ:『猫の世界史』

 

猫の世界史

猫の世界史

 

 

 

『猫の世界史』という邦題ではあるが、内容的にはどちらかというと『猫の文化史』である。猫の自然史に関する側面や猫と産業や経済の関係性についての記述はあまりなく、世界各国において人々は猫をどのように扱ってどのような存在だと見なしてきたか、民話や絵画や文学作品のなかで猫はどのように表象されてきたか、どのようなイメージが猫に仮託されてきたか、ということに関する議論が主となっている。『砂糖の世界史』『鱈―世界を変えた魚の歴史』のような、単品のテーマを通じて各国の産業構造とか各国関係の歴史的な変化までをも描き出すようなエキサイティングな本にはなっておらず、「猫」に関する断片的なエピソードを網羅的に羅列した感じの本だ。

 事実としてそもそは猫は人類史において大した活躍をしてきておらず経済や政治への影響も与えてこなかったら、「人間は猫をこのように扱ってきて猫についてこんなふうに考えてきて猫のことをこんな風に描いてきました」という話に終始せざるを得なかったのだろう。わたしとしてはもっと一本筋が通っていてテーマ性の明確な本が好みであるのだが、まあこれは仕方がない。

 

 可愛らしい生き物である猫を題材にした本ではあるが、その歴史となると、「虐待」についても扱わざるを得ない。『暴力の人類史』などでも猫への虐待に関する描写があったが、この本でも、最近に至るまでほとんどの国々では猫への虐待は社会的に問題と見なされておらず、昔から猫を愛して家族のように接してきた人たちがいた一方で遊び半分で虐待されて殺害されてきた猫たちが大勢いたことがさらりと書かれている。

 そもそも人間の歴史とは暴力や殺戮や虐待にまみれたものであり、どんな題材であっても歴史の本を読んでいるといまでは想像もつかないような残酷な価値観であったり非人道的な社会構造が存在していたことが知らされるものではあるが、暴力の対象が猫となるとさすがにキツいものがある。猫の方が人間より可愛くて罪のない存在であるから、というだけでなく、猫が虐待されたり殺害されたりする事件は現代日本でもいまだに頻繁に起こっているから、というところが大きい。

 この本を読んでいると、最近にいたるまで、猫に関する知識人の言説やメディア表象や民間伝承などの多くが猫を蔑んで過小評価して不当に悪いイメージを与えるものであったことが伝わってくる(もちろん、猫の良い面を強調したり過剰評価的に肯定するような言説もマイノリティとして存在してきてはいたのだが)。そして、そのような言説や表象によって伝播された悪印象が、猫に対する暴力を肯定してきたことは疑いもない。

 現代は多くの人が猫を愛する時代であり、インターネットでも愛くるしい猫や面白おかしい猫の話題が毎日のように取り上げられている。一部の猫嫌いはその風潮を苦々しく思っており、「自分は猫が嫌いだ」と表明するに飽き足らず「猫なんてみんな死ねばいい」「猫をいじめたい」という主張までをも書き込んでいる。……しかし、ヘイトスピーチと現実の物理的な暴力との垣根は想像以上に低いものであるし、面白半分であったり"多数派の風潮に対するマイノリティからのカウンター"というつもりで書き込んでいるヘイトスピーチが実際に猫への暴力を誘発している側面はあるだろう。Twitterでもはてなでも「猫嫌い」を公言する人をたまに見かけるが、そもそも、血が通って情感があり自分よりもずっと無力な生命に対する嫌悪の感情を堂々と表明すること自体、良識のある大人がやっていいことではないのだ(「犬嫌い」も「赤ちゃん嫌い」も、思っていてもわざわざ表明するべきことではない)。

 

 この本で引用されている猫に対するヘイトスピーチとしては、たとえばフランスの博物学者ビュフォンがひどいと思った。

 

猫がペットとして認知されたのは良いが、それによって犬と比較されるようになったのは、猫として不幸なことだった。犬愛好家にとって、猫は我慢ならないものだったのだ。フランスの博物学者ビュフォン[一七〇八年〜八十八年]は、猫を飼って楽しむなど愚かなことだとし、『博物誌』の犬と猫の項目は、片や手放しの賛辞、片や誹謗中傷となっている。犬はあらゆる点で優秀であり、人間の尊厳を集めるものだとした。犬は主人を喜ばせることを第一に考えており、常に指示を待ち、悪い扱いを受けてもじっと耐え、すぐに忘れる。さらには、主人の好みや習慣にも順応しようと努力をすることが書かれている。これらのことが、あらゆる動物の優秀さを測る基準ならば、明らかに猫には分が悪い。猫については「不誠実な家畜」として、ネズミのほうがより不快な存在であるため、仕方なく飼うものだという。「子猫も、表面的には可愛く見えるが、性悪はやはり隠せず、成長とともにさらに悪化する。しつけも効果はない。そのひねくれた根性を隠すようになるだけで、改善されることはなく、せいぜい強盗がこそ泥になって、人目につかないようことを運ぶようになる程度である」「飼い主に愛着や友好を示すようなことがあってもそれは表面的なことで、性格の悪さは、その行動の裏にあり、表へすぐ現れる。どんなに世話になっても、その人の顔をまっすぐ見ることはない。人を信用していないためか、心にやましいことがあるためか、愛撫を求めるときも斜めから近づいてくる」……(中略)……要するにビュフォンの憎悪の矛先は猫の気ままな振舞いに向かっており、飼われる動物であれば従順な家畜として、自身の欲望は抑えるべきであり、娯楽のための狩りをする特権は人間のみにあると言いたいのだろう。しかし、その見方はあまりに偏向していると言うほかなく、高名な動物学者としての冷静な観察を忘れてしまっている。猫の視線について糾弾している部分など特にそうで、猫はむしろ、人の顔をじっと見つめるのが大きな特徴のはずだ。

 (p.99-101)

 

 ……と、ネガティブなことばかり取り上げてしまったが、猫に関するポジティブなイメージについての話題や、人間に愛されて暖かく迎え入られて厚遇された猫たちに関するエピソードも豊富だ。現代に近づくについれて、猫をありのままに肯定する価値観が発展してきたことも書かれている。

 

ヴィクトリア朝的な愛らしいだけの猫も、物語やイラストの中ではまだ根強い人気があり、また、なぜあんな自分勝手な動物に振り回されなければならないのか理解できないという愛犬家がまだ多いのも事実だ。しかし、どちらの猫観も、もう時代遅れと言える。動物にしても何にしても、一緒に住んでいるものを当然のごとく服従させたいと思う人など、今やあまりいないのではないだろうか。むしろ、猫が言うことを聞かないことを面白がって受け入れたほうが、自分は公平な人間だという満足感を無理なく得ることができるはずだ。相手の立場を認めることは、支配権争いに負けることではなく、寛大の証だ。実際、猫には猫なりの事情があることを受け入れられる人は、自己の器量の大きさを誇りにしているはずである。「猫は冷淡で自分勝手」と言えば、かつては非難になったが、今ではその魅力を表す褒め言葉だ。それと同時に、動物は全面的献身を与えてくれるものではないという現実を、私たちが率直に受け入れた証である。

(p.169)

 

 また、第4章「女性は猫、あるいは猫は女性」では、猫へのイメージと女性へのイメージの重なりについて論じられている。著者自身が女性であることもあって、他の章よりも著者の「主張」が前面に出ている感じが面白い。

 

世の男性たちが長く女性に対して苦々しく思っていたことを表現するのに、命令に従わない、冷淡な猫は実に便利なものだった。女性を思い通りにできない男性は、思い通りにならない動物に対しても苛立ちを覚えた。女性に人間の限界を超えるほどの全面的な献身を求める男性は、女性と同じ冷たさと隠れた悪意が猫の中にもあると考えたのだ。このように猫とを女性を同一視することは、性役割を単純化し、それを事実かどうかもきちんと考えることもなく、ステレオタイプ化して取り入れることでもあった。こうして、この女はどうしても自分の言うことを聞こうとしない、家に引っ込んで無精なやつだ、まるで猫のようだという単純な比喩による攻撃が可能になった。

これまで見てきたように、猫は女性の性的魅力を強調することも、慎み深さを象徴することも、またその好色や冷淡、敵意を表すこともあった。どれも猫が本来持っている性質に基づいたものであり、猫には何の罪もないが、そういったイメージを投影された女性のほうは不道徳だと非難されたのだ。逆に、人間社会で不道徳と考えられることが、猫の性質の中に見出されることもあった。どちらにしても、男性は比喩を用いて、女性を劣った性として、猫を劣った家畜として貶めてきたのである。

(p.161~162)

 

ネオリベラリズムとしてのエロティック・キャピタル

 

エロティック・キャピタル すべてが手に入る自分磨き

エロティック・キャピタル すべてが手に入る自分磨き

 

 

 数年前に読んだ本であるが、思うところあって改めて再読。

 

「すべてが手に入る自分磨き」という邦訳版オリジナルの副題はどう考えてもミスリーディングである。ブルデューが提案した3つのキャピタル概念(エコノミック・キャピタル、カルチャー・キャピタル、ソーシャル・キャピタル)の理論に基づきながら4つめのキャピタル概念としての「エロティック・キャピタル」を提唱する、社会学的な内容の本だ。

 著者は、美しさや性的魅力(また、社交スキルや自己演出能力など)は「資本」の一種である、と論じる。そして、学歴や教養などの文化的能力や人脈や地縁などの社会関係を「資本」として活用して自分のキャリアや財産形成に活かすことが社会的に認められているのだから、女性が自分のキャリアや財産形成のためにエロティック・キャピタルを活かすことも堂々と認められるべきである、と主張するのだ。

 

 女性がエロティック・キャピタルを活かす具体的な方法とは、たとえば自分の性的能力を金銭化することであったり(直接的な行為を売り物にする性風俗産業だけでなく、外見的魅力や社交力を売り物とするパーティーガールなどもこれにあてはまる)、外見的魅力や対人的魅力を駆使することで就職活動や職場での地位争いや営業活動で有利に立ち回って収入を増やすことであったり、交際や結婚を通じて自分が性的魅力を提供する代わりに男性からは金銭的扶養を提供させるように交渉することであったりする。

 ただし、エロティック・キャピタルはなにも女性だけが持つものとは限らない。たとえば、男性にだって身長や"人から好感がもたれる振る舞い"などのエロティック・キャピタルが存在する。そして、就職や出世や営業という場面では、女性よりも男性の方がエロティック・キャピタルがおよぼす影響は高いとされているのだ。つまり、セクシーな美女よりも高身長イケメンの方が、同性に比べてより多くの金を稼ぎやすいのである(社会的地位も高くなる)。

 この現状は女性のエロティック・キャピタルが不当に抑圧されているためにもたらされている、と著者は主張する。特にアメリカやイギリスのようなピューリタニズムの国々では、女性が性的サービスを金銭化することや職場などで外見的魅力・対人的魅力を振りまくことはタブー視されている。「女性であっても男性と対等に扱われて、"女性ならでは"の振る舞いをすることが強要されず、男性と同じように業務に関する能力だけが評価される、平等な環境だ」と言えば聞こえはいいかもしれない、だが、女性がエロティック・キャピタルを抑圧されている裏で男性は出世のために自分のエロティック・キャピタルを利用することが許されている。それが女性と男性との収入差にも反映されているのだ。だとしたら、男性と同じように女性もエロティック・キャピタルを堂々と駆使することが認められる社会の方が真に平等だと言える……というのが著者の主張である。

 

要するに、ピューリタン的、男性優位主義的な「倫理観」をベースにした法律や社会政策を切り捨てるべきときがきたのだ。こうした法律や政策のために、男性は自分の利益を最大限に生かして増やすことが許されているのに、女性はいつも自由な活動を阻まれているように思える。女性は公私ともによりよい条件での取引を求める術を覚えなくてはならない。エロティック・キャピタルの社会的・経済的価値をしっかり認識することが、こうした交渉術の見直しに大きな力となってくれるだろう。

(p.288)

 

 言うまでもなく、著者の議論は主流派フェミニズムの理論や主張と相反するところが多い。この本のなかでも、著者がフェミニズムの主張を明示的に批判する箇所が多々ある。とはいえ、主な「論敵」をフェミニストではなくピューリタニズムや「男性優位主義」にしているのが、著者の巧妙というか狡猾なところだ。

 著者が読者に伝えたいであろうメッセージをわたしなりに要約すると、こうなる。「自分は単にフェミニズムを否定しているのではなく、"誤ったフェミニズム"を否定して"正しいフェミニズム"を主張しているに過ぎない。旧来のフェミニストたちは戦うべき男性優位主義の実態を捉えそこねて、エロティック・キャピタルの抑圧に加担してしまっていた。しかし、男性優位主義と戦うための真の方法とは、エロティック・キャピタルを解放することであるのだ」。

 昨今では、このタイプの"逆張り"的な主張もすっかり珍しいものではなくなった。日本語のインターネットを見てみても、"真の"フェミニストを自称していそうな論客がこのテの主張をすることは多い。彼女たちが実際に『エロティック・キャピタル』や著者であるキャサリン・ハキムの名前を持ち出すところも何度か観察した。

 他方で、"非モテ"や"弱者男性"系の論客の立場から言わせれば、以下のような主張になるだろう。「女性は現にエロティック・キャピタルを駆使して上方婚を実現して、男性からの扶養を勝ち取っている。そして、女性が下方婚を望まないために、男性はエロティック・キャピタルを駆使できずに上方婚が実現できない。つまり、現時点でもエロティック・キャピタルは女性にとって一方的に有利にはたらいているのだ。これ以上さらにエロティック・キャピタルを解放されたら男性は余計に不利になる、たまったものじゃない」。

 すくなくともエロティック・キャピタルをめぐっては、"真のフェミニスト"系の論者と"弱者男性"系論者は正反対の立場となるはずだが、両者には"主流派フェミニズム"という共通の敵が存在するので互いの対立点は見て見ぬ振りをして仲良くしていることが多いようだ。まあこれは余談である。

 

 わたしとしては、『エロティック・キャピタル』は読んでいて「いやだなあ」と思わされる部分が実に多かった。

 自分自身にエロティック・キャピタルがあまりないから、現時点でも貧乏なのにこれ以上エロティック・キャピタルを野放しにしてしまうと相対的にさらに不利になる、という"弱者男性"的な不安もなくはない。だが、それ以上に、著者の主張があまりに自由主義的で競争主義的…いわゆる"ネオリベ的"なものであるために、うんざりしたのだ。

 そして、著者の主張には、ネオリベ的な主張につきものの欺瞞やごまかしもしっかりと含まれている。

 

 エロティック・キャピタルの大部分が顔の造形や身長やボディラインなどの生まれに左右される特徴に占められていることは、あまりにも明白だ。巨乳な美女や高身長なイケメンになれるかどうかは、大半は遺伝子によって決まっている。身長やボディラインについては幼少期からの栄養状態や運動習慣によって多少は変わってくるかもしれないが、それだって家庭習慣や両親の教育方針などに大幅に左右されるものであり、本人の意志ではどうにもならない環境に由来するものであることだ。

 しかし、「生まれによって不平等に分配される性質が本人のキャリアに影響を与えることは望ましくない」という考え方は、現代では一般的なものとなっている。

 たとえば、子どもの教育格差は問題であり是正されるべきだと考える人は多いし、大企業へのコネ入社や世襲政治が堂々とまかり通る状況は不健全だと考える人も多いだろう。現実の世界に教育格差や世襲政治が存在するとしても、規範的にはそれらは「なくすべき」ものと見なされているのだ。そのために、様々な再分配制度や規制などが存在しているのである。……しかし、ネオリベは「平等な競争」を実現するためだと言って再分配制度や規制を否定するものだ。競争の平等を強調することで前提条件の不平等を激化させることは、ネオリベ的な主張がたどる典型的な展開である。

 エロティック・キャピタルについても、それを駆使することが野放図に認められるほどに、セクシーな美女や高身長爽やかなイケメンとそうでない人との間の格差は広がってしまうだろう。

 著者もこの批判は意識しており、エロティック・キャピタルと「知的能力」を並べて論じることで、以下のような反論を試みている。

 

 エロティック・キャピタルが重要だという考えに反対する人たちは、それは完全に遺伝によるものなので価値を持つはずがないし、持つべきではないと文句をつけることが多い。しかし知的能力はほとんど持って生まれたものなのに、すんなりと価値を認められ、それに対して報酬が与えられている。それに、ほほ笑み、礼儀作法、社交スキルは先天的なものではなく、誰でも学んで身に付けられるものだ。実際、エロティック・キャピタルの要素はどれも知的能力と同じように発達させられる。一生のうち10〜15年、あるいはそれ以上を、大抵は多額の私費や公費を使って教育や知的能力の発達に投資するのは賢明なことだと誰もが認めている。それとまったく同じように、エロティック・キャピタルを磨くのに時間と努力を投資するのも理にかなっている。

 (p.155)

 

 しかし、この反論は様々な点で苦しいものだ。

 そもそも、エロスと直接的な関係のないはずの礼儀作法や社交スキルをエロティック・キャピタルに含めていることからして、欺瞞的だ。他人をいい気分にさせたり不愉快にさせないコミュニーケーション方法と性的な魅力とは、重なる部分や相乗作用する部分も多々あるとはいえ、本質的には異なるものだろう。むしろ、それらは文化的資本に属するものだと見なした方が自然である。……著者は「エロティック・キャピタルは遺伝に左右される不平等な資本だ」という批判を回避するために、後付け的に礼儀作法や社交スキルもエロティック・キャピタルの一部だと定義した、と邪推されてもおかしくない。

 また、美貌や身長などの遺伝差に比べると、「知的能力はほとんど持って生まれたもの」であるかどうかはずっと議論の余地がある事柄だ。知能の遺伝差を強調する学者もいれば、環境要因や社会的要因を強調する学者もいて、彼らは未だに論争している状態である。……わたしとしても知能にはある程度までは遺伝差があることは事実だと思っているが、知的能力の格差は公教育をはじめとする社会制度によって是正することが可能である。それだって完璧に是正できると言うわけにはいかないだろうが、すくなくとも美貌や身長などよりかはずっと可変的で修正可能なものだろう。

 

 さらに、知的能力の価値が認められて知的能力に報酬が与えられているのは、知的能力は具体的で有益な成果を挙げる能力に直結しているからだ。新商品を開発する、プロジェクトを成功させる、研究結果を挙げる……これらの目標を達成するためには多かれ少なかれ知的能力が必要とされる。つまり、知的能力は「生産性」を伴うものであるのだ。知的能力に社会が投資することを正当化する理由の一つは、社会全体の生産性が高まって投資された本人だけでなく社会全体の人々に利益をもたらすことが期待できるから、ということがあるだろう。

 一方で、エロティック・キャピタルはゼロサムゲーム的なものであり、「生産性」をほとんど伴わない能力である*1。エロティック・キャピタルが効果を発揮するのは、他人との競争や交渉などの相対的な場面だ。エロティック・キャピタルは会社での出世争いであったり金持ちの奥さんの座をめぐる争いでは効果を発揮するかもしれないが、新たな価値を創出することはできないのである*2

 エロティック・キャピタルへの投資が公的に推奨されるほどに競争は激化して、人々は外見的魅力の獲得に多大な時間と費用と労力を消費するようになる。日本においても、脱毛やダイエットの必要性を煽る広告の氾濫にうんざりしている女性の声はよく聞こえてくる。社交スキルに関しても、著者は日本のサービス業において礼儀作法が徹底されていることを好ましく評価しているが(p.154~155、p.240など)、その日本でサービス業を行なっている当人たちの疲弊と怨嗟の声はSNSに溢れており、「感情労働」を批判する声は年々根強くなっているのだ。

 著者の人間観や世界観がよく象徴されている段落を引用しよう。

 

イザベルは美しく生まれつくという幸運に恵まれ、そのおかげで幼いころから明るく陽気な性格と自信にあふれた態度を身に付けた。けれど色白の子によくあることだが、彼女の容姿は急速に色あせていった。大人になってからの魅力的な外見は、おしゃれや身だしなみに多くの時間と手間をかけたおかげだった。灰褐色にあせてしまった髪には定期的にハイライトを入れて明るくし、ブロンドに見えるようにしていた。また、小柄なだけに少しでも太ると目立ってしまうので、スリムな体型を維持するように努めた。小さな体に似合う服を選ぼうと思うと、着てみたいと思うスタイルの服でも諦めざるを得ないことが多かった。成人期にはイザベルのエロティック・キャピタルは熱心な手入れによるもので、生まれつきの美貌ではなくなっていたが、彼女はビジネスの場でも家庭でも、自分の見せ方にいつも気を配っていた。これに対し、パメラはそうしようともしなかった。あるいは努力が足りなかったのかもしれない。人目を引く容貌だったのだから、努力さえすればイザベルと同じように魅力的になれたはずだった。背の低い姉より輝いた存在になるのも難しくなかったかもしれない。しかし彼女は一度も努力せず、ほほ笑みを忘れ、そして世界もまた彼女にほほ笑むことをやめてしまったのである。

(p.155~156)

 

 パメラの好きにさせてやれよ、としか言いようがない。

 わたしからすれば、誰であろうと髪に定期的にハイライトを入れる必要がなく、自分の見せ方にいつも気を配る必要がなく、ほほ笑みたくない相手にはほほ笑まなくてもいい世界の方が、ずっといい。現実的な問題として、社交や仕事の場でほほ笑んだり自分の見せ方に気を配ったりする必要は存在するのだろうが、そうせずに済んだらそれにこしたことはないのだ。

 そして、上記の引用箇所からは、著者が「女性がエロティック・キャピタルを自由に発揮できるようになったらいい」と思っているに留まらず「女性はエロティック・キャピタルを発揮して生きるべきだ」と考えていることが伝わってくる。こういうところがネオリベ的なのだ。

 

 愛嬌をふりまけ、痩せろ、体毛を剃れ、ほどほどの化粧をしろ、男を喜ばせろ……これらの有形無形の要請や強要に対して"主流派"のフェミニズムが抗らっていることは言うまでもない。また、女性が自分の意志で自発的にお洒落をしたり化粧をしたりセクシーな格好をしたりすることは、現代では大半のフェミニストが否定していないのである。この本の著者は"主流派"のフェミニズムを女性の自己実現を抑圧する思想であるかのように論じているが、それは藁人形論法的な印象操作だ。

 そして、エロティック・キャピタルが解放された世界では、ひとり勝ちする女性はより多くの利益が得られていまよりも幸福になるかもしれないが、大半の女性は疲弊していまよりも不幸になるだろう。程度は違えど、男性だってそうである。……伝統的な性道徳とか社会規範とかには、そういう無益な競争や疲弊から人々を守るために生み出されたという側面もあるのだ(その点ではピューリタニズムだって馬鹿にできたものではない)。そして、表面的な合理主義を掲げて道徳や社会規範を破壊するのも、ネオリベの常であるのだ。

*1:この本の第7章「一人勝ちの論理:エロティック・キャピタルの商業的価値」でも、エロティック・キャピタルのゼロサムゲーム性がはからずとも示されている。礼儀作法や社交スキルなどが協働作業を円滑にして生産性につながることも論じられてはいるが、前述した通り、外見的魅力や性的魅力と社交スキルや礼儀作法を同一に並べること自体に無理があるのだ。

*2:俳優やモデルなど、創出する価値に「外見」が本質的に関わっている職業は例外だが。