「経済学101」では、政治や経済について論じるカナダの哲学者、ジョセフ・ヒースのブログも訳されている。
上記の記事ではどちらもかなり重要なことが書かれていると思うが、その一方で(特に日本の読者にとっては)さして重要でないことや時節が過ぎたことも書かれていたりするし、なにしろ長い。というわけで、残念ながら、訳者(わたしや青野さん)が期待したほどには読まれていないようだ。
どちらの記事も訳してから数年経過していることだし、「有益であるな」と特にわたしが思う部分を、こちらのブログに引用してしまおう(読みやすくなるように改行も加えている)。
私が最終的に辿り着いた答えは、価格付けシステムは大半の人々が持っている道徳的直感に反するということであり、そしてクラインはその道徳的直感を物事に対して徹底的に当てはめているということだ。
彼女は「汚染者支払い」の原則を熱心に支持しているのにもかかわらず、実際にはその原則が論理的に導き出す結論の一つを拒否している。つまり、もしあなたが支払うことを嫌だと思わなければ、あなたは汚染をしてもいいということだ。この結論は、ある行為が非道徳的であるとすれば非道徳的であることそれ自体がその行為を行なわないための充分な理由となる、という道徳的直感と相反する。あなたは非道徳的な行為を止めるためのインセンティブを他人に要求することはできないのであり、それどころか、非道徳的な行為を止めない場合にはあなたを処罰する権利を他の人たちは持っている…これが、私たちの道徳的直感が教えるところだ。
たとえば、市場において奴隷に価格を付けたり税金を課しても奴隷という存在を無くすことはできなかったのであり、奴隷制そのものを撤廃することしか方法はなかったのだ、とクラインは指摘する。環境規制についても彼女は同じ考えを抱いている。たとえば、彼女は以下のようなレトリック的な質問を読者に行っている。「なぜ私たちは自分たちの未来を危険に晒すなと企業に命じているのではなく、企業に賄賂を贈ったり甘い言葉で丸め込んだりしようとしているのだろうか?」。つまり、根本的にはクラインが炭素価格付けに反対しているのは単に価格付けという考えそのものが道徳的に不愉快であるからだ、と私は推測する。彼女にとっては、それは子供を取り返すために誘拐犯に身代金を払うのと同じようなことに思えるのだ。
この点については彼女のみならず多くの人々が同じ直感から思考を始めている。しかし、その直感を解体する議論は広く知られたものであるし、それは環境経済学にとって最も基本的なことですらある。"撤廃主義"的なアプローチは、対象とする物質や習慣を完全に禁止することが可能でありまたそれらが完全に禁止されなければならない時にしか機能しない…それこそ、奴隷制のように。だが、二酸化炭素やメタンガスを放出することはそれ自体が本質的に有害なことではないのであり、ゼロになるまでそれらを削減したいと望んでいる人もいない。
第一に、クラインと同様に私も気候危機は非常に深刻な問題であると考えているし、現状の様々な物事に対して変化を強いる問題であるとも考えている。気候危機は「自由市場至上主義」の説得力を過去最弱にしている。
しかし、同時に、気候危機は「反市場-至上主義」の説得力も弱めたのだ。特に、企業の行動を変える手段として価格付けメカニズムを用いることを極端に嫌っていた左派の人々の多くが、考えを変えて価格メカニズムに対する嫌悪感を払拭せざるを得なくなった。価格付けメカニズムに反対する議論は道徳的なものだけであるとすれば…つまり、価格付けには問題を解決する可能性があるとしても、私たちの道徳的純粋さの基準を満たすような形では解決しないということであれば…それは問題の解決方法に対する反対意見としてはかなり弱いものだ。
気候危機は充分に深刻な問題なのであり、大半の人々は解決方法の形に関わらずとにかく解決されることを望んでいるだろう、と私は推測する。いくつかの大企業が正しくない動機から正しい行為を行うことを容認するための取り決めを結ぶ、などの解決方法であったとしてもだ。
第二に、そして最後に、『これがすべてを変える』は一から十まで問題の"つながり"について書かれた本である。様々な種類の闘争のそれぞれに参加しているそれぞれの人々に対して、自分たちはみんな実は一つの同じ目的のために戦っているのである、と説得させるための本なのだ。そのこと自体には何も問題はない。
それに、多くの場合には、様々な要求を記したリストを提示することには(そのリストが短いものではなく長いものであったとしても)何の問題もない。
しかし、政策としての価値も疑わしく実際問題として実行不可能な政策の名の下に、実行可能であり有効な政策に対してあなたが反対をし始めるとすれば、それは、巨大な害を支持するものであるとあなた自身が批判している物事を実際にはあなた自身の手で引き起こすことになってしまうのだ。
『ブランドなんか、いらない』にまで遡るクラインの一連の著作に対して私が批判を行い続けているのは、彼女が間違った方向にへと読者を活気付けて動かしていることにある。風車に向かって対決したドンキホーテのような一人相撲を自分が取っているという可能性についてクラインはもっと時間を割いて考えるべきだと私は常々思ってきたし、『これがすべてを変える』にもクラインに対する私の評価を変えるようなことは何も含まれていなかった。
以上、「ナオミ・クラインの気候問題論」の記事から。
特に、最後の箇所でクラインの「つながり」論を批判している箇所は、わたしがこのブログでしつこく批判している「インターセクショナリティ」論とも関わってくることだろう(原文では"intersectionality"ではなく"linkage"であるが)*1。
クラインの見解では、(ギリシャで抗議デモに催涙ガスが使われて子供達が被害を受けたことは)気候変動と結びついているのだ。
私の推測であるが、このようなエピソード描写には、彼女の道徳的指向が示されている。何が善くて何が悪いかということについての、彼女の感覚が示されているのだ。高潔な抗議運動家たちがファシストな警察と対決するというドラマが提供するものこそが、暴力的な抗議活動にクラインがここまで執着している理由だ(世界における善の追求と悪との戦いが、抗議運動に催涙ガスが使われることに最も具現化されている、とクラインは考えているわけである。
要するに、彼女にとって、この件は「明白な道徳」が示されているのだ。誰が正しい側に立っていて、誰が間違った側に立っているのかということを、彼女は疑うことなく自明視している。彼女にとって、全ての物事は自身の自明視された道徳見解に従属しているわけである。
要するに、社会正義についてのクラインの意見は、二つの自明な命題から始まっている。抗議者は善であり、警察(または「抑圧の暴力」)は悪である、と。
クラインは抗議運動に参加している時に、文字通りの善と悪との戦いを目撃している訳である。そして、抗議運動は善であり警察は悪であるという命題に基づきながら、彼女はより幅広い世界観や社会正義についてのより精巧な意見を構築しようとする。
その世界観や見解のかなり多くは寄せ集めにすぎない。基本的には、クラインは抗議運動家が要求していることの全てを取り上げ、繋ぎ合わせてから、なんらかの形の一貫した一つの見解や、一連の要求としてまとめあげようとする。
ここで問題となるのは、言うまでもなく、抗議者達は実に様々なことについて要求しているということだ。一部の要求は理に適ったものであるし、別の要求はそうではない。全ての要求が矛盾なく共存する訳ではないし、全ての要求が善であることはあり得ない。
だから、最終的には、クラインの見解には矛盾を避けるための大げさなごまかしが含まれることになる。そのごまかしが、私のような人々を苛立たせるのだ。
一方で、クラインの論じ方をこのように認識することで、なぜ彼女が抗議運動家たち(また、自分で時間を割いてまで抗議に行くことはないが、抗議運動家を応援している人たち)からこれ程までに支持されているのかということを理解する助けになる。
まず第一に、抗議運動家たちはクラインの描く物語の中では常に英雄である。抗議運動家たちが間違いを犯すことは有り得ない。
第二に、クラインは抗議運動家たちの見解を受け入れ、少しだけ知的で整った一貫した見解に編み出してくれる存在でもある。同時に、全ての抗議運動には一貫性があるのだとクラインは保証もしてくれる。
全く異なった抗議者達が、全く異なった物事を求めて闘っているように見えても、それは正しい社会実現への要求において通底しており、彼らの努力は共通していることになるのだ。クラインは具体的なビジョンを何も語っていないように見える。しかし、なんらかのビジョンに至る大まかな目標を知っているかのようにも見える。なのでクラインの著作活動を追いかければいつか「見解」を示してくれるかもしれない…。
以上、「ナオミ・クラインについての最終論考」から。
なぜこのブログの方でヒースの記事をわざわざ取り上げたかというと、ヒースが批判の対象としているような議論は、ナオミ・クライン本人に限らず、最近になって"流行"している様々な思想家が行なっているものであるからだ。たとえば、(もう死去されてしまったが)デヴィッド・グレーバーはかなりナオミ・クライン的な論客であった*2。また、本邦では斎藤幸平がナオミ・クライン的な論客としての活躍を始めているようだ*3。どちらの論客も「資本主義」の問題を論じているが、正当な経済学の理論を参照しながら問題について地道かつ合理的に分析していくということは行わず、その代わりにラディカルなお題目をぶちあげることで、(左派の)読者の支持を得ている。
ところで、このブログでは「インターセクショナリティ」論だけでなく「ケアの倫理」論もしつこく批判している*4。そして、最近ではナオミ・クラインは「ケア」や「愛」の重要性を説いているらしいし、『ブルシット・ジョブ』でもケア労働に関する議論に紙幅が割かれていた*5。グレーバーにせよクラインにせよ、「ケア」や「愛」の重要性について最近になって急に気が付いたので、それを著作に取り入れた、という可能性もあるかもしれない。……しかし、おそらく、フェミニズムの議論を経たのちに「ケア」論(あるいは「愛」や「共感」論)が近年になって左翼の間で流行っているのを目にしたから、左派の読者が気持ち良くなるような物語を提供するために「ケア」や「愛」についても本のなかで触れることにした、というところが正解であるように思える。
とはいえ、最近に限らず、クラインが登場する前からナオミ・クライン的なポジションの思想家はいたであろうし、クラインや斎藤が退場した後にも同じようなポジションの思想家があらわれることも想像に難くない。そう考えると、彼女らや彼らを批判することは徒労で無駄であるようにも思える。
……しかし、ナオミ・クライン的なるものたちは、社会問題や正義・倫理に関心のある読者に対して、問題について冷静に考えて向き合うための「議論」を提供するのではなく読者を気持ち良くするための「物語」を提供することによって、正しい方向に向けられていれば社会をより良く改善できていたかもしれないエネルギーをみすみす無駄にしてしまっている*6。そう考えるとやはり放っておくべきではない。だから、ナオミ・クライン的なるものがあらわれるたびに、あるいは「インターセクショナリティ」が論じられるたびに、しつこくネチネチと批判を行い続けるべきであるのだろう。
*1:
*2:
*3:
*4:
*5:
斎藤:もう一点、ナオミ・クラインが素晴らしいなと思うのは、『NOでは足りない』のなかで、「愛」の概念を重視しているところです。いまの状況を変えるにはNOと言うだけではなくて、やっぱりYESに変えていくことが必要だと。他者と繋がっていくための概念は愛なのだ、という話をしています。最近だと、ネグリとハートが強調するキーワードの一つも、やっぱり愛です。
では「愛」とは何か。重要なのは、ケア労働だと言われています。人間が生きていくために必要な根源はケア労働だと。保育や看護、介護はわかりやすいですが、そういったケアなしに、私たちの生活は成り立ちません。ですが、現実にはそういった労働に従事する人々は、低賃金しか得られず、過酷な労働を強いられています。
こうしたいまの社会における労働の評価や、何が社会にとって有意義なのかを抜本的に価値転換していく必要があります。これは、我々が何に依拠して生きているのかということだと思います。つまり、貨幣を通じてしかつながり合えないような社会を選ぶのか、それともケアを通じてつながりあう社会であるのか、といった大きな話につながってきます。そういう意味で、クラインは本当に深いことを言っています。
*6:まさに「アヘン」だ。