「思想の自由市場」の価値とはなんだろうか?

 

 

 前回の記事でも紹介したジェレミー・ウォルドロンの『ヘイト・スピーチという危害』では、表現の自由を擁護する議論の古典であり現代でも頻繁に参照されているジョン・スチュアート・ミルの『自由論』について、批判的に述べられている。

 

…(前略)…『自由論』におけるミルの立場とは、真理の探究は論争の唯一の重要な点ではない、というものだった。彼の言うところでは、論争は公衆の間に確立された真理についての「生き生きとした理解」を維持し、それらの真理が「感情の中に浸透し、行動に対する真の支配を獲得する」ようにするためにも、言い換えれば、それらがたんに教説の空っぽの殻にならないようにするためにも、重要である。この観点からは、コンセンサスの出現は不利益のように見えるかもしれない。「真理をその反対者に対して擁護する…必要によって、真理の知性的で生き生きした理解のためのきわめて重要な助けが与えられる。そのような重要な助けが失われることは、真理が普遍的に認識されることの利益を上回るほどではないとはいえ、その利益の少なからぬ減少である」。さらにミルは、次のような考えをもてあそんで見せる。公衆の教育の利益の名において、論争の精神を生き生きとしたものに保つためだけにでも、私たちはときには悪魔の代理人を、確立された真理の反対者を、人工的に作り出さなければならないかもしれない。あるいは「あたかも問題が学習者に対して、彼の改宗を熱望する反対派の頭目によって押し付けられているかのように、その問題の困難さが彼の意識にとってありありと迫ってくるようにするための、何らかの工夫」を作り出さなければならないかもしれない。

この点まで来ると、私たちのほとんどはミルとは袂を分かつと思う。少なくとも、私たちの議論の文脈[ヘイト・スピーチ規制の議論]ではそうだろう。この文脈では、ミルの考えは、私たちの平等主義的確信を生き生きとさせるためには、人種差別主義や宗教的偏狭さが人工的に涵養される必要があるという含意を持つだろうからである。彼の見解のもっと穏当なヴァージョンでさえ問題を含んでいるように見える。「誰にせよ、受け入れられた意見に反対する人々、あるいは法律や世論が許せばそうするつもりのある人々がいるなら、私たちはそうした人々に感謝しよう。心を開いて彼らに耳を傾けよう。そして誰かが、私たちが…私たちのもつ確信の妥当性にいくらかでも関心をはらうなら、さもなければ私たちがしなければいけないことを私たちに代わってしてくれることを、私たちのためにはるかに大きな苦労を払ってそうしてくれることを、喜ぼう」。これは、私たちが普通、人種差別主義者や偏狭な人々に対して取ろうと思う態度ないし認識ではない。それは少なからず、彼らの見解の表現は、公の討論に対する「生き生きとさせる」効果だけではなく、社会の脆弱な成員の尊厳、安全、安心に対する有害な効果をも有するからである。

 

(ウォルドロン、p.229 - 231)

 

 ウォルドロンの批判が妥当なものであるかどうかは微妙なところだ。

 とりあえず、「見解の表現」が「社会の脆弱な成員の尊厳、安全、安心に対する有害な効果をも有する」、つまり思想や意見を表明すること自体が他人に対する「危害」となり得る(それも暴力やパニックを扇動するような間接的な危害ではなく直接的な危害である)、だから危害原則に基づいて規制すべきだ、という考え自体がかなり現代的なものであることには留意しよう。ミルやその後の思想家の多くは表現行為も直接的な危害になり得るという前提を否定していたし、このポイントについては現在でも議論が起こっているところだ。

 上記の引用部分の後で、ウォルドロンは「誰かが、アフリカから来た人々は人間以外の霊長類だという意見を伝えるポスターを貼り出したと考えてみよう。(p.231)」という例を出したうえで、以下のように書く。

 

実際には、人種に関する根本的な討論は終わった。勝負は決まった。決着がついた。境界の外にいる反対者、アフリカ系の人々は劣等な形態の動物だと信じている少数の狂信者はいる。しかし半世紀かそれ以上の間、私たちはひとつの社会として、これはもう真剣な論争の問題ではないという前提に基づいて前進してきた。

 

(ウォルドロン、p.232)

 

 ここに関しては悩みどころだ。たしかに、「アフリカから来た人々は人間以外の霊長類だ」というレベルの意見を真剣に取り扱うことはほとんど不毛に思えるし、弊害のほうが大きいように思える。…単純に時間や労力の無駄であるだけでなく、そんな意見がいまでも議論の対象になっていると知った時点で、その社会に住んでいるアフリカ系の人々はショックを受けたり不安感を抱いたりするだろう。現在ではアメリカでも日本でも大半の人は「アフリカから来た人々も私たちと同じ人間である」という信念を抱いているのであり、将来的にその信念が人々から失われて社会が逆戻りするという可能性も低いだろうから、この信念を「生き生き」とさせるためにわざわざ「アフリカから来た人々は人間以外の霊長類だという可能性もあるかもしれない」という仮説を立てて検証するのもおかしなことであるように思える。

 とはいえ、不安は残る。まず、「狂信者」は存在するし、ときとして彼らは「少数」ですらない。アメリカでは600万人が「地球平面説」を信じているし、日本でも様々なかたちの陰謀を信じている人がいることはコロナ禍の騒動などで改めて露わになった。ちょっと前までは、「地球は球体である」という科学的知識や「ワクチンにマイクロチップを仕込まれて5G通信で操作されるなんてことはない」という常識についての「根本的な討論は終わった」「決着がついた」とわたしたちは…意識するまでもなく…思っていたはずだ。だが、いまや、これらの議題に関する討論を否が応でもせざるを得ない状況になっている。

 また、ヘイト・スピーチに分類されるものもそうではないものも含めて、「差別的」とされる意見の多くは「アフリカから来た人々は人間以外の霊長類だ」というレベルのものよりも複雑であったり具体的であったり微妙であったりする。

 たとえば、「特定の人種のIQの平均は別の人種のIQの平均よりも生来的に低い/高い」という意見や「ある民族の人々は怠惰な生活習慣や文化を持っているために働かず、福祉に頼って社会保障費を浪費させている」という意見だ。これらの意見は「狂信者」ではなくて一定以上の知性や常識がある人でも抱き得るものである。また、「アフリカから来た人々は人間以外の霊長類だ」という意見とは違い、単にYESかNOかで答えられるような問題ではない。  

 たとえばIQの問題については「人種間でIQに差はない」ということが事実として正解である可能性もあるが、「たしかに人種間のIQの平均値にはごく僅かな差があるが、個人間の差のほうがずっと大きい(だから真だとしても取るに足らないような問題だ)」とか「そもそもIQの測り方が一方の人種にとって不利に、他方の人種にとって有利に作られているのだ」とかいった、もっと微妙な答えのほうが正解であるかもしれない。福祉の問題についても、「特定の民族の人々が他よりも多く福祉に頼っているという事実はない」ということが明らかになるかもしれないし、そうでなくても「特定の民族の人々が福祉に頼らざるを得ないのは怠惰な生活習慣や文化のせいではなく、それらの民族の人々に対する差別や不正義のせいだ」という答えが正しいのかもしれない。

 問題なのは、これらの微妙な答えを得るためには、問題となっている意見を突っぱねるのではなく取り上げたうえで検証と議論(さらに事実に関する調査など)を行うのが必要になるということだ。さらに答えが微妙であるがために相手側からも再反論が行われるだろうし、いちど決着がついても、世代が交代したり社会の状況が変化したりする度に同じような意見を抱く人があらわれて、その度に議論が必要になるかもしれない。

 もちろん、IQが低いと言われる人種の人々や怠惰だと言われる民族の人々にとっては、これらの議論自体が不愉快で苦痛なものとなるはずだ。また、とくに歴史修正主義の問題でよく言われるように、議論の対象にすること自体が、真偽が明らかになったはずの事実や決着がついたはずの論争に対する人々の理解や信頼を弱めさせる……「ホロコーストはあったに違いないと思っていたけれど、ないと言っている人とあると言っている人がどっちもいるのならどちらが正しいかわからないし、なかった可能性もあるかもしれない」など……という懸念もある。

 しかし、現時点で「正解」とされている見解に対して反論したり疑問を呈したりすることも許されず、議論が行われないとなると、その見解はまさにミルが言うように「教説の空っぽの殻」となる。そして、議論を回避し続けるほど、その見解に対する異論は地下に潜って溜まっていく事になる。これはかなり不穏な事態だ。たとえば、表向きには「人種間は平等である」という考えが常識や原則として共有されていることになっている社会であっても、その裏側では「人種間には優劣がある」と信じている人が増えていくかもしれないし、やがてその意見は家庭や飲み屋やSNSなどの非公式な場で共有・伝播されていき、集団を形成して具体的な影響力や実行力を持つことになるかもしれない。

 ウォルドロンの著書でも「意見が地下に潜る」問題について触れられてはいるが充分な注意を払っていないように思えるし、討論の「決着」を過大評価しているように思える。また、前回にも指摘したように、ウォルドロンはヘイト・スピーチの被害を受ける人の立場から目を凝らしてはいるが、他の立場からの視点やウォルドロンとは異なった考えを抱いている人の視点をかなりぞんざいに無視しているように思える。

「狂信者」でなくとも、価値観や考え方の微妙な違いや触れた情報や経験してきた事柄の差異などによって、ウォルドロンと同じくらい知的で教養のある人であっても「差別的」とされる意見を抱き得る可能性はある。それに対して「あなたの考えは間違っているし、その考えを議論の対象にするとマイノリティが傷付く可能性があるから、議論するまでもなくあなたの考えを退けます」と言っても、相手としては黙っていないだろう。法律的な規制を行えたとしても、反発はむしろ強くなり、よからぬ事態をもたらすかもしれない*1

 

 さて、ミルの議論に関連して、ウォルドロンはロナルド・ドゥオーキンによる「正統性の議論」も取り上げている*2

 

ドゥオーキンは、彼がヘイト・スピーチに対する規制の支持者と共有するいくつかの前提から話を始める。人々を、とりわけマイノリティの脆弱な成員を、暴力のみならず差別からも保護するのが重要であることに、彼は同意する。「私たちは、彼らをたとえば雇用や教育や住宅供給や刑事手続における不公正と不平等から保護しなければならないし、そうした保護を実現するためにいくつもの法律を採択するだろう」。ドゥオーキンは、差別に反対するそのような法律にしっかりコミットしている点において、人種的、エスニック的平等のいかなる支持者にも引けを取らない。けれども、そうした支持者と同じように、ドゥオーキンも認めるのは、そのような法律を採択するときに私たちはしばしば、差別を好み人種差別主義的暴力の機会を歓迎するような少数の人々の反対を乗り越えなければならないだろうということである。そのような反対に直面したとき、私たちは普通、ある法案が有権者過半数によって、あるいは立法府における選挙された代表の過半数によって支持されるならば、反対者がその過程から排斥されていないかぎり、それで十分だと言う。ところが実際には、これは要求されることのすべてではない、とドゥオーキンは言う。

公正なデモクラシーは、市民の一人一人が票だけではなく、声をもつことを必要とする。多数決は、各人が、彼または彼女の態度、意見、懸念、趣味、思い込み、偏見、あるいは理想を表現する公正な機会をもっていたのでないかぎり、公正ではない。そのとき各人は、他者に影響を及ぼすことを期待する(そしてそうした期待はきわめて重要である)が、それだけではない。各人は、彼または彼女が、集合的行為の受動的な犠牲なのではなくて、その決定における責任あるエージェントとしての立場をもつことを確証する。このためにだけでも、各人はそうした公正な機会を持たなければならない。
言い換えれば、自由な表現は、政治的正統性のために私たちが支払う対価である。「多数派は、決定が行われる以前に、抵抗、論駁、反対のために声を上げることを禁じられている誰かに対しては、その意志を強要する権利をいっさいもたない」。私たちが暴力や差別に対して正統性のある法律を望むなら、私たちはそれらに反対する人々に発言させなければならない。しかる後に私たちは、そうした法律の制定と執行を投票によって正統化できるのである。

(ウォルドロン、p.207 - 209)

 

なぜ正統性が重要なのか。私の考えでは、ドゥオーキンはそれが公正さの問題だと信じている。私たちは、人種差別主義者や偏見に凝り固まった人々が、たとえば教育や雇用における差別を禁じる法律も含めて、デモクラティックな多数派が採択した法律に従うことを期待する。私たちがこれを期待するのは、そのような法律が、どちらの側もその意見を表明し他者の支持を求める機会をもつような公正な政治的手続きから発するものだと信じるからである。けれども、ドゥオーキンによるなら、一方の側がその意見をーーたとえば、黒人は下等生物であってアフリカに送り返されるべきだという意見をーー公衆に向けて表現するのを禁止する立法は、その公正さを破壊する。そうした立法は、法律を、当の法律の制定に反対する立論を行う公正な機会を否定された人々に対して執行する権利を、私たちから奪ってしまう。

 

(ウォルドロン、p.211 - 212)

 

 また、ウォルドロンはドゥオーキンによる「上流の法律と下流の法律」の議論も紹介している。

 上流の法律とは「ヘイト・スピーチを規制する法律(意見や表現に関する法律)」のことで、下流の法律とは「暴力や差別に対する法律(行為に関する法律)」のことだ。通常、ヘイト・スピーチ規制を支持する人は、差別や憎悪を理由とする具体的な暴力行為や不利益な取り扱いをする行為に対して取り組むためにこそ、上流においてヘイト・スピーチを規制する必要があると論じる。ヘイト・スピーチによって人々に差別心や憎悪が伝播されたり醸成されたりすることが、差別的な暴力行為や不利益取扱の原因であると考えているからだ。

 ……しかし、ドゥオーキンは、立法手続きにも関わる上流の法律での規制を認めてしまうと、下流の法律にて強制力を持って具体的な行為を取り締まるための正当性が失われてしまう、と論じる。取り締まりの対象となる人々は、その取り締まりの根拠となる下流の法律に関して意見を表明したり議論をしたりする機会を、上流の法律における規制によって奪われているからだ。

 要するに、ここで紹介されているドゥオーキンの議論は「手続き的な正当性」に関するものだ。なお、このドウォーキンの議論は1999年に邦訳が出版された『自由の法―米国憲法の道徳的解釈』という本に収録されているようだが、悲しいことに東京の公立図書館にはほとんど置いておらず、Amazonでも高騰した中古本しかないしで、入手困難になっている。

 

 

 

 それはともかく、ウォルドロンが行なっている反論のひとつが、「ドゥオーキンの議論は社会のコンセンサスが蓄積されたり進化されたりしていくということを想定しておらず、マイノリティに対する攻撃という不当で過大なコストを許容してしまうものである」というものであるようだ。

 つまり、たとえば上述したような「アフリカから来た人々は人間以外の霊長類だ」という意見や人種間には優劣があるといった意見は、前世紀以前にはもっともらしく思う人が一定数以上いたので「そうではない」というコンセンサスを打ち立てるためにも議論が必要であったかもしれないが、もうそんな段階はとっくに過ぎており、いまさら「アフリカから来た人々は人間以外の霊長類だ」と言っている人の意見に耳を傾ける必要はない。いくら民主主義における立法手続きの正当性が関わっているとしても、そんな意見(≒ヘイト・スピーチ)を野放しにしておくことで侵害されるマイノリティの安心や尊厳のほうが重大だから、規制のメリット(マイノリティに対する危害の予防)とデメリット(立法の正当性に対する侵害)との間で比較衡量を行なっても前者が上回り、ヘイト・スピーチ規制をしておくべきだと判断できる……というのがウォルドロンの反論であるようだ。

 

 さて、別の章では、ウォルドロンは「思想の自由市場」という考え方をかなり否定的に扱っている。

 

自由市場というものは、放っておかれるならば、効率的な帰結を生み出す。経済学者はそのプロセスを理解していると称している。そして類比的に、私たちは、長期的に見れば思想の自由市場も、それ自体の仕組みにゆだねられるならば、真理の受容を生み出し、結果的に相互尊重の態度が出現するのを促進する、と言うかもしれない。問題は、言論の自由の場合、これは類比というよりも迷信だということである。経済学者は、経済市場はよい物事のうちのあるものを生み出すが、他のものは生み出さないことを理解している。経済市場は効率性を生み出すだろうが、分配的正義は生み出さないか、あるいはそれを掘り崩すだろう。思想の市場の場合、真理は効率性に類比するものなのか、それとも分配的正義に類比するものなのか。私は、思想の市場とイメージの支持者の誰一人として、この問いに答えるのを聞いたことがない。その理由は主として、そのような支持者は、思想の市場がどのようにして真理を生み出すと期待されうるかを理解しようとするときに、市場がどのようにして効率性を生み出す(そして分配的正義を掘り崩す)かについての経済学者の理解に類比するような理解を何ももっていないと認めているからである。彼らはロースクールの学生に、「思想の市場」という呪文をまくしたてることを教えるだけである。経済市場においては政府による一定の規制が重要だと一般的に思われている。にもかかわらず、私たちは、「思想の市場」に関しては、そうした規制に類比されるものを何も生み出してこなかった。そうしたものがあれば、ヘイト・スピーチ規制に賛成または反対の議論をするのに役立つことだろう。思想の自由市場の支持者は、こうした事情を学生に思い出させることをしないのである。

 

(ウォルドロン、p.185 - 186)

 

『ヘイト・スピーチという危害』の他の多くの箇所と同じく、ここの文章も独善的であって、ウォルドロンと異なる考え方をしている人が悪人やアホであるかのように紹介されている。

 まず、経済市場が正常・健全に機能するためにはなんらかの規制や介入が必要であったり一定の制度の存在が前提されると論じる経済学者が多くいるのと同様に、「真理の発見や受容のためには思想の自由市場が必要だ」と論じる学者のなかにも規制や制度の必要性を論じる学者は多くいる。たとえば先日にはピーター・シンガーによる「Twitterでの議論はポレミックなものになりがちである」と釘を刺している記事を紹介したし、スティーブン・ピンカーも『人はどこまで合理的か』などで(現代における)知識創出のためにはアカデミアや専門的なメディアなどの制度が必要であると論じていた……が、同時に、シンガーもピンカーも「思想の自由市場」の熱心な擁護者だ。ついでに言うと、わたしだって意見や討論の自由を守るためにこそ(アカデミアや論壇誌などの)制度が重要であると論じている。これはたいして目新しい考え方であったり難しい発想であったりするわけでもないので、同じようなことを論じている人はウォルドロンが『ヘイト・スピーチという危害』を書いた頃にもいたであろう。

 ついでに言うと、本題ではないが「市場は分配的正義を生み出さず、分配的正義を掘り崩す」と断定するのも不当であるだろう。すくなくとも自由市場が存在する社会のほうが、それがまったく存在しない前近代的な社会や封建主義的な社会よりかは(自由な交換を通じて)財が適切に行き来して分配的正義が実現する、という考え方は有り得るし、経済学者や経済哲学者のなかには市場を通じて達成される正義や「経済的正義」という概念について論じてきた人たちがいる*3。「正義」に関する議論はウォルドロンのようなリベラル左派法哲学者の専売特許ではないだ。

 ……とはいえ、「思想の自由市場」はアカデミアなどの制度下における真理や知識の追求に限定される場合もあるが、より広く、民主主義的な社会における思想や意見の自由な表現(と他者の表現の自由な受容)を指すことがあるのもたしかだ*4。この場合には、たしかに、ウォルドロンの懸念も理解できる面がある。あまり制度的ではなく、規制もないような状況で一般人がめいめいに行う議論においては、ヘイト・スピーチの問題の他にもレトリックやデマや人心掌握や扇動などが横行して、真理の受容や相互尊重とは真逆の結果が訪れる、という事態は有り得る……というか、多かれ少なかれ起こっている事態であるからだ。

 たとえば、TwitterはてなやワイドショーやABEMAなどで日夜繰り広げられている「議論」を目にすれば、良識のある人ほど、「そもそも自由な議論ってなにか価値や益を生み出しているの?害しか引き起こしていなくない?」と思ってしまうかもしれない。

 

 しかし、ここまでにこの記事で書いてきたようなポイント、とくにドゥオーキンの「正統性」に関する議論をふまえれば、「思想の自由市場」が存在することには手続き的な価値がある、と論じることができるかもしれない。

 つまり、アカデミアなどの制度下で創出される知識にせよ、民主主義のもとで市民たの議論を経て出来上がるコンセンサスにせよ、あるいは民主主義的な投票と立法の過程を経て採択される法律政策にせよ、それらが(それぞれの領域に応じた)「思想の自由市場」が存在しない状況で生み出されたなら、それらは正当性をもたない。または、「思想の自由市場」になんらかの制限がされていたり制限の種類が不当であったりするほど、知識やコンセンサスや法律や政策の正当性は減少する……という考え方だ。

 

 ここで、ナイジェル・ウォーバートンの『「表現の自由」入門』から、「言論の自由に賛成する道具的議論と道徳的議論」という節を紹介しよう。

 

 

 

 

大まかに言って、言論の自由を擁護するために用いられる議論には二種類ある。道具的議論は、言論の自由の保護は、個人の幸福の増加、社会の繁栄、あるいは経済的利益さえも含む、ある種の目に見える利益をもたらすという主張に依拠する。(…中略…)よい判断を下すためには、市民たちは多様な思想に触れる必要がある。言論の自由によって市民たちは、様々な見解を、その真理性を強く信じる人々から聞くことができる。この最後の点は重要である。つまり、反対するために反対する悪魔の代理人の役割(devil's advocate)を引き受ける人々には、自分が採る立場の真正かつ情熱的な信奉者でいる自分の姿を想像できることは滅多にないだろうから。理想的なのは、反対論者だったらどう言うだろうかと想像する人々ではなく、本当の反対論者から反論を聞くことである。

このような議論は結果に訴える。だから言論の自由が社会や個々人を何らかのかたちで利するか否かという問題への答えは、経験的である。すなわち、われわれがその答えが何かを知っているかそれとも知らないか、という正答が存在し、その答えは原則的に蓋然的結果、あるいは実際の結果を調査することで発見できる。このアプローチの裏面は、おそらくは有益と思われる言論の自由の帰結が実際には生じないことがもし証明できれば、言論の自由の保護を支持するこの正当化は消え失せてしまう、という点である。

言論の自由を擁護する道徳的議論は典型的には、人であるとはどのようなことかに関する概念から出発し、言論を抑制することは誰かの自律ないし尊厳ーー話し手であれ聞き手であれ、あるいはその双方であれーーの侵害であるという理念に至る。私が自分の見解を語ること(あるいは他者の見解を聞くこと)を阻止するのは、私が言うことから善が生じようと生じまいと単純に不正である。なぜならそれは私を自分自身のために思考し決定することのできる個人として尊重することに失敗しているからだ。このような議論は、言論の自由の保護から生ずる何らかの計量可能な帰結ではなく、言論の自由の内在的価値という観念、および言論の自由の[と?]人間の自律との関係という概念に依拠している。

 

(ウォーバートン、p. 18 - 19)

 

 ミルの『自由論』では、ウォーバートンが言うところの道具的議論と道徳的議論の両方がなされている。具体的には、第二章の「思想と言論の自由」ではわたしたちが正しい知識や意見やそれらについての「生き生きとした理解」を得るためには開かれた討論や少数派・異端派が意見を表明する自由が存在しなければならないという道具的議論が展開されていて、第三章の「幸福の要素としての個性」や第四章の「個人にたいする社会の権威の限界」では自由全般についての道徳的議論が展開されている。

『自由論』は魅力的な著作であるし第二章での議論は重要ではあるが、ウォーバートンはミルの議論があまりに理性主義的であることを指摘している。また、ジョナサン・ウルフが『政治哲学入門』で指摘していたように、論証の甘さという問題も残る*5。とくにミルが功利主義者であることもふまえると、「思想と言論の自由」がほんとうに最大大数の最大幸福につながっているかというのは気になるところだし、実際のところ「個人の幸福の増加」という尺度だけで測ると言論の自由を擁護する道具的議論は失敗する可能性が高いとも思う。むしろ、『自由論』の第二章のような議論は、功利主義とは別の原則や教条に基づいて論じられたほうが…ミル本人がどう思うかは別として…うまくいくし理解しやすい議論にもなりそうだ。

 わたしがイメージしているところの言論の自由の「手続き的価値」に基づく議論とは、「道具的価値」に基づく議論と同じように(個人の自律や尊厳ではなく)知識の正しさや物事の理解や「よい判断」などに関わるが、結果に訴える経験的なものではなく、あくまで手続きの正当性に焦点を置いたものだ(そういう点では「道徳的価値」や内在的な価値に基づく議論だと言えるかもしれない…ここらへんの用語は難しくてよくわからないけど)。

 仮にマイノリティもマジョリティも含めた大多数が幸せであるとしても言論の自由を欠いた社会ではわたしたちの持つ知識や理解や立法・政策に関する判断は根拠を欠いた不確かなもので有り続けるし、圧迫された意見とその意見の持ち主たちは地下に潜っていつ噴き出たり暴発したりするかもわからないから、そのような状況は不安で不穏である。だから、言論の自由は守られなければならない……というのが、いまのわたしがイメージしている議論だ。この議論は原理主義的であったり教条主義的であったりするかもしれない。とはいえ、民主主義を擁護する議論なんてだいたいは教条主義的なものだから、とくに問題ないとも思う。

 

(※)前々回や前回に引き続き、今回の記事も、来たる6月13日の「左からのキャンセル・カルチャー論」トークイベントに向けた内容です*6

*1:このくだりを書いている間にわたしの頭に浮かんでいたのが、『賭博破戒録カイジ』のこのコマである(まあこのセリフについては言っているキャラクター自身が後から詭弁だと明言していたけど。

*2:というか、ドゥオーキンの議論を主題とした第七章の途中でミルの議論が取り上げられている、という流れである。

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

 

この本では後者の意味で「思想の自由市場」という言葉が用いられていたし、ウォルドロンの文中にもロー・スクールとあるように、法律が関わる文脈で「思想の自由市場」について論じられるときには後者の意味が主なのかもしれない。

*5:

davitrice.hatenadiary.jp

*6:

davitrice.hatenadiary.jp

www.loft-prj.co.jp

読書メモ:『ヘイト・スピーチという危害』ほか

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 

 前回に引き続き、来たる6月13日の「左からのキャンセル・カルチャー論」トークイベントに向けて、表現の自由というトピックに関して復習中*1

 

 最近に読んだり再読したりした本は以下の通り。

 

 

 

 

 

 ウォルドロンと志田の本はどちらも初読。前者はアメリカの法哲学者が書いたものでヘイト・スピーチ規制がはっきりと打ち出されているもので、後者は日本の憲法学者判例や事例を紹介しながら法律上の「表現の自由」の意義と実際の運用について解説したもの。ウォーバートンの本については以前にもこのブログでメモを取っているが、3年半でわたしの考えもだいぶ変わったということもあり新鮮な気持ちで読むことができた*2

 これらの本を読んでいて改めて思ったのは、表現の自由原理主義や絶対主義……なにがあっても無制限に表現の自由を認めること……はさすがに厳しいな、ということ。たとえばウォーバートンの本では第一章の時点で以下のように釘が刺されている。

 

ある厭世的な発明家が入手しやすい家庭用製品からきわめて効果の高い神経ガスを作り出す簡単な方法を発見したとしたら、あなたはどう言うだろう?[…]この危険な発明、すなわち人類に何ら明白な利益をもたらし得ず、多くの代償を強いる可能性のある発明に関する言論の自由に対する彼の権利を擁護したがる人々はごく少ないことだろう。[…]もしあなたが言論の自由はあらゆる状況で擁護されるべきだと信じるなら、この事例においてすら、それは擁護されるべきだと信じなければならない。

[…]となると、「私は言論の自由に賛成です」と宣言することは、どこにその限界が存在するかに関する観念なしには相対的に情報不足であるし、ほとんどの人々にとって「私はいかなる状況の下でも絶対的に言論の自由に賛成です」ということを意味しない。しかしこの限界線を正確にどこに引くかを決めることはまったく簡単な作業ではない。その決定は、何らかの競合する価値がこの自由に優先するのはどのような場合かを決定することを意味する。

(ウォーバートン、p.15 - 16)

 

 また、志田の本では、(日本国における)法律上の表現の自由は「人格権」や著作権などに対する侵害となる場合には規制され得ること、その他にも具体的な事情(公共の施設で特定の政治的意見を発信することは認められるかどうかやヘイト・スピーチや性的表現の「社会的効果」に対する懸念など)によっては規制が認められるかもしれないということが詳しく説明されていた。

 

 さて、ウォルドロンの『ヘイト・スピーチという危害』では、人々の「安心」と「尊厳」は表現の自由を上回って保護されるべきだという理由に基づいてヘイト・スピーチは規制され得るべきである、というウォルドロン自身の主張が展開されている。

 しかし、わたしとしては、ウォルドロンの本は…主張や議論の内容もだけれど、いかにも頑固で教条主義的な左派らしい押し付けがましさとか、自分と対立する意見を紹介するときの冷淡さややる気のなさといった全体的なトーンなどが…ぜんぜん好ましく思えなかった。

 

 表現の自由…さらには自由一般…を規制する理由として最もよく持ち出されるのが「危害原則」、つまり「(原則として自由は最大限に認められるべきだが)ある人の自由な行為や表現が別の人々に対して危害を与えることにつながる場合には、自由を制限してよい」という考え方だ。

 とはいえ、一般論として、表現というのは物理的には誰かに対して危害を与えるものではない。「言葉の暴力」という言い回しはあるものの、手やバットで殴ったら相手に痣を残したり骨折したりできるかもしれないが、言葉にはそういうことはできない。表現が物理的な危害を与えるというのは、混雑した劇場で「火事だ!」と叫んでパニックを引き起こして劇場の出口に殺到した客たちがケガをさせる場合や、「あいつはわたしたちに害を与えているからとっ捕まえてリンチしてやろう」と喧伝して暴力を扇動する場合などに限られるだろう。

 他方で、他人の製作した表現物などを勝手に使用する場合には、その表現物を使用することで製作者が得られたはずの経済的利益を奪うという点で「危害」になる。つまり表現は他人に対して経済的な危害を与えるかもしれず、法律上の著作権などはそれらの危害から人を保護するためのものである。

 だが、表現が与える危害として多くの人が懸念しているのは、物理的なものでも経済的なものでもなく、もっと感情的・精神的なものであるだろう。暴力の扇動はしないが他の人々を侮辱するような表現のことだ。この場合にも、表現の対象が特定の個人であるなら名誉毀損となり、人格権で保護される対象になる(ほかにも、表現は個人のプライヴァシーを侵害して、そしてプライヴァシー侵害は精神的な危害を引き起こすだろうが、個人のプライヴァシーもまた人格権で保護される対象である)。

 しかし、表現のなかには、特定の個人を対象にしていないが一定数の人々に感情的・精神的な危害を引き起こすものがある。特定の人種や宗教や性的嗜好といった属性に対する差別表現(ヘイト・スピーチ)はそうであるし、ポルノグラフィや一部の広告表現などについてもそうだという人がいる。…しかし、物理的な危害や経済的な危害、あるいは特定個人の名誉やプライヴァシーに対する侵害という具体的な精神的危害に比べると、差別表現やポルノグラフィがどんな危害を引き起こすかは曖昧だ。

 そして、表現の自由は個人の人格の発展や幸福追求や自律などには欠かせないものであるし、人々の自由な表現が守られることは民主主義の健全な運営や真理の探求といった社会的な価値ももたらす。だからこそ表現の自由はできるだけ守られるべきだし、「検閲」はできる限り避けられるべきだ。……しかし、繰り返しになるがヘイト・スピーチやポルノグラフィがもたらす危害は曖昧なものであり、これらの危害をもとに表現の自由を規制しようとすることは「危害原則」の濫用に繋がりかねない。

 たとえばヘイト・スピーチやポルノグラフィがもたらす危害としてもっともわかりやすいのは「それらの表現を人を不快にする」ということであるが、いちど不快感に基づいて表現の自由を規制してしまったら、「この表現だって人を不快にしている」という訴えが相次いで、かなり多くの表現が規制されることになるだろう。不快感に基づく訴えには濫用の危険がある。また、たとえばマイノリティに対する侮辱的な表現とマジョリティに対する侮辱的な表現とでは前者のほうに後者よりも深刻な問題が含まれている、と多くの人は考えるだろうが、不快感に基づく訴えは原理的にこれらを区別することができないかもしれない(侮辱表現によって実際にはマイノリティのほうがより多大な不快を受けている可能性が高いとしても、マジョリティのなかにも繊細で傷つきやすい人はいるかもしれないので)。

 ……というわけで、ヘイト・スピーチやポルノグラフィなどの規制を主張する人は、不快感とは異なる危害の存在を立証しなければならない。ここでウォルドロンが主張するのが、ヘイト・スピーチやポルノグラフィは対象になる人々の「安心」を損ない「尊厳」を傷つけるという議論である。

 

…何が問題であるかを、私たちは二つのやり方で記述できる。第一に、包括性という、私たちの社会が支持し、コミットしている、ある種の公共財が存在する。私たちは、エスニシティ、人種、外見、それに宗教に関して多様である。しかも私たちは、こうした種類の差異にもかかわらず共に暮らし、働くという壮大な実験に乗り出している[※ロールズの「協働の冒険的企て cooperative venture for mutual advantage」のこと]。各々の手段は、社会が彼らだけのためのものではないことを受け入れなければならない。しかし社会は、他のすべての集団と一緒に、彼らのためのものでもある。そして各人は、各々の集団の各々の成員は、他人による敵意、暴力、差別、あるいは排除に直面する必要はないという安心〔assurance〕とともに、彼または彼女の暮らしを営むことができるべきである。この安心は、それが効果的にもたらされるときは、ほとんど気づかれない。それは、人々が呼吸する空気のきれいさや、泉から飲む水の水質のように、だれもが当てにできる物事である。私たち全員が住んでいる空間におけるこの安全さの感覚は、ひとつの公共財である。そしてよき社会においては、この感覚は、私たち全員が、本能的なほとんど感知されないような仕方で、それに貢献しそれを維持する手助けをするものである。

 

(ウォルドロン、p.5)

 

何が問題であるかを記述するもうひとつのやり方は、ヘイト・スピーチによって不確かなものとされてしまう安心から恩恵を受けるべき人々の観点から、ヘイト・スピーチに目を凝らすことだ。ある意味では、私たち全員が安心から恩恵を受けるはずである。しかし、脆弱なマイノリティ、近い過去において同じ社会の内部の他の成員から憎悪され嫌悪された経験を持つマイノリティの成員にとっては、安心は彼らが社会の成員であることの確証を提供するものである。安心は、彼らもまた、しっかりした立場をもつ社会の成員であることを確証してくれる。彼らが周りの他者と共に、公共の場所で、通りで、商店で、仕事場で、何ごともなく普通に交流し、社会の保護と関心の当然の対象としてーーほかの誰とも同じようにーー取り扱われるのに必要なものをもっていることを確証してくれるのである。こうした基本的な社会的地位を、私は彼らの尊厳〔dignity〕と呼ぶ。ある人の尊厳とは、たんに何かカント的な輝かしさではない。尊厳とは、彼らの社会的地位である。社会の通常の働きの中で平等な存在として扱われる権限を彼らに与える基本的な評価の根本にある事柄なのである。彼らの尊厳は、人生を生き、仕事をし、家族を育てるときに、彼らが当てにできるものであるーー最善の場合には、暗黙のうちに、わざわざ大騒ぎしなくても。

 

(ウォルドロン、p.6)

 

 そして、ウォルドロンによると、安心や尊厳を保護することとは不快感から保護することとは異なる。

 

しかしながら、人々が不快な思いをさせられるのを防ぐことが、ヘイト・スピーチを制限する法律の狙いであるべきだとは、私は考えない。人々の感情を不快感から防ぐことは、法律の適切な対象ではない。本章で私は、ヘイト・スピーチまたは集団に対する名誉毀損に対する立法のための、尊厳に基づく理由が、集団の成員が何らかの批判や攻撃にぶつかったときに受けるかもしれない不快感に基づくアプローチとはどのように異なるかを明らかにしようと努めるつもりである。そして私は、法律は尊厳の侮辱と不快にすることの間に引かれた線を守ることができるという主張を擁護するだろう。

その区別は、大部分、一方における、ある人の社会の中での立場がもつ客観的または社会的側面と、他方における、傷つき、ショック、怒りを含む感情という主観的な側面の間の区別である。人の尊厳または評価は、社会の中で物事が彼らとの関係でどうあるかとかかわるのであって、物事が彼らにとってどう感じられるかとかかわるのではない。あるいは、少なくとも第一義的にはそうである。もちろん、自分の尊厳に対する攻撃は、痛みに満ちた、力を奪うようなものとして感じられるであろう。さらに、他人の尊厳をこのようなやり方で攻撃するものが、一定の心的効果を与えようと望んでいることはーーマイノリティの成員の間に、自分たちは信頼されていない、通常のシティズンシップに値するものとみなされていないという悲痛な感覚、差別的で恥辱を与える排除と侮辱に対して自分たちはいつも脆弱なのだという感覚を培養しようと望んでいることは疑いの余地がない。そうした感情は、当然のこととして、尊厳に対する攻撃にともなうだろう。けれども、そうした感情は問題の根源ではない。

 

(p.125 - 126)

 

尊厳と不快感の間のこの区別を強調することによって、尊厳に対する攻撃の感情的な側面に対して私は無関心であることを伝えようとしているのではない。尊厳はただの飾りではない。それはある目的のために支えられ、支持されるものである。第四章で強調したように、個人の尊厳の社会的な支持は、人々にとって、彼らが生活を送り仕事をするときにまともな扱いをうけ尊敬を受けることについての一般的な安心の基盤を供給する。こうした尊厳へのいかなる攻撃も、傷つけ、苦しみをもたらすこととして経験されざるを得ない。そしてその苦しみを理解しないかぎり、集団に対する名誉毀損の何が問題なのか、それを法律によって禁止することが適切であるのはなぜかについて、理解することにはならない。人々を彼らの尊厳に対する攻撃から保護することは、間接的には、彼らの感情を保護することでもある。けれども、尊厳に対する保護が感情の保護でもあるのは、尊厳の保護が人々をひとつの社会的現実ーー地位を根本的に引き下げ安心を傷つけることーーから守るからであり、この社会的現実がたまた、彼らの感情にどうしても影響力をもつからである。誰かの感情が傷つけられるということは、多少なりとも、不快にするとはどういうことかを定義する。しかし、尊厳を傷つけるとはどういうことかを定義することはない。ショックを受けること、苦しむこと、または感情が傷つけられることは、尊厳を傷つけられたことを表す症状であることもあれば、ないこともある。それは、こうした感情の原因となる、あるいはそうした原因と関連している、社会現象の種類に依存するのである。

 

(p.127 - 128)

 

 長々と引用してきたが、どうにも、わたしはウォルドロンの議論に色々と納得できない。ま

 ず、これはたしか綿野恵太も『「差別はいけない」とみんないうけれど。』で言及していたが、結局のところ「安心」とは「安心感」のことであり、要するに感情なのではないかという気がする*3。そして、グレッグ・ルキアノフとジョナサン・ハイトの著書『傷つきやすいアメリカの大学生たち』や諸々の「ポリコレ批判」のニュースやこのブログの過去記事でも示してきたように、安心感とは主観的なものであるために、安心に対する要求はインフレしがちである*4。相手がマジョリティであろうがマイノリティであろうが、どこかの段階で「あなたはこの社会に対して不安を感じるかもしれないが、それは社会が配慮すべき事柄ではなくあなた自身で対処しなければならない事柄だ」と言うことのできる線引きは必要になるだろう。そうでなければ「危害」という単語に含まれる範囲はどんどん拡大して「セーフ・スペース」への要求はどんどん非合理なものになっていく。

「尊厳」についても、「ある行為や表現がある人の尊厳に対する攻撃である場合、同時にその人に対して不快感を引き起こすことが多いのもたしかだが、尊厳侵害と不快感との結び付きはあくまで偶然的なものであるし、問題となっている行為や表現の悪さの本質は不快感を引き起こすことのほうにではなく尊厳侵害のほうにある」という議論は、そもそも「尊厳」というものが感情保護とは独立に存在することを前提にしている。……だが、わたしには、特定の種類の攻撃や表現が引き起こす諸々の感情的な危害の総称が「尊厳侵害」であり、その危害から人々を保護するために「尊厳」というものが仮定されてきたんじゃないか、と思える(「権利」というものに対する功利主義的な観点と同様)。この観点からすると、ウォルドロンの議論は、便宜上の仮定や速記表現に過ぎないはずの「尊厳」が本当に存在するかのように物象化してしまい、それに振り回されて本来の目的を見失ったものであるように思われる*5

 ウォルドロンの理路は現代の日本でもよく見るものだ。企業がなんかやらかして炎上したときに謝罪文に「不快な思いをさせて申し訳ありませんでした」と書いたら、批判者たちが「これは人権の問題(または公正の問題とか多様性の問題とか)であって不快を与えたかどうかは関係ない、そんなことを書く時点で問題の本質がまだわかっていない証拠だ」とさらに噴き上がるという、ああいった光景である。……わたしとしては、「不快な思い」こそが、大半の炎上問題とか社会問題とかの本質であると思う。先述した通り不快感に基づく訴えには濫用の危険があるし、主観に基づく訴えがインフレして要求が理不尽にならないように線引きも必要であるが、それらは、「不快感は深刻な問題にはならない」ということを意味しているわけでもないのだ。

 

 ウォルドロンの議論は尊厳という言葉を使っているわりにはあまりカント主義的なものではないらしいが、尊厳や安心を「公共財」や「環境的な財」と捉えるロールズ的なものではある。そして、ウォルドロンの議論では、「秩序ある社会の雰囲気」を保つことが重視されたり、(市民同士とはただ単に同じ社会に生活しているのではなく共に「協働の冒険的企て」に参加している仲間であるという理由からか)市民は(家族や友人ではない見知らぬ相手であっても)他の市民に対して尊敬や関心を示すべきであるとされたり、公共財である安心や尊厳の保護には政府だけでなく市民も積極的に関わることが求められていたりするようだ。さらに、ヘイト・スピーチ規制だけでなくキャサリン・マッキノンの議論を経由しながらポルノグラフィー規制も支持しているように、ウォルドロンの議論はリベラリズムに基づいてはいるがかなり多くの領域での自由の制限を正当化するものである。

 ……ここらへんが、わたしにはウォルドロンの議論が押し付けがましく感じられる理由だ。わたしたちは市民として「協働の冒険的企て」に参加しているというロールズの議論は認めたとしても、ウォルドロンが描くほどにまで制限も義務も多くて窮屈な社会に参加するのに同意した覚えはわたしにはない。わたしに限らず多くの人がこんな社会には参加したくないと思うし、無知のヴェールを被ってみても結論は変わらないと思う。

 もちろん、(ポルノグラフィについては難しいところであるが)ヘイト・スピーチは問題であるし、なんらかのかたちでの規制が必要であるだけでなく、規制を正当化する理論も必要である。しかし、先述したように、表現の自由というものの重要さとヘイト・スピーチがもたらす危害の曖昧さを考えると、その理論を打ち立てるのはかなり難しい。そしてウォルドロンの議論は理論の打ち立てに失敗しているだけでなく、表現の自由の価値を過少に見積もることで、規制を安直に正当化する……向き合うべき「難しさ」から逃避したものであるようにも思える。マイノリティに対するヘイト・スピーチに心を痛めている人たちやヘイト・スピーチの対象になっているマイノリティたち当人にとっては賛同できる主張であるかもしれないが、そうでない人たちがウォルドロンの議論を支持する理由はほとんど示されていないように思える。「ヘイト・スピーチによって不確かなものとされてしまう安心から恩恵を受けるべき人々の観点から、ヘイト・スピーチに目を凝らすこと」はたしかに必要であるだろうが、別の観点から目を凝らすこともやはり必要であるのだ。

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

www.loft-prj.co.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:

 

 

*4:

 

 

*5:このわたしの意見も、「権利」に基づく議論に対する功利主義からの批判を流用したものだ。また、「仮定や仮説に過ぎながったはずの概念や理論が本当に存在するかのように錯覚して、それに振り回されてしまう」という現象は(功利主義者である)ジョシュア・グリーンが『モラル・トライブズ』のなかで権利論批判やカント主義批判の文脈で、ヘレン・プラックローズとジェームズ・リンゼイが『「社会正義」はいつも正しい』のなかでポストモダニズム批判や特権理論批判の文脈でそれぞれ独立に行っているが、権利論やポストモダニズムのほかにも多くの議論に対して有効な批判であるように思える。

 

 

ピーター・シンガーによる「言論の自由」論

 

 出勤前の短い時間なのでメモ的な記事。

 

www.project-syndicate.org

 

 昨年の11月に倫理学者のピーター・シンガーが書いたコラム。イ

 ーロン・マスクがTwitterを買収したことに言及しながら、自身が編集委員をやっている雑誌 Journal of Controversial Ideas (論争的な問題についてのジャーナル)について紹介(宣伝?)するような内容だ。

 

 とくに重要だと思ったところを、(時間ないので)Chat GPTに訳してもらった。

 

マスクが「Wokeの精神のウイルス」と呼ぶもの……政治的に正しくないと見なされる意見を主張する人々を攻撃したがること……そして政治的な立場を横断した真の対話が欠如していることに関して、私はマスクと同じ意見を持っている。だからこそ、私はJournal of Controversial Ideas という学術雑誌の創設編集者の一人となったのだ。

 

マスクが「健全な方法」で信念について議論すると述べたことについては、さまざまな解釈が可能であるし、そのなかには言論の自由を強く制限する解釈もある。しかし、それが何を意味するにせよ、問題はどのように実現できるかという点だ。Journal of Controversial Ideas では、初期審査を通過したすべての記事について、作者を特定しない形式で専門家に独立した査読を依頼している。また、私たちが公開する記事への反応・反論も同様の方法で扱っている。私たちが求めているのは、論争になるような扇情的な(polemic)主張ではなく、理にかなった議論なのだ(well-reasoned arguments)。

 

マスクの賞賛すべき目標を達成するためには、理性や証拠に訴えながら私たちの共感や理解を広げようとする発言と、他者を中傷し憎悪を煽る発言とを区別する必要がある。前者は私たちの考えを変えるよう説得するために行われるものであり、後者は他者に対する悪意を煽り立てるものだ。

 

 要するに「言論の自由や議論の自由は大切であるが、野放図な言論や議論ときちんとした手続きや制度に則った言論や議論とは別物だし(後者のほうがよい)、言論や議論が理性的なものであるかやどんな目的によって行われているかも大切だ」といった感じの主張だろう。

 

 僭越ながら、ここでシンガーが述べていることは昨年の6月に公開されたわたしの記事と共通していると思う。

 

s-scrap.com

 

 この記事のなかではシンガーによるまた別の「表現の自由」論も参照しているが*1、それはともかく、この記事でわたしが主張したことのひとつは「(新生児の安楽死やシスジェンダー女性とトランスジェンダー女性との利害の調節などの)論争的な問題こそ、Twitterのようなところで議論してもロクなことにならないので、アカデミアのような制度的なところで行われなければならない」というものだった。おそらく、シンガーも同様の問題意識があるから、Journal of Controversial Ideasの創設に関わったのだと思う。

 また、上記の記事のなかでは、わたしは議論をする人の「真摯さ」の重要性を強調していた。シンガーはTwitterでの議論がPolemicになりがちなことを危惧しているし、 Journal of Controversial Ideasのホームページでも自分たちはcareful(慎重)でrigorous(厳密)であるとともに unpolemical な議論のためのフォーラムを提供している、と書かれている*2。ポレミックというのは、英和辞書だと中立的だったり良い意味な印象を受けるかもしれないけれど、ChatGPTなら「扇情的」と訳するし、英英辞書などを参照すると「対象に対して過度に対立的・敵対的に〜(表現する)」という感じの意味合いだ。とにかくポレミックなのはダメである。

 実際のところ、TwitterなどのSNSでの主張や議論……多くの雑誌や書籍でなされる主張や議論、テレビなどでの討論やブログなどでの議論、そしてアカデミアでの主張や議論の一定数以上もそうではあるんだけれど……はポレミックなものになりがちだ。わたしは昨年の記事では「プラットフォームの構造」やリツイートやいいねの増加などの「報酬」が言論に紐付くことが問題だと指摘した(シンガーも今回の記事のなかでTwitterの文字数制限の問題に触れている)。また、その後も観察を続けていると、人格の問題か習慣の問題かは知らないがポレミックなかたちでしか物事を論じたり主張したりできない人が多々いるということも認識するようになってきた*3

 

 とはいえ、人は「論争的な問題」について関心を示してしまうし、一部の人々はそれについて議論をしたがる。

 ある特定の属性や状況の人々にとってはある特定の「論争的な問題」に関して自分たちの重大な利益がかかっている(少なくとも主観的にはそう認識している)から、という面もあれば、人間の知性の傾向や習性として「これってこうなるんじゃない?」とか「これっておかしくない?」ということがいちど気になったらそれについて考え続けたくなるし意見も言いたくなる、という面もあるだろう。

 だが、理にかなった議論をするのは難しいし、それをするためには真摯さや能力とともに制度の助けが必要だ。だからこそ難しい問題や論争的な問題についての議論はSNSなどの「下流」に任せるよりもアカデミアなどの「上流」に託したほうがいいし、逆に「上流」であるアカデミアの人たちは「下流」のSNSでロクでもない議論が巻き起こるのを防ぐために難しい問題や論争的な問題を扱う義務がある。……と、これも、過去の記事でわたしが主張したこと。たぶんシンガーやJournal of Controversial Ideasの創設委員たちも同じようなことを思っているだろう。

 

 本日に改めてこんな記事を書いた理由の一つは、来たる6月13日の「左からのキャンセル・カルチャー論」トークイベントに向けて、表現の自由というトピックに関する勉強を再開しているところだから*4

 また、直近で気になる話題としては、オックスフォード大学にキャスリーン・ストック教授が討論会に招待されたのとそれに対して活動家たちが抗議するというニュースがあったこと*5。わたしがストックの問題に関心を示しているのは、日本の哲学雑誌でもストックに対する「懸念」に応答するメッセージが公式に表明されたという事例があったからである*6。……このメッセージ自体はストックの言論の自由を直接に制限するというほどのものではないし「キャンセル・カルチャー」と言えるほどのものでもないとは思うけど、「若手の哲学研究者や学生、当事者の方々への不安」に配慮するという理由で「論争的な問題」を扱っている学者個人に対する批判的なメッセージを紹介する(本人の言い分や反論の紹介はナシ)、というのは(このブログや昨年の記事でわたしが論じたような類の)アカデミアの理念や意義とは反しているようには思える。

 

 

 

*1:

www.project-syndicate.org

*2:

journalofcontroversialideas.org

*3:ここで頭をよぎるのは「そういうお前もよくポレミックな議論を行なっているじゃないか」ということである。わたしとしてはあまりポレミックにはならないように努めているつもりではあるが、よく脱線したり調子にのったりしてポレミックになるタイミングがあるような自覚もないではない。

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

www.loft-prj.co.jp

*5:

www.afpbb.com

*6:

philcul.net

「思いやり」があれば正しいってもんか?(読書メモ:『ケアの倫理と共感』)

 

 

 この本は邦訳の発売直後、2021年の年末に当時もらった図書カードで購入済だったのだが積んでいたところ、先日の日本哲学会のワークショップに向けて、『もうひとつの声で』に続いて読んだ、という次第である。……ちなみに原著は10年ほど前、大学院生時代に指導教授と一緒にゼミで読んでいる。しかし例によって内容はさっぱり覚えていなかった。また、この本の内容はなかなか難しく、ゼミで読んだときにはわたしだけでなく指導教授もピンときていないというか微妙な反応をしていた記憶がある。

 

 ケアの倫理ついて書かれた本といっても必ずしもいわゆる「規範倫理学」とか「倫理学理論」とかについて書かれているとは限らず、代表的なところでは『もうひとつの声で』はインタビューに基づく心理学の本であり、規範に関してはかなり曖昧なことしか書かれていなかった。

 また、ネル・ノディングズの主張は規範倫理学理論として扱われることもあるが、なにしろ思い切りがいいというか過激なところも多いのでフェミニストやケアの倫理に共感的な人からも「ノディングズはちょっと…」という扱いをされることがあるようだ。  

 わたしのイメージでは「倫理学理論としてのケア倫理」を提唱している人の代表はヴァージニア・ヘルドであるが*1、彼女の本は日本ではまだ翻訳されていない。エヴァ・フェダー キテイやジョアン・トロントなどの政治哲学系の人の本は翻訳されてきたが、自他共に認める「倫理学理論としてのケア倫理」として書かれた本が邦訳されるのはこれが初めてではないか……それが男性の書いた本だというのは、ケア倫理が成立した経緯を考えるとちょっとどうかと思うところもあるけれど。

 

 著者のマイケル・スロートは From Morality to Virtue という本も書いている「徳倫理学」系の人であり、そのなかでもアリストテレス的なロゴスやエウダイニモニアを重視するタイプの徳倫理学(新アリストテレス主義)ではなく、デビッド・ヒュームとかアダム・スミスとかの系譜に連なる「感情主義的徳倫理学」を唱えてきた人である(訳者解説を参照)。

 なお、ケアの倫理学者としても有名な女性哲学者であるアネット・ベイアーはヒューム研究者でもあったりするので*2英語圏の伝統の道徳感情論とか道徳心理学とかをケアの倫理に結び付けること自体はスロートに特有の発想というわけでもないようだ。

 

 そして、現代の徳倫理学がやたらと難解になっているというご多分に漏れず、スロートの議論もかなり難しい。

「訳者解説」ではスロートの主張がなんとかまとめられているので、引用。

 

……スロートの感情主義的徳倫理学においては、「気遣い」「配慮」「思いやり」といった個別の他者への温かい心情に根ざす関心ーーすなわちケアーーが中心的な徳とされる。また反対に、他者への冷淡な無関心、心ない対応、悪意に満ちた態度などが悪徳を構成することになる。そして細かい特徴づけを抜きにして言えば、こういった相手への温かい心情に根ざす関心に動機づけられて行為しているとき、その行為は正しいとされる。

このようなスロートの感情主義的徳倫理学を、新アリストテレス主義的徳倫理学と比較した場合、以下の二点が両者の違いとして重要である(ただし両者の優劣に関しては棚上げにしたい)。第一に、新アリストテレス主義と異なり、感情主義は、具体的な他者に対して、いっそう直接的な関心を向けており、人間固有の開花繁栄という形での人間的完成を中心に据えるわけではない。第二に、新アリストテレス主義においては、賢慮といった思考ないし実践理性に関わる徳が中心的であるのに対して、感情主義においては、思いやり(ケア)といった心情に関わる徳が中心的である。

 

(p.236)

 

 また、スロート自身もこう述べている。

 

「ケアの倫理によれば、行為の正・不正は、その行為において示されているものが、思いやりのある態度/動機か、それとも思いやりのない態度/動機かによって判断される。」

 

(p.33)

 

 さて、上記の記述だけでも、わたしはスロートの議論をかなり警戒してしまう。

 思いやりのある人は思いやりのない人よりかは良い人であったり善人であったりするだろうから、だれかの人格を評価するときには思いやりの有無を見ることは大切であるだろう。また、自分が良い人生を過ごそうとしたり善い生き方をしたいと思ったりしたときにも、たぶん思いやりがあったほうがいいだろう。

 つまり、価値や善(Good)について考えるときには、思いやり=ケアは、他の徳……勇気とか知恵とか……に並んで大切だと思う。なので、価値や善に関する理論としての徳倫理学、あるいは人間評価であったり人生哲学に関する議論としての「徳」論であれば、わたしはもっともらしさを感じるしそういう議論が必要だと思うし、「ケア」論だって人間評価や人生哲学の一部として必要であると思う(ケアという徳が他の徳を凌駕したり、ケアには他の徳よりも一際重視されるべきだったりするほどの大切さがあるかどうかはわからん)。

 しかし、徳論にせよケア論にせよ、それを行為等の正(Right)に関する議論に結び付けようとすることには賛同できない。

 ……また、なぜ多くの哲学者がそういう議論をしたがるかということも理解できない。単純に考えて、誰かが思いやりがあるけれど不正な行為をしてしまうこともあれば、誰かの行為には思いやりがあまりなかったけれど正しかったということはいくらでも起こり得そうなものだ。

 

「思いやり」のあるなしや共感の有無に基づいて行為の正/不正を論じることの誤りが端的に示されているのは、「妊娠後期の胎児よりも胎芽・初期の胎児を中絶するほうが、道徳的には適切である、もしくはましである」「初期の胎児や胎芽の中絶よりも妊娠後期の胎児の中絶は、より道徳的に悪く、受け入れがたい」(p.29)という主張をケアの倫理に基づいて支持・正当化しようとする箇所だ。

 

第一に、胎児をフィルム・写真・超音波診断機器・テレビカメラなどで視覚的また聴覚的に捉えられるようにしても…(中略)…こうした胎児への関わりは、私たちが新生児に対してもつような関わりと比べると、それほど直接的ではない。新生児はそこに、まさに私たちの目の前に存在している。そして、私たちはその子を抱くことができ、直に見て接することができる。…(中略)…赤ちゃんの泣き声は、共感的反応を呼び起こすのに寄与しており、胎児または胎芽が私たちに働きかける際は、それに匹敵するような効果的な手段は存在しない。

この事例においても同様に、ケアの倫理の観点からすれば、「新生児殺害が、胎芽や胎児の中絶に比べて、健全な人間の共感がもつ方向性や傾向性にいっそう強く反する」という事実は、新生児殺しがいっそう不正で道徳的に許容しがたい行為であることを示唆するものとして理解できる。

 

(p.29 - 30)

 

 一般的に、胎児の殺害と新生児の殺害は同様に悪いと論じる主張では、胎児と新生児はだいたい同じような感覚能力や認知能力を持っているから、殺される側にとって与えられる危害とか奪われる権利とかがだいたい同じになるので同じように悪い、と論じられる(だから「胎児を殺すべきではない(中絶は悪い)」とされることもあれば「胎児を殺すのが許されるのだから新生児を殺すことも許される」とされることもあるが)。

 それに比べると、思いやりや共感を重視するはずのケアの倫理は、相手が目の前にいるかどうかとか相手に共感が抱けるかどうかなど、行為者の側の観点からしか話をしていないようだ。

 そして、中絶や殺害という問題においては、殺される側が被る危害というポイントは、殺す側が相手に対して共感を抱けるかどうかというポイントよりもずっと重要であると思う。わたしだけでなくかなり多くの人がそう判断すると思うし、泣けなかったり成人の目の前に存在できなかったりするという理由で殺される羽目になる胎児はとくにわたしに同意してくれるだろう。

 本書では動物の問題はスルーすることが明示されているが、実際のところ、スロートの主張を動物の問題に当てはめれば「飼い猫やアザラシの赤ん坊を殺すことはかわいそうだし嫌悪感を抱くからダメだけどネズミやウツボを殺すことには嫌悪感を抱かないから殺してもいい」といった、ノディングズによる(評判の悪い)主張と同様のものになりそうだ*3

 もちろん、「猫やアザラシを殺すことにもウツボやゴキブリを殺すことにも全く同様の感情を抱くし、ゴキブリが殺されるのを見るのと同じように猫が殺されるのを見てもわたしの感情はほとんど乱れない」と言い張る人がいたら、わたしはその人のことを(まずは「しょうもねえ逆張り野郎だな」と判断してバカにして相手にしないだろうけれど、そうじゃなくて本気でそう主張していると知った場合には)人として大切なものが欠けていたりどこかおかしいと判断するだろうし、友達になったり関わりあったりしたくもないのでその人のことを避けるとも思う(しょうもねえ逆張り野郎のことも避けるけど)。……だから、人格とか人物を判断するうえでは、ある人がまともに/適切に思いやりや共感を抱ける人であるかどうかということは重要だ。わからないのは、何故それを行為の評価とか正/不正の判断に持ち込もうとするかである。

 冒頭でも触れたように、ケアの倫理は必ずしも規範倫理学理論として提唱されるとは限らない。ギリガンも含めて、多くの論者は「従来の倫理学や正義論では理性や自律などばっかりが重視されるけれど、感情や依存関係などを重視する考え方があってもいいんじゃないか」「従来の倫理学や正義論では掬えないところを扱う考え方も必要なんじゃないか」といった、従来の理論に取って代わる理論を提示するというよりも従来の理論に対する批判的な視点を提供したり従来の理論を補完することを目指すような主張に留まっている。

 それらに比べると、スロートの議論は、他の規範倫理学理論に取って代わることを目指すものであるようだ。だから、「正/不正の判断もケア倫理でまかなえますよ」と主張するしかないのだろう。義務論や功利主義など他の倫理学理論では可能である正/不正の判断がケア倫理ではできないとなると、規範理論としては不十分であり他の理論の代替にはならないことになってしまうからだ。

 

 しかし、スロートの試みはやっぱり無理筋であるように思える。

 単純に言って、代表的な規範倫理学理論……義務論、功利主義、徳倫理……はそれぞれカントとかベンサムとかアリストテレスに遡るわけであり、歴史の試練に耐えられている。それに比べると、ケア倫理は1980年代に降って沸いたものだ(前述したようにヒュームやスミスに紐付けることもできるかもしれないが、彼らも「ケアや思いやりが一番大事だ」という素朴な主張をしていたわけではないだろう)。

 規範倫理学理論には人々に行う行為や判断、あるいは制度や政策などの正しさを測るという重大な役目が託されていることをふまえると、よほど精緻で優れた議論を提供してもらわない限り、これまでに重荷を担ってきた理論から俄かに登場した理論に乗り替えることには慎重になるべきだ。

 

 本書の第5章では倫理学理論だけでなく政治哲学理論としての自由主義リベラリズム)もケアの倫理と対比させられているが、そこでも同様の問題は起こっているように思っている。

 たとえばヘイトスピーチ規制の問題については、自由主義者ヘイトスピーチの被害を受ける人に対する共感から自分を切り離して判断しようとするが、ケアの倫理であればヘイトスピーチの被害を受ける人の感情に寄り添った判断ができる、といった議論がされている。

 スロートも「ケアの倫理に基づけばヘイトスピーチは必ず規制すべきだということになる」とまで主張しているわけではなく、ヘイトスピーチを規制することで正当な言論まで規制されてしまうという「滑りやすい坂道」の問題を考慮しなければならないとかどこに境界線を引くかというのはケア倫理学者の間でも違っているしその相違について議論することもできるとか論じているのだが……共感や思いやりがあればいいとか言っている割にはずいぶんと頭を使っているというか理性的な議論をしているような気がするけれど、それは置いておいて……言うまでもなく、ヘイトスピーチ規制というトピックには「被害を受ける人の感情」という問題のほかにもかなり重大な問題がかかっている。

 たとえば、ある社会で表現の自由が制限されてしまうと、いまその社会に住んでいる人やその社会に今後生まれる人からは、なんらかの価値が奪われるかもしれない。自由や自律が損なわれるだけでなく、その社会で生産される知識や行われる議論の質が担保されなくなるかもしれないし、自由な表現や議論ができないことで公共心のようなものも損なわれることになるかもしれない。

 しかし、これらの価値が奪われることについて多くの人は苦痛を感じないかもしれないし、価値が奪われていること自体について気付かないかもしれない(表現の自由が規制された時に子どもであったりその後に生まれてきた人にとってはとくにそうだ)。このことは表現の自由に限らず自由全般に当てはまるだろうし、たとえば緩やかな全体主義国家に住んでいる人たちは自分たちに自由がないことに苦痛を感じないだろう。

 共感すべき苦痛や感情が存在しないのだから、スロート流のケア倫理に基づけば、表現の自由が規制されることや緩やかな全体主義国家の存在は問題視するにも至らないはずだ。……しかし、もちろん、わたしたちはそれらを問題に思うし、共感だけでは対処できないこれらの問題を扱うために自由主義をはじめとする諸々の理論が発達してきたのである。

 すると、ケア倫理は歴史を逆行させる考え方であるように思える。

 

 本書では「道徳教育・道徳的発達に関する体系的な説明や、道徳的な性向がどのように教示され、獲得されるのかに関する体系的な説明」(p.6 - 7)として、『共感と道徳性の発達心理学―思いやりと正義とのかかわりで』などの著作がある心理学者マーティン・ホフマンの理論がたびたび参照される。

 ただ単に哲学や倫理学を述べているだけでもなく、専門的な心理学に裏付けさせようとしている点も、本書の特徴だ。

 ……とはいえ、本書で参照される(ほとんどがホフマンの研究に基づく)心理学的知見はスロートの議論にとって都合良くチェリーピッキングされているように思える(ただまあ、わたしが書いた『21世紀の道徳』に対しても同様の批判はあったし、科学的知見のチェリーピッキングというのはガチの科学哲学や心の哲学以外の哲学の議論ではありがちな問題ではあるのだろう)。

 具体的には、原著の9年後に出版された心理学者ポール・ブルームの『反共感論』は、本書の議論にとって致命的なポイントを指摘しているように思える(たとえば、遠く離れた人々の具体的なニーズに応答する「人道主義的なケア」(p.237)が共感に基づいて成立する訳がない、それを成立させるのは理性である、とブルームなら論じるだろう)。2007年の時点でも共感の限界や道徳感情の問題点を指摘する心理学の文献は多々存在していたはずであるし、全体としてスロートの議論は「進化論的暴露論証」に対してかなり脆弱であるようにも思える。……まあこの辺りは『21世紀の道徳』の第8章で他のケア倫理に対する批判としても行った議論なので割愛。

 

 思いやりや共感を伴わない行為が正しくないのであれば、共感能力に欠けている(とされている)自閉症アスペルガー症候群の人には正しい行為をすることができない、ということになりかねない点にも注意が必要だ。

 スロートは、「自閉症の人々は他者に共感することができないにも関わらず道徳的な判断や行為ができている」という議論に対して「実際には自閉症の人々も共感をすることができる(だから道徳的な判断や行為もできているのだ)」という反論を試みているようだ(p. 181 - 182)。しかし、ここの議論は「共感」にこだわるスロートが強弁しているように見えて苦しい。

 また、スロートは「男性はテストテロン値が高いために女性に比べて共感能力に欠けており、道徳的に劣っているかもしれない」という議論も行っている。

 

仮に男性が、女性よりも共感の面では劣っているとしても、今日の男性はかなり共感的でありうるし、また、教育や子育てに関する実践が改善されることで、男性が全体として現在よりもはるかに共感的になる可能性を否定する論者はいない。(また今後、女性が全体として、現在の女性よりもいっそう共感的になりうることを否定する論者もいない。)そこで、極めて共感的になれる能力をもつ男性がいると仮定して、その後に、テストテロンが男性の共感を軽減させ、性別/ジェンダーとしての女性がそうなる以上に、他者に対して常に攻撃的になる状況について、どう考えるのかを尋ねる場合を想像してみよう。彼は、テストテロンの影響による攻撃性によって危害・苦痛を被った人たちに対して共感を覚え、共感に基づいて気遣うからこそ、率直に、こうしたテストテロンの影響を嘆き、また遺憾に思うのではないだろうか。仮に十分に共感的な男性/男であるなら、誰もが、この男性に見られるテストテロンの影響を遺憾に思い、場合によっては罪の意識さえ感じるのではないかと思う。そして、もしそうだとすれば、彼は、「男性が女性よりも道徳的に劣っている」という考えに、抵抗感や憤りを覚えたりすべき根拠は全くないだろうし、そういった気持ちにも全くないだろう。この結論によって、彼の自我は傷つき、大きな衝撃を受けるかもしれない。しかし彼は、男性のテストテロンが過剰であることでもたらされる害悪を認識し、それを遺憾に思っているので、その衝撃を受け入れるべきなのかもしれない。

 

(p. 110 - 111)

 

 上記の議論には、半分くらいは賛成だ。

 わたしも、テストテロンの影響などによって男性が道徳的な行為や判断に失敗したり非道徳的な行為をしたりしてしまうことはあると思うし、少なくとも一部の領域においては「(平均的な)男性は(平均的な)女性よりも道徳的に劣っている」という考えを受け入れている。そして、この考えに対してつべこべ文句を言ったり男性差別だと騒いだりする男性が多々いることも知っているが、スロートと同じく、わたしは男性たちはこの考えに対して抵抗感や憤りを抱くべきではないと思う。

 ただし、わたしが上記のような考えを持つに至ったのは「共感」や「思いやり」のおかげではなく、知識を参照したり自分の感情を批判的に吟味したり他人のことにも配慮したりしながら不愉快な事実でも受け入れるという「理性」のおかげだ。

「テストテロンの影響を遺憾に思い、場合によっては罪の意識さえ感じる」男性というのは、十分に共感的な存在ではなく十分に理性的な存在なのではないか?……というか、ここでスロートが示そうとしている、メタ的な認知や判断を伴っているような「共感」って、ふつうの人なら「理性」と見なすものだろう*4

 

 また別のところでは、「自分が家族に対して抱いている愛情にさえ批判的な検討が必要だ」というマーサ・ヌスバウムの議論に対してもスロートは反論を行なっている。

 これはバーナード・ウィリアムズが「思案過多」として提起した問題でもあるが、わたしとしては(自由主義者であるだけでなくストア主義者でもある)ヌスバウムの議論のほうに賛同したい。……とはいえ、「批判的に警戒する必要がない状況でそのように警戒する場合は、実質的には、最も充実した理想的な愛情を妨げることになる」(p.121)というスロートの主張も、たしかに一理ある。ここは宿題としたい。

 

*1:

 

 

*2:

 

 

*3:

yonosuke.net

*4:要するに、議論の都合に合わせて「共感」を拡大解釈して、共感に「理性」的な要素も取り入れさせてしまっているということだ。これもケア倫理ではありがちな問題である。

davitrice.hatenadiary.jp

「片目の男」(読書メモ:『ノージック 所有・正義・最小国家』)

 

 

 政治哲学者ロバート・ノージックの思想について、『アナーキー・国家・ユートピア』を中心に解説する本。

 ノージックといえばリバタリアニズム(自由尊重主義)を正当化する思想を提唱した人というイメージだが、この本の著者のジョナサン・ウルフは、ノージックの提唱するリバタリアニズム自体にもノージックの議論の方法にも、最終的には賛同しないというか否定的な評価を下しているような。その一方で、権利(自己所有権)に基づくリバタリアニズムの主張は一定の説得力や直感的な正しさが存在していて多くの人が魅惑されること、また権利という単一の価値に基づいて政治哲学の理論を打ち立てるという離れ業を成し遂げたノージックの功績については好意的な評価がなされている。最終ページでジョン・スチュアート・ミルによる「片目の男」という比喩を引用しているところ……一つの価値だけを重視する視野狭窄な議論をしているからこそ、鋭くて突き詰めた議論ができるということ……が、著者によるノージックの評価として印象的かつわかりやすい*1

 また、ノージックの議論の問題についても、最終ページ近くで(ジョン・ロールズの『正義論』と対比させながら)わかりやすくまとめられている。

 

ロールズ主義的な観点からすると、自由尊重主義の失敗は、構造の内部から正当な期待の原理を取り出して、これらの原理に従って構造の方が形作られるべきだと主張した点にある。すなわち、ロールズにとって権原の主張は全て、先行する正義の構造との関係で相対的なものなのである。何物も「絶対的に私のもの」ではなく、ただ「そのルールによって私のもの」であるにすぎない。自由尊重主義は権原の主張のこうした本質的な相対性を見落としている。こうして我々は、権原原理の大きな魅力を認めることはできるが、それが正義に関する真理の深底を極めてはいないと主張するのである。

(p.234)

 

 この本の構成としては、第1章から第4章までは徹底して『アナーキー・国家・ユートピア』の内容の解説とノージックが行なっている議論や主張の吟味と批判、また関連する思想家やノージック批判者たちの議論や主張とそれに対する吟味と批判が行われる。ここで行われている議論はなかなか細かく専門的であり、ノージックの議論に感銘や衝撃を受けた人か専門的な哲学者にとっては興味深かったりタメになったりするだろうが……わたしはそうじゃないのであまりノレなかった。『アナーキー・国家・ユートピア』そのものはほとんど読んでいないのでアレなんだけれど*2、権利や権原という概念がピンとこないのとリバタリアニズム自体を元から穿った目で見ているのとが合わさって、なんか興味のないフィクションの話や神学論争を延々とされている感を抱いてしまった。

 ちなみに、これはごく基本的なことだが、ノージックの議論の特徴は、ミルトン・フリードマンフリードリヒ・ハイエクなどによる、効率性を強調した「経済学的」なリバタリアニズム擁護ではなく、あくまで権利一点張りでリバタリアニズムを主張したところにある。……つまり、効率が悪かったり人々の福祉・効用に反したりするとしても、それでも最小国家以上の国家は権利侵害であるので認められないということだ(逆に最小国家は必要だと言って純粋な無政府主義者に対する反論が行われているところもノージックの特徴)。効率や福祉・効用を大事にしたいと思っているわたしとしてはむしろ「経済学系」のほうのリバタリアニズムにまだしも説得力を感じるんだけれど、まあ大半の人は権利を大事に思っているからノージックのほうに説得力を感じるべきだろう(「自己所有権」という考え方自体の直感的な正しさや否定しきれなさはわたしも認めるところだ)。

 なお、第5章の「ノージックと政治哲学」ではノージックによる他の思想家の議論に対する批判が紹介されているのだけれど、こちらは鋭いうえにテンポ良くてサクサクと読めるのでおもしろい。とくに「リバタリアニズムは価値多元主義を保証するし、ロールズ主義者や共産主義者が自分たちで寄り集まって自分たちのコミュニティや国家を築くことも否定しないよ(それに対してロールズ主義や共産主義リバタリアンが自分たちの自分たちのコミュニティや国家を築くことを許さないよね)」という「ユートピアの枠」論は盲点を突かれた感じで印象的だった。

 

事実、対抗する政治哲学がみな重大な批判を避けられないことを、ノージック以上に示した者はほぼ皆無である。また、ノージックの重要性の大部分は、教条的なまどろみから人々の目を覚ませた点にある。

(p.195 - 196)

 

 上記の賛辞は、『アゲインスト・デモクラシー』を執筆したリバタリアンであるジェイソン・ブレナンなんかにも当てはまるだろう。……ブレナンの民主主義批判は鋭くかつ強烈だが、ブレナンの提案するエピストクラシー(選良政治)は微妙っぽいし賛同できない。そもそもどんな哲学者にとっても自分の主張を提示するよりも他人の主張を批判することのほうが簡単だし上手くできるということは本書のなかでも釘が刺されているのだが、それにしてもリバタリアニズムは規範理論としてではなく批判理論(誤用)として用いたときに鋭く鮮やかになるような気がする。

 

 また、森村進による「訳者解説」は50ページ近くとかなりの分量がある。リベラリストマルキスト寄り?なウルフと異なり森村はリバタリアンだということもあって、ノージックにも好意的だ。本書では基本的にノージックに対する肯定よりも否定が多くなるので、本文を読み終わった後に訳者解説で改めてノージックが擁護されることで、総合的にはバランスのいい視点が得られることになる(ただし、晩年のノージック共同体主義に寄ったことなどについては本文以上に手厳しい批判がされているけど)。

*1:「片目の男」の比喩はミルの『ベンサム』から引用されている。

*2:たしか院生時代に図書館で借りたはずなんだけれど内容はまったく覚えていない

トークイベント「左からのキャンセル・カルチャー論」をやります(6月13日(火):阿佐ヶ谷ロフトA)

 

 6月13日(火)の19:30から、東京の阿佐ヶ谷ロフトAにて、「左からのキャンセル・カルチャー論」と題したトークイベントをやります。

 トークの相手は文芸批評家在野研究者の荒木優太さん、『情況』編集長で2022年のキャンセル・カルチャー特集号も担当された塩野谷恭輔さんです。

 

 以下、荒木さんからのメッセージです。

 

どうも、荒木優太です。「キャンセル・カルチャー」という言葉が日本に定着してからそれなりの月日が経ったように思います。改めて注釈しておけば、キャンセル・カルチャーとは差別やハラスメントに抵触する危険のある人物・言動・作品に対して集団で圧力をかけることで、公的な領域から締め出そうとする社会運動のことをいいます。本場アメリカでは、コールアウト文化とも呼ばれているようです。

たとえば、2020年のアメリカでは、有名な心理学者のスティーブン・ピンカーを学会の要職から除名せよと迫るオープンレターが発表されました。また日本の「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターについては、「これはキャンセル・カルチャーである」「いやキャンセル・カルチャーではない」という議論が現在にいたるまで続いています。記憶に新しいところでは、東京オリンピック開催における小山田圭吾小林賢太郎の辞任騒動にも同種の懸念がかけられました。

初めから正しいことが分かっていれば、なるほど、キャンセル・カルチャーもそれほど悪いもんじゃないかもしれません。差別を根絶したいという願い自体は多くの人々が同意できるわけですから。

ただ、正しくないとされていたのに本当は正しいかもしれないこと・正しいか正しくないか議論してみなければ分からないこと・正しくないかもしれないけどその間違い方に大きなヒントが宿っているもの……といった正しさの縁にあるものを、リスクがあるという一点で共有しない/できない社会というのもまた、なんだか薄気味悪く感じます。

『21世紀の道徳』(晶文社)で注目を集めた気鋭の批評家であるベンジャミン・クリッツァー、さらに、キャンセル・カルチャー特集を企画し『情況』の編集長に就いたばかりの塩野谷恭輔をゲストに呼んで、キャンセル・カルチャーの問題点、そもそもそんなものが実在するのかも含めて、マジの議論をしていきます。

異論反論、歓迎。キャンセルをキャンセルするぞ。ぜひご参加ください!

 

www.loft-prj.co.jp

 

 

 

 

 わたしが書いた記事のなかでイベントの内容とも関わるものとしては、下記のものがあります。

 

s-scrap.com

 

s-scrap.com

 

gendai.media

 

gendai.media

 

gendai.media

 

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 よろしくお願いします。

日本哲学会ワークショップ「動物倫理とフェミニズム・ジェンダー」で発表してきました

 

 時間なくて原稿の60%くらい読み上げられなくて超飛ばし飛ばしになったり、プリント代をケチって5部しかレジュメ用意しなかったら全く足りなかったりと、わたしの発表はちょっと(かなり)グダグダになってしまいましたが(質疑応答は充実していたと思います)、せっかくレジュメ作ったことなのでTwitDocにアップロードしました。

 興味ある人は下記からダウンロードして読んでください。

 

twitdoc.com