道徳的動物日記

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『功利主義とは何か』

 

功利主義とは何か

功利主義とは何か

 

 

 おそらく現代の世界に現存する哲学者としていちばん有名で影響力のあるピーター・シンガーと、ポーランド出身のカタジナ・デ・ラザリ=ラデクの共著。原著はオックスフォード大学出版局のVery Short Introductions シリーズの一冊として刊行された。

 

Utilitarianism: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

Utilitarianism: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

 

 

 この二人には、倫理学者のヘンリー・シジウィックの思想を解説しながら現代における功利主義を主張する『The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics(宇宙の視点:シジウィックと現代倫理学)』という著作もある。この本については3年前の正月にこのブログで章ごとに内容を要約する記事を書いていた(力尽きてしまい、途中の章で止まってしまったが…)。

 

davitrice.hatenadiary.jp

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 同じ二人が書いている本だけあって、『功利主義とは何か』で書かれている内容は『宇宙の視点』で論じられていることと共通している点が多い。『宇宙の視点』でシジウィックを引用したりしながら詳細に解説されていた内容が、よりスマートで洗練した形で書かれている感じだ。

 ただし、Very Short Introductions(一冊でわかる)シリーズとはいえ書かれている内容はやや高度であり、倫理学における権利論と功利主義の対立関係や功利主義に関する一般的なイメージなどを知っていないと、理解するのが難しいところはあるかもしれない。

 以下では、気に入った部分のメモを箇条書きする。

 

・「功利主義はあまりに多くを要求しすぎだろうか?」という節においては、そもそも功利主義では「正しい人間」や「悪い人間」という観点で人を判断することはなく、あくまでその人の行為がもたらす善の多さに注目する、という点が強調される。そして、誰かを賞賛したり非難したりするという行為自体の正しさも、功利主義的な精査の対象となるのである。

功利主義は賞賛と非難について異なったアプローチを取る。功利主義的アプローチの鍵になるのは、「われわれは何をすべきか?」と「われわれは人々が何をしたら賞賛し、あるいは非難すべきなのか?」は別の問題だという点だ。誰かを賞賛する、あるいは非難するということは一つの行為であり、その帰結に基づいた評価を受けねばならない。

(p.95)

 

 実際、功利主義的な考え方を多少なりとも内面化すると、誰かの人格や人間性自体を道徳的に非難する、という発想が薄れていく感じはある*1。「罪を悪んで人を悪まず」ということだ。現代的な犯罪予防政策やモラルハザード対策というものも、基本的には罪を犯した個人よりもその罪が起きるような環境や制度に焦点を当てて改善していくものになっているだろう。功利主義が現代に適した倫理学理論である所以のひとつと言えるかもしれない。

 また、アラステア・ノークロスによる「スカラー功利主義」論についての解説も印象的だった。

 

それは、行為は「それが幸福を推進する程度に応じて正しく、幸福の反対をもたらす程度に応じて不正である」というジョン・スチュアート・ミル功利主義の定義の用語法によって示唆されたものだ。しかし、比較的最近まで、この定義によれば行為は「より多く正 more right」だったり「より少なく正 less right」だったりするということが可能だ、という示唆に誰もほとんど注目してこなかった。

…おそらくわれわれは、正と不正という観念や、義務を果たすか果たさないかといった観念を捨てるべきなのだろう。その代わりに、われわれの与える量が増えれば増えるほどわれわれの行為はよりよくなる、と言うべきではないか?

(p.95-96)

 

 マイケル・シャーマーも著作『道徳の弧』のなかで、「定性的」な道徳判断から「定量的」な道徳判断への移行を唱えていた。人間の心理の性質として、(特に道徳に関するような)物事を判断するときには「1か0か」という定性的な判断してしまいがちなのであるが、複雑化する現代社会における道徳判断はもっと微妙で、中間的なものを考慮できる定量的な判断が必要とされるのである。

 

功利主義への反論としてありがちな「経験機械」論について再反論している箇所から引用。

 

完璧な偽造以上のものをわれわれが欲するのは、疑いもなく、われわれの進化の産物であり、われわれが理性的に擁護できる選好ではない。

…われわれが経験機械に入りたがらないのは、われわれの多くの他の決定と同じように、「現状バイアス」の結果のようだ。われわれは自分が慣れているものを好む。変化するのは余分の努力であり、しかも危険だ。だからわれわれが自分の知っている世界を離れて機械に繋がれることを望まないのには何の不思議もないーー特にわれわれはその機会がうまく機能するかどうかさえ確信が持てないのだから。

(p.72-73)

 

 このほかにも、様々な架空の事例や思考実験を持ち出して、それらに功利主義の理論で応えようとすると「直観に反する」結果となってしまう、という批判は定番である。それに対して、著者たちは「直観」自体の不確かさや恣意性を指摘することで反論するのだ。

 ジョシュア・グリーンポール・ブルームスティーブン・ピンカーなど、心理学や進化論の知見を参照しながら直観や道徳感情の問題性を指摘して、それらの感情に左右されない結論を導き出せる功利主義の優位性や、複雑な現代社会における功利主義の必要性を説く論者はほかにも数多くいる。

 倫理学の入門書などでは未だに思考実験からの功利主義批判が定番となっている感があるが、そろそろアップデートされてもよいだろう。

 

・「感覚ある存在者を超えた価値」の節(p.67~)や「人口のパズル」(p.138~)の節は、いま流行りの反出生主義とも関係してくるところだ。

 

・最後の一文は印象的。

 

ますます多くの科学者が幸福の測定にたずさわり、幸福をもたらすのは何かを理解しつつあるので、公共政策の基本的目標としての幸福という概念は支持を得ている。このことを知ったらベンサムも喜ぶだろう。

(p.143)

 

 ・第2章の「正当化」はある意味でいちばん複雑で専門的な箇所であるが、重要な箇所だ。功利主義への反論に対する再反論や功利主義の応用方法などについての解説よりも、功利主義の理論自体の正当化の方が解説が難しいのである。

 この章では功利主義創始者として有名なベンサムやミルのみならず、シジウィックやハーサニィやスマートなどの創始者以降の功利主義者たちを紹介しながら、正当化が洗練されていく過程が簡潔に紹介されている。

 

・各人は一人として数えられるべきで、誰も一人以上に数えられるべきではないというベンサムの考え方。ミルもこれを支持した。

・いかなる個人の福利も他の個人の福利と同等なものとみなすべしというシジウィックの要請。

・われわれが選択を行う集団のすべての成員の間で公平であることを強いる無知の立場をハーサニィが選択したこと。

・一般化された善行に関するスマートの感情。

・われわれの行為によって影響を受ける者すべての立場に自分を置いてみることを要求するヘアの道徳的言語の分析。

(p.36)

 

  上記で要約されているものの他にも、たとえばシジウィックによる「常識道徳」の分析も重要だ。

 

…常識道徳はわれわれに決して嘘をつくなとは言わない。しかし、例外に関する何らかの手引きを得られるようなかたちでその規則を洗練しようとした途端に、こうした規則の明確性や一見したところの自明性は崩壊する。「……以外の時には真実を語れ」は、そうした例外それ自体が明白で自明でなければ、自明の道徳的真理となりえない。

これはシジウィックによる常識道徳の広範な分析の一例にすぎない。その要点は、常識道徳の原則は、留保や例外をすべて伏したなら、自明ではなく、より深い説明を必要とするようになる、ということだ。その深い説明とは、それらはより大きな善に向けたわれわれの活動を案内する手段である、というものだ。

(p.27)

 

・第1章の「起源」では、古代ギリシアエピクロス派のみならず、墨子の思想にも功利主義的な要素があることが指摘されている。そして、「仏教の思想は功利主義的な傾向を持つ」ともされているのだ。

 

というのは、それは感覚を持つあらゆる存在への共感を滋養することによって、苦しみーー自分自身と他の人々の苦しみーーを現象させるよう信徒たちに説くからだ。

(p.2)

 

「感覚を持つあらゆる存在」とは、仏教用語でいう「有情」のことである。

 

blog.buddha-osie.com

 

 最近ではアルファツイッタラーが「有情」の概念を理解せずに仏教とヴィーガンを比較して後者を非難するツイートを行なっていた。しかしまあ、日本の仏教には「草木国土悉皆成仏」の思想も入っているために「有情」の概念が忘れがられちという面はあるのだろう。いずれせよ、仏教と功利主義の共通点という発想は普段は意識されないので面白い。

 

*1:ただし、規則功利主義や二層功利主義においては規範を破る人の人間性を非難することも必要なものとされるかもしれないが。

ペットの安楽死にまつわる倫理的問題(読書メモ:『ラストウォーク 愛犬オディー最後の一年』)

 

ラストウォーク ―愛犬オディー最後の一年

ラストウォーク ―愛犬オディー最後の一年

  • 作者:ジェシカ・ピアス
  • 出版社/メーカー: 新泉社
  • 発売日: 2019/02/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 著者のジェシカ・ピアスは倫理学者で、この本以外にもペット飼育に関する倫理の本や生命倫理の本、動物の道徳性について論じた本を出しているようだ*1

 この本は老いたペットの介護や苦痛、ホスピス安楽死から埋葬の仕方までについて論じた各章と、著者の飼い犬である「オディー」が死ぬまでの一年間の様子を綴った日記パートの文章とが交互に挟まれている構成である。

 オディーの犬種はヴィズラという大型犬であるが、「常に人の近くにいないと不安になる」という性質や豊富な運動が必要という犬種の特性は、老年になり認知症になると大変な事態を引き起こす。日記パートではオディーの様々な異常行動により家が糞尿まみれになったり近所迷惑になったりして心身ともに疲弊していく著者の様子が、老いにより生じるオディー自身の苦しみとともに、詳細に描写されている。もちろんオディーへの愛情や犬と人間との心温まる様子も描かれているのだが、読んでいると大型犬や犬を飼いたくないという気持ちが積もってしまう、というのが正直なところだ(私の実家ではこれまでに8匹の猫を飼っており、そのうち4匹は臨終まで看取ったが、猫というものは一般的に犬に比べて老年期でもさほど大変な事態にならないようだ)。

 

 倫理的問題に関して書かれた各章は、犬の飼い主であるという著者自身の経験や主観を記しつつも、ペットの老いや死にまつわる各種の倫理的問題についてバランスの取れた書かれ方がされている。ただし、著者がアメリカ人なので、前提となっている文化や慣習もアメリカのそれだ。例えば、アメリカでは日本よりもペットの安楽死が一般的なので、「すぐにペットを安楽死をさせてしまう」ことについての苦言などが呈されていることになる。日本の場合ではペットの安楽死に対する拒否反応はまだまだ強いので、例えば著者が日本の事情を知ったらむしろ「ペットの安楽死を拒みすぎること」についての苦言を呈するかもしれない。

 

 全体的に特に印象に残るのが「安楽死」と「自然な死」に関するジレンマだ。ペットを安楽死させるか自然死させるかの判断をペット自身が行うことはできないので、飼い主が判断を下さなければならない。しかし、どちらを選択するにせよ、「ペット自身が望んでいること」と「飼い主が望んでいること」との境界線が曖昧になりがちである。つまり、「このように苦痛に満ちた余生を過ごさせることはペットのためにならず、安楽死させる方が本人のためだ」と飼い主が考えているとしても、実際には「苦しそうなペットの様子を直視することを止めたい、老年のペットの介護に伴う様々な負担から解放されたい」という飼い主自身のエゴが影響しているかもしれない。とはいえ、ペットの苦痛を放置して自然死を選択することにも、ペットの死を自ら決断することから逃避するという要素が入っている。つまり、「ペット自身にとっては何が最善か」ということを判断しつつ「その判断には自分自身のエゴが混ざっていないか」ということも注意深く検討しなければならないのだ。…もちろん、何らかの理論によって客観的な結論が導き出せられるような問題ではないし、「こういう場合にはこうすればいい」という定石があるわけでもない。難しい問題ということだ。安楽死に代わるものとしてのペット用のホスピスが取り上げられているが、それだっていつでも最善の選択肢というわけではないのである(ホスピスにおいても苦痛が勝ることはあるから)。

 また、ぺットが何を望んでいるところかを正確に判断するのは本当のところは難しい、という問題についてもしっかり論じられている。「動物が苦痛を感じている証拠はない」ということを証拠にして動物の搾取を正当化する一部の科学界や哲学界や産業界の言説はきっちりと批判されているが、その一方で、「生の価値」や「尊厳」などの複雑な概念について動物自身がどのような認識をしているか、ということを考えるのはたしかに難しいのだ。

 安楽死の話題のみならず、ペットや動物全般の老いや介護、「ケア」について論じられているのも本書の特徴である。私は日本には親戚がおらず祖父母ともほとんど会ったことがないから、まわりに老人がおらず、介護や老いというものは飼っていた猫を通じてしか触れることがなかった(これから両親が年老いていって嫌でも介護やケアについて考えさせられることになるかもしれないが)。核家族化してから久しい現代日本では、私のような境遇の人も多少はいるだろう。人間ではなく動物を通じてはじめて「老い」や「介護」について考えるようになる、という現代的な事象についての議論も、これからはニーズが増えていくかもしれない。

*1:著書の一例:

 

Run, Spot, Run: The Ethics of Keeping Pets by Jessica Pierce(2016-05-06)

Run, Spot, Run: The Ethics of Keeping Pets by Jessica Pierce(2016-05-06)

  • 作者:Jessica Pierce
  • 出版社/メーカー: University of Chicago Press
  • 発売日: 1671
  • メディア: ハードカバー
 

 

 

Wild Justice: The Moral Lives of Animals by Marc Bekoff Jessica Pierce(2010-05-01)

Wild Justice: The Moral Lives of Animals by Marc Bekoff Jessica Pierce(2010-05-01)

 

 

Phychology Todayに投稿されている、ピアスによるコラム集

www.psychologytoday.com

「表現の自由」の滑りやすい坂道?

 2019年の日本のネット論壇では、例年のごとく「萌え絵」や二次元キャラクターの性的表現、およびそのような表現を公共の場で展示することの是非、などなどが話題になった。
 毎年のように繰り返されている論争であり、今年も大して議論の進展があったように思われない。とはいえ、いくつかは有意義な記事が公開されたりもした。たとえば、社会学者の小宮友根氏が現代ビジネスに公開した記事では、萌え絵を問題視する主張の理路について比較的わかりやすい文体で丁寧に説明されていたと思う。

 

gendai.ismedia.jp

 

 だが、萌え絵「擁護」側の人たちはこの記事の内容にも満足いかず、全否定している人が大半であるようだ。

 

 私としては、そもそも、心情的には萌え絵「批判」側にほぼ同意している。しかし、自分なりにこの問題について少しは考えたいと思って、先日にはミルの『自由論』を読んだし、今回は『「表現の自由」入門』を読んだ次第だ。

 

 

「表現の自由」入門

「表現の自由」入門

 

 

…しかし、読み終わってから気付いたのだが、どうやら「萌え絵」に関する論争はそもそも表現の自由」に関する問題ではないようなのである。

 以前の記事でも書いたように、ミルの『自由論』で論じられている内容は基本的には「思想の自由市場」の発想を前提とした「言論の自由」であり、芸術表現や性的表現の自由についてそのまま当てはめられるものではない。
『「表現の自由」入門』では、ポルノグラフィについて扱った章があった。だが、ここで問題視されていたのは公権力によるポルノグラフィの「検閲」である。
 一方で、日本のネット空間で行われている萌え絵に関する議論は、萌え絵で表現されている価値観に対する市民からの「批判」とそれに対する反論であり、それ以上に、公共の場における展示の是非というTPOに関する議論だ。すくなくとも、現時点では検閲までには至っていない。

 

 とはいえ、萌え絵「擁護」側としては、萌え絵への「批判」が公権力による検閲を招き寄せることや、批判を理由にして各団体や各施設が自主規制を行うことで公権力が介在せずとも実質的な検閲状態が生み出される、ということなどを危惧しているのだろう。
 この危惧は、『「表現の自由」入門』においても「滑りやすい坂道」論法として指摘されている。
 そして、小宮氏の記事に対する批判も、この「滑りやすい坂道」の危惧を前提としたものが大半であるようだ。
 小宮氏の記事に付いたブクマコメやTwitterの反応などを見ていると「ある表現にはこのような問題がある」という指摘や批評について、そのような指摘の批評の妥当性について検討するよりも先に、指摘や批評がなされること自体を全否定するような反応が多く見られる。
 おそらく、その背景には「すこしでも批判側の意見に賛同して、"特定の場において特定の表現を展示しない"ことを譲歩してしまうと、今度はその"特定の場"や"特定の表現"の範囲がどんどん拡げられてしまう。だから、最初から一切譲歩せず、すべての表現をすべての場で展示することを認めさせるように要求するしかないのだ」という発想があるようなのだ。

 

 私としては、「滑りやすい坂道」的な発想は表現の自由に限らない大半の論点(安楽死など)において、現実的な着地点を見出すことの障壁となる不毛で極端な発想であると思っている。
 社会における問題について市民間で討議して議論を重ねることで解決策を見出すことが前提とされている民主主義においては、「滑りやすい坂道」の危惧は特に厄介なものとなるだろう。

 

タコ、魚、ロブスター、植物

 

 さいきん、タコと魚類に関する本を続けて読んだ。

 

 

タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源

タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源

 

 

 

 

 

 前者の『タコの心身問題』では、タコの高度な知能や複雑な感情が強調されており、タコたちの行動や生き様についても著者の愛情たっぷりに書かれているが、「我々はこれからタコをどう扱うべきか」という動物倫理的な問題には直接には触れられていない。しかし、欧米圏ではタコなどの頭足類への倫理的配慮の必要性が認識されるようになってから久しく、実験に使う際にも痛みを与えないようにすることや麻酔をかけることなどが求められているようだ。

 後者の『魚たちの愛すべき知的生活』では、本の終盤では動物倫理の問題に直接的に触れられている。著者のバルコムは前著の『動物たちの喜びの王国』でも動物倫理の問題を強調していたし、もともとそういう問題意識を持っている人なのだ。

 バルコムの文章を引用しよう。

 

魚のすばらしい点、そして尊重すべき点は、人間に似ていないところだ。わたしたちとは異なる魚の生き方は魅力と驚きにあふれ、共感をも呼び起こす。

…(略)…なんとかして魚の地位を高めようとわたしが模索してきた方法にも、魚の意識と認知能力への注目をうながすことがその一つにあった。しかしながら、人間以外の生きもののすぐれた点をほめたてるのは、知性重視に傾きすぎてしまうことになる。本来、知性と道徳的地位とはほとんど関係がない。わたしたちは発達障害の人の基本的権利を道義的に否定しない。感覚をもち、苦痛やよろこびを感じる能力が、倫理的配慮の基盤である。

(p.286)

 

 そして、2年ほど前にはスイスにおいて定められたロブスターの保護規定が話題になった。

 

jp.reuters.com

 

 その当時に書いた、自分の記事から文章を転載する。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 …私としては、ロブスターの痛覚を考慮してロブスターの福祉に配慮した規制が定められることは、動物の権利運動や動物福祉運動に対して投げかけられる「人間に近い動物だけを優遇するから傲慢」あるいは「可愛い動物や共感できる動物だけを対象にしているから感情的で非論理的」といった批判に対する反証となっているように思える。

 

 ひと昔前には「動物愛護運動は犬猫やアザラシなどの可愛い動物ばっかりを優遇して、そうでない動物を差別する」という批判が定番だった。その後には「動物の権利運動は、イルカや大型霊長類など知能という点で人間と似ている動物ばっかり尊重して、そうでない動物を差別する」という批判が定番となった。しかし、もはやどちらの批判も有効ではなくなっているだろう。

 これらの批判が定番であったのは、反差別運動に対して「いや、実はお前らのその発想も差別的なのだ」と返すことが有効な反論であると思われがちだから、という理由がある。動物の権利運動(つまり、反-種差別運動)に限らず、反女性差別運動や反人種差別運動に対しても、批判された人たちは「差別に反対するお前たちのその主張の方が差別的だ」と言いたがる。しかし、このような反論はうまくいけ痛快なものになるが、大半は相手方の主張を自分たちにとって都合よく誤解した藁人形論法にすぎず、ピントを外しておりまともな反論になっていないのである。

 

 さて、最近のSNSなどにおいて動物の権利運動に反論しようとしている人の主張を見ていると、「植物はどうなんだ」という Plants tho 論法 が主流となっているようだ。これは、動物の権利運動が「かわいくない動物」や「人間と似ていない動物」も保護や尊重の対象とすることが伝わってきたために、「差別に反対するお前たちのその主張の方が差別的だ」と主張するためにはもはや植物(または微生物)を持ち出すしかなくなっているから、という理由があるからだと思われる。

「出羽守」批判についての雑感

 

 日本社会の構造的な問題点や、日本社会で起きた事件の問題性について、海外のメディアや記者が取り上げることはめずらしくない。たとえば、ここ最近では以下のような記事が記憶にあたらしいだろう。↓

 

www.nytimes.com

 

www.bbc.com

toyokeizai.net

 

 そして、このような記事で指摘されている問題点にずっと苦しまされていた人や、問題点の存在を以前から認識して訴えていた人などが、それを指摘している記事を引用しながら「海外でも問題視されている」と改めて問題を強調する、というのはSNSでもブログでもよく見かける光景だ。

 さらには、そのような人たちに対して「出羽守」と批判を浴びせる人たちがいるのも常である。批判者たちによると、「出羽守」は日本に対してネガティブな印象を持つあまり海外を過度に理想化しているのであり、海外にも問題点が存在することを認識できておらず、実現不可能な理想像を日本に押し付けているだけ、であるそうだ。

 また、「海外(欧米)メディアが日本の問題点を指摘する」という構図自体が文化帝国主義的でオリエンタリズム的だ、という批判がされることも多い。メディアに限らず、たとえばTwitterにてヨーロッパ諸国の大使館アカウントが日本の問題点(死刑執行など)を指摘するツイートを行なった場合、怒りながらの批判リプライが大量に並ぶのが毎度の光景だ。

 私としてはこのような"「出羽守」批判者"たちにはうんざりしている。私がうんざりしている理由は、主に以下の二点だ。

 

・たしかに、何から何まで完璧で理想的な国家というものが地上に存在することはないだろう。しかし、すべての国家が同じように問題を抱えており、どの国家も"理想"から同程度に遠いものである、ということもないはずだ。ある特定の面やある特定の点を見ると、他の国よりも優れた制度や文化を実現できている国家というものはあるだろう。少なくともその点については、その国家は他の国よりも理想より近いといえる。一方で、すべての面において理想から程遠くて何もかもが最悪、という国家も(おそらく)地上には存在しない。どんな国家にも、何かしらの面においては他の国家よりも優れた点があるかとは思われる。

 だが、「どの国家にも優れた点があり劣っている点がある」ということは「どの国家にも、優れた点が同じ数だけあり、劣った点が同じ数だけある」ということを意味しない。そのような想定は非現実的だ。実際には、優れた点を他の国家よりも数多く持っている国家も存在すれば、劣った点が他の国家よりも数多くある国家も存在するだろう。制度や運営が効率的な国家であったり、寛容な文化や柔軟な文化を持った国家であったりすれば、そうでない国家よりも優れた点を連鎖的に多く生み出すはずだ。そして、逆も然りである。世の中には「優れた国家」があり「劣った国家」があるという考え方には批判もあるかもしれないが、的を得た考えである、と私は思っている。

 そして、男女平等なり学校教育制度なりの何らかの点において優れている国家のメディアが、日本がその点において劣っているということを指摘するのにも、さして問題がないように感じられる。むしろ、問題点の深刻さを認識して、その問題点に優れた対処を行なっている国からその対処方法を学びながら、その問題点を改善するきっかけとなるだろう。基本的には、外国のメディアから問題点を指摘されるのは、指摘されているその国にとっては良いことなのだ。

 もちろん「いや、外国メディアの報道は単なる偏見の産物であり、実際には日本にはそのような問題点は存在しない」と反論するのはよい(「その問題点が存在しない」ことを本当に証明できるのであれば、だが)。また、「その問題点は指摘されている以上に複雑だ。たしかに日本のある文化やある制度のせいでその問題点が生じてしまっているが、その文化やその制度のおかげで、別のところで優れた点も生じているのである。だからその問題点を解決しようとすると別の面で歪みをもたらしてしまうのだ」という反論をするのもよいだろう。しかし、大半の場合において、そのような反論を説得的に展開するのは難しいように思える。批判に応答するために無理やりに作り出した屁理屈のようになることが多いだろう。

 もっともよくなされる反論が「日本の問題点を指摘しているお前の国にだって、こういう問題点があるだろう」というタイプのものである。これが、たとえばアメリカのメディアが日本における男女平等に関する問題点の指摘したのに対してアメリカ国内における人種差別の問題を指摘し返す、というものであれば全く反論になっておらず、不毛で非生産的なのもいいところだ(実際に、このような種類の反論もかなり多く見かけられるのだが)。もうすこし洗練されたものであれば、アメリカのメディアが日本における男女平等に関する問題点の指摘したのに対してアメリカ国内における男女平等の問題を指摘し返す、という風になる。しかし、この場合でも、アメリカのメディアが「進学率の女性差別」や「広告における女性差別」を指摘したのに対して「アメリカの方が日本よりも強姦の発生件数が多い」と指摘し返すという風に、問題とされている具体的な問題からはピントが外れている反論になっていることが大半である。「アメリカの方が日本よりも強姦の発生件数が多い」という点が事実であれば、アメリカは強姦の発生件数を減らす方法について日本を見習うべきであるかもしれない。だが、それと日本における「進学率の女性差別」や「広告における女性差別」の問題とは全く別の話なのだ。

 

・差別問題に関しては、「出羽守」となる人は被差別者の側であることが多く、そして"「出羽守」批判者"は差別者の側であることが多い。

 この傾向は女性差別に関する議論において特に顕著だ。つまり、日本における女性差別について取り上げた海外メディアの記事を日本人女性が引用して日本における女性差別を訴えるのに対して、日本人男性がその女性を「出羽守」として批判したり海外メディアの記事自体への反論を試みたりする、という光景だ。

 この光景は、かなりグロテスクなものである。

 普通であれば、集団内で差別を受けている当事者が差別の存在を訴えており、さらにその差別の存在が集団外のメディアからも指摘されたとすれば、多かれ少なかれその差別は存在している可能性は高いと認識するべきだろう。もちろん、当事者の訴えや集団外からの指摘が過剰なものであるとか、事実関係に誤認があるなどの可能性は存在するし、その辺りの検討は必要になるだろう。そして、事実関係を検討していた結果、その差別自体が実際には存在しない、ということが明らかになる場合もあるかもしれない。だがそれは相当特殊なケースであるだろうし、いずれにせよまずは指摘を受け入れてその内容を検討していった結果の話である。

 しかし、私が見たところ、"「出羽守」批判者"たちは問題点の存在の指摘に対してほぼ条件反射的に「否認」や「反論」を行なっている。つまり、指摘の内容を検討してから反論を行うのではなく、その指摘を受け入れること自体を拒むために反論を開始しているのだ。

 

「出羽守」とされる人たちには「日本を叩きたいために叩いている」とレッテルが貼られることが多いが、その多くは日本社会のなかで何かしらの苦痛を受けてきたり尊厳を傷付けられたりしてきた経験があるのだろう。主張の内容の是非は置いておいても、そのような人たちが「出羽守」的な主張を行う動機は理解できるし、共感できる部分がある。一方で、すくなくとも私には"「出羽守」批判者"たちの動機がまったく理解できないことが多く、とうてい共感できないのだ。

倫理学の理論や知識と、実際の生活との齟齬や乖離について(読書メモ:『哲学者とオオカミ』)

 

哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン

哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン

 

 

 哲学者である著者がオオカミの子どもを引き取って「ブレニン」と名付けて、アメリカやアイルランド、イギリスにフランスと居住地を変えながらもずっとブレニンと暮らし、ついにブレニンが臨終する際までの生活の記録…を軸としながら、ブレニンとの交流や観察を通じて培われた著者の思索の記録もふんだんに書かれており、様々なテーマについての哲学的エッセイという趣もある本だ。

 オオカミを観察することによって動物と人間との違いを再認識して、そこから「人間とは何か」「愛とは何か」「文明とは何か」といったことを改めて考えていく、という構成である。また、哲学のなかでも「道徳」や「幸福」や「人生の意味」など、倫理学的なテーマについての思索が中心となっている。

 なにかしらの動物との交流を綴ったエッセイというものは世にあふれているし、単なるエッセイにとどまらず著者たち独自の「哲学」を展開するということも珍しくない。しかし、この本の特徴は、もとから大学で哲学の博士号を取得している、オーソドックスな意味での「哲学者」が書いていることだ。そのため、哲学的思索を展開する際にも従来の倫理学理論への目配りを忘れないし、過去の哲学者たちの思想の引用の仕方もバランスが取れていてそつがない。また、現代の英語圏の哲学者らしく、進化論や生物学の基礎もちゃんと理解しており、トンデモ理論を引用してしまうこともない。…とはいえ、言うまでもなく、大半の哲学者はオオカミと共に暮らしたことがない。だから、ベースとなる知識や理論はスタンダードなものなのに、そこにオオカミ(と暮らした経験)という異物が混入することで、なかなか奇妙で独自な議論や思想が展開されることになっているのだ。

 さらに、著者がラグビーとパーティーの大好きな体育会系の男であり、酒豪であって、若い頃はプレイボーイであったという点も見逃せないだろう。哲学や倫理学というものは、論理的思考ができる人であれば誰にでも話の筋道が追える合理的な議論によって客観的な概念分析なり理論なりにたどり着く、というのを一応の目標にしてはいる。しかし、議論を行う人の人生経験や人柄によって議論の筋道や結論が変わってくる面があることは否めない。学者というものはどうしてもインドア派になりがちだし、特に日本の学者は総じて生真面目でなよっとした人になりがちな傾向があるが、この本の著者はかなりワイルドな人だ。倫理学の議論を属人化して考えるのは好ましくないことも多いのだが、本の終盤で著者が展開しているエピクロス的(快楽主義的)な幸福論や人生論には、やはり著者の人柄が透けて見えるような気がする。

 

 そして、著者は「動物の権利」についての著作もいくつか出版している。

 

 

Animal Rights: A Philosophical Defence

Animal Rights: A Philosophical Defence

  • 作者:Mark Rowlands
  • 出版社/メーカー: Palgrave Macmillan
  • 発売日: 1998/08/10
  • メディア: ハードカバー
 

 

 

Animal Rights: All That Matters

Animal Rights: All That Matters

  • 作者:Mark Rowlands
  • 出版社/メーカー: Teach Yourself
  • 発売日: 2013/05/31
  • メディア: ペーパーバック
 

 

 上記の本はまだ私は読んでいないが、『哲学者とオオカミ』のなかでこれらの本に触れられている部分を読んだところ、どうやら、ロールズ的な社会契約論をベースとして動物の道徳的権利を主張している本であるようだ。

 だが、著者は、自分が著作で行なっている主張と実際に自分が実践している生活との齟齬や乖離についても正直に書いている。長くなるが、引用しよう。

 

 …もし、わたしが原初状態(先述の本でわたしが新たに示した、原初状態のより公平なバージョン)にあるなら、肉を食べるために動物が飼養されるような世界は選ばないであろう。動物たちはみじめな生活をし、恐ろしい死で終わるからだ。それに、原初状態では、自分がどの種の動物であるかも無知のヴェールの背後になければならないので、わたしがこれらの動物の一種である可能性もある。原初状態にあるなら、このような世界を選ぶのは不合理である。したがって、そのような世界は非道徳的である。これはわたしの立場から見ると、いささか残念なことではあった。汁気たっぷりのステーキやフライドチキンを食べたくなるからだ。けれども、道徳は時には不都合な面もあるのだ。

わたしは一時は、完全菜食主義者ですらあった。道徳的に言えば、今もヴィーガンであるべきだ。これこそが、動物に対する唯一の徹底して道徳的な姿勢だからだ。でも、わたしは極悪非道の人間ではないにしろ、望ましいほど善人でもない。それで、ブレニンをもヴェジタリアンにすることで復讐しようとした。ところが、ブレニンはそれにはちっとも興味を示さなかった。わたしがヴェジタリアン・ドックフードだけを出したところ、あからさまに拒否した。誰がブレニンを責められよう。これをペディグリー・チャムの缶詰に混ぜていたら、事態は違っていたかもしれないが、もちろんそれでは、本来の目的と矛盾してしまう。とうとう、わたしたちは妥協した。わたしはヴェジタリアンとなり、ブレニンはペスクタリアン(魚、乳製品、卵を食べるヴェジタリアン)となったのだ。…

…(略)…ブレニンにダイエットを押し付けたのは、非道徳的だっただろうか。そうだと言った人はいた。けれども、それに代わる選択肢を考えてみよう。一日につき、肉をベースにしたドッグフードをカップ一杯と肉の缶詰一つを消費したとすると、ブレニンが一生をまっとうするまでに、数頭の牛が必要になったはずだ。…(略)…端的に言うと、この選択は、ブレニンのさほど重要でない利害と、数頭の牛の命にかかわる利害のどちらを取るか、という問題だった。そして、これが本質的には菜食主義の道徳的な論拠である。悲惨な生活や恐ろしい死を避けさせたい、という動物の命にかかわる利害の方が、ご馳走を楽しみたいという、相対的には些細な人間の利害よりも重大なのである。ブレニンがヴェジタリアンではなくて、ペスクタリアンだったことを考えると、新方式はマグロにはいささか過酷になった。それでも、マグロはウシよりははるかに良い生活をおくっている。少なとく、わたしは自分にそう言い聞かせた。

(p.147-149)

 

 自分が倫理学的な著作で行なっている主張を自分自身の生活では(完全には)実践できていない、ということをここまで明け透けに書ける人はなかなかいないだろう。哲学者や文学者の著作のなかには「完璧に正しい生き方なんてできっこないから、倫理規範なんて気にしなくて好きに生きていいんだ」みたいな主張を行なっているものはよくあるが、そういうものは単なる「開き直り」であってわざわざ読む価値がないものであることが多い。この本では、倫理規範は「守らなければならない」という意識があったうえでそれを守りきれないことについて葛藤する、という正直で誠実な思考過程が書かれているということがポイントだ。

 さらに、この本のあちこちで展開される著者の思索をまとめてみると、倫理学理論的にはあまり一貫性がないように思えることも特徴的だ。たとえば上述のようにロールズ的な「権利」論を展開する一方で、本の終盤では自分は「帰結主義者」であると明言している(p.197)。また、「本当に意味のある関係は、契約によってはつくれないことを知っている。そこでは、忠節心が最初にある。」 (p.153)として、社会契約的な公正さは見知らぬ他者との間においてのみ適用するべきであり、自分の家族やペットとの間には社会契約では捉えきれない別の道徳がある、そして時には正義よりも忠節を上に置いて見知らぬ他者よりも身近な者を優先する…という、この考え方は権利論的なものでも帰結主義的なものでもなく、どちらかと言えば徳倫理やケア倫理などに近いものだ。

 倫理学の理論書であれば、規範のベースとなる理論があちこちで異なることは、基本的には許されない。「このような領域では権利論を、あのような領域では帰結主義を適用するべきである」という風に複合的な理論だったり"状況に応じた"理論だったりを展開する理論書はあるだろうが、それにしたって、どのような場面でどのような理論に切り替えるべきかということについての基準は説明されなければならない。…主張の一貫性を保つことにこだわらず、基準の説明もしなくていいというルーズさは、理論書ではなく「哲学エッセイ」だからこそ許されることだ。

 そして、実際の生活と倫理学の理論との関係を描写するうえでは、このようなルーズさは利点にもなっている。帰結主義や権利論という風に理論化して考えている人は稀であろうが、大半の人の場合は、生きているうえで何らかのジレンマに衝突することで頭や心のなかに「道徳」についての考えが浮かぶことがあるだろう。そして、頭や心に浮かぶその考えも、それが浮かびだした場面や状況ごとに全く別の筋道のものになりがちなことはたしかなのだ。

 

  この本のもう一つの特徴は、道徳や人生についての考え方を便宜的に「オオカミ」的なものと「サル」的なものに分けていることだ。そして、基本的には「オオカミ」的なものが優れており「サル」的なものは有害で惨めなもの、という扱いになっている。

 たとえば、著者は「動物には道徳が理解できず、人間だけが道徳を理解できる」という一般的なイメージに反論する。そして、道徳というものは人間だけでなく犬やオオカミでも理解できる一方で、詐欺を行ったり陰謀を企んだり他者を自分の利益のためだけに操作したり無力化したりするという邪悪さは霊長類や人間にしか備わっていない、という議論が展開されるのだ。

 …しかし、たとえばマイケル・トマセロの著作では、他の動物には存在しない「互恵性」や「他者への援助」という概念が人間だけに備わっていることが説得的に論じられている。イヌ科動物の道徳感情には身内贔屓という限界があることも否定できないだろう。著者による「サル/オオカミ」の二分法にはロマンチシズムの嫌いがあり、人間に対して厳しい見方をしすぎており、動物や人間に関する科学的知見にもそぐわないものであるように思える。

 

 

 

ヒトはなぜ協力するのか

ヒトはなぜ協力するのか

 

 

 

 また、本の終盤で展開される、"イヌやオオカミはニーチェのいう「永劫回帰」を生きている"、という議論はなかなか印象的だ。

 人間はイヌと違って「時間」の概念を理解してしまえるがために幸福を味わうことができない、という主張も逆説的で面白い(通常は、「時間」や「将来」の概念を理解することで将来への投資を行えたり長期的な計画を立てられたりする人間の方が、動物たちよりも複雑で豊かな幸福を味わえる、と論じられるものだからだ)。

 

…わたしたちの人生の多くは、過去または未来に生きることに費やされる。たぶん、十分に努力すれば、オオカミがするように、現在を経験できるかもしれない。すなわち、過去の把持と未来の予持によってはほんのわずかにしか書かれていないものとして、現在を経験することを。それでも、これは人間が普通にする、世界との出会い方ではない。わたしたちの中には、そしてわたしたちがふつうにする世界の経験には、現在は消し去られてしまっている。しぼんで無になってしまっている。

時間的な動物であることには、多くの短所がある。明白な短所もあれば、それほどはっきりしない短所もある。明白なそれは、わたしたちが多くの時間、たぶん不釣合いに大量の時間を、もはや存在しない過去やこれから起こる未来に関わることに使うという点だ。記憶にある過去や望まれる未来は、わたしたちがお笑い草にもここ、現在とみなしているものを決定的に形づくる。時間的な動物は、瞬間の動物ができないような形で、神経症になることがあるのだ。

(p.245)

 

…わたしたちは策謀や嘘が成功したときに訪れる感情を求め、それが失敗したときにくる感情を避ける。一つの目標が成功するとすぐに、次のそれをさがす。常により良いものを求めてあがき、その結果、幸せはすり抜けていく。感情(わたしたちは幸せも感情の一つだと思っている)は瞬間の産物である。けれども、わたしたちにとっては瞬間はない。どの瞬間も無限に前後に移動するからだ。だから、わたしたちには幸せはありえない。

(p.249)

 

  ほかにも、臨終間際のブレニンの看病をめぐる「帰結」と「意図」との葛藤について描写した箇所も迫力があった。

 死に間際のペットの生命を生き永らえさせようとすることは、失敗すると、ペットの最期の日々を不幸で惨めなものにしてしまう。注射や投薬などをされることはペットにとっては苦痛なのであり、もしもそのペットが「飼い主が自分を助けようとしている」ことが理解できないなら「飼い主が自分をいじめている」と認識されてしまうおそれもある。治療の甲斐があってペットの病状が緩和したり健康になったりすればよいが、そうでなかったら、ただでさえ身体的な苦痛に苛まれているペットに対して精神的な苦痛を付け加えるだけの行為になってしまうのだ。帰結主義的には、無意味どころか非道徳的である。

 しかし、もし意図を重視するカント主義的に考えるなら、この行為も正当化できる(「ペットを助けようとする」という善い意図があるからだ)。普段は帰結主義を信奉している人でも、こういう時にはカント主義にすがりたくなる…ということである。