道徳的動物日記

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読書メモ:『醜い自由 -ミル「自由論」を読む』

 

 

 タイトルの通り、『自由論』でミルが主張していることについて緻密に分析していく、といった感じの内容。序文では著者は思想史家ではなく、この本にも文献学的な厳密さもないことがことわれているが、実際のところはなかなか専門的で細かい(それゆえに地味)な内容だ。

 

 

『自由論』は魅力的な著作ではあるが、そこでミルがしている主張は一冊のなかにもちらほらと矛盾があったり、根拠がはっきりしていなかったり、論理が飛躍していることも多い。そこをきっちり整えて、ミルが『自由論』でほんとうに言いたかったのはどんな主張であるか、というのを探っていくのが狙い。

 

 全5章だが、その内容は二つの部に分けることができる。

 第一部(1章〜3章)で扱われるのは、「なぜパターナリズムは否定されるべきであり、自己決定が重視されるべきか?」というもの。これに対して、「個人は自己利益に関する唯一の判断者であるから」「個人は自己利益に関する最善の判断者であるから」「個人は自己利益に関する最終の判断者であるから」という三つの説が挙げられたのちに、前者の二つは棄却されて「最終の判断者」説が採用される。

 第二部(4章〜5章)で扱われるのは「なぜ自由を守らなければならないか?」という問題。これについては、「自由には他にはない卓越した価値や幸福があるから」という議論が否定されて、「個人の自由から得られる多様性は個人と社会の双方に価値があるから」といった結論が採用される。

 たとえば「自由を守るべきだ」という主張に関するミルの論証が甘いことはジョナサン・ウルフの『政治哲学入門』などでも指摘されている。……とはいえ、『自由論』の良さは、多少の矛盾を気にせずとも「自由」の持つ価値やその重要性などについて短い分量で当時としては網羅的に語っているところにある、と見ることもできるだろう。実際のところ、『自由論』では自由という価値や幸福の卓越性と自由によって生み出される多様性(の価値)の両方について論じられており、その両方の議論について読者が得られるところは大いにあるはずだ。

 したがって、「『自由論』でミルが本当に言いたかったのはこちらであり、あちらではない」と決定する作業にどれだけ意味があるかということは、わたしにはあんまりわからない。パターナリズム批判や自由の価値の論証について現代的にガッチリとした基準でやりたいのなら、「ミルは何を言いたかったのか」ということにこだわることなく現代人たちでやればいいじゃん……と思ってしまう。

 

 なんにせよ、結論部分は印象に残ったので引用。

 

…画一性のコストよりも多様性のコストの方が高い場合であっても、多様性のコストを支払っているのが、社会全体、あるいは多数派であるとは限らない。たとえば、変な服装をしている人は、変な服を買うためにさまざまなコストを自分で支払わなくてはならないかもしれない。服の費用、評判、などなどである。しかし、それらのコストを負担するのが本人である限り、つまり、「自分で責任をもって危険を引き受ける限り」、社会、あるいは多数派が文句を言う筋合いはないだろう。むしろ、そのような風変わりな人たちは、自分でリスクを負担しながら、社会に利益をもたらすかもしれない行動をとっているのであり、抑圧するのではなく「感謝」すべきである。『自由論』が伝えようとしているメッセージはそのようなものであると思われる。

(p.192 - 193)

 

社会運動をするなら心理学を知らなければならない理由

 

 

 ニック・クーニーによる Change of Heart: What Psychology Can Teach Us About Spreading Social Change (『心を変える:社会変革を拡げるために心理学が教えてくれること』)を初めて読んだのは大学院生の頃だが、他にはないオリジナリティを持った本であるために印象が深く、これまでにもこのブログで折に触れて紹介してきた。いま書いている原稿の参考にするため、先日に改めて読み返したから、こちらでも内容を紹介しよう。

 

 著者はこの本の他にも、効果的利他主義に関する本である How To Be Great At Doing Good: Why Results Are What Count and How Smart Charity Can Change the World ベジタリアンに関する本であるVeganomics: The Surprising Science on What Motivates Vegetarians, from the Breakfast Table to the Bedroom を出している。著者自身も社会運動家ではあるが、その考え方はかなり功利主義的であり、社会運動についても「できるだけ多くの不幸や苦痛や死を減らすために行うべきだ」という考え方をしている。そのため、著者がとくに実践していて関心があるのは菜食主義運動や環境保護運動、国際的な貧困を減らすための運動であるようだ。

 著者も留意しているように、功利主義的な理念に基づいて社会運動を行う人は少数派であり、通常は、運動家自身やその周辺の人たちの利益や興味関心、アイデンティティなどに基づいていることが多い。また、メディアで取り上げられて目立つ物事も、運動の対象になりやすい。しかし、社会運動家であるならどんな運動をどんな風に行うかはやはり功利主義的な観点から考えるべきだ、と著者は説く。通常の社会運動の対象となる物事は恣意的に選ばれているが、「どうすれば世の中を最大限に良くすることができるだろうか」と考えることで、自分は別の問題についての運動を行うべきだということに気がつけるかもしれない。たとえば、環境保護という目標を実現するにしても、単に現在の環境を守るための運動をするよりも世界的な出生率を抑制するための活動をするほうが、将来の環境を持続的に守るという点ではより効果的であるかもしれない(実際に一部の環境活動家はこの考えに基づいて活動の対象を変えているそうだ)。また、ブルース・フリードリッチという活動家は、当初はホームレスの人を支援するための活動をしていたが、動物の問題に集中したほうがずっと多くの苦痛を減らして生命を守れることに気が付いたので、動物の権利団体PETAの副会長になったのだ。

 

 とはいえ、この本の重要なポイントは、社会運動の目標ではなくやり方について功利主義的・プラグマティズム的になるべきだ、と主張している点だろう。

「どんな問題について活動するか」という目標選びは必ずしも功利主義的である必要はなく、人それぞれで違っていてもよいはずだ。一方で、目標がなんであっても、やるなら効果が出るようにやるべきだ、という点についてはより多くの人が同意するはずである。そこで必要となるのが心理学だ。

 個別の目標がどんなものであるかに関わらず、その目標についてより多くの人から同意や支持を得られるように訴えることで、個々人の行動や価値観を変えたり新しい政策が実施されたりすることを目指すのが、社会運動というものである。

 デモにせよビラ配りにせよその他の抗議活動にせよ、それを眺めたり接触したりした一般の人たちに「この問題は重要なんだな」「この問題を解決するために自分もなにかしよう」「次回に投票するときに政党を選ぶ際には、考慮する要素のなかにこの問題を含めよう」と思わせるようにすることこそが、活動の目的である。

 逆にいえば、一般の人たちの意見や考えになんらかの影響を与えられないような活動は、本質的には意味がない。そして、意見や考えとは、(理性だけでなく)個々の人の気持ちや心理に左右されるものである。したがって、一般の人たちの気持ちにより効果的に影響を与えられる活動ほど、そうでない活動に比べて、目標の達成に近付きやすくなる。そして、心理学(や行動科学)には、「他人の気持ちや意見や行動や価値観に影響を与えやすい活動とはどのようなものであるか」ということに関する知見がたっぷりと存在するのだ。

 

 ……とはいえ、「抗議活動は一般の人たちの意見や気持ちに影響を与えられるものでなければ意味がない」というシンプルな事実が、社会運動家たちのなかでは受け入れられなかったり忘れられたりしがちだ。

 その理由のひとつは、個々の活動家たちは「自分たちは社会運動家である」という集団的アイデンティティを強く持ってしまっていることだ。

 社会運動家は「一般人たちのことよりも「自分の活動は社会運動家の仲間たちからどう思われるか」ということのほうを気にしてしまうし、仲間内の価値観に影響されて「一般的な価値観はどうなっているか」ということを忘れてしまう。

 本書のなかで紹介されている印象的な事例は、「環境活動家たちが、デモをする前に髪を切ってスーツに着替えることを拒否してしまう」というものだ。抗議活動をしている人たちの見た目がどんなものであるかは、その活動が一般の人たちに対して与える影響力を左右する。そして、デモを行う労力に比べたら、髪を切ったりスーツに着替えたりする労力は大したものではない。しかし、社会運動家たちの多くは「自分たちは資本主義社会や既存の秩序に争うヒッピーやアナーキストだ」という自認があるため、運動のために生活を犠牲にしたり逮捕されたりすること以上に、髪を切ってスーツに着替えることを嫌がるのだ。……さらに、見た目によって人を判断すること自体がルッキズムという社会問題である。環境保護という正しい目的のために、一般の人たちが抱くルッキズムに従わなければいけないということ自体が、不公正で理不尽なことのように感じられる。

 しかし、環境保護と反ルッキズムを同時に達成しようとすることは「二兎を追うものは一兎をも得ず」となって、なんの効果も得られない。そして、自分たちのアイデンティティから生じる抵抗感を抑えてルッキズムに妥協することで、運動に効果がもたらされて環境保護という目的が達成されて、将来の人間や動物が救えるのであれば、そうしないにこしたことはないのだ。

 他の人や動物の幸福や生命が自分たちの運動の成果にかかっているときには、自分たちの価値観にしがみつくべきではない、ということである。

 また、運動の効果について冷静に考えることで「自分たちがこれまでやってきたことにはほとんど効果がなかったかもしれない」という事実に直面するのを避けるために(認知的不協和)、非効率な方法で運動を続ける人も多い、とも著者は指摘している。

 

 では、「効果的な方法の社会運動」とはどういうものか?

 まず、人間というものは原則として保守的であり、自分の価値観や行動を容易に変えようとはせず、いまの自分の価値観やアイデンティティを守る方向に作用する様々なバイアスを備えている。

 そのため、社会問題の存在を指摘されても、「その問題は他と比較すると大したものではないだろう」「わたしにはその問題に関する責任はない」「この問題について対処するべきは他の人たちだ」といった風に、価値観や行動を変えない理由をまず探してしまうものだ。

 現状維持バイアスのほかにも、公正世界信念のバイアスによって「その問題で被害を受けている人たちにも責任があるはずだ」と考えてしまったり、貢献度の過大視バイアスによって「自分はこの問題について然るべき貢献をもうしている」と自分に甘い判定を下したりするし、「この問題は重要だ」と認めてもそれを行動に移さないという「態度と行動とのギャップ」があったりするし、犠牲となる人が多いような重要で深刻な問題についてほど共感や同情が機能しなかったりするし(「特定可能な被害者効果」の逆バージョン)、そもそも考えることを拒んだりする。

 

 これらのバイアスを前提にしたうえで著者が提案するのが、バイアスに抵触しない方法で問題を訴えたりする方法や、バイアスを逆利用したナッジ的な対処法だ。

 たとえば、一般の人たちは「自分にも責任がある」と言われると責任を回避するために問題の存在自体を否定したり無視したりしてしまうので、「自分が責められている」と思わせないような方法で問題を訴えたほうがいい(市民たち一般の責任を強調するのではなく、大企業といった特定の対象の責任を強調することなど)。

 自分の行動や価値観を変えるべき理由を目の前で述べられた人の大半は「変えなくていい理由」を思いついて反論しようとするから、問題について伝えるにしても「こいつらはおれの行動や価値観を変えようとしているのだ」とは思わせないほうがいい(また、目の前で議論するのではなく、行動や価値観を変えるべき理由を書いたパンフレットや本を渡すほうが、相手が「おれの行動や価値観を変えようとしてくる奴」の存在を意識せずに議論に向き合ってくれやすくなるので、効果が高い)。

 統計よりは、かわいそうな被害者の個別的具体的なエピソードを述べたほうが真剣な関心を惹きやすい(ただしグロ画像などは直感的な拒否反応につながってしまうので逆効果)。

 一般の人たちと社会運動家たちや運動との対象となっている人や動物との違いや対立を強調するのではなく共通点を強調することのほうが、仲間意識や親密さなどのポジティブな感情につながって、拒否反応を減らすことができる。

 罪悪感を抱かせることは問題の存在を否認する反応につながるから止めたほうがいい。また、上述したようにルッキズムを利用することや、「権威に対する弱さ」という人間の習性を利用することもひとつのテだ。……などなど。

 

 この本が面白いのは、人間の「理性」が持つ力をとことん弱く見積って、「感情」の力を強大なものと認めたうえでそれを操作するための方策をあれこれと考えているところだ。それ自体はナッジや行動科学に関する本では定番のパターンであるが、この本では「社会運動」というきわめて民主主義的な物事をテーマとしながらも、民主主義の根本にあるはずの「理性」や「議論」が持つ力をほぼ否定する感じになっているところにオリジナリティがある。書き振りはポジティブで建設的だが、その背景にある人間観はかなりシニカルなものとなっているのだ。

 もちろん、近頃ではナッジの効果や心理学実験の再現性に疑問が生じているように、この本で紹介されているテクニックにどこまでの効果があるかというのには怪しいところもあるだろう。とはいえ、人間が保守的で現状維持的なバイアスを持っているということ自体は事実であるだろうし、その事実は民主主義や社会運動にとってかなり厄介なものであるということが、この本では逆説的に示されている。

 また、この本の内容や著者のスタンスが多くの社会運動家をイラつかせるものであることも間違いない。

 いずれにせよ……「感情」に関して倫理学的に考えていくと、人間の感情はバイアスまみれで信用できないものであるからこそ、他人に関することや社会的・政策的なことについては理性に訴えるのではなく感情を適切に操作するべきであるという功利主義的・ナッジ的な考え方はひとつの見識であり、耳を傾けるべきものがある。

 一方で、自分のことに関しては、自分には現状維持や自己正当化などのバイアスがあることを理解するからこそ感覚的な拒否反応に蓋をして、相手の言うことにあくまで素直に耳を傾けることを目指す、というくらいが丁度いいように思える。相手の議論に対する反論が思いついたときにも、その反論が自分自身の現状維持バイアスや自己正当化バイアスに影響されたものでないかどうか、まずは自省して確認する、という慎重さも必要になるかもしれない。いずれにせよ、感情やバイアスに左右される非理性的な存在のままであり続けることよりかは、難しさを乗り越えた先にある理性を行できる存在になろうとするほうが、社会にとっても自分にとってもよいことであるだろう。そういう意味ではストア派の哲学もいろいろと重要であるな、と最近は改めて思うようになっている。

「男性にも"ことば"が必要だ」:補足と宣伝

 

s-scrap.com

 

 晶文社のサイトでわたしが行っている連載だけれど、今月の記事がかなり多くはてなブックマークが付いている(Twitterでも話題になっている)ので、せっかくなのでこちらで補足と宣伝。

 

・「めちゃくちゃ長い」「長くて読めなかった」というコメントが散見されるけれど、晶文社のサイトの連載は後日に単行本化することを前提にしているものなので、Web記事としてというよりも、のちに本のなかの一章として読まれることを想定しながら書いている。

 たとえば2020年から2021年にかけて掲載した9つの記事は、加筆修正したうえで、『21世紀の道徳:学問、功利主義ジェンダー、幸福を考える』に収められている。本書にはさらに4つの章が書き下ろしで追加されています。『21世紀の道徳』をまだ買っていない人は買ってください。

 

honto.jp

 

 

 

・記事内で紹介した、心理学者のトマス・ジョイナーによる、男性の自殺率が高い理由とそれを予防するための具体的な方策についての議論は下記の記事にまとめている。

 

gendai.ismedia.jp

 

 ジョイナーの著書のいくつかは日本でも翻訳されているが、「男性の自殺」というテーマにスポットを当てた Lonely at the Top: The High Cost of Men's Success は未邦訳。だけれど、そのうち日本の読者にも届けられるかもしれない。

 

・「男性特権」という概念(の問題)については、先月の記事で詳しく論じている。

 

s-scrap.com

 

・男性の苦悩について社会的や政治的にどう扱うべきかとか、「非モテ」の問題についての議論はまだ構想中であるが、この問題を言語化するうえではマーサ・ヌスバウムなどによる「ケイパビリティ」概念を援用すればうまくいくんじゃないか、と思っているところだ。ただし、このトピックについて議論をまとめられるのはしばらく先になりそうである。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

ヌスバウムと言えば、彼女が『感情と法:現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』で行っていたような「感情」に関する議論も、今シーズンの連載(またはそれを単行本化した際の書き下ろし)では取り入れるかもしれない。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

アリストテレスの『ニコマコス倫理学』の最終章の題は、「人間に関する哲学は倫理学から政治学へ向かうこと」である。

『21世紀の道徳』がタイトル通り「道徳(倫理学)」をテーマにしていたのに対して、今シーズンでは「政治」がテーマになりそうであり、それに伴って議論の内容もより複雑で曖昧なものになりそうだ。

 また、『21世紀の道徳』では自分の主張を展開するだけでなく、倫理学者たちの理論や心理学や人類学の知見などを読者に対して提供すること(それによって読みものとして面白くして、読者にとって本の価値を増させること)をねらった。

 一方で、今シーズンでは、フェアでフラットな視点を忘れないようにしながらも、政治や「正しさ」が関わる物事に対してわたし自身が抱いている主観的な「モヤモヤ」について、できるだけ丁寧に言語化することをこころがけている(だからひとつひとつの文章が長くなってしまうのだ)。ある種の「正しさ」に対してそのような向き合い方をできる人がわたし以外にあまりいなさそうなこと、そしていまの時代に関してわたしが(そして多かれ少なかれ他の人たちが)抱いている「モヤモヤ」を言語化して残しておくことにも価値があるはずだと考えているからだ。

 

・今週の土曜日に渋谷ロフト9でイベントやるのでチケット買ってください(配信でも買ったら見れます)。

 

www.loft-prj.co.jp

 

 

・わたしの作家活動を支援したい人はぜひコーヒーとかノンアルコールビールとか米とか胃腸薬とかをを買ってください(切れてきたので)。本なら『現代倫理学基本論文集II: 規範倫理学篇1』とか『生活の豊かさをどう捉えるか』とか『怒りについて』あたりがほしい。ホッブズの『リヴァイアサン』もほしくなってきた。経済学も勉強したいなあ。

 

www.amazon.co.jp


「正しい」議論と「優しい」議論

 

 とある雑誌に依頼を受けて文章を書き出したはいいものの、批判対象を明示せずにふわっとした印象に基づいてレッテルを貼ってぐちぐち論難する文章になっていき、書き進めているうちに自分でウンザリしちゃったのでボツにして雑誌のほうはまったく異なるトピックや構成でイチから書き直すことにしたんだけれど、それはそれとして、せっかく途中まで書いたのを捨てるのも勿体無いのでこのブログに掲載することにした。

 内容としては、とにかくわたしがイラつかされている議論とか風潮とかを一緒くたにしてまとめて非難する、というもの。最近に限らず以前からなんだけれど、本屋に行って『現代思想』とか『文藝』とか集英社新書ちくま新書とかを立ち読みするたびにいつもイライラしながら帰ることになっているので、そのあたりのストレスをこの文章に託した。おかげで多少はスッキリしたので明日から書く文章はもっとまともで生産的なものになると思う。

 

 

 

 人が社会のなかで生きていくうえでは、さまざまな「正しさ」に従わなければいけない。

 たとえば、学生であっても働いている人であっても、周りから評価されたり報酬を受け取ったりするためには、課題に取り組む努力をすることや能力を発揮して結果を出すことが求められる。グループワークを行ったりチームとしてタスクに取り組んだりするためには、同級生や同僚とコミュニケーションをとりながら協力しなければいけない。授業や職場に遅刻すると単位や給料に関するペナルティが与えられるおそれがあるから、朝にはきちんと起きて家を出発できるようにしなければならない。いつも体を壊していたり二日酔いでいたりすると勉強も仕事もままならないから、学校や職場の外でも生活習慣に気配りする必要があるだろう。

 そして、わたしたちが他人と関わりながら生きていくためには、「感情」を制御することが絶対に不可欠だ。たとえば、授業の内容が気に食わなかったり、他の学生たちがぺちゃくちゃと喋っているせいで教師の声が聞こえなかったり、上司からの叱責が理不尽なものに思えたり、下請けのミスのせいで自分の担当しているプロジェクトに問題が生じたりしたとしても、「怒り」は適切に抑えることが必要とされる。激昂して教師や上司をぶん殴ったり他の学生や下請けの担当者を蹴り飛ばしたりしてしまいたくなる人もいるだろうが、それらの行動を実行すると、学校や職場を辞めさせられるだけでなく警察に逮捕されてしまう可能性もある。机や壁などのモノをどんどんと叩いたり大声を発したりすることでストレスを解消することはできるかもしれないが、それだって人前で行うべきではない。同級生や同僚の目の前でモノに当たっている人は周囲から敬遠されて孤立するだろうし、道端で大声を発すると知らない人にショックや恐怖を与えてしまうことになる。

 負の感情だけでなく、親密さや愛情といったポジティブなものにすら、制約をかける必要がある。自分が育てている子供や飼っているペットのことがいくら大好きでずっと一緒にいたいと思っていても、子供やペットを養うためには、家族のなかのだれかは家の外に出て働きにいかなければならない(自宅でリモートワークするにしてもずっと子供やペットを相手にしていられるわけではないだろう)。ゼミや職場にいる誰かのことを恋愛的な意味で好きになってしまったとしても、その好意を示すことには慎重になったほうがいい。相手から受け入れられなかったり嫌がられたりすると、お互いにとって、学校や会社に行くことが負担になってしまい、社会生活に影響が生じてしまうからだ。誰かと一緒になるためには、相手の意思を尊重しながら、段階を経て仲良くなっていく必要がある。一緒になった後も、二人の生活を維持していくためにはやはり社会に出て金を稼ぐ必要はあるだろうし、相手からの好意を維持するために気配りも必要となる。

 

 要するに、「正しさ」とはわたしたちに不自由を押し付けるものである。現代社会に暮らすわたしたちは、所属する集団や身の回りの人たち、あるいは道ですれ違う知らない人たちや顔を合わせることもない人たちを含む「世間」のことも考慮しながら、自らの行動や習慣や感情を制御する必要がある。そうでなければ法律によって懲罰を受けたりするかもしれないし、学校を卒業してやりたい職業に就いたり会社で出世して給料を上げて欲しいものを買ったりするといった自分の望みを実現することもできなくなる。つまり、現代社会では「正しさ」に従っても従わなくても、結局は不自由になってしまう。「正しさ」から逃れることはできない。

 とはいえ、みんなが「正しさ」に従っているからこそ、社会は安全で豊かな場所になっている。

 自分が街を歩いているときのことを考えてみよう。街中でなにかムカついたことがあるときに大声を発せないのは、たしかに不自由であるかもしれない。けれども、街を歩いているときに大声を発する人と遭遇することは、たまにはあるかもしれないが、すれ違う人の数を考慮するときわめて稀である。みんなが些細なきっかけで生じる怒りやムカつきをその場で行動に表出するような街はおそろしく物騒で緊張に充ちた環境になり、誰も住みたいと思わないはずだ。それに比べると、自分を含めたみんなが怒りやムカつきを抑えることのほうが、多少不自由であってもずっとマシである。ほとんどの人はそう考えるはずだ。

 そして、街を歩いていれば、見知らぬ誰かが「正しさ」に従っていることの恩恵をさまざまなかたちで得ることができる。ゴミの日でもゴミ袋が昼まで放置されていることはない。ゴミ収集業者の人たちが朝のうちに回収してくれているからだ。自販機はたまに飲み物を切らしていることもあるが、大体の場合は好きな飲み物を選んで買える。業者の人が補充してくれるから。コンビニでは常に誰かが働いているから、空腹になったら24時間のうちのいつでも入ってなにか軽食を買うことができる。ついでに言うと、その食事の原材料は国内か国外の農家の人たちが働くことによって生産されたものだろう。ゴミ収集にせよ農業にせよ、それらの仕事をしている人は一般的な会社員よりも早起きしており、そのために生活習慣を律している。飲料を補充する業者の人やコンビニ店員が規律を守らずに好き勝手に動いていると、喉が渇いたりお腹が空いたりしても飲み物や食べ物を得られなくなってしまうかもしれない。もしある日突然そんな状況になってしまったら、わたしたちの生活は台無しになるだろう。「ゴミ収集業者の人もコンビニの人も仕事をしなくなる代わりに、あなたも仕事をしなくて良くなるよ」と言われたとしても、ほとんどの人には受け入れ難いはずだ。わたしたちの生活は、習慣を整えて規則を守りながら自分の持ち場で仕事をするという「正しさ」に自分も他人も従うことで、そうでないよりもずっと便利なものになっている。

 わたしたちの生活に彩りや充実を与えるエンターテイメントすら、「正しさ」を前提としていることも忘れるべきではない。マンガや映画やドラマでは多種多様な物事が展開されており、そのなかには、わたしたちが縛られているような「正しさ」が存在しないファンタジー世界を舞台としたものもある。けれども、マンガ家が締め切りを守って編集者がそれを確認して印刷所やWeb会社の人などが働かなければ、わたしたちはそのマンガを手に取ったりスマホに表示したりして読むことができない。そして、映画やドラマの制作現場と流通に関わる関係者の数はマンガの比ではない。その人たちのすべてが、時間や規律を守りながら自分の職務をこなすことでようやく、わたしたちが楽しむ物語が生産される。このことは、音楽やスポーツ観戦などのほかのどんなエンターテイメントについても多かれ少なかれ当てはまるはずだ。

 

 ここまでにわたしが書いてきたことはきわめて凡庸で、当たり前のことだ。社会の構成員のみんながルールを守り、行動や感情をコントロールして、自分の勤めを果たす。そうしない人の数が増えると社会の安全や豊かさが失われてしまうから、みんなが「正しさ」を守るべきであり、守らない人にはなんらかのペナルティを与えるべきだ。

 凡庸で当たり前のことであるとはいえ、この考え方は、古代から道徳や政治に関する哲学の基本的な発想となっている。古代ギリシャなどで語られていた「正義」にせよ、古代中国などで語られていた「徳」にせよ、社会秩序という観点を抜きにしては論じられていなかったはずだ。近代になってからは、「みんなが秩序を守ろうとしないと全体的な環境がより悪くなってしまうから、秩序を守らない人に制裁が科されることを認めたうえで、自分も秩序を守ることに同意する」という理路で「正しさ」の起源や必要性を論じる主張が、「社会契約論」というかたちで発展してきた(社会契約論にもいろいろあるけれどここではホッブズのそれを特に想定している)。同じく近代になって本格的に登場した経済学では、「正しさ」が豊かさをもたらすということが、現在に至るまで論じ続けられている。

 もちろん、道徳や政治に関する哲学にせよ、経済学にせよ、各時代の社会における「正しさ」をそっくりそのまま認めてきたわけではない。たとえば、君主や貴族が過剰に権力を握っており、自分たち以外の人たちに比べて不当に多くの豊かさを得ていることや、他人たちに必要以上の不自由を押し付ける一方で自分たちは守るべきルールから逃れられていることが、平等や正義の理念に反しているとして批判されてきた。現代であっても、資本家や富裕層が社会に対して然るべき貢献もしていないのに過度な富を得ていること、規則を守りながら大変な仕事をしている労働者たちが得られている報酬が労力にまったく見合っていないことなどが、「搾取」であるとして批判されている。とはいえ、それらの批判は、「正しさ」を否定するものではまったくない。そこで目指されているのは、その時々における秩序が歪んでおり貴族や資本家などにとって都合の良いものになっていることを指摘したうえで、本来あるべき「正しさ」を実現しようとすることだ。

 だから、倫理学や政治哲学における主流派の見解は、現状の世間における「正しさ」を一概に否定しないものであることが多い。「正しさ」の範囲を広げて、わたしたちに課される要求や義務を足すことはある。たとえば、わたしたちは自分の住んでいる地域や国内の人だけでなく海外の人についても配慮するべきだと要求したり、人間に対する義務だけでなく動物に対する義務もわたしたちは持っているのだと論じられたりする。しかし、わたしたちに課せられている要求や義務が減らされるべきだという主張は、なかなかされない。現状の「正しさ」においてわたしたちが他人に配慮しなければならなかったり自分を律したりしなければならないことは適切であるとしたうえで、それでもまだ理想の「正しさ」の基準に到達していない、と論じられる。そして、制度を変えたり資本家や政治家などの特定の層が負うべき義務を増やしたりするだけでなく、個々の一般人であるわたしたちの行動や生活スタイルまで見直す必要がある、と主張されるのだ。

 したがって、倫理学や政治哲学、あるいは経済学や公共哲学などでなされる「正しさ」に関する議論の大半は、わたしたちにとっては鬱陶しく面倒で不愉快なものだ。現状の社会は(20世紀以前などに比べれば)それなりに豊かであるとしても、多くの人にとって賃金は未だ少なく労働時間は長い。「搾取されている」と客観的に判断されるような人や、ワーキングプアであったりする状態の人に関しては、賃金を上げたり補助がされたりするべきだということは「正しさ」の論理でも主張されるが、それとは別問題として、経済状況がどうであれどんな人も規則を守ったり義務を負ったりするべきだとも論じられる。現時点でつらい気持ちを抱いている人にとっては、自分のすべきことについていま以上にこと細かく要求したり新たな種類の義務を負わせたりしようとする倫理学的・政治哲学な「正しさ」は理不尽でイヤなものとしか感じられないだろう。だが、主観的な「つらさ」は「正しさ」から逃れる理由としては認められない。このため、大半の人にとって、「正しさ」の論理から救いを得られることはできない。

 それに、なんといっても、「正しさ」に関する議論はつまらない。ある意味、倫理学や政治哲学の本の大半とは、大人向けにレベルアップした「道徳」や「公民」の教科書でしかない。それは読んだり聞いたりしていてワクワクするようなものではないのだ。

 

 このため、大半の人が本を読むときには、「正しさ」に関する議論とは異なるものを期待する。

 最も手っ取り早いのはフィクションだろう。『実践の倫理』や『正義論』などとは違い、『呪術廻戦』や『ゴールデンカムイ』は読んでいて気晴らしになる。疲れたり集中力がなかったりするときでも読むことができるし、読んだらストレス解消になる。このあたりが、本を読む人の多くがマンガだけしか読まなかったり、活字を読む場合にも小説しか読まなかったりする理由だ。なにが正しいのかとか、世の中はどうあるべきだとか、わたしたちはどう生きるべきかとかいったことに関する議論について、ふつうの人は学校を卒業した後にも自分から本を手に取ってまでして付き合おうとはしないものなのだ。

 とはいえ、世の中には、小説以外の活字本も開いてみて、社会や政治や道徳といった事柄に関する議論に触れてみようとする人もいる(忘れられがちだが、この時点で、その人はそれなりに奇特である)。だが、社会や政治や道徳に関する本を読む人であっても、「正しさ」を求めているとは限らない。大学などで研究している人ならいざ知らず、そうでない人たちが政治や道徳に関する議論に求めるものとは、「優しさ」であることが多いようだ。彼や彼女は、規律を守ったり感情を制限したりするといった「正しさ」を否定して、自分が社会に適応させづらい資質を持つことや社会の秩序についていけないことを受け入れて、自分が抱いている感情をありのままに認めてくれるような議論を期待しているのである。

 

「正しさ」を否定する「優しい」議論にも、いくつかの種類がある。

 わかりやすいものとしては、「すべての道徳や規範は虚偽であり無意味であるので、わたしたちがそれらに従う義務や必要は一切ない」といった、ニヒリズムやアモラリズム(無道徳主義)を唱えるものがあるだろう。この主張を敷衍すれば、他人を不愉快にさせないために感情を抑えたり身近な人に迷惑をかけないために遅刻しないようにしたりするといった「正しさ」も、作り事であるとして否定することができる。

 ……とはいえ、ニヒリズムを認めると、自分だけでなく他人までもが「正しさ」を守らなくてよいということになる。そうすると、友人や同僚に遅刻されて迷惑を被ることも受け入れなければならなくなるし、いつ自分が他人の怒りの捌け口とされて殴られてしまうかもわからなくなってしまう。

 結局のところ、ニヒリズムやアモラリズムは「力ある強者が自分の意思を押し付けて、力のない弱者はそれを粛々と受け入れる」といった弱肉強食的な世界や「お互いの利益になっている間は相手と協力したり約束を守りあったりするけれど、利益にならなくなった途端に協力を打ち切って約束を破る」といった殺伐とした世界を肯定することにしかならない。それでは、「優しさ」を期待する人たちが求めるのとは正反対の議論となってしまう。

 このため、「優しい」議論の多くは「正しさ」のすべてを否定しようとするわけではない。実際には、ある種類の規則に従ったり義務を守ったりする必要があることは認めながらも、別の種類の規則や義務の必要性を却下することで、自分にとって負担となったり都合が良くなかったり気分が悪かったりする「正しさ」だけを部分的に否定する議論が主となっているのだ。

 

 現行の「正しさ」を否定する議論のなかでも代表的なものが、旧来の議論の前提となっている人間像を批判するタイプのものだ。

 たとえば、昔ながらの社会契約論では人間が利己的な存在であるとみなされて、自然状態では互いを利用しあって傷付けあう存在だと考えられるからこそ、国家や制度による強制や制裁が必要であると主張される。

 これに対して、「優しい」議論では、「人間が利己的な存在である」という前提が否定される。つまり、国家や制度がなくとも人間は互いを尊重しあうことができ、生産的な協力を実現したりすることもできる、と論じられるのだ。

 この議論によると、政治哲学は過剰に利己的な人間像を描いてきたために、国家によってわたしたちの自由が不当に制限されたり、私人たちが信頼に基づく豊かな人間関係を築く機会が諸々の制度によって奪われたりすることを看過してきたと主張される。本来、国家にあれこれと行動を制限されたり指図されたりしなくても、わたしたちは平和で安全な社会を自発的に築けるはずだったかもしれない。むしろ、殺伐とした人間像に基づく政治システムの下で暮らすことによって、私たちは味気なくストレスフルな「正しさ」に従属させられる羽目になっている……と主張されるのだ。

 また、政治哲学とセットで経済学が槍玉に挙げられることも多い。経済学は人間が合理的に利益を追求する存在であると前提したうえで自由市場や資本主義などのシステムを肯定してきただけでなく、それに伴うさまざまな弊害にも目を瞑ってきた。現行の社会で搾取や格差が激しくなっていて、再生産労働が軽視されていて、地球温暖化や環境破壊が深刻化しているのは、すべて経済学が合理的な人間像を前提にしてきたせいだと、「優しい」議論は主張する。    

 だが、もし人間は経済学が前提としているほど合理的な存在でなく、利益を追求するだけでなく他者への愛情や信頼などを重視できる存在であるとしたら、自由市場や資本主義などとは異なるかたちの経済が実現できるかもしれない。そのような経済に基づく社会では、現行の「正しさ」に従わなくても、わたしたちは豊かに過ごせるはずだ。新しい経済は貨幣ではなく贈与に基づいたものになるかもしれないし、生産手段は独占されるのはなく共有されるかもしれない。すくなくとも株式とか資本といったものはなくなりそうだし、格差や搾取もなくなりそうなものだ(それらは自由市場や資本主義に特有のものとされるから)。現行の社会では多くの人が生きるためにしたくもない仕事をしているが、新しい経済の下では、みんなが自分の価値観に基づいてやりたい仕事をできるようになるかもしれない。もしかしたら24時間営業のコンビニや自販機といった便利なものもなくなるかもしれないが、農業やゴミ収集といった社会に不可欠な仕事は存在しつづけるだろう(人間は愛情や信頼を大切にできる存在であるとすれば、だれかがやらなければみんなが困るような仕事は、どこかのだれかが自発的にやってくれるはずである)。

 もちろん、そのような社会では、資本主義における「正しさ」の多くに従わなくてよくなるはずである。たとえば、現行の社会では「お金を必要としているなら、(そして仕事ができるような状態であれば)職を探して働き始めなければならない」「もっとお金を稼いで豊かになりたいなら、職場で能力を発揮したり資格を取ったりするなどの努力をしなければならない」といったことが常識となっており、それによって仕事が嫌いであったり苦手であったりする多くの人が苦しめられているが、経済が資本主義でなくなるならこの常識からも解放されることが期待できる。

 

 政治や経済に関する「優しい」議論を素描すると、上述したようなものになる。

 言うまでもなくこの素描は戯画的であり誇張したものではあるが、ポイントをまとめると以下のようになる。

「優しい」議論では、主流派の政治学や経済学の議論が前提とする利己的で合理的な人間観を否定することによって、現在の社会の主流となっている「正しさ」も否定する。そして、利己的でも合理的でもない真の人間像を発見することとで新たな「正しさ」を想像することができる、という示唆がなされる。

 …とはいえ、それは示唆に留まることがほとんどであり、現在の国家制度や資本主義システムの代替になるような具体的な展望が示されることはほとんどない。せいぜいのところ、過去のどこかや現在の辺境に存在している一部の部族社会や農村社会について、安全でないとか不便であるとか貧しいとかいったことには目を瞑りながら理想化するだけだ。それらの社会が現在の社会のオルタナティブになると本気で主張するわけではなく、どちらかというと、国家や資本主義に伴う鬱陶しくて窮屈な「正しさ」の束縛から解放されるという「夢」を託すかのような議論が多い。

 そして、それこそが「優しい」議論を求める読者が望むものである。結局のところ、自分の暮らしている社会の前提となっている国家や資本主義といった制度がなくなったり大幅に変わったりするという主張にリアリティを感じるのは難しい。変わるとしても自分が生きている間に変わるかどうかはわからないし、変わったとしてその社会が現在より良くなるかどうかについても確信は持てない。だから、現行の「正しさ」を否定しつつ、そのオルタナティブは「夢」として、曖昧で手の届かないものとして描かれるくらいがちょうどよいのだ。

 

 とはいえ、政治学における社会契約そのものは「正しい制度や政治とはなにか」を問うための仮説であったり思考装置であったりするとしても、「人間が利己的な存在である」という前提は、通常、説得力を持つものと見なされてきた。

 国家などの強制力がなければ人間が他人に対してどこまで残忍になれるか、規律を守らずに好き勝手して社会がどれほど混乱するかということは、歴史上や現時点に存在する数々の事例を見ればわかる。

 また、「人間は合理的な存在である」という前提については、経済学のなかでも数々の修正が加えられている(いまでは人間の「不合理性」を強調する行動経済学の議論を知らない人はほとんどいないだろう)。しかし、「人間はある程度の不合理さを持つ存在である」ということが正しくても、「人間はまったく不合理な存在である」ということにはならない。そして、人間に利他心や不合理さが多少ばかり存在するとしても、現行の国家制度や資本主義システムはそれを織り込んで依然と存在することはできる。結局のところ、オルタナティブな「人間像」を描くことで既存の「正しさ」を否定しようとする議論はうまくいかないのだ。

 

「正しさ」を否定する「優しい」議論には、ほかにもさまざまなタイプがある。

 飽きてきたのでここからはさらに雑な紹介になるが、たとえば、健康や公衆衛生に関わる諸々の政策などを否定する議論。現在の社会では自分の健康を守るために(そして健康を崩して他人や社会に無用な迷惑や負担をかけないために)食生活や生活習慣を律することが期待されていて、タバコの副流煙は他人の健康を侵害するものであるから喫煙場所が制限されていて、ワクチンの接種は自治体や職場から半ば強制されていてと、健康に関する諸々の行動が「正しさ」によって制限されたり押し付けられたりする。だが、自分の健康を顧みず暴飲暴食したい人や他人の迷惑も気にせずにタバコを吸いたい人やワクチンが不安で接種したくない人は、そういう「正しさ」をもちろん嫌がる。そんな人たちのためには、生権力がどうこう言ったり管理や支配があーだこーだと言ったりしながら健康や公衆衛生に関する「正しさ」を否定する「優しい」議論が存在している。

 生活したり他人と協働していくためには感情を適度に抑えて、人に対して意見を言ったり要求したりするときにはできるだけ冷静で客観的であったほうが望ましい、という「感情」に関する「正しさ」についても、それを否定する「優しい」議論は存在する。とはいえ、中年男性がキレることまでをも肯定する議論は存在せず、基本的には女性やその他のマイノリティだけの感情を選択的に肯定する議論となる。たとえば、「“女性は感情的で非理性的な存在である”というステレオタイプが存在してきたからこそ、女性は自分の感情を抑えようとするプレッシャーにさらされ続けてきたし、女性の発言はどれだけ冷静で理知的なものであったとしても耳を傾けられてこなかった」といったジェンダーに関する「歴史」が滔々と述べられたうえで、「女性はどうせなに言っても感情的だと言われるんだから、それじゃあむしろこれまで抑えつけてきた感情を表出することのほうが正しいのだ」といったロジックによって、女性の感情を怒りといったネガティブなものも含めてまるごと肯定する……といった議論がここ最近ではかなり流行っている。

 健康に関するものにせよ感情に関するものにせよ、これらの「優しい」議論には普遍性がないことが難点だ。暴飲暴食する人や所構わずタバコを吸う人やワクチンを拒否する人が少数派であるうちは問題ないが、多数派になると社会の負担が過大になって保険制度に歪みが生じたり公共空間が機能しなくなったりする。男性の「怒り」までもが肯定されるようになるとどう考えても世の中がロクでもないことになるのでジェンダーの「歴史」についての主張を経由して女性の「怒り」だけを選択的に肯定するわけだが、その「歴史」にどこまで信憑性があるかわからないし、歴史がどうであるかということと現在の社会のなかで生きている女性がどうするべきかということは本来別問題であるはずだ。

 

 結局のところ、「正しい」議論とは異なり、「優しい」議論は、それに触れる読者の感情や願望を肯定するためのものに過ぎない。

 政治や社会について論じてはいるが、自分たちの結論が社会的に採用されて政策などに反映されたり一般の人たちの価値観を変えたりするとは、「優しい」議論を行なっている当人たちも思っていないし、それを志向すらしていないかもしれない。その議論は学会や論文誌や学術書や文芸誌や素人のブログやSNSの駄弁りなどのなかで完結するものに過ぎず、現状の「正しさ」をイヤに思っていたり負担に感じていたりする人の気持ちを一時的に解放して「世の中がこんな風であったらいいのになあ」という幻想に浸らせる、気休めであるに過ぎないのだ。

 とはいえ、漫画や映画といったエンターテイメントが気休めであることは周知の事実であるのに対して、「優しい」議論の提唱者たちは自分たちがやっていることが気休めであることを公言しない。「優しい」議論が読者たちに見させる夢のリアリティを増すためには、「正しい」議論に並び立って反論を行なったりする「議論」の形式をとりながらもっともらしさをキープすることが重要なのであり、「わたしたちのやっていることは議論ではなく気休めなんですよ」と公言した時点で、気休めとしての効果が失われてしまう。

 そのために、「優しい」議論を本気で真に受けてそれに一生を捧げてしまう人もいるし、才能や知能を持つ個人や税金とかの公的なリソースが「優しい」議論に吸収されてしまう。それらの個人やリソースが「正しい」議論のほうに投入されていたら、世の中はもっとよくなっていたかもしれない。

 まじめに物事を考えたいときには「正しい」議論に付き合うべきである。そうでなく気休めが欲しいときには難しい本ではなく漫画を読めばいいし、Netflixを観たりゲームしたりしていればよいというのが、わたしの言いたいことだ。

 

 

政治参加(熟議民主主義?)が個人の思考・感性にもたらすメリット(読書メモ:『正義論』その①)

 

 

 

 散々いっぱい入門書を読んでから「いざ」と意気込んでジョン・ロールズの『正義論』を読んでみたはいいものの、これがおそろしくつまらない。なにしろいちいち長ったるしく、注意して読まなければ「ロールズ自身の主張」と「(続く文章で反論するために出している)相手側の主張」との区別も難しくつい混合してしまうし、同じような主張が繰り返されるし、なんといっても悪文だ(翻訳も良くない気がするけれど、原著も名文ではなさそうな予感がする)。同じタイミングでJ・S・ミルの『自由論』を読み返していたぶん文章のひどさが強烈に伝わってきたし、いくら哲学の学術書だとはいえ読みものとしての面白さがないとテンションやモチベーションが下がる。よくみんなこんな文章を必死に読めたものだなと思う。

 まあそれはそれとして、いつものように、気になった箇所を(写経的に)メモ。

 

 

さらに平等な政治的権利の価値が公正である場合、自己統治には、平均的市民の自己肯定感と政治的力量の感覚を向上させる効果がある。市民はおのれの共同体における小規模の連合体の中で自分の真価について自覚して行くが、その自覚は社会全体の基本法において強固なものとされる。市民は投票するよう期待されているから、政治的意見を抱くことも期待されている。市民が自己の見解を形成するために捧げる時間と思考が、彼の政治的影響力を通じて得ることになりそうな物質的見返りによって律せられることはない。むしろ、おのれの見解を形成すること自体が楽しい活動であり、それによって社会観が拡大され、そして彼の知的・道徳的能力が向上する。ミルが気づいていたように、市民は自分以外の人びとの利害関心を考慮するよう求められており、また自分自身の性向ではなく何らかの正義および公共善の構想によって導かれるように求められている。自分の見解を他の人びとに説明しかつ正当化しなければならないとすれば、市民は他の人びとが受諾しうる原理に訴えかけなければならない。また、もし市民たちが政治的義務と責務に関する肯定的・積極的な感覚をーーすなわち法と政府にただおとなしく従おうとする意欲以上のものをーー身につけるべきであるならば、公共精神を目指す教育を施すことが必要となる。このようにミルは付言している。このような〔公共精神に向かう〕包括的な情操がなければ、人びとはおのれの小規模の連合体の中で互いに疎遠となり孤立するようになる。また、家族あるいは狭い友人の輪を超えて愛情の絆が広がることはあるまい。市民たちはもはや、互いを公共善の何らかの解釈を推進すべく協働できる仲間としては捉えない。代わりに、市民たちは互いを競争相手として、さもなければ互いの人生目的の障害物として見なす。以上のような留意事項は、すべてミルたちのおかげで周知のこととなった。平等な政治的自由はたんなる手段にとどまらないことがこうして判明している。これらの自由は、自分自身に価値があるという人びとの感覚を強め、知的・道徳的感受性を高め、正義にかなった制度の安定性を左右する義務と責務の感覚の基盤を提供する。こうした重要事項と人間的善および正義感覚の間にあるつながりについては、第三部で論じることにする。そこでは、以上のものごとを<正義の善>という構想のもとでしっかり結びつけることを試みる。

 

(p.316 - 317)

 

 関係しそうな議論として、『リベラリズムの系譜学』からハーバーマスに関するところを引用。

 

 

 

理性的なコミュニケーションにおいては、各自が自身や自身がもつ知識や価値を特権視することなく言語的に相対化している必要がある。そして、他者を道具として扱うのではなく語り手である自身と同格の主体としてみなし、自身を含め議論参加者の意見が根拠のあるものかどうかなどの批判可能性が開かれつつ言語コミュニケーションが行われることで、批判に耐えうる合意が共有されることになる。そこでなされたある発言について、それが誤謬可能な知識(に関する命題)を示しているとしても、それに関する批判を通じて、その発言の妥当性や根拠づけが共通了解されてゆき、相互主観的に共有されるところの生活世界と合致する形でその意味内容はよりクリアなものとなってゆく。所与の常識や慣習についてもそのようにときに反省され修正されながら、言語能力と行為能力をもつ諸主体の共同体にとっての同一かつ唯一の世界としてそれらは同定される。このように、各主体は自らが生きているその世界を世界内在的観点から適切に認識しつつ、世界をよりよく認識・変更してゆけるようになる(その中で、世界内存在としての共通の「知」のもとで生きてゆく)。これこそが、個々人それぞれにおける認知的・道具的合理性とは異なるところの、「コミュニケーション的合理性 kommunikative Rationalität」というものである。

そもそも、何が正しいか、何をなすべきかがいまだ不明なーーしかしそれが重要な意味をもつようなーー共同体においてはいまだ客観的世界は構成されているとはいえない。ゆえに、客観的世界を構成するための条件がそこでは必要となる。客観性が成立しているといえるためには、世界内の出来事や実現すべき事柄に対し、それらは言語能力および行為能力をもった個々人にとっての世界として共有されていなければならない。もちろん、感受性が異なり、さらには経験もさまざまであるような個々人においてそれはときに食い違いをみせるが、その際、「あなたがそう思うのはなぜですか?」「それはね…」といった開かれた問いの形式、そしてそれに対して答え(言い分)としての水準を満たすような答え方、さらにはその水準を満たした答えに対し、それを好き嫌いで排除することのない理知的な態度、これらがそもそもなければ、客観的世界という概念は無意味なものとなってしまうだろう。そして、こうしたコミュニケーションのための理性が発揮される場こそが「公共」なのである。

 

(p.134 - 135)

 

 ロールズハーバーマスが論じているのは、民主主義のなかでもとくに「熟議民主主義」的な物事が市民にもたらす恩恵のことであるだろうか(だよね?)。

 

 わたしは熟議民主主義にはけっこう憧憬を抱いているほうだが、とはいえ、それはゲームや映画などの理想化されたフィクションを通じてのことである*1。たとえば現状のネット空間における政治的議論を見れば、「熟議民主主義」や「コミュニケーション的理性」に対してシニカルになって否定的な意見が出てくることも無理はない。それに対して、まず熟議やコミュニケーションが通じるような環境を整えることが前提である、という反論はあるだろう(昔読んだロバート・グッディンによる熟議民主主義の本でも、熟議を実際に行う際の運営方法や注意事項と言った具体的な事柄に紙幅が割かれていた)。でもまあ実際のところどんな感じなんだろうね。

『21世紀の道徳 学問、功利主義、ジェンダー、幸福を考える』-書評、紹介文、イベントなどまとめ(4/9)

 

 

 刊行から四ヶ月経ちました。まだ買っていない人は買ってください。

 

 Kindle版はこちら

 

 今週の土曜日に渋谷ロフト9でイベントやるのでチケット買って(配信のやつも買えます)。

 

www.loft-prj.co.jp

 

 

 

 以下は諸々の方からいただいた書評です。

 

 神学者の森本あんりさん(よみうり新聞)。

 

www.yomiuri.co.jp

 

 倫理学者の平尾昌宏さん(ゲンロン)(())。

 

f:id:DavitRice:20220409215530j:plain

 

https://www.genron-alpha.com/bookreview_005/

 

 精神科医の熊代亨さん(はてなブログ)。

 

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

共同通信配信による滝口克典さん(若者支援、居場所づくりなどが専門)の書評も全国の地方紙に掲載されました。

 

 以下は自分で各メディアに書いた紹介文。

 

 講談社現代ビジネス。

 

gendai.ismedia.jp

 

 シノドス

 

synodos.jp

 

 東洋経済オンライン。

 

toyokeizai.net

 

 先月号の『中央公論』に掲載されたインタビュー記事。

 

chuokoron.jp

 

 今月号の『中央公論』でもキャンセル・カルチャーに関する論考を寄稿しています。

 

chuokoron.jp

 

 晶文社でも次作に向けて連載を開始しています。

 

s-scrap.com

 

 あとおれのファンの人は薬とかコーヒーとかノンアルコールビールとか米とかを買ってください(切れてきたので)。本なら『平等主義基本論文集』とか『自由意志の向こう側』とか『現代倫理学基本論文集II: 規範倫理学篇1』あたりがほしい。

 

www.amazon.co.jp


読書メモ:『道徳の哲学者たち 倫理学入門』

 

 

 本書の特徴は、第一部「古代の哲学者たち」でアリストテレスプラトンを、第二部「近代の哲学者たち」でヒュームやカントやミルを取り上げながらも、それぞれの哲学者たちの思想に存在した課題を指摘しつつ、それらの課題に関するひとまずの解決をヘーゲル主義(ヘーゲル本人の著作ではなくフランシス・ハーバート・ブラッドリーの思想が代わりに取り上げられる)に求めているところだ。また、続くニーチェの章ではマルクスフロイトなども取り上げながら、既存の道徳哲学の問題とそれに対してヘーゲル主義がいかなる解決を提示しているかということに関する議論が補強される。ちなみに、ここで呈示されるヘーゲル主義は、コミュニタリアニズムにもかなり近いものだ。

 具体的には、以下のような主張が呈示される。

 

道徳の第一の特徴は、私が道徳の「疎外的」性格と呼ぼうとするものである。これまで見てきたように、マルクスが「疎外」という言葉を用いるのは、賃金労働の生産物と活動が、労働者にとって外的なもの、よそよそしいものとして経験されるにいたることを説明するためであった。マルクスはこの言葉をもっと広い意味にも捉えていて、人間の活動の所産である社会の諸々の制度や慣行が、それら自身の生命をもつようになり、それらの制度などを創造した人間を逆に支配するようになる事実を指すのに用いている。こうした意味で、狭義の道徳概念は一つの疎外された現象と言うことができる。それを人間は、自らが順応しなければならない一連の外的要求として経験する。つまり道徳とは、カントが、我々が遵守するべき「道徳法則」または「定言命法」と説明しているものである。ニーチェフロイトが明らかにしているのは、道徳という現象を説明する心理的な仕組みである。 対照的なのはヒュームとアリストテレスであろう。ヒュームは道徳的価値を、共感という人間の自然的感情に根ざすものと描いている。またアリストテレスは、道徳的卓越性を、その行為者自身の幸福と繁栄が与えられる件に根ざすものと描いている。

(…中略…)

狭義の道徳概念の第二の特徴は、道徳の自己否定的性格である。この特徴をマルクスは、実際には支配者階級 のものである偽の「一般利害」への服従という言葉で説明している。(…中略…)「古代人」とは異なり、利他主義の倫理が「近代人」に特有の倫理的姿勢であることを、私はすでに示唆しておいた。我々が今探究する必要があるのは、利己主義と利他主義の厳格な二分法を乗り越える倫理的立場の可能性である。そのような立場は、たとえ利他的行為であっても、それが満足と充実感を与えるがゆ えに行なわれるものなら、そのような行為は道徳的価値をもつものとは見なされないとする、カント的な考えを超えるものである。そのような立場がどのようなものであるかは、ここでも課題として残されたままである。

狭義の道徳概念の第三の特徴は、その個人主義的性格である。「道徳的」判断は、行為者個人の道徳的地位や、 その人の道徳的卓越性に狭く焦点をしぼり込む傾向がある。さらにいっそう強烈には、その人の道徳的罪という否定的観点に焦点が当てられやすい。このような先入観の基にあるのは、個人の責任という擁護できないくらい に強力な観念である。そこに欠けているのは、個人の行動は社会的文脈の中で行なわれるという認識、したがって価値判断は個人がある仕方で行為するように導く社会的制度にも同様に向けられる必要があることの認識である。それは、個人は社会的・心理的圧力に反応してそのように行為するという事実、そしてもし個人が異なる仕方で行為することを我々が望むとするなら、彼らに道徳的命令を指し示すより、彼らの行動を引き起こす状況を変えるよう努めた方がうまく行くだろうという事実を、正当に評価しそこなっている。(…中略…)

さて以上が、一般的な意識を完全に支配し、「道徳」そのものとしばしば同一視されている道徳概念である。 私はカントが、こうした概念を最も精確に反映させた道徳論を展開している哲学者であると暗示しておいた(はいえ、カントの道徳論を、単に一般的な意識の無批判的なイデオロギー的反映と見なすことは無意味であろ う)。ニーチェマルクスフロイトをもとにして、狭義の道徳概念を疑問視するのに適した論拠を得てきたのであ流。我々は「道徳」という語をーー今や一揃えの包括的な価値として、いかに生きるべきかについての考 え方としてもっと広く理解することによってーーより適切な道徳についての「非道徳論的」概念を求める試みの論拠を得たわけである。この広義の道徳概念は非疎外的な概念でなければならないであろうし、純粋な自発性の擁護という意味での道徳概念ではなく、道徳的要請を自然的な人間の傾向性や反応の中に根づかせているよう な道徳概念でなければならないであろう。それは、「古代」と「近代」の統合を目指し、利己主義と利他主義の 厳密な二分法を超越するような概念でなければならないであろう。すでに指摘しておいたように、そのような概念に向けての出発点は、個人の社会的性格をヘーゲル的な仕方で承認することであろう。個々の行為者にだけ狭く焦点を合わせることを乗り越えなければならない。その際には、例えば、人間の基本的必要を組織的に打ち砕 いて人々を「非道徳的」行為へと導く社会制度や慣行もそれ自体等しく「非道徳的」であることを認めなければならないであろう。第三部で再び、このような広義の道徳概念を明確にする可能性の問題を取り上げたい。

(p.260~263)

 

 この本の良いところは、単にビッグネームの哲学者たちを並べるだけでなく、「プラトンにはこんな問題があったけれどアリストテレスはその問題をこのようなかたちで乗り越えた。しかしアリストテレスの議論にもこのような問題があって、それは続く哲学者たちがこのようなかたちで乗り越えて…」という風に、発展段階を明確化するかたちで倫理学の歴史を記述しているところだ(それ自体がヘーゲル的と言えるかもしれない)。そのおかげで、「次の章ではどのような議論が展開されるんだろう」とワクワクしながら読み進めることができる。

 また、それぞれの哲学者の解説もかなり論理的かつポイントを抑えているうえに簡潔であり、流し読みでスラスラと理解できるほどに平易ではないないとはいえ、しっかり読んでみれば充実した理解が得られて考えさせられるような内容になっている。各哲学者の規範的な主張について「こんなこと言っています」と結論だけを示すのではなく、それぞれの議論の背景にある前提や論理を説明することで、倫理学史を学ぶと同時に道徳的な概念や立証に関するメタ倫理学の考え方も学んでいくことができる。このような一石二鳥的なお得さのある倫理学入門や倫理学史の本は、他にはなかなか存在しない。それでながら著者の主張がはっきり出ている点も読み物としての面白さにつながっている。絶版しているのか、中古価格がやたらと高騰しているところだけが玉に瑕と言えるかもしれない。

 

 以下では、特に参考になった箇所をいくつか引用。

 

アリストテレスの「しかるべきしかるべきって言うけど、その"しかるべき"ってどうやって判断するんだよ」問題について

 

アリストテレスにとっては、感情はそれ自体が理性の具現化となりうる。感情を管理し指導することは、理性の問題だけではない。むしろ感情それ自体が合理的である場合もあれば合理的ない場合もある。理性は感情の中に存在するとも言えるのである。

感情が合理的であったりなかったりするとはどんな意味だろうか。本質的には、感情がうまく状況に適合するかそうでないかという問題である。怒りの場合を取り上げよう。ある人が私に挨拶しないという理由で私が激怒するとしよう。全く不適切な形で私は自制心を失い、そこでの原因とは全然ちがうところでかっとなる。この私の怒りは不合理である。別の場合として、ある一群の子供たちが年下の子供を非情にもあざけりいじめるのを見て、私が激怒するとしよう。本当にひどいことだ、というのが原因となって、この私の怒りはまったく適切だということになるだろう。するとこれら二つの場合では、私の怒りは一方は不合理で他方は合理的なのである。

「合理的な怒り」を話題とし擁護することは主知主義にすぎるように聞こえるかもしれない。しかし、ここで述べていることの意味に十分注意してもらいたい。私の怒りが独立した合理的な決断の産物である、ということではない。私はまずどう応答すべきかを自問し、状況への考察と評価を下し、それから怒ることに決めた、というわけではない。私の怒りは、まったく直裁的に自然に出たものであろう。それでも私の感情は、状況の本質に気づいているという意味で、合理的と言えよう。この感情は、例えば本筋とは別に事情によって歪められているということがない。

(…中略…)

アリストテレスが、中庸を守るとはしかるべき機会にしかるべき理由でしかるべき程度にしかるべき人に対して感情を抱くことだ、と言うときに指しているのはこのことなのだ、と私は思う。アリストテレスの理想とは、理性と情動をもった生活という理想である。その理想が節度の説になることをその限定的な意味合いにおいて受け容れることが、どうやら我々にはできそうである。それは、特定の機会に過多や不足になるものは何でも避けることを含んでいるだけではない。一般的水準において、理性が感情を抑止し制御するという「プラトン的」理想と、非理性的な情動の自発性という「ロレンス的」理想との中間にある立場だと説明することもできよう。しかし別の意味では、それはこれら二つの立場の中点ではなく、根本的に二つの立場両者の反対に位置するものである。というのも、理性と感情の間の避けられない敵対関係という、両者に共通する想定を退けているからである。

(p.64 - 65)

 

倫理学に必要とされる知識の「厳密さ」に関するアリストテレスの議論

 

アリストテレスはさらに、[イデアに関する]その知識が得られたとしてもそれを倫理学と関連づけることはできない、と言っている。プラトン的なイデアについての知識は永遠不変なるものについての知識であろうが、他方、倫理学の知識は我々の行為を導けるような種類の知識でなくてはならないだろうし、それゆえに可変的な事柄についての知識でなくてはならないだろう。また、イデアについての知識は普通的なものについての知識であろうが、他方、倫理学で我々に必要なのは個別的なものについての知識である。というのも、個別の状況においてこそ我々はいかに行為すべきかを決 定しなければならないからである。もちろん、道徳哲学で我々が目指すのは、個別的なものについての知識にとどまらない。しかし、我々が作り出そうとしている普遍的な要求は、個別の状況においての我々の経験から一般化したものとなるだろう。そのような普遍的要求は、そのようなものとしては大ざっぱな近似値であるだろうが、 倫理学では主題へのふさわしさを超える正確さや厳密さを求めるべきではない。どんな分野にもそれにふさわしい精密さの基準がある。例えば大工が測る直角の正確さは、幾何学者のそれと同じではない。したがって、倫理学に期待できる一般規則とは、ただ大まかな真理性を有している、そして日常生活や個別の状況に立脚した経験の蓄積に由来している一般規則なのである。道徳哲学はこうした経験の共有を前提としているから、若くて経験の乏しい人たちに適した主題とはならない。…

(p.47 - 48)

 

●利己主義と利他主義に関する古代ギリシャの議論

さて、グラウコンによれば、正義が正しい人にとって善いのは、他の人に対して正しく振る舞うなら他の人もまた自分に対して正しく振る舞ってくれ、その結果快適に暮らしていけるからであった。ソクラテスの説によれば、正義は単純に有利な結果をもたらすものではなく、それ自体が最大の利益である。グラウコンにとっては、 正義は道具的な善である。それは善く生きるために必要とされるものを得させてくれる。ソクラテスの説では、正義は本質的に善なのである。それが善く生きることなのである。それゆえ、グラウコンによれば、正義と利益との間には外的な関係が存する。ソクラテスの説によれば、その関係は内的なものである。

(…中略…)

アリストテレスは[プラトンとは異なり]「健康」と「病気」といった用語は用いていないが、しかし彼もまた、心理的な事実に訴えている。プラトンと同様、彼も理性と感情の正しい関係という見地から徳を分析している。彼は、最も幸福で最も充実した人生とは、それらが正しく関り合っている人の人生であると述べている。というのも、そのような人こそ、十分に人間的で理性的な人生を生きているからである。

(…中略…)

プラトンアリストテレスが、他の人に対する適切な配慮を自分自身の幸福にとって不可欠なる要素としてもち出しているのだとしたら、利他主義的な徳についての彼らの説明は、ただもっぱら他人を助けることに喜びを感じる人の利他主義と同様、決して怪しげなものでないことは明らかであろう。

 

(p.72 - 74)

 

●弱い意味での普遍化可能性と強い意味での普遍化可能性

さて、たしかに弱い意味で合理性が普遍性を含むということができる。理性的であるために、私の行為は、整合的であるという意味において普遮化可能でなければならない。嘘の約束に関するカントの例を取り上げてみよ う。カントが想定するのは、「金を借りる必要に迫られていて、自分がそれを返すことはできないだろうと分かっているが、同様にまた、一定期間内にそれを返すとはっきり約束しなければ、一銭も貸してもらえないことも分かっている」というような人である。そして彼は、守れないと知りながら、そのような約束をするこ とを決心したとする。もし、自分の行為が合理的に正当化されなければならないと彼が思っているならば、その場合彼はカントが言うように、「金が必要であると思う場合にはいつでも、決して返せないと分かっていても、 返すと約束して金を借りることにしよう」という普通的な原理あるいは格率に身を委ねていることになる。そしてもし彼がこれを普遍的な原理として認めることができないとすれば、現在の状況に関して自分の行為を正当化する適切な追加的特徴を提示しえない限り、この例において自らが正当化されたと見なすことは合理的ではな
くなる。

これが、ーー整合性としてのーー弱い意味での普遍化可能性である。行為は、普遍的な原理、すなわち適切に類似したすべての状況において同じ仕方で行為せざるをえなくさせるような普遍的な原理の下に置かれるのでなければ、合理的ではありえない。しかしカントは、もっと強い意味での普遍化可能性を望んでいる。彼が望んでいるのは、単なる一貫性の原理だけではなくて、理由の非個人性の原理とでも呼びうるようなものである。この考えによれば、理由は特定の個人にとって特有のものではありえない。仮にRがにとって、行為Aを行なうのに妥当な理由であるとすれば、それはまた、万人にとっても、類似の状況においてAを行なう妥当な理由でなければならない。理由とは、本質的に万人にとっての理由なのである。こうして、約束の例において、もし嘘の約束をする人が自らを合理的に正当化されると考えるならば、彼はまた次のようなことも認めなければならなくなる。すなわち、金を必要とし、それを返すことができない場合はいつでもそのような約束をすることが、他の誰の場合にでも等しく正当化される、と。そしてもし彼がこのことを認めることができないならば、この場合に自分が正当化されると見なすことは、合理的ではないことになる。

 

(p.134- 135)

 

●幸福に関する、ミルのエリート主義?

量だけではなく質をも考慮に入れることで、ミルは部分的にプラトンアリストテレスの立場に立ち返ってい る。この二人がしたように、完全で本物の幸福を購成するものを見つけ出すためには、人間本性に特有のもので、人間を他の動物種から区別するようなものに目を向けなければならないと彼は考えるである。しかしアリストテレスとは違って、人間本性から人間の幸福についての見解への移行をミルが試みるのは、次のような木質主義的論証によってではない。この本質主義的論証とは、特定の活動が本質的に人間的であるのだから、その活動が人間生活の自然で本来的な目的を構成し、人間の幸福の内容を与えてくれるとするものである。ミルにとっては、人間本性と人間の幸福とのつながりは、このような本質主義的なものではなく心理学的なものである。

(…中略…)高級な快楽が優越していると言われるのは最終的には人間がそれを選好(prefer)するから、ということでしかないが、その優越性の決め手になる選好は選択肢を現実に経験した人のものでなければならない。経験する快楽がおおむねありきたりで知性を欠いたものに限られており、まったくそういったものだけを追求し続けるような人が多数存在することは疑いない。ミルが主張しているのは、そのような人々も、人間に能力上可能で要求度のより高い楽しみのいくつか を適切に経験することができるなら、そうした楽しみをより報いのあるものと見るようになるだろうということ であろう。「適切に経験する」という表現が重要である。文芸・芸術の楽しみ、知的探求、創造的で想像力にあふれた仕事、大義への精力的な献身から得られる快楽は、時間をかけて親しまないと得られないものかもしれないのである。そうした快楽を得るためには、長期にわたる専念と関わり合い、一時的には後退することもいとわ ぬ気持ち、そして場合によっては教育の過程が必要である。しかしそのような活動がもたらしてくれるものを実際に経験したことのある人なら、それ以後はそれらを手放そうとはしないであろう。
このことは、ミルの立場は「エリート主義的」だというもう一つの一般的な反発に対するミルの回答ともなる だろう。高次の快楽の優越性は「唯一の有資格者である〔適格な〕裁定者の下した評決」によって決まるというミルの言葉に対して、読者はよくこんな風に応じがちである。なぜ自分がその評決を受け容れるべきなのか。もし自分が本当に情熱的にそしてもっぱらいわゆる「動物的」快楽に没頭しているのなら、他人にそれらの快楽を劣ったものと決めつけるどんな権利があるだろうか。ミルの回答は、まったくそんな権利などないーー選択肢を 真に経験できるとしたらあなた自身がどのように判断するかということに基づく権利以外にはーーというものであろう。ミルがかなり重みを乗せている足場は、もしそれらの選択肢を完全に経験できさえすれば、すべての人 が本当に高次の快楽を選好するだろうという想定である。彼はこのことにわずかではあるが、しかし重要な限定 をつけている。ある時期には高次の快楽を評価できたにもかかわらず、その後それを顧みなくなり、無感覚の習慣に逆戻りするような人が存在するということをミルは認めているのである。しかし、彼の考えではそうした事例も、社会学的、心理学的に説明可能で、退化の事例ということになるであろう。
他にも二つの修正がミルの立場には付け加えられるべきである。これらの修正はミル本人は付け加えなかったものである。私の考えでは、ミルのどちらかといえば厳格に主知主義的な高次の快楽の説明は、修正を加えられるべきである。彼は、高次と低次の快楽の区別が、知的(さもなければとにかく精神的)な活動と肉体的な活動の区別に対応すると想定しがちである。このことを想定する必要はない。表面的な快楽以上のものを与えてくれ る肉体的活動は、数多く存在する。つまり技能、エネルギー、気配り、懸命さを必要とし、そのような仕方で追求されるときにだけ価値と楽しみが分かるような活動が多く存在するのである。熟練した職人技の活動のような例を考えるなら、知的/肉体的の二分法は大いに誤解を招きかねないものである。第二の修正は、高級の快楽と低級の快楽を対比させるとしても、低級の快楽が価値ある人生から排除されねばならないということにはならない、というものである。ミルには低級の快楽を除外する傾向があった。彼には、肉体的感覚の快楽を端的に随落 的であると見る傾向があったのである。とはいってもこのことは、彼の一般的な立場にとって本質的なものではない。食べ物、飲み物、セックスという三つの基本的な欲求対象はかなり評判が悪いが、それなしには人間生活は確実に貧しくなる。それらを「低級の」快楽と特徴づけてはいるが、ミルはまったく矛盾なしにそれらの位置を認めることができたはずである。ただし、ほとんどがそれらの快楽に捧げられた人生、そしてより広範な意義の脈絡からそれらの快楽だけを取り出した人生は、いくらそういう快楽に富んでいても、つまらない空虚なもの であるということを言い添えるだろう。

(p.163-165)

 

●特殊の功利主義、普遍のカント主義

ブラッドリーは「なぜ私は道徳的であるべきか」という章の中で、「自己実現」 (self-realization)を、倫理学の中心概念として、さらに道徳が本来目指すべきものとして確認している。そこで、自己実現とは何であるかを決定することが倫理学の課題となるのだが、ミルとカントはそれぞれこの問題に対して一面的な回答を提出している。ミルは自己実現を快楽の達成と見なし、カントはそれを義務の遂行を通した善意志の達成と見なしているのである。これらの回答は以下の点で一面的である。ミルは普遍を排して特殊の面を強調するが、これに対しカントは特殊を排して普遍の面を強調する。そしてまた、ミルが形式を排して内容の面を強調するのに対し、カントは内容を排して形式の面を強調する。両者はいずれも、特殊と普遍の統一、形式と内容の統一を正当に扱うことができないのである。

この点について説明することにしよう。功利主義は善き生と快楽を最大にすることとを同じものと考えるのだが、その際、善き生を単なる一続きの孤立した特殊的な事柄、すなわち快の感情の状態の単なる連続と見なし、 その唯一の目的はできるだけ多くこれら快の感情の状態を達成することであるとする。しかしそれらは単に特殊的な事柄であるにすぎず、決して互いに有意義な関係にあることはなく、かくして、これらすべての特殊的状態 にある快の感情を密接に連関した一つの全体へと統合する普通という概念が欠けているのである。それらはただ加算されるだけであり、したがって、形式を欠いた単なる内容であるにすぎない。なぜなら、それらが合算され ても、何ら意義ある包括的な形あるいは型になるとは見なされないからである。それらは単に一つの集種された ものでしかないのである。これに対しカントは、普遍性と形式の面を強調するのだが、そのようなカントのやり方によっては、それらは単なる空虚な普遍性と単なる空虚な形式となってしまい、特殊的・具体的なものとなるいかなる手段からも分断されている。カントの道徳性はただ普遍的法則という観念との一致を命ずるだけでありそれは正邪を判定する純粋に形式的な吟味の手段を提案するのである。しかしすでに見てきたように、いかなる行為も普遍化されえないようなものはないのであり、それゆえ、普遍化可能かどうかを吟味することから具体的な結果を引き出すために、カントは外部から内容をひそかに引き入れ、以前には排除すべきだと主張していた有用性や結果についても考慮せざるをえなくなるのである。

 

(p.190 - 191)

 

●「社会関係の倫理学

ブラッドリーの社会関係の倫理学は、それが説得力を持ちまた受け容れられるためには、これまで見てきたような仕方で修正される必要がある。考慮されねばならないのは、さまざまな砿類の社会関係のこのような根本的 拡張である。しかしながら、このように拡張されるとき、この倫理学はとてつもなく重要な理論となる。この重要性は、我々がカントや、ミルの中に見出した問題にまで立ち返って考えてみるとき、初めて理解することがで きるのである。彼らの共有していた基本的な問題は、利害に関わらない利他主義をいかにして合理的に正当化するか、という問題であった。彼らの失敗から(そして彼らの数知れぬ後継者たちの失敗から)我々が学びとるのは、そのような正当化は、純粋に形式的な合理性や論理に訴えることによっては与えられえない、ということである。すでに見たように、カントは、他肴の権利を尊重しまたその利益を促進するという義務は、普遍化可能いう形式的な要求から導出されうる、ということを示そうとしている。しかしそのようなことは不可能である。 普遍化可能性の原理が純粋に形式的な合理性に基づくものである限り、それは首尾一貫性の原理であるとか、また理由の非個人性の原理であると正当に解釈されることができるが、公正さの原理であると解釈されることはで きない。また、ミルが、自分自身の幸福を欲する個人という概念から出発し、単なる論理によって、我々はすべてお互いの幸福を欲するべきだということが示されうる、と想定しているのを見た。彼もまた成功してはいない。 孤立した個人という概念から出発する限り、個人の幸福から万人の幸福への移行は不可能なのである。実際に人 間を相互に結びつけている現実的な緋を考慮するときにのみ、私心のない他人への配慮が合理的なものとして示されうるのである。すなわち、ミルのように非社会的な個人から出発すべきではなく、ブラッドリーのように、 他者への関与をその内に含む関係に組み込まれた社会的存在としての個人という概念から出発すべきなのである。 自己を社会的自己と解するときにのみ、自己と他者との間の道徳的間隙を埋めることができる。このことを理解してはじめて、我々は利己主義に対する反駁を用意することが出来る。この反駁は、利己心に何か外面的な物を付加することによるのでなく、人間にとって重要な事柄は単に欲求や利益だけではないことを示すことによって なされるのである。他者との関係は、利益の追求や欲求の満足とまったく同様に、人間の生活の中で重要な役割を果たしており、前者は後者に還元されうるものではないのである。
我々がここで行なっているのは、利己主義から利他主義へと議論を進めることではなく、両者の二分法の不適切さを明らかにすることである。友人に対する誠実さという例をとって考えてみよう。もし私が困っている友人 を助けようと自分の時間を犠牲にして努力するとき、私は長い目で見て自分の利益につながるという理由からそうしているのではない。もし私が真の友人であるなら、私は、「たぶん彼もいつか私に同じことをしてくれるで あろう」などとは考えない、しかしながら、友人を助けることによって私は自分を何か外面的な事柄の犠牲にしている、と考えるのも適当ではないであろう。友情は私の人生に不可欠な一つの構成部分である。他の個人やさ まざまな人間の集団、主義主張や制度に対する私の献身的態度や誠実さなどのすべてがそうであるように、友情は私のアイデンティティを明確にし、私の人生にその意味を与えてくれる。ブラッドリーが言うように、私の自己は「他者の存在によって浸透され、影響を受け、特徴づけられており、その内容は共同体のあらゆる性質の組織的な関係を包含している」のである。そしてこのことは、私がそうした誠実さに基づいて行為するときは、私のアイデンティティの意識を保持したり、私の人生に意味を与えたりするためにそうしているのだ、ということを言っているのではない。そうではなくむしろ、このような他者への関係が私自身のアイデンティティの一部であるとともに、私の人生に意味を与えるものの一部であるというこの事実の方が、こうした関心事への積極的な私自身の献身のうちに、そのおのずからなる表現を見出している、と言っているのである。

 

(p.200 - 202)

 

 またもや写経みたいな記事になってしまったが、著者が展開する「社会関係の倫理学」は、ある面では八方美人的で凡庸なものにも見えるところもあるが、魅力も強いものだ。コミュニタリアニズムをはじめとして、アリストテレス主義やケアの倫理などの「いいとこ取り」な倫理になっているように思える。

 とはいえ、著者自身も留意しているように、社会関係やアイデンティティの枠を超えた相手に対するより普遍的な道徳問題について対応できるのか、というのが気になるところもであるが。