道徳的動物日記

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仕事と倫理

magazine-k.jp

 

 この記事を読んで思ったことや、さいきん考え続けていることを書きなぐる。ただし、内容自体は上記の記事とはあまり関係ナシ。

 

 上記の記事の後半では本の流通の問題や書店・本の存続そのものについての危惧が語られているが、それはおいておいて、前半で触れられている「アイヒマン問題」について思ったこと。
 一般的には書店員は本が好きな人であるはずだし、本が好きな人はそれだけ物事について考えるのが好きな人であり(そうでない人もいるが)、本を通じて多様な観点に触れて感性も養っているだろうから(ぜんぜん養えていない人もいるけれど)、人種差別や性差別などの問題には敏感であるだろう(本から全く何も学ばずに鈍感なままの人も多々いるが)。
 記事のなかでは書店員(や出版業界の人々)が"自ら思考することを放棄し、与えられた課題を唯々諾々とこなすだけの「作業員」となって"しまうことの問題が論じられているが、おそらく、思考を放棄せずに現在の書店や出版業界の惨状を苦々しく思いながら働いている書店員もいるはずだ。
 しかし、思考を放棄しなかったところで、現場の書店員なんて所詮は業界や企業の末端にいる存在だ。現状を改善するためにできることは限られているだろうし、何もできない立場にいる人も多いだろう。
 そういうわけで、思考の有無に関わらず、書店員として働いている以上(または、出版業界に関わっている以上)は多かれ少なかれ「アイヒマン」化するといえるかもしれない。

 

 そして、仕事を通じて「アイヒマン」化するのは書店員に限らない。
 たとえば、ジャーナリズムやマスコミ、映像メディアやWebメディアなどの仕事には大なり小なり出版業や書店に似たところがある。
 つまり、それらのメディアのなかでも良質な物であれば、人々の知見を広げたり社会の様々な問題に気付かせたり深い思考にいざなって批判精神を身に付けさせたり人権意識を高めたりなどなどの善い影響を人々に与えることができる。それらのメディアに仕事として関わりたいと思っている人々も、良質な物による善い影響を受けた経験がきっかけとなることが多いだろうし、そのような人たちの考え方や価値観についても人権意識や批判精神が高い傾向にあると思われる。
 しかし、ほとんどのメディアにおいては良質な物はごくわずかであり、大半の物はクズだ。人権意識を高めるどころか他者の人権を積極的に毀損するものであったり、人を深い思考にいざなうどころか思考停止に誘導して白痴化させるものであったりする。
 能力があったり運がよかったりすればメディア業界に身を置きながらも良質なものを作る側にまわれるかもしれないが、ほとんどの人はクズを作る側にまわらざるをえないものだろう。
 そのような状況に置かれた場合、人権意識や批判精神などを保つことは認知的不協和を招いてしまい、むしろ精神的なストレスにしかならない。
 そのために積極的に思考を放棄したり、あるいは露悪的にシニシズムに傾倒したりしてアイヒマン化せざるをえない、という状況があるかもしれない。

 

 書店会社やメディア会社などに従業員として働いてしまうから会社の要請によってアイヒマン化してしまうのであり、独立したクリエイターとして活動するなら自分の倫理観を保ち「やるべきではないことはやらない」「悪には加担しない」という選択することもできるから、アイヒマン化することは避けられるかもしれない。
 だが、独立したクリエイターでいつづけるためには積極的に仕事を取って金を稼ぎ続けなければならない。そのため、クリエイターは会社員以上に非倫理的になりえる。
 クライアントである企業の要請にしたがってステルスマーケティングなどの非倫理的行為に協力するクリエイターもいれば、大衆の歓心を買うために差別を扇動したり社会を分断したりするコンテンツを積極的に作成して拡散するクリエイターもいたりする。
 ステマや差別扇動などは極端だとしても、つまらない映画や美味しくもないコンビニの新製品を大げさに美化して宣伝する漫画や記事を書いたりする漫画家やライターがいたり、一冊の本を成立させるために自分でも本気で信じてはいない理論をなんにでもあてはめる批評家がいたりする。これらだって嘘を付いているという点では非倫理的だ。すくなくとも私はこういう人たちに徳性や品性は感じない。

 結局のところ、受動的に「アイヒマン」化するか、能動的に悪を創造して世間にまき散らすかの違いでしかないかもしれない。 

 

 しかし、こんなことを言い続けていたら働いたり金を稼いだりすることがすべて非倫理的だということになってしまうし、働かなくてすんだり金を稼ぐことに必死にならないでよい上流階級とか資産家の息子だけが倫理的であり続けられる、という結論になってしまう。だが、この結論もどう考えてもおかしいだろう。「働かなくていい」というポジションに付いている時点で不平等な社会制度に加担しているから倫理的でない、などとも言えるが、それ以前に、仕事や労働をする時点で倫理や徳からは離れてしまうという議論はあまりに不毛だ。というわけで、個々人の人が自分の持ち場で(金を稼いだり生活を継続することとのバランスをとりながら)精一杯に倫理的行為を実現したり徳性や品性を失わないようにがんばる、という結論しかないかもしれない。

 

 

 

切り抜きメモ:ミルの「功利主義」の「満足した馬鹿であるより不満足なソクラテス」論

 

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)

 

 

 ミルの「功利主義」に書かれている文章でいちばん有名なものといえば、やっぱりコレ。

 

満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよく、 満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスであるほうがよい。 そして、もしその馬鹿なり豚なりがこれとちがった意見をもっているとしても、 それは彼らがこの問題について自分たち側しか知らないからにすぎない。 この比較の相手方は、両方の側を知っている。

 

 関連して、私が今回「功利主義」を読んで妙に記憶に残ったのは以下の部分だ。

 

…しばしば人間は性格の弱さゆえに価値が低いと分かっていながら手近にある善を撰び取る。これは、二つの身体的快楽のうちから一方を選ぶときと同じように、身体的快楽と精神的快楽のどちらかを選ぶときにも起きることである。人間は健康がより重大な善であることを十分に認識していながら、肉欲にふけって健康を害することがある。さらに、若い頃にあらゆる高貴なものに対しての熱意をもっていた人の多くが年齢を重ねるにつれて怠惰で利己的な状態に陥っているという反論がなされるかもしれない。かし、このようなごくありふれた変化を経験する人が高次の快楽よりも低次のものを自発的に選びとっているとは私には思えない。もっぱら低次のものに傾倒するようになる前にすでに高次のものに身を委ねることができなくなっているように私には思える。高貴な感情を働かせる力は多くの点で弱々しい植物のようなものであり、不利な作用によってだけでなく、養分が不足しただけでも簡単に枯れてしまう。大部分の青年にとって、人生のその時々についてきた職業やそれによって関わることになる社会がこの高等な能力を発揮し続けるのに不向きならばこの力は弱ってしまう。人々は知的な趣味を失うことによって高い意欲も失ってしまう。というのは、彼らはそれらに耽る時間も機会も持てなくなるからである。彼らが低次の快楽に耽るのは、よく考えた上でそれらを選び取っているからではなく、彼らがそれらしか得ることができないか、あるいはそれらを享受する能力しか持っていないからである。

(p.270)

 

「質的功利主義」につながるミルのこの主張はエリート主義的だとして批判されがちだし、理論的な問題も多々指摘されている。
 特に現代は平等化と大衆化の時代であり、趣味や幸福に関するエリート主義的な見解はウケが悪い。他人の趣味について意見を言ったり、幸福に関して忠告をするだけでも反感を抱かれがちな時代になっているだろう。
 しかし、私としては、現代のメディアに溢れているような浅薄で短慮な幸福論や趣味論にはいい加減にうんざりしている。

 利益目的でメソッド式に粗製濫造されたアニメやYouTuberの動画を見るヒマがあれば作り手の信念やこだわりがこもった映画を見た方がいいし、レトルト食品や冷凍食品よりもすこし手間をかけて自分で作った料理を食べる方が美味しくて健康に良いし、ストロングゼロなんてゴミ箱に捨ててまともな酒を飲むべきである(できれば飲まないのが一番だが)。
 これらのことはミルだかソクラテスだかに言われるまでもなく、本来なら当たり前のことだ。
 しかし、現代は低賃金の時代であり、金を稼いでいるエリートですらオーバーワークをしている時代でもある。誰にとっても、金と気力と時間のどれかが、またはそのいずれもが足りないため、高尚な趣味を楽しむ余裕がない。
 それ自体は仕方がないことである。しかし、開き直って、YouTuberの動画やレトルトカレーストロングゼロに価値があるかのような言説がはびこっているのはよくない。
 それらの下等な趣味を楽しむ時にはせめて自分が愚者になっていることを自覚するべきだし、他人に薦めるべきではない。そして、可能であれば、余裕をもって高尚な趣味を楽しむことに努めるべきだろう。
 それが無理だとしても、下等な趣味を楽しまざるを得ない自分の置かれている状態が不当で誤っている、ということだけは忘れないでいるべきだ。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 

社会運動の「戦略」の問題を指摘する人について

 

現代思想 2018年7月号 特集 性暴力=セクハラ  ―フェミニズムとMeToo―

現代思想 2018年7月号 特集 性暴力=セクハラ ―フェミニズムとMeToo―

 

 

 ネットでは昔から社会運動が盛んだ。
 数年前までは、在特会などの団体や嫌韓・嫌中の運動に対抗する反レイシズム運動が特に目立っていたように思える。
 2011年の震災からしばらくの間は反原発運動も盛んであった。また、安倍政権に反対する運動も定期的に行われている。
 そして、最近で特に注目を浴びているのは#MeTooやKuTooなどのフェミニズム系の運動であるだろう。

 これらの主張はいずれも社会運動である以上、なんらかの理念や規範に基づいて、なんらかの主張や要求を行っている。
 基本的には、「平等」や「人権」などのすでに社会的に認められている規範を延長させることで新しい規範を提唱して、その新しい規範に基づいて、個々人の行動や社会の慣習や制度を変更させるような要求を行っているといえるだろう。

 ネット上では、これらの社会運動について様々な人が何らかのコメントをしている。
 そして、はてブTwitterなどのSNSにおける個人のコメントにおいては、独特の特徴が存在するように思われる。
 それは、運動の提唱している規範や主張などについて直接取り上げたコメントではなく、運動の「戦略」について云々するコメントの方が目立ち、かつ人気を得やすいという特徴だ。

 

 私が念頭に置いているのは、たとえばMeTooやkutooに関して言えば、以下のような言説である。 

「日本でのMeToo(KuToo)運動は、運動の火付け役だった○○○氏の言動に問題があり、支持者たちもそれを批判できなかったために、大衆の支持を広く得ることができずに失敗してしまった(失敗するであろう)」

 MeTooやKuTooに関する話題のはてブを見てみるといつもこういうタイプのコメントが何個かあって、一定数のスターを稼いでいる。
 同じく、TwitterでもこういうタイプのコメントはRTやFavを稼ぎやすい。
 しかし、そのようなコメントやそれにスターやFavを付けている人を見ると、私はいつも「嫌らしいなあ」という感情を抱いてしまうのである。

 このタイプのコメントが私には嫌らしく思えるのは、運動の主張自体の当否を戦略の当否にすり替えている感じがするからである。
 先述したように、大半の社会運動は、「平等」や「人権」など我々の社会で既に共通理解を得ている規範から出発して、その規範を延長させた新しい規範を主張したり、我々個々人の行動や社会慣習や政治制度などを改善するように具体的な要求を行ったりする。
 もしその要求が不当であると考えたり、主張されている新しい規範を認める理由がないと考えるのであれば、それに対して反論を行えばよい。
 しかし、実際には、反論を行うことは難しい場合が多いだろう。というのも、大概の社会運動はすでに私たちが受け入れている「人権」や「平等」などの規範から出発している以上、その主張は無難なものであり、多くの人にとって妥当に思われるような主張を行っていることが多いからだ。
 たとえばMeToo運動に関しては女性に対する性暴力を表立って擁護する人はなかなかいないし、KuToo運動に関しても、女性にだけヒールを履かせるよう強制することを正当化する議論ができる人はほとんどいないだろう。
 だから、運動の理念や主張に対して直接的に反論が行われることはあまりないし、そのような反論が他の人にウケることもあまりないのである。
(萌え絵反対運動であったり動物の権利運動であったりなど、既存の規範とはやや距離が離れており論証の必要性が増すようなタイプの社会運動に関しては、反論の余地も大きくなる。そして、そのような運動に対しては、実際に理念や主張に対して直接の反論を試みようとする人が増える印象がある。)

 そして、運動の戦略上の問題点や「失敗」を指摘する人であっても、「この運動の理念や主張には賛同するが、だからこそ指摘しておかねばならない…」という風な前置きする人もいる。
 そのような人の中には本心から運動の理念に賛同していて、善意で戦略面の問題を指摘しようとする人もいるだろう。
 しかし、戦略の問題を指摘する人の大半は、運動の理念や主張については実のところ反感を抱いている…と私は邪推する。
 つまり、運動の主張や要求に対して「嫌だなあ」とか「ウザいなあ」などのネガティブな気持ちを抱いていて、なんとかして運動にケチをつけたいが理念や主張面での反論はできないので、戦略上の問題をあげつらっているということだ。
 
 本来は戦略上の正しさと理念面での正しさは別物であり、仮に戦略面では全く成功していない運動であっても、理念が正しいかどうかの判断は別途に行える。
 つまり、周りの誰も賛同しないように見える運動であったとしても、その運動の言っていることが正しいかどうか個々人で考えて判断することができるし、またそうするべきなのだ。
 さらに言えば、運動が戦略的に成功しているかどうかを外部から判断することはかなり難しい。はてブでは否定的な反応ばかりでもネットの別の領域では賛同を得ているかもしれないし、ネットでは批判されてばかりの運動が現実世界では成功を収めているという可能性もあるのだ。
 理念や主張に関する判断は規範の問題なので論理の範囲内で行うことができるが、戦略に関する判断は事実に関する事柄なので、客観的な証拠やデータがないと本来は判断できないものなのである。
 しかし、その指摘の正確さに関係なく、戦略上の問題点を指摘することには、「運動の理念や主張自体に反論が行われた」という誤った印象を与える効果があるようだ。
 ついでに言うと、戦略上の指摘をすることには、指摘している人が運動を行っているよりも賢く客観的に見えて、一段上の立場にいるような印象を与える…そんな効果もあるかもしれない。
 実際、物事について戦略などのメタ的な次元で考えようとすることは、賢い印象を他人に与えたいと思っている人にとっては基本的な仕草であるだろう。
 
 …このようなことをつらつらと考えていると、やっぱり結論としては「嫌らしいなあ」という感想しか私には湧かないのだ。
 もちろん、上記の私の分析はすべて邪推のうがちすぎであって、まったくの的外れかもしれない。私の分析自体がメタ的なものになっていて嫌らしいと言われたら反論の仕様はないし、あるいは自分の心を他人に投影しているだけかもしれない。

 

 

 

労働・やりがい・疎外・ベーシックインカムなどについての雑感

 

働くことの哲学

働くことの哲学

 

 

 

 ここ最近、仕事や労働や賃金、および財産の分配に関する哲学や思想史の本を何冊か集中的に読んできた*1
 それらの本を読みつつ自分でつらつらと考えてきたことを、軽くここに書いてみよう。

 

 多くの本で触れられており、私がとりわけ重要に思ったのは、「労働疎外」という概念だ。これはカール・マルクスが使っていたことで有名な用語である。辞書的な定義を引用するとこんな感じだ。

 

労働疎外(ろうどうそがい)とは - コトバンク

人間の労働は本来,自己の主体的・創造的エネルギーを発揮して自然に働きかけ,その工夫と努力が対象化された生産物の他人による享受を通して,人間が共同的な存在であることを確証する営みである。しかし賃労働を基礎とする資本主義の下では,生産手段と生産物は資本家の所有に属しているため,労働の成果は労働者を支配する新たな資本の蓄積に寄与し,労働の過程は物的資本としての機械に強制された苦役となる。

 

 また、労働が人間の精神にもたらす悪影響を示したものとしては以下のアダム・スミスの文章が印象的である(この文章のインパクトは強く、複数の本にて引用されていた。以下の引用は『じゅうぶん豊かで、貧しい社会』からの孫引きとなるが、ページ数は失念した。元々は『国富論』に書いてあった文章であるかと思う)。

 

…ごく少数の単純作業だけで一生をすごし、その作業の結果がおそらくいつも同じかほとんど同じであるような場合、そうした労働者はむずかしい問題に直面することはなく、したがって問題の解決策を見つけるために知恵を働かせたり、工夫を凝らしたりする機会もない。その結果、頭を使う習慣をいつの間にか失い、およそ人間がなりうる限りで最低の無知と愚鈍に陥る。頭が鈍っているため理性的な会話を楽しむことができず、会話に加わることさえできない。そればかりか、寛大さ、気高さ、優しさといった感情も抱けなくなり、私生活上のごくふつうの義務の多くについてもまともな判断を下せなくなる。…

 

 
 さて、様々なメディアやSNSなどに書かれている文章を見てみると、現代の日本社会において人々が仕事や労働に関して持っている意見は、以下のようなものに二分できるように思える。

 

「仕事は自分の能力を発揮してそれに見合った報酬を得られる、充実した行為である。仕事は人生の中核にある営みであり、人生というものは“どのような仕事をするか”を中軸に据えて設計しなければならず、休日や余暇にもスキルアップやインプットを忘れずに、常により優れた成果を出せるような人間になることを目指して向上するべきだ。 」

 

または

 

「労働というものは生活のために仕方なくやるべきものであり、本質的には苦役であり、楽しいものではない。人生の中核は労働ではなく、趣味や遊びにあるべきだ。労働の楽しさや“やりがい”などを強調する言説はすべて欺瞞であり、幻想を与えることによって人を搾取しようとする罠である。そのため、労働には何も期待せずに賃金を得るためだけの行為だと割り切るべきであり、どんな仕事をするかは時間あたりの賃金の高さや残業の少なさなどの指標によって選ぶべきであって、終業後や休日だけを楽しみにして平日の仕事はやり過ごすべきだ。」

 

 ちょっと極端な要約の仕方になってしまったが、多かれ少なかれ、この二種類の意見のどちらかの考え方を抱いている人は多いように思われる。
 私自身の考えを書くと、前者のような労働観が当てはまる仕事…つまりやりがいがあり、費やした努力や成長させたスキルが仕事の結果と直結していて、人生の中核とするのに値する仕事…が世の中に存在していることは事実だと思う。ただし、その数は決して多くなく、すべての人がそのような仕事に就けるわけではない。そのような仕事に就けるかどうかは椅子取りゲームというところもあるし、環境や先天的な要因で最初からそのような仕事に就ける道筋がかなり狭くなっている人(またはその逆)もいれば、人生のある段階を過ぎたためにそのような仕事に就けるチャンスの扉が閉ざされてしまった人もいる。

 そして、世の中には人生の中核とするに値しない仕事も大量にあることは事実だ。そもそもの賃金が低く、費やした努力や成長させたスキルが成果に直結せず、労働の内容そのものに充実感もなければ、人間関係が広がったり新しい世界について知れたりなどの副次的なメリットもないような仕事である。
 もちろんこの分け方も極端であり、前者と後者との中間的なポジションの仕事もあるだろう。ある人にとっては向いておらず苦役でしかない仕事が別の人にとっては天職のように感じられることもあるだろうし、仕事に向き合う当人の態度や気の持ち方や性格次第で仕事の楽しさや苦しさはだいぶ左右されるかもしれない。…しかし、どうあがいても楽しさや充実感を得ることができない、何かの価値を見出すことが難しいような仕事が大量に存在することも否めないだろう。そして、AIの発達だか世界のグローバル化だか社会のネオリベラリズムだかが理由で、現代社会ではそのような仕事が増え続けている(ような気がする)。

 私自身は、諸々の事情から、ロクでもなく価値のない仕事にしか就いたことがない。 ついでに言うと私の身の回りの知人友人も私と同じタイプの人が多く、彼らも価値のない仕事に就いている。

 

 さて、いま自分がロクでもない仕事に就いておらず、今後も価値の仕事に就ける見込みが薄い人間にとっては、「仕事というものは本質的に苦役であり、労働疎外とは当たり前に起こる現象だ。ならば、仕事に楽しみややりがいなどを求めることが間違っている。仕事を選ぶ際には残業の少なさや労働時間当たりの賃金の高さなどだけに注目するべきであり、楽しみややりがいなどの要素には最初から注目せず、仕事から帰った夜や休日などに趣味や遊びを充実させることだけに人生の価値を見出すべきだ」というような考え方を抱くことは、ある意味では合理的な戦略であると言える。

 価値のない仕事に価値があるかのように装わせて「やりがい搾取」を試みる経営者などがいることは事実だし、そういう「罠」にかかって心身ともに疲弊する同世代の人間も何人かは目にしてきたことだろう。「ああはなるまい」と思って最初からやりがいや充実感を求めないことは、リスクを防ぐという点では正しいのかもしれない。

 しかし、やりがいや楽しさを最初から諦めるという道筋にも落とし穴が待ち構えているように、私には思える。
 まず、まったく残業がない職場であっても、週に5日は日中の8時間(休憩を含めれば9時間)は職場に拘束されざるを得ない。…そして、8時間はあまりに長過ぎる。

 趣味や遊びなどに人生の価値を見出すとしても、それに費やす時間が限られる以上は、充分にそれらを楽しむことはできない。あっという間に休日が過ぎてしまって、月曜日になったらまたすぐに苦役の時間に戻されるのだ。あるいは、睡眠時間を削ったり人間関係や健康を犠牲にするなど、人生における他の重要な側面を犠牲にした歪んだ生き方となってしまう。

 自分自身について反省してみても身近な人間を観察してみても、「仕事は賃金を受け取るためにやっているだけだ、余暇や休日に人生を楽しめればそれでいいんだ」というスタンスは、口で他人にそう言ったり自分自身に言い聞かせていても、やはり無理があるように思える。表に出しているスタンスとは裏腹に不安感や焦燥感に駆られたり、不毛で後悔してしまうような仕方でしか休日を過ごせなかったり、また「楽しみ」が酒になってしまってアルコール中毒のような状態になる人すらいる。

 さらに、価値のない仕事の多くは派遣社員契約社員などの不安定雇用であったり、正社員であっても給与の伸び代がない場合が多い。当面の生活には困らないとしても、結婚したり子どもを作ったりなどの人生設計を行うことができないのだ。 そして、価値観や生き方の多様化がどれだけ世の中で叫ばれていても、結局のところは、パートーナーシップや家族を築くことが大半の人にとっての幸福の大きな部分を占めているのだ。今は独りで満足している人であっても、いつ寂しさを感じて、そしてその頃には手遅れになっているかはわからないものである。

 つまり、当たり前のことであるが、フルタイムで働くのであれば給与もやりがいもどちらも充実している仕事に就けるのがいちばんなのだ。「給与さえあれば、残業さえなければ、やりがいはなくてもよい」というのは消去法的で後ろ向きな発想なのであり、もとより最善の選択ではないのである。…とはいえ、やりがいも給与も充実している恵まれた仕事のポジションの数は限られている、という最初の問題に戻ってしまうのだが。

 

 つらつらと考えていると、やはり、「やりがいのない仕事をしなくてはならない」人が生じる状況こそが不正であると思ってしまう。
「給与の低い仕事に付かなくてはならない」人がいることも、「(望んでいる訳でもないのに)激務で働かなければならない」人がいることも、どれも不正だ。ベーシックインカムなりワークシェアリングなどの構造的な改革でこのような状況が改善されること(少なくとも、1日8時間ではなく4時間程度の労働に抑えられること)が道徳的に要請されるように思える。


 ところで、最近流行りの経済理論であるMMTには「ジョブ・ギャランティー」という考え方がある。「中央政府による就業保証」のことだ。小浜逸郎という学者はベーシックインカムとジョブ・ギャランティーを対比させて、以下のように論じている。

 

38news.jp

…ただ、思想として見た場合、どちらが優れているかといえば、就労を条件とするJGPのほうが、人間的自由の獲得の条件としてやはり立ち勝っていると言えるでしょう。ベーシックインカムは、かつて救貧のために方法を見出せなかった時代の、富裕層による上からの慈善事業の現代ヴァージョンです。もし誰もが勤労の対価を受け取り、それによって社会に参加しているという実感を抱けるなら、それが結果的に一人一人の誇りを維持する一番の早道と言えるのではないでしょうか。

 

 私に言わせてもらうと、そもそも現代の社会でベーシック・インカムが盛んに議論されるようになった(そして一部の国や地域では実現に移されるようになった)のは、いまのこの世の中には「社会に参加しているという実感」や「誇り」なんてものが得られようのない労働で溢れ返っているからである。ジョブ・ギャランティーにおいては労働条件や賃金などに関しては一定以上の補償がなされるだろうが、所詮は政府からお仕着せで与えられる仕事であり、私には「社会に参加しているという実感」や「誇り」がそんなもので簡単に得られるとは思えないのである。

 そして、先に引用したアダム・スミスの文章にも書かれている通り、労働というものには人々の知性や感性や気概を奪うという側面が存在している。利益の追求なりノルマの達成なりに気を取られるあまり他人を目的ではなく手段と見なすようになったり、他者に危害を与えることに無頓着になったり、徳性や品性を捨てた下劣な人間に成り下がるということもごまんとあるだろう。

 それよりも、労働時間を減らして、それに代わる活動を行うための時間と気力が残される方が、 「社会に参加しているという実感」や「誇り」 を得るための方策としてはよほど優れているはずだ。だからワークシェアリングなりベーシックインカムなりの方がよっぽど的を得た発想なのである(実現可能性に目を瞑れば、の話だが、少なくともジョブ・ギャランティーの発想だってベーシック・インカムとはどっこいどっこいだろう)。

 

 ところで、労働に関する哲学の本は労働の悪影響について論じる一方で、理想的な労働の状態についても述べる。その場合は「労働」ではなく「仕事」や「活動」の話になっていき、古代ギリシャとかアーレントとかそちら系の話になっていく。また、労働と対比する形で、余暇や閑暇の話にもなっていく。それらの議論を見ていて思うのは…話がまた戻ってしまうが…やはり、「平日の仕事している時間は苦役だと思ってやり過ごして、終業後や休日だけに人生を楽しむことができる」というのは人生における幸福を考えるうえで根本的に間違っているということだ。充実して幸福を感じられるような仕事をするか、苦役に感じられるような労働を行わないか、どちらかであるべきだ。

 

 

人生の短さについて 他2篇 (古典新訳文庫)

人生の短さについて 他2篇 (古典新訳文庫)

 

 

*1:『働くことの哲学』の他に印象に残ったものとしては、以下のような本がある。

 

じゅうぶん豊かで、貧しい社会:理念なき資本主義の末路 (単行本)

じゅうぶん豊かで、貧しい社会:理念なき資本主義の末路 (単行本)

 

 

 

分配的正義の歴史

分配的正義の歴史

 

 

 

 

選挙制のエリート主義、抽選制と熟議民主主義(読書メモ:『選挙制を疑う』)

 

選挙制を疑う(サピエンティア) (サピエンティア 58)

選挙制を疑う(サピエンティア) (サピエンティア 58)

 

 

 最近は感想を本を読んだ時の感想やメモはまとまった形に残すのではなく、引用メモや雑感をTwitterの方にスレッドの形でダラダラと呟くことにしているのだが、この本は面白かったしなにより読みやすかったので感想を書くのも簡単そうだ。なのでこちらに感想を残すことにした。

 本の内容のまとめや社会的背景の解説などは、政治学者の吉田徹氏が書いた以下の記事を参照してほしい。

 

gendai.ismedia.jp

 

 上記の記事で紹介されているように、この本では、現代の各国で行われている選挙型の代議制民主主義は過度な選挙戦や政党政治による硬直化を招いて政治の効率性を損なっており、また選挙制度は源流からしてエリート主義的であり民主主義の精神とは相反している(つまり、正当性すらなくなっている)ということが示されている。そして、選挙民主主義の代わりにくじ引き民主主義(抽選型代議制民主主義と熟議民主主義を合わせたもの)を導入した方が政治が有効に機能して、民主主義の根本的な精神性にも相反していない、ということが論じられているのだ。

 私はこの本の内容を事前に知っておらず、「法政大学出版局の"サピエンティア"シリーズの本を何冊かまとめて読もう」と思い立っていたところにたまたま目にして手に取ったという経緯で読みはじめた。読む前はタイトルだけを見て「愚かな人間にも投票権を与えて選挙に参加させているせいで民主主義がダメになっているのだから、投票権に制限を与えたり資格制にすることで選挙制度を改善しよう」という風なことを論じている本なのかなと思っていた*1。しかし、手に取ってみたらむしろこの本が最も攻撃の対象としているは選挙制に潜むエリート主義であり、私が事前に想定していたものとは真逆の内容だったのだ。

 この本で特に面白かったのは第3章である。古代ギリシアルネサンスの時代には抽選制であった民主主義が、アメリカ独立革命フランス革命の時代を通じて選挙制に変貌していき、さらには「民主主義は源流では抽選性であった」という事実すらも忘れられていく過程が、鮮明に描写されているのだ。いまでは「近代民主主義はアメリカ独立革命フランス革命の時期に始まった」ということはすっかり常識になっているために、革命の指導者たちが「抽選に当選したどこかの有象無象たちにではなく、選挙という選抜をくぐり抜けることで能力が証明された優秀な人間たちに民主主義を任せるべきだ」というエリート主義的な思惑を抱いていたことは失念されてしまいがちなのである。

 また、第4章では今日の社会でも可能な抽選型民主主義について、各国での実験の実例も紹介しながら論じられている。基本的には、代議制民主主義に抽選制と熟議民主主義を合わせた形になるようだ。

 紹介が前後してしまうが、第3章で、トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』が紹介されている箇所から引用する。

 

トクヴィルは、抽選によって編制された陪審員、すなわち「任意に選出され、有罪・無罪を決める権限を一時的に得た一定数の市民」については、すこぶる好意的だった。ここでも少し長くなるが、トクヴィルの文章を引用しておきたい。

"陪審制、特に民事陪審制のおかげで、裁判官の心の習慣の一部は、すべての市民の精神へと伝播する。自由のための最良の準備となるのは、この習慣にほかならない。"

アリストテレスと同様、トクヴィルがどのように自由を期間限定の責任と結びつけたのか、どのように自由を人間の学習対象と見なしたのか。この点に留意してほしい。)

"自分の事柄とは別の事柄に従事するよう強いられることにより、人々は、社会をいわば錆びつかせる個々人のエゴイズムに対抗する。/陪審員になることは信じがたいほど、国民の判断力の形成に寄与するし、国民の自然理性の拡大に寄与する。これが最大のメリットであろう。それは、常時開設している無料の学校であると見なさなければならない。そこでは、誰でも自分の権利について助言を求めるようになり、上流階級のなかでも最も学識があり最も賢明なメンバーと日々接するようになる。法律は実践的に教えられ、弁護士の努力、裁判官の助言、訴訟当事者の情熱のおかげで、陪審員の知的能力に入り込む。私の考えでは、アメリカ人の実践的知性や政治的良識は、主として、民事陪審員としての長期間の使用に帰さなければならない。私は、陪審員が訴訟当事者にとって有益であるかどうかは分からない。しかし、裁判をする人々にとっては極めて有益であると確信する。陪審員は、社会が国民を教育するのに用いることのできる手段としては、最も有効な手段であるように思われる。"

(p.103-104)

 

 抽選で選ばれた見知らぬ人々同士が一堂に会して話し合い議論し合って、時として検察や裁判官たちにもたどり着けなかった真実を明らかにする…『十二人の怒れる男』をはじめとして陪審員制にスポットが当てられたフィクション作品はそんな構造になりがちだが、そのような作品では民主主義と熟議の理想の姿が描かれていると言えよう。

 このタイプの作品の中でも私が特に感銘を受けたのは『有罪x無罪』というニンテンドーDSの推理アドベンチャーゲームである。このゲームは裁判員として集められた地味ながら個性豊かな市井の人々たちと主人公が議論し合いながら各事件の真相に辿り着くことを目的としているのだが、年齢も職業も教養もバラバラな人たちがそれぞれに議論に貢献していくことで真相がだんだんと明らかになっていく過程が楽しかった。

 

 

有罪×無罪

有罪×無罪

 

 

『選挙制を疑う』の第4章では、熟議民主主義制に対する大衆蔑視に基づいた懸念が取り上げられて、実際に熟議が成功した実例を示しながら反論されている。

 日本では裁判員制は導入当初から批判され続けているし、「そもそも議論を行うことすらできない教養のない連中や、議論をしたがらない人間が大量にいる社会なのだから、熟議民主主義なんて成立する訳がない」と言う人もいっぱいいる。だが、議論や熟議というものは、運営や進行がうまく行っていれば基本的に楽しいものだし、ほとんどの人にも参加できるものであるはずなのだ。教養や知識についての問題は「話し合いの前に話し合うテーマについての情報を教授する時間を設ける」「テーマについての専門家がアドバイザーとして参加させる」などの工夫で対処できるだろうし、議論に慣れていない人や発言することが苦手な人についても、議論を運営する方法を工夫することでなんとかできる部分が多いだろう。この本を含めて熟議民主主義について書かれた本ではそういう実践的な方法や工夫の面についても論じられているのである(一方で、批判者たちは「議論」や「熟議」の上っ面のイメージだけで判断して思い込みで批判することが多い)*2

 

 以下では気に入った部分を引用して紹介する。

 

(ポピュリストの言説について)

こうした言説がまやかしであることは、よく知られている。一枚岩の「国民」など存在しない(いかなる社会も多様な人々から成立している)。「国民感情」などというものは存在しないし、「良識」なるものもまったくのイデオロギーにすぎない。「良識」とはイデオロギー性を自覚するのに失敗したイデオロギーであり、ありのままの自然だと大真面目に考えている動物園のようなものである。

(p.22)

 

テクノクラートは、ポピュリストとは正反対のことをする。正当性よりも効率性を優先させて、民主主義疲れ症候群を治療しようとする。良い結果こそが最終的には被統治者の承認をもたらすこと、言い換えれば、効率性が自ずから正当性をもたらすことを期待しているのである。そうした試みは、少しの間であれば成功するかもしれない。だが政治とは良き統治の問題にとどまらず、それ以上の問題である。遅かれ早かれ道徳上の選択をしなければならず、そのためには社会に諮ることが欠かせない。

(p.28)

 

 実のところ、選挙にそこまで焦点を合わせるのは奇妙である。人類は3000年近く民主主義の実験をしてきたが、もっぱら選挙によってそうしてきたのは、たかだか200年に過ぎない。

(p.44)

 

我が民主主義の危機は、我々が限定している特殊な手続きのせいなのではないか。選挙制は民主主義を促進するのではなく、ますます抑制するようになっているのではないか。だとすれば、民主主義への希求がこれまでどのように解釈されてきたのかを振り返ることは有益であろう。

(略)…画期をなしたのは、フランスの政治学者ベルナール・マナンの『代議政体の原理』(1995年)である。「現代民主主義は、創始者が民主主義と対置した政府形態に由来している」という冒頭の文章からして衝撃的である。マナンは、なぜ選挙性が非常に重要なのかを探究した先駆者である。彼は、アメリカ革命とフランス革命の直後、どのように選挙型代議制が自覚的に選択されたのかを解明した。端的にいえば、民主主義の騒擾を締め出すためだったのである!

(p68)

 

ルソーによれば、

"真の民主主義では、公職に就くことは特権ではなく、重い負担である。ある個人よりも別の個人に多くの負担を課すことは公平ではない。抽選で当たった人にこの負担を課すことができるのは、法だけである。"

(p.83)

 

揺籃期のアメリカ政治は、民主主義の偉大な力を示していた。ところがトクヴィルは、まだ大衆政党もマスメディアもなかった時代だったというのに、選挙戦という必要悪を苦々しく思っていたのである。

(p.104)

 

多くの市民が政治家に不信感を抱いていることは、よく知られている。だが、政治家も同じように市民に不信感を抱いている可能性があることは、あまり知られていない。

(p.134)

 

抽選された市民による熟議のプロセスは、参加者本人にとっては強烈な体験であることも多いが、現代の報道の形式にはうまく収まらない。熟議はゆっくりと進行し、議論を引っ張る人も顔の知れた人もいない。激しい対立とも無縁である。市民はポストイットやフェルトペンを片手に、円卓テーブルで話し合っている。視聴者にとっては、いかにもつまらない光景である。議会制民主主義は劇場型であり、ワクワクするテレビ番組になることもあるが、熟議民主主義はドラマ性に乏しく、物語に仕立てるのは至難の業である。

(p.134)

 

*1:ちなみに、こういう議論も、政治学倫理学においては真剣に論じられている。私も以前に同種の議論について翻訳して紹介したことがある。

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

熟議民主主義の実践方法について書かれた本の例。

 

熟議民主主義ハンドブック

熟議民主主義ハンドブック

 

 

 

Innovating Democracy: Democratic Theory and Practice After the Deliberative Turn

Innovating Democracy: Democratic Theory and Practice After the Deliberative Turn

 

 

動物に関する文化人類学の議論の有害性について

 

 今回書くことは数年来考えてきたことであり、これまでにもTwitterなどでぶつぶつと文句は言ってきたのだが、まとまった文章を書くタイミングはなかった。

 しかし、先月に文化人類学者の奥野克巳氏(以下敬称略)がアップした「分別と無分別の間で ~動物解放への違和感から考える~」という記事を見てみると、コンパクトな記事ながらも、文化人類学が動物に関する倫理規範や動物の権利運動などについて言及する時にあらわれがちな問題点がぎゅっと詰まっていた。

 ちょうどいい題材だと思ったので、この記事を叩き台にしながら、私の考えを述べさせてもらおう。

 

www.akishobo.com

 

 奥野のこの記事の副題は「動物解放への違和感から考える」であり、文中でも、西洋の反イルカ漁運動や動物の権利運動が取り上げられている。
 そして、動物愛護や動物の権利の歴史について、奥野なりのまとめが書かれている。
 だが、私から見ると、奥野のまとめは動物の権利運動や動物倫理学に対して様々な点でアンフェアなものとなっているのだ。

 

 たとえば、奥野は “今日の” 動物の権利をめぐる理念を参照するとして、 “2001年”に邦訳が出版された『大型類人猿の権利宣言』を取り上げている(原著の出版は1993年だ)。
 そして、「能力の点で私たちに劣る動物」たちを放っておく動物の権利運動には「現段階では奇妙な種差別、捻じれた種差別を抱えこんでいるように思われる」と述べているのだ。
 この文章より前の部分では奥野はシンガーの代表作である『動物の解放』について触れているのだから、シンガーが大型類人猿やイルカなどの "高度な能力" を持った動物たちだけでなく、ウシや豚や鶏などの家畜やマウスやラットなどの実験動物についての倫理的配慮の必要性を論じていることは知っているだろう。
 また、一昔前ならともかく現代のアニマルライツ運動が大半の場面でビーガニズムと結び付いていることは、この問題に少しでも関心を持っていてニュースを追っていたら誰にも気付けることのはずなのだ。
「動物の権利運動は能力主義に基づいてイルカや大型類人猿を優先して他の動物は後回しにする、差別的な発想に基づいた運動だ」というタイプの批判は、奥野に限らず様々な論者が行ってきた。
 だが、少し前なら多少は説得力があったかもしれないその類の批判は、もう時代遅れなものとなっているのだ。

 

 さらに、奥野は『私の恋人』という小説に出てくる登場人物のセリフを引用したのちに、その登場人物のセリフに動物の権利運動の発想を仮託させて、動物の権利運動は「「かわいそう」の中心をどんどん広げていくという発想」に基づいているとしながら、「いつになったら、虫や微生物が全て含まれるようになるのだろうか?」と疑問を呈している。
 だが、少なくとも私がググった限りでは、引用元の小説の著者である上田岳弘氏が動物の権利運動に関わっていたり動物の権利運動に関して造詣が深い、という情報は見つからなかった。
 つまり、奥野が引用しているのは小説家が頭の中に抱いている「動物の権利運動家はこう考えているだろう」という考えを反映したセリフにすぎず、実際の動物の権利運動家の考えを反映している保証は何もないのだ。
 そして、「虫や微生物が含まれない(or後回しにされる)理由」については、「かわいそう」という感情に基づかない論理的な議論によって、すでに様々なところで説明されているのだ。
 動物の権利の理論に関する本はここ数年でも何冊か翻訳が出ているのだから、小説を引用しているヒマがあるならそれらの本でなされている議論を引用して、それに対して正面から反論するべきだろう。
 総じて、奥野による動物の権利運動の紹介は「動物の権利運動は能力差別的であり、かつ感情的だ」という悪印象を読者に与えるためのチェリーピッキングになっているように思われる。

 

 その後の文章では、奥野は先の文章で(歪んだ形で)紹介した動物の権利運動の思想に「西洋」を代表させて、それと対比する形で「東洋」の動物観なり自然観なりを持ち出す。
 そして、「西洋」の自然観は「感覚や知能、理性や感情などの基準によって対象を分別することにより執着を生み出す…アリストテレス的な知」だからダメであり、アニミズムとか禅仏教とかに基づいており「「いま=ここ」に立ち現れている現実として、動物たちが分別される眼前の現実を認める」東洋思想の方がエラい、という風な議論を展開するのである。


 今回取り上げている奥野のこの記事に限らず、既存の動物の権利運動の理論や動物愛護の発想などをアンフェアな形で紹介して、「差別的なものだ」という悪印象を与えてから「西洋的」「近代的」「合理主義的」などのラベルを貼り、それと対比する形で東洋文化なり非西洋諸国の価値観なりを持ち出して後者を賞賛する…というのは、文化人類学比較文化論において動物の権利運動や動物に関する倫理規範が取り上げられる時のテンプレでスタンダードなものになっているように思われる。

 もちろんそうでない形式で議論を行っているものもあるのだろうが、少なくとも私が数年前に院生だった時に「人と動物の人類学」だとか「人と動物の関係学」だとかのタイトルが付けられた文化人類学系の論文集などを読んでいたときには、そんなのばっかりだった記憶がある。それでうんざりしてしまって、 動物に関する文化人類学の議論をフォローするのはすぐに止めてしまったのだ(なので、私のこの紹介の仕方もアンフェアなものである可能性は、大いにある)。


 さて、私はこのテの文章はテンプレ的な東洋-西洋の二項対立論に基づいており、動物の権利運動云々に関する部分に目をつぶっても他の部分で文章としての面白みや啓発性があるわけでもなく、読む価値のないものであると思っている。

 しかし、こういう文章は量産され続けており、それを好んで読む人たちが一定数存在することも事実だ。
 おそらく、「西洋」を否定して「東洋」を賞賛する文章であれば何にでも飛びつくという読者は一定数いるだろう。また、単に文化人類学の議論のファンであり文化人類学者の書いた文章であれば何でも読みたい、という人もいるのかもしれない。
  だが、こういう文章に需要が生じる最大の理由は、やはり「動物の権利運動」を「差別的」だと批判している点にあると思える。このような文章は、倫理学者のゲイリー・シュタイナーが「気分を良くするための倫理」と名付けたものの一種であるからだ。
 以前に私が訳したシュタイナーの文章を引用しよう(シュタイナーが直接に批判の対象としているのは人類学ではなくポストモダン哲学であるが、文化人類学でなされている議論に対しても大いに当てはまる批判である)*1。  

 

…私たちは動物たちにどのような義務を負っているのかということについての明白で定言的な主張を、ポストモダンの思想家たちは行おうとしない。ポストモダンの思想家たちは、私が「気分を良くするための倫理学(feel-good ethics)」と呼んでいるものに安住しているのだ。道徳的な不正義に対する嫌悪を表現することを私たちに許しながら、それ程までに嫌悪している不正義に対抗するための具体的なことは全く要求せず、快適な領域から私たちを押し出さない倫理学…それが「気分を良くするための倫理学」だ。ポストモダニズムはレトリックとして魅力的になるほど道徳的に無力となる。 

 

 

 シュタイナーの言うところの「気分を良くするための倫理」のメカニズムについて、奥野の文章を例にとりながら具体的に説明してみよう。

 

 動物倫理学の議論では、「肉食は行うべきでない」「動物実験は制限されるべきだ」「毛皮製品を着用することを認める倫理的根拠は一切ない」などなど、既存の慣習や社会制度や個人の行動に対して制限や禁止を要求する結論になることが多い。
 これらの結論に賛同して、実際に肉食や毛皮の着用を止めたり、動物実験に反対する運動に参加する人は一定数存在する。
 だが、改めて言うまでもなく、大半の人には「肉食を止めたくない」という気持ちがあるだろう。「動物実験を続けてほしい」「毛皮製品を着用し続けたい」などと思う人も多いはずだ。
 そして、倫理学の議論を読んだり聞いたりしたからと言ってなんらかの強制力が発生する訳ではない。だから、動物倫理の議論に触れた後でも、肉食などの習慣を変えることなくこれまで通りの生活を続けることも現実的には可能だ。
 だが、習慣や行動は変えないとしても、「自分のやっていることには倫理的に問題がある」「自分が容認している社会習慣は非倫理的である」という批判を心のうちに抱き続けると、大半の人には罪悪感が生じてしまうものである。

 そのため、「間違っているのは動物の権利運動や動物倫理学の側であり、自分たちは間違っていない。罪悪感を抱くことなくこれまでの慣習を続けてよいのだし、むしろ動物の権利運動や動物倫理学の方がその差別性を批判されるべきなのだ」ということをお墨付きしてくれる議論が提供されたら、多くの人はそれに飛び付いてしまうのだ。…そして、私には、奥野の文章もそのような議論の一例であるように思える。
 また、「動物たちが分別される眼前の現実を認める」などなどと大層なことは書いているが、「実際には動物に対して何をすればいいか」「具体的にはどういうことをすればいいのか」、ということを全く示さないのも、奥野の文章のポイントだ。 

 つまり、「西洋」のものよりも優れているとされる「東洋」の思想を示すことで「西洋」の思想を批判しつつ、「東洋」の思想がもたらす義務や要求する行為などについてはまったく示さないのである。これにより、読者は「倫理的な思考を行っている気分」や「動物と真剣に向き合っている感覚」を得られながらも、「自分の習慣を変えるべきだ」という倫理的要求や自分の属する社会に対する批判などの自分にとって不都合で不快感を与える要素を回避することができてしまうのだ。 …と、これこそが「気分を良くするための倫理」のメカニズムなのである。

 

 現在の社会では「種差別」という概念はあくまで動物倫理学や動物の権利運動とその周辺でしか理解されておらず、社会的な認知度を得ていない  。

 だから、動物は文化人類学者たちやポストモダン哲学者たちによる気軽な思考遊戯の題材として取り上げられやすい。そして、種差別を批判する理論や運動に攻撃を行うことも、大したリスクにならないのである。
 しかし、これがもし人種差別や性差別に関する議論であったなら、文化人類学者やポストモダン哲学者であっても気軽に扱うことは難しいはずだ。  

 ある慣習や社会制度を差別であると告発する理論や運動を無力化し、人々の罪悪感を解消して現状維持でよしとさせるような議論を行うことには、「差別に加担している」と批判されるリスクが存在するからである。


 だとすれば、一見すると挑発的で革新的なもののように思える人類学やポストモダン哲学の議論も、実のところは、「動物のことや動物の権利運動のことに関しては、どのような議論を行っても抗議されたり炎上になったりしない」という安心感に立脚した、既存の社会規範の枠内で行われる言葉遊びに過ぎないのかもしれない。 …そして、動物はその言葉遊びのおもちゃにされてしまうだけではない。動物倫理学や動物の権利運動が毀損されるということは、苦痛を与えられたり殺されたりする動物の状況を改善するために実際に行われている社会運動を妨害することである。その結果として、動物たちに対していま現実に与えられている危害が放置されてしまうのだ。これこそが、動物に関する文化人類学(あとポストモダン哲学)の議論が有害たるゆえんである。

 

 

大型類人猿の権利宣言

大型類人猿の権利宣言

 

 

義務論と帰結主義のすれ違い?

倫理学入門」的なタイトルが付けられた本や授業では、規範倫理について紹介する際には、「倫理学の代表的な理論としては帰結主義功利主義)と義務論がありまして、この二つの理論は対立するものとして見られておりますが、また別の角度から道徳を論じるのが徳倫理であって…」という風に導入するのがテンプレートになっているようである。 

 このように帰結主義・義務論・徳倫理(・その他)という風に理論を並べて紹介することに有効性を感じていない人も多いらしく、倫理学者たちも各自それぞれに思うところがあるようだ。 

 しかし、ネットにおける人々の議論とか意見の対立を眺めていると、「義務論 vs 帰結主義」というテンプレ的な図式も、意外と人々同士の実際の意見の対立をうまく抽象化したものである…と、ふと思い立ったので書いてみる。かなり直感的な文章になるので、ぜんぜん的外れかもしれないが。


 たとえば、学校において生徒たちに「制服」の着用を義務付けることに関する議論について、考えてみよう。制服について反対する人たちの多くは、「制服というものは強制を課して生徒たちの自由を制限するものである」「制服を着せることで生徒たちの個性を抑圧して、画一的な社会規範に無理矢理に同調させるものだ」という風な議論を行うことが多い。

 それに対して、制服を擁護する人たちからは、「制服が決まっていることで服装で互いを判断することがなくなり、お洒落な服を見せ合うという競争が起こらず、経済的に豊かでなくお洒落で高価な服を買えない家庭の子供たちの自尊心が傷つかずに済む」という反論がされることが多いようだ。また、「同じ制服を着ることが連帯感や安心感を生み出して、集団を安定化させて個々人の勉学や運動におけるパフォーマンスを上げることは実証されている」といった主張がなされることもある。

 私が見たところ、新聞にコラムを書いたり雑誌にエッセイを書いたりするような文化人や文筆家は、制服について「反対」の議論を行うことが多い。そして、ネット世論の多くは制服について「賛成」の議論を行うことが多いようだ。そのなかには自分の学生生活において「制服があって助かった」という実感があるから賛成している人もいれば、制服反対論を唱えている人がスノッブに見えて逆張り的に反論を行っている人もいるようである。  
 しかし、「制服反対論」への反論としてなされる「制服擁護論」は、大半の場合、「反対論」を唱えている人たちが問題視していることをつかみ損ねているように思える。

  制服反対論を唱えている人たちは、制服が個人の「自由」や「個性」を抑圧することを批判する。これらは、「自律」や「人格」などのより義務論っぽいワードに置き換えることもできるだろう。 

 他方で、制服を擁護する人たちは、制服があることによって「自尊心が傷付けられる人が出ることが防げる」という「危害の予防」や、「パフォーマンスが上がる」という「メリット」を強調する。私から見ると、これは帰結主義的な議論のように思える。
 義務論的な「自律」や「人格」を重視している人は、それを「危害」や「メリット」などとは別の次元にあるものだと考えていることが多い。つまり、「制服を着せることには全体としてメリットがある」と擁護しようとしても、メリットのためにそれよりも大切な自律や人格を傷付けるなら本末転倒である、ということだ。この場合、帰結主義的な制服擁護論は、義務論的な制服反対論にはそもそも通じないのである。 


 制服に関する議論のほか、ネットではとりわけ炎上しやすい「萌え絵」や「ポルノ」に関する議論も、義務論と帰結主義の対立という風に捉えることができるように見える。 

   そもそも、萌え絵やポルノなどの女性表象に関しては様々な批判的な意見が存在しており、その主張の強さも「そのような表象が存在すること自体が女性差別だ」から「公の場には出さずに、ゾーニングを徹底するべきだ」までと、様々である。
 また、そのような主張がなぜ「悪い」かということについての主張も様々だ。「そのような表象が存在することで男性が女性をモノ扱いする傾向が助長されて、実際の女性に対する性暴力が助長される」というタイプの帰結主義的な主張もあれば、「女性をモノ化する表現を行うことそのものが、女性全体の人格を侮辱したり尊厳を損なう行為である」というタイプの義務論的な主張もあるように思える。  
 そして、萌え絵やポルノを擁護する議論を行う人は、前者の帰結主義的な主張を取り上げて、「実際には、萌え絵やポルノが制限されていない社会ほど女性に対する性暴力は少なくなる」というデータを示すことで、反論を行うことが多い。相手が帰結主義的な主張をしているのであれば、この反論は有効である。 

 だが、萌え絵やポルノに反対する人の多くは、実際には義務論的な考え…つまり、実際の女性に対する性暴力につながるかどうかは関係なく、そのような女性表象は女性の人格や尊厳を貶めるものである、という考えを抱いていることが多いように思われる。

 そして、実際の性暴力につながる云々の帰結主義的な主張は、後付けの理屈として採用されていることが多いように思われるのだ。つまり、帰結主義的な主張は、萌え絵やポルノに反対する議論の中核ではない。

 一方で、萌え絵やポルノを擁護する人は義務論的な考えよりも帰結主義的な考えを重視しており、 そのために帰結主義的な主張にさえ反論すればそれで萌え絵やポルノへの反対論全体を「論破」できると思ってしまいがちなのだ。
(ただし、萌え絵やポルノを擁護する人であっても、原理的な「表現の自由」主義者であれば義務論的な考え方になるかもしれない。しかし、感覚的な物言いになってしまうが、 女性の人格や尊厳などを気にかける人々に比べて表現の自由を気にかける人々には自分が絶対だとしている対象に対する「本気さ」が欠けており、戦略的に主義を採用しているだけという感じがつきまとう)。

 

「人の生命」などのタブー視されている話題を除けば、現代の社会では多くの人々は「絶対とされる価値」よりも「メリット/デメリット」の物差しで測ることに慣れているだろうから、何らかのテーマについて義務論的な考え方をしている人の主張がうまく理解できないことが多いのだと思う。

 また、理論的にも、帰結主義の方が明晰で論理的であり、大概の場合は義務論よりも優れた主張を展開することができる。 

 そして、私自身も、基本的には帰結主義者でありたいと思っている。

 

 …とはいえ、義務論系の本をいくつか読んだり、社会に出て労働することを通じて"目的ではなく手段として扱われる"羽目になったりモノ扱いされたりするうちに「メリット/デメリットや危害などの物差しでは測れない本質的な価値がある」という主張も感覚的には理解できるようになってきた。

 様々なテーマについて多くの人が義務論的な考え方をしていることを理解すること、それに対して帰結主義的な反論を行ってばかりでは本質的な議論にはなっていないということ、などなどを理解することは重要であると思う。 

 

 

道徳形而上学の基礎づけ (光文社古典新訳文庫)

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