道徳的動物日記

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ネット言説における「合理性」信奉

 

 もしかしたらこのブログの読者ならご存知かもしれないが、私にはインターネット中毒の傾向がある。
 特に、Twitterはてなブックマークはついつい見てしまう。
 会社でフルタイムで働きだすようになってからは本を読める時間が減った一方で、インターネットを見る時間は増えてしまった(仕事の合間にもブラウジングしてしまうことは可能なためだ)。
 だが、中毒であるということは、なにも好きこのんで意欲的にネットを見ている訳ではないということだ。
 むしろ、Twitterはてなブックマークで見れるような人々の意見やコメントにはうんざりさせられることが多い。

 

 ところで、ここ数ヶ月は、生活習慣や生活環境を変えたことで、学生時代ほどではないが多少は読書をする時間を取り戻すことができた。
 そして、しばらくネットの海にひたった後に改めて読書を再開すると、ネットに書かれていることと本に書かれていることとの傾向の違いを以前よりも意識できるようになった。

 

 西洋の倫理学を見てみると、ここ20~30年ほどは「徳倫理学」が復権している時代といえる。
 徳倫理学といっても様々だが、それが復権する背景の一つとしては、近代や20世紀以降の西洋の倫理学や哲学の人間観があまりにも「合理的」なものであり、実際の人間が感じる幸福の本質を捉えきれていなかったり人間社会に現存する「道徳」の実態から乖離した抽象的な規範理論が唱えられてきたことに対する反動、という面がある。
 そして、徳倫理学復権は哲学の枠内にとどまらず、心理学や社会科学などの領域でも目覚ましい。
 たとえば、以前にも紹介したジョナサン・ハイトの『しあわせ仮説』をはじめとして、ポジティブ心理学では徳倫理学的な"エウダイモニック"な幸福観が主流となっているようだ。

 

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 しかし、ネット上における言説では、「合理的」な人間観や幸福観がいまだに主流であるようだ。それも、かなり短絡的で浅薄なタイプの「合理性」である。

 

 私がここで想定しているのは様々な言説であり、ひとくちにはまとめきれないのだが、ネット言論の特徴のひとつとして「コスパ至上主義」というものがあるように思われる。
 いわゆる「原価厨」は嫌われがちだし、「趣味に惜しみなく投資して業界やクリエイターを支える」行為は賞賛されがちでもあるネット言説だが、「コスパ」や「効率」の重視は主流な価値観であると思われる。
 ストロングゼロのブームをきっかけに、値段を据え置きのままアルコール度数がどんどん高くなるチューハイの新製品や、イオンだかトップバリュだかにおける驚異的な安さのビールなりウィスキーなりがネットで話題になり、それらを飲んでいることをアピールするSNS投稿やWEBメディア記事も盛んだ。
 この傾向については「アルコール依存症を助長するのではないか」という批判や危惧の声も散見される。しかしその声はどうやら少数派のようであり、「日本社会で生きることがあまりに辛いんだから酒に逃げるしかないんだ」というような「ネタ」や「自虐」もまじえつつ、ストロングゼロや安いアルコール飲料を肯定する言説の方が主流はである。
 そのため、常識的な範囲内のアルコール度数や値段の飲料を「ほどほど」に楽しむという、飲酒に関しては本来なら最も穏当で王道な言説がかき消されている感もある。
 そしてコスパ至上主義は飲酒だけでなく飲食店に関する評価も見受けられる。
 たとえば、サイゼリヤはちょっと異常なほどにポジティブな評価を受けており、サイゼリヤについて否定的なことを書くと炎上しかねない始末だ。他の安めのファミレスチェーンや、松屋などの牛丼チェーンも、基本的には高評価される。
 それらのチェーン店が「値段のわりに美味しい」「コスパが良い」ことは認めるとしよう。しかし、一部の言説を見てみると、他に評価軸がなく「コスパが良いということは食事として優れているということだ」と言っているかのような転倒した価値観を感じることがある。
 また、コスパの良いチェーン店を賞賛する代わりに、個人経営の飲食店の価値を認めなかったり貶めようとする傾向も一部にはある。
 食事や飲食店というものには「優れたものを味わう」という鑑賞行為としての価値なり文化的価値なりも存在するはずなのだが、そういうものは後回しにされがちである。
 あるラーメン漫画に「客はラーメンを食べているんじゃない、情報を食べているんだ」という旨の有名なセリフがあるが、ネットにおけるストロングゼロサイゼリヤへの賛美には情報どころか「合理性」そのものが飲食の対象となっている節がある。つまり、その酒や飲食店が「コスパが高いこと」や「合理的に運営されていること」自体が評価や賞味の対象になってしまっていないか、ということだ。その裏返しとして、「非合理的」な個人経営の飲食店がディスられるのである。
(ついでに言うと、このような傾向はネットで「化学調味料」や「遺伝子組み換え食品」や「農薬付き野菜」がやたらと肯定的に評価される傾向とも関連しているように思える。もちろん、これらの食物について既存メディアで不当な批判がなされてきたことに対する反動という側面があることは理解しているのだが、それにしても肯定が過剰な気がするのだ)。

 

 合理性への信奉は飲食物や飲食店への評価に限らない。
 恋愛関係や家族関係などの親密な人間関係すらをも「合理的」に解釈して「効率的」に営む方法を紹介したり提案したりする、というタイプの言説がネットでは人気が出がちである。
 つまり、人間関係を男女や家族の「利害」の一致という観点から分析して、"このように相手を扱えば自分の利益を最大化できる""このような「契約」を結べば互いに与える危害を最小化して、効率的な人間関係が営める"というライフハックなり一言アドバイスなりが目につくのである。
 しかし、「契約」というものは見知らぬ他者と関わらざるを得ない公共の場における論理であり、利害や効率というものは市場の論理だ。それを私的な親密圏に持ち込むことは合理性の履き違いであり、人間関係の本質を外しており、本来なら人間関係から味わえる幸福や豊かな感情を損なうものである…という点はそれこそ徳倫理学が散々に指摘しているところだ。

 

 そして、上記の記事でも触れたが、そもそも人間関係を築くことや努力をすることから逃避して趣味の世界に逃げ込むことを是とする安直な幸福観も散見される。これも、徳倫理学ポジティブ心理学の観点からすれば的外れもいいところだ。

 

 ネットの言説にこのような傾向が生じる原因は、ネットでは「誰にでも物が言える」点に由来しているように思われる。
 本というものを書ける人はなんだかんだで特別な存在だ。その人生経験や特異なアイデンティティゆえに本が出せる人もいれば、勉強や研究の成果が認められたうえで本を出せる人もいる。前者の場合は自身の経験や他人たちを観察したことから得られた「厚み」のある人間観や幸福感が期待できるし、後者の場合でも哲学や社会科学などの様々な文献から得られる客観的な人間観や幸福観が得られる。
 しかし、SNS投稿がバズったりなにかのブログやよくわからないWEBメディアに記事を書く人たちの大半は、どこの誰かもわからないような人たちだ。彼らには大した人間経験がなく、知識の蓄積もなければ、文化的教養もロクにない可能性は大いにありえる。
「合理性」の特徴のひとつは、それが誰にでも頭で考えればたどりつける、ある意味で平等で民主的なものであることだ。
 つまり、「なにか一言それっぽいことを言ってやろう」となった時に、経験や教養のない人でも、「合理的な主張」なら言えてしまうのである。そして、その主張を理解して共感する側にも経験や教養が必要とされない。
 だから、みんながみんな、ときに現実から乖離して不毛ですらある「合理的な主張」を言い合ってそれにスターを付けたりリツイートをし合う、異様な状況が生まれているのかもしれない。

 

 

美徳なき時代

美徳なき時代

 

 

 

引用メモ:R・M・ヘア「倫理学理論と功利主義」

 

 

功利主義をのりこえて:経済学と哲学の倫理

功利主義をのりこえて:経済学と哲学の倫理

 

 

 

レベル1の諸原則は、実践的な道徳的思考、特にストレスのかかる状況下での道徳的思考で用いられるものである。これらの諸原則は教育(自学も含む)によって伝えることができるほどに一般的なものでなければならず、また「緊急時に適用する準備があるような」ものでなければならない。とはいえ、これは経験則とは混同されてはならない(経験則は破っても後悔の念を引き起こさない)。レベル2の諸原則は、事実について完全に適切な知識をもっているときに、十分な時間的余裕をもってなされる道徳的思考によって、個々の事例における正しい答えとして到達されるものである。このレベルでの諸原則は普遍的なものであるが、必要に応じて、同時に明細的なものでもありうる(明細的は「一般的(general)」の反対であって「普遍的(universal)」の反対ではない)。 (p.39-40)

 

…私たちに必要な思考の一つであるレベル2の思考が、そもそも、功利主義的であるのみあらず、行為功利主義的な 思考だからである(ここまで見てきたように、このレベルでの明細的な規則功利主義的思考と普遍主義的な行為功利主義的は実践的に等しいものであるため)。そして、教育者にとっては自分の教え子たちを、ほとんどの場合にはレベル1の思考ーー質の高いレベル2の思考によって選択された一組みの諸原則に基づいた思考ーーにしたがうよう育てることには、優れた行為功利主義的理由がある。このことは自学の場合にも同様に当てはまる。したがって少なくとも、教育、自学と呼ばれるような活動はすべて、強固な行為功利主義的な基礎をもちうる。自分や他人をレベル1の諸原則において教育することはもっとも善いことであり、それがわからないのは粗野な行為功利主義者だけである。そしてまた、ほとんどあらゆる場面において、善い一般的諸原則にしたがうことには、十分な行為功利主義的な理由があるだろう。そうすることは合理的であるだろうし、正しいものになる可能性ももっとも高いだろう。そして、何をなすべきかを選択する際に、どのようにして考えを進めるべきかを述べる段にあっては、行為功利主義者であったとしても、私たちは選択の際には何が正しいことであるかを知らないのだから、もっとも正しいことである蓋然性がもっとも高いことをせよということしかできない。

(p.45-46)

 

 このブログでは、ゲイリー・ヴァーナーという人による、ヘアの二層功利主義を動物倫理の問題に応用した単著について、何度か紹介してきた。

 

 

 

 

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↑ 上記の記事で紹介しているように、ヴァーナーの議論では「科学的知識」とその取り扱い方が重視されている。実際、功利主義の優れているところの一つは、道徳判断を定性的にではなく定量的に扱えるところだ。その点では、他の規範理論に比べてずっと「科学的」な思考方法を行うものと言えるだろう。

 マイケル・シャーマーは、著書の『道徳の弧:科学と理性はいかにして私たちを真実と正義と自由に導くか』のなかで、人間の思考は基本的に定性的なものである、ということを指摘していた*1。つまり、「程度」や「可能性」の問題を無視した、「◯か✖️か」の判断をしてしまいがちなのである。権利論や義務論も、定性的な思考をしてしまいがちという人間の特性にマッチしたものであり、だからこそ人気があるのだと言える。だが、世の中が複雑になり、人々が直面する状況にバリエーションが生じるようになればなるほど、定性的な思考は誤作動を起こしがちになってしまう。求められるのは、状況ごとの固有の事情や条件を考慮に入れた、定量的な判断を下すことだ。ただし、そんなことができる場面は限られているので、定性的な判断を行う際の基準や傾向を現代の状況にあわせてアップデートすることも必要とされる。

 

 また、動物の道徳的地位を主張する議論に対するもっともよくある反論ともいえる「プランツ・ゾウ論法」は、教育などによって植え付けられた「レベル1」の思考が誤作動を起こしている典型例だと言える。つまり、「植物も動物も生命はみんな大切にしましょう」「生命はすべて平等です」という道徳訓はほとんどの場合には適切な判断を導き出すのだが(道端の植物を思い付きで引っこ抜くことが何か善い効果を与えるということはほぼないのだから「植物も生命だから意味もなく殺さないようにしよう」という直感を抱くことは有益だし、パーソン論のように人間や動物間の道徳的地位に軽重をつける理論は直感レベルでは都合よく解釈されがちなので「生命はすべて平等である」という直感がある方が無難である)、食事に関するときのように動物と植物の生命のどちらかを奪うべきかという選択を行う際の指標にはならないのである。

 

 ところで、直前に読んでいた『一冊でわかる 古代哲学』に以下のような記述があった*2

 

古代の徳の概念…そのすべての理論が共通して認めているのは、徳を備えた人間においては、感情や感覚が理性と争ってはいないし、もはや争うことはありえないということである。道徳的な行為が要求していることを理解して吐いても、その行為をするために、それに反対する欲求を打ち負かす必要がある人間は、まだ徳を備えておらず、ただ自制心があるというのにすぎない。その人間の欲求が、その人間の持つ理解と同調するものであることを、徳は求めるのである。(p.77)

 

 このような徳の概念は、同じ著者の『徳は知なり』でも強調されていた。そして、これは、二層功利主義における「レベル1」の理想的な状態をあらわしているものとも言えるだろう。

*1:シャーマーの著書に関する記事のひとつ。

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*2:

 

古代哲学 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

古代哲学 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

 

 

「一見非合理的に見えるものにも実は合理的な理由がある」論について

 エルスターの「酸っぱい葡萄」については論文の方の感想は先日に記事にしたわけだが、オンラインで一部公開されている単著の方の「訳者あとがき」も参考になる。今回はこの「訳者あとがき」の方を読んでの雑感*1

 分析的マルクス主義者でもあるエルスターによる「バイアス」論、そして階級的地位・階級的利益のために形成されるバイアスである「イデオロギー」論を受けての訳者の議論を引用する。

 

…一九七九年の総選挙でマーガレット・サッチャー率いる保守党が、労働者にとって有利とは思えない政策を掲げていたにもかかわらず、労働者階級の支持を得て政権に就いたことが重大な転機となった。このことは、抑圧された労働者の「階級意識」(=イデオロギー)が労働者自身のためのものとはならない可能性を示すものであり、それゆえ改めて階級意識がいかにして形成されるかの研究の必要性が生じた。

 …(略)…そしてこの論点は現代のわれわれにとっても重要な問題を提起している。二〇一六年は世界の民主主義にとって激動の年であった。この年の前半を通じて行われたアメリカ大統領選の各党の候補者選挙において、その過激な発言で多くの非難を呼んでいたドナルド・トランプ氏が、大方の予想に反して共和党候補としての指名を得ることとなった。そして秋には大統領に選ばれたことは周知の通りである。また少し戻って六月には、イギリスで行われたEUからの離脱をめぐる国民投票において、これまた大方の予想に反して離脱派が過半数を獲得した(いわゆるブレグジット)。これらの選挙における大きな衝撃の一つは、アメリカ・イギリスといった先進国における市民が、保守的かつ排外的な態度を是認したことであった。
 …(略)…このような事態に接して、われわれは(おそらくエルスターが八〇年代のヨーロッパにおいてそうしたように)次のように問わざるをえない。はたしてこの労働者たちは本当に、彼ら自身にとって最善の利益となる選択をなしたのだろうか? あるいはなさなかった(なせなかった)としたら、それはなぜなのか? 

あとがきたちよみ/『酸っぱい葡萄 合理性の転覆について』 - けいそうビブリオフィル

 

 アメリカでのトランプ当選やイギリスにおけるブレクジットについての議論は、日本でも散々になされた。
 また、国内に目を向ければ、大阪における「維新の会」への強烈な支持意識や最近ならNHKから国民を守る党の躍進、また安倍首相による長期政権が存続していることなどについて、有権者の「非合理性」が取り沙汰されることがある。
 つまり、有権者にとって利益を与えないことが明らかなように思われる投票行為をなぜ行ったり、自分たちに利益を与えないことが明らかであるような政党や政治家をなぜ支持するのか、ということについての議論だ。

 このような議論は、基本的には有権者の行動や意識を「非合理的」なものと見なしたうえで、ではなぜそのような非合理な行動をしたり非合理な意識が形成されるに至ったか、ということが分析されることになる。そして、多くの場合には「ポピュリズム」などの説明要因が持ち出されることになる。

 

 ところで、有権者の行動や意識をあえて「合理的」なものと論じることで、「非合理的」だと見なす議論に大して反論が行われることも多い。
 この場合の「合理的」が意味するところには、いくつかのバリエーションがある。

 

 まずは、ふつうの意味での「合理性」を主張する議論…つまり、有権者の行動は実のところは経済的・社会的に合理的な行動である、という議論だ。
 このような議論が行われる場合は、「トランプ当選(なりブレクジットなり維新支持なり)は、有権者に不利益を与えるものだ」という前提自体が崩される。「ヒラリーが当選していた方が労働者階級にとってはより経済的の困窮する羽目になっていたのであり、労働者階級はそれを理解して冷静に判断を下したのだ」といった議論がなされることになる。この場合は、有権者の行動を「非合理的」と解釈する側も「合理的」と解釈する側も、同じ土俵で物事を論じることになるのだ。そのため、「では実際にはトランプとヒラリーのどちらがより労働者に経済的利益を与えている政策を提案していたのか?」など、議論の焦点はデータの解釈の正確性についてなどに移行することになる。この場合は、どっちの主張が正しくてどっちの主張が誤っているかということは同一の尺度で測れることになるので、生産的な議論を行える余地がある。

 

 だが、有権者の行動や意識は経済的・社会的などの表面のレベルでは「不合理」であることを認めつつも、より深層的なレベルでは「合理的」である、とする主張が行われることもある。
 この場合は、有権者の心理や実存やアイデンティティに立ち入った解釈が行われたうえで、彼らの行動は合理的だと論じられることになる。
 また、近年の英語圏では生物学や進化論を持ち出して有権者の行動を分析する議論も流行しつつある。このブログでも、そのテの議論をいくつか訳して紹介してきた*2
 この場合、「合理性」は経済的利益などは別のステージにおいて解釈されることになる。たとえば、トランプに投票することは有権者にとって進化的適応に沿った行為である、ということが論じられるのだ。
 有権者の行動は経済的に「不合理」だとする主張に対して、このように別次元でとらえれば「合理的」だと主張することは、うまくいけば前者の蒙を啓いたり視野を広げたりすることになって、生産的な議論につながる可能性もあるだろう。しかし、実際には、有権者の行動を分析するうえで「経済的合理性」と「その他の合理性」のどちらがより重要か、どちらの指標がより優れているか、という不毛な立場争いのようになることも多い。

 その場合、議論は水掛け論に終始してしまうのがだいたいのオチだ。

 

 ところで、このように「合理性」の指標をめぐって争いが起きるのは、なにも有権者の投票行動に関する分析に限らない。
 企業や職場の様々に残る様々な旧弊的な制度、就活や飲み会などにおける謎のマナー、学校における部活や行事、地域共同体の慣習や因習…などなど、世の中には「非合理」に見える物事がありふれている。そして、往々にして、非合理な物事は誰かに負担をかけたり苦痛を与えたりなどの「危害」を生じさせるものだ。そのため、非合理的な物事は非倫理的であると批判されることが多い。
 だが、誰かが物事の非合理性を批判したときには、必ずといっていいほど、別の「合理性」を持ち出すことでその物事を擁護する人があらわれる。「個人の観点からすれば非合理であるが、組織や規律の維持という観点では合理的だ」とか「短期的に見れば非合理だが、長期的に見れば合理的だ」などなどだ。
 こういう議論について私はちょっとうんざりしているところがある。いかにも「理屈と軟膏はどこにでも付けられる」といった感じで、まったく説得力が感じられないことが大半であるからだ。
 また、多くの場合には、対象の物事について最初に問題提起された「非合理性」から別の軸の「合理性」へと話をすり替えることで、その物事が誰かに危害を与えているという「非倫理性」についての告発が無効化されてしまうことになる、という点も気になるところだ。

 

 なにかについての「合理性」を考えるということは、それが経済的合理性や短期的な合理性であっても、捉えがたく難しいものだ。そして、実存的合理性なり進化的合理性なり、あるいは長期的な合理性というものは、さらに捉えがたくなる。
 自分が理解できないことや気にくわないことについて「非合理だ」とすぐに断定してしまうことはつつしむべきだが、自分が擁護したいと思っていることについて「合理的だ」と主張してしまうのも同じ穴のムジナなのだ。合理性について語るときも、もうすこしニュアンスに富んだ議論をしたいものである。

*1:ほんとうなら単著の方の『酸っぱい葡萄』も改めて借りて参照したいところなのだが、あいにく、現在の私が利用できる範囲にある図書館では『酸っぱい葡萄』や「双書現代倫理学」シリーズが所蔵されていない。こういう時には、大学に所属しておらず大学図書館が気軽に利用できないことのつらみを感じてしまう。

*2:

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パターナリズムとしての「勤労の権利」

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↑ 上記の記事でなされている主張を引用しよう。

 

 働かないというのは、社会から切り離されることに等しいと思います。社会で生きていたら誰かの役に立っていないときっと空虚な気持ちになります。住居も保証され何でも買っていい、旅行も行き放題。学校に行くも良し。しかしきっと、世の中の役に立って社会から尊敬されたいという欲が満たされないに違いありません。

 

 この主張は、私が先日に書いた記事で引用した、小浜逸郎による「ベーシックインカムよりもジョブ・ギャランティー」論に相似したものだ*1

 

 …ただ、思想として見た場合、どちらが優れているかといえば、就労を条件とするJGPのほうが、人間的自由の獲得の条件としてやはり立ち勝っていると言えるでしょう。ベーシックインカムは、かつて救貧のために方法を見出せなかった時代の、富裕層による上からの慈善事業の現代ヴァージョンです。もし誰もが勤労の対価を受け取り、それによって社会に参加しているという実感を抱けるなら、それが結果的に一人一人の誇りを維持する一番の早道と言えるのではないでしょうか。

 

 私から見ると、上記のブログ記事の著者と小浜氏は同じ問題を抱えている。

 それは、「自分は単純労働をする側ではない」「自分はJGPで仕事を与えられる側ではない」という自己認識を抱きながら、「単純労働をする側の人たち」という「他人」の人生や幸福について云々する、という傲慢さだ。

 そのため、先日の記事で書いた小浜氏に対するコメントも今回のブログ記事に対するコメントも、基本的には同じようなものになる。

 つまり、「社会から尊敬されたいという欲」が存在することは認めるとして、“現代の社会で行われている単純労働が、それに従事してる人たちの「社会から尊敬されたいという欲」を満たすものだと本気で思っているのか?”ということだ。

 

 もちろん、単純労働の種類やそれに従事している人の人柄によっては、単純労働を行うことで「社会から尊敬されたいという欲」が満たされることもあるかもしれない。
 しかし、大学院を卒業してから2年以上「TVゲームのデバッグのアルバイト」という単純労働を続けていた身から言わせてもらうと、私が単純労働によって「社会から尊敬されたいという欲」を満たせることはなかった。
 ついでに言うと、多少複雑な労働をしている現在になっても、「社会から尊敬されたいという欲」を労働を通じて満たせることはない。

 むしろ、利益や数字を追求することに伴う諸々の行為によって社会を毀損しているという感覚を抱くことがあるくらいだ。職場における空辣な人間関係も、働いていない時よりも「社会から切り離されている」という感覚を強化してしまう。
 私が「社会から尊敬されたいという欲」を満たせるのは、たとえばゆっくり集中できる時間を設けて読書や勉強を行ったり物事について考えて、その結果をこうやってアウトプットすることだ。そして、この作業は労働から解放された余暇の時間で行うしかない。

 つまり、もしベーシックインカムが実現して労働から解放されたとしたら、読書や勉強と執筆に集中できる時間がさらに増すことで、単純に考えれば、私は現在よりもさらに「社会から尊敬されたいという欲」を満たすことができる。

 一方で、たとえベーシックインカムが実現できる社会状況になっても、「誰かの役に立っていないときっと空虚な気持ちになるはずだ」とか「人間的自由の獲得の条件」とかを心配してくれる人々のお節介によりいまだに労働をしなければならない羽目になるとすれば、私は今まで通り労働の余暇にしか「社会から尊敬されたいという欲」を満たすことができないことになる。そんなの、大きなお世話と言うほかない。

 

 何も私が特殊というわけではない。デバッグのバイトをしていた時の同僚との会話などを思い出すと、彼らの多くも自分がいま従事している単純労働によって「社会から尊敬されたいという欲」を満たせているとは考えていなかったようだ。
 これも先日の記事で言及していることだが、アダム・スミスも指摘しているように、単純労働というものを続けることは人間の知力や精神力、気概を著しく奪うものである。
 そして、労働によって時間と気力が奪われることは、身近な家族や友人から広く「社会」まで、様々な「他者」との有意義で充実した関係を結ぶ機会も奪うことになるのだ。

 

 また、以下の引用部分にも、上記のブログの議論の歪さがあらわれているように思える。

 

お金持ちがツイッターYoutubeで、今日もアレコレやっているのは、あれも「働く」の一部です。結局は何らかのお金が彼らに還流していきます。

 

 

 たしかに、金銭や利益を目的としてYouTubeSNSで活動している人もいるだろう。

 一方で、そうでない人もいる。特にYouTubeで活動している人は、その大半は金銭や利益よりも「趣味」や「自己実現」を主な目的としているはずだ。
 そして、ベーシックインカムで余暇の時間が増えるということは、金持ちでない多くの人にも趣味や自己実現に費やせられる時間や気力がもたらされることである。SNSYouTubeでのアウトプットに成功している人たちは、金銭や利益を得ていないとしても「社会から尊敬されたいという欲」は満たせるだろうし、社会から切り離されてる感覚も抱かないことだろう。
 もちろん、趣味や自己実現の活動やアウトプットを行う場所をネットに限定する必要はない。街中の公共空間での活動を行い、それによって社会とつながることで充実感を抱ける人もいるだろう。
 つまり、もしベーシックインカムが実現可能な状況になれば、「勤労の権利」という概念を固持する必要はなくなるのだ。
 必要なのは「働く、という概念をもっと拡張していくこと。」ではない。生き方や人・社会との関係の結び方についての多様なあり方を認めることである。

 

 上記のブログ記事の問題点の一つは、著者が「働くこと」、もっと言えば「金を稼ぐこと」を重要視し過ぎており、そうでない生き方に対する想像力が足りないことにある(金を稼ぐことを重要視しているタイプの人でなければ、SNSYouTubeを「お金の還流」に直結させることはないはずだ)。

 

 もう一つの問題点は、これは小浜氏にも共通していることだが、一見すると「単純労働する側の人たち」に寄り添っているような風を装っているが、実際には彼らについて浅薄で単純な捉え方をしており、彼らの自律能力やケイパビリティについて過小評価していることにある。
 露悪的に言ってしまえば、「単純労働をして過ごしているような連中なんか、金を与えて時間的余裕が出ても、どうせロクな過ごし方をしないだろう。それならば、適当な仕事を与えて社会とつながる場を用意してやった方が、彼らのためになるというものだ」と考えているんじゃないか?ということだ。
 日本には昔から「小人閑居して不善をなす」という諺もあることだし、ベーシックインカムの副作用を危惧する必要性もたしかにあるかもしれない。しかし、そのような危惧自体が傲慢でパターナリスティックなものであることは、否定できない。

 せめて、寄り添う風を装うのではなく、自分のパターナリズムを堂々と認めたうえで議論を展開してくれた方がまだマシというものだ。

*1:小浜氏の記事:

38news.jp

私の記事:

davitrice.hatenadiary.jp

読書メモ:エルスターの「酸っぱい葡萄」

 

功利主義をのりこえて:経済学と哲学の倫理

功利主義をのりこえて:経済学と哲学の倫理

 

 

 ↑ 上記の本に収録されているヤン・エルスターの「酸っぱい葡萄:功利主義と、欲求の源泉」を読んだのでメモを残す。実は以前にもエルスターの単著の方の『酸っぱい葡萄』を図書館で借りていた*1。だが、内容が難しくて途中の読むのを諦めてしまった。今回も途中から体調不良になったこともあって、ちゃんと理解できているかどうかは自信がない。でもまあせっかく読んだので備忘録的にメモを残すことにした。

 

・いちばん面白く思えたのは、「適応的選好形成」と「計画的性格形成」の区別をしているところ。これに関しては、訳者による単著の方の「あとがき」から引用する。

 

適応的選好形成とは、大まかに言えば、実行可能な選択肢に応じて選好が変化すること、とりわけ、実行可能な選択肢が貧弱である場合に、そこからでも十分な満足を得られるように選好を切り詰めてしまうことである。…(略)…

 適応的選好形成の最重要の特質は、そこにおいては「自律」と「厚生」が衝突するということにある。というのも、適応的な選好は、実行可能性によって非意図的な形で形成されたという点で非自律的な選好であるが、実行可能性に応じた選好を持つことによってその人が達成する厚生は高まっているからである。したがって、適応からの解放が生じた場合には、自律は高まるが厚生は下がってしまうかもしれない。このトレード・オフが重要なポイントである。
 エルスターは本書において、適応的選好形成と「計画的性格形成」との区別を重視する。計画的性格形成においても適応的選好形成と同様に、選択肢集合に応じた選好の変形が生じ、それによって厚生が上昇している。しかし計画的性格形成の場合には、その変形が自律的なものとみなされうるので、倫理学的に問題はない。

あとがきたちよみ/『酸っぱい葡萄 合理性の転覆について』 - けいそうビブリオフィル

 

 

 論文のなかで、エルスターは計画的性格形成を「ストア派仏教徒、あるいはスピノザ派の哲学者」が擁護する「欲求の意図的な変形」としている(p.310)。なんでこれが面白く思えたかというと、私自身が最近はストア派に関する本をちらほら読んでいて、まさに自分自身の欲求を意図的に変形しようと思っているところだからだ*2ストア派を持ち出さなくても、計画的性格形成は生活の知恵として、多くの人々が意識的に行なっていることかもしれない。一方で、適応的選好形成も多かれ少なかれ多くの人々に生じていることだろう。適応的選好形成と計画的性格形成との区別をきちんと付けようとすることや、それと同時に「適応的選好形成と計画的性格形成との区別を付けることはなかなか難しい」と認識することは、たしかに重要であるように思われる。

 また、産業革命などによる社会の生産性が上がって人々の生活レベルが向上したことで人々が物事に対して抱く欲求も増えてしまい、むしろ生活レベルが上がる以前よりも欲求不満が増してしまったのだとすれば、人々の構成水準は上がったと言えるのか?…という、経済学や心理学でもよく注目される問題についても検討されている。

 

・この論文の議論のポイントは、功利主義理論は「正義の理論あるいは社会選択の理論」として適切であるのか?ということであり、適応的選好形成の問題をふまえると功利主義は「行動の指針であるべき」と「特定のケースにおいて我々の倫理的直感を大きく裏切るということがない」という二つの基準を満たしていないからダメ、という結論になる(p.325-326)。厳密に言うと、序数的な功利主義は前者の基準をもたさず、基数的な功利主義は後者の基準を満たさないということだ。*3

 そして、正義の理論や社会選択の理論には「後方視アプローチ」、すなわち「過去についての情報」を取得して「現実の選好の歴史を調べること」の重要性が強調される(p.331-332)。

 私としては、そもそも「行動の指針」と「直観」の両方を満たす社会的な規範理論がほんとうにあり得るのか、という疑問がある。このような批判に対する功利主義側からのよくある反論は「直観というものは育った社会の文化や進化的適応に影響されてしまうそもそも恣意的なものであり、規範理論の是非の判断に直感を持ち出すこと自体が間違っている」という、直観の重要性自体を否定してしまう論法だろう。しかし、そのような反論はエルスターも想定していて、「…私は正義の理論がどうしたらまるっきり直観抜きでやっていくことができるのかわからない」と返している(p.326)。このエルスターの返答もまっとうなものだろう。とはいえ、直観に適する社会的な規範理論は往々にして「行動の指針」としては曖昧で役に立たないものになってしまうことも否めない。

 個人的には、最近は「正義の理論あるいは社会選択の理論」としての倫理学理論よりも、より個人的な選択なり実存的な問題なりを考えるための理論としての倫理学理論に興味が移っているところだ。そして、「適応的選好形成」と「計画的性格形成」の区別の問題や欲求不満の問題は、ミクロな倫理学理論においても色々と重要になってきそうなところだ。たとえば、職場における昇進と欲求不満の関係に関する以下の一文なんかはある種の人々の図星を付いているかもしれない。

…欲求不満が生じるのは、昇進が十分にありふれていて、そして十分に普遍的な根拠をもって決定され、したがって適応的選好からの解放と私が呼ぶところのものが起こる時である…

(p.312)

 

「酸っぱい葡萄」における議論を個人単位の倫理に活かすとすれば、たとえば「このことを欲求することは自分を不幸にするだけだから、このことに対する欲求は捨てよう」と自分が下した判断が、ほんとうに自律的・積極的に下した判断なのか、それとも環境や状況的な要因からしぶしぶ下した判断なのか、という点の区別を意識する習慣を身に付けるようにする、などになるだろうか。

*1:

 

酸っぱい葡萄: 合理性の転覆について (双書現代倫理学)

酸っぱい葡萄: 合理性の転覆について (双書現代倫理学)

 

 

*2:

読書メモ:『良き人生について - ローマの哲人に学ぶ生き方の知恵』 - 道徳的動物日記 や

ストア哲学の知恵を現代の生活に活かす(読書メモ:『迷いを断つためのストア哲学』) - 道徳的動物日記 など。

*3:序数と基数については以下の通り。

効用を測定する方法としては、基数的効用(Cardinal Utility)と序数的効用(Ordinal Utility)とがある。前者が効用の大きさを実数値として測定可能であるとするのに対して、後者は効用を数値として表すことは出来ないが順序付けは可能であるとする

効用 - Wikipedia

読書メモ:『AI時代の労働の哲学』

 

AI時代の労働の哲学 (講談社選書メチエ)

AI時代の労働の哲学 (講談社選書メチエ)

 

 

 人工知能と労働の哲学、といえば「人工知能が発達してシンギュラリティを起こして人間を凌駕する存在になる」ことを前提として、そこから「社会の生産性がすごくなるので人間は働かなくて良くなりみんなが好きなことをして生きていけるようになる」的な楽観論か「仕事を人工知能に代替されることない一握りのエリート階層の人間と、仕事を奪われて失業してしまう大多数の底辺階層の人間とに分かれてしまう」的な悲観論のどっちかを唱える、というのがありがちだ。流行りのベーシックインカムなんかも、前者の場合には人間が好きなことをして生きていけるのを保証するというポジティブなイメージで描かれるが、後者の場合は底辺階層の人間たちが最低限の生活を過ごせるようにするためにお情けで与えられるものというネガティブなイメージで描かれてしまう。

 しかし、この本ではシンギュラリティがどうこうとか「人間による労働が消滅する」みたいな大風呂敷は広げられない。あくまでこれまでの社会の中で起こってきた技術革新や機械化の延長にあるものとしてAIの発展を捉えて、スミスやマルクスやロックやリカードなどの経済学の古典を紐解きながら「労働」や「雇用」や「資本」や「疎外」といった基本的な単語が何を意味するのかということについて地道に再確認しつつ、これまでに起こってきた機械化とこれから起こるAI化の共通点と相違点を考えていく…という、地に足の着いた論じ方がなされている。

 とはいえ、本の後半では人工知能の発展がもたらす「人/物」の二分法の解体や倫理観の変化、これまでに以上に経済活動の高次な側面に参入するようになった人工知能がもはや「人間」として我々の前にたちあらわれる…といったSF的な部分もある未来予想図も展開されている。

 

「労働の哲学」の本ではあるが、前半は概念整理の思想史、後半は抽象的な未来予想図がメインであり、たとえば『働くことの哲学』のように一般的な労働者が自分の経験と照らし合わせながら実感を持って読めるようなタイプの本ではないし、未来予想図についても豊富な具体例を示してくれる『大格差:機械の知能は仕事と所得をどう変えるか』のようにわかりやすくはない。たとえば、私自身としては最近は特に「疎外」概念に関心を持っているのだが、この本の第4章「機械、AIと疎外」で展開されている疎外や「物神性」「物象化」などに関する議論は、思想史的な概念整理としての正確性はともかく、納得感みたいなものはほとんど抱けなかった。

 

 ところで、この147〜149ページでは、カント主義や功利主義が実体的な「人間」概念を取りこぼしたことに対する20世紀終盤におけるアリストテレス的な徳倫理の復活、それの副作用としての「あからさまに人間を序列付ける発想の密輸入」(p.148)が指摘されている。たしかに、近年の英語圏倫理学・哲学や、哲学的知見をふまえたタイプの心理学や社会学の本なんかを読んでいると、古代哲学的な「徳」概念が注目されていることはありありと見て取れる。…一方で、日本では、普段の会話とかネットとかにあらわれる一般の人々の意見を見てみると「徳」概念に関する意識なんて全くなくて、「AIで生産性が上昇してその成果が再分配されてみんなが働かずにラクに生きていけるならそれがベストだ」的な、世俗的な意味での「功利主義」的人間観にとどまっている人が大半であるように思われる*1

「人間でありさえすればいい」とする「人/物」の二分法に、「人間というためにはこうであらなければならない/こうであれば人間である」という条件がもたらされることで、人でない物に人間性が付与される一方で条件を満たさない人の人間性が剥奪されていく、というのがこの本で危惧されている未来図である。しかし、ヤケクソで投げやり的に自ら「人間」であることを捨て去って、「俺は物でいいや」と諦念して満足してしまう人たちも一定層はいそうなところである、と思った。

「アニマルライツセンターの言うことだから信用できない」という物言いについて

gendai.ismedia.jp

 

 ↑ この記事についたブクマなどの反応を見ての雑感。

 

 記事に対する賛否は半々であり、記事で指摘されているニワトリの劣悪な飼育状況に対する懸念を表明する声や改善を求める声もある一方で、記事の著者がアニマルライツセンターの代表であることから、記事自体の信ぴょう性を疑う声があるようだ。
 しかし、私には、「アニマルライツセンターの言うことだから信用できない」という物言いは、かなり奇妙で不合理なもののように思える。

 

 アニマルライツセンターは畜産業や動物実験などの動物を利用する制度の改善や撤廃を求めて運動する団体である。そのことから「畜産業を批判する団体だから、畜産業の問題点をことさらに強調するために、特殊な事例を一般的な事例であるかのようにして針小棒大に騒ぎ立てるなど、印象操作や偏向が存在しているはずだ」という風な推測がはたらいているのかもしれない。
 だが、記事で指摘されているニワトリの飼育制度の問題点は、国内・国外問わず動物の福祉に関心がある人たちの間では以前から指摘され続けてきたことだ。おそらく、特殊事例を一般化して紹介しているわけではないだろう。


 そして、私が気になるのは「アニマルライツセンターの言うことだから信用できない」という反応をしている人たちは、では“誰”の言うことなら信用するのか、ということである。

 

 もしかしたら、「畜産業の内部にいる人の言うことなら信用できる」とでも思っているのかもしれない。
 だが、私から言わせれば、畜産業の内部にいる人からの主張の方が「ごくまれな、動物の福祉に配慮されている良質な飼育状況の事例」を「一般的な事例」であるかのように印象操作される恐れが高い。
 畜産業の内部にいる人としては動物の福祉よりも業界の利益を優先することに経済合理性があり、飼育制度への規制や消費者からの悪影響を避けるインセンティブがあるからだ。
 畜産業に限らない一般論として、ある業界における何らかの制度の問題点が注目されたときには、その業界の当事者の言うことばかりを真に受けるのは賢明な行為ではない。業界の内部にいるということは、要するに利益や生活のためにその業界を擁護するという動機が存在するということだ。業界の内部にいる人は、その業界の事情に関する経験や知識は外部の人よりもあるだろうが、その人の言っていることが正確であるという保証はないのだ(意図的な印象操作ばかりでなく、認知的不協和のために業界の問題点を理解することができなくなっている、という場合も多々あるだろう)。

 その業界の内部で被害を受けてきた人たちや義憤にかられた人たちによる「内部告発」の場合には、その業界全体の利益に逆らう動機が生じるから、話はまた別だ。
 だが、言うまでもなく、畜産場に閉じ込められた動物たちには内部告発を行うことは不可能だ。
 だとすれば、動物たちの置かれている状況の問題点を誰が指摘するのか?

 業界の外にいて、業界の監視・改善(・廃止)を目的とする、アニマルライツセンターのような団体に代表されるような社会運動家たちしかいないだろう。
(もちろん、研究者やジャーナリスト、普通の個人などが業界の問題について調査を行って問題点を発表する、ということもある。しかし、調査することにも発表することにも、時間や金銭などのコスト、また精神的な負担がかかるものだ。継続的な調査と発表は、やはり、団体でなければ行えないものだろう。)

 

 特に日本では社会運動団体というものは不審がられて軽視されがちであり、また、業界やその内部にいる人たちの発表は鵜呑みにする傾向があるように思われる。だが、それは、浅薄な現場主義としか言えない。

 とはいえ、たとえばステマだったりブラック労働の問題だったりであれば、多くの人が業界を批判している。

 

 動物の問題に限って「アニマルライツセンターの言うことだから信じない」的な反応が目立つようになるのは、やはり、認知的不協和が原因だろう。つまり、自分が消費している食物が生産される現場がこれほどまでにひどいということを直視したくない、また直視してしまった結果として生じた罪悪感を解消したいために、「問題点を指摘する側に何らかの問題があるから、この問題は直視しなくてよい」という風に自分を納得させる心理が働いているのだと思われる。
 こういう人たちにもメッセージが届くように「伝え方を変える」なり「イメージを良くする」なりも、社会運動団体に求められることではあるかもしれない。
 だが、それはそれとして、彼らの主張がかなり不合理であることをこうやって指摘しておくことも必要であるだろう。

 

 

davitrice.hatenadiary.jp