道徳的動物日記

『21世紀の道徳』発売中です。amzn.asia/d/1QVJJSj

読書メモ:『経済政策で人は死ぬか?:公衆衛生学から見た不況対策』

 

 

 邦訳が出たのは6年前であるが、コロナ禍により再注目されている。わたしは数年前にこの本をいちど通読していたが、このご時世なので読み返したくなって、改めて図書館で借りた。

 

news.livedoor.com

www.nri.com

 いろんなところで紹介されている本であるし、わざわざわたしが紹介しなくても、優れた要約や書評はネット上のあちこちで探せるであろう。この記事では、わたしが特に関心を抱いている箇所についてだけ、メモ的に記録しておく。

 

 現在のわたしはちょうど失業中であるため、今回の再読時には「第7章:失業対策は自殺やうつを減らせるか」が最も印象的であった。

 

……不況が自殺増加の主要因の一つであることは間違いないが、不況でなくとも自殺が増えることはあるし、逆に不況というだけで自殺が増えるわけでもない。イタリアとアメリカの例のように、政府が失業による痛手から国民を守ろうとしなかった場合には、だいたいにおいて失業の増加と自殺の増加にはっきりした相関が表れる。しかしながら、政府が失業者の再就職を支援するなど、何らかの対策をとると、失業と自殺の相関が低く抑えられることもある。

(p.194)

 

 アメリカやイギリスやスペインなどでは不況時にうつ病罹患率と自殺率が増えたが、フィンランドスウェーデンなどの北欧では不況の以前から「積極的労働市場政策(ALMP)」が実施されていたためにうつ病罹患率と自殺率は増加しなかった。

 ALMPのなにが"積極的"かと言うと、失業者を再び職場に戻す再就職のための施策が充実していることだ。逆に、再就職支援に力を入れずに失業手当などの現金給付を行うだけの政策は"消極的"なものとされる。

……スウェーデンは失業者本人の積極的な行動を促すことに主眼を置いてきた。この国では、失業者はただ国から支援を受けてきたというよりも、労働力でありつづけられるように支援を受けてきたと言うべきだろう。

(p.199-200)

 

 ALMPにより、失業した場合にも速やかに再就職できる可能性が高まる。また失業中にもジョブトレーナーと交流することで精神衛生が保てるし、逆に、働いている人たちにとっても「もし失業してしまってもALMPがあるからすぐに再就職できるだろう」という安心感が与えられる。これらはいずれもうつ病の発生率を下げる効果があるのだ。

 逆に、失業手当等の現金給付では自殺リスクは下げられないのだ。医療サービスや保育支援の充実、住宅手当などのその他の社会福祉政策も、失業による自殺の解決策とはならない(p.203)。

 そして、不況下における緊縮政策は自殺率を大幅に上げる効果がある。緊縮政策は労働市場を破壊して雇用の数を減らすからだ。公務員の数を減らして、民間でも"雇用の流動化"を推進した2010年のイギリスにおけるキャメロン政権の経済政策は、もちろん、うつ病と自殺者を増やす結果となった。

 

 この本の結論部分でも、「公衆衛生に投資する」と並んで「人々を職場に戻す」ことの重要性が強調されている。

 

不況時の最良の薬は安定した仕事である。不況下においては、失業、あるいは失業への不安が健康を悪化させる強力なトリガーとなる。株価はいずれまた上がるだろうが、失業という問題はなかなかハードルが高く、景気が回復しても全員が元の状態に戻れるわけではない。だからこそ、積極的労働市場政策(ALMP)によって、不況下においてもできるかぎり失業者を職場に戻す努力をしなければならない。またそうしたプログラムがあることで、失業への不安が軽減され、鬱病患者や自殺者の増加を抑えることができる。またALMPが効果をあげれば、失業手当を受ける人が減り、労働供給も増えるので、経済にとっても助けになる。

もちろん不況時には仕事は減るのだから就職は難しい。したがって、雇用創出のための刺激策も必要になる。ケインズがーーおそらくは少し皮肉を込めてーー主張したように、失業者をそのままにして失業手当を払うより、その分の紙幣を瓶に詰め、失業者の半分を雇って穴を掘って埋めさせ、残りの半分を雇ってその瓶を掘り出させるほうが、景気対策として有効である……

(p.242)

 

 ここからは私的な雑感。

 正直に言うと、失業をした時点では失業手当などの現金給付を当て込んで、貯金を切り崩しつつもしばらくぷらぷら気ままに生きることを期待していた。本を読んだり文章を書いたり、映画を観たりなどだ。…しかし、特にコミュニティに所属していなかったり定期的に参加する活動(フットサルとか読者会とか)もなかったりする身分で失業しても、あっという間にメリハリを失ってしまい、趣味を持続することは難しい。本はすぐに読めなくなってしまったし、映画はいまでも見続けているがけっこうしんどさやマンネリ感が出てきている。コロナのせいで劇場が閉まってしまったので新作映画も見に行くことができないし、新しい社交活動にチャレンジする機会も物理的に閉ざされていることは問題だ。

 単調でメリハリがなく、そして不安だけはしっかり存在する生活を続けていたら、遅かれ早かれうつ病になるだろうなという気はする。

 ……しかし、再就職をして職場に復帰したところで、その仕事内容がつまらなかったらやっぱり精神的にダメージを負ってしまうんじゃないかという気持ちは拭えない。実際、仕事を辞める直前は「労働疎外」のことばっかり考えていたのだ。

「仮にベーシックインカムなどで生活するのに充分な金が与えられているとしても、労働を通じた社会参加を行わずに無職状態で生きることは本人の心理的・精神的・実存的な健康に悪影響である。単純労働でもいいから、労働可能な人の雇用を保証することの方が大切だ」という「ジョブ・ギャランティー」的な主張はいまでも胡散臭く思っている。たとえば、失業手当の金額とか給付期間とかが2倍になって要件とかがもっと緩くなったら、もう少し快活な失業生活を送ることができていたと思う。

 

 私事はこれくらいにして、マクロな話をすると……コロナ禍の経済悪化は「自粛要請」によって引き起こされているわけであり、現時点の経済的な施策としては、企業などに対する休業補償と私人に対する現金給付(また、住宅確保の支援)に関する議論が目立つようだ。

 しかし、公衆衛生と経済との間には、やはりジレンマが存在する。公衆衛生を重視するあまりにソーシャル・ディスタンスを徹底して外交的活動を制限する社会になってしまうと、新しい生活様式に対応した新しいビジネスが出現してそれによって生み出される新しい雇用が存在するとしても、対応できずになくなってしまうビジネスとそれによって失われる雇用の方が絶対数としてはずっと多くなりそうに思える。いま流行りのテレワークだって、「いる人間」と「いらない人間」が可視化されてリストラの促進になりそうなものだ。企業や自営業者に自粛要請をしておきながら経済的補償を行わないことが最悪の結果をもたらすことは、言うまでもないのだが。

 

www.newsweekjapan.jp

 ALMPを採用しているスウェーデンが、コロナに対しては「集団免疫」戦略を採用して自粛要請や外出制限を行わないことは、なんとなく一貫しているように思える。集団免疫戦略を採用すれば、コロナで死ぬ人はたしかに増えるとしても、失業によって死ぬ人が増えはしないからだ。

 とはいえ、フィンランドを含む他の北欧諸国は、自粛要請/外出制限とそれに対する経済的保障という戦略を無難に採用したみたいであるが。

 

gendai.ismedia.jp

news.yahoo.co.jp

「叩いていい存在」を叩く行為と、ネット民の幼児性について

oriza.seinendan.org

 平田オリザ騒動についての雑感。

 

 ある有名人が人の癇にさわるようなことを言う。わたし自身としてもその発言を見聞して不愉快な気持ちになり、身内との会話でその話題を出して文句を言ったり愚痴ったりすることもあれば、SNSにネガティブな意見を書き込むこともある。

 とはいえ、その人物を批判して糾弾することがネット上の潮流となっていることを知れば、自分からわざわざその人物を批判することはほとんどない。すでに他人が言ったり書いたりしていることを再生産することは意味のないことであるからだ。他の人たちが書いている意見がわたしのものとは異なっていて、自分の抱いている意見や感情がまだ誰にも代弁されていないな、と思ったら自分から表現する場合もあるけれど。

 しかし、ある人がネット上で「パブリックエネミー」と扱われはじめて、その人に対する批判意見なら何を言ってもいいという段階になってしまうと、批判されている人のことが気の毒になってその人に対するネガティブな感情はだいぶ消滅してしまう。そして、叩いている側の嫌らしさや思慮のなさや無神経さや意地悪さなどばかりが目に付いてしまい、そちらの方が醜悪に感じられるようになる。

 

 ↑ これだけ書くとよくある「正義の暴走」批判になってしまうが、実際のところ、ネット上における「パブリックエネミーと認定された人を叩く」行為の多くは正義感や義憤とは無縁のところにあるように思える。それよりも、みんなにウケる意見を言いたいという承認欲求が動機となっていることの方が多いようだ。

 そして、"叩き"が集団化してエスカレートした場合には、表面上の正当性もとりつくろわずに「自分たちが謝罪して訂正しろと要求しているのだから、自分たちの要求は聞き入れられるべきである」と厚顔無恥に主張する幼児的な"つけ上がり"が発生するようになっていく。

 

 たとえば、"叩く"こと自体がTwitterはてブにおける大喜利のタネとなり、FavやRTやスターを稼ぐために「みんながこの人物に対して抱いている負の感情をキャッチーに表現する文章を考えよう」とか「他の人がまだやっていない叩き方をしなければならない」とかの、創意工夫や技巧へのコミットメントが生じるようになる。

 例を挙げると、この記事を書き始める直前に、わたしのTLには「平田オリザWikipediaを読んだんだけど〜」と前置きしたうえで、彼が若い頃に世界旅行をしているのに世間知らずであることについて揶揄的に疑問を呈するツイートが流れてきた。…しかし、もしそのツイート主が平田オリザ叩くために彼に関するWikipedia記事をわざわざ読んだのであれば、わたしはその行為におぞましさを感じる*1。ただ単に人に対してネガティブな感情を抱いたからそれを表現した、という自然な行為ではなく、相手について批判できるポイントを自分から手間をかけて能動的に探しにいっているからだ。そのような行為は健全ではない*2

 また、自分が抱いたネガティブな感情を直接的に表現するよりも、自分という主体を感じさせない客観的で論理的なテイの批判的意見の方がウケるものである。たとえば「演劇業界はこの問題について総括すべきだ」とか「誰か身の回りの人が注意するべきだ」などと、第三者を持ち出してそちらに批判の責任を転嫁させる意見はウケるようだ。「しばらく黙っておくのが最善だ」とか「例え話は持ち出さない方がいい」とかの"戦略指南"風の意見もウケる。そして、「コミュニケーションの専門家なのにコミュニケーション能力がない」と、"能力の欠如"を指摘する形の批判もウケるのである。この騒動では、当初は「平田オリザの発言が製造業に対する蔑視や悪意を示している」ということが問題になっていたはずだ。しかし、製造業に対する蔑視や悪意を取り上げてそのことに対する不快感を表明するよりも、平田オリザとその周りの人々の戦略や能力に関する問題を"指摘"して"指南"する方が、賢くて気が利くように見える。だから、みんながこぞって指摘や指南を行うようになるのだ*3

 そして、いちど批判がヒートアップしてしまい、渦中の人物の欠点や失言をあげつらう機会や揚げ足取りをする機会を手くずねひいて待ち望んでいる人たちばかりとなると、当人が何かを言ったり発信したりするたびにマイナス効果が発生する負のループができあがってしまう。…そのような状況になったら、「みんなが事態を忘れてほとぼりが冷めるまで黙っておくこと」が、たしかに"戦略"としては最善であるのだろう。だが、ある人の発言や表現の機会が「揚げ足取りをする機会を手くずねひいて待ち望んでいる人たち」のせいで失われてしまうということは、かなり悲しくて理不尽な事象であることは間違いがない。

 …ネットをやっていて時おりギョッとなるのは、漫画や映画などのフィクションにおける雑魚キャラクターがやるような行為を嬉々として行う人が大勢いることだ。「パブリックエネミーとなっている対象を叩く」という行為は自分の品位を下げるだけであるし、そんなことを行う人間に対して好感を抱く人はそうそう多くないはずである。叩かれている人と叩いている人とでは後者の方がみっともなくて無益な人間であるはずなのに、後者のために前者の名誉が毀損されたり自由が奪われたりする。そんな事態は間違っているとしか言いようがない。

 

 

fujipon.hatenablog.com

↑ fujipon氏が書いた上記の記事に関しても、記事の内容自体は丁寧で温かいものではあったのだが、「〇〇のことは嫌いでも〇〇を嫌いにならないでください」という定型句に内在する「媚び」や「卑屈さ」がこのテの事態の問題点をあらわしているように思える*4。もしも「平田オリザの発言のせいで演劇に対するイメージが悪くなり、舞台演劇や役者たちまでもが嫌いになった」という人が実在するとしても、まず責められるべきは、そんなことを言う人間の短絡さや思考能力の無さである。そのような人間を甘やかすべきではないのだ。

 そもそも、"叩かれている側"にいる人やその関係者などが"叩いている側"に対して下手に出て事情を説明してご理解を乞う、という状況自体が生じるべきではない。…実際的な問題としてそうせざるを得ない場合があるとしても、それが悲劇であることを忘れてはいけない*5

 

 ネット民…特にTwitter民やはてブ民などには、自分たちの気に食わない発言や文章への批判を開始したら、相手側がその批判を受け入れて発言の謝罪や文章の訂正などを行うまで(あるいは別の批判対象を見つけてそちらを批判することに以降してそれ以前の批判対象のことを忘れてしまうまで)批判の手を止めない傾向がある。最初は個人の意見として「"自分は"この件に関するこの点を問題だと思っており不愉快だ」と批判を発していた人たちであっても、みんなが同じ対象を批判しているうちに集団と自分とを混合して主体性を無くしていって、そのうちに「"俺たち"がこう言っているんだから相手は謝罪や訂正をするべきだ、しないのはおかしい」とエスカレートしていくのだ。

 そして「自分たちの要求は聞き入れられるべきである」というつけ上がりが生じて、その要求が実現されないとなるとさらに激しく相手を叩くようになる。他人も世界も自分たちの思い通りになるべきであり、思い通りにならないことがあるとすれば自分ではなく相手が悪いとする、幼児性の発露でしかない。…特にTwitterの登場以降はこの光景も見慣れたものとなってしまい、ついつい他人事として「またやっているな」「いつもの風景だな」とぼんやり見逃してしまいがちであるが、冷静に考えるとかなり異常な事態であるのだ。良心のある人間ならこのような集団的幼児性に加わってしまうことは避けるべきだし、できればそれを諌める側にまわるべきだろう。

 

*1:公開の数時間後にブクマを見て追記:よく考えたら、当のツイート主はたまたま興味を持った話題に関するwikipedia記事を見にいって、その記事を読んで思ったことを悪意なく表現した、という可能性はたしかにあるかもしれない。

*2:

news.yahoo.co.jp

 Webライターの石動竜仁氏による、上記の記事にも同様のおぞましさを感じる。かなりの手間をかけて平田オリザの「問題点」を洗い出してまとめた記事ではあるのだが、それでこの記事が何をもたらすかというと、平田オリザに対するネット民の負の感情や俗情を煽るだけの効果しかないのだ。記事の後半における、「コミュニケーション専門家でもあるのにそこに考えが至らないのはどういうことでしょうか。」「平田氏は他者に対する寛容を求めていますが、平田氏にもこれまで自身が蔑ろにしてきた人々に対する寛容が必要ではないでしょうか。」などの皮肉も嫌らしい。このようなおぞましさや嫌らしさはネット以前の時代からジャーナリズム全般に付きまとうものではあるが、ジャーナリストたちも読者たちも感覚が麻痺しているのだ。

 また、この騒動に関するいくつかのTogetterまとめにも、それをまとめるという行為自体やタイトルの付け方などにジャーナリズム的な醜悪さがあらわれている。

togetter.com

*3:このような事象の嫌らしさについては、こちらの記事でも考察したことがある。

davitrice.hatenadiary.jp

*4:どうでもいいけど、法哲学者の井上達夫による本『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』のタイトルは、自分以外のリベラリストを貶すことで「我こそが真のリベラリストだ」とパフォーマンス的にアピールする効果がある。こういう本のタイトルの付け方は不誠実で嫌らしい。そして、実際にコロッと感化されて「他のリベラリスト憲法学者はご都合主義的で偽善的だが、井上達夫だけは真のリベラリストだ」と主張する人がうじゃうじゃといる。わたしはこういう現象がかなり気持ち悪くて苦手だ。

 

 

*5:また、「業界の連帯責任」的な発想を認めてしまうと責任の範囲が無限に拡大してしまい、いくら訂正や謝罪を行なっても別の誰かの発言を引っ張り出されて延々と責められる羽目に陥る、というオチになってしまうだろう。

davitrice.hatenadiary.jp

読書メモ:『日本の分断:切り離される非大卒若者たち』

 

 

 内容は悪くなかったのだが、以下のような文章が頻出する点は少し気になった。

 

……あなたがこの1週間の間に、仕事や私生活で会話を交わしたり、連絡を取ったりした人をすべて思い浮かべてください。

そのなかに、非大卒層、とりわけ若年非大卒男性はどれくらいいますか?

あなた自身が大卒者である場合、ほとんどいない、という人がけっこういるのではないでしょうか。

(p.218-219)

 

 この本は現在の日本社会に生きる人々を「男性/女性」「若年/壮年」「大卒/非大卒」の三つのセグメントによって8つのタイプにカテゴライズして、それぞれの人々の経済や生活の状況がどんなものであるかとかキャリアや人生のプランはどのようになっているかとか心理状態はどうなっているかということを、社会調査のデータを用いて分析したり解説したりするものである。そして、若年非大卒層…そのなかでも男性が特にキツい立場に立たされており、なおかつ行政的な支援が最も行き届いていない層であることが論じている。

 J・D・ヴァンスの『ヒルビリー・エレジーアメリカの繁栄から取り残された白人たち~』やR・パットナムの『われらの子ども:米国における機会格差の拡大 』などとアメリカで論じられているような格差社会論が、別の形をとって日本にも当てはまることを示した本であると言えるだろう。また、ネットで根強い人気の「弱者男性論」にも通じるというか統計的裏付けを与えてくれる本ではある。

 しかし、たしかに社会調査のデータが大卒と非大卒との量的で統計的な「分断」を示すといえど、わたしたちが空間的に分断されているかどうかはまた別の話だ。この本ではところどころで「こんな堅そうな内容の新書を手にとって読む人は大卒層であるに決まっており、彼らにとって非大卒層(特に若年非大卒男性層)はまったくの他人であるだろう」という決めつけが目に余るところがある。

 だが、たとえばわたしは大学院を出た後に二年半にわたってフリーターをしており、その職場の同僚の過半数以上は非大卒の若者であった。昨年末まで勤めていた職場は東京都内のベンチャー企業であったが、非大卒の同僚もちらほらといた。また、高校や大学からの友人のなかにも、わたしと同様に非大卒が多数派である職場で働いていた/働いている人はそれなりにいる。わたしも含めてそのような人の多くは新卒で就活をしていない/就活に失敗したという経緯があり、そういう点ではたしかに大卒の"典型"とは言えないのだが、だからと言って無視できるほどに少数派であるとも思えない。その逆として、堅い内容の新書本に興味を示して手に取る非大卒だって、少数派であるとしてもそれなりにはいるだろう。たしかにこの本のなかでも「非大卒は大卒に比べて本を読むことが少ない」ということを示す箇所はあるのだが、それはあくまで数字にあらわれた傾向であり、個々の読者にとっては別のことなのだ。

 

 とはいえ、この本を読んでいて個人的に身につまされたのは、「大卒」であっても就活やキャリアプランなどにおいて失敗や間違いを犯してそれをカバーする軌道修正もできなければ、様々な点で「非大卒」に近づくのだなということである。それは収入という直接的な問題だけではない。この本では「ポジティブ感情」やそれと対比しての「不安定性」、「社会的活動の積極性」に「政治的積極性」に「健康志向」や「教養・アカデミズム」などの内面的な部分も社会調査のデータに基づいて比較されている。

 その比較結果に基づいて考えてみると、自分自身についても自分の周りにいる"典型的でない"コースを歩んでしてしまっているほかの大卒男性についても、収入などの外面的な部分のみならず内面的な部分でも大卒男性の典型よりもむしろ非大卒男性の典型の方に傾いているところが多いのだ。ポジティブ感情が減って不安が増すのはもちろんのことだが、わかりやすい居場所や属性がないということは政治や社会的活動への積極性を減らす要因となる。また、周りのなかにはセルフネグレクトの傾向があって健康を無視している人もいる。…逆に、大卒男性としての典型的なライフコースを歩んでいる友人がわたしにはほとんどいない始末である(大学院まで修了したわけなので会話したことがあって名前や顔を互いに知り合っている"知人"レベルであればいっぱいいるが、いつしか彼らとは連絡も取り合わなくなっているということだ)。

 学部生の頃はけっこう他人事感を持って「格差社会」や「社会の分断」に関する議論を読んだり学んだりしていたわけだが、気が付いたらあっという間に当事者の側の立場になってしまったのである。

自己責任論の風景

www.univ.gakushuin.ac.jp

 ↑ 先日、上記の謝辞が話題になった。特に以下の部分が批判されている。

 

支えてくれた人もいるが、残念ながら私のことを大学に対して批判的な態度であると揶揄する人もいた。しかし、私は素晴らしい学績を収めたので「おかしい」ことを口にする権利があった。大した仕事もせずに、自分の権利ばかり主張する人間とは違う。 

 

 どのような批判がされているかというと、「権利を主張するためには"素晴らしい学績を収める"などの義務や実績が必要とされる、という発想がおかしい。権利というものは誰にも備わっているものであり、それを主張するために事前に果たすべき義務や収めておくべき実績など存在しない。卒業生総代のくせに"権利"という言葉が何を意味するかもわかっていないのか、学習院大学は学生に対して何を教えているのか」という感じのものだ。

 

 この卒業生の謝辞に限らず、日本の一般社会では「権利を主張するためには義務を果たさなければならない」という考え方は広く根付いている。

 しかし、(倫理学なり政治学なり思想史学なりの)学問的な意味での「権利」という言葉はそういうものではなく、本来の意味での「権利」とは万人に対して無条件に備わっているものである。

 また、謝辞において全体的に見られる自己責任論的考え方や能力主義的考え方、ひいては「ネオリベ」的考え方は、アカデミックな世界(特に人文系のアカデミック)とは相容れないものとされている。

 

 しかし、このような通俗的な「権利論」や自己責任論やネオリベ的主張は学問の外の世界では毎日のように見聞するものである。この謝辞を書いた学生が特に変わった主張をしているということでもない。会社に出勤すれば、社長や役員から出世頭の若手エリートや新入社員まで、みんながみんな多かれ少なかれ自己責任論的なことを言っているのを聞くことになるだろう。ミュージシャンや漫画家などのクリエイターたちは競争が激しい世界に住んでいるために一般の人以上にネオリベ的発想になりやすいし、表向きには美辞麗句を並べ立てるアカデミックな世界にすらそういうところはある。

「その"権利"という言葉の使い方は間違っている」とか「その自己責任論的発想は人権や民主主義や社会保障などの知見についての思慮が足りない短絡的な発想だ」などと批判すること自体は間違っていないが、多分そんな批判をされたところで本人は意に介さないだろう。どれだけ間違ったことを言っていようが、彼女の意見は「世間」ではみんなに同意されて賞賛されるものなのだ。

 ただ単に彼女の謝辞を叩いたところでしょうがなく、彼女の主張しているような自己責任論的発想やネオリベ的発想がなぜかくも支持を集めるのか、ということについて考えてみたり分析したりしてみるほうがまだしも生産的である。

 

 この種の事柄については、わたしは以前に以下のような記事を書いたことがある。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

davitrice.hatenadiary.jp

 上のほうの記事では、若者がネオリベ化する理由のひとつとして、以下のような事柄を挙げた。

 

ネオリベ的発想や自己責任論的発想は、個人単位では適応的である  

 

 謝辞を見てみると、彼女は「金」や「自立」にたいそうこだわっているようだ。「金」や「自立」を獲得するためには、たしかに相当な努力をして成功しなければならない。女性であるから、この日本社会で成功するためには、おそらくは男性よりも必要とされる努力の量も多くなってしまうだろう。

 ほとんどの人にとっては、ハングリー精神を抱いて努力を継続するためには、自己責任論的な考え方をし続けることが不可欠だ。他人に対しても自分に対しても甘えを許さずに厳しい態度をとることは、自分を追いたてる形で努力することへのモチベーションを与える。

 逆に、「努力をしなかったり義務が果たされなくても万人は平等に尊重されて権利を認められるべきだ」という考え方は、規範的な"べき論"としては正しいとしても、すくなくとも日本社会の現実にはそぐわない「甘い」考え方である。そして、「努力をしなくても人は尊重されるべきだ」という考え方を抱いてしまうことには、自分自身のハングリー精神を削減して努力へのモチベーションを失わせてしまう効果があるところが否めない。

 ……要するに、彼女の目的や人間性にとっては、自己責任論的な考え方をする方が矛盾がなくてメリットがあるのだ。これまでそういう考えで生き続けて努力して実際に成功したのだから、外野が学問的な正しさなり規範的な"べき論"を主張したところで、耳を貸すわけがない。逆に、それらの意見に耳を貸して自分の考え方を変えてしまうことはこれまでの自分自身の人生を否定することになってしまうだろう。

 

 さらに言えば、これから彼女が進んでいくであろうエリートたちの世界は、一般の世界以上に自己責任論的発想やネオリベ的発想が肯定されて讃えられる世界である。周囲の人間たちの価値観には、同調するにこしたことはない。上司も社長も「若者はこれくらい勝気で覇気があってハングリー精神を持ってくれていなくちゃ」と思ってくれることだろう。若者が大人に好かれるためには大口を叩いて自分をアピールするのが最善の方法であるのだ。

 ハングリー精神を持たず努力をしなくて能力のない凡人ですら、同じような凡人よりもハングリー精神を持ったエリートの方を好ましく思うものだ。間違っていない考え方だとしても、「努力をしなくても人は尊重されるべきだ」ということを言っていて、言葉通りに自分は努力せずにのんびりしている人は甘ったれで図々しく思われてしまう。間違っているとしても、「権利を主張するためには義務を果たさなければならない」と言明して言葉通りに自分は努力して義務を果たしている人はエネルギッシュで有能そうに思われる。そもそも、凡人の多くはエリートに対して引け目や気後れを感じているのであり、エリートに対して批判的なことはなかなか言えないものである。自分よりも優秀な人間を批判してしまうと自分がみっともなくてダサい「負け犬」の側に立たされている気になってしまうからだ。

 つまるところ、この謝辞は謝辞を書いている彼女自身にとっては得しかもたらさないものであるのだ。自分が好かれたいと思っている人間や世界に対して好印象を与えられる。一部の連中からは批判されるとしても、彼らはもともと彼女が目もくれておらずこれからも関わることのない世界に属する連中であるのだから、どうでもいい。

 

 なお、「20代ならこんなものだろう」「これから歳をとって経験を重ねて挫折するにつれて考え方が変わるかもしれない」という意見も散見したが、賛同できない。私がこれまでの人生で接してきた人のことを考えてみると…自己責任論的な主張を行うエリート層には30代や40代の人が多かったが、彼らの発想はおそらく10代や20代の頃から変わっていない。その頃から自己責任論的な発想を抱いていたからこそ努力して成功してきたのであり、年齢を経たからといって捨てるものじゃないのだ。

 ついでに言うと、私が10代や20代の頃にも周囲には自己責任論的な主張をしている10代や20代の連中がごまんといた。「相容れないなあ」という程度で済まされる相手もいれば、明確に「敵」だと見なす相手もいた。わたしは昔から「努力をしなくても人は尊重されるべきだ」という考えを抱いており、ハングリー精神にはずっと欠けてきた。自己責任論的な考え方をしていてハングリー精神を持っている人は、わたしのような人間を陰に陽に非難するものである。わたしだってそれをされると不愉快になるから相手のことを批判したり非難したりし返す。これからも連中のような人間が考え方を変えることはないだろうし、わたしが考え方を変えることもないだろうから、この抗争はずっと続く運命なのだ。

 

捕鯨・文化の価値・動物倫理

 

 動物愛護や動物の権利という話題に関すると、日本では「捕鯨問題」がイメージされることが多いようだ。実際、私が学生であった頃に「動物倫理や動物の権利について勉強している」と言ったときにも、「捕鯨問題についてはどういう意見を持っているんだ」と聞かれることが多かった。

 そして、捕鯨問題やイルカ漁の問題には「欧米諸国による文化弾圧」というイメージがつきまとうようである。実際には、動物愛護団体自然保護団体などで活動している日本人の中でも捕鯨やイルカ漁に反対する人は多い。だが、国際捕鯨委員会IWC)でも日本の捕鯨が批判されるなど、他の問題に比べても国際的な批判を受けていることは確かである。

 また、捕鯨に対する批判には「資源保護」的な観点に基づいたものと「人道的」な観点に基づいたものとの両方が存在しているが、これらの批判は混同されやすい。日本側としてはクジラの個体数が回復しているデータを示して「資源保護」的な批判に反論することが多いが、それだけでは、捕鯨やイルカ漁の方法がクジラやイルカたちに引き起こしている苦痛や恐怖を問題視する「人道的」な批判に対する反論にはならない。

 人道的な批判に対しては、「ブタやウシなどの家畜の屠殺を認めているのに、クジラやイルカだけ殺してはいけないというのは筋が通っていない」という反論をよく目にするところだ。しかし、家畜の屠殺とイルカやクジラを漁で殺すこととの間には様々な違いがある。たとえば、屠殺は人工的にコントロールされた環境で専門の道具や麻酔などを用いて行えるものであり、家畜に対する苦痛や恐怖を軽減する処置をとることができる。一方で、海上で行われる漁では、苦痛や恐怖を軽減する処置をとることが難しい。

 そして、ブタやウシなども食べないベジタリアンやビーガンの人たちからも捕鯨やイルカ漁が批判されていることは認識されるべきだ。家畜の屠殺も認めない彼らに対しては、屠殺と並べて捕鯨やイルカ漁を擁護する反論は、当然ながら通じないだろう。

 

 日本国内における捕鯨やイルカ漁の批判者のことは置いておいて、欧米諸国からの批判に対しては「それは西洋の価値観の押し付けであり、日本の価値観を無視している」と主張されることが多い。また、「捕鯨やイルカ漁は日本の伝統文化であり、守られるべきだ」と主張されることもある。

 前者の主張は、「価値観」の相対主義を前提にしたものと判断できる。つまり、ある国や地域の「価値観」は他の国や地域の「価値観」と等しく扱われるべきであり、特定の「価値観」に基づいて別の「価値観」を批判したり改定を迫るように要求したりはできない、という考え方である。後者の主張は、ある慣習や制度が「文化」や「伝統」に基づいたものであるなら、文化や伝統に基づいているという事実が慣習や制度に何らかの価値を与える、という考え方を前提にしているようだ。

 そして、多文化主義や異文化の尊重の必要性が世界的に認識されるようになった昨今では、これらの主張にも説得力があると見なされているようである。日本のメディアで捕鯨問題が扱われるときは「伝統文化」という側面が強調されるし、国際会議などにおいて日本の代表が海外諸国に対して捕鯨の必要性を主張する際にも「文化」を強調することが多いようだ。

 この主張に対しては、捕鯨の方法から古来から現代にかけて大幅に変化していることを指摘して、そもそも現代の捕鯨が本当に伝統文化と言えるのか、と反論されることがある。

 だが、より根本的な反論として、そもそも捕鯨やイルカ漁の問題において「価値観」の相対主義を認めたり「文化」に特権的価値を認めたりすることは適切なのか、ということ自体が問われかねないのだ。

 

 世界各国の文化的な慣習や制度のなかには、その慣習や制度の影響を受ける人々の「人権」を侵害するものが存在する。このような場合には、文化相対主義は通じないことが多い。

 代表的な事例が、アフリカ地域を中心に行われている「女子割礼」の問題だ。成人儀礼として若い女性の女性器の切除を一部するこの習慣は、女性の人権を侵害するものであるという国際的な批判にさらされいる。批判の声が上がった当初は文化相対主義に基づいて女子割礼を擁護する主張もあったが、現在ではアフリカの各国において女子割礼の慣習を禁じる施策が行われているようだ。

  女子割礼の他にも、伝統的な文化慣習のなかには、特に女性や子供などの弱者の人権を侵害するものが存在する。そして、「多文化主義」を国是として実践するカナダやオーストラリアなどにおいても、人権を侵害する慣習や制度は認められないものとされているのだ。

 このことは、「人権」は「文化」よりも上位に置かれていることを示している。文化は個人の豊かな生活にとって欠かせないことや、集団的なアイデンティの基盤として文化が不可欠なことは広く理解されている。そのため、「自分たちが慣れ親しんだ文化を享受する権利」や「自分たちの伝統文化を外部から否定されない権利」なども必要とされる場合があるかもしれない。しかし、それは、その文化が人権を侵害しないものである場合に限る。ある文化がその集団内の弱者の権利を侵害したり、集団外の人に害を与えたりするものである場合、その文化を実践する権利は認められないとされることがある。つまり、文化とはあくまで人権の範囲内でのみ認められるものとされているのだ。

 言い方を変えると、文化は それ自体 が絶対的に尊重されるものではない。文化が人にもたらす「個人の生活を豊かにする」や「集団的アイデンティティの基礎となる」などの利益のために、文化は尊重されているのである。そして、もしもある文化が特定の人々の心身や生命に危害を及ぼすとすれば、その文化を尊重する理由は弱くなる。仮にその文化が別の人々に利益をもたらすものであったとしても、特定の人々に与えられる危害によって利益が相殺されたり危害が利益を上回ったりすることになるからだ。

 そして、動物の権利運動とは「権利」の対象を人間だけに限定せずに動物たちへと拡大することを求める運動である。動物に権利を認める場合は、動物に与えられる利益や危害も文化の是非に関わってくることになる。たとえば、ある文化が動物に与える危害が重大なものであれば、たとえその文化に古来からの伝統があったり人間の集団的アイデンティティにとって重要なものであったりしたとしても、その文化の存在を認めることは難しくなる。どれだけ重要であり人々に利益を与える文化的慣習であったとしても、「人を殺すこと」を伴うものであれば、その文化的慣習が現代の社会で認められる可能性はほぼない。同様に、いくら人々に利益を与えるものであっても「動物を殺すこと」を伴う文化的慣習を認めることはできない。…これが、動物の権利や動物倫理の理論に基づいた文化批判の要旨だ。

 

 資源保護の観点からの批判をクリアして、ブタやウシの屠殺とイルカやクジラの漁の残虐性は同等であると主張することができたとしても、一貫した動物の権利の理論に基づいた批判にイルカ漁や捕鯨の支持者が応答することは難しいように思える。すくなくとも、女性器割礼の文化を擁護することと同程度の苦労が必要となるだろう。

 ただし、動物倫理に基づいた批判が成立するためには、批判をする側の言動も一貫していることは必要となるだろう。ブタやウシを屠殺することを容認しつつクジラやイルカの漁を行うことを否定する主張を成立させることは難しい。クジラやイルカの知能の高さ(そして、知能の高さゆえに生じる「殺されること」に対する恐怖など)を強調すればそのような主張も成立するかもしれないが、おそらく説得力を持つものにはならない。そのため、家畜の肉を食べながら捕鯨を批判する人に対しては反論することも可能だ。

 だが、動物倫理の考えが広まっていくにつれて、捕鯨やイルカ漁の批判者におけるベジタリアンやビーガンの割合は広まっていくことが予想される。彼らであれば、畜産制度も捕鯨も、等しく認められない文化的慣習であると一貫して主張することができる。こうなると、捕鯨やイルカ漁の支持者の立場はますます厳しくなっていくことだろう。

 

 

 

「肉食の自由」?

davitrice.hatenadiary.jp

 ↑ 昨年の5月に触れた話題について、改めてちゃんと書いてみた。

 

 

 日本で動物の権利を主張する団体の最大手であるアニマルライツセンターは、2016年からほぼ毎年、渋谷で「動物はごはんじゃない」というプラカードを掲げたデモ行進を行っている。

 そして、2019年の6月1日は、「動物はごはんじゃない」デモに対抗する形で「動物はおかずだ」デモが行われた。

 同年の5月に発表された「動物はおかずだ」デモの声明文には、以下のような文章が書かれている。

 

 「しかし「動物はごはんじゃないデモ行進」は、自らが肉を忌避するだけでは飽き足らず、他者の権利や自由を否定し肉の撲滅を目論んでいる。」

「憎むべきは、ヴィーガンという生き方を選んだ人間ではない。他者の権利や自由を踏みにじる行為である。」 

 

 動物の権利を主張する言説や、それに基づいた菜食主義を主張する言説に対しては、上記のように「肉を食べる自由」や「肉食の権利」を想定した反論がなされることが多い。

 このような反論に背景にある考え方を文章にしてみると、以下のようなものになるだろう。

 

「動物の権利を主張する人たちが自分の信条に基づいて菜食主義を実践することは構わないし、自分たちも菜食主義を行なっている人に干渉するつもりはない。しかし、菜食主義を主張する人たちが自分たちに菜食主義を他人に押し付けようとしたり、自分たちの肉食の習慣を批判することは認めない。それは、肉を食べる自由や肉食の権利に対する侵害であるからだ。」

 

 このような反論は、動物の権利を支持しない人の間では説得力を持って受け入れられているようだ。しかし、当然のことながら、動物の権利を支持している人たちにとってはこのような反論は認められるものではない。

 また、動物の権利を主張する言説に対して「肉を食べる自由」に基づいた反論を行うことは、ほとんどの場合、議論をすれ違いさせる結果になってしまう。

 なぜなら、「肉を食べる自由」を主張する言説は、「現時点で、制度的に認められている権利」と「将来的に、道徳的に認められるべき権利」とを混同したものであることが多いからだ。

 

 現代の民主主義社会では、権利や自由というものの多くは法的に認められている。たとえば生存権参政権などは法律によって保証されているし、信教の自習や居住・移転の自由などは侵害してはならないものとされている。法律の他にもこれらの権利や自由の実現をバックアップする様々な制度が整備されており、人々の間でも「個人の参政権や信仰の自由などは保証されるべきであり、侵害されてはならない」という価値観は常識として浸透している。

 だが、歴史を振り返ってみればわかるように、様々な権利や自由は常に保証されてきたわけではない。むしろ、歴史上の大部分において、大半の人々の権利は認められていなかったり自由が制限されてきたりしていた。

 そして、歴史上のある時点までは認められていない状態にあった権利や自由が現時点で認められている状態になるためには、まず、その権利や自由は認められるべきだという主張が登場することを必要とした。そして、認められるべきだというその主張が一定以上の支持を得られることなどを通じて、それらの権利や自由を保証する法律などの制度が実現する……という過程を経てきたのである。

 逆に言えば、現時点では認められていない権利や自由が、やがては認められるようになる可能性もある。「動物の権利を認めるべきだ」という主張も、もしその主張が広く受け入れられることになれば、やがては法律などの制度によって動物の権利が保証されることになるだろう。とすれば、現在の私たちに認められている権利や自由と動物たちに認められるべき権利や自由とは本質的に違いがないと言えるかもしれない。ただ、私たちの権利や自由はより早い段階で認められたために制度的な保証まで進んでいるのに対して、動物の権利や自由はまだ「認められるべきだ」という主張が行われている段階であるという、時間や順序の違いがあるに過ぎないのだ。

 

 そして、現時点で認められていない権利や自由を認めるべきだという主張は、多くの場合に、その時点で認められている権利や自由の一部を否定することも意味している。

 たとえば、18世紀のアメリカで行われた奴隷制廃止運動は「奴隷とされている人にも人権や自由を認めよ」という主張を前提としていたが、その主張は「白人が黒人奴隷を持つ権利」や「奴隷農場で生産された物品を購入したり使用したりする自由」を否定することも意味していた。

 子どもの人権を認めよという主張も、親や周りの大人たちが子どもをコントロールする権利の否定につながる。

 また、女性の参政権を認めよという運動は、当時の男性たちが暗黙のうちに前提としていた「女性を排除して男性だけで政治的意思決定を行う自由」を否定するものであったのだ。

 これらの権利や自由のうちには、奴隷を持つ権利のように法律などによって明文化されて制定されているものもあれば、子どもの人権や女性の参政権などを認めないことによって間接的に存在していたものもあっただろう。しかし、明文化されていたものにせよそうでないにせよ、奴隷制廃止運動や女性の参政権運動などが行われることによって、それまでは当たり前のものとして認められていた権利や自由が否定されることになるのである。

 

「動物の権利」と「肉を食べる権利」の関係も、「奴隷の権利」と「奴隷を持つ権利」などとの関係と同じようなものである。ひとたび動物が自由を認められるべき存在であり理由もなく危害を与えられてはいけない存在であると認められたなら、動物の自由を制限して動物に危害を与える行為である畜産は認められないことになるし、畜産を前提とする「肉を食べる自由」や「肉を食べる権利」も認められないことになるのだ。

 ここで認識するべきは、現時点では自明のものとして制度的に認められている権利そのものの存在の正当性が問われている、ということである。

「動物の権利」を主張する運動は、平等主義や反差別主義などの論理に基づいて、なぜ動物の権利が認められるべきかということの正当性を主張する。もし動物の権利に反論して「肉を食べる自由」や「肉を食べる権利」を擁護したいのなら、平等主義や反差別主義などの論理に対抗して、肉を食べる自由や権利はなぜ認められるべきかという正当性を積極的に主張しなければならない。つまり、自由や権利の根拠に関する議論が必要とされるのだ。

 しかし、「動物はおかずだ」デモの声明文などを見てみても、「肉を食べる自由」や「肉を食べる権利」がなぜ認められるべきかという根拠が論じられていることはない。現時点で制度的に容認されている権利や自由であるから、それらの権利や自由は認められるべきである、としか読み取れないのだ。……しかし、上述してきたように、権利運動というものは、ある権利が新しく認められるべきであると主張すると同時に、現時点で制度的に認められている権利の自明さを否定するものだ。

「肉食の自由」や「肉食の権利」の正当性を立証する根拠も示さずに「肉を食べる自由や肉食の権利を侵害するな」と言うだけでは、反論として成立しないのである。

 

 

自由論 (光文社古典新訳文庫)

自由論 (光文社古典新訳文庫)

  • 作者:ミル
  • 発売日: 2013/12/20
  • メディア: Kindle
 

 

 

 

続・「男性のつらさ」論についての雑感

davitrice.hatenadiary.jp

 

 ↑  この記事を書いた後に出版された本とかネットに上がった記事などを見ての雑感。

 

 ジェンダー論の本やジェンダー論的なネットの記事などで「男性のつらさ」ということが論じられる際には、男性同士の「競争」がつらさの原因である、とされることが多い。

 つまり、男性は競争から落ちこぼれたら社会からも周りの人間からも一人前と見なされずに冷遇されてしまうから、常に自分のスキルをアップしたり成果を出したり他人を出し抜いたりして競争に参加し続けなければならないというプレッシャーを感じている、という主張だ。

 そして、競争に参加することが義務付けられている代わりに競争のフィールドそのものはフェアであるとされる男性に対比する形で、能力が見くびられたり成果が正当に評価されなかったりそもそも競争に参加するという選択肢が与えられていなかったりする「女性のつらさ」がセットで論じられることも多い。

 しかし、私自身のことや私の周囲の男性たちのことを考えてみると、「競争」そのものが「男性のつらさ」の原因であるかどうかは微妙なところのように思える。競争から降りて、他の男性たちと自分との違いや落差を気にせずに生きている人も多いように思えるからだ。

 というか、自分から積極的に「競争」に乗っかって、スキルや収入や社会的立場をアップさせることばかりを考えてバリバリ生きているのは男性のなかでも少数派だ。中高から進学校に通っていていい大学に進学した人間であれば自分の能力に自然と自信が身につくので、社会に出た後も競争に参加し続けたいと思うかもしれない。運動部などで優勝したりいい結果を残したりしたことで勝利の快感に目覚めて競争を志向し続ける、というタイプの人間もいるかもしれない。私が実際に目にしてきた人間のなかでは企業の代表とか社長とかの連中はたしかに生活や趣味や人間付き合いに本質的な興味を持たず、競争のことしか考えずに生きていそうな雰囲気があった。

 また、ネットで目立つ男性たちの間にも「競争」が大好きそうな人たちは多い。ただし、それを言うならネットで目立つ女性たちの多くも「競争」が大好きそうだ。というのも、ネットで目立つ人たちというのは既に何らかの競争に参加してスキルを獲得したり成果を出したりしてきた人たちであって、そのスキルや成果についてアピールしたり自慢したりすることで目立っているからである。

 要するに、「競争」から距離を置いて生きている男性は他人に対してとりわけアピールできるスキルや成果を持っていないから、目立たない存在であるのだ。しかし、「競争」に積極的に参加して勝ってきた男性の方が存在が目立つからといって、彼らが男性の代表であったり男性の典型であったりするわけではない。むしろ彼らの方が少数派で、「競争」に対して消極的な思いを抱いている男性の方が多数派であるかもしれない。

 

 ジェンダー論的な議論を見ているときによく思うのが、そこで「男性」や「女性」の典型とされているものが、実際にそれぞれの性別の中でも一部の特殊な層に過ぎない、ということだ。この理由のひとつは、ジェンダー論を語る立場にいる人たちは良くも悪くも「競争」を前提とした有能な強者たちの世界に所属している、ということにある。

 ジェンダー論に限らずなにかの「議論」を公的な形で発表して世に問うことができるのは、アカデミアに所属しているかメディア業界に所属している人であったり、芸術やエンターテイメントの世界で実績を残してきた人であったりする。アカデミアの世界が競争主義で能力主義的であることは言うまでもないし、編集や出版や広告などのメディアの世界にも普通の業界の人が持たないようなハングリー精神や野心を持った人が多い。

 このような世界に所属している人たちは、男性であっても女性であっても自分から積極的に「競争」に参加することを望んできた人たちであり、だから「競争」について思いを巡らすことや「競争」に関して人生に影響をもたらされたことが他の人たちよりも多い。

 さらには、「議論」を発表する機会がある人の大半はレベルの高い大学の出身者であったりするし、東京という大都会に住んでいたりする。これらも、通常よりも競争が激しくて可視化されている領域である。

 ……男性であれば自分が参加してきた「競争」によって自分自身がどれだけ消耗してきたかということにふと気付くことがあるのだろうし、女性であれば自分が女性であることで「競争」においていかに不利になってきたかということを考えて忸怩たる思いを抱いたりするのだろう。

 彼らや彼女らが自分が参加してきた「競争」について思いを巡らすことは勝手だが、それを男性全体や女性全体について一般化されると困ってしまう。

 たとえば「競争」においていかに男性が有利で「特権」を与えられている立場にいてそれに比べて女性は不利な立場にいるか、ということを語られても、そもそも「競争」から距離を置いて生きてきて今後も積極的に参加する気を持たない身としては他人事という感じが否めない。「競争」に参加したがる女性たちが男性たちよりも不利であるならそれは気の毒なことであるし、もともと行使する気もない「男性特権」を取り上げられたところでこちらとしても困ることはない。しかし、どちらにせよあくまで余所の話である。自分が関わってきてもいなかった「競争」についてそれに関する「特権」を保持してきたことの責任を問われても理不尽な思いをするし、また自分のつらさの原因が競争であると言われても的外れだとしか思えない。

 有能で競争にバリバリ参加してきた男性がどこかで失敗して落ち込んだあげくに「自分のつらさは男性特有の競争へのプレッシャーが原因だ」と言いだしたとして、お前はそうかもしれないが俺はそうではない、と言うほかないのだ。

 

 とはいえ、私や周囲の友人たちのように「競争」から距離を置いている男性であっても、やはり「つらさ」は感じる。その「つらさ」の大部分は、以前の記事でも論じたように、「結婚できないこと」や「異性の恋人がいないこと」から来ている点は否めない。「異性の獲得」はよく「競争」とセットで論じられることが多いが、「競争」から縁が遠いタイプの人でも恋人や結婚相手を得ている人は知人でも見かけるところだ。関連性はあるだろうが必然的に結びつく論題ではない。

 しかし、たとえば「異性の恋人がいないこと」によって生じる「つらさ」などに関しても、「"異性の恋人がいなければら男としてみっともなくて不甲斐ない"というホモソーシャル的な競争意識や脅迫感が原因だ」という風に論じたがることが、ジェンダー論的な議論ではあまりに多い。こういうことを書かれた時点で、大半の(異性の恋人がいなくて"つらい"と思っている)男性にとってはその議論はまともに参考にしたいと思えるものではなくなるだろう。