道徳的動物日記

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反出生主義は女性差別?

 

生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪

生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪

 

 

 

 先日に聴きに行った、学習院大学で行われた反出生主義のシンポジウムに関連する雑感。

 シンポジウムのまとめについては他の人が書いているのでそちらを参照してほしい。登壇者たちのレジュメも本人たちが各自で公開しているようなので、気になる人は自分で探せばよい。


 シンポジウムの終盤には質疑応答が行われたが、その際に中心となった話題は、登壇者の一人である橋迫瑞穂氏(以下敬称略)による「ベネターの著作は女性差別的である」という主張である。
 橋迫によるベネターへの批判点を要約すると以下のようなものになる。

 

「ベネターは"産む性"である女性の観点や女性の主体性を無視した議論を行っている。そのために不妊や中絶を躊躇なく肯定しており、現実の世界における女性の苦悩や葛藤、リプロダクティブライツフェミニズムの歴史などを無視した議論となってしまっている。」


 質疑応答では、他の登壇者や聴講者から、この論点に対してベネターの議論を擁護する主張が行われた。

 基本的には「ベネターの議論の中心はあくまで"反出生"であり、不妊や中絶に関する議論は副次的なものにすぎない。そこの議論が女性差別的であるとしても、ベネターの議論の骨子が女性差別的であるとはいえない」というものと「ベネターは男性差別を主題とした本を書いており、またフェミニストの女性哲学者との議論も別のところで行っている。『生まれてこない方が良かった』でフェミニズムに関する言及がないとしても、それは今回の本の主題ではないから、ということである」というような反論であったと記憶している。


 質疑応答の後には懇親会が行われたようであり、そこの場で登壇者同士のさらなる議論が行われたのかもしれない。しかし、少なくとも質疑応答が終了した時点までの議論は、さして実入りのあるようなものには思えなかった。
 私には全体的に議論が不毛に感じられた訳だが、その主な理由は、橋迫によるベネターへの批判がとりわけ画期的でも新鮮でもないからということがある。

 

 生命倫理の世界では 、反出生主義についての議論は比較的最近に起こったものであるとしても、妊娠中絶というトピックについては長らく扱われてきた。

 そして、妊娠中絶に賛成する議論であろうと否定する議論であろうと、男性の哲学者による議論に対する「女性の観点や主体性、現実の世界における女性の苦悩や葛藤を無視した議論を行っている」という批判は、女性の哲学者やフェミニストたちによって昔から投げかけられてきたのである。

 とはいえ、このような批判に一理があることは確かだろう。
 だが、たとえばベネターの議論の場合、「女性の苦悩や葛藤」や「リプロダクティブライツフェミニズムの歴史」などを考慮したところで、議論の大枠は全く変わらないだろう。精々のところが、女性の読者に与える不快感を考慮して中絶や不妊に関する議論の紙幅を減らしたり、逆に注釈やエクスキューズの文章を追加するなどの、非本質的な対応しかやりようがないのではないかと思えてしまう。


 そして、反出生主義にせよ妊娠中絶に関する議論にせよ、「産む性」である立場の女性の観点は重要である一方で、その観点を重視した議論ばかりを行うべきではない、という事情もある。

 そもそも、根本的には、これらの議論は「子供を生まれさせること」や「胎児を中絶すること」が「加害」であるか否かを問うための議論であるからだ。つまり、女性が当事者であるとしても、それと同等かそれ以上に、「生まれてこさせられる子供」や「胎児」を当事者と見なした議論をまず行うべきなのである。

 より詳しく書くと、"  「生まれてこさせられる子供」や「胎児」には当事者の資格はない(あるとしても女性の方がより強い当事者としての資格を持っている)"という議論を展開したり、出生や中絶は加害にならないと論証したうえで「出生も中絶もすべて産む側の女性の権利であるから好きに行ってよい」などと論じたりすることには、問題はない。

 重要なのは、それらの議論においても、スポットライトはまず第一に「生まれてこさせられる子供」や「胎児」に当てられるべきだということだ。問われているのは彼らに対する加害であるのに、それを置きざりにして「産む側」や「中絶する側」を重視する議論を行うことには、歪みがあるように思える。


 橋迫だけでなく他の登壇者の発表でも気になるところがあったのだが、どうにも反出生主義が「私たちによる、他者への加害」に関する問題であるということの深刻さが共有されていなかったように思えた。

 質疑応答の最後の方でも同様の疑念を投げかけた聴講者はいたのだが、登壇者たちの返答は満足のいくものではなかったように思える。


 ところで、シンポジウムの場でも本人自身が言っていたと記憶しているが、橋迫は社会学者であるので、倫理学の抽象的な議論自体にはさほど価値を見出していないように思われる。…しかし、たとえば橋迫によるベネターへの批判には、「女性の観点やリプロダクティブライツの歴史を重視する "べき" だ」という倫理的な含みがあるはずだ。
 生命倫理学における哲学的な議論に対する社会学系の人からの批判にはよくあることなのだが、倫理学的な議論そのものを批判するその主張自体に、どこから輸入したかも定かではない規範的な前提が含まれているのだ。

 そして、倫理学とは、その規範的な前提自体の正否を議論する学問でもある。そういうのをすっ飛ばしておきながら自分たちは好き勝手に規範的主張を行えるというのは、ずるいと思う。

 

 

 

村上春樹「ヒエラルキーの風景」、受験制度についての雑感

 

やがて哀しき外国語 (講談社文庫)

やがて哀しき外国語 (講談社文庫)

 

 

 高校生の頃から村上春樹にはまっていて、小説だけでなくエッセイも多々読んだ。

 村上春樹のエッセイは基本的には『村上朝日堂』シリーズのように日常や生活や目についた時事問題のことを気軽につづった雑記のようなものが多い。しかし、プリンストン大学に客員研究員として滞在していた二年間に書かれた『やがて哀しき外国語』は日本とアメリカとの比較社会論といった趣があり、一つ一つのエッセイの分量が多く、内容もなかなか硬派で異彩を放っている。

 

 その中でも「ヒエラルキーの風景」という題のエッセイがとりわけ印象に残っている。特に、昨今の共通テストだか民間試験だかをめぐる騒動やそれについての人々の反応を見ていると、このエッセイのことが頭にちらついて仕方なくなってしまった。

 長くなるが以下に引用してみよう。

 

プリンストン大学には、日本の官庁とか会社の人がけっこう数多く派遣されて、勉強しておられる。(略)

そういう人たちと顔をあわせて話をするような機会はあまりないのだけれど、僕が知っている何人かから聞いた話では、こういった「派遣組」内部でも出身大学やら会社や官職によって擬似ヒエラルキーのようなものが生じるということである。日本における役職や学歴が、ほとんどそのままこっちに持ち込まれてくるらしい。「私は……大学出身なんですけど、みなさん東大出なんで肩身が狭くて」というような台詞をよく耳にした。僕もーーこれはプリンストンでではないけれどーーそういうヒエラルキーの風景をかいま見たことはある。他人のことだから僕があれこれ言う必要はないのかもしれないけれど、正直にいって、見ていてあまり気持ちの良いものではなかった。

誤解されると困るのだが、みんながみんなそういう移転日本社会の網の目に絡められているわけではなく、ごく普通に外国生活を楽しんでいる人たちももちろん沢山いる。でも中にはまったくどうしようもない人がいる。そしてそういう人々の多くは、どういうわけかいわゆる「超エリート」である。会っていちおうの挨拶をした次の瞬間から「いや、実は私の共通一次の成績は何点でしてね」と、滔々と説明を始めるような人々である。だいたい僕らが大学に入った頃には共通一次なんてものはなかったので、のっけからそんなこと言われても何が何やらよくわからない。しかしもっとよくわからないのが、自己紹介がわりに共通一次の点数を持ち出す人間の神経である。いったい何を考えているのだろうか。こういう人たちがエリートの役人として、日本で幅をきかせてエバッているのかと思うと(アメリカに来てもかなりエバッていた)、これはちょっと困ったことなんじゃないかなという気がする。(略)

せっかく日本を出て外国にいるんだから、少なくともその一年間くらいは日本的なレールからひとまず離れて、ひとりの裸の人間としてみんなと気楽に交わりあえばいいのに、と僕なんかは思うのだけれど、そういう人たちの自我だかアイデンティティーだか世界観だか呼吸器だか消化器だかの中には「共通一次」「……省」「……課長補佐」というファクターが分離不可能なまでに組み込まれていて、新しく何を取り入れるにせよ、誰と接するにせよ、そういうややこしいフィルターをひとまず通過させないことには、致死的なアレルギー反応に襲われるのかもしれない。彼らにとってはこのようなヒエラルキーはあまりにも重要な価値を持ったものなので、そんなものとは無関係に生きている人間がこの世界にはけっこう沢山いるのだという事実がうまく理解できなくて、どうもそのあたりのボタンのかけちがいから様々な悲喜劇が生まれるらしい。(略)

そしてそういう人たちが、自分自身の個人的価値よりは自分の属している会社や官庁の名前や、あるいは自分がかち取った共通一次試験の点数の方を、ずっと真剣に大事にしている……というか、それがおそらくそのまま自分自身の個人的価値になってしまっているという事実も、僕を深く深く驚愕させたことのひとつだった。

 (p.246-250、ページ数は単行本版のもの)

 

 

 官庁や会社のエリートが「いや、実は私の共通一次の成績は何点でしてね」というのはいかにも戯画的で、誇張して書かれたものだと疑う人もいるかもしれない。

 しかし、話のレベルはかなり下がるが、私が大学生の時に入っていた文芸サークルなんかでも同級生や上級生がセンター試験の点数を自慢しあっていて、そのことにかなりがっかりさせられた思い出がある。そもそも文学を志していたり読書が好きであるような人なら、センター試験の点数を誇りに思ったり点数の上下に一喜一憂するような人格なんかになることはあり得ないと思っていたからだ。文学とか読書とかいうものは、本来はそういう世俗的で浅薄でせせこましい価値観から解放するものであるはずだろう。…しかし、しばらくしてから、「文学が好き」「読書が好き」と自称する人の大半は文学的な価値観を持っているのではなく、単に内向的で本を読むことと勉強ができることしか取り柄がないからそう自称するようになったのであり、そんな人格であるからこそセンター試験の点数なんかも自慢するのである、ということに気が付くことができた。

 

 さて、大学受験については以前の記事でも取り上げたことがある*1。この記事では「日本の大学受験は公平なシステムであると言われているが、背景の諸々を考えると公平であるとはとても言えないかもしれない」ということを書いた。

 とはいえ、たとえばコネや家柄や本人のコミュニケーション能力なんかに左右される(らしい)アメリカの大学受験なんかに比べると、現在の日本の大学受験はまだしも公平なシステムであることは確かだろう。そして、共通テストだか英語の民間試験だかは現状の公平なシステムを破壊するものだとして反対されているわけだ。

 また、「日本は公平な大学受験制度を保ち続けていたおかげで、勉強ができる人ならどんな家庭や地方に生まれてもエリートになるチャンスが残されている、一発逆転のシステムが存在し続けている」というタイプの言説はあちらこちらで見聞している。「自分は勉強して大学受験に受かったおかげで腐った田舎や地元の底辺の連中とは縁を切って都会に出て自己実現することができた」的なサクセスストーリーも、よく目にするところだ。

 

 もちろん大学受験は公平なシステムであればあるほど良いことだろうし、どんな生まれでも階層移動のチャンスが残されている社会の方がそうでない社会よりも良いことは言うまでもないだろう。

 しかし、春樹や私が目にしてきたような、共通一次センター試験の点数を自慢したりアイデンティティーにまで結び付けてしまうような人間が存在するのは、公平で画一的で誰もが単一の指標で測られるシステムがあまりにも強く人々の進路や人生と結び付いてしまっていることの副産物であるようにも思える。

 さらにいえば、文学なり哲学なり芸術なりの人文学なんかが示すはずの諸々の価値観をふまえてみれば、階層移動なりサクセスストーリーなりの経済的な目的のために大学が利用されているという状況自体がおかしいとも言えるかもしれない。

 

bunshun.jp

 今回の民間試験の件については、"エリート高校生"が反対の声をあげてそれを大人たちが「さすがエリートの学校に通う高校生は違う」と拍手喝采する、みたいな構図にもうんざりした。不公平な制度はもちろん良くないだろうが、いまの社会に存在するメリトクラシーなりエリート主義なりはもう少し解体されるべきだとも感じる。

「より努力をした者や、より高い能力を持った者には、より優れた大学への入学権が報酬として与えられる」という発想が普及してしまっていることが根本的な問題かもしれない。たとえばどんな大学であっても入学は希望者間のくじ引きで決めることにしてしまえば、こういう発想は無くなるだろう。

 ついでに言うとSNSでもYoutube動画でも最近は「TOEIC900点を取る方法」みたいなのがやたらとバズっていて、これにももちろんうんざりしている。戦後何十年も経って21世紀にもなっているんだから、誰も彼もが「点数」にこだわる社会からいい加減に解放してほしいものである。

 

 どうでもいいことだが、私が大学受験を受けた時には、試験会場にわざわざ『やがて哀しき外国語』と小田嶋隆の『人はなぜ学歴にこだわるのか』を持っていって、休憩時間に読んでいた。私としては、試験は受けるけれどもせめて心の中だけでも受験制度に対する反対の気持ちを保ち続けようという気持ちで読んでいたのだが、いまから思うと、他の受験生からすれば嫌がらせのように思えたかもしれない。

私が"議論"が嫌いな理由

 

 ひとくちに議論と言っても色々とあるだろうが、私には世の中で行われている議論というものはおおむね2種類に分かれているように思える。ひとつは、議論に参加している双方がお互いのことを対等に見なしており、互いがどう思っているかを明らかにしたり相互理解を目指したりするなどの建設的な目標を持って行う議論である。もう一つは、相手を論破したり相手の主張の欠点を示すことで自分の賢さや能力を第三者たちに誇示することを目的とした議論である。

 前者の議論を行う人はいま自分が議論している相手に対して目が向いている一方で、後者の議論を行う人は自分たちの議論を見聞して「どっちが正しいか」「どっちが勝つのか」とジャッジしたがるオーディエンスに対して目が向いていると言えるだろう。そして、SNSなどでバズって"論客"と見なされやすく、人からの歓心を得てフォロワーを集めやすいのは後者の方である。…なかには、単に論破しようとするのではなく、「自分は誰が相手でも公平に議論します」とか「自分は誰が言うことにも素直に向き合って誠実に返答します」とかいうようなアピールをすることで自分のイメージアップに腐心するタイプの論客もいるように思われる。しかし、第三者からの自分への評判を向上させたり"論客"としてのキャラ付けを行って自分の商品価値を上げようとするという目的のために、目の前にいる議論の相手を手段として扱っているという点では、同じ穴の狢だ。

 話がずれてしまうが、自分を何らかの個性や特定の主張を持った"論客"と売り出そうとする行為は、結果的にはその人の主張を陳腐なものにしたりその人の知性を劣化することになりがちであるように思える。基本的に、物事を考え続けている人であれば自分の主張というものは時を経るにつれて大なり小なり変わるものである。多くの話題に対しては曖昧な意見を持ったり、「大体はこっち側に同意するが、この点ではあっち側の言うことにも一理ある」となったり、思うところがあっても背景の諸々の事情に想いを馳せて口をつぐんだりなど…そういう"ニュアンス"みたいなものの必要性を、物事を考え続ける人であれば理解するようになるはずだ。しかし、"論客"であろうとするならば、特定のテーマであったり特定のキーワードが入っていたりする話題に対して十年一日に同じことを言うのが求められてしまう。「この人はこの話題に対してはこういうことを言ってくれるはずだ」という観客やファンからの期待に常に応えるのが"論客"に求められる仕事であり、物事を考えて意見を翻したり個別の事情の複雑さを考慮して微温的なことを言ったりするようであれば、商品価値が下がってしまいファンから見向きがされなくなってしまう恐れがあるからだ。

 ところで、上述のことはもちろんTwitterやnoteで"活躍"しているようなインフルエンサーたちのことを想像しながら書いてはいるのだが、より身近なところでも「オーディエンスに自分の能力を誇示するがために議論を行う」なり「自分のキャラ付けをしたり商品価値をアピールするために同じ主張を繰り返す」なりの行為は溢れているように思える。たとえば、私が学生の頃に所属していたサークルなんかでもそういうタイプの行為をする人はいたし、そしてそういう行為をする人は多かれ少なかれ目論見が成功して周囲から尊敬されたりモテていたりした。私が所属していたサークルは文芸部であり、文芸作品ではこのようなタイプの人間は大概は俗物か悪人として書かれているはずなのだが、当人たちはその辺りのことは一向に意に介していなかったようだ*1。そもそも彼らのような人間は文芸作品自体を「議論」を行ったりトリビアをひけらかしたりして自分のキャラ付けを補強させるための道具くらいにしか見なしていなかったのであろう。

 

 さて、実を言うと、私は「議論に参加している双方がお互いのことを対等に見なす」タイプの議論であっても不毛になることが多いと思っている。大概の場合、実際には議論に参加している人たちは対等ではなく、議論の争点となっている事柄やテーマに関する知識や経験に明確な差があることが多いからだ。特に知識に関しては、自分の方が知識がある場合には自分より知識のない人と論じていてもこちらに得られるものはないし、自分に知識がなければ相手からわざわざ説明してもらう間でもなく自分で関連する本を読んだり情報を調べたりした方が効率的だからだ。だからまあどちらにせよ結局は議論なんて大概の場合は不毛であるし、自分でコツコツと勉強して物事を考えてたまに意見を発表して、気にいらない反応は無視して有意義な反応だけを取り入れるというのが一番であるように思える。

 

 

ソフィストとは誰か? (ちくま学芸文庫)
 

 

*1:たとえば村上春樹はどの作品でも悪役をこういうタイプの人間に設定しており、その最たる例が『ねじまき鳥クロニクル』の「綿谷ノボル」である。

「"女性の上昇婚志向"論」についての雑感

 

 このブログではこれまでにも何度かジェンダー論について話題にしてきたし、ジェンダーや恋愛に関して論じた本についての読書メモなども残している*1。また、ブログには取り上げなくても、進化生物学や社会科学などの観点から男女論や恋愛論や結婚制度などについて論じた本の数々には目を通している。

 このブログの影響力は大したものではないし、何冊の本やネットの論調などに目を通した上で書いた雑感程度のものでしかなく、論調も我ながら曖昧なことが多い。だが、たとえばnoteで「女性の上昇婚」について書かれたいくつかの記事を見てみると、より多くのデータなどを集めたり分析したりしたうえで強めで一貫した主張を展開しているものがいくつか書かれており、多くのブクマが付けられるなど注目を浴びている*2

 

note.mu

note.mu

 

 上述の記事にせよ諸々の本にせよ、進化的なり経済的なり社会的なりの何かしらの要因で、女性は自分よりも社会的地位が高く経済的に豊かな男性に惹かれやすい…裏を返せば、社会的地位が低く経済的に貧しい男性は女性から相手にされないことが多い、というようなことが論じられている。 

 そして、このような主張には進化論や経済学などによる理論的裏付けもされているし、さらに言えば日常において触れ合う人々の行動を観察した結果にもおおむね一致することが多いようにも思える。職場の同僚にせよ居酒屋などで知り合う人にせよ、「金持ちの旦那が欲しい」または「いまの夫は経済力や貯金があるから結婚した」とはっきり口に出す女性はしばしば存在する。そこまで露骨ではなくても、男性との交際の仕方やアプローチの仕方を見聞してみると、"上昇婚志向"的な行動指針に基づいているであろうと思わざるを得ない女性も数多くいる。

 だが、もちろん、そうでない女性も数多くいる。そして、"女性の上昇婚志向"についての進化生物学的なり社会科学的なりな議論においても、まともな議論であれば「"すべての"女性が上昇婚志向を持っている」という断言はしていない。あくまで、「女性には一般的には上昇婚志向が備わっている」とか「上昇婚志向を持つ女性の方がそうでない女性に比べてマジョリティである」という程度の主張に抑えているはずだ。

 

 人間を性別なり人種なりのカテゴリに分けたうえで、あるカテゴリに属する人たちの行動などに関する一般的な傾向について生物学的なり社会科学的なりについて説明を行う議論については、「既存のステレオタイプを後付けの理屈で補完しようとする議論だ」とか「ステレオタイプを肯定して差別にもつながるリスクをはらんだ議論だ」などと批判されることが多い。

 しかし、そのような批判に対しては、自然的誤謬などの概念を持ち出して「"あるカテゴリの人々にはこのような傾向が存在する"という事実についての議論は、そのカテゴリに属する人々に関してどうする"べき"かという規範についての議論とは別個に考えるべきだ」という風に反論することができる。また、より雑に、「ポリティカルコレクトネスによって学問的知見を抑圧するべきではない」という風な反論を行うこともできるだろう。

 私としても、ことが学問的な議論というレベルの話であれば、進化生物学的なり社会科学的なりの理論を使って現実の人々の行動の傾向を分析することはどんどん行われるべきだと思う。現実に存在する問題への対策を立てて社会をより良くするためには、正確な学問的知見というのはいくらあっても困らないものだからだ。また、世の中をより良くする役には立たないとしてもより多くの学問的知見なり分析結果なりについて読んでみたい、という単純な知的好奇心に基づいた理由もある。

 

 しかし、ことが個人的な生活や人間関係というレベルの話になると、あまり無節操に進化生物学的なり社会科学的なりなジェンダー論や恋愛論などを摂取することにも弊害はある…と、最近はそう思うようになってきた。

「あるカテゴリに含まれる人々の行動の"一般的な"傾向について分析することは、そのカテゴリに含まれる人々の全員がそうであると決めつけることではない」というのは、議論のレベルにおいては、その通りだ。

 だが、実生活における人間の心理のレベルでは、そのような知識を持っていること自体が「この人はこのカテゴリに含まれるから、こういう傾向を持っているんだろうな」という風な"決めつけ"に転じてしまうことが多々あるものだ。…というか、少なくとも私自身については、最近の実生活において度々そういう決めつけをしてしまっていたなと自覚して反省する場面が多々あった。

 一般論として、自分が実生活で実際に関わる相手について"決めつけ" を行なってしまうことは、その人自身のことをちゃんと理解したりその人と純粋な人間関係を育むことの障害になるので、有害なことである。 

 また、恋愛という面から見ても、自分自身が弱者男性である人が「女性は上昇婚志向を持っているものだ」という信念を持ってしまうことは非適応的である。つまり、本来なら上昇婚志向というのはあくまで一般的な傾向であり目の前の相手がそのような志向を持っているかどうかはわからないのに、「きっとこの女性も社会的地位が高く経済的に豊かな男性に惹かれるんだろう」と勘ぐったり決めつけたりしてしまい、そのせいで自分に自信がなくなったり相手とのコミュニケーションの意欲が削がれてしまい、存在していたはずの恋愛の可能性を逃してしまうリスクがある、ということだ。「"女性の上昇婚志向"論」を内面化してしまうと、いわゆる「予言の自己成就」的な事態になってしまいかねない、ということである*3。…そして、そもそも人間は心理や思考のバイアスの問題のために「一般的な傾向」と「個別の事象」を切り分けて考えることが苦手なものであり、だからこそステレオタイプというものは危険視される訳なのだ。

 そして、こういう傾向が悪化するとミソジニーなりインセルなりにもなってしまうリスクもあるだろうし、それが直接的にせよ間接的にせよ現実の女性に対する加害をもたらしてしまう可能性もあるだろう。となると、「"女性の上昇婚志向"論」や、進化生物学的なり経済学的なりなジェンダー論一般を危険視する議論にも一理があるな、と遅まきながらに気付いたという次第である。…だからといってそのような学問的議論が行われるべきではない、という主張にはやはり賛同できないのだが。難しいものである。

 

 

結婚の条件 (朝日文庫 お 26-3)

結婚の条件 (朝日文庫 お 26-3)

 

 

*1:たとえば、最近では以下のような記事を書いている。

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*2:注目を浴びているとは言っても、肯定的な反応がされているとは限らないが

*3:逆に言えば、自分の社会的地位が高く経済力も豊かな男性であれば、"女性の上昇婚志向"論」を内面化したほうがパートナーをゲットするという観点だけから見ればより有利な立ち振る舞いが行える、ということになるかもしれない。ただし、その場合は「相手は自分本人ではなく自分の社会的地位や経済力に惹かれたんだ」という信念も強くなってしまうので、人間関係や本人の幸福という観点からすればけっきょく良くないかもしれないが

読書メモ:『幸福と人生の意味の哲学』(2)

 

幸福と人生の意味の哲学

幸福と人生の意味の哲学

 

 

 この本では「幸福であることの欺瞞性」や「私たちがひとを苦しめながら生きているという事実」が重視されている。

 

例えば、私たちが美味しいものを食べて(日常的な意味で)「幸福だなあ」と言えるのも、その食材を作るために牛馬のようにこき使われたひとの苦しみを想像したりはしないからです。そして、仮に自分に関わる因果の網目の全体へ注意を向けることができたならば、そうした瞬間に幸福感を抱けるひとなどいないはずです。

(p.58)

 

 著者がこういう考え方をしているので、この本では基本的に日常的に定期的に味わうタイプの幸福感というものは軽視されることになる。その代わりに重要視されるのが、人生における特殊な瞬間やふとした瞬間にごく稀に訪れたり、人生全体について長期的な視野から振り返って考えることで得られるような"超越的 "なタイプの幸福感だ。

 この超越的な幸福を語るうえで、著者は「信仰」や「語りえぬもの」という単語を用いながら、直接的に説明することはなく(語りえぬものなのでそもそも理論的にスラスラと説明できるものではない、ということだ)さまざまな文学作品や随筆文から引用しながら間接的に示そうとする。

 その中で、スティーブ・ジョブズが2005年にスタンフォード大学で行なった有名なスピーチや、それについて言及している哲学者の田島正樹の文章を引用しながら、「点を結びつけること(connecting the dots)」について論じられている箇所がある。

 

ジョブズは《人生において何と何が結びついてくるかは、前もっては分からない》と指摘しています。とはいえそれだけではありません。彼は続けて《大事なのは何かを信じることだ》と述べ、明確に語りえない何かへの「信仰」が人生において本質的な役割を担うことを強調します。たとえ周囲から「もっと手堅い道を進みなさい」や「お前のやっていることは意味不明だ」などと言われたとしても、神秘的な何かの声を信じて自らがそのつど本当にやるべきだと思うことに専念することーーこうした「信仰」と呼びうる姿勢に導かれた結果として、離ればなれだった点はあるとき線になり、意味のある何かが生まれることになるのです。

(p.228)

 

田島の言いたいことのひとつは次です。すなわち、神秘的な何かへの信仰に導かれ、ひとつずつ点を打っていく地道な日々を積み重ねていくならば、たとえジョブズのような成功に至らなくても、何かしらの「意味」が形作られる、と。このように考えたうえで彼はジョブズの言葉から引き出しうる真に重要なことを《結果の如何によらず、超越的な声を信じてそれに身を捧げることはそれ自体として裏切りのない価値を持つものなのだ》と捉える。

(p.229)

 

私たちが信じうることは、神秘的な「超越」の声を信じてそれに身を捧げて生きることが、あらかじめ予期しえないような意味を作り出す、という事柄です。逆に、自分を「超えた」何かへの信仰がまったく欠けている場合には、分かりやすい享楽に没頭して振り返れば「虚しさ」しか残らないということがある。たしかに理屈のうえでは、「超越」を信じても結局は何にもならなかった、ということは起こりえます。とはいえ、《信仰の果てには何かがあるのだ》と信じることーーこのことも信仰の一部なのです。

(p.230)

 

 私がこの辺りの文章を読んでいて思ったのは、著者が言わんとするタイプの「幸福」を表現するうえで、にわざわざ「信仰」や「超越」などの大層な言葉を使う必要はないのではないか、ということだ。

 例えば、ジョブズの言っていることを「短期的な目先の成果を追い求めるのではなく、長期的に意義がありそうだと自分が感じられることについて、周りの評価や世間の意見に左右されることなく、全力で打ち込むべきだ」という風に要約できることも可能だろう。そして、短期的な目先の成果に振り回されるのではなく長期的に意義のある目標を重要視することや、周囲の評価に左右されずに自分がやるべきことや自分にとって向いている物事に目を向けること、物事に取り組むときには全力で取り組むこと…それらの各要素が幸福につながるということは、古来からの幸福に関する人生訓でも現代的なポジティブ心理学でも、散々に指摘されていることなのである。

「意義のある目標に向かって適切な努力をすることは、その努力が身を結ぶかどうかという結果に関わらず、幸福を与えてくれる」ということは、正直に言って幸福を語るうえではかなり基礎的な事柄なように思える。また、短期的な快楽を求めることよりも長期的な事柄について継続的に打ち込むことの方が結果的により持続的な幸福を得られる、という事実については心理学なり進化生物学なりでその仕組みを客観的に説明しようとする文章も多々あるはずだ…要するに、著者が重視している「超越的っぽい」幸福感は、著者が軽視している卑俗な幸福感と同じように、語りえる対象であるはずなのだ。

 となると、卑俗な幸福感を軽視して超越的っぽい幸福感ばかりを重視する根拠もなくなるような気がする。ついでに言うと、私としては、「私たちがひとを苦しめながら生きているという事実」を考えると卑俗な幸福感は抱けなくなる、という前提にまず賛同できない。食事をするときにその背景にある労働者や動物への搾取を想像したとしても、真面目な人であればメシが不味くなるかもしれないが、「それはそれ、これはこれ」として気にせずに食べて幸福感を抱ける人はやはりいるだろう(私としても、どちらかといえば後者のタイプだ)*1

 この本では森村進伊勢田哲治などが行っている分析哲学的な議論が批判の対象とされるし、科学的な知見はほとんど参照されずに無視されている。代わりに提示されるのが宗教的だったり実存主義的だったりする議論であり、幸福を表現した文学や芸術だ。そして、前者には軽薄であり表面的な物事に左右される的外れなものとして示されるし、後者は深遠であり幸福や人生の本質を捉えるものとして示されている。…しかし、このような二項対立的な論じ方では、卑俗的な幸福感と超越的っぽい幸福感との間にある連続性とか共通性とかが捉えられなくなってしまうし、後者を過剰に高尚なものとして祭り上げてしまうことにもなるので、やはり不適切なように思える。

 

 批判ばっかりなのもよくないのでこの本の良かった点を取り上げると、第七節や第八節で取り上げられる、アイロニーと人生の意味に関する議論は良かった。著者は、トマス・ネーゲルの議論を示しながら、「アイロニカルな生き方」とは"自分の譲れない価値観に対していくらかの距離を保って生きる、といういささか「複雑な」あり方"(p.133)である、と説明する。

 アイロニカルな生き方といっても、虚無的な生き方やに冷笑的な生き方のことではない。例えば、戸田山和久は「アイロニカルなニヤニヤ笑い」という言葉を用いているのだが、著者は戸田山の説明の仕方をアイロニーについて歪んだ理解を形成するものとして批判する。虚無主義や冷笑に逃げ込むのではなく、自分自身の価値観をしっかり持ちながらもそれを相対化する視線も忘れずに、物事について都度に適切な向き合い方や正しい判断をすることを目指す、という感じである。

 また、「結び」の部分にて著者は青山拓央の『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』を取り上げている。この本は私も読んで感想を書いているが、著者は青山の主張のポイントを"快楽・欲求充足・人生の客観的な良さは人間的生においてしばしば偶然的でない仕方で同時実現するので共通の名をもつ"(p.258)と要約している。そして、青山による幸福の「共振」説は幸福のハイブリッド説とは別物であると指摘しながら、"幸福な生に典型的な<豊かさ>を指摘"(p.259)すると論じている。…幸福の共振説については、私が 『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』を読んでいた時には特にどうと思うこともなくスルーしてしまっていたので、その面白さをこの本で示してもらえたのは良かった。

 

 

*1:この本にせよ三谷尚澄の『若者のための<死>の倫理学』にせよ、導入部分で「桐生市小学生いじめ自殺事件」という悲惨な事件を取り上げることで、「この本では小手先の浅薄な議論を行うのではなく本質的で深遠な議論を行う」という宣言をしている。いじめで自殺した少女がいるという残酷な事実に向き合えるほどの耐度を持った議論を構築していく、という抱負の宣言であり、志としては立派である。だが、そのような「気負い」をしてしまうことで、世俗的に幸福や人生の意味を語る議論に対して傲慢な態度を取ってしまったり、また深遠で意味のある主張をしようとするあまり主張が空回りしてしまったりなど、本の全体に悪影響や歪みがが生じてしまっているようにも思える。

反出生主義についての雑感

 

Better Never to Have Been: The Harm Of Coming Into Existence

Better Never to Have Been: The Harm Of Coming Into Existence

 

 

 

 
 先日にペット動物と反出生主義についての論文を読んで内容を要約したメモを書いたところだが、せっかくの機会なので、反出生主義について自分が思うところをつらつらと書いてみよう。
 
 
 反出生主義といえば基本的には人間に対して当てはめられるものだ。「不幸な人生を歩ませることになる人間を生み出すべきではない」や、「人間の人生には何らかの苦痛や悲しみが必ず含まれる以上、人間を生み出すことは危害である」など。…しかし、人間を対象にした反出生主義には、それが現実的な行動の選択や社会政策や公共的な議論などに結び付くことはほとんどない、という虚しさがある。
 
 個人単位で見れば、人間に対する反出生主義を実践することは「子どもをつくらない」ということにしかならない。そして、たとえば誰かが「自分は反出生主義者だから子どもをつくる気はない」と言明していても、それを真に受けられない場合は多い。
 私がネット上や実生活で目にしてきたなかでは、反出生主義を唱えている人は、年端も行かない学生や若者が大半なようだ。彼らの多くは、社会的な立場や金銭面の理由から、そもそもつくりたくても子どもをつくれない立場である(または、つくろうと思えば子供はつくれるだろうが、延期した方が一般的な観点からして合理的な立場である、など)。彼らの言い方をよく聞いてみると、「つくれない」という受動的な立場を自分の主導的な選択であるかのように「つくらない」と言い換えていたり、あるいは本気で「つくる/つくらない」を検討する立場にはないから気軽に「つくらない」と主張したりする、という場合が多いように思われる。
 そして、本人は本気で「つくらない」と主張していたとしても、時間が経過して自分が裕福で余裕のある立場になったり結婚相手や家族や世間の意見に流されたり、あるいは子供をつくっている同世代の友人が幸せそうに見えたり孤独感や将来の不安を解消するためだったりの理由で、あっさりと子供をつくることも多いだろう。…世間ではブームになりつつある反出生主義だが、どれだけの人がこの主張を積極的かつ主体的に選んで唱えているのか、そしてその主張を継続させられるか疑わしいものだ、と私は思っている。
 
 また、反出生主義を社会的な政策や公共的な議論において取り上げることも難しい。同じ生命倫理の問題であっても、たとえば安楽死や堕胎などの問題であれば、「それを認めるか/認めないか」「認めるとして、どこまで認めるか」ということは公共的な議論の対象となり、その議論の結果は法律や条例などにも反映されている。
 安楽死や堕胎を現状では認めていない国であっても、大半の国では、それらの問題が政治的に真剣に取り扱う議題であると認められてはいるだろう。
 たとえば日本では堕胎はアメリカの一部の州などに比べれば容認されている一方で、安楽死はオランダやスイスなどの国に比べれば制限が厳しい状態だ。だが、日本の堕胎制限がアメリカのように厳しくなる状況も、オランダのように日本でも安楽死が積極的に認められる状況も、それらの現実的可能性はともかく、その状況が存在することについては想像がつきやすい。
 一方で、人間に対する反出生主義が国会や地方議会などで取り上げられて、何らかの形で法律や条例に組み込まれるという状況は、ちょっと想像できない。反出生主義を社会的に実現するなら「誰もが子どもをつくることを禁じる」ということになるだろうが、世代を再生産して社会を継続していなかければならないという現実的な理由から、そのような主張が法律や条例に反映されることはまずないだろう。そして、まともな国や社会において、「人が子どもを作ることはそれ自体が罪であるかもしれない」「人が子どもを作ることを規制するべきか」という議題が議会などで取り上げられる状況を想像することは、かなり困難である*1
 
 さて、動物に対する反出生主義を考えてみると、人間に対する反出生主義とは事情が一変する。
 人間に対する反出生主義はほとんど現実味のない思考遊びの側面が強い一方で、動物に対する向き合い方において反出生主義は現実味のある選択として真剣に考慮されており、ある意味では既に実行もされ
ているからだ。 
 
 現に実行されている動物に対する反出生主義とは、たとえば犬や猫などのペット動物の去勢や避妊、あるいは地域猫のTNR(trap, neuter, return)である。これらの慣習が実行される理由としては「飼い犬や飼い猫の性感染症を予防するため」や「地域住民へ迷惑をかけないため」「公衆衛生のため」という要素もあるだろうが、「人間の住宅内で飼いきれずに野良となる犬や猫は、苦痛に満ちており幸福の少ない生涯を送る可能性が高いから、そのような存在が生まれてくることを予防する」という理由が、かなり大きな部分を占めている。
 そして、ペット動物や野良猫の去勢や避妊は、飼い主や地域住民などの個人の判断によって行われるだけでなく、地域自治体や国などによっても奨励されている。これらの慣習を「自然ではない」「動物から生殖の悦びを奪っている」「人間の傲慢だ」と言って非難する人も多いが、現代ではむしろ非難する人の方が少数派になりつつある。…賛否のどちら側に立つとしても、ペット動物に対する反出生主義が真剣に議論されている公共性のある話題であることは否めないだろう。 
 
 畜産制度や動物実験制度などの撤廃を目指すアニマルライツ運動においても、反出生主義的な含意がある。「畜産動物/実験動物は多大な苦痛を受ける一生を過ごす」ことを問題視する功利主義的な理路にせよ、「動物を人間の目的のために利用する」ことそのものを問題視する権利論的な理路にせよ、それらの主張には「動物を搾取する制度は撤廃されるべきであり、その制度の撤廃によって将来は畜産動物や実験動物が生まれてこなくなるとしても、それ自体は問題でない」という前提や「畜産動物や実験動物が存在しない世界は、そうでない世界より望ましい」という含意があるからだ。
 …ペット動物の去勢や避妊に比べれば、畜産や動物実験制度の撤廃はまだまだ途上であり、反対意見もずっと多い。しかし、少なくとも動物実験に関しては撤廃とまではいかなくてもその規模は制限される方向に進んでいるし、畜産制度の規制も(犠牲となる動物に対する考慮ではなく、環境問題への危惧という理由も大きいだろうが)以前に比べればずっと真剣に議論されるようになった。先進国では国会でもこれらの話題を取り上げるようになっており、これらの話題は十分な公共性を獲得していると言えるだろう。 

 私自身としても、人間に対する反出生主義に比べて動物に対する反出生主義の方がより真剣でアクチュアルなものだと思っている。
 いくら現代の日本が不況であり様々な点で生きづらい社会であると言っても、「自分の生は地獄のような状況だからもう死にたい」とか「こんな人生なら生まれてこない方がマシだった」と思っている人たちが感じている苦痛の大半は精神的というか実存的な面が強く、客観的に「たしかに生まれてこない方がマシだったね」と多くの人が同意できるような種類の苦痛ではないように思える。また、大半の場合はそのような主張は一時的に悪い状況に落ち込んでいる人や精神が不安定な状態になっている人が発しているものであるように思われるし、時間が経てば本人も意見を改める場合が多いだろう。
 …一方で、大半の畜産動物や実験動物は、まさに地獄そのものの一生を過ごす。彼らの生の実情を知ったほとんどの人は「このような一生を過ごすなら、生まれてこない方がマシである」と思うはずだ(野良猫や野犬の一生に関しては個体差も多いし、人によって意見が分かれるものと思われる)。

 たとえばデビッド・ベネターによる反出生主義の理論は「誰かを生み出すことによって何かしらの苦痛が存在する生を過ごさせることは、その一生に含まれる幸福や苦痛の量に関わらず、危害行為である」という主張だったはずだ。だから、「量」に注目した上述の議論は、ベネターの反出生主義とはあまり話が嚙み合っていないかもしれない。 
 だが、ネットや日常の場におけるよりカジュアルな反出生主義の議論では、苦痛の量という要素は陰に陽に顔を出してくるものであるように思われる(そもそも、反出生主義の議論をするときに哲学的な理論正当性に興味のある人がどれだけいるか、という話でもある)。

*1:中国における一人っ子政策などの実例はあるし、差別的な国家において特定民族を根絶するために強制的に避妊や去勢をさせる法律が採択される状況も想像はできるが、それらは経済的理由なり差別的理由が先立っているのであって、反出生主義とは別物だ

読書メモ:『幸福と人生の意味の哲学』(1)

 

幸福と人生の意味の哲学

幸福と人生の意味の哲学

 

 

 先日に『若者のための<死>の倫理学』についての記事を書いた時には同著を(否定的な意味も込めて)「"文学的"な哲学」と読んだが、この本に関してもかなり"文学的"な匂いがするタイプの哲学本である。というか、この本の冒頭からして、『若者のための<死>の倫理学』が好意的に取り上げられており、同著で提示された問い(「不幸なのに、どうしようもなく苦しいのに、死んだ方が楽であるのに、なぜ生きていかねばならないのか」)がこの本でも引き受けられている*1。そして、この本の著者のスタンスはさらに過激だ。

 

思うに、本節で紹介したメッツと伊勢田と戸田山は一般に<矛盾>よりも<整合性>を重視し、人生の意味に関しても整合的な言説および態度を彫琢しようとしています。だが私は、生の有意味性に関してはそうした<整合性>の追求はかえって道を誤らせるものだ、と考えています。実際-本節で見てきたように-人生の意味は、直接語ろうとすればかえって語り損なってしまうものであり、むしろ語らないことによって語られる(あるいは示されうるもの)でしょう。私は、メッツや伊勢田や戸田山の本書で引用したような文章を読むと、かえって人生の意味の適切な理解から遠ざかってしまうように感じるのです。

一般的な点についてひとこと述べさせてください。メッツや伊勢田や戸田山の哲学実践に欠けているものは、言ってみれば、「弁証法」の精神です。彼らは哲学を単純に「学問」と考えている、と私には考えられます。これに対して私は哲学が「学問」でありながら「学問」でないと考えている。なぜなら哲学とは、その重要な意味において、<生という普遍的な場と学という特殊的態度が交錯するところで成立するもの>だと言えるからです。この点を掴むならば、特殊の学問的理論を提示することで持って「哲学をしている」と見なすことはできず、むしろ哲学においては《自分の理論構築、自分の語り、自分の行為、そして自分の生き方が、全体としてどうなっているのか》を「配慮」あるいは「世話」せねばならないと気づかれるでしょう。何をどう語るかも重要なのですが、何をどう語るかに止まらず《全体的にどう生きるか》こそが問題だ、ということです。

(p.177-178)

 

 本書の全体で貫かれているのは、「幸福」や「人生の意味」について、説明の整合性にばかり気を取られがちな理論の枠内に収めこんで解説したり、誰にでも理解できて実践できるていの人生指南のようなものに押し込めて語ることに対する批判だ。そして、幸福や人生の意味とは超越的であり「語りえぬもの」だとしながら、文学作品や文人の随筆文を引用したり著者自身の体験や信念などについて記述したりすることで幸福というものの様々な表れ方を例示することで、間接的に「幸福」や「人生の意味」の本質をつかもうとする…という、そんな書かれ方がしている。

 たしかに、著者が引用している随筆の文章やエピソードなどは胸にグッとくるものが多く、それと比較すると、欲求充足説だとか客観的リスト説だとかの英語圏倫理学理論はいかにも淡白で虚しいものだと思えてくるし、ストア派の主張も自己啓発紛いな気休めのテクニックに過ぎないように感じられるのはたしかだ。

 …が、このブログで何度も何度も繰り返し書いているが、私は文学が嫌いである。文学作品や文人たちの名文にこそ世の真実が反映されるというタイプの考えは、私は否定していることにしている。むしろ、文学に描かれているのは特定の種類の"真実らしさ"でしかない。文学や随筆の題材として映えるテーマや状況や事柄などが選択的に選ばれて、主観のレンズによって特定の要素が拡大して取り上げられて特定の要素がオミットされているものだと考えているのだ。

 文学的なタイプの哲学は悲観的かつ極論にはしりがちであり、この本もその傾向から外れていない。基本的には日々の人生に意味を感じることは難しく、日常が平穏であることや毎日の平均的な楽しさのような卑俗な幸福はあまり重視されていない一方で、人生の特別な瞬間に訪れる感動だとか何らかの人生のドラマティック性みたいなものが強調されている節がある*2。もちろん理論的考察や哲学的分析が放棄されている訳ではなく、それらもちゃんと行われているのだが、やはり本の全体的な趣旨や構成には強い違和感を抱いた。

 とはいえ、本の細部を見ると、考えさせられるところや面白いところも多々あった。それらの部分については後日の記事で紹介しよう。

*1:私が個人的に面白く感じたのは、この本の冒頭では私が苦手に感じた『若者のための<死>の倫理学』が取り上げられる一方で、この本の結末部分では私も好意的に読めた『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』が取り上げられることだ。また、私が面白く読めた森村進の方の『幸福とは何か』が第10説にてボロクソに叩かれている一方で、私にはひどくつまらない本だと思えた長谷川宏の方の『幸福とは何か』が好意的に取り上げられていたりする。

*2:『生きていくための短歌』に収録されている夜間高校生の短歌やその背景にあるエピソードを取り上げるくだりは、「感動ポルノ」のおもむきすら感じられた