道徳的動物日記

『21世紀の道徳』発売中です。amzn.asia/d/1QVJJSj

"女のヒステリー"と動物愛護運動

 ヒマなので、昔自分で書いた修士論文の内容の一部を参考にしながら、記事を書いてみようと思う。私はアメリカ史を専門にしていた訳ではないので歴史に関する文章については事実誤認とか間違いが含まれているかもしれないが、そこはまあ勘弁してほしい。

 

 アメリカで動物愛護運動が最初に活性化したのは19世紀の後半、南北戦争が終了してからだ。奴隷解放運動とそれに連なる諸々の社会改良運動・人道主義運動は戦争の前からも行われており、戦争後も、混乱・荒廃した社会を再建して道徳や秩序を取り戻そうとする人道主義運動は盛んに行われていた。そして、動物愛護運動も社会改良運動・人道主義運動の一環として行われていたのである。…アメリカの動物愛護運動は第二世界大戦の前後に一時勢いを失うが、20世紀の後半には再び勢いを取り戻した。従来の運動は基本的には犬猫の保護や毛皮への反対や家庭内・街中での動物虐待の防止などを目的とするものであったが、1970年代にはピーター・シンガーの『動物の解放』が出版されたことなどをきっかけとして、畜産や動物実験などの産業における動物の利用を禁止・撤廃しようとする「動物の権利運動」も登場するようになった。「動物愛護運動」と「動物の権利運動」は区別して論じられることも多いが、今回は一まとめに「動物愛護運動」として記すことにする*1

 

 19世紀から現在に至るまで、アメリカの動物愛護運動の特徴の一つは、運動の構成員の多くが女性であるということだ*2。「…(アメリカの動物愛護運動の)最も強烈な特徴の一つとして、女性が多数派を占めることがある。19世紀後半から現在にかけて、女性は動物の権利運動の前面に立ってきた」(Gaarder 2011, 1)。その理由は様々であると考えられるが、その一つには、19世紀後半のアメリカでは、女性には社会的な性役割として"優しさ"が要請されていたということがある。「女性は男性の定義する政治世界の不正や不道徳とは別の世界にいながら、女性の道徳心を公的な場に提供すること」(エヴァンス 1997, 208)を求められていたのだ。動物愛護運動だけでなく、禁酒運動や児童保護運動などのその他の社会改良運動の構成員の多くも女性であったのだが、女性たち自身も「母性的な価値観こそが公的な行為の元となるべきだという要求」(エヴァンス1997, 210)を発していた。禁酒運動や動物愛護運動は子供への教育や秩序ある家庭というイメージに結び付けられて、家庭や子供という“母親の領域”を守るためのものとして行なわれていたのだ*3

 社会的な性役割の他にも、心理学的な事象として、女性は男性よりも動物に対する愛着や同情やケアの感情を抱くことが大きい、ということの影響は強いだろう*4

 

 社会運動を行ううえで、「女性」や「母親」のイメージを有利に使用することはできる。たとえば19世紀の運動では、子供への動物愛護教育を普及するための活動や女性向けの製品であった羽根帽子の不買運動を行ううえで、運動家の女性たちは“母親としての子供への関心”や“女性にあるべき優しさ”といったイメージを使い、自分たち以外の女性の心を動かすことで、成果を挙げてきた(Beers 2006, 81)。

 また、どんな社会運動でもそうであると言えるが、動物愛護運動は人々の理性と感情の双方に訴えることで支持者を増やして目的を達成しようとする運動である。「動物に対する差別は、人種差別や性差別と同種のものであり、許されない」と論理的に相手を説得したり論破することで支持者を増やそうとする場合もあれば、動物たちが様々な苦痛を受けていることを強調して動物の苦痛に対する同情やケアの気持ちを呼び起こすことで支持者を増やそうとする場合もある。そして、一般的には、女性は同情やケアなどの「感情」と結び付けられることが多い。

 

 だが、運動の構成員の多くが女性であることや「女性的」というイメージが付いていることは、運動にとって足枷となる場合もある。運動の目的と利害が相反する敵対者たちが、女性は「感情的」であるために「理性的」な男性に劣る存在であるという価値観やイメージを利用して「動物愛護運動は女が感情に任せて行う運動だから理性的な主張ではない、理性的な人ならば動物愛護を否定するべきだ」といったことを主張することができてしまうからだ。

 19世紀の生体解剖反対運動から現代における動物実験反対運動まで、動物愛護運動の主要な標的の一つは医学や科学である。そして、医学者や科学者たちは自分たちが理性の側に立っていると強調し、女性たちは感情的なヒステリーに陥っていると "診断"することで、動物愛護の主張に反対してきた。

 たとえば、生体解剖反対運動においては、医学者は自らを医学を発展させ人々を救うという道徳的な行為を実践する存在であると自認した上で、生体解剖への反対は動物への同情のために医学・科学の発展を無視する運動である、と反論した。さらに、医学者たちは動物愛護運動家たちの動機を女性の身体に由来する精神病に還元した。

 

 「科学者たちは、医学への動物の利用に反対する人々をもの笑いの種にした。……当時、最も闘争的だったのはニューヨーク在住の医師、ジェイムズ・ウォーバスだろう。一九一〇年、動物研究の熱心な支持者であったウォーバスは、イヌ好きも度がすぎると悲惨な結果になると警告し、動物に愛情を抱くのは精神病、それも性的な精神病であるとほのめかしていた。そして自身の主張を裏づけるために、女性を「母親タイプ」と「娼婦タイプ」のふたつに分けたあるドイツ人研究者の研究を引き合いに出して、イヌを撫でまわす女性は母親タイプには属さないといさめた。」(ブラム2001, 161)。

 

 当時の医学者たちは「女性の精神の健康は彼女の出産器官に結び付いている」(Beers 2006, 124)としていたのであり、「普及していた理論では“ヒステリー”や“鬱病”とされている曖昧な疾病への正しい処方は、卵巣摘出や子宮摘出などである」(Beers 2006, 124)と考えていた。動物に過度な愛情を抱く「動物愛好症」はヒステリーや鬱病のように女性器と関連した精神病であり、動物愛護運動に興じる女性たちはこの動物愛好症の患者である、と医学者たちは主張したのだ。

 

 

 …現代の医学者や科学者や19世紀のような疑似科学的・女性差別的な「ヒステリー」論を主張することはさすがに少ないだろうが、程度の差はあれど、「この主張や運動は女が行っているものだから感情的で短絡的なものだ、俺の方が理性的で正しい主張をしているんだ」という類の主張は現代でも散見される。アメリカの動物愛護運動に限らず、たとえば日本の反原発運動や反放射能運動に対しても、この類の反論を見かけることがある。

 そして、運動が「感情的」なものとされることで運動の主張が否定されたり運動の説得力が奪われたりする、ということは運動家たちにとっても頭の痛い問題だ。対処法の一つとしては、議論になった際にも勝利することのできるような洗練された理論を発達させて、運動は「感情」ではなく「理性」に基づいたものであると自分たちの側から強調することだ。私の考えによると、シンガーの『動物の解放』が出版されたことが重要であったことの理由の一つは、感情的な要素を否定しつつ徹底的に理性的な理論を提供することで動物愛護運動のイメージを「感情」から「理性」の側にぐっと近付けたことにある*5。また、男性の哲学者といういかにも理性的な人によって権威のお墨付きを得ることができた、ということ自体も重要であるのかもしれない。

 だが、「自分たちの運動は感情的なものではない、一から十まで理性に基づいた運動だ」と主張するとすれば、多くの運動家たちにとっては自己矛盾をきたすことになる。実際問題、運動をする中で知識や理論を学んだり考えを洗練させていくことがあるとはいえ、多くの人にとって動物愛護運動に参加する最初のきっかけは動物への同情やケアなどの「感情」であることは否めないからだ。

 

 エミリー・ガーダーの著作『女性と動物の権利運動(Women and Animal Right Movement)』は現在のアメリカなどで動物の権利運動を行っている多数の女性運動家へのインタビューを通じて書かれた本であり、女性の運動家たちが抱えている悩みやジレンマが描かれている。女性であるという理由で「感情的」だとラベルを貼られて自分の主張が否定されることは不当に感じるが、しかし自分の感情を否定したくもない、場合によっては「感情的」や「女性的」というイメージを戦略的に使用することもある…などなど。たとえば、ある運動家は、「自分のやっていること(動物愛護運動)や、自分のやっていることをなぜ他の人もやるべきかということを説明する必要があるなら、知的な議論を見つけることはできる。でも、それ(知的な議論)が私を本当に動かしているわけではない。全く違う」(Gaarder 2011, 109)と証言している。

 

 

 …例によってまとまりがない記事になってしまったが、社会運動における「感情」と「理性」の関係とか、女性の運動家に向けられがちなレッテルや差別などについて考えたり研究したりするうえで、(アメリカの)動物愛護運動の事例は大いに参考になる、と言えるかしれない。

 なにか実践的な教訓を引き出すとすれば、自分が何か批判された時に「お前の主張は感情的だ、俺の主張は理性的だ、だから俺の方が正しい」みたいな反論をする時には慎重になるべきだ、ということだろうか。そういう反論を行う前に、本当に相手の主張は感情的で自分の主張は理性的であるかと慎重に考えるべきであるし、自分にとって不都合・不愉快な主張に対して無意識のうちに「感情的」というラベルを貼って切り捨てていないかということをよくよく検討すべきだろう。「お前は女だからヒステリーで感情的だ」みたいな主張をするのは差別であるので言語道断である。

 

 

Women and the Animal Rights Movement

Women and the Animal Rights Movement

 

 

 

 

参考文献:

Beers, Diane. For the Prevention of Cruelty: The History and Legacy of Animal Rights Activism in the United States.  Athens, Ohio: Swallow PressOhio University Press, 2006.

Gaarder, Emily. Women and the Animal Rights Movement. New Brunswick, NJ: Rutgers University Press, 2011.

Pearson, Susan. The Rights of the Defenseless: Protecting Animals and Children in Gilded Age America. Chicago: University of Chicago Press, 2011.

エヴァンス, サラ. 竹俣初美, 小櫓山ルイ,矢口祐人・訳.『アメリカの女性の歴史 自由のために生まれて』. 明石書店,1997.

ブラム, デボラ.寺西のぶ子・訳.『なぜサルを殺すのかー動物実験とアニマルライト』. 白揚社, 2001.

 

 

*1:「動物愛護運動」と動物の権利運動」、また「動物の福祉運動」と言った言葉の定義の問題はなかなかややこしい。以下の記事が多少なりとも参考になるかもしれない。

動物の権利運動と動物福祉 ー 規制か、撤廃か? 動物の権利運動における畜産をめぐる論争 - 道徳的動物日記

*2:アメリカ以外の国の動物愛護運動では男性が多かったり男女半々である…ということではなく、単に私はアメリカ以外の国の動物愛護運動の男女比についての情報を持っていないのでこう言う書き方になったというだけである。日本の動物愛護運動にしても私が関わった範囲では女性の方が多いように思われるし、おそらく一般的な傾向であるような気がする。

*3:しかし、動物愛護団体の構成員の多くが女性であり、団体の創設そのもの体に女性が関わっていた場合でも、世間的な見栄えを考慮して団体の代表者は男性となる場合が多かった。女性は“道徳の守護者”として見なされつつも、社会的な重責任を努める立場は努められないと見なされていたからだ。結局、女性が動物愛護団体の代表者になることが認められるようになったのは1950年代以降である(Beers 2006, 81)。 

*4:動物への態度に関する男女の性差に関する心理学的研究としては、ハロルド・ハーツォグの研究などを参照できる。

http://www.tandfonline.com/doi/abs/10.2752/089279391787057170

Anthrozoo?s 2007.qxp:Layout 1

ハーツォグの著書でも、動物への態度に関する男女の性差について書かれている箇所がある。

 

ぼくらはそれでも肉を食う―人と動物の奇妙な関係

ぼくらはそれでも肉を食う―人と動物の奇妙な関係

 

 

*5:

davitrice.hatenadiary.jp

マーサ・ヌスバウムによる動物の「繁栄・開花」/「可能力アプローチ」論と、その問題点

 

 

 

 ドナルドソンとキムリッカの『人と動物の政治共同体』を読んだついでに、同じく政治哲学の視点から動物を扱っている、マーサ・ヌスバウムの『正義のフロンティア』の第6章「"同情と慈愛"を超えて」も、ぱらぱらと読み返してみた。

 

『正義のフロンティア』は「障害者・外国人・動物という境界を超えて」という副題の通り、ジョン・ロールズの『正義論』のような社会契約の枠組みでは排除されたり上手く扱えない立場の存在について、政治哲学的に配慮の対象とする方法を探る、的な本である。

 通常の社会契約論では動物は配慮の対象にならないというのは、考えてみれば明白である。ほとんどの動物は人間のような合理的な道徳的主体ではなく、互恵性や協力をする能力やルールを守る能力を持たないために、契約能力がないからだ。それらの能力を持っている動物はいるとしても限られているし、人間が持つ複雑な能力に比べればかなり限定的であったり異なる種類のものであったりするし、例えばある生物種の動物同士の間では互恵性や協力が存在するとしてもその動物が人間との間に互恵性や協力を結べるとは限らない。社会契約には「資源が限られている状態でお互いが争い合うと相互に傷付いてどちらも損をするから、お互いの利益のために契約を結ぼう」という相互利益の観点から行う側面もあり、そしてある資源(食料や居場所など)をめぐって人間と動物が競争する状況にある事例は十分に想像できるが、大半の場合には人間は動物に対して圧倒的に強くて有利な状況にあるので、相互利益の観点から行う契約も成立しない。人間は自分が傷付くことなく動物を排除することができるから、わざわざ契約を結んで妥協してやる必要がないのだ。そんなこんなで、社会契約論によって動物を配慮の対象に入れることは難しい、とヌスバウムは論じる。「動物に対して残酷な人々は人間に対しても残酷になるだろうから、人間同士の間の残酷を防ぐために動物に対する残酷も防ぐべきである」とか「動物も苦痛を感じる以上は動物に対して残酷になるべきではないし、社会契約の当事者に対して負うのとは異なる種類の義務(同情や慈愛の義務など)は存在する」などの間接的であったり曖昧な道徳的義務は主張できるかもしれないが、動物を直接の対象とする道徳的義務を社会契約論から明白に論じることは困難であるのだ。尚、社会契約論において障害者を配慮の対象に入れようとする時にも、動物の場合と同様の様々な難点が生じることも指摘されている*1

 しかし、社会契約の当事者にはなれないとしても、動物たちはそれぞれの動物なりに「善(Good)」を持っている存在である。「善を持っている」というのは、要するに、あることが起こったり物事がある方向に変わったらその当人にとって良かったり嬉しかったり快適に感じられること、あるいは悪かったり苦痛だったり不快に感じられることが存在する、というような意味だ。また、動物たちはそれぞれの生物種に基づいた仕方で「繁栄・開花(Flourishing)」をするための「可能力・潜在能力(Capability)」を持っている。適切な環境があれば犬は走り回って群れで遊んだと犬らしい行動をとるし、牛にせよライオンにせよイルカにせよ、動物たちにはそれぞれにその生物らしく生きて「繁栄・開花」する可能性を抱えているのだ。ある動物が自分の「可能力」を「繁栄・開花」することは、その動物にとって善である。そして、動物たちがその種らしく生きているところを目にした時、私たち人間は、驚嘆を覚えて感心する。また、何らかの環境や状況のために動物たちが自分たちの種らしい生き方をできない場合には、そのことは良くないことだという倫理的判断を私たち人間は下す。これらの事柄をふまえると、動物たちが「繁栄・開花」するための「可能力」を害しないようにしたり積極的に維持や保証をしてやることは道徳的義務だということができるし、動物が社会契約の当事者になれないからといって動物の「可能力」を無視する理由はない。これがヌスバウムの「可能力アプローチ」である。「このアプローチにおいて重要なのは、動物には幅広く機能するための可能力が、そして繁栄・開花した生活つまり各々の生き物の尊厳に見合った生活にとってもっとも本質的な可能力が、権原としてあるということである。動物は正義に規定された権原を有している」(p. 446)*2

 

 ヌスバウムは、守られて尊重されるべき、動物の「可能力」のリストを以下のように挙げている。ただし、このリストが絶対唯一のものであるとはヌスバウムも主張しておらず、あくまで一つの例としての大まかで一般的なリストとされている。

 

(1)生命:「功利主義のアプローチは感覚性にのみ焦点を合せるため、動物の自覚的な利害関心のひとつが持続する生命である場合を除いては、生命への権原を動物に与えない。可能力アプローチでは、そのような自覚的な利害関心があるか否かにかかわらず、苦痛と老衰によって死が危害となるまでは、すべての動物にはそれぞれの生命を維持する権利資格がある」(p.447)。…私の見解によれば、動物の利害関心に「持続する生命」が含まれないとしても、動物が幸福を感じ続けられるなら(幸福の総量が増加するために)その動物を生き続けさせるべきである、という主張を功利主義が行う場合もあるはずである。「持続する生命」に対する利害関心を重要視するのは功利主義の特徴というよりもパーソン論の特徴であるはずだ(パーソン論の中には功利主義以外のものも含まれるし、パーソン論を採用しない功利主義が存在する可能性もあるはず)。ともかく、ヌスバウムは「虫や、他の感覚性が無かあるいは最小限の生命の形態を扱う場合には、この権原はそれほど頑強ではない」(p.447)としている。感覚性にこだわる功利主義を批判する一方でヌスバウムも感覚性を重視しているのであり、曖昧な感じがする。また、年老いており苦痛を感じ続けている動物を、十分な考慮を行ったうえで安楽死することも認めており、生命を絶対視している訳でもないようだ。

 功利主義には「動物を殺すことによって人間が得られる利益や効用の方が上回るのなら、動物を殺すことは認められる」という結論が導き出される可能性が常に存在しており、動物に多大な苦痛や死を与えている制度である食肉産業すらも肯定してしまう危険性が常に存在している、ということをヌスバウムは指摘する。一方で、可能力アプローチでは利益や効用の計算を度外視して動物の生命を尊重することを求めるし、「搾取しかつ虐げる仕事には、権原がない」(p.448)として食肉産業を否定することができる。そのために可能力アプローチの方が優れている、とヌスバウムは主張している*3

 

(2)身体の健康:健康的な生活に対する権原。このことをふまえると、動物を殺さないとしても不健康な状態にさせ続ける動物園や水族館は問題とされる。

 

(3)身体の不可侵性:怪我をさせられないことや、その他の形で身体に介入されないこと。動物に暴力を振るうことはもちろんダメだし、人間の都合のために動物を改造すること(見た目を良くするために犬の尻尾を切る、家具を傷付かないようにするために猫の爪を切ることなど)も、その動物がその種らしく繁栄・開花することを妨げるのでダメである。

 ただし、「…不妊手術は個々の動物の生活に特段の影響を及ぼさないが、個体数の過剰増加とその結果生じる食料不足と餓死放置、これらを防止することによって、将来の動物の生活をよりよくするだろう」(p.450)ということでOKとされている。人間に対する強制的な不妊手術は「人間の生活において特に重要な、ある特定の自由と選択への権原を侵害する」(p.450-451)から問題だが、動物の場合にはそうでないとされているのだ*4

 

(4)感覚・想像・思考:人間の場合には、教育が保証されることや言論や芸術的表現の自由、また宗教の自由などの権原があるとされる。動物の場合には宗教や言論への権原は必要とされないが、楽しい経験を過ごすことへの権原は必要とされるし、退屈な生活を強制されない権原も持つ。つまり、ほとんどの動物園(や工場畜産)のように生活に刺激のなく移動の自由も保証されていない、ストレスと退屈さに満ちた環境は道徳的に否定される。また、ペットとして飼われる犬や猫のトイレ・トレーニング、また人間による訓練がなければその種らしく走り回ることができない多くの品種の馬などの事例では、それらの動物には教育への権原があるとされる。

 

(5)感情:身体的な苦痛を受けない権原のみならず、悲しみや孤独や恐怖といった負の感情を抱かされない権原も動物は持っている。動物に様々な負の感情を引き起こす、心理学的な動物実験は問題とされる。また、愛着やケアなどのポジティブな感情への権原も動物は持っているとされる。

 

(6)実践理性:人間だけでなく動物もそれぞれの種なりの理性を持っているので、それを発揮するための環境への権原がある。

 

(7)連帯:「…動物に特徴的な形態の絆及び相互関係に携わること」(p.453)への権原。群れで生きることが最適な動物には群れで生きることへの権原があるし、親子関係や友情関係への権原もある。ただし、野生の動物の群れでは年老いた個体や雌などの弱者が虐待されることも多いが、群れとしての自然なあり方は維持されるべきだがあまりにもひどい暴力は制御されるべきだとされている。

 

(8)ほかの種との共生:たとえば、人間と共に生きることで幸せになれる家畜動物には人間と共に生きることへの権原がある。

 

(9)遊び:退屈にならないことへの権原や移動の自由への権原があることの延長線上で、その動物の種ごとの遊びができるための適切な環境への権原も動物は持つ。

 

(10)自分の環境の管理:人間の場合には政治的なものと物質的なものがあるが、動物の場合にも、自分たちの利害が様々な意思決定の場で考慮されることへの権原があるとされる。動物たち本人は意思決定に参加できないとしても、後見人として動物たちの利害を代表する人間が参加すればよい。

 

 この他にも様々な可能力がリストに追加される可能性がある、とされている。

 

 

 …さて、ここで、功利主義者のピーター・シンガーによる、ヌスバウムへの批判を紹介しよう。

 

www.utilitarian.net

 

 ヌスバウム功利主義が特に動物の問題において一定以上の貢献を成し遂げてきたことを明記しつつ、功利主義における理論的な問題点を様々に取り上げて批判しており、シンガーはそれに対する反論を行なっている。しかし、ここではそのことは脇に置いておいて、ヌスバウムの「可能力アプローチ」に対してシンガーが向けている批判を紹介したい。

 

 可能力アプローチはアリストテレス的な「自然法」倫理の変種と言えるものであり、「自然法」倫理が抱えているのと同様の問題を可能力アプローチも抱えている。つまり、「自然であることは善いことだ」「人間(動物)にとっての自然的な性質なら、それは人間(動物)にとって善いことだ」という発想が根底にあるのだ。これは、「ナイフの目的は切ることにあるので、善いナイフとは鋭いナイフである」という理屈を人間や動物にも当てはめて「人間(動物)はある目的のために存在しているのであり、善い人間(動物)とはその目的を達成する人間(動物)である」という目的論的な人間観が抱かれていたアリストテレスの時代には説得力があったかもしれないが、現代に通じる理屈ではない。自然科学的に考えれば、人間(や動物)が持つ様々な性質は、価値中立的であり何らかの目的や意志が介在しない自然淘汰のプロセスによって進化してきたものであるからだ。

 ヌスバウム自身もこの問題は意識しており、「自然であることは善いことである」という主張を否定しようとしているとはいえ、動物や人間にとって「繁栄・開花」することは善であるという彼女の主張が「自然であることは善いことである」という主張からいかにして区別されるかは明白ではない。たとえば、人間にとって「繁栄・開花」することが善いことであるとすれば、大量の女性を集めてハーレムを作り自分の子供を孕ませまくる男性は、人間という種らしい行為を行っているために他の誰よりも「繁栄・開花」していると言えるだろうし、その男性のハーレムに参加できている女性も「繁栄・開花」していると言えるかもしれない。人間は狩猟採集民時代から他集団に対する戦争や虐殺を行ってきたが、戦争や虐殺を行うことは人間の「繁栄・開花」のために必要なのか?もっと穏当な例を挙げるとすれば、例えば人間は泳ぐことができるが、「泳ぐ」ことは人間にとっての「繁栄・開花」なのか?プールや海が近くていつでも泳げる人間は「繁栄・開花」している人間であって、近くに泳ぐ場所がない人間は「繁栄・開花」していないのか?…いや、泳いだりハーレムを作ったり虐殺したりするようなことが「繁栄・開花」をしていることであるとはとても言えない、とヌスバウムが主張するとすれば、彼女は「可能力」や「繁栄・開花」という言葉に対して、「その種らしい行為をすること」以外の別の価値判断に基づいた意味をこっそり導入しているということになるのだ。

 実際、上述してきたように、ヌスバウムは「人間が食肉産業を運営することによって動物を殺すことは、人間の可能力を繁栄・開花させていることとは言えない」「動物の個体数が増えることを防止するためには、動物の不妊手術を行うことは認められる」「動物の群れにおける自然なあり方であっても、個体に対する重大な危害が看過される訳ではない」といったように、「繁栄・開花」論だけでは導き出せないような、様々な価値判断を行っている。動物のその種としての性質が何でもかんでも「繁栄・開花」することが必ずしも善であるとされているわけではないのだ。だが、あるタイプの「繁栄・開花」は"なぜ"善くて別のタイプの「繁栄・開花」は"なぜ"善くないのか、異なる「可能力」が衝突してトレードオフが生じた際に片方が選ばれるべき理由は "なぜ"であるのか、あるいはその種らしい自然な行為であっても善ではないので「繁栄・開花」と呼ぶことはできないのは "なぜ"であるのか、…その "なぜ"をヌスバウムは明示していないことが問題となる。そして、シンガーによると、ヌスバウムは彼女が散々に否定している功利主義に頼るしかないのである。たとえば、「その可能力が繁栄・開花すればその動物の選好は満たされる、またはその可能力が繁栄・開花しないとすればその動物の選好は満たされないために、その可能力が繁栄・開花することは善である」あるいは「その可能力が繁栄・開花すればその動物は幸福を感じることができる、またはその可能力が繁栄・開花しないとすればその動物は苦痛を感じてしまうために、その可能力が繁栄・開花することは善である」という風に定義すれば、選好や幸福とは関係のない性質や能力までをも可能力だとみなして「繁栄・開花」せよと主張する必要は無くなるし、異なる可能力が衝突した際にも選択を行うための基準として幸福や選好を参照することができる。しかし、こうなると可能力アプローチは功利主義の一種に過ぎなくなるだろう。…結局のところ、ヌスバウム功利主義を否定しつつ「可能力アプローチ」を主張したいのなら、ある「可能力」が「繁栄・開花」することは重要で善であり他の「可能力」が「繁栄・開花」することは重要ではなく善ではないということは "なぜ"であるかということを示すための基準を明示しなければならないのである。

 

 …その他、ヌスバウム功利主義に対して「効用の比較不可能性」「洗脳・適応的選好形成を排除できない」「非道徳的な結論を導き出す可能性を排除できない」「人間の個別性を考慮しない」といったお馴染みの批判を行っている。これらに対しては上記の記事でもシンガーが反論を行っているし、他の様々な論者が書いた著作でも、功利主義の立場からの反論を参照することができる(なので、ここでは取り上げない)。

 

 …読み返していて思ったが、『人と動物の政治共同体』に比べると遥かにマシであるとはいえ、『正義のフロンティア』もかなり場当たり的で曖昧な理論を用いた議論を行っており、動物をめぐる問題において生じることが明確であるはずのトレードオフやその他の困難について、耳触りの良い綺麗事を並び立てることで目を逸らしている節がある。おそらく倫理学に比べて政治哲学は扱う問題が複雑で具体的になり過ぎるし、配慮しなければならない事柄が多すぎるために、功利主義のように一貫した理論を主張するよりも曖昧で総花的な議論を行わざるをえない傾向があるのかもしれない。でもやっぱり読んでいてイライラするので、政治哲学よりは倫理学の本を読んでいる方が楽しい。

 

 

 

 

 

*1:『人と動物の政治共同体』では、動物たちの行動や能力の一部を恣意的かつ大袈裟に取り上げたり「規範」や「主体」といった言葉の意味をかなり拡大解釈することで、動物たちにも「規範に従う能力」とか「利害を表明する能力」とか「主体」とか「主権」とかが存在するのでありそのために動物は政治的な配慮の対象となったりするし動物たち自身も政治的主体であるのだ、という議論が行われていた。以前の記事でも書いたが、これはかなり無理があり説得力に乏しい議論であるように思われる。社会契約に動物を参加させるのは難しい、ということを早々に認めるヌスバウムの議論の方が妥当であり潔いように思われる

*2:ヌスバウムの議論において、動物たちが「善」を持っていることと、私たちが動物たちの「繁栄・開花」に驚嘆することと、どちらがどれくらい重要であるか、ということはややこしくて、理解しづらい。私が「正義」という(倫理学的というよりも政治哲学的な)概念をよく理解していないということも悪いのだが、ヌスバウムの議論を読んでいても、私たちが動物の繁栄・開花した生活に驚嘆を覚えるということがなぜ動物が正義の対象になることにつながるのか、という理屈がちょっとよくわからない。たとえば、人間の進化の歴史が現在存在するものとはちょっとだけ違っていたために他の動物の繁栄・開花の仕方について感嘆する能力を人間が備えていなかったとすれば、動物は正義の対象とならないということになりそうだ。あるいは、極端に金銭主義的な物質主義的であるために自然や美しい物事に対して感嘆するということを忘れてしまった人々ばかりが暮らす国では、動物に対して人々が感嘆することもないので動物は正義の対象とならない、ということになるかもしれない。だが、人間が感嘆するかどうかということがそこまで重要で本質的なことであるようにはとても思えない

*3:功利主義は、計算の結果、食肉産業や奴隷制などの非道徳的な制度を認めてしまうかもしれない」という危険性はよく指摘されることだが、食肉産業が動物に与える苦痛や奴隷制が奴隷に与える苦痛の重大さとそれらの制度によって得られる利益の相対的な軽小さについて真剣に計算してみれば、功利主義がそれらの非道徳的な制度を認めてしまうことはありえないし、そのような危険性は杞憂である、というのが功利主義の側の言い分だ

*4:私も動物への不妊手術は認められて人間への(強制的な)不妊手術が認められないことには同意するが、それは、セックスを奪われることは動物にとって大した危害ではなく、そして個体数の過剰増加を防ぐことは大きな利益になる、と考えているからだ。人間の場合には「自分のセックスや妊娠の機会は無理矢理奪われてしまった」と意識することができてしまうし、動物とは違ってセックスができなかったり子供が作れなくてもセックスをすることや子供がいる生活について想像をして自分の現状と比較することが人間にはできてしまうことなどのために、人間に対する強制的な不妊手術は動物の場合とは異なって様々な苦痛を引き起こすだろう。…しかし、動物がセックスできなかったり妊娠できなかったりすることがその動物のその種らしい「繁栄・開花」を損なわない、という理屈にはとても納得できない。セックスや妊娠がその種らしい「繁栄・開花」でないとすれば、他のほとんどの行為も「繁栄・開花」ではなくなるだろう。この点に関しては、ヌスバウムは自分の理論の問題点から目をそらすために無茶苦茶な主張を行っているように思える

野生動物と境界動物:『人と動物の政治共同体』(3)

 

 

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

 

 

 

 今回の記事では、『人と動物の政治共同体』の第6章と第7章をざっと紹介しよう。第8章の「結論」は改めて紹介する必要もないと思うので、『人と動物の政治共同体』の紹介記事は今回で終わり。

 

 第6章「野生動物の主権」では、章の題名通り、野生動物の問題が扱われている。著者らは、既存の動物倫理学は野生動物に対して「危害を与えてはならない」という消極的義務は主張してきたが野生動物に対して介入して何かをしてやるという積極的義務は主張してこなかったのであり、要するに野生動物の問題に関しては「放っておけ」ということ以上の議論ができてこなかった、という点を批判する*1。例えば倫理学的な動物の権利論では道徳的行為を行える道徳的主体とそうでない存在ははっきり分かれているのであり、道徳的主体である私たちは野生動物を傷付けなかったり有害な人間の活動(狩猟や自然破壊など)から野生動物を守る義務があるし、私たちが野生動物を傷付けるとすればそれは道徳的に間違った行為である。だが、野生動物たちは道徳的主体ではなく、例えばオオカミがウサギを傷付けて捕食したとしてもオオカミは道徳的主体ではないのでオオカミの行為も道徳的に間違った行為とならない。要するに野生動物同士の関係は道徳的に正しくも間違っていないニュートラルなものなので、それに介入する道徳的義務も存在しないとされる。場合によっては傷付いていたり苦境に陥っている野生動物を助ける「援助の義務」というものが存在するとされるかもしれないが、それは野生動物を傷付けないという消極的義務に比べるとかなり例外的で弱いものとされるし、私たちの身近な存在(身近にいる人や家畜動物)に対する「援助の義務」と比べて私たちから離れたところに存在する野生動物に対する「援助の義務」はずっと弱いものとされる。

 動物倫理学において野生動物に対する積極的介入が忌避されてきたのには、もちろん理由がある。例えば、私たちは野生動物に対して消極的義務のみならず積極的義務があるということをひとたび認めたとすれば、ウサギが傷付くことを防ぐためにオオカミがウサギを捕食する行為も防がなければいけなくなるのか、そもそもどうやってオオカミの捕食行為を防ぐのか、その場合は餌を得られないオオカミはどうなるのか、食物連鎖とか生態系とかが崩れて予期せぬ被害が出ないか…という風に、現実的に解決不可能な問題が際限なく登場することになる。功利主義者の場合でも、権利論者のように「道徳的主体/そうでない存在」という区分に固執することはないとはいえ、「自然や生態系に関して人間は完全な知識を持っていない以上、野生に対する人間の介入が最終的にどのような結果をもたらすかは予測不可能であるし、多くの場合には安易な介入は動物たちが受ける苦痛を増やす結果になる」という理由に基づいて多くの場合には野生に対する介入に反対するだろう*2。また、野生動物に対する介入は野生動物の自然な存在の仕方を傷つける、といった議論もある。

 既存の動物倫理学に不満を抱いており、場合によって野生動物に対する積極的介入も行われるべきだと考えている著者らは「主権」という概念を導入することで独自の理論を打ち立てようとする。「野生動物のコミュニティには"主権"があるのであり、私たちは野生動物たちの主権を尊重して多くの場合には野生動物の独立を尊重し介入を行うべきでないが、人間の主権国家に対しても場合によって積極的援助をする道徳的義務があるのと同様に、場合によっては野生動物の主権コミュニティに対しても積極的援助をする道徳的義務がある」という感じの主張を行っている。

「野生動物たちは自己統治ができないから主権を持つ存在であると見なすことはできない」といった反論に対しては、主権を持つために必要とされる条件が人間に都合よく恣意的に設定されている、見方によっては野生動物たちも自己統治を行っているということはできる、という再反論を行っている。積極的援助をいつ行うべきかということについては、人間の主権国家に対する積極的援助について色々と論点があるように難しいのだが、大災害のように野生動物のコミュニティそのものの崩壊の危険がある時などには行うべきだとされている。また、知識のある科学者や自然保護活動家による自然保全のプロジェクトを行うことはOKとされているし、専門知識はない個人であっても野生動物に長らく関わっており自分の行為が間接的な悪影響を生み出さないことが確信できる場合には野生動物を餌付けしたり治療したりすることもOKとされている。…紹介の仕方がかなり雑になっているが、これは、著者らの他の議論と同じくこの議論もかなり場当たり的で説得力に乏しいものであるように私には思えるために、解説する気が失せているからである。

 他にも、(人間の主権国家に対して別の主権国家が不正義や非道を行った場合には保障や謝罪が必要とされることと同じように)過去に人間が野生動物に行ってきた不正義とか非道とかを反省して未来志向の正義を目指す義務があるとか、野生動物と接触するコミュニティでは現在のように野生動物に対してのみ一方的にリスクを押し付ける(野生動物が交通事故で死ぬことに対して対策を取らなかったり、クマなどの"危険"な動物が人間のコミュニティに現れた場合にはすぐに殺害してしまったり、など)ことは間違っているのであり、環境を整備することで野生動物との不幸な遭遇が起こらないようにしたり、人間側も野生動物に害を与えられることについてのリスクを甘受する必要がある、といったことが論じられている。「主権」があると言っても当然野生動物は政治や国際会議などには参加できないわけだが、野生動物の利害を代表する役割の人間が代わりに意思決定に参加することで補おう、といったことも論じられている。

 

 第7章の「デニズンとしての境界動物」では、ハトや野良猫やネズミなど、人間の生活圏に存在していて人間の行動に依存した生活を送っているが家畜として飼われている訳ではなく自立して生きている動物たちである「境界動物」について論じられている。著者らは「境界動物」には家畜動物に保証されているような「シティズンシップ」を与えることはできないが、それに準ずる「デニズンシップ」を与えるべきだと論じている。境界動物は野生動物に比べて人間との関わりが強く、人間が境界動物たちに対して負っている義務も野生動物に対して負っているそれに比べて強いので、野生動物たちに対してよりもさらに積極的な介入を行ってやる必要がある。しかし、シティズンシップを持つ家畜動物に対してほどの義務はデニズンである境界動物たちに対しては負っていない。じゃあその義務の具体的な中身はなんであるかというと各種の境界動物の性質やその動物と人間との関係性によって色々だが、餌場や居住地を保障してやることとか境界動物に対して人間が生じさせる可能性のある諸々のリスクを排除することや、境界動物と人間社会が有効的な関係を築くためには境界動物に関わる人たちも境界動物が人間に迷惑をかけて嫌われることがないように配慮しなければならないとか、そんな感じである。

 

*1:「クレア・パーマーが「レッセ・フェール的直感」として、動物の権利論の深層にある問題だと指摘している事柄である

*2:ただし、自然への介入が動物の苦痛を減少させることが一定以上の精度で予測される場合には、功利主義は自然への介入を行うことを支持することになる。以下のゲイリー・ヴァーナーの議論を参照。

davitrice.hatenadiary.jp

また、著者らはジェフ・マクマーン(Jeff McMahan)がニューヨークタイムス誌に発表した記事「肉食者たち(The Meat Eaters)」も取り上げている。この記事の主張は、捕食によって自然界に生じている苦痛を考慮すれば、すべての肉食動物たちを段階的に絶滅させたり遺伝子介入によって草食動物に変化させたりすることで、肉食動物をこの世からなくして草食動物のみを存在させることによって自然界から捕食行為を無くしてしまうことを行うべき道徳的理由は存在する、というものだ。もちろん、現時点では科学技術能力や遺伝知識の限界などのために不可能であるとはいえ、科学が発達してその行為(を予防するつもりの苦痛よりも多くの苦痛を生じさせてしまう結果を生み出すこともなく行うこと)が可能になった時点で、人間は肉食動物を草食動物に置き換えるべきであるのだ。記事内では、遺伝子介入一般に対する忌避感に基づいた反論や「生物種には特別な価値があるから、絶滅を起こすことは道徳的に問題だ」という反論もあらかじめ想定された上で再反論されている。現実性はともかく、なかなか興味深くて鋭い議論であるように思える。

https://opinionator.blogs.nytimes.com/2010/09/19/the-meat-eaters/

『歴史の終わり』はトランプの出現を予期していた?

 

 

歴史の終わり〈上〉歴史の「終点」に立つ最後の人間

歴史の終わり〈上〉歴史の「終点」に立つ最後の人間

 

 

 

 1992年に出版されたフランシス・フクヤマの著書『歴史の終わりと最後の人間(The End of History and the Last Man)』は、現在となっては本国のアメリカでも日本でも否定的に受け止められることが多いようだ*1。『歴史の終わり』で行なわれている主張でも特に代表的なのが、共産主義やその他の権威主義・非民主・抑圧的な政治体制は矛盾が含まれており持続性のない失敗した政治体制であることがいまや明らかになったのであり、西側資本主義の西洋社会に代表されるような経済的・政治的自由主義を伴う民主主義体制こそが人類が辿り着いた最良の政治体制である、民主主義を超える政治体制が生み出されることはこの先もないだろう、といった主張だ。だが、『歴史の終わり』の出版後、イラクにおけるアメリカ主導の民主化が失敗したりその後も中東で民主化運動が失敗したりいくつかの国家が民主主義から権威主義へと逆流していったりしたことなどのために、この主張は説得力がないものと見なされるようになってしまった。

 

aeon.co

 Paul Sagarという人が書いた上述の記事でも、フクヤマは極端な自由資本主義イデオロギーを唱えてジョージ・W・ブッシュネオコン政権にお墨付きを与えてしまった思想家として、主に左派の人々から(時には右派からも)激しい批判を受け続けており、イラク戦争以後に世界に起こった事象を見れば『歴史の終わり』の議論は的外れで馬鹿馬鹿しいものだったと嘲笑もされている、ということが指摘されている。

 だが、フクヤマに対するこのような批判の大半は『歴史の終わり』を誤読しているものだ、とSagarは論じている。そもそもフクヤマが主張している「歴史の終わり」論はヘーゲル弁証法の議論に基づいた観念的・哲学的レベルな議論であり、「大文字の歴史」( big-H history )と称される近代化のプロセスといった抽象的な事柄について書かれたものなのだ。弁証法の結果として自由民主主義が最良の政治体制あることが明らかになり「大文字の歴史」は終わったとしても、もちろん現実の「小文字の歴史(history)」は依然として続くのであり、そして「大文字の歴史」が弁証法を通じて一定の方向に進歩し続けるのと違い「小文字の歴史」では様々な偶発的な出来事が起こり続けるのであって、現実のレベルで民主主義を否定したり民主主義がうまく機能しない国家があらわれることを『歴史の終わり』は特に否定していないのである。要するに、「最良の政治体制は何であるか」ということについてのイデオロギー論争や社会科学的な論争に(ソビエトの崩壊を機として)決着がついたことを「歴史の終わり」と称しているのであって、世界中の国家が民主主義を受け入れるだろうとか民主主義を否定する国家は今後現れないだろうとかそういう主張をしている訳ではないのである。

 

 そして、「大文字の歴史」に関するフクヤマヘーゲル主義的な主張が妥当であるかどうかはさておいて、『歴史の終わり』ではまた別の注目すべき議論がされていたことをSagarは指摘している。『歴史の終わり』は、政治体制に関する議論のみならず、「優越願望(プライド、気概)」と「対等願望」という人間の心理についての議論も行っている本であった。自分は他人よりも優れているということを証明して他人よりも良い待遇や尊敬を持って扱われたいという「優越願望」と、人は皆が差別なく平等に扱われるべきであり特定の立場にいる人が他の人よりも良い扱いを受けることは許せず、また自分も他人と同じくらいの待遇を受けて人として承認をされたいという「対等願望」という二つの心理は人間に普遍的に備わっているのであり、この二つの心理は歴史を通じて様々な社会においてイデオロギーや政治体制として表れてきたのであって、「優越願望」と「対等願望」はこれまでも抗争を続けており前者が優勢であったのだが最終的には「対等願望」を反映する自由民主主義が勝利することになった、というのがフクヤマの議論である。

 だが、人間の普遍的な心理である「優越願望」は自由民主義体制においても結局は消えることはないのであり、スポーツや芸術などの形によって発散することはできるがそれにも限度はある。民主主義社会の内側で溜まった「優越願望」のエネルギーが、誰もが対等に扱われる民主主義を退屈で間違ったものであるとして自己否定を行うことで、せっかく辿り着いた「大文字の歴史」の流れは逆流する危険性がある、とフクヤマは指摘していたのだ。特に厄介なのは、それまでは他の人々よりも良い待遇を受けていたのが平等主義が広まることによって相対的に地位が転落していた人々であり、そのような人々は自分が当然のものとして見なしていた承認も奪われて騙されしまったように感じて、民主主義の否定に走るだろう。平和と繁栄を特徴とする自由民主主義社会に生きる人々が、まさにその平和と繁栄を否定し始めるのである。ソビエトが崩壊した以上はもはや共産主義の説得力は失われているので、民主主義を否定する人々はファシスト的な右翼を支持せざるをえない。…そして、先の大統領選でドナルド・トランプに投票したアメリカの白人たちの行動原理はまさにコレなのである、トランプ当選に代表されるようなポピュリズムファシズムがやがてアメリカに登場することをフクヤマは25年前の時点で予見していたのだ、というのがSagarの主張だ*2

 

 …とはいえ、最近のフクヤマ本人がトランプの当選やアメリカ政治について発言している内容は、Sagarが論じている内容とはまた異なっている。フクヤマが最近著した連作『政治の起源(The Origins of Political Order)』と『政治の秩序と政治の衰退(Political Order and Political Decay)』は、世界各国の政治経済体制の歴史を追った比較政治史的な著作であり、『歴史の終わり』で行われていたような哲学的な議論はほとんどされていない*3ヘーゲルマルクスやコジェーブの哲学を参考にした「大きな歴史」論にせよ、ニーチェの哲学を参考にした「優越願望/対等願望」論にせよ、『歴史の終わり』で行なわれている議論は哲学的なお話としては面白くて興味深いかもしれないが、記述的主張としての正確さとか学問的議論としての厳密さにはやっぱり問題があるだろう。他方で、『政治の起源』や『政治の秩序と政治の衰退』で行なわれている議論は政治学や経済学やその他の社会科学を参考にしたものであり、『歴史の終わり』に比べても学術性が高くて信頼できるものであるように思われる*4

 

 

www.foreignaffairs.com

www.politico.com

 

 上記の二つの記事は、どちらもトランプ当選後にフクヤマ本人によって書かれた記事である。フクヤマが指摘しているのは、アメリカの政治システムは利益誘導型のロビイスト政治が行き過ぎていることと民主主義的なアカウンタビリティを保証するためのチェック&バランスの機能があまりに強くなり過ぎたために機能不全を起こしており、様々な社会問題を有効に解決するための政治的決定を行うことが実質的にほぼ不可能になっている、ということだ。トランプのようなポピュリストが当選したのも、機能不全した政治システムに業を煮やした有権者たちの反動であるのだ(しかし、民主主義の機能不全に対してポピュリズムも有効な解決策であるとは言えない、とフクヤマは論じている)。…『歴史の終わり』で「自由民主主義は最良の政治体制である」と主張していたフクヤマは、『政治の起源』以後でも民主主義の利点を認めているが、少なくとも現在のアメリカの民主主義が最良のものであるとはとても言えないということを『政治の秩序と政治の衰退』で論じている。民主主義が有効に機能するのはどのような場合であるか、また民主主義が失敗したり他の政治体制の方が優れていたりするのはどのような場合であるかということについて、抽象的な哲学ではなく具体的な社会科学に基づいて論じる議論を、近年のフクヤマは行っているのである。

 

 

関連記事:

davitrice.hatenadiary.jp

 

 

 

*1:私も最近『歴史の終わり』を読んだばかりなのだが、日本語版のWikipedia記事は(独自研究という指摘がされているとはいえ)フクヤマの議論を熱心に解説しており、なかなか参考になる

*2:ちなみに、偶然かもしれないが『歴史の終わり』には「優越願望」に突き動かされる人間の代表として(実業家時代の)ドナルド・トランプの名前がすでに登場している、ということもSagarは指摘している

*3:『政治の起源』の内容を紹介する記事はこちら、『政治の秩序と政治の衰退』を読んでいた当時の私のメモがこちら

*4:『政治の起源』では進化心理学についても紙面が割かれている

「死ぬ権利」を整備することは「死ぬ義務」につながるのか?

 

 以下のツイートを目にしたのをきっかけに、前々から思っていたことを書こうと思う。

 

  

  

 

 ここではたまたま目に入ったツイートを引用したが、上述のツイート主も紹介している、「安楽死尊厳死法制化を阻止する会」の声明文も引用しよう。

 

声明*安楽死・尊厳死法制化を阻止する会

 

現在、尊厳死の法制化を求める動きが活発化している。
 日本尊厳死協会は、リビング・ウィルに署名し入会する者を募り、その数が10万人を超えたと宣伝している。しかし、同協会のリビング・ウィルは、将来おこるかもしれない状態を想定して前もって行う意思表示であり、実際に延命措置に直面しての意思表示ではない。
 リビング・ウィルの署名者を広く募り、尊厳死の法制化をめざすとき、個人の「死ぬ権利」は、「死ぬ義務」となり、弱い立場の者に「死の選択を迫る権利」に置きかわっていかないか。
 「あのようになってまで生きていたくない」と、生きている人の状態を「あのように」と見る、自らの内にひそむ選別の思想こそ振り返る必要がある。
 尊厳死法制化の動きは、人工呼吸器を使って呼吸し、栄養・水分補給をうけて生活している人々をはじめ、障害者や高齢者に目に見えない恐怖をいだかせるものとなる。
 現在では癌への対処法も進歩し、抗癌剤の副作用を減らし激痛を緩和することも可能になってきている。激痛のため生命を絶つなどということは、もはや過去のこととなった。
 生きようとする人間の意思と願いを、気兼ねなく全うできる医療体制や社会体制が不備のまま、「尊厳死」を法制化することは、病に苦しむ人や高齢者に「死の選択を迫る」圧力になりかねない。
 これらの疑問を措いて、尊厳死を法制化することを、決して認めるわけにはいかない。医療の現実を把握し、検討し、正しい方向を追求するために、私たちは「安楽死尊厳死法制化を阻止する会」を組織し、真に生命を尊重する社会をめざそうとするものである。

 

 上述したツイートや声明文に限らず、この種の議論は(特に日本の)生命倫理学界隈ではよく耳にする議論であるように思える。尊厳死安楽死にも様々な種類や定義があることは承知だが、以下では大雑把に「死ぬ権利」としてまとめて、「死ぬ権利」を法整備することの反論としてよく主張される議論について考えたいと思う。

 

 

 私が想定している、『「死ぬ権利」を法整備することの反論としてよく主張される議論』とは、具体的には以下のようなものだ。

 尊厳死や自発的安楽死などの「死ぬ権利」が認められるように法整備などを行うことは:

(1)「死ぬ権利」が認められてしまうと、本当は死にたいと思っていない人も家族や周囲や社会のプレッシャーを感じて「死ぬ権利」を行使してしまうようになり、実質的に「死ぬ義務」として機能してしまう

(2)「死ぬ権利」の法整備を求める議論は、医療費を負担したくなくて高齢者や病人に税金を使うくらいなら他のところにまわしたいと思っており「死ぬ権利」を整備することで一人でも多くの高齢者や老人を殺したいと目論んでいる政府や国の陰謀である;

(3)「死ぬ権利」の法整備をすることよりも、高齢者や病人が「死ぬ権利」を行使することを求めずに済むような、「生きようとする人間の意思と願いを、気兼ねなく全うできる医療体制や社会体制」を備えることの方が優先順位が高い

 という主張だ。

 

 たしかに、本来死にたくないと思っている人、また十分な医療を受ければ回復できるはずの人などが、国の財政の都合によって半強制的に死を選ばされたり家族や周囲の人間のプレッシャーに屈して自分の意志に反する死を選ばされることがあるとすれば、それは非道徳的であるし、防がれるべき事態だ。

 そして、(他の国の事情がどうなっているとか、他の国と比較してどうであるかはさておいて)少なくとも日本で「死ぬ権利」を整備することは上述の(1)や(2)の事態につながってしまう、という懸念もわからないのではない。インターネットの掲示板や日常会話などで、ある人が自分の身内の老人や病人について「もう世話をするのはうんざりだ、お金も時間もかかりすぎる、早く死んでくれれば助かるのに」という趣旨の発言をしていることを見聞する機会は、偶にある。立場のある政治家や高名な文化人が「社会保障のために尊厳死が必要だ」「高齢者は社会に配慮して適当な時に死ぬ義務がある」という発言をする事例も散見されることを踏まえれば、「死ぬ権利」を整備することは医療費削減を目論みる政府や社会の陰謀だ、という主張が出てくることも理解できなくはない*1

 

 だが、私が疑問に思うのは、家族からのプレッシャーや政府の目論見がどうであるかに関わらず、「自分の生が苦痛に満ちており生きるに値しないから死にたい」と自身が心から思っている人はやはり存在しているであろうし、「死ぬ権利」が法整備されない限りは(そして、非合法・グレーゾーンな手段で自殺を実施することもできないという場合には)、その人自身の「死にたい」という気持ちは否定されて、その人は意に反した苦痛を背負い続けるであろう、ということだ*2。ある社会がある権利を法整備しないことは、間接的にとはいえ、その権利を否定しているということである。日本の社会で「死ぬ権利」を法整備した場合に生じるかもしれない問題について考えるのも大切だが、現時点で日本の社会が「死ぬ権利」を否定していることによって苦痛を感じ続けるという負担を負わされている人がいることも、やはり考える必要はあるだろう。

「死ぬ権利」の法整備に懐疑的な人々は「死ぬ権利」が法整備されることによって生じるであろうと予測される犠牲者のことを懸念しているが、一方で、「死ぬ権利」が法整備されないことによって現時点で存在している犠牲者の救済は無視されていると言える。(3)の『高齢者や病人が「死ぬ権利」を望まずに済むような「生きようとする人間の意思と願いを、気兼ねなく全うできる医療体制や社会体制」を備えること』を優先するべきだという主張にしても、たしかに現在の医療体制や社会体制には改善の余地が十分にあるかもしれないが、全ての人の「生きようとする意思と願い」が完全に全うされることが保障されるような医療体制や社会体制が保障することは技術的・制度的・コスト的その他の問題で非常に難しいか、不可能であるかもしれない。仮にそのような医療体制や社会体制を整備することが可能であるとしても、現在の不備な状態からそれらが整備された状態までに移行するのには数年から数十年のタイムラグがあるはずだ。そして、仮に理想的な体制が整えば「死ぬ権利」を求めるような人は存在しなくなるとしても、現時点で「死ぬ権利」を求めている人がいるとすれば、理想的な体制が整うまでのタイムラグの間ではそれらの人々の「死ぬ権利」は認められず、実質的に「死ぬ権利」が否定され続けることになる

 

(1)や(2)の問題に関しては、以前に訳した、オーストラリアの倫理学者であるラッセル・ブラックフォードの記事から引用してみよう。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 

安楽死を促す不当な圧力から弱者を守る必要性についてはいかがだろうか?この論点については、ウェルビー(注:記事内で著者が反論している、安楽死反対派の論客)の主張は他の論点よりも強固である。幇助自殺を認める法律はかなり多くの弱者たちを危険に晒すことになる、とウェルビーは主張している。そのような法律が制定されたならば「この懸念について有効に対処できる予防手段は存在しない。患者の負担を背負わされたくないと思っている、患者に対して非協力的なごく少数の親戚たちから発せられる、かなり陰険な圧力については言うまでもない」。

 本当だろうか?本当に、死を選ぶことを選択させる不当な圧力に対して有効に対処できる予防手段は存在しないのだろうか?

たしかに、法律の悪用につながりかねない動機は多く存在しているし、どの動機についても空想上のものだと軽んじることはできない。しかし、イギリスやオーストラリアのような国々に実際に存在している医療文化においては、幇助自殺が最後の手段としてではなく積極的に賞賛されるものとして病院や医師から見なされる程までの変化がそう簡単に起こるということは有り得ないだろう。現時点で存在している医療ケアの文化を失わせるのではなく、医療ケアの文化を反映して補強するように新しい法律を設計することは可能である。

 家族内の関係や感情には様々なものが存在しているということをふまえると、家族による法律の悪用の方が、より現実的な懸念であるかもしれない。この懸念は、幇助自殺を合法化することを拒否する理由になるだろうか?

 いいや。患者が家族と相談した時に発生するどんな不当な圧力についても、その圧力を軽減するための手続きを法律に導入することが可能であるからだ。家族の意見が与える影響は、他の影響を与えることによってある程度は和らげることができる。専門的なカウンセラーと議論することやアドバイスを受けることを義務化するなどの方法だ。それらの方法の目的は、死を選ぶことを止めるように患者を説得することではなく、死を選ぶという決断が感情的な圧力に対する反応ではないことを保証するためである。

 ウェルビーも指摘しているように、死を決断する際の患者が、人生が終わる間際になって自分は他人にとって重荷になっている、と感じているという可能性は確かに存在する。これについては私も認めざるをえないが、このことがショッキングであるとも私には思えない。もし私がひどく無力な状況で、屈辱と苦痛を感じており、私が愛する人たちの資源と時間が私の死を引き延ばすために使われるとしたら、その事実は私の考えに対して影響を与えるだろう。当たり前のことだ。なぜ、その事態に何か邪悪なことが含まれているかのように想像したり装ったりする必要があるのだろう?

 私の人生が引き延ばされることによって他人に対してもたらされる影響について私が思考してしまうことは、ほとんど避けられないことである。死を選ぶかどうかという決断にとって、それは充分に関連性がある事柄であるのだ。また、他人に対する影響が私の思考の対象となったとしても、私が自分自身の人生を生き続けることが喜びが無く、苦痛で、もどかしく、屈辱的であると思っているとしたら、他人に対する影響がそれらの感情に取って代わる訳ではない。私は他人に対する影響と自分自身の人生について同時に考えるだろうし、後者の方が私にとっては重要に思えるだろう。たしかに、医療的な援助によって死のうと決断した人たちの多数が、自分が他人に対して重荷になっているということを決断の理由の"1つ"として挙げている。だが、ウェルビーが行っているようにその"1つ"の理由に注目して大体的に取り上げるのはアンフェアである。他人にとって重荷になっているという感情が影響していることは、予想できることなのだ。

 より正当な懸念として、患者を適切に保護するための手続きはあまりに要求が多くて複雑なものになるから実際には有効に機能しないだろう、という予測がある。その手続きは患者による死の決断を妨げるだろうし、実際には苦しみを増して意図していない侵害を起こすかもしれない。意図しているものとは反対の結果が生じることになる訳だ。

 ウェルビーが実際に主張している議論以上に、上述の議論には説得力がある。とはいえ、この議論は必要以上に悲観的である。法律の悪用の可能性を最小化するための手続きが実用的に機能するように設計することは可能であるはずだ。 

 詳細な手続きの範囲内にきちんと含まれないような事例についても、「慈悲殺」の例に倣って比較的広い範囲の擁護論を主張することは可能であるだろう。いずれにしても、現在のイングランドウェールズには医師が自殺幇助を遂行する際の処置に関するガイドラインが存在している*3。死を選ぶことについての安定していて、明確で、充分な情報に基づいた決断を「犠牲者」が下している際や、自殺に対する幇助が同情にのみ基づいている場合であったとしても、処置が行われる可能性はガイドラインによって低くされている。

 公平のために記しておくが、ウェルビーもこのようなガイドラインを否定してはいない。安楽死に関する法律改正が制定されたとしても、残酷な処置から患者を守るための保護を追加するためのガイドラインを維持することが妨げられる訳ではないのだ。

 

(1)の議論に対する反論としては、上述したブラックフォードの議論は十分に的を得ていると思う。

(2)に関しては、日本の状況は「イギリスやオーストラリアのような国々に実際に存在している医療文化」よりもひどく、日本の政治家や政府は外国のそれより悪質・非倫理的であると仮定することはできるかもしれない。しかし、確かに暴言・放言を放つ政治家や文化人は存在しているとはいえ、たとえば現代の日本がナチス時代のドイツのように高齢者・病人の安楽死を政府が積極的・強制的に行う社会になることは考え難いだろう。一部の生命倫理学者や社会学者は「いや、"生権力"を管理する政府は一見するとそれとはわからない間接的な手段で高齢者や病人に安楽死を強制させ殺害することができるのだ」というタイプの主張を行うが、私が見た所、このタイプの主張は学術的な議論というよりもよくできたお話や陰謀論であるに過ぎない場合が多い。そして、そもそも日本は民主主義社会なのだから、高齢者や老人を殺害することを試みる政府があらわれたとしても、選挙などの手続きによってそれを阻止することは可能であるはずだ。

 

 結局のところ、(1)〜(3)のいずれの議論も、検討に値する部分が含まれているのと同時に、問題点や疑わしい点が含まれていると思う。少なくとも、現時点で「死ぬ権利」を求めている人々の「死ぬ権利」を否定するのに足りるほど強固な議論であるかどうかにはかなりの疑いの余地があると思える。

 再び、ブラックフォードの記事から引用しよう。

 

 生き続けることがその人自身にとって苦しみとなる時点が存在することを、私たちは認めるべきだ。制御できない極度の苦痛に襲われている場合もあるだろうが、身体的な苦痛が制御されているとしても生き続けることが苦しみとなる場合もあるだろう。多くの末期患者は自分自身について様々な感情を抱いているが、とりわけ無力で屈辱的に感じており、かつては人生に喜びを与えたどんな活動も行うことができないと感じている。そのような状況では、自分の人生は実質的にはもう終わっているので、現在はただ引き伸ばさせられているに過ぎない、と感じられる場合もあるだろう。

 このように制限されていて不幸な状況では、通常の私たちが死に対して抱く恐怖(殺人に対する恐怖や故殺に対する恐怖、その他の死に対する恐怖など)は、全くもって的外れな感情となる。早まった死を恐れたり死の危害から守られている環境を要求するのではなくて、自分自身の苦しみに満ちた人生を自分で終わらせることができないということに対して、まことに理に適った恐怖を抱くかもしれない。上述した状況において、私が死ぬことを他人が助けてくれることが刑法によって禁止されているとしたら、もはや法律は私たちを恐怖から守ってくれるために存在するものではなくなる。むしろ、恐怖から人々を守ることとは正反対に法律が機能してしまう。私たちが自分の人生を制御するために残された手段が法律によって奪われてしまう。私たちの抱く理に適った恐怖を法律が増してしまうのだ。

 刑法の存在する最大の理由は、他人から危害を与えられることから私たちを守るためである。このことに議論の余地はほぼ無い。もちろん、一部の状況では、自分自身の選択の結果から私たちを守るために刑法がパターナリスティックに機能する場合もある。だが、パターナリスティックな法律が存在することに楽観的であるべきではない、と私は考える。一般論として、パターナリスティックな法律は私たちを侮辱して子供扱いするものであるし、私たちの自律を侵害するものである。パターナリスティックな法律に対して私たちは疑い深く審査を行うべきなのだ。

 時には、パターナリスティックな規制が特別に必要になる事態も存在するだろう。そのことは私も認めよう。しかし、パターナリスティックな法律は通常ではなく例外的な存在であるべきだ。私たち自身に関する私たちの選択について政府が干渉することは、実際的に可能な限り、できるだけ制限されるべきだ。ある状況においては私たち自身の選択は制限されるべきだと主張するなら、選択を制限するのに見合うその状況に特有の事情というものを示すべきである。特に、私たちの選択に対する干渉が私たちの自律の領域を大幅に減少させるものである場合には。

 

 

 蛇足になるが、「安楽死尊厳死法制化を阻止する会」の声明文について、特に気になった箇所についてコメントしたい。

 

「あのようになってまで生きていたくない」と、生きている人の状態を「あのように」と見る、自らの内にひそむ選別の思想こそ振り返る必要がある。

 

 例えば非常な激痛や精神的苦痛に苛まれて苦しんでいる高齢者・病人を見て私が「あのようになってまで生きていたくない」と思考するとすれば、その思考の中身は「あのような激痛や精神的苦痛を私は感じたくない、私はあのように苦しみたくない、それよりも死ぬ方を私は選ぶだろう」というものであり、痛みや苦しみに対する嫌悪や忌避の感情であるはずだ。自分は当事者でないために相手の痛みや苦しみを大げさに想定している、実際に自分がその立場に立った時には痛みや苦しみに対する嫌悪や忌避よりも死を恐れる感情の方が増すかもしれない、などなどの事柄によって私の思考が的外れなものとなる可能性はあるかもしれないが、それを「選別の思想」と言われるのはよく分からない。(特に日本の)生命倫理学界隈の議論では、十分に理が通っている主張や常識的な反応などに対しても「それは選別の思想(=優生学的な発想)だ」というレッテルを貼って切り捨てることがよくあるのだが、そういうのは非生産的だし、多くの人の感覚や納得からは乖離した、特定の前提を共有した一部の人にしか通じない内輪の議論であるように思われる。

 

*1:

www.j-cast.com

www.j-cast.com

*2:安楽死尊厳死法制化を阻止する会」の声明文では「現在では癌への対処法も進歩し、抗癌剤の副作用を減らし激痛を緩和することも可能になってきている。」と書かれているが、可能になっているとはいえ程度問題であって完全に苦痛が抑制できるようになっている訳ではないだろうし、死にたいと思うほどの肉体的・精神的苦痛を感じている人は現在でも存在しているだろう

「植物への倫理的配慮?」 by ゲイリー・フランシオーン

 

A Frequently Asked Question: What About Plants? – Animal Rights: The Abolitionist Approach

 

 今回訳して紹介するのは、動物の権利論者・動物の権利運動家のゲイリー・フランシオンがホームページに掲載した記事。記事の正式なタイトルは「よくある質問:植物についてはどうなんだ?」。

 

「よくある質問:植物についてはどうなんだ?」by  ゲイリー・フランシオーン

 

「動物を食べないとして、植物はどうなんだ?」。これは、ビーガン(完全菜食主義者)である人々に対して最も頻繁に投げかけられる質問の一つだ。

 実際、一度もその質問をされたことがないビーガンという人に私は会ったことがないし、我々ビーガンの大半はその質問を何度もされている。

 もちろん、この質問をする人の中で、たとえば一羽のニワトリとレタス一玉との区別が本気で付けれられない、という人はいない。たとえば、次のディナーパーティーでゲストたちの目の前であなたがレタスをナイフで切ったとしても、生きたニワトリをナイフで切り開いた場合とは別の反応を受けるはずだ。私があなたの庭を歩いていたとして、意図的にあなたの花を踏んづけてしまったとすれば、(実に真っ当なことに)あなは私のことを不愉快に思うだろうが、私があなたの犬を意図的に蹴り飛ばしたとすれば、花を踏んづけた場合とは別の種類の狼狽をあなたはする筈だ。花を踏んづけることと犬を蹴り飛ばすことが同等の行為であると、本気で考えている人はいない。花と犬との間には重要な違いが存在しているのであり、それが花を踏んづけることよりも犬を蹴り飛ばすことの方を道徳的に深刻な事態にするということは、すべての人が理解しているのだ。

 動物との植物との違いには、感覚(sentience)が含まれている*1。つまり、動物たち…少なくとも、我々が慣習的に搾取している動物たち…は、明らかに感覚認識を知覚している。感覚ある存在(sentient beings)は心(mind)を持っている。感覚ある存在は選好、欲求、望みを持っているのだ。このことは、動物の心は人間の心と同様である、ということを意味するわけではない。たとえば、自分たちの世界を認識するために象徴的・記号的な言語(symbolic language)を使っている人間たちの心は、自分たちの世界を認識するためにエコーロケーションを使っているコウモリたちの心とは非常に異なるものであるかもしれない。動物たちの心を理解することは困難だ。だが、理解が困難であることは問題には無関係だ。人間もコウモリも、どちらもが感覚ある存在なのである。人間とコウモリのどちらもが利害(interests)を持つ存在なのであり、どちらもが、選好、欲求、望みを持っている。利害について人間とコウモリは異なる考え方をしているかもしれないが、人間とコウモリのどちらもが利害を持つことについて、真剣な疑念を差し挟むことは不可能だ。その利害の中には、痛みや苦しみを避けることについての利害、そして生きて存在し続けることについての利害が含まれているのだ。

 植物は確かに生きてはいるが、感覚ある存在ではないという点で、人間や感覚ある動物たちとは質的に異なる存在である。植物は利益を持たない。植物が欲求したり望んだり選好したりする物事は存在しない。欲求したり望んだり選好したりするなどの認知的行為を行うための心が、植物には存在しないからだ。植物が水を"必要としている"とか"望んでいる"とか我々が言う時に我々が植物の精神状態について行っている主張は、自動車のエンジンがガソリンを"必要としている"とか"望んでいる"とか言う時に行っているそれと何も変わりがない。自動車にガソリンを入れることは私にとっての利害ではあるかもしれない。だが、それは私の自動車にとっての利害ではない。私の自動車は利害を持たないからだ。

 植物は太陽光や他の刺激に反応するかもしれないが、そのことは植物が感覚ある存在であるということを意味しない。呼び鈴に取り付けられた電線に電流を流せば、呼び鈴は鳴る。だが、そのことは呼び鈴が感覚ある存在だということを意味しない。植物には神経系も無ければ、ベンゾジアゼピン受容体も無く、感覚の存在を示す他のいかなる特徴も無い。そして、これら全てのことは科学的に筋が通っている。植物は自分たちを傷付ける行為に対して何も反応することができないというのに、なぜ感覚を持つための能力を進化させる必要があるのだろうか?あなたが植物に火を押し当てても、植物は逃げることができない。植物はその場に留まり、燃やされるがままだ。あなたが犬に火を押し当てたとすれば、犬はあなたがするのとまったく同じことをするだろう…苦痛のために鳴いて、その火から逃げようとするはずだ。感覚は、有害な刺激から逃れて生き延びるために、特定の種類の存在の間で進化してきた特徴である。感覚は植物にあったとしても何の目的も果たさない。植物は"逃げる"ことができないからだ。

 私は、植物に関する道徳的義務を私たちが持つ可能性はない、ということを言おうとしているのではない。だが、私たちは植物に対する道徳的義務は持たないのだ。つまり、たとえば、ある木を切り倒さない道徳的義務を持つ場合はあるかもしれない。だが、それはその木に対する道徳的義務ではない。木は、私たちが道徳的義務を持つ可能性のある種類の存在ではない。しかし、その木に暮らしていたり生存がその木に依存している全ての感覚ある存在に対しては、私たちは道徳的義務を持つ場合があるのだ。この地球に暮らす人間と動物たちに対して、いたずらに木を伐採しない道徳的義務を持つ場合はある。だが、私たちは木に対していかなる道徳的義務を持つこともない。私たちは感覚ある存在に対してしか道徳的義務を持つことがないのであり、木は感覚を持たず利害も持たないのだ。木が選好したり、望んだり、欲求したりすることは何もない。木は、私たちが行う行為について気にかける種類の存在ではない。木は"モノ(it)"である。木に暮らすリスや鳥は、私たちが木を切り倒さないことについての利害を確かに持っているが、木はそれを持たない。木をいたずらに伐採することは道徳的な不正である可能性もあるが、それは、鹿を射殺することとは質的に異なった行為であるのだ。

 一部の人が行っているように、木の"権利"について語ることは、木と動物を同等視することへの第一歩であり、それは動物の犠牲を生み出すようにしか機能しない。実際、自然資源を管理することについての人間の責任について語る環境主義者たちが、動物をも管理される"資源"に含めて語るのはよくあることだ。動物たちを人間に利用される"資源"であるとは見なさない私たちのような人間にとっては、環境主義者たちの主張は問題だ。木やその他の植物は、私たちが利用することのできる資源である。それらの資源を懸命に利用することについての道徳的義務を私たちは持っているが、その義務は、人間か動物かに関わらず他の人格に対してのみ負っている義務なのである。

 最後に、植物に関する質問の類例として、以下の質問を取り上げよう。「昆虫についてはどうなんだ?…彼らは感覚を持っているのか?」

私が知る限り、昆虫が感覚を持つかどうかについて確信を持って答えられる人はいない。昆虫に対しては、私は"疑わしきは相手の利益に"というスタンスである。私は自宅の中にいる昆虫を殺さないし、外を歩いている時にも決して彼らを踏まないように試みている。昆虫という事例に関しては、線を引くのは難しいかもしれない。だが、そのことは、多数派の事例においても線を引けないということを…意味しない。アメリカ一国だけでも、我々は毎年に少なくとも100億匹の動物を殺害して食べている。さらに、この数字には、我々が殺害して食べている海の生き物たちが含まれていない。貝類が感覚を持つかどうかについては疑問の余地があるかもしれないが、全ての牛、豚、鶏、七面鳥、魚、その他の動物たちが感覚を持つことについては疑いがない。私たちが乳や卵を採取している動物たちも、疑いの余地なく、感覚ある存在であるのだ。

 昆虫が感覚をもつかどうかについて私たちが知らないかもしれないという事実は、その他の動物たちの感覚についても疑いが存在するということを意味しない。そのような疑いは存在しないのだ。そして、昆虫が感覚を持つかどうかについて私たちは知らないのだから、感覚があると疑いなくわかっている動物たちの肉を食べたり彼らから採取する製品を利用したり私たちの"資源"として利用する目的で彼らを生み出すことの道徳性について評価することもできない、という主張をすることは、言うまでもなく、馬鹿げたことなのだ。

 

 

 

 

 

f:id:DavitRice:20170408105817p:plain

 

 

 

 

 

関連記事:

davitrice.hatenadiary.jp

*1:辞書によると、sentienceという単語には単に「感覚」だけでなく「感覚を進んで認識する気持ち」や「感情」「知覚力」という意味も含まれている

家畜動物のシティズンシップ:『人と動物の政治共同体』(2)

 

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

 

 

 

 今回は『人と動物の政治共同体』の第4章と第5章、「家畜動物(Domestic Animals)」について扱っている部分を紹介する。なお、「家畜動物」のカテゴリのなかにはいわゆる畜産動物(牛、豚、鶏など)だけではなく、ペット動物や動物園で飼われる動物や動物実験に用いられる動物など、人間の生活圏で利用・使用されている動物一般が含まれている*1

 第4章の「動物の権利論における家畜動物」では、これまでの動物倫理の議論において家畜動物がどのように論じられてきたか、ということがまとめられている。特に取り上げられているのは「畜産やペットという制度は本質的に動物に危害を与えるものであり、これらの制度はどのような形になっても倫理的になることはありえないので、撤廃されるべきである」という、ゲイリー・フランシオンを代表とする「撤廃論(Abolitionist)」の主張だ*2

 著者らは、以下のような論理に基づいて「撤廃論」を否定している。

 

…これは明らかな誤りである。アフリカから南北アメリカ大陸へと連行された奴隷の事例を考えてみよう。正義は確かに奴隷制度の廃止を要求するが、そのことはもちろん、かつての奴隷たちとその子孫の生命を奪うことを意味しないのである。アメリカへ奴隷を連行したことは確かに不正であるが、その救済は、アフリカ系アメリカ人の根絶を求めることや、あるいは彼らをアフリカに送還することでなされるものではない。アフリカ人がアメリカ両大陸に足を踏み入れることとなった、その原初のプロセスは正義に反するものであった。だが、この歴史的な不正への救済は、アメリカ両大陸にアフリカ人が存在しなかった時点まで時計の針を巻き戻すことによって実現されるものではないのである。実際のところ、アフリカ系アメリカ人の根絶あるいは放逐を求めることは、原初の不正を正すことから程遠いことであり、彼らがアメリカ人コミュニティへ参加する権利を否定し、家庭を築き彼ら自身を再生産する権利を否定することによって、その不正を増幅させることになるのである。

 同様に、家畜化という原初の不正に対する救済が、飼育されている種を根絶することであると思い込む理由もない。…(p.113)

 

 ただし、「撤廃論」の反対としてよく提唱される「福祉主義(welfarism)」、つまり「肉食や動物実験などの制度は存続させ続けるが、その制度の対象となる動物たちに生じる苦しみは最小限に押させる」という立場も、著者らは否定する。デビッド・ドゥグラツィアによる「その動物が野生にいる場合よりも人間に飼育されている場合の方が幸福であることが保証できるなら、動物を家畜として使用することは認められる」という基準や、ツァチ・ザミールによる「人間によって生まれさせられてきた動物が、その生を生きる価値もないほどにする苦痛や危害に晒されずある程度以上に幸福に過ごすことが保証できるなら動物を家畜として使用することは認められる」といった基準を著者らは取り上げて、それぞれに対して反論を行っている。たとえば犬や猫などのペット動物の多くは野生では自活できないので彼らをペットとして飼うことはドゥグラツィアの基準を容易に満たすが、そもそもペット動物が野生で自活できないのはそのように人間が品種改良を行ってきた結果である。また、ザミールの議論は親が子に対して「私たちがお前を生まなかったらお前は存在しなかったのだから、私たちはお前に対して何をやってもいいのだ」という類のものであり、"その生を生きる価値もないほどにする苦痛や危害にさらされずある程度以上に幸福に過ごすことが保証できる"という但し書きがあるとしても、やはりかなりの程度の虐待や抑圧を動物たちに加えることが正当化されしまう恐れがある。また、著者らによるとこれらの論者の主張は「…彼ら(家畜動物)は既にここにおり、我々と共に暮らしており、長い歴史をもつ相互作用および相互依存の産物なのである」(P.132)ことを無視している。ドゥグラツィアやザミールの主張は「人間たちによって飼われる場合に動物たちに生じる危害が、そうでない(野生にいる/生まれてこなかった)場合に動物たちに生じる危害よりも大きくならないようにするべきである」という消極的な道徳的義務を主張しているとは言えるが、そうすると、人間たちが一切動物に関わらない場合は人間は道徳的義務を満たしていることになる。だが、人間たちはこれまでの歴史において何世代にも渡って家畜動物を繁殖させ続けてきたのであり、また野生から締め出して人間なしでは生きられないようにしてきた。このような歴史的経緯をふまえると、家畜動物の集団に対する集合的な責任が人間には存在すると考えられるのであり、それは家畜動物たちを「放っておく」ことでは満たされない、積極的な道徳的義務であると言えるのだ。

 廃止論者の主張の方に話を戻すと、廃止論者たちは家畜動物というあり方はそもそも自然に反しており、人間に依存していかなければ生きていけないような存在はそもそも生み出されるべきではなかった、という主張をする。これに対して著者らは障害学やフェミニズムの考え方を参照しながら、自立や独立していることを是とし依存を否とする発想は特定の偏った思想(健常者中心主義とか男性中心主義とか)を前提としたものであり必ずしも正しくない、依存という形で主体性を発揮することもできるのだ、みたいなことを言って反論する。

 あと第4章の終盤では著者らはマーサ・ヌスバウムの「種の規範」に基づいた潜在性アプローチを取り上げて批判している。ヌスバウムは種の境界を超えた交流とか繁栄とかのあり方を無視している、という批判である。

 

 第5章の題名は「市民としての家畜動物」であり、家畜動物がシティズンシップを持つということは何を意味するのか、ということについて具体的に論じられている。ある存在がシティズンシップを持つためには「(1)主観的な善をもち、それを伝える能力 (2)社会的規範に従い、協力する能力 (3)法の共同立案に参加できる能力」(p.150)が必要とされるが、家畜動物は(1)のみならず(2)も(3)も持っている、というのが著者らの主張だ。

 ここで著者らが参考にしているのが例によって障害学の理論であり、独立した主体ばかりを重視する健常者中心主義的な人間観を否定する、政治的な意思表明や合意形成を協力者を介して行う「依存的主体性」という考え方が取り上げられている。要するに、近年の障害者運動によってこれまで政治的な意思決定の場から排除されていた障害者の意思や利害が(健常者の協力を介して)反映されるようになったのと同じように、家畜動物たちの意思を反映することも可能である、という主張だ。

 シティズンシップの条件の「(1)主観的な善をもち、それを伝える能力」とは、簡単に言えば「自分が何をしたいかとか何が欲しいかなどの欲求を他者に対して伝える能力」のことである。家畜動物にこの能力が備わっていることは、ペットを飼っている人にとっては自明だろう。犬は遊んでもらいたい時にはおもちゃをくわえて持ってくるし、猫は腹が減ったら鳴く。ペットに限らず牛や馬などの農場にいる動物も自分の欲求を表明することはできるのだ。

「(2)社会的規範に従い、協力する能力」や「(3)法の共同立案に参加できる能力」を動物が持っているというのは変に聞こえるかもしれないが、犬やオオカミや猿の社会に顕著なように、そもそも動物たちの集団の間にも社会的ルールはある。また、家畜動物たちは(品種改良の結果として)人間によるしつけに従う性質を持ち、人間社会の規範に家畜動物たちを適応させることも可能なのである。「法の共同立案」も、要するに家畜動物たちはあるルールに従いたくない時はそれを表明できるので場合によっては人間がそのルールを変えてやってもよい、という程度のことだ。

 そんなこんなで家畜動物は人間のコミュニティの中で市民として生きられる訳である。動物たちにもある程度の社会規範には従ってもらう必要がある一方で、現行の社会は市民の一員としての動物たちの利害が十全に反映されているとはいえないので、社会の様々なルールなり環境なりを変える必要がある。健常者にとっては心地よくても車椅子の人にとっては移動に不都合があり道路の横断などに危険がある社会は十分にバリアフリーになっていないので不正であるのと同じように、家畜動物たちの移動に不都合があったり家畜動物たちを危険にさらすような社会は不正である。公共空間からも、合理的な理由がない限り家畜動物は排除されるべきでない*3。家畜動物に投票権を与えることは非現実的だが(そもそも投票ができないので)、議会などの政治的意思決定の場や役所などの公共サービスにおいては、家畜動物たちの利害を代表する人間や組織が存在するべきであるのだ。 

 …他にも、「家畜動物たちの食餌はどうあるべきか」「家畜動物たちの身体から得られる製品は利用するべきか*4」「家畜動物たちへの医療ケアはどうあるべきか」「家畜動物たちの生殖についてはどうするか」といった細かな具体的な論点について、この第5章では一つ一つ検討されている。基本的には「市民の一員として家畜動物にもある程度の義務は負ってもらうし我慢をしてもらう必要はあるが、私たち人間も家畜動物を市民として待遇するための様々な義務を負う」といった感じで、当然肉食などは禁止されて人間の行動はかなり制限されて、社会のあり方を大幅に変えるべきだと提唱されている。それはいいのだが、功利主義のように明白で一貫した道徳理論が背景にないつらみというべきか、一つ一つの提案が場当たり的でイマイチ説得力がないように思える。理論としての正当性とか厳密さを追求するというよりも、なにかといえば障害学の理論とかフェミニズムの理論とかを持ち出して政治的に正しい感じをかもし出すことで説得力を増そうとするやり口も鼻についてきた。

 

 

 

 

 

*1:「家畜」といえば牛や豚などの畜産動物のイメージが強いので、「屋内動物」と訳したほうが良いと思う

*2:ペットに関するフランシオンの主張は以下の記事で紹介したことがある

davitrice.hatenadiary.jp

 

*3:たとえばアメリカでは多くのレストランで動物の持ち込みは衛生上の理由が禁止されているが、そのような禁止のないフランスで特に衛生上の問題が起こっていないことをふまえると、実際にはこの禁止は非合理な差別である、という風に著者らは論じている

*4:羊毛などのように、家畜動物を傷付けたり害を与えたりせずに採取できる製品は利用してもよい、というのが著者らの考えである