道徳的動物日記

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ジョエル・モキール『経済発展の文化:近代経済の起源』

 

A Culture of Growth: The Origins of the Modern Economy (Graz Schumpeter Lectures)

A Culture of Growth: The Origins of the Modern Economy (Graz Schumpeter Lectures)

 

 

 経済史学者のジョエル・モキールの『経済発展の文化:近代経済の起源』を飛ばし飛ばしながら読んだので、内容をごく短く要約して、適当な感想も付け足しておく。私はこの分野に全く詳しくないので著者の主張がどれくらい妥当であるかといった評価はできないのだが…。

 

 近代的な経済成長とか産業革命はなぜ他の地域ではなくヨーロッパで初めて起こったのか、ということについては色々な人々が様々な議論を提起している訳だが、モキールは所有権の確立とか自由な通商といった「人と人との関係」の変化についてではなく、科学やテクノロジーの発達やイノベーションといった「人と外的環境との関係」の変化を強調して論じている(モキール自身は、前者はアダム・スミス的な観点であり後者はヨーゼフ・シュンペーター的な観点であって、この本はシュンペーター的な観点によって書かれているとしている)。モキールによると、ヨーロッパで産業革命が起こったのは「人間は知識によって自然界を理解してコントロールすることができ、自然界から有益なものを発見して利用することができる」「知識を通じて自然を征服することによって、人間社会を発展させて進歩させることは可能である」という考え方がヨーロッパに普及したことが理由である。

 

 …これだけだとよくある議論のように聞こえるかもしれないが、モキールの本のポイントは「人間は自然を操作して利益を生み出すことができる」「人間社会の進歩は可能である」という考え方が、"いつ""誰に""なぜ""どのようにして"普及したかということを、文化進化論のモデルを使いながら詳細に描いていることにある。経済史の本であるのに、序盤の数十ページは文化進化論の考え方やモデルの説明に割かれているのだ。私はいわゆる比較文化論というものは論者の議論にとって都合の良い証拠とか資料だけをピックアップしたうえで都合の良い理論をでっちあげて説明するみたいな胡散臭いものが多いと思っていたのだが、文化進化論はモデルとか理論とかがしっかりしている感じがしてなかなか面白いと思うし、もっといろんなトピックについて文化進化論による解説を読みたいものである。

 

 モキールの主な主張は、「知識は力なり」で有名なフランシス・ベーコンや『自然哲学の数学的諸原理』を著したアイザック・ニュートンの考え方がヨーロッパの知識人たちの間で普及して、知識人たちは科学的知識を追求し始めるようになったこと、それも単に自然についての知識を増そうとするだけでなく人間社会にとって利益になるような「実用的な知識」を追求することが一般化したことが、やがては産業革命をヨーロッパにもたらした、というものである。「科学知識によって自然を征服する」というベーコンの発想はいかにも悪者っぽくて、キャロリン・マーチャントの『自然の死:科学革命と女・エコロジー』などの様々な反科学・反西洋・反近代的な著作で槍玉に挙げられている訳だが、しかし、産業革命と経済発展のおかげで現代の我々が甘受できている豊かな生活はベーコンがいなければ存在しなかったのかもしれないである。

 文化進化論の理論からすれば、肝心なのは、ベーコンやニュートンが何らかの考え方を提唱したこと自体ではなく、むしろ彼らの考え方が普及するために必要な要素や環境が当時のヨーロッパに存在していたことである。ではなぜベーコンやニュートンの考え方がヨーロッパに普及したかというとそれには色々な要素があって、この本ではその色々な要素が詳細に語られている。キリスト教会は両義的な役割を果たしていたとか中東やアジアのように強大な帝国がなくて各国の勢力が均衡していたことが知識の普及や切磋琢磨などを促進したなど、とにかく色々あるので全部はまとめきれないのだが…。「ヨーロッパにはやがて必然的に産業革命がもたらされるであろう背景や環境や文化が存在していた」と主張するのではなく、ある時代における様々な要素のバランスの作用によってベーコンやニュートンの考え方が(ある意味では偶然として)普及した、ということが強調されているのがこの本のポイントだろう。

 また、ヨーロッパにおける科学の発達で特に重要だったのは、近世のヨーロッパにはいわゆる「文芸共和国」が成立しており、知識人たちは国家や宗教の境界を越えて知的に交流できたこと、また自国では弾圧を受けるであろう意見を持っている知識人にとっても他国に移動することが比較的簡単であったことのために、自由な意見の表明や議論を行えて知識の交換や促進されたことである。さらに、知識人たちにとって自分の知識を公開することは文芸共和国内での名声を高めることにつながり、そして当時は名声それ自体が知識人たちにとって非常に価値のあるものとされていたのであり、またパトロンを確保しやすいなどの実益につながるということもあって、知識人たちはこぞって自分の知識を公開した。普通なら知識を公開するということは他人に自分の知識が利用されたりして自分にとって得にならないことが多いのだが(だから特許という制度があったりするわけだ)、近世のヨーロッパでは「名声」というインセンティブが働いたことが科学の飛躍的な発達につながったのである。また、知識の力によって社会を発展させることは宗教的な義務であるという考えも広まっていた。特にイギリスなどのプロテスタント協会はベーコンの考え方を宗教的義務と結びつけて、それがまた科学を発展させた。

 では他の国はどうだったかというと、そもそも現状維持を望む国家や官僚や宗教の力が強すぎて知識の発展が歓迎されなかったり弾圧されたり、知識を公開することへのインセンティブが存在しなかったので科学的知識も密教みたいになって発展が停滞したり、科学によって自然を征服しようとか社会を進歩させることは可能であるという発想が諸々の事情で普及しなかったり、などなどの理由で前近代的なままであった。

 

 最近私が読んできたいくつかの本と同じく、この本でも、経済や科学の発達のためにはトップダウンではなくボトムアップで自由に交流して自由に意見を交換することが大切であると論じられている。また、「人間社会を進歩させて発達させることは可能である」と知識人たちが信じたことそれ自体が実際に社会の進歩や発展をもたらした、という点もかなり強調されている。最近ではよく保守主義の考え方が再評価されていて、「ある社会慣習が昔から残っているということは、その社会慣習は優れているはずだ」「理性の力によって社会改良をするなんて考えは災いしかもたらさない」あるいは「現在の社会は過去に比べて堕落している」みたいなことが盛んに言われているような気がするが、モキールの議論によれば、近世のヨーロッパの人々が「社会を発展させることはできる」「我々は理性と科学によって昔よりもすぐれた社会をもたらすことができる」といった考えを抱いたことによって(産業革命とか経済発展とかが起きたおかげで)現在の我々も大きな恩恵に授かっているのだ。そのことには十分に留意するべきだし、安直に保守主義をもてはやすのも有害であるかもしれない、などのことを改めて思った。

 

動物愛護運動は人間の苦痛から目を逸らすための運動?

 

階級としての動物―ヴィクトリア時代の英国人と動物たち

階級としての動物―ヴィクトリア時代の英国人と動物たち

 

 

 

 イギリスやアメリカなどで18世紀〜19世紀に行われた動物愛護運動について書かれた歴史の本はいくつかあり、特にイギリスは動物愛護運動の発祥の地ということもあってか注目度が高く、ジェイムズ・ターナー著『動物への配慮―ヴィクトリア時代精神における動物・痛み・人間性』やハリエット・リトヴォ著『階級としての動物―ヴィクトリア時代の英国人と動物たち』などが邦訳されている。

 ただ、ターナーにせよリトヴォにせよ、動物愛護運動に対して批判的に書かれているところが強い。リトヴォは動物愛護運動を主に行っていたのは中産階級であり、彼らは上流階級や下流階級の習慣を非難していたのであり動物愛護運動も階級間の闘争の一環に過ぎないのだ、という風に論じている。また、ターナーの議論は以下のようなものだ:当時のイギリスでは産業革命による工場の発達に伴い多くの労働者が都市に流入して、都市に暮らす中産階級や上流階級の人々は子供や女性を含む虐げられた労働者や身体障害者などの苦痛を目の当たりにするようになったが、工場を批判して下層階級に配慮を示すことは労働者の犠牲のうえに成り立っている自分たちの豊かな生活を否定することになるし階級社会に甘んじている自分たち自身の否定になる…だから、人々の苦痛を目にして感じた罪悪感を動物への苦痛に "転移"させて動物の苦痛を減らす動物愛護運動を行うことで、中産階級や上流階級の人々は自分たちの立場を危うくせずに安全に罪悪感を解消することができたのである。

 

 

For the Prevention of Cruelty: The History And Legacy of Animal Rights Activism in the United States

For the Prevention of Cruelty: The History And Legacy of Animal Rights Activism in the United States

 

 

 

The Animal Rights Movement in America: From Compassion to Respect (Social Movements Past and Present Series)

The Animal Rights Movement in America: From Compassion to Respect (Social Movements Past and Present Series)

 

 

 …しかし、このような議論、特にターナーの"転移"仮説は、かなり疑わしいものといっていい*1。理屈としては筋が通っているように見えても、その理屈を証明するための手続きはほとんど取られておらず、邪推と言っていいようなものなのだ。また、ターナーの主張では「動物愛護運動は人間の苦痛に対する罪悪感を動物の苦痛に転移させて、人間の苦しみを無視して罪悪感を解消するためのものだ」ということになり、動物愛護運動を行っている人は人間の弱者を対象にした運動を行わなくて済むということになるはずだが、実際には動物愛護運動を行っていた人々の多くは貧困救済運動・反奴隷運動・女性参政権運動・児童保護運動などの人間の弱者を対象にした様々な運動も並行して行っていたのだ*2。動物愛護運動を主に実践していたのは上流・中産階級であるということも、他の多くの社会運動の担い手が上流・中産階級であったことと同じく、金銭的・時間的な余裕がある層が運動の担い手になったということに過ぎないだろう。

 

  以上は昔の動物愛護運動についての議論だが、現在の運動についても「人間の苦痛から目を逸らして動物愛護運動を行っているのは偽善だ」「本当は動物への配慮が理由ではなく、価値観の押し付けをしたいんだろ」みたいな批判をしたがる人は多い。動物愛護運動についてあまり肯定的な意見を持っていない読者の多くはリトヴォやターナーの議論を好むだろうし、他の学者とか著述者とかも読者のウケがいいことを書こうと思って似たような議論を再生産しているかもしれない*3

 動物愛護運動を行っているからといって人間の苦痛に配慮していないと限らないし(人間を対象にした社会運動も並行して行っているかもしれないし、人間の問題も重要だと思っているが優先順位などを考えて動物の問題を対象にした運動を行っているのかもしれない)、倫理学的には人間の苦痛よりも動物の苦痛に優先して配慮することは必ずしも間違いとは言い切れないのだが(苦痛の質や規模が人間よりも動物の方が大きかったり、人間の苦痛よりも動物の苦痛を解消することに力を入れた方が費用対効果が良いという場合など)、それは置いておいても、他の社会運動にはあまり向けられないような言いがかりに近い批判が動物愛護運動には向けられることが多い。これも、「人間の苦痛は重大に配慮するべきことだが、動物の苦痛はどうでもいい」といった種差別的な考えを(学者を含めた)多くの人が未だに持っていることに由来するのかもしれない。

 

*1:上に挙げた本はどちらもアメリカの動物愛護運動の歴史について書かれた本だが、イギリスの動物愛護運動やターナーの主張についても取り上げられている

*2:例えば、これまたイギリスではなくアメリカの話になってしまうが、アメリカで児童保護運動を初めて起こしたのは動物愛護運動に関わっている人々であり、最初の児童保護団体も動物愛護団体から派生したものである。

davitrice.hatenadiary.jp

*3:repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/192592/1/kjs_008_081.pdf 例えばこの論文も、2000年に書かれたものなのに、英語圏の他の議論は参照せずに1980年に出版されたターナーの議論に頼りきりで、どうかと思う。

ヨハン・ノルベルグ『進歩:未来について前向きになるべき10の理由』

 

Progress: Ten Reasons to Look Forward to the Future

Progress: Ten Reasons to Look Forward to the Future

 

 

『進歩:未来について前向きになるべき10の理由(Progress: Ten Reasons to Look Forward to the Future)』の著者ヨハン・ノルベルグ(Johan Norberg)はスウェーデン人。wikipediaによると歴史学者で経済に関するスタンスは古典的リベラルであるらしい*1

 

 この本は要するに「世間の人々は、世界では紛争が起こっていたり犯罪が増えていたり自然が破壊されていたり格差が拡がったりしていて世の中はどんどん悪くなっており未来は暗いと思いがちだが、実際には真逆で、人類はどんどん豊かになっているし健康になって平均寿命も増しているし様々な形の暴力や差別や格差は減り続けているし自然破壊も実はそれほど深刻ではない」ということを主張する本で、要するにスティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』やマット・リドレーの『繁栄』などと同じタイプの本…というか、内容もかなり重複している。正直言ってピンカーやリドレーの本を読んだことがある人ならわざわざ手に取る必要もないかも。

 著者のノルベルグは 2001年に『グローバル資本主義を擁護する(In Defense of Global Capitalism)』という本を書いているらしく、『進歩:未来について前向きになるべき10の理由』でも国際貿易やグローバリズムは途上国の貧困の改善を始めとして様々な恩恵を人類にもたらした、ということが強調されている。最近ではアメリカやヨーロッパなどの先進国では反グローバリズムの勢いが増してポピュリズムが隆興している訳だが、グローバリズムは先進国では格差を拡げるとしても途上国の人々を貧困から脱出させて生命を救いリテラシーその他を身に付けさせて人間らしい人生を過ごすことを可能にしたというのは恐らく揺るぎのない事実である訳で、まあそれを再確認することができるという価値はある本かもしれない。

 

著者の挙げている「未来について前向きになるべき10の理由」とは、具体的には以下の通り。

 

1:食糧。農業に関する様々な技術とかが発展したおかげで飢餓や栄養不良は減り続けている。世界人口における栄養失調の人々の割合は1970年前後には29%だったのが2015年前後には11%になった。

 

2:衛生。上下水道とか水洗トイレとかが整備されたので、昔の人々に比べて現在の人々はずっと清潔になった。そのおかげで様々な病気に罹らなくなっている。

 

3:平均余命。昔に比べてすごく伸びた。

 

4:貧困。減った。世界人口における極限的貧困の人々の割合は1981年には44.3%だったのが2015年には9.6%になった。

 

5:暴力。減った。

 

6:環境。地球温暖化とかは起こっているけど対策が進んでいるので心配なし。

 

7:識字能力。上がった。世界人口における読み書きができない人の割合は1820年には90%弱近くだったのが2010年には10%強にまで減った。識字能力が上がることは本人の人生を豊かにするだけでなく、経済や政治の改善にもつながる。

 

8:自由。奴隷が合法化されている国の割合は1800年には60%近かったが、2010年には0%。非合法な奴隷や形を変えた奴隷制度というべきものは現在にもまだ存在しているが、その犠牲になっている人は昔と比べてずっと少ない。

 

9:平等。女性が参政権を持っていた国は1900年には存在しなかったが、2010年には180ヶ国以上で女性は参政権を持っている。同性愛者に対する差別も減った。人類のIQが向上したことに伴い道徳的思考を行う人々の数が増えて他者に対する理不尽な差別を否定する人の数も増えた、という「道徳的フリン効果」の話もされている。

 

10:次世代。世界における10歳~14歳の児童の中で児童労働をさせられている割合は1950年には30%弱だったのが2000年には15%弱にまで減った。これからも世界は進歩し続けて、次世代の人々は豊かで幸福になり続けるであろう。悲観論者の言っていることは無視してよい。

 

 エピローグでは「この本を読んでもまだ世界が良くなっていると信じられない読者も多いだろうが、それはネガティブな物事や印象的な物事ばかりに注目しがちでありまた過去を美化しがちでもある人間の心理的傾向や、目先の出来事ばっかり取り上げて長期的な傾向について論じないメディアのせい」と論じられている。

 

 

 

ナチスの理性は世界一?

 ナチスというと、その科学技術力が注目されることが多い。私は軍事は全然詳しくないのだが、V2ロケットとかいうすごいミサイルを開発したらしいというくらいのことは知っているし、フィクションの中では月面に基地を作ったり爆散した少佐をサイボーグ化させて復活させたりしている。

 また、毒ガスを用いて大量の人間を殺害した強制収容所の印象はあまりにも強いし、優生学思想の徹底した実践の異常さも相まって、歴史上で他に虐殺や非道を行った国とは際立って違う何らかの特徴をナチスは持っている、というようなイメージを多くの人が抱いていると思う。啓蒙主義とか合理主義とか効率追及とか功利主義とかの諸々の近代的で西洋的な思想…あるいは、それら全ての背後にある「理性」が極まった先に生まれた怪物がナチスである、という議論は様々な論説や本の中でも出てくるものだ。以前までは、私もなんとなくそのような認識を持っていた。

 

 しかし、世間一般に浸透しているナチスのイメージは的外れであり実際は真逆だ、ナチスは科学的でもなければ理性主義的でもない反動的な存在だった、ということが書いてある本も世の中にはいくつかある。メモがてらに、それらの本の内容を引用したり紹介したりしてみよう。

 

 ● まず、スティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』から。

 

理性の欠如が蔓延しているだけでも嘆かわしいことなのに、それでもまだ足りないのか、多くの評論家はもてる限りの理性の力をふるって、理性が過大評価されていると言いつづけてきた。……左寄りの「批判理論家」とポストモダニストも、右寄りの宗教擁護者も、ある一点にかけては合意する。すなわち二つの世界大戦とホロコーストは、啓蒙主義時代以来、西洋がひたすら科学と理性を育ててきたすえの有毒な果実だったのだと。

(……略……)

ホロコースト啓蒙主義の所産だという考えも、ばかばかしくて怒る気にもならない。第6章で見たように、20世紀の大きな変化といえば、それはジェノサイドが発生したことではなく、ジェノサイドが悪いことと見なされるようになったことだ。ホロコーストを象徴する技術的、機械的な殺害手段にしても、それは派手に大量の人間を殺したというだけであって、大量虐殺を行うのに必須のものではない。それはルワンダでの虐殺が血まみれの鉈で行われたことからも明らかだ。ナチのイデオロギーは、同時代の国粋主義ロマン主義軍国主義共産主義の運動と同様に、19世紀の反啓蒙主義の所産だったのであって、エラスムス、ベーコン、ホッブススピノザ、ロック、ヒューム、カント、ベンサム、ジェファーソン、マディソン、ミルに連なる思想系列の一端だったのではない。科学の皮をかぶってはいたが、実際のナチズムは笑ってしまうほどの疑似科学で、本物の科学にあっさりそれを見破られている。哲学者のヤキ・メンシェンフロイントは、啓蒙主義の合理性のせいでホロコーストが起こったという説に関して、最近の著作のなかで卓見を述べている。

『ナチのイデオロギーは大部分において不合理だっただけでなく、反合理的でもあったのだと考えなければ、あのように破壊的な政策は理解しようがない。ナチのイデオロギーは、多神教に優しく、ゲルマン国家のキリスト教以前の時代を懐かしみ、自然に帰るとか「オーガニック」な存在に帰るといったロマン主義的な考えを採用し、世界の終わりを想像する黙示録的な思想を育て、そこで人種間の永遠の闘争がついに解決されると期待させた。……理性主義と、それが関わっている嫌らしい啓蒙主義への軽蔑が、ナチの思想の中核にあるものだった。だからナチ運動の論客は、自然かつ直接的に世界を経験することであるヴェルトアンシャウング(「世界観」)と、概念化や計算や理論化によって実在(リアリティ)を解体してしまう「破壊的」な理知的活動であるヴェルト・アン・デンケン(「世界について考えること」)との矛盾を強調したのだ。「堕落した」リベラルなブルジョワによる理性崇拝に対抗して、ナチは、妥協やジレンマによって妨げられたり曇らされたりしていない、活力に満ちた自発的な生を標榜したのである。』

スティーブン・ピンカー『暴力の人類史』下巻、484-487ページ)

 

 ● イアン・ブルマとアヴィシャイ・マルガリートの共著『反西洋思想』も、世間のイメージとは裏腹にナチスは反動的なロマン主義であり反西洋・反理性主義的だったのであり、「近代の超克」を唱えていた大日本帝国と本質的な発想は一緒であった、と論じている。

 残念ながら本そのものは図書館に返ってしまって手元にはないので、『反西洋思想』の内容を紹介しているブログから引用させてもらおう。

 

エリオットと同じく(などといったら怒られるが)、ナチス・ドイツもまた反=都会、反=西洋(フランス的な軽佻浮薄な西洋)であったのであり、「近代の超克」座談会に出席した知識人たちもまた、ドイツから輸入した反=都会、反=西欧の思想に大いに影響されていた。またかれらはアメリカ嫌いでもあったが、それはアメリカが大衆化した社会であり、知識人の地位が低いからだった。反=都会、反=西洋を唱えたひとたちは田舎の農民ではなく、都会の知識人であったのである。都会に住みながら都会を嫌う人、そういう人たちが反西洋思想の持主になった。
 都市の機能である商業はヨーロッパの発明ではないが、近代資本主義は西洋起源である。資本主義は普遍性を持つのであり、固有の伝統、文化、信仰を破壊していく。西洋対反西洋は、普遍的なものと地域的なものの対立という側面をもつ。
 一方、故郷から追放され、故郷をもたないユダヤ人にとっては、合理主義にもとづく法律は、自分を護ってくれるもっとも頼りになる道具であった。フランス革命が掲げた「普遍性」や「理性至上主義」は、ユダヤ人にとっては歓迎すべきものとなったたが、それ故に、これらのフランス革命思想の背後にユダヤ人がいるという「ユダヤ陰謀説」は根強く残っている。《普遍》と《理性》のちょうど対極にあるものが、《民族の共同体》とその《有機性》の主張であった。

(……略……)

 《民主主義は凡庸であることを肯定する》ものであるということへの嫌悪が、多くの知識人たちを、スターリン毛沢東、あるいはヒットラームッソリーニを支持させることとなった。エリオットの師匠のエズラ・パウンドムッソリーニ擁護に走ったはずである。民主主義には犠牲も英雄的行為もない。偉大さへの意思を欠いている。リベラルな社会では、「すべてのひとに凡庸になる自由」があたえられ、「際だった人生よりもありふれた日常」に重きがおかれることになるのである。それは人間のもつユートピア的理想追求という美しさを根絶やしにしてしまう。それへの対抗が、ドイツ・ナショナリズムなのであった。
 西洋が嫌われるのは、なによりもまず「西洋の物質」ではなく、「西洋の心」によってなのである。批判者から見れば、それはサヴァン症候群のようなものであり、数学的な能力だけはあるが人生というものについては白痴同然の子供なのである。西洋の心には魂がなく、効率はあっても、人間として本当に重要なことについてはまったく無能である。それは経済的成功は達成するかもしれないが、この世における高邁なものは何一つとして理解できず、自分のものとすることはできないのである。
 知性を重視しすぎると、直感や非推論的思考の力がなくなってしまう。19世紀知識人が構築した《神話》として「ロシア魂」あるいは「スラブ魂」とでもいうものがある。実はその根はドイツロマン主義なのであるが。その典型として、ドストエフスキーがいる。そこでは粗野な農夫は洗練された知識人より善良なのである。知性とか理性とかでは解決できないものがあり、それは素朴な心の知恵によってのみ理解されるのである。

I・ブルマ&A・マルガリート「反西洋思想」 - 日々平安録

 

 ● ジョセフ・ヒースの著書『啓蒙思想2.0』では、「ナチスと理性は結びついている」という議論が登場した背景が以下のようにまとめられている。

 

20世紀の大いなる再編成、すなわち左派の反合理主義の出現をもたらしたのは、第二次世界大戦とその後の資本主義対共産主義の冷戦の経験であった。第二次大戦前には左派の大多数の人にとって、西洋世界の大きな問題がすべて資本主義のせいなのは、明白なことに思われていた。表面上は政治が原因だった第一次世界大戦でさえ、根底にあった問題は植民地化の勢力争いだったから、資本主義に責任を期すことはたやすかった。このことは資本主義批判を帝国主義理論にまで拡張することで(V・I・レーニンがそうしたように)説明できた。ところが、ドイツのナチ政権はこのパターンの説明を拒んだようだ(それは多くの人がそうやって説明しようとしなかった、ということではない。ただ、このような説明では多くの核心を生み出せなかったというだけだ)。第二次世界大戦中に生じた二つの特徴的な害悪は、きわめて厄介であり、ただの資本主義や強欲さの副産物だとはあっさり片づけられないと多くの人々が感じていた。

一つ目は、高度に官僚化した殺人だ。ナチスはただ人々を殺しただけでなく、きわめて組織的かつ効率的な殺人機関であった。……

二つ目の大きな害悪は、当時はまだ比較的新しい現象だったが、科学技術が殺戮能力を高めるのに利用されることが顕著になったことだ。……

これら二つの害悪に共通していたことは、それが振り向けられるもっと大きな目的には明らかに注意が払われないまま、本質的に技術上の問題を解決するため莫大な量の人類の創意が注がれたことだ。非人道的行為に奉仕する科学という構図は、啓蒙思想と、理性の進歩は人類の改良と切り離せないという啓蒙思想の見方の威信にとって大きな打撃だった。これらの新しい害悪は、理性と科学が世界の善と悪の闘争の中でせいぜいがところ中立の立場であることを示したようだ。そして理性が元来、進歩の力というわけではないことを示したのは確かだった。合理性はもっと道具のように、いい目的でも悪い目的でも利用されうる手段と見なされるようになった。

いっそう厄介なのは、理性は中立ではなく、実はこれら大きな害悪の原因だったのだと主張する声だった。……

この視点から見れば、科学は実は世界に対し中立でない立場をとっていると考えるのは、おかしなことではない。科学は「客観的」どころか、むしろ操作と管理への関心に駆り立てられているのかもしれない。客観化はその管理に達するための方便にすぎないのだ。……このように科学、技術、官僚制、資本主義はすべて根底にひそむ病理、つまり西洋世界にはびこっている特有の形態の合理性の表われのように思える。

この主張は世界大戦が終息するより前にも、二人の亡命ドイツ人哲学者、テオドール・アドルノとマックス・ホルクハイマーによって、1944年の共著書『啓蒙の弁証法』で述べられていた。

(……略……)

20世紀の主要な合理性批判者たちがドイツ人だったのは、偶然のことではない。第二世界大戦の経験が、どれほど西洋が自らの文明に抱いていた自信を損なったかは誇張してもしきれないし、このことが他のどこよりも明白だったのは最も過失の大きかった国においてだった。ナチズムをもっと大きな進歩の中の一時的な逸脱あるいは異常として、つい片づけたくなる一方で、多くのドイツ人はそれを自分たちの社会に深く根ざした傾向が絶頂に達したものと見なした。さらには、理性の啓蒙主義的な概念も含めて自らの文化のあらゆる面が、犯された罪に加担したと考えがちでった。

この時期から、20世紀後半の反合理主義のひな型とおぼしきものが現れて、何度も何度も当時の政治理論や社会批判の中でくり返されることになる。……

(ジョゼフ・ヒース『啓蒙思想2.0』、248-252ページ)

 

● また、ティモシー・フェリスの著書『自由の科学(民主主義、理性、法の支配)』の第10章「全体主義的反科学(Totalitarian Antiscience)」では、世間のイメージほどにはナチスと科学は結び付いておらずナチスの科学は過大評価されている、ということが論じられている。

 フェリスが指摘しているのは、ナチスの科学力を示すものとしてよく挙げられるジェットエンジンや近接信管や暗視装置などの発明は、実のところはナチス以前に既に存在していた科学的発見を技術的に応用したものに過ぎないということだ。科学的研究そのものの発展は、ナチスが政権を握っている間のドイツでは衰退していたのである。

 ヒトラーは「ユダヤ人の科学が発展するくらいなら数年間科学抜きで過ごした方がマシだ」と発言していたし、実際にユダヤ系などの科学者は殺害されるかその前に亡命して、ナチスは頭脳流出に苦しむことになった。また、残った科学者たちの研究環境も政治に左右される不自由なものであり、このことがナチスの科学研究の発展を妨げた。一方で、英米の政府は世界大戦中にも自由で開放的な研究環境を保証して、そのおかげで英米の科学は発展し続けて最終的には第二世界大戦の勝利の一因ともなった…というのがフェリスの議論である。

 

 …引用が主となってしまったが、「ナチスは科学主義で合理主義だ」「理性主義を突き詰めたらナチスになる」という議論に対する批判的な見解をざっとまとめてみた。まあ私はドイツ史や科学史の専攻でもなんでもないので上に挙げた論者たちの見解が事実に沿っていて正しいものであるかどうかを検証する知識はないのだが、彼らの本を読む限りではもっともらしい主張であるように思える。

 

 

 

 

 

反西洋思想 (新潮新書)

反西洋思想 (新潮新書)

 

 

 

 

啓蒙思想2.0―政治・経済・生活を正気に戻すために

啓蒙思想2.0―政治・経済・生活を正気に戻すために

 

 

 

「他人の立場に立つ」:黄金律、視点取得、共感、物語、理性、輪の拡大

 

 何度か書いてきたことだが、儒教キリスト教などの伝統的な道徳にせよ、現代における倫理学理論にせよ、道徳的な規範の多くには「黄金律」と呼ばれる考え方が含まれている*1。「あなたが人からしてもらいたいことを、人にしてあげなさい」という肯定的な形にせよ、「自分の嫌だと思うことは人にもするな」という否定的な形にせよ、黄金律を抜きにして道徳というものを考えるのは難しいだろう。結局のところ、道徳というものは「他者に対して自分は何をするべきか/どうあるべきか」ということについての物事である部分が大きいし、他人についての「〜べき」を考える際には「自分が何をしたいか/何をしたくないか」だけを考えている訳にはいかず「他人は何をされたいか/他人は何をされたくないか」ということをも考えなければいけないのだ。

 

「利益に対する平等な配慮」を提唱するピーター・シンガーにせよ、またシンガーのお師匠さんであり道徳の普遍可能性という性質から功利主義を導き出したR・M・ヘアにせよ、彼らが提唱しているのもまた一種の黄金律だ*2。何らかの道徳的な行為や道徳的な意思決定をする際には、その行為や意思決定が自分だけにもたらす影響だけを見るのではなく、行為や意思決定に影響される関係者全員の幸福や利害を、それぞれの関係者についてその人自身の立場から見て、そして(自分を含む)全員の利害や幸福に平等に配慮しなければいけない。ポイントとなるのは「その人自身の立場から」見ることと「平等に配慮」することだ。

 例えば、あなたが友人十数名を招いてホームパーティーをすることになったとしよう。あなたは料理が上手であり特別な材料を使わなくても十分に美味しい料理が作れるが、たまたま特別に上等な豚が丸ごと手に入って、この豚を丸焼きにすればすごく美味しい料理をパーティーの客たちに振る舞うことができる*3。しかし、そのパーティーの客の半分はイスラム教徒であり、彼らは宗教上の戒律のために豚肉が食べれない。この時、「俺は豚の丸焼きが大好きだし、豚の丸焼きを食べたいと思っている。自分がしたいということを他人にもするのが黄金律なのだから、俺はパーティーで豚の丸焼きを振る舞うべきだ」とあなたが考えてしまったとすれば、あなたは誤っている。…たしかにあなたは「あなたが人からしてもらいたいことを、人にしてあげなさい」という黄金律を実践しようとしているのだが、他人の幸福や利害についてその人たち自身の立場から見ることを怠ってしまっているからだ。あなたが"してもらいたい"と思うことでも、属性や背景などの諸々の事情が異なる他人にとっては、"してほしくない"と思うことであるかもしれない。また、「俺はイスラム教徒じゃないからイスラム教徒には配慮しなくてもいい」とか「確かにパーティーには6人のイスラム教徒が来るが、他の7人の客はキリスト教徒だから、多数派を優先して豚の丸焼きを振る舞おう」などの理屈で考えるのも、関係者全員の利害に平等に配慮しているとは言い難い。豚肉を使わないが美味しい料理を振る舞った時と、豚の丸焼きを振る舞った時のそれぞれについて、パーティーの関係者たち一人一人の幸福や利害はどうなるか、ということを考えるべきなのだ。

 ともかく、黄金律は道徳にとって欠かせないし、また黄金律を実践するためには「他人の立場に立つ」こと…他人の視点を取得するということが欠かせない。そして、この視点取得というものは一朝一夕には行えないものであるのだ。

 

 まず、私たちには共感というものが備わっている。他人の苦しみを自分の苦しみのように感じたり、他人が幸せになった時には自分も嬉しくなるといった感情だ。日常的な生活の中では、この共感という感情が道徳的な判断を導いてくれることも多いだろう。

 だが、心理学者のポール・ブルームをはじめとした多くの人々が指摘しているように、共感には様々な限界がある*4。共感による判断は多くの場合には視点取得というよりも自己投影であり、「自分だったら嫌だと思うから他人も嫌だと思うだろう」という判断にはなるが、自分とは異なる背景や立場を持つ他人についての理解を伴う判断にはなり難い。また、「誰に対して共感を抱くか」ということは様々な事柄に左右されてしまうので、平等な配慮とは相反することが多い。アザラシや猫のようにふわふわして丸っこくて大きな頭と目玉を持った動物はイタチやカラスなどの動物たちよりも私たちの共感を誘いやすいし、赤ん坊や子供は私たちの共感を抱く人は多いがおっさんに対しては共感を抱く人は少ない。だが、イタチだってアザラシと同じように痛みを感じるのだし、子供よりもおっさんの方が苦しんでいるという事態は往々にあるだろう。誰かの見た目とその誰かの痛みや苦しみとは本来関係がないのであり、事態の本質とは無関係な見た目に振り回される判断は平等的なものとは言い難い。…また、私たちは近くにいる相手や目に見える相手には共感を抱きやすくても、遠くにいて目に見えない他人に共感を抱くことは難しい。未来に生まれてくるであろう人々に対して共感を抱くのはさらに難しい。

 そして、私たちには共感の他にも様々な感情が備わっている。小さな群れから成り立つ狩猟採集社会の中で進化していった人間には身内贔屓の感情や排外的な感情が備わっているのであり、自分の友人知人や自分と同じ国の国民に対しては共感を発揮できる人が、知らない人や外国人に対してはひどく冷淡で残酷になるということが有り得る。また、集団の外の人に対する残虐行為が、集団の内側の人に対する共感によって肯定されるということもあり得るだろう(「あの国のテロでうちの国の同胞が傷付いたから、あの国の連中を皆殺しにしてしまえ」という風に)。集団内であっても、ルールを破った人や犯罪者に対しては、冷静に考えれば理解できるような事情がその人たちの背後にあるとしても私たちの共感は働きづらく相手の事情を理解する気にもなれないし、犯罪の被害にあった人たちに対する共感が犯罪者に対する過剰な処罰に結び付くこともある。…とにかく、共感というものはそれだけでは道徳の導き手としてはあまりに頼りないのだ。私たちが黄金律や視点取得を正しく実践するためには、私たちに生来備わった共感以外のなんらかの力が必要となる。

 

 心理学者のスティーブン・ピンカーは、世界における暴力は歴史を通じて減り続けており人間は道徳的になり続けているということを『暴力の人類史』で論じている。

 ピンカーは、20世紀に様々な「権利革命」が起こったこと…人種的マイノリティ・女性・同性愛者・子供・動物など、それまで社会において道徳的な配慮がほとんどなされていなかった存在に対して配慮がされるようになりそれらの人々の権利が認められるようになったこと…の一因として、テクノロジーの発達によるアイデアと人の拡散を挙げている。

 

イデアと人の拡散が、どうして暴力を減少させる改革につながるか?これにはいくつかの経路がある。最も明白なのは、無知と迷信の暴露である。教育を受けた、互いに交流のある大衆は、少なくとも全体として、長い時間のうちにはきっと有害な確信の誤りに気づくようになる。たとえば、別の人種や民族のメンバーは生まれつき強欲で不実であるとか、経済的な不運や軍事的な不運は少数民族の裏切りのせいであるとか、女性はレイプされても平気だとか、子どもを社会化するには叩かなくてはならないとか、人は道徳的に堕落した生き方の一端として同性愛者になることを選ぶとか、動物は痛みを感じる能力がないだとか、そういった誤った思い込みである。暴力を許容させる思い込みからの近年の脱却で思い起こされるのは、かのヴォルテールの警句である。いわく、人に馬鹿げたことを信じさせられる連中は、人に残虐行為を働かせることもできるのだ。

因果関係のもう一つの経路は、自分とは違う見方をしている人の視点を取得することがますます推奨されるようになったことである。人道主義革命には、クラリッサやパメラやジュリーがいて、アンクル・トムの小屋もオリヴァー・ツイストもあり、壊され、焼かれ、鞭打たれた人々についての目撃報告があった。電子の時代になると、そうした共感を呼ばせるテクノロジーがいっそう広く人びとの生活に浸透した。アフリカ系アメリカ人やゲイの人びとが、まずはバラエティショーのエンターテイナーとして登場し、やがてトークショーのゲストや、シットコムやドラマのなかの共感をよぶ登場人物しても出てくるようになった。…

(『暴力の人類史』下巻、184ページ)

 

 また、20世紀以前の欧米で起こった奴隷解放運動や人道主義運動についても、それらの運動が起こった一因として、小説を始めとしたフィクションの普及をピンカーは挙げている。例えばアメリカでは『アンクル・トムの小屋』や『ハックルベリー・フィンの冒険』といった作品が黒人奴隷に対する人々の同情や共感の気持ちを促進させて、人々の奴隷性に対する反対の気持ちを強めた。とにもかくにも、小説を読むという行為は、その登場人物たちの思考や感情を追って、登場人物自身の立場から彼らのことを理解するという行為である。そして、小説を読むことで得られた視点取得の能力は、現実の世界の他者に対しても発揮されるのだ*5

 

しかし考えてみればフィクション上での経験が現実での経験にも同じような効果をもたらすのは当然のことで、人はしばしばその両者を記憶のなかでごっちゃにしてしまうのである。

(……略……)

共感の科学は、共感が正真正銘の利他主義を促せること、および、共感が拡大されうることを明らかにしてきた。つまり架空の人物を含め、誰かの視点を通じてものごとを見てみると、それまで共感を持てなかったその誰かや、その誰かが属する集合に対しても共感が持てるようになるのである。…

(『暴力の人類史』下巻、390ー391ぺージ)

 

 

 …しかし、メディアやフィクションは私たちが共感を抱いて視点取得をする対象となる存在を増やしたかもしれないが、それにもやっぱり限界は存在する。先にも書いたように、まだ存在していない人々のような仮定的な存在に対して共感を抱くのは難しいが、地球温暖化などの環境問題や資源問題の悪影響は未来の人々に及ばされるのであり、正しく黄金律を実践するためには未来の人々についても配慮しなければいけないはずだ。また、100万人が苦しむことはひどく悪いことであるというのは私たちには理解できるが、1000万人が苦しむことはその10倍悪いことであるというのは、数値的としては理解しても、感覚としては掴みづらい。戦争や貧困や畜産制度のように、何千万や何万億もの存在が苦しんでいる問題というのは本来なら最も重大な問題であるはずなのだが、その問題の重大さに見合うほどの共感を私たちは抱くことは不可能だろう。…だが、私たちがどう思うかに限らずそれらの問題によって苦しんでいる存在はいるのであり、黄金律や視点取得を正しく実践するためには、仮定や数量といった私たちの感覚にはそぐわない要素をも考慮した抽象的な思考を行わなければならないのだ。

 

 ピンカーは、現代に生きる私たちを先祖たちよりもずっと道徳的な存在にしている最大の要素として、知能と理性の発達を挙げている。

 

私たちの認知機能は、特に必要があってこの方向に進化してきたのではない。だが、ひとたび制限のない推論システムが獲得されると、たとえそれが食料調達や同盟確保といった日常的な問題のために進化したのであっても、その推論システムは必然的に、別の命題の帰結である命題まで受け入れるようになる。あなたが自分の母語を獲得して、「これはネズミを殺したネコです」を理解できるようになると、あなたは必然的に「これは麦芽を食べたネズミです」を理解することになる。「37+24」の足し算の仕方を覚えると、必然的に「32+47」の輪を導くようになる。この芸当を、認知科学者は体系性(システマティシティ)と呼び、言語と推論の基礎にある神経系の複合的な力によるものと見なしている。したがって、種のメンバー同士が互いを理で説く力を持っていて、その力を発揮する機会を十分にもてれば、遅かれ早かれ、彼らは非暴力をはじめとする相互配慮による互恵に気づくことになり、それをさらに広く適用しようとするようになる。

これこそピーター・シンガーが最初に明確化した「輪の拡大」の理論である。私はこのシンガーの比喩的表現を、視点取得の機会が増大したことによって同情の範囲がさらに多様な人間集団に広がったという歴史的プロセスの名称として使わせてもらってきたが、シンガー自身の念頭にあったのは、むしろ感情よりも知性だった。

(『暴力の人類史』下巻、495ぺージ)

 

 

 シンガーをはじめとした哲学者や思想研究者たちは、私たちの道徳的思考の発達を思想史に求めることが多い。つまり、ある哲学者が画期的な議論を行ったこととか、哲学者たちのコミュニティの間で主流であったり有力であるとされる見解や主義の移り変わりを、私たちの道徳的思考の発達を示すものとして挙げるのである。しかし、哲学者とか知識人とかの間で普及したことが社会全般に普及するという保証はない。

 『暴力の人類史』でピンカーが示しているのは、経済や法律制度などの社会環境の変化がいかに私たちの内面に影響を与えて、私たちの思考までをも変えていったかということだ。ピンカーの議論に大きく影響を受けた著書『The Moral Arc: How Science and Reason Lead Humanity toward Truth, Justice, and Freedom (道徳の弧:科学と理性はいかにして私たちを真実と正義と自由に導くか)』を書いた、マイケル・シャーマーの記事から引用しよう*6

 

1980年代、社会学者のジェームズ・フリンが画期的な発見をした。20世紀の初頭から、人々の実質的IQの平均点が10年ごとに3点ずつ上がっていることを発見したのだ。人々のIQが上昇していることは、IQテストの内容が平均点を100に戻すために世代ごとに更新されて改良されてきたという事実のために隠されていたのであった。

「フリン効果」として知られるこの現象には驚くべき意味が含まれている。現代において平均的な知能(100点)を持っている人が100年前に行ったとしたら、標準偏差により彼のIQスコアは130点を記録することになる。130点は「非常に優れた」IQスコアとして分類される点数だ。つまり、私はたちはどんどん賢くなっているのだ。それも非常に賢くなっている。

 

…19世紀まではほぼ全ての人が鋤や牛や機械を使って生きていたが、現代では単語・数字・記号を使って生きている人が昔に比べて遥かに多くなっている。私たちの経済は農業や工業的な経済から情報的な経済へと移行し、私たちに生活の全ての段階において概念的で抽象的な思考を行うことを求めるようになったのだ。

 フリン自身も、「科学の眼鏡」をかけて世界を観察する能力が人々の間で促進されたことがフリン効果が起こった原因であると考えている。私の主催する雑誌で彼にインタビューした際、フリンは心理学者のアレクサンダー・ルリアによる前世紀のロシアの小作農の推論能力についての研究に言及した。「ルリアが研究したロシアの小作農たちは読み書きができなかったのですが、彼らは仮説を真剣に扱うことにも消極的でした。『常に雪が降っているところから熊が来たと想像してください。また、常に雪が降っているところから熊が来た場合には、その熊は白い熊であると仮定してください。さて、北極にいる熊の色は何色でしょうか?』とルリアは言いました。小作農の返事は『俺は茶色い熊しか見たことがない。北極から来た老人が教えてくれるなら、俺も信じるかもしれない』というようなものでした。小作農たちは仮説的・抽象的なカテゴリに興味がなかったのです。彼らは具体的な現実に基づいて考えていました。『ドイツにはラクダがいません。Bという場所はドイツにあります。さて、Bという場所にラクダはいますでしょうか?』。『そのBという場所が十分に大きければ、ラクダはいるはずだろう 。それか、もしかしたらそのBという場所はラクダがいるには小さ過ぎるかもしれない』と小作農たちは答えました」。

 

 

抽象的に考える能力が上昇した理由の一つは、科学的な思考方法…つまり理性的・合理的・経験主義的・懐疑的な思考方法が普及したことにもあるかもしれない。科学者のように考えることは、私たちの持つ知的能力の全てを駆使して、感情的・主観的・本能的な考えを克服することを意味している。また、科学的な思考方法は、物理や生物などに関する本質だけでなく、社会や道徳に関する本質についてもより優れた理解を追求することができる。政治学や経済学などの学問、人々はどのように配慮されるべきかということの抽象化などを行えるのだ。  

 

 

人類における道徳の劇的な向上は啓蒙時代から始まった。今日の西洋社会に暮らすほとんどの人は、生命・自由・財産・結婚・出産・投票・言論・礼拝・集会・抗議・自律・幸福の追求などの権利を行使して生きている。リベラルな民主主義は独裁制神権政治を追い払い、最も普及した政治体制となっている。奴隷制や拷問は世界中のどんな場所でも違法となっている(今でも、時には奴隷制や拷問が実行されることはあるが)。死刑が存在している国も非常に減っており、2020年代のいつかにはこの世から死刑が存在しなくなる可能性も高い。暴力と犯罪は歴史的に少なくなっている。私たちは道徳の領域を拡大し、より多くの人を権利と尊重に値する人間コミュニティの仲間であると見なすようになった。一部の動物たちでさえも、感覚ある存在として道徳的配慮に値すると見なされるようになってきている。

 全ての道徳において、抽象的な推論と科学的な思考は基礎として欠かせない認識能力である。「己の欲せざるところを人に施すなかれ」という黄金律と呼ばれるルールを実行するためにはどのように頭を働かす必要があるか、考えてみよう。自分から他人へと立場を変えることと、ある行為Xがその行為Xを実行する人や加害者にとってではなくその行為Xの対象となる人や被害者にとってはどのように感じられるかということを推定することが、黄金律を実行するためには求められる。黄金律は数千年前から存在していたが、過去の黄金律は今日に比べると非常に限定されたやり方でしか実行されなかった。ジェノサイド・幼児殺し・レイプ・他の部族の人々からの略奪などの物語に溢れた旧約聖書が良い証拠だ。

 今日では道徳の弧は正しい方向へと向かっていると思われる。その理由の一部は、心理学者のスティーブン・ピンカーが著書『暴力の人類史』で「道徳的フリン効果」と呼んでいるような現象が起こっていることにある。ピンカーは「(道徳的フリン効果という)考えは馬鹿げていない」と書いているが、私はピンカーよりもさらに強く主張しよう。抽象的な推論能力が全般的に上昇したことは、抽象的で道徳的な推論能力という特定の能力の向上…特に、私たちの友人知人でもなければ親族でもない人に関して道徳的に推論する能力の向上をもたらした、と私は考えているのだ。

 

啓蒙時代の哲学者や他の学者たちは、科学の方法を意識的に採用することで権利・自由・正義などの抽象的な概念を生み出した。その後の世代の人々は、行列推理の問題を解くための思考方法を身に付けたのと同じように、権利や正義などの抽象的な概念を他人に適用して考えることも身に付けるようになったのだ。

 

 引用が長くなってしまったが、とにかく、社会が近代化したことやそれに伴って教育が発展したことは、私たちの抽象的な思考能力を大いに発展させた。そうして発展した抽象的思考能力は、私たちが黄金律を実践して視点取得を行う能力も向上させて、その範囲を飛躍的に拡大させたのだ。

 

 ちょっとまとまりがないし前半と後半で話がずれてしまった気もするが…とにかく、ピンカーの『暴力の人類史』と倫理学との関係や、黄金律や視点取得という道徳的な事柄の背景にある諸々の物事は示せたと思う。

 

 

 

暴力の人類史 下

暴力の人類史 下

 

 

 

 

 

*1:

黄金律

*2:ヘアについては私もあまり詳しいわけではないのだが。シンガーの「利益に対する平等な配慮」についてはこのブログのかなり初期に記事を書いている。

davitrice.hatenadiary.jp

*3:動物倫理の問題は考えないことにする

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*5:小説が人々を道徳的にする、という考えはピンカー以外にも多くの学者たちが論じている考えなのだが、小説というものを最も直接的に研究対象にしているはずの文学研究者は、この考えを好まない。「今日では、歴史学者のリン・ハント、哲学者のマーサ・ヌスバウム、心理学者のレイモンド・マーやキース・オートリーなどが、共感を拡大して人道主義的な進歩を推進するものとして、フィクションを読むことの有効性を支持している。その仲間には文学者も入るだろう、と普通なら思うかもしれない。自分たちの専門分野が学生にも資金にもこぞって敬遠されている時代にあって、これぞ進歩の推進力なのだと示したくてたまらないはずだからと。しかし、『共感と小説』のスザンヌ・キーンを始め、多くの文学研究者は、フィクションを読むことが道徳的によい効果を与えるのではないかという考えに苛立ちを隠さない。彼らからすると、その見方はあまりにも中級知識人的で、セラピー志向で、キッチュで、センチメンタルで、オプラ的に思えるのだ。」(『暴力の人類史』下巻、389ページ)

*6:

davitrice.hatenadiary.jp

アメリカという実験/科学的手続きと民主主義

 

The Science of Liberty: Democracy, Reason, and the Laws of Nature

The Science of Liberty: Democracy, Reason, and the Laws of Nature

 

 

 

 先の記事に引き続いて、ティモシー・フェリス著『自由の科学(民主主義、理性、法の支配)』の内容の紹介をしよう。

 

 この本の前半で著者のフェリスが強調しているのは、民主主義という仕組みと科学的手続きの共通性、また民主主義と科学の発展との相互作用である。科学的な発想こそが民主主義を生んだでのあり、また科学が最も発達するのは民主主義的な自由な制度の下である、とフェリスは論じているのだ。

 科学と民主主義といっても、フェリスは「民主主義の有効性は科学によって証明されている」などと論じている訳ではないし、科学的知識に精通したテクノラートが行政運営に関わるべきだとか有権者は非合理的な感情よりも科学的知識を重視して投票するべきだとか主張していたりする訳でもない。そうではなくて、「民主主義とは、不確かな仮説の成否を実験によって確かめることで物事の事実を明らかにしていくという科学的手続きの発想を政治的手続きに転用したものである」と、フェリスは論じているのだ。

 

 このフェリスの議論について簡潔にまとめられている、マイケル・シャーマーの記事「民主主義の実験場:科学と政治は相互に関係があるのか?」から引用してみよう。

 

www.scientificamerican.com

 

 民主主義的な投票とは科学実験である。2年ごとの投票の度に、あなたは変数を慎重に変更して、その結果の辺りを目にする。そして、その結果が気に食わなかったら、また変数を変更する。「しばしば、アメリカ建国の父たちは新しい国家のことを"実験"と呼んでいた」とフェリスは書く。「手続き的には、自由と秩序の両方を促進するためにはどうすればよいかということや、独立宣言からアメリカ憲法が制定されるまでの11年の間に個々の州が少ならず実験することになった様々な問題についての熟慮が(訳注:アメリカ憲法の制定には)含まれていた」。トマス・ジェファソンが1804年に書いたように「私たちがいまから行おうとしている実験ほどに興味深いものは有り得ないし、私たちはその実験が事実を確立する(=実験は成功する)であろうと信じている。人は理性と真実に統べられるのかもしれないのだ」。

 建国の父たちの多くは科学者であり、データ収集・仮説の検証・理論形成というメソッドをアメリカ建国に適用したのだ。実験によって得られる結果は暫定的なものであるということを建国の父たちが理解していたことは、自然と、疑いを持つことと議論をすることこそが機能的な政治形態にとって最重要となるような社会システムを形成することへと彼らを導いた。「新しい政府は、科学実験室のように、現在から限りのない将来に渡っていつまでも行われ続けることになる実験に対応するために設計されたのだ」とフェリスは解説する。「実験の結果がどのようなものになるかは誰にも予期できないのだからこそ、政府は、社会を特定の目標へと導くためにではなく実験の過程そのものを維持するために設計されたのだ」。

(……略……)

 一度でも研究室に足を踏み入れれば、科学的な方法とは仮説や予測を立てて実験をして結論を得るという一連の小綺麗で整然とした手続きである、という思い込みはふっ飛んでしまう。発見に続く道のりとは、現実には一般の人が想像しているよりもずっと雑然としていて出鱈目なものである、と研究者たちは感じているということをあなたは理解するだろう。同じことが自由民主主義についても当てはまる。民主主義は予定通りに機能することはまずないが、どうにかして、個人の自由と社会秩序との間の正しいバランスを発見することへと近づき続けるのだ。民主主義国家の構成(訳注:constitution / 憲法という意味もある)は人間性(humanity)の構成に基づいているのであり、そして科学こそが人間性を理解するのに最も適しているものであるのだ。

 

 ジェファソンをはじめとしたアメリカ建国の父たちの他にも、トマス・ペインやジョン・ロックなどの思想家は科学的な発想に基づいて民主主義を発想した、ということがフェリスの本では論じられている。ペインにせよロックにせよアイザック・ニュートンの『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』に大いに感銘を受けており、人間性や政治についての科学的理解(と当時の彼らが思っていたもの)を政治に適用して考えた結果、人権と民主主義という発想が生み出されたのだ。

 

 私は昨年にシャーマーの『道徳の道徳の弧:科学と理性はいかにして私たちを真実と正義と自由に導くか』を読んだ時にこの「民主主義=科学的手続き」論を読んで面白いなと思ったし感心したのだが、アメリカで起こったドナルド・トランプ大統領の当選とその後の惨状を目にしたり、フランシス・フクヤマによるアメリカ民主主義の機能不全についての批判を読んだ後には、フェリスの議論はあまりにも建国の父を礼賛し過ぎていて楽観主義過ぎると思うようにはなった*1。とはいえ、民主主義と科学がとかく敵視し合っており相性が悪いとされている昨今の世の中(というかはてな界隈)では、フェリスの議論が読まれることには価値があると思う。

 

 余談として、フェリスの本を読んでいる時に抱いた感想をいくつか。

 

⚫︎ 「大陸哲学は合理主義的で、イギリス哲学は経験主義的」というのは哲学史の知識としては知っていたのだが、この本を読んでいると、自然科学の発想に親しんでいたロックが頭のなかで演繹ばかりして満足しているデカルトの本を読んで呆れて「自分の頭の中で完結して満足しているんじゃなくて外に目を向けてみろ、自分の仮説を実験してみて検証してみろ」と愚痴っている図が想像できて、ちょっと可笑しかった。

 社会科学を含めた経験科学の知識を全く参照せずに、自分の頭の中だけでっちあげた人間観とか社会観だけに基づいて適当な人間論とか社会論を放言する人というのは現代でも思想界隈には多いので(SNSにもよくいる)、ロックはそういう人たちを目にした時にも呆れるんだと思う。

 

⚫︎ トクヴィルは、自由な民主主義の下では人々が"役に立つ(=金儲けになる)"ことを各々に研究し始めるので、特に応用科学が発展しやすくなる、と論じたそうだ。また、「役に立つことばかり研究するなんて高尚じゃない」と言っている人に対してトクヴィルは批判的であったそうだ。ここらへんも現代の色んな現象に通じていて可笑しい。

 

⚫︎ 

集合知は、数量で表わせるような問題の推測において最もよく発揮されるため、集団の知恵というより、「集団の精度」と表現するのが適切かもしれない。この現象は何十年も前から文献に記されてきた。古くは1907年、イギリスの人類学者フランシス・ゴルトンが、見本市の来場者たちは雄牛の体重を言い当てられるという話を取り上げている。

(……略……)

集合知が発揮されるためには、一定の条件がそろわなければならない。つまり、集団の各構成員は多様な意見をもち、また、それらの意見にはめいめい自力で到達する必要があるという。*2

 

 

  フェリスの著書の中では、「生得的に愚かな人間たちには民主主義は任せられない、世の中を賢い人で統一するべきだ」として優生学を主張し続けていたフランシス・ゴルトンが、85歳もの晩年になって見本市で集合知の力を目にしたことによって人間の間に多様性が存在することの価値を理解した、というエピソードが短いページながら鮮やかに描写されている。ここはちょっと感動的であった。

 

 ⚫︎ ジェファソンの自然科学者としての才能や行動が強調されている。アメリカが独立した当日にも、自分の研究のために気温を測っていたそうだ。

 

⚫︎ この本の中でフェリスはしばしばリチャード・ファインマンを登場させている。現代では、絶対的に正しい事実とか完璧な政策とかを求めがちな文系の人々よりも、事実や正しさというものを突き止めることの難しさ・曖昧さを理解しているファインマンのような科学者の方がむしろ民主主義の本質を理解している、というのがフェリスの主張だ。…SNSなどの発言を見る限り、少なくとも日本では科学者が特別に民主主義を理解しているとか民主主義に賛同しているという感じはしないが(むしろテクノクラート志向である人の方が多いような気がする)、一部の文系が純粋主義のあまりに民主主義を軽視・否定して権威主義に走るというのはたしかにたまに見かけるような気はする。

 

 

*1:トランプ大統領当選とアメリカ政治の問題について書かれている記事と、私がフクヤマの著書を読んでいた時の読書メモ。

ware-bluefield.hatenablog.com

togetter.com

*2:

wired.jp

ポストモダニズムとポリティカル・コレクトネス

 

The Science of Liberty: Democracy, Reason, and the Laws of Nature

The Science of Liberty: Democracy, Reason, and the Laws of Nature

 

 

 先日から読み始めたティモシー・フェリス著『自由の科学(民主主義、理性、法の支配)』の第11章「学問的な反科学(Academic Antiscience)」を読んでいて考えたこと。

 

 科学と民主主義はそのシステムも似ているし(データ/人々の投票の集合に基づいて、仮説/政策の正否を実験/実行によって確かめて、上手くいかなかった場合にはまた別の仮説を繰り返して…というシステム)、科学的な発想こそが自由民主主主義をもたらしたのであり、そして科学は自由民主主的な社会の下でしか発展しない、というのがこの本でフェリスが主に行っている主張である。

 

 第10章の「権威主義的な反科学」では、ナチス政権やロシア・中国の共産主義政権による権威主導のトップダウンな科学政策がいかに失敗して戦争や経済競争の結果にも影響を及ぼしたか、ということが論じられている。そして、この記事で取り上げる第11章では、戦後のアカデミアにおいてポストモダニズムが登場したために多くの人が科学に対して相対主義的な発想を持つようになり、科学が軽視されるようになってしまったということが論じられている。

 

 私は大してポストモダニズムに詳しいわけではないが、ポストモダニズムが科学を相対視したということはさすがに私も知っていた。ただ、この本を読んで私の印象に残ったのは、ポストモダニズムは単に「この世に真実なんてない、真実を知る方法なんてない」みたいな純粋な相対主義を唱えていたというよりも、「物事について知ったり認識したりする方法は多種多様であり、西洋的な自然科学もその一つに過ぎない。…だから、自然科学には西洋中心主義が反映されているのだ」という風な主張をしていたらしいということだ。ジャック・デリダ脱構築なんかも、簡単に言ってしまえば、哲学にせよ自然科学にせよ思想や学問には諸前提が潜んでいるのであり、一見すると客観的でないもっともらしいことを言っていても裏ではその諸前提に影響されているかもしれないから主観的であるし信用できない、ということであるようだ*1マルクス主義は(気に食わない、都合の悪い)科学や思想の背景に「階級的利害」を見出してその正当性を貶めようとしてきたことで有名な訳だが、私がイメージしていた以上にポストモダニズムマルクス主義のそれに近かったのである。

 

 倫理学をメインで勉強してきた身としては、ポストモダニズムの特徴とは価値相対主義であり、物事の正否や善悪をうやむやにするので規範や価値の議論には不適当なもので、また政治の議論にもそぐわないものだと思っていた。だから、左派の間でポストモダニズムが(現在でも)人気があるというのはよくわからなかったのだが、ポストモダニズムは当初から反西洋主義(反植民地主義反帝国主義)の要素が強かったようだ。西洋の科学や学問を「一見すると客観的で正しいように見えても、西洋中心主義が裏に潜んでいるから絶対的に正しいとは言えない、主観的なものであり様々な考え方や見方の一つに過ぎない」として立場を弱めることは、相対的に、非西洋圏の伝統科学や学問を立場を強くすることになるのだ。まだ植民地主義やその残滓が強かった時代には、善意の左派がポストモダニズムに魅力を感じるのもむべなるかなという気はする。

 そして、マルクス主義は単に他の科学や思想を相対化するのみならず自分たちの"正しい"科学や思想を唱えた訳であるが、それと同じく、西洋科学を相対化したポストモダニストたちは「アジア的な科学」とか「先住民たちの科学」とかを讃えはじめた、ということであるようだ。

 

 現代ではポストモダニズムもすっかり下火になったと思っていたが、私がこれまで追ってきたアメリカの大学のポリティカル・コレクトネス事情を見てみると、ポストモダニズムはむしろすっかり大学に溶け込んでしまったように思える。ポスコロニアル・スタディーズやブラック・スタディーズやフェミニズムスタディーズといった"属性スタディーズ""−(ハイフン)付き学問"の多くは、通常の歴史学や文学やその他の学問はこれまでずっと白人男性に牽引されてきたのだから必然的に白人男性にとっての利害が反映されていたり白人男性にとって都合が良いように物事が歪められてきたはずである、という前提に立っていることが多い。それはある程度までは妥当であるかもしれないが、白人男性に牽引されてきた学問なら"必ず"白人男性の利害が反映されていて歪められているはずだ、それに対抗するためには非白人や女性の利害を反映した学問を主張しなければならない…という風に進んでしまうと真実が追いてけぼりになってそもそも学問をする意味自体が曖昧になってしまう。いわゆるアイデンティティ・ポリティクスが学問までをも戦場にしてしまうのだ。

 学問が真実追求ではなくイデオロギー追求の手段になってしまうことへの懸念はジョナサン・ハイトも以下の記事で示しているが、この現象にはマルクス主義のみならずポストモダニズムの影響もつよく働いているのだろう。

 

econ101.jp

 

 また、フェリスも指摘しているようにポストモダンによる科学批判の根本にはトマス・クーンの『科学革命の構造』などで行なわれている科学哲学の議論の拡大解釈があるのだが、「客観的で普遍的なものであるとされてきた西洋科学にすらパラダイム革命が起こるのだから、結局、物事を知ったり認識したりする方法として普遍的で絶対なものなんて存在しない。西洋の科学もその他の国々のそれぞれの文化も、物事を知ったり認識したりする方法の一つに過ぎないのであり、いずれも対等なのだ」といったポストモダンの考え方はかなり文化人類学っぽい感じもある。実際、現在でも文化人類学者たちの間には科学嫌いで相対主義を好む傾向が存在しているようだ。

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

  

davitrice.hatenadiary.jp

 

 とはいえ、人文系や社会科学の学問が完璧に価値中立で客観的になるのは確かに難しいというか不可能であるだろう。邪推のし過ぎはよくないとはいえ、それらの学問に含まれている可能性のある偏向やイデオロギーに警戒するのも妥当ではあると思う。

 しかし、近年では理系の学問の間にすらも「科学には必然的に白人男性の利害や西洋中心主義が反映されるのだから、それに対抗して非白人男性的で反西洋中心主義的な科学をつくろう」という発想が登場しているようだ。以下は「フェミニスト氷河学」なるものを提唱する論文と、それをコテンパンに批判している記事である。

 

 

Glaciers, gender, and science
A feminist glaciology framework for global environmental change research

 

Postmodern Glacier professor defends his dreadful study as “misunderstood”. It wasn’t. « Why Evolution Is True

 

 また、哲学を専攻する女性が少ないことの原因について「哲学の背景にある理性中心主義は本質的に男性中心主義的であり女性を排除するようにできているからだ」と主張する論者は多く存在するのだが、同様の議論を数学や理工系の学問を専攻する女性が少ない理由にも当てはめて「論理や客観性を重視する数学や理工系学問の発想は本質的に男性中心主義的であるからだ」と主張する人もいたりする。以下は、それぞれの理論に対する批判記事である。

 

heterodoxacademy.org

 

reason.com

 

 

  まとめてしまうと、科学にせよその他の学問にせよ、階級的利害なりアイデンティティ的利害によって歪められているはずだと疑ったり、西洋中心主義やその他のナントカ主義が潜んでいるはずだという発想が現代の(アメリカの大学における)ポリティカル・コレクトネスの前提の一つになっているわけだが、その背景にはマルクス主義と同じくらいかそれ以上にポストモダニズムの影響があるのだろう…といった感じ。

 私がこのテの発想が嫌いなのは、学問や議論の場において「その理論はいかにも白人的な理論だ」「あなたはアメリカ人だからそのような理論に賛同するのだ」という批判をすることを認めてしまうことはとにかく非生産的であるし人種差別的・国籍差別的でもあるからだ*2。ある学問的主張に対して、その学問の範囲内で批判するのは生産的だし、学問のあるべき姿だろう…つまり、例えばある人が何らかの学問的な主張をしたのに対して、証拠が妥当ではないとか論理に飛躍があるということなどを指摘して反論するのは生産的だ。だが、理論や学問を「白人男性的」「西洋中心主義的」という属性に結び付けたり発言者の属性を取り上げて、主張の内容ではなく属性に対する批判を行うことで主張を否定するというのは非生産的である。学問というのは、ある人ができる限り客観的で正確であるように務めながら何らかの主張をして、それでも誤りが生じるところをまた別の誰かができる限り客観的で正確であるように務めながら誤りを指摘することで、全体としての客観性とか正確さが培われて向上していく…というプロセスで成り立っているはずである。ポストモダニズムとかポリティカル・コレクトネスはそれを貶めるので良くないのだ。

 

 ポストモダニズムの科学批判が具体的にどう誤っているかということはフェリスの本ではもっと具体的に論じられているのだが、まとめるのも大変なのでこの記事では省略する。

 

 あとは余談的な感じで、フェリスの本の第11章で印象に残ったところを箇条書きしよう。

 

● ポストモダニズムの科学批判が教授や学生に受けた理由としては、科学を勉強しなくても科学批判を行うことが可能になるので、面倒臭くなくてラクだからだ、という俗っぽい点も挙げられている。実際、この点の影響力はかなり強いであろうと私も思う。

 

● フェリスは、諸々の思想は「保守主義-進歩主義」という横軸と「自由主義-権威主義」という縦軸からなる図のどこかに収まる、としている。つまり、自習主義的かつ保守主義的な思想もあれば、進歩主義的かつ権威主義的な思想もあるということである。そして、科学的思考は「保守主義-進歩主義」の軸においては基本的に中立でありどちらにもなり得るが、「自由主義-権威主義」の軸においては必ず自由主義的である、としている。科学批判を行うのは権威主義者である、というのがフェリスの議論の前提だ。

 戦後のポストモダニストにフランス人が多かった理由として、戦時中のナチスによるフランス支配とそれに対するレジスタンスのために、フランスの知識人は右にせよ左にせよどちらも権威主義的になったからだ、と分析している(レジスタンスの多くは共産主義者であり、共産主義者権威主義的であるから)。

 

● フェリス自身がポストモダン嫌いということもあって悪い点が強調されているのだとは思うのだが、取り上げられているデリダポール・ド・マンやポール・ファイヤアーベントなどの思想家について、彼らの思想の問題点だけでなく人格上の問題点も指摘されている。 

 例えば、この本によると、ファイヤアーベントは「科学も物事の数ある見方の一つに過ぎないのだから、科学者たちに力を与えるべきではない。欧米も中国の共産主義政府を見習って科学者を弾圧するべきだ」と主張して、それが批判されると、「ジョークのわからない心の狭い奴らだ」と文句を言ったらしい。

 

 

 

*1:

note.masm.jp

*2:実際、数年前に私が大学院生であった時には学生からも教授からもこのようなことを言われてムカついた思い出がある。また、以下の記事については以前にも批判記事を書いたことがあるが、記事の内容以上にタイトルにムカついている。

おめでたいアメリカ人『暴力の人類史』: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる