道徳的動物日記

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「意識と、死の悪さ」 by ジョシュア・シェパード

 

 本日はオックスフォードのPractical Ethicsブログから哲学者のジョシュア・シェパード(Joshua Shepherd)の記事を訳して紹介。注釈と参考文献は省いている(後日に付け足すかも)。記事内で取り上げられているジェフ・マクマーン(Jeff McMahan)の『Ethics of Killing(殺すことの倫理学)』を一通り読んだのでついでにこの記事を訳してみることにしたのだが、特に後半は難しくて上手くいかなかったかもしれない。

 

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「意識と、死の悪さ」 by ジョシュア・シェパード

 

1:多くの人は、殺害が不正であることの少なくとも一部は、死がもたらす危害 and / or 死に含まれる悪さに関係している、と考えている。その考えは正しい、と私も考えている。

 

2:多くの人は、死がもたらす危害 and / or 死に含まれる悪さは、主に将来の剥奪に関わっていると考えている。特に、将来には価値のある経験や価値のある状態が含まれているのであり、死は、これらの価値ある物事を経験するか他の方法で獲得することができる存在(entity)を奪うことになる。将来にはなぜ価値があるかということを説明する方法は様々であるとはいえ、この考えの基本は正しいと私も見なしている。

 

3:中絶は認められると考えている人にとって、将来の価値は一見すると厄介な問題であるように思える。胎児は価値のある将来を持っているように考えられるからだ。だとすれば、少なくとも、胎児を殺すことに反対する道徳的理由が存在することになる(ただし、その道徳的理由には反論できる可能性もある)*1

 

4:このような種類の推論に対する反論は、死の悪さに関する理論として大いに論じられてきた理論である、時間-利益相対説(time-relative interests account)に見出すことができる。時間利益相対説は、ある存在の将来の価値を割引するメカニズムを構築する。何らかの将来に価値があるという訳ではなく、その存在が心理的に繋がっているその存在の将来の一部に価値があるのだ。ある存在が自分の将来に対する心理的繋がり…記憶、進行中の行動や計画、価値の持続、性格特徴、などなどによってもたらされる心理的繋がり…を欠くにつれて、その存在の将来の価値が割り引かれるのである。

 胎児を殺すことの不正さについて時間利益相対説を適用してみると、以下のような論じられることになる。胎児は自分の将来に対する強い心理的繋がりを欠いている、と私たちは主張するかもしれない。その結果、胎児の死の悪さは急落して割り引かれるのであり、胎児を殺すことの不正さも同様に割り引かれるのである。

 

5:このような推論には、悲惨な結果をもたらす可能性が含まれている。多くの人々が指摘してきたように、胎児を殺すことの不正さの急落的な割引きは、乳幼児を殺すことの不正さに対しても同様に当てはまるように思える。胎児と乳幼児のどちらも、将来に対する心理的な繋がりを形成して維持するための多くの能力を欠いているからだ。実際、胎児も乳幼児もその将来が道徳的な問題となる存在である、という考えを考慮に入れることについて、時間利益相対説は問題を抱えているように見える。胎児と乳幼児は、将来を認識するために必要となる、洗練された心理能力を欠いているからだ。そうだとすれば、時間利益相対説は、道徳的な考慮における胎児の道徳的地位を全く貶めることで中絶を道徳的に認められることとするのであり、そのような方法で中絶を認めることは、乳幼児の道徳的地位をも全く貶めてしまうことになるのである。

 

6:[将来に対する心理的繋がりの]他にも道徳的重要さの源泉となる物事の存在を認めることによって、時間利益相対説を補完しようと試みることはできるかもしれない。その源泉として私が念頭に置いているのは、将来に関わる必要はないものであるが、その存在の現在の心理的生活の性質と構造である。ある存在が意識のある存在であると認められるのに充分に洗練された心理能力を持っているとすれば、その存在は道徳的重要さを追加して得られる、と主張することができるかもしれない。そして、この追加された道徳的重要さは、(少なくとも大半の状況において)その存在を殺害することを許可不可能とするのに充分であるかもしれない。

 この提案を認める必要はあるだろうか?この提案は、死の悪さに関する多くの議論における基本的な論点に対してある一つの重要な側面において反している、ということは注記しておく必要があるだろう。多くの議論では、死の悪さは、その存在に対してなされた危害を通じて発生するものであるとして扱われている。これは危害について考える方法として自然であるし、特に、多くの場合に行われるように議論が将来の価値という枠組みで考えられる場合にはそうだ。しかし、死の悪さについて他の方法で考えることも可能である。先述の提案によれば、死の悪さについて、偉大な芸術作品が破壊されることの悪さと類推して考えることができる。芸術作品の価値は時間を経ることで増すかもしれないし、その場合には、芸術作品を破壊することの危害は時間を経の経過と共に発生するかもしれない。しかし、偉大な芸術作品を破壊することが悪いことの理由の一つは、単に偉大な芸術作品が存在するということ自体に価値があるということであり、その芸術を存在しなくさせることは価値の含まれている器(locus)を存在しなくさせるということなのだ。意識のある心理生活(conscious mental life)を所持していることにも、芸術作品と同じような価値が存在しているかもしれない。意識のある心理生活を所持することは、価値の含まれている器であるということなのだ。

 ひとまず、ある存在が意識のある心理生活を持っていることは、その存在を殺害することを一応は(prima facie)許可不可能にすることに充分であると仮定してみよう。そうだとすれば、私たちは乳幼児の殺害に対して反対する強力な理由を維持することができるし、その理由は幅広い段階の胎児…意識を持つことができない胎児(たとえば、26週間よりも若い胎児など)…には当てはまらないということも維持することができる。そして、このような補完は、時間利益相対説の中心となる洞察…つまり、なぜ死が悪いこととなり得るのかということについての重要な仕方を時間利益相対説は捉えている…を維持しながら行うことができるのだ。

 

7:上述した提案は時間利益相対説の補完にはならず、むしろ時間利益相対説を拒否する理由になるのではないか、と懸念する人もいるかもしれない。そのような懸念は以下のように表すことができるだろう。意識のある心理生活を持っていることにどれほど価値があるかは不明瞭である。さて、意識を持つ存在であるということはその存在を殺すことを(少なくとも一応にも)許可不可能とするのに充分な資格ではないということなれば、乳幼児の殺害が(時間利益相対説に基づけば)許可される可能性に私たちは直面することになる。そして、もし意識を持つ存在であるということはその存在を殺すことを許可不可能とするのに充分な資格であるとすれば、その場合にはなぜ私たちは時間利益相対説を必要とするのだろうか?時間利益相対説は、死の危害の性質について説明できる唯一の理論であるようにはもはや思えないのだ。

 時間利益相対説の主張者たちは懸念を抱くべきだろうか?死の危害と殺害の不正さについて論じる人の一部には、まるで真実を明らかにするということはどの理論が正しいかということを発見することであるかのように、時間利益相対説を他の競合する理論と突き合わせる人がいる。弁証法によれば、ある問題に関して起こっている論争を調べるうえで、これは確かに有効な方法である。しかし、弁証法的な有効さにはそれ自体に限界があることは認識されるべきだ。死の危害と殺害の不正さに関連する、考慮されるべき全ての事項を発見して解明することが私たちの目標であるとすれば、死は幅広い様々な仕方で悪いこととなり得るという考えから議論を始める方が良いかもしれないし、その様々な仕方を明らかにして、殺害の不正さに関する考慮においてそれらの死の悪さの仕方がいかに関わってくるかということを明らかにすることを目指すべきかもしれない。

 

8:さて、先述の提案を受け入れられるのに充分なほど明白なものにするという課題は、まだ残っている。再びその提案を記しておこう:ある存在が意識を持っているということはその存在を殺すことを一応は許可不可能とするのに充分であり、意識のある心理生活を持っていることの価値は、その意識的な存在が持っているかもしれない価値のある将来とは無関係に理解することが可能である。

 この提案には直観的な妥当性がある、と私は思う。しかし、この提案を私たちが受け入れるべきであるかどうかについては私は確信がない。なぜなら、この提案を明確にして詳細に検討することには、かなりの議論が必要となるからだ。

 多くの場合、中絶に反対する人々は、少なくとも妊娠後期の胎児の中絶は不正であると論じる。そのような胎児には意識があるからだ。(このような議論は多くの場合には胎児が苦痛を感じる能力を持っているということに結びつけられているが、しかしながら、私がここで起こっている提案はそのような主張とは異なっている)。実際、このような種類の主張は、時間利益相対説の最も代表的な論者であるジェフ・マクマーン(Jeff McMahan)が行っている主張とほんの僅かにしか異ならない、と主張することはできるかもしれない。マクマーンの『Ethics of Killing(殺すことの倫理学)』における殺害の不正さについての二段階説(two-tiered account)によると、人格(person)である存在を殺すことの不正さは人格ではない存在を殺すことの不正さとは根本的に異なっている。人格ではない存在を殺すことの不正さは価値のある将来を剥奪するということにしか関わっていない一方で、人格である存在を殺すことの不正さには人格である存在に対して尊敬を払うことへの要求が関わってくるのだ*2。マクマーンによると、この要求の根拠にあるのは、特定の種類の心理学的能力である。「具体的には…人格を動物から区別する、特定の高度な心理的能力の所持である」(p.243)。すると、私がここで記している提案とマクマーンの主張との違いの一つは、提案の方では"存在が意識のある心理生活を持っていること"を尊敬を要求する程の道徳的重要性を持つ要素であると強調する一方で、マクマーンの主張ではそれよりももっと高度な心理的能力を求めていることにある。

 なぜ、より高度な心理能力ではなく、意識のある心理生活を持っていることを優先して強調するのか?この疑問に対して答えることに含まれる問題はかなり複雑である。多くの論点を整理することが必要とされる。

 ある部分では、ここで言及されている意識というものが何であるのかが不明瞭であることが、問題の原因となっている。自己意識について言及しているのか、アクセス意識について言及しているのか、あるいは現象的意識について言及しているのか、少なくともこれら三つの可能性が存在しているのだ。これらのいずれもが意識の形として道徳的な重要性があるものとして提案されてきたのであり、それぞれの意識が持っている道徳的重要性はどのように違うかということは現在でも不明瞭だ。さらに、少なくとも自己意識とアクセス意識に関しては、その意識自体に程度差があると一般的に考えられている。より多くのアクセス意識を持ったり、より高度な形の自己意識を持つことが可能であるのだ。では、なぜある段階の意識を他の段階よりも優先しなければならないのだろうか?

 ひとたび区別を付けたとしても、同様の問題が現象的意識に関しても発生することになる。現象的意識は、意識の状態を決定可能なものと、それら決定可能なものの決定要因となる様々な仕方とに分けることができる。現象的な意識状態は、様々な方法で、関連している決定可能なものの決定要因となる可能性を持っている。現象的意識は、複雑な現象なのだ。様々な様相の知覚状態や認識状態、エージェント的な状態が現象的意識には含まれているのであり、それらは、おそらく、それらの状態を持つ存在の心理生活の豊かさと複雑さを増すであろう。現象的意識には道徳的重要性があると私たちが主張するとき、実際には私たちは何を主張しているのだろうか?いかなる現象的意識の所持にも重要性があると主張しているのかもしれないし、それとも、一部の種類の現象的意識を所持していることに重要性があると主張しているのかもしれない。それに、意識それだけではある存在に道徳的重要性を与えることはできないのであり、その意識は一定程度以上に複雑でなければならないという可能性もある。意識のある心理生活のなかでもどのような形のものが道徳的に重要なものであって、そしてそれが重要である理由は何であるのか?

 さらなる難点は、意識を持つことに道徳的地位を帰属させることの理論的な結果に関わっている。先述した提案がもたらす可能性のある結論のなかでも最も明白なものとして、意識のある心理生活…または、少なくとも乳幼児の持つ心理生活に含まれている程度の豊かさと複雑さを含んでいるような心理生活…にこれほどまでに多くの道徳的重要性を認めてしまうと、あまりにも多くの動物たちにも道徳的重要性を認めざるをえないことになる、ということについて懸念する人がいるかもしれない。その懸念は筋の通ったものだ。意識の道徳的重要性について十分に論じるためには、人間以外の動物たちについても検討に入れなければならないからだ。しかし、ここで私が主張しているのは、ある存在が意識のある心理生活を持っていることはその存在を殺すことを一応は許可不可能にする、ということだけであるということは記しておく価値があるだろう。もしかしたら、一部の状況あるいは多くの状況においては、人間以外の動物を殺すことを支持する正当な理由が存在しているかもしれない。つまり、私たちが人間の乳幼児(や、場合によっては妊娠後期の胎児)に対して敬意を払う必要がある理由と同様の理由が一部の動物に対しても存在しているとしても、そのことは、乳幼児や動物たち対して行う行為に関する他の理由が持っている影響を排除することはできないということだ。あるいは、多くの動物を殺害することに対して反対する理由は、多くの人々が考えているよりも強く存在しているかもしれない。あるいは、動物を殺害することを正当化するためには、多くの人々が考えているよりも強い理由が必要とされるかもしれない。そして、このことは私が行っている提案にとって弱点になるのではなく、むしろ私の提案の強みとなるものであるかもしれない。もちろん、そのような理由が本当に存在しているかどうかは未解決の問題であるのだが。

 

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*1:訳注:「中絶は胎児の将来を剥奪するから不正である」という趣旨の主張の代表として、ドン・マーキス, 1989, 「なぜ妊娠中絶は不道徳なのか」が挙げられている。

 

妊娠中絶の生命倫理

妊娠中絶の生命倫理

 

 

*2:

 

The Ethics of Killing: Problems at the Margins of Life (Oxford Ethics Series)

The Ethics of Killing: Problems at the Margins of Life (Oxford Ethics Series)

 

 

ある生物種が絶滅することの何が問題なのか?

 

 オックスフォードのPractical Ethicsブログに、2015年の8月に倫理学者のカティア・ファリア(Catia Faria)が公開した記事を訳して紹介。

 

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「生物種の絶滅を悪いこととする理由は(もしそんな理由が存在するとすれば)何であるか?」 by カティア・ファリア

 

 歴史を通じて、やがては絶滅する運命の生物種が数えきれないほど誕生してきた。自然的な過程によって起こった絶滅にせよ人間の手によって起こった絶滅にせよ、絶滅は悪いことであり、絶滅を防いだり場合によっては絶滅しかけている生物種を回復させるための自然保全が行われるべきである、ということには環境科学者も一般大衆も同意をしているように思われる。多くの場合、自然保全のリソースは、生態系から長らく失われていた絶滅危惧種を再導入するために費やされる。別の場合には、外来種の登場によって脅威に晒されている在来種(人間の手によって導入されたのではなく、ある特定の自然環境に昔から存在している生物種のことだ)を守るために、政府は外来種を根絶させるという対処法を実施する。存続が危険に晒されている生物種が絶滅することを防ぐという目的のみに専念する組織はいくつも存在している。しかし、生物種の絶滅を防ぐために行われるこれらの行為は、かなりの議論の余地がある前提に依存しているのだ。

 

 時には、以下のように主張される:

 

(1)生物種の絶滅は本質的に悪いことである

 

 この主張においては、生物種は誰かにとっての(person-affecting)価値ではない非人称的な(impersonal)本質的価値を持っている、と考えられている。本質的価値という概念の背景にあるのは、ある物事が存在することは、それが誰かに"とって"善かったり悪かったりするということがなくても、善いことや悪いことで有り得る、という考えだ。ある人々は、生物種はこのような本質的価値がある種類の物事であると主張する。ある生物種が絶滅するということは代替不可能な価値の消失が起こるということであり、その生物種が絶滅することによって世界は以前よりも悪い場所になる、と彼らは論じるのだ。つまり、世界に含まれる価値の総量が減少するということだ。これこそが、ある生物種が絶滅することは悪いことであるという主張の意味なのであり、その悪さが誰かにとっての悪さでないとしても絶滅は悪いことなのである。尚、この議論における"誰か"は、人間であるか動物であるかにかかわらず、自分自身の福祉(well-beig, 幸福)を持つことができる存在の全てを指している。上述してきたような本質的価値が生物種には含まれ得るとすれば、私たちは生物種を保全するための非人称的な理由を持つ、ということになる。生物種は高い本質的価値を持つという主張は妥当である、と仮定してみよう。すると、生物種の保全と回復という目標に熱心に取り組むことは、それが他の個体に対して多くの犠牲を負わせることであったとしても、生物種を守るという目的それ自体のために行われるべきだ、ということになる。

 しかしながら、この主張を推奨した場合に人間の利益に対して生じるであろう結果について考えてみれば、この主張の問題点が明白に理解できるだろう。たとえば、ヨーロッパライオンはかつてイベリア半島からギリシャカフカスまで、ヨーロッパ中に幅広く存在していた。そして、ヨーロッパライオンが人間を直接攻撃することや家畜を食べることによって生じる人間に対する悪影響を防ぐため、西暦80年頃〜100年頃にかけて人間はヨーロッパライオンを絶滅に追い込んだ。だが、上述した主張によると、ヨーロッパライオンの絶滅は人間にとっては善いことであったということに関わらず、非人称的な価値の消失が伴っていたためにヨーロッパライオンの絶滅は別の面では悪いことであったということになる。

 この場合、二つの可能性が存在する。生物種の持つ本質的価値は人間の福利よりも重要であるか、そうではないかだ。前者の場合、ヨーロッパの動物相にヨーロッパライオンを再導入することが私たちに実行可能になったとすれば、それが人間の福利に対して実に多大な悪影響をもたらすとしても、私たちはそれを行うことについての止むを得ない強制的な理由を持つということになる。大半の人にとっては、このような主張はとても受け入れられないだろう。では、ヨーロッパライオンを再導入することについての非人称的で本質的な理由があるとしても、人間の福利を考慮することでもたらされる様々な理由はそれを上回る、ということにしてみよう。このような弱いバージョンの主張ですらも、奇怪な結論をもたらす可能性がある。生物種は本質的価値を持つとすれば、私たちはヨーロッパライオンが絶滅したことについて嘆く理由があるということになる。さらに、その行為が感覚ある存在に対して何ら良い影響を与えないとしても、私たちは様々な生物種を再導入することについての止むを得ない強制的な理由を持つことになる、という様々な事態が有り得るということになるだろう。…結局、生物種は非人称的な価値を持つという主張にはほとんど根拠が無いのだ。

 

 生物種の保全に関して訴えられるもう一つの主張は、以下のようなものだ。

 

(2)生物種の絶滅は、感覚ある存在に危害をもたらすので、悪いことである

 

  この主張は二通りに解釈することができる。第一の主張は、ある生物種の絶滅はその生物種の各個体に危害をもたらすので悪いことである、ということだ。しかし、絶滅は個体に対して影響を及ばさないので、この第一の主張が正しいということはほぼ有り得ない。感覚ある個体が生命を失うという危害を受けることは、その個体の死によってもたらされるのであり、その個体が属する生物種の絶滅によってもたらされる訳ではない。その生物種の最後の個体が死ぬことはその生物種の絶滅をもたらすが、絶滅が死をもたらすのではないのだ。したがって、ある生物種の絶滅は悪いことであるとしても、その生物種に属する個体の誰かに危害を与えるから悪いということは有り得ない。さらに付け加えると、死は動物に対して個々に危害をもたらす。ある個体にとってその個体の死がもたらす悪さは、ある特定の生物種に属する個体の数とは無関係にもたらされるのだ。ある生物種において最後に残った個体が死ぬとしても、その最後の個体が死によって受ける危害は、それ以前に死んできた数百万の個体が各々の死によって受けてきた危害を何ら上回りはしないのである。

 第二の主張によると、ある生物種の絶滅は生態系のバランスに悪影響をもたらし、それによって絶滅する種とは異なる生物種に属する個体に対して危害をもたらすので、悪いことである。無論、この主張は、生態系のバランスは動物たちにとっての福利の源泉であるということを仮定している。しかし、この仮定は事実からは程遠い。以前に論じたように、現存する生態系は、そこに存在する大半の動物たちにとっては強烈な不幸の源泉となっているのだ。個体群動態のデータは、大多数の野生動物たちが従う繁殖戦略のために、個々の野生動物が置かれている平均的な状況は実質的には大規模な絶滅が起こっている場合と変わりがない、ということを示している。ある生物種は、その生物種に属する全ての個体が死んだ場合に絶滅する。多くの場合、絶滅する生物種に属する個体の全員がとてつもない苦痛に満ちた死を経験する。この状況はその生物種が存続する場合と実に似通っているのであり、生物種が存続するということはその種に属する個体が幸福であるということを意味していないのであり、むしろ存続する生物種に属する個体の多くは苦痛に満ちており悲惨な死で終わる短い生を過ごしているのだ。

(2)の主張をもっともらしくさせているのは、感覚ある存在に対してどのような事態が起きるかこそが重要である、という前提だ。しかし、この前提には、生物種が絶滅することを防ぐことはそれ自体のために追求されるべきことではない、という意味が含まれている。絶滅を防ぐための対策は、感覚ある個体たちに対して多大な危害を負わせるという犠牲を含んでいる場合には、正当化されない。さらに、ある個体が絶滅危惧種に属していないとしても、その事実によってその個体の生命の重要性が減少するということにはならない。このことを認めれば、政府によって行われているものにせよ民間組織に行われているものにせよ、現在実施されている環境マネジメントの方法に対して大々的な変化がもたらされるべきだということになる。もはや、全ての条件を考慮してみると野生に生きる動物たちに対して危害をもたらすような自然介入は、環境マネジメントにおいて行われるべきではないのだ。

 

 

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「動物の苦痛の道徳的重要性」 by ロジャー・クリスプ

 昨日に引き続き、オックスフォードのPractical Ethicsのブログから、2015年6月に公開された、倫理学者のロジャー・クリスプ(Roger Crisp)の記事を訳して紹介。

 

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「動物の苦痛の道徳的重要性」 by ロジャー・クリスプ

 

 最近、私はシェリー・ケイガン(Shelly Kagan)が「応用倫理協会」にて行った、「生物種主義の何が問題か?( ‘What’s Wrong with Speciesism?’)」と題された素晴らしいレクチャーに参加した。レクチャーの冒頭でケイガンは、人間以外の動物に関するピーター・シンガーのいくつかの著作を教材とした授業を教えているうちに、シンガーが擁護しているような「他の条件が同じであれば、動物の苦しみは人間の苦しみと同等に問題となる」という主張に自分は疑念を抱くようになった、ということを説明した。

 ケイガンは、私たちの多くは「ある生物種のメンバーであるかどうかは道徳的な関連性がある」と信じる「生物種主義者(speciesists)」である、というシンガーの主張を巧みに批判した。スーパーマンについて考えてみよう。彼が私たちとは違う生物であるからといって、スーパーマン[の苦しみなど]が私たちよりも重要ではないと考える人はいない。むしろ、私たちは「人格主義者(personists)」なのであり、非-人格である存在よりも人格である存在により重大な道徳的地位を付与しているのだ。

 二十世紀の後半、権利に関する哲学的著作群では、[ある存在に]権利を帰属させるための基準は何であるべきか…合理性、言語の使用、協力をする意思、感覚、それとも人間性?…ということに関しての議論が重ねられてきた。私からすれば、このような議論には正当な根拠は無いように思える。どの基準が正しいかということは、問題となっている権利が何であるかということによって変わってくるのだ。たとえば、投票する権利であれば、一定以上の合理性が必要とされるであろう。拷問されない権利は、感覚を持つということのみに依存するべきである。

 同様の論点は、道徳的地位に関する議論にも当てはまるように私には思える。人格である存在[person]は、彼が人格を持つということ[personhood]を理由にして、一定の種類の尊敬を払うように私たちに要求することができるかもしれない(たとえば、あなたは自分の飼い犬をぞんざいに扱うことはできない、など)。しかし、道徳に関するある一つの領域においてはある資質が問題になるからといって、その資質が道徳の全ての領域において問題になると考えるべきではないのだ。(この論点の概ねは、ケイガン自身が1988年に発表した論文「付与の誤謬(The Additive Fallacy)」によって鮮やかに指摘されている)。

 苦痛に関して本当に問題になる唯一のことは、その不快さであり、そしてどのように不快であるかということだ。苦痛を経験している存在が理性的であるかどうかは、その存在の人種や性別と同じく、その存在に苦痛を発生させることの不正さには関係がない。とすれば、人格主義は、人種主義や性別主義、そして生物種主義と全く同じくらい理不尽であり否定すべきものであるということになるだろう。

 

 

 参考:動物倫理に関するケイガンへのインタビュー動画。

 

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「安楽死と、弱者の保護」 by ロジャー・クリスプ

 

 久しぶりにオックスフォードのPractical Ethicsのブログから、2015年9月に公開された、倫理学者のロジャー・クリスプ(Roger Crisp)の記事を訳して紹介。

 

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安楽死と、弱者の保護」 by ロジャー・クリスプ

 

 悲しいことに、しかし意外でもないことに、ロブ・マリス議員による安楽死(assisted dying, 幇助自殺)の合法化法案はイギリス下院議員の多数派によって否決された

 安楽死合法化法案を否決するための議論としては、この法案を否決することは弱者(vulnerable)を守ることである、という議論が最も広く受け入られているものであるようだ。

 上述の議論を行っている人たちが想定している弱者とは、どのような人たちであるのだろうか?それは、家族を重荷から解放するために自分は安楽死を要求しなければならない、というプレッシャーに晒されるであろう人たちである。このような人たちは、2つのカテゴリに分けることができる。

 第一のカテゴリは、安楽死をしなければならないという道徳的なプレッシャーを本人は感じてはいるが、その人の家族は実際にはいかなる形でもプレッシャーをその人にかけていない、という人たちだ。もちろん、社会の犠牲になるために安楽死を行うことが一般的に期待されているという訳ではないこと、その人が安楽死を行うことを家族も支持しないであろうということをその人に説明するかどうかは、それぞれの事例に関わっている医者に委ねられるだろう。医者の説得もその人が安楽死を行うことを防ぐには不充分である、という場合ももちろん存在するだろう。しかし、安楽死以外の事例では、私たちが間違っていると考える道徳的決断の結果からその人を予防することは、たとえその人が弱者であっても私たちは行わないものだ。たとえば、財産の移転について考えてみよう。一部の弱者は自分の貯金の大半を親戚に渡してしまって、その結果として自分自身の生活における福祉(well-being)を急落させてしまうが、彼らはそれが自分たちが行うべきことだと信じているのである。彼らの信念に私たちは同意しないとして(多くの場合、私たちの大半は同意しないだろうと私は推測しているのだが)、重度の高齢者や病人がこのような財産移転を行うことを正当化する法律は否定されるべきであるとも、私たちは考えるだろうか*1

 しかし、安楽死は自分が行うべき義務ではないがそれにもかかわらず自分が安楽死を行うことは良いことである、とその人が考えている場合はどうだろうか?さて、なぜ、そのような人々が自己犠牲を行うことは許可されてはならないというのだろうか?J・S・ミルなら言ったであろうように、その選択はその人の「私的領域」で行なわれている選択なのであり、他人は私的領域で行なわれた選択に干渉する権利を持たないのだ。さらに、安楽死を行って自己犠牲することは義務ではない(supererogatory)ということをその人が理解しているとすれば、安楽死をする選択肢が与えられたことについてその人が悲嘆するのはおかしなことになるだろう。結局のところ、安楽死を選択しないとしてもその人は何も非難されるところがないからだ*2

 上述の事情にもかかわらず、その人は安楽死を選択することによって自分自身の状況を悪くしている(making harself worse off)、と主張することはできるかもしれない。このような主張が問題としているのは、安楽死が許可されているシステムにおいて誰かが安楽死を行うことを認めるか否かではなく、そもそも安楽死を許可するシステムを立ち上げるべきか否かということだ。人々の福祉について考慮する場合には…特にその人々が弱者である場合には、特定の選択肢を選択不可能にするべきである、ということだ。

 この主張も、いくぶんかパターナリスティックであるように思える。財産の移転の事例について、再び考えてみよう。財産の移転はその人自身の状況を悪くする可能性があるからといって、弱者が財産を移転することを不可能にするべきであろうか?そうだとしても、なぜ弱者だけを対象にするのか?誰だって、家族やその他の人々からのプレッシャーに晒される可能性はある。その人々に(訳注:決断を行うために充分な)能力があるとすれば(competent)、その決断が時には間違いになるだろうと私たちが考えているとしても、自分の生き方に関する選択を自分自身で決断することを私たちは認めるべきではないだろうか?

 では、実際に他人からのプレッシャーに晒されている人々についてはどうだろうか*3?このような場合においては、それらの人々が表明した意志は(訳注:「本当にその人の意志である」と認められるために)充分な資格を満たしており誰かによって強制された選択ではないことを保証することが、それらの事例に関わっている医者や裁判官にとっては特に重要となる。もちろん、自分の本当の意志を偽装することがとても得意なために医者や裁判官の目を誤魔化すことができる、という特異な人は存在するかもしれない。しかし、再びながら、他の事例においては、一般的な場合における自由と自律を保証するためにはこのような特異な人が存在する可能性を私たちは受け入れるものだろう。財産移転の事例について再び考えてみてほしい。

 いずれにしても、アメリカのオレゴン州のように安楽死が合法化された地域からのデータは、安楽死合法化法案に反対している人々が感じている恐怖の大半には根拠が無いということを示している。この問題は数の問題なのだ。安楽死が合法化されたとすれば、自分の人生を終わらせるように家族から理不尽で容認することのできないプレッシャーに晒される人が、一人か二人かは出てくるかもしれない。現在に何人かの人が同様のプレッシャーを財産移転に関して感じているのと同じようにだ。だが、多くの末期病状における最も重要な弱み(vulnerability)とは、苦悶に満ちいていて、慢性的で、そして取り除くことのできない苦痛のことなのだ。安楽死合法化法案に反対した下院議員たちのために、イギリスでは何千人もの人々が自分の意志に反してこの苦痛を感じ続けなければならないことになった。反対した下院議員たちが、自分たちの選択は弱者を守るための選択であると説明しているのは、グロテスクなことである。

 

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*1:訳注:反語であり、「いや、私たちはそうは考えないだろう」という文意。

*2:訳注:「安楽死を行うことは自分の義務ではない、安楽死を行なわないとしても自分は非難されない」と認識している人が、それでも安楽死を選択するとすれば、その人は安楽死を嫌々ながらではなく前向きに選択しているはずだ、というような文意であると思われる。

*3:訳注:このような人たちが、第二のカテゴリであるということ。

科学や理性はなぜ人々や社会の道徳的向上をもたらすか(宗教はなぜ人々や社会の道徳的向上をもたらさないか)

 

The Moral Arc: How Science Makes Us Better People

The Moral Arc: How Science Makes Us Better People

 

 

 

 これまでにも何度か紹介しているマイケル・シャーマーの『 The Moral Arc: How Science and Reason Lead Humanity toward Truth, Justice, and Freedom (道徳の弧:科学と理性はいかにして私たちを真実と正義と自由に導くか)』について、『道徳の弧』の内容についてシャーマー自身が答えているインタビューも参照しながら、また紹介してみたい。

 

www.huffingtonpost.com

 

『道徳の弧』で行なわれている主な主張は、「人類は科学的で理性的な思考方法を発達させるにつれて、道徳的にも発達してきた」というものであり、現代的な啓蒙主義とも言えるものである(同様の主張はスティーブン・ピンカーなども行っている)。

 

ごく簡単に要約してみると、

(1):物事を抽象化して理性的に考えることは、ある行為において道徳的に重要で本質的な事項とそうではない事項との区別を付けること可能にする。例えば、人を鞭打つという行為において道徳的に重要で本質的な事項は「鞭打たれる人は痛みを感じる」ということである。「鞭打たれる人は白人であるか」「鞭打たれる人は黒人であるか」ということは、白人であろうが黒人であろうが鞭打たれれば等しく痛みを感じるという事実を踏まえれば、重要ではない。だから、「相手を鞭打つか、鞭打たないか」という判断を下す際には「鞭打たれた相手は痛みを感じる」という事項に基づいて考えるべきであり、「相手が白人であるか、黒人であるか」に基づいて考えるべきではない。…非理性的・非抽象的な思考をしてしまうと、人種などの非本質的な要素に注目して「白人を鞭打ってはならないが、黒人は鞭打ってよい」などの非合理的で差別的な判断を行ってしまうことになるが、理性的・抽象的に考えれば「問題となるのは何か」ということを偏見なく発見して合理的で公平な判断を行うことができるのである。

(2):科学的な思考方法が発達したり科学的知識が発達することは、物事の事実や因果関係についての正確な理解を抱くことを可能にする。中世のヨーロッパ人などは「疫病が蔓延する原因」についての科学的に正確な理解をしていなかったために「疫病が蔓延する原因は、魔女が呪いを放っているからだ」という誤った事実認識を抱いて、「魔女を殺せば、疫病が無くなる」という誤った因果関係を想定して、それに基づいて魔女狩りという非道徳的な行為をしてしまった。魔女狩りが行われた理由は、当時の人々が非道徳的であったからというよりも、当時の人々には科学的な思考方法や科学的知識が足りなかったからことに由来している。…科学的な思考方法や知識が蓄積されるにつれて、誤った事実認識を抱くことや因果関係の判断をすることは予防されるようになるのであり、それによって非道徳的な行為が行われることも予防される。

 

 …そして、啓蒙主義や科学革命を通じて理性的思考や科学的知識を身に付けるようになった人類は、個人としても道徳的な判断や行為を行えるようになっただけでなく、総体としての社会としても政策という形で道徳的な判断や行為を実践するようになった。疫病の蔓延は、理性的思考によって疫病の原因が発見された後に科学的知識やテクノロジーに基づいた様々な政策を実行することによって、対処されて予防されるようになった。シャーマーが「道徳の公衆衛生モデル」と呼んでいる議論によると、疫病にされたのと同様の対処がその他の様々な道徳問題にもされるべきであるし、また実際にされてきた、ということになる。つまり、様々な差別問題(人種差別や女性差別に同性愛者差別、また動物に対する差別)や、殺人や児童虐待などの暴力問題は、疫病と同じように誰かを理不尽に傷付けて不幸をもたらすために対処されるべき問題であるのだが、そもそも差別や暴力が非道徳的であるということ自体を発見するためには理性的思考が必要となり、そして社会科学の知識に基づくことによってそれらの非道徳的な差別や暴力を防ぐための様々な政策も実行できる、ということだ。

 

 さて、上述のように理性的思考や科学的知識の発達によって人類は個人としても社会としても道徳的に向上してきたとすれば、理性的思考や科学的知識を妨げてきた宗教は人類の道徳的向上にとっても邪魔な障害物である、ともシャーマーは主張している。

 一般的なイメージとしては宗教と道徳は強く結び付いているように思えるし、そもそもシャーマーの本の題名の『道徳の弧』も、黒人差別に反対してアメリカの公民権運動を牽引してきたマーティン・ルーサー・キング牧師の演説から引用されたものだ。また、反植民地運動で名高いマハトマ・ガンディーも宗教家である。…しかし、キングの行っていた反差別運動にせよガンディーの行っていた反植民地運動にせよ、それらの運動が20世紀以降に活発したことについて、宗教が特に貢献している訳ではない。キングにせよガンディーにせよ彼らの主張は根本的には啓蒙主義的な自然人権論に基づいているのであり、彼らの演説に含まれる宗教的な要素はレトリックやフレーバーに過ぎないのだ。

 そして、キング牧師やガンディーはむしろ例外なのであり、宗教的な権威や組織や人々は、これまでの歴史においても現在においても反差別運動や反暴力運動などの社会改良運動に対する障害として立ち塞がっている。黒人奴隷制や植民地を支持する人々はその根拠を聖書に見出してきて反対運動は神の意志に逆らっていると批判してきたし、現在でも同性愛者や中絶を望む女性を苦しめているのは宗教だ。…宗教的思考と科学的思考とを分ける要素は様々にあるが、その最たるものは、宗教的思考は権威主義的である一方で科学的思考は反権威主義的であるということだ。宗教的思考においては「黒人は白人よりも劣っている」「同性愛は罪である」「胎児にも魂がある」という"事実"が、「聖書にそう書いてあるから」「教会がそう言っているから」という根拠に基づいて主張される。"本当に"黒人は劣っていると言えるのか、"なぜ"同性愛は罪であるのかと疑問を持って確かめようとしても、それらの主張の最終的な正当化は教会や聖書に基づくのであり、教会や聖書自体に疑問を持つことは許されない。…他方で、"なぜ"そうであると言えるのかということや"本当に"そうであるのかということを確かめることは、科学的思考の本質である。科学的思考においてはどんな主張も疑問や反論の対象となるし、主流派の主張であっても、反証されたり問題となっている事柄についてより正確で妥当な説明が登場したりした場合には取り下げられることになる。…かくして、宗教的思考は基本的には現状維持をもたらすのであり、「黒人は白人よりも劣っている」や「同性愛は罪である」という主張が支配的である状況においては、それらの主張が取り下げられたり改められたりする見込みがない。一方で、物事に対して疑問を持つことを是とする科学的思考は現状の変革を求めるのであり、事実とは異なる主張を取り下げさせて「黒人と白人は平等である」や「同性愛は罪ではない」などの事実に基づいた新たな主張を登場させることになる。

 ガンディーやキング牧師に限らず、欧米の奴隷制反対運動や女性差別反対運動などについてもそれらの運動に加わった宗教家や宗派の人々のことを取り上げて、「宗教は人々の道徳的向上に貢献してきた、宗教がなければ奴隷制が撤廃されることも女性への差別がなくなることもなかった」と主張する人は多い。だが、『道徳の弧』では様々な社会改良運動が取り上げられながら、いずれの社会運動もまず最初にそれらの運動を始めた人々は宗教ではなく理性や科学や啓蒙の側に立つ世俗的な人々であったという歴史的事実が指摘されている。世俗的な人々による運動がある程度メジャーになって説得力を増してくると、宗教の側からも良心的な人々はその運動に加わるようになるが、頑固な宗教的権威は依然として立ち塞がり、奴隷制女性差別などをあの手この手で正当化しようとしてくる。…やがては奴隷制反対運動から女性差別反対運動が宗教的権威を打ち負かして勝利を収める訳だが、しばらく時が過ぎると、宗教の側に立つ人々は、大半の宗教家が奴隷制女性差別を正当化していたという事実を都合よく忘れてごく一部の比較的良心的な宗教家だけを取り上げて、「宗教がなければ奴隷制が撤廃されることも女性への差別がなくなることもなかった」と主張し始めるのだ。…周知の通り、現在でも宗教は同性愛者に対する差別を正当化しているが、現在進行している反同性愛運動がやがて勝利を収めてしばらく経った後には、宗教の側に立つ人々は例によって「宗教がなければ同性愛者への差別がなくなることもなかった」と言い出すことだろう、とシャーマーは皮肉っぽく予想している。

 

 もちろん、宗教の何から何までもが悪いということではなく、例えば現在の欧米のキリスト教は比較的平和な宗教となっており、過去のように戦争や虐殺をもたらすことはない。キリスト教会が慈善事業やボランティアを行うことで貧困層や弱者を助けていることなどはシャーマーも評価している。しかし、そもそもキリスト教が比較的平和になったこと自体が啓蒙主義によってもたらされた変化であるし、啓蒙主義を経ていないイスラム教は依然として野蛮であり様々な戦争や虐殺をもたらしている。結局、人々や社会の道徳的向上を牽引してきたのは常に科学や理性だったのであり、宗教はそれに逆らうか後追いをするかしかしてこなかった、というのがシャーマーの主張の概ねだ。

 

関連記事:

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動物倫理における宗教・文化の扱いについて

togetter.com

 

 上記のTogetterは2016年のものだが、なぜか最近になってブクマが集まっているようだ。このTogetterの内容は基本的には「アニマルライツは宗教よりも重要ではない」と考えているまとめ主が自身の見解や自身に近い見解を持つ人の主張をまとめて掲載するというもので、中立的なまとめというよりかは一方の側の意見に偏ったものである。という訳で、バランスをとるためにも、「宗教はアニマルライツよりも重要ではない」または「宗教や文化は、動物の道徳的地位や動物への倫理的配慮を無視する理由にはならない」などなどの意見やそれに関連するものとして、私が過去に書いたり訳したりした記事やその他の英語記事についてざっと紹介しておこう。

 

 

● 政治哲学者のウィル・キムリッカがスー・ドナルドソンという人と共著して書いた論文の内容を紹介している記事。キムリッカは多文化主義を主張していることで有名だが、すべての文化や宗教的営みが認められるとは主張しておらず、人権侵害を含むものであれば文化や宗教であっても認められない、という主張をしている。そしてキムリッカは人間の権利と同じく動物の権利も認めているので、動物の権利侵害を含むものであれば文化や宗教であっても認められない、ということになる(実際にはもっとニュアンスがあって複雑な主張をしているのだが、概ねこんな感じ)。

 

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● 動物の問題に限らず、「文化や宗教に由来する営みであるからといって倫理的に認められるとは限らない、文化や宗教であっても道徳的批判の対象となる」ということや「宗教や文化に依らない方法で道徳を考えよう」という旨の議論をしている記事。

 

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● 無神論者による動物倫理の議論。シャーマーの記事へのコメントとしても書いているが、無神論者が動物倫理の問題について積極的に発言するのは、文化や宗教に依らない世俗的・科学的な前提に基づいた倫理や道徳を考える際には、動物の問題について言及しない訳にはいかない、ということが大きいのだろう。

 

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richarddawkins.net

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 The unfair treatment of the animal rights movement « Why Evolution Is True

 

● 上記のTogetter記事でも論じられている、ハラールやカシュルートなどの宗教的な理由による屠殺方法に関する倫理的議論や動物福祉への懸念としては、以下のような記事がある。ピーター・シンガーにせよ上述のキムリッカにせよ、「屠殺方法云々の以前にそもそも肉食自体が認められない。イスラム教徒であろうがユダヤ教徒であろうがその他の教徒であろうが無神論者であろうがみんなベジタリアンになるべき」という趣旨の議論を行っている。

 

theconversation.com

 

www.theguardian.com

 

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⚫︎ 最後に私の雑感を短く書いてみると、このテの複雑で厄介で様々な論点があり、そして様々な対処法や妥協案が考えられる現在進行形の倫理的問題に関しては、「権利」という言葉にあまりこだわって論じることは不毛で非生産的であるように思える。

 「人間の誰かが属する文化や誰かが信仰する宗教は尊重されるべきである」「文化的営みや宗教的営みが妨害、疎外されることがあってはならない」という意見や規範は比較的広く受け入られているだろうが、「動物を殺害することは許されるとしても、動物に与える苦痛はできるだけ少なくされるべきだ」「動物にはできるだけ苦痛を与えない方が良い」という意見や規範も比較的広く受け入られているだろう。「動物が人間の食事のために殺害されることはあってはならない」と考えている人は少数派だろうが「動物が人間の娯楽のために殺害されることはあってはならない」と考えている人は多いだろうし、「動物が人間の文化的営みや宗教的営みのために殺害されることはあってはならない」という価値観を抱いている人もそれなりにいるように思える。 実際にはどちらの考えが客観的・理論的に正しいかという倫理学的な議論をさておいても、一般論として、世の中に異なった意見や価値観を抱いている人々がいてそれらの価値観が互いに衝突しかねない場合には妥協案や折衷案が見出されるべきだろう。しかし、「人間には自分の属する文化や自分の信仰する宗教が尊重される権利がある」「人間には文化的営みや宗教的営みを妨害、疎外されない権利がある」あるいは「動物には無用に苦痛を与えられない権利がある」「動物には文化的営みや宗教的営みのために殺害されない権利がある」という考え方をしてしまうと、どちらかの権利を認めたらもう片方の権利を否認せざるをえなくなり妥協案や折衷案も成立しなくなって対処の仕様がなくなるのだ。このような議論においては、「権利」という言葉にこだわらない功利主義帰結主義の有効さが実に明白であるように思える。

 

 

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宗教はいかにして人を道徳的にするか(ロバート・パットナム『アメリカの恩寵』)

 

 今日は『American Grace: How Religion Divides and Unites Us(アメリカの恩寵:宗教はアメリカ人をいかに分断していかに結び付けているか)』について軽く紹介しよう。この本はロバート・パットナムというデビッド・キャンベルという二人の政治学者の共著で、前者は『孤独なボウリング』『われらの子ども』などの著作で有名。本の内容を紹介するといっても、600ページ以上に渡る大著であり、アメリカの人々が信仰している宗教の歴史や現状の紹介、ジェンダーエスニシティについて宗教はどのような関わりを持つか、アメリカ政治において宗教はどのような役割を果たしているかなど、アメリカにおける宗教についてありとあらゆる側面から論じている本であるので、全部の内容を紹介することはさすがにできない。とりあえず、13章の「Religion and Good Neighborliness(宗教と善き隣人性)」について紹介しよう。

 

 13章では「宗教心の強いアメリカ人はそうでないアメリカ人に比べて利他的であるか否か」ということが、大規模な世論調査などのデータに基づきながら論じられている。そして、宗教心の強いアメリカ人はそうでない世俗的なアメリカ人に比べて実際に利他的であり社会的な活動を行う善き市民であるということが、データから導き出されている。ただし、宗教心の強いアメリカ人は世俗的なアメリカ人に比べて異なる意見に対して不寛容であるという欠点も強い。それにもかかわらず、宗教心の強いアメリカ人は概して様々な美点を備えている「良い人」である、というのが著者らの結論だ。…一般に、「宗教心が強い」という属性には「年長である」「女性である」「アフリカ系アメリカ人である」などの別の属性も関係しているが、それらや他の様々な要素をふまえて統計を操作しても、「宗教心が強い」ということに由来する独自の傾向がはっきりと見出される、というのが著者らの主張だ。

 具体的に書くと、たとえば宗教心の強いアメリカ人はそうでないアメリカ人よりもボランティアに参加する時間が長い。それも、教会などが主催している宗教的なボランティアだけでなく、そうでない世俗的なボランティアに参加する時間も宗教心の強い人の方が長いのだ。また、収入のうち寄付に占める割合が何パーセントであるかというのも、宗教心が強くなればなるほど高くなる。ボランティアと同じく、宗教的な理由による寄付と世俗的な寄付による理由の両方とで、宗教心が強い人の方がパーセンテージが高くなるのである。数字では測りづらい日常的な利他的行動も宗教心が強い人の方が概してより多くなり、具体的には「献血をする」「落ち込んだ人を励ます」「他人に席を譲る」「知人の職探しを手伝う」などの行動をより多く行うようになる(ただし「知人が旅行に行っている間にペットや植物の世話をする」「知らない人の荷物を持ってあげる」「知らない人に道を教える」「他人や知人にモノや金を貸す」などの行動については、宗教心が強いかどうかは関係ないそうだ)。

 宗教心の強い人はどのように「善き市民」であるかというと、地域コミュニティの組織に参加している割合が高く、コミュニティに問題が生じた際にもそれを解決することに意欲的に関わるし、地域レベルでの諸々の選挙への投票率も高いし、現状維持に満足せず運動を通じて地域や政治の改革を求めることにも意欲的である。

 また、宗教を持たないアメリカ人ですら「宗教心の強い人の方がそうでない人よりも信頼に値する」と考えている。また、宗教心の強い人たちの方でも、他人をより強く信頼する傾向にある。ただし、実際に宗教心が強い人はそうでない人に比べて信頼に値する人物である、と言えるだけの証拠については、著者らは発見できなかったそうだ。

 …このように、宗教心の強い人はそうでない人に比べて概して「良い人」である。コラムニストのアーサー・ブルックスは著書で「宗教的保守派は他のアメリカ人よりも寛大だ」と主張したそうだが、著者らによるとブルックスの主張は半分しか正しくない。人を寛大にしているのは保守であるかどうかでなく宗教的であるかどうかなのであり、宗教的であれば政治的には中立であったりリベラルであったとしても寛大になる傾向にあるし、保守であったとしても宗教的でなければ寛大であるとは限らない。宗教心の強い人には保守派が多いから「宗教的保守派は他の人より寛大」というイメージを抱きがちだが、同じくらいの宗教心の人々を比較して見てみれば、一般的にはリベラルの方が保守よりも寛大であるそうだ。

 

 では、"なぜ"宗教心の強い人はそうでない人よりも利他的であったり善き市民であったりするのか?まず、宗派による影響や違いは少しはあるとはいえ、「どの宗派を信仰するか」よりも「どれくらい宗教的であるか」ということの方がずっと影響力が強い、ということを著者らは指摘する。(データの都合上キリスト教徒とユダヤ教徒アメリカ人しか対象にできないのだが)プロテスタントにせよカソリックにせよ、福音派にせよモルモン教徒にせよ、ユダヤ教徒にせよ、それぞれの宗派の教えの違いにはほとんど関係なく、その信徒の宗教心が強くなればなるほどその信徒は利他的であり善き市民になる。

 キリスト教には「善きサマリア人のたとえ」や「黄金律」が含まれており、善いことをすれば天国に行けて悪いことをすれば地獄に落ちるなど、信徒が利他的になることを求める教義がある。普通に考えれば、宗教心が強い人が利他的なのは、宗教心が強くなるほど教義を真剣に捉えて利他的な価値観を強くするようになるからだ、という風に思える。だが、著者らによると、教義が人々の行動に影響を与えているかどうかには疑問の余地がある。たとえば、子供の頃から宗教的な家庭に育って教義を強く教え込まれた人であっても大人になって教会に滅多に出席しなくなった人の場合には、宗教心が強い人ならではの利他性や善き市民性などの特徴は見出せなくなる。「教会に頻繁に出席すること」は宗教心の強い人にとっても弱い人にとっても「他人に対する信頼を増させる」ことにつながるが、宗教心は強いが教会に出席することは少ないという人は、宗教心が弱い人以上に他人に対する信頼が低い傾向にある。教義は同じであっても、神を信じていて教会にも頻繁に出席する人は神の愛や暖かさをより強く感じるようになりポジティブな人間観を抱くようになる一方で、神を信じてはいるが教会にはあまり出席しない人は神の怖さや厳しさをより強く感じるようになりネガティブな人間観を抱くようになるそうだ。

 重要なのは教義よりも教会への出席率であり、宗教を通じて生じる社会関係である、と著者らは論じる。個人的な信仰を持つことや教会にて牧師や神父が行う説教は人々の行動に大した影響を与えないが、教会にて他の宗教的な友人と語り合ったりすることや、聖書の読書会やその他の宗教的な集会などに参加して共同体験をすることこそが、宗教心が強い人を他の人よりも利他的で善き市民にするのだ。そのような人々は宗教的な集会だけでなく、ボランティアを始めとした世俗的な集会にも参加する頻度が高くなるのである。…ちょっと皮肉なのが、「神が存在することを確信している」と自信を持って言えるアメリカ人は教会への出席率がかなり低くなり、そのために、神の存在に不安は抱いているが教会への出席率が高いアメリカ人に比べて利他性や善き市民性が減るということだ。重要なのは宗教的な信仰そのものではなく、宗教的な共同体に所属していることであるのだ。

 友人が多いことと利他性や善き市民性の高さにはあまり関係がないようだが、宗教的な友人が多いことと利他性や善き市民性の高さには明白な関係があるようだ(そして、教会に行く人は宗教的な友人が多くなる)。一人で「孤独なボウリング」を行うことよりもチームに所属して集団でボウリングを行う方が市民性は高くなるが、そのボウリングチームが教会のチームである場合には市民性はさらに高くなる。また、必ずしも同じ宗派を信仰している必要もなく、他の宗派の人々と過ごすことも良い影響を与えるのだ。…さらに、教会で出会う友人たちは寛大であり利他的であり善き市民性が高い以上、そんな友人に囲まれることで同調効果が生じて、自分の行動にも影響が出てくる。また、宗教的な場で培う友人関係は他の場で培う友人関係よりも道徳的な側面が強くなり、職場の仲間やジムで出会う人は野球の試合やクラブなどに誘ってくれるかもしれないが、教会の仲間たちはボランティアやチャリティへと誘ってくれるだろう。…そして、新たに教会にやってきた人に対して今度は自分が影響を与えることになる。そのような反響的な効果が教会には存在するのだ。

 

 だが、宗教心が強いことは良いこと尽くしでもない。宗教心の強い人はそうでない人に比べて異なる意見に対して不寛容であり、これは民主主義社会にとってはかなり有害なこととなり得る事態だ。…「自由の国」の国民であるアメリカ人たちは人々の意見表明や表現の自由には概して寛容であり、9・11のテロ事件を経験した後でも「公の場でオサマ・ビン・ラディンを擁護することは認められるか」という質問には6割近くのアメリカ人が「認められる」と答えており、図書の検閲には75%以上のアメリカ人が反対している。そして、言論や表現の自由に対するアメリカ人の支持は年々増し続けており、同性愛者・無神論者・共産主義者軍国主義者・人種差別主義者のそれぞれの属性の代表者が言論や表現を行うことへの支持率も上がり続けている。また、一般的には、自身が市民的活動を行っている人は他人の市民的活動の自由にも寛容になる傾向がある。…しかし、宗教心が強い人は市民的活動を活発に行う傾向が強いのにもかかわらず、異なる意見を持つ人に対して不寛容になる傾向があるのだ。

 このことは政治的イデオロギーの左右に関わらない傾向であり、たとえば教会に通うリベラルはそうでないリベラルに比べて人種差別主義者や軍国主義者の言論の自由を認めない傾向が強く、教会に通わない保守は教会に通う保守よりも共産主義者や同性愛者の言論の自由に寛容だ。宗教心の弱いアメリカ人の多くはキリスト教原理主義者を嫌っているが原理主義者の表現の自由は認めている一方で、無神論者を嫌う宗教心の強い人たちは無神論者の表現の自由が制限されることも求めている。この原因が何であるかというと、宗教心の強い人はそうでない人よりも権威主義的であるからだ、と著者は論じている。また、利他性や善き市民性の場合と同じく各宗派の教義は信徒の不寛容さにはあまり関係がないようであり、個々の信徒の宗教心の強さの方が重要であるようだ。…ただし、宗教心が強い人がみんな表現の自由に不寛容である訳ではない。また、世代が若くなるにつれて、同性愛や反宗教的な言論の自由に対する支持は宗教心の強い人たちの中でも増している傾向にある。

 

 なお、宗教心の強い人は本人自身も幸せになる傾向が強い(収入などで統計を調整してもこの傾向ははっきりと存在する)。このことも、利他性や善き市民性の場合と同じく、宗教の教義のおかげというよりも宗教によって得られるコミュニティや友人関係のおかげであるようだ。ただし、周りの友人がみんな同じ宗派の信徒である場合よりも、多様な宗派の友人がいる人の方がより幸せになるようである。

 

 余談的に15章の「America's Grace(アメリカの美徳)」についても軽く紹介しておこう。アメリカという国にはプロテスタントカソリックモルモン教徒・福音派アーミッシュユダヤ教徒イスラム教徒・仏教徒など多種多様な宗派や宗教が存在しており、「アメリカという国は宗教によって分断されている」というイメージが持たれがちだが、イメージとは裏腹にアメリカ人たちは他の宗派の人々に対しても概して良い印象を抱いており、その傾向は年々増している(イスラム教徒に対しては未だに悪い印象が強いが)、ということが15章では論じられている。なぜ異なる宗派に対して良い印象を抱くようになっているかというと、異なる宗派同士のカップルの結婚を始めとして、宗派間の相互交流が年々増しているからだ。著者たちが「スーザン叔母さん効果」や「友人のアル効果」と呼んでいる理論によると、「私の親戚のスーザン叔母さん(または友人のアル)はプロテスタントの私とは違ってカソリックだが、スーザン叔母さんはすごく良い人だし天国に行けないはずがない。とすると、スーザン叔母さん以外のカソリックの人々にも良い人はいるだろうし彼らも天国に行けるだろう」という効果がはたらいているそうである(そのため、アーミッシュのように他宗派との相互交流が少ない宗派に対する印象は良くなりづらいし、本人たちも他宗派に対して悪い印象を持ち続けたままになりがちである)。無神論者が増えた近年では無神論者の知人に対しても「スーザン叔母さん効果」や「友人のアル効果」がはたらくので、無神論者に対する印象も良くなっている。実際、「他の宗派や宗教や無神論者の人も天国に行ける」と考えるアメリカ人の数は年々増え続けているのであり、「自分の宗派の人しか天国に行けない」と考えるアメリカ人は約1割しかいないそうだ(アメリカにおける厄介な宗教問題の数々を引き起こしているのも、この1割の人々であると言える)。…ちょっと面白かったのが、神父や牧師などの聖職者の大半は現在でも「キリスト教徒でないと天国に行けない」と考えているのであり、パットナムが聖職者たちに対して『一般信徒の多くは「キリスト教徒以外の人々も天国に行ける」と考えている』ということを教えた際には、聖職者たちはショックを受けて、自分たちは信徒たちに正しくキリスト教の教えを伝えられていないのではないかと考え込んでしまう、というエピソードだ。

 

 …とりあえず『アメリカの美徳』の紹介はこんなところだろうか。教義や説教が人々の利他性や幸福の向上にはあまり関係がなくて、それよりも教会などの宗教コミュニティや宗教的な友人関係の方が重要である、という洞察はいかにも社会学的で面白い。『アメリカの美徳』は(主にキリスト教徒の)アメリカ人を対象とした社会学的な研究だが、アメリカ以外の国でも当てはまるところは大きいだろう。宗教が人々の利他性に与える影響について論じた本としては、社会学よりも普遍的で一般的な社会心理学進化心理学の観点から論じている、アラ・ノレンザヤンの著書『Big Gods: How Religion Transformed Cooperation and Conflict (大きな神々:宗教はいかに協力と争いを変えたか)』を読んだことがある。この本でも「教義はあまり関係ない」ということが強調されていたし、「宗教心の強い人は他宗派の人よりも無神論者の方を強く警戒して嫌う」など『アメリカの美徳』で指摘されているのと共通する事象について論じられていたりした。

 

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