道徳的動物日記

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やっぱり恋愛には"能力"が必要だよね(読書メモ:『性の倫理学』)

 

 

 基本的にはあまり面白くもなく、参考にもならない本だ。

 日本の応用倫理というものは古びるのが異様に早くて、90年代やゼロ年代の前半に出た本はもう使いものにならない場合がある。このシリーズを監修している加藤尚武の応用倫理の本も、いまとなってはキツいことが多い。ここでいう「古さ」とは理論や学説の古さではなくて、感性の古さである。現在の人々が規範的な問題を扱うときに発揮されるような慎重さや目配りや配慮というものが、一昔前の本にはまったく欠けていたりするのだ。

 また、この本は「倫理学」の本でありながらも、土台となる発想がフロイトラカンなどの精神分析であるところがよくない。人間の思想や行動についての精神分析の説明が正しいとは限らない……というか、精神分析は間違っていると考える人の方が現代ではもはや多数派であるだろう……から、それを前提としたうえで規範に関する議論をされても、前提が正しいかどうかわからないのだから受け入れることが難しくなってしまうのだ。

 

 とは言いながらも、この本にはいくつかの明確な利点がある。

 そのひとつは、「性行為」や「恋愛」という、わたしたちの多くが日頃から悩んでいる問題について、真正面から取り上げているところだ。

 

性という主題が倫理学にとってやっかいなのは、次の二つの理由による。一つは、性行為においては、主体と対象の関係という枠組みで考察できないということである。性行為は人間と人間の営みであり、それぞれが主体であり、かつ相手にとっての対象でもある。この複雑さは、他に例をみないほどの特殊な複雑さだ。これが、パイの分け方ならば、パイが対象で、パイを獲得しようとする人間たちが主体である。ゲームのルール作りならば、勝敗(とその帰結)が対象で、プレイヤーである人間たちが主体である。ところが、性行為においては、人間たちが主体であり対象である。

(……中略……)

性という主題が倫理学にとって扱いにくいもう一つの理由は、性的快感という特殊な快感が問われてくるということである。哲学は伝統的に性行為を人間の動物的本能に関連付けて、いかに動物的本能を理性で制御するかという発想を採用してきた。しかし、性的快感は、本能だけでは語れない。これは、「猥褻か芸術か」という議論について考察してみればすぐにわかることだ。もしも性が単に動物的本能にすぎないならば、エロチシズムと芸術の関係をどう説明するのか。聖書や神話に題材をとったエロチックな作品のことを、どう評価するのか。

(p.2 - 3)

 

 しかし、性の問題は倫理学からすれば扱いにくい題材だとしても、一般の人々からすれば、性や愛に関してこそ倫理的な悩みが発生するものだ。

 社会や政治に関する問題と縁がなく、そういうことを考えずに日々を過ごす人はいまだに多数派であるだろう。社会人になったら、就いている職業によっては倫理的ジレンマに直面するかもしれないが、そのようなジレンマが発生しない職業もたくさんある。友人や家族との関係についても、善や悪の問題が関わってくるような悩みが発生することは珍しいかもしれない。……それらに比べると、性や愛に関する道徳的な悩みは、多くの人にとって身近なものだ。なんのかんの言っても性愛関係は家族関係や友人関係とは一線を画すところがあり、他のことでは悩まないような人でも、「好きな人を傷付ける/傷付けられた」とか「恋人に嘘を吐く/嘘を吐かれた」といったことについては深刻に悩んでしまう場合があったりするものである。

 

 しかし、「性の倫理学」やそれに類するタイトルが付けられた論文集やアンソロジーみたいな本は日本でもいくつか出版されているが、それらを手にとってみても、LGBTに関する話題やフェティシズムに関する話題、あるいは性暴力や性差別などのシリアスな社会問題に関する文章ばかりであることが大半だ。なぜか、ヘテロセクシュアルで【ノーマル】で、とくに暴力的でも差別的でもない人々のセックスや恋愛における倫理的な悩みに関する考察が不在である場合が多いのである。現代における性や愛に関する倫理学的な言説空間では、マジョリティの悩みという【真ん中】が、ドーナツみたいに空洞となっているのだ。

 

 それに比べて、この本では、恋に関する問題がそれなりに真剣に取り上げられている。

 以下のような文章は、人によっては凡庸に感じられるかもしれないが、含蓄がなくもないだろう。

 

このように死は重く深遠なテーマであるのだが、恋愛にも死という契機が含まれていないだろうか。そう、告白である。「好きです」と告白して受け入られたならば、昨日までの恋わずらいは跡形もなく消えて、生命のすべてが燃え立つような気がするだろう。逆にふられたならば、自分の存在のすべてを失うような気がするだろう。もちろん失恋したからといって、心臓が止まるわけではない。しかし、失恋から立ち直るのは、もう一度生き直すに等しいことではないか。恋愛には生と死の振幅が含まれている。

(p.27)

 

恋に破れた人の傷心はどのようにして癒されるのか。ここには、振る人と振られる人とがいる。この不均衡はどうしようもない。ふつうの人間関係であれば、「私にとってもっとも大切なのは私自身である、相手にとってもそうであろう、だから相手のことも私は尊重しよう」という具合に、自己愛の置き換えとでもいうやり方で相互尊重への道が開ける。

しかし、恋の場合は自我リビドーは対象へと出払っているので、自己愛の置き換えというやり方は使えない。「お互い、相手を人格として尊重する恋をしましょうね」とう教えがウソくさいのは、「人格」という概念がそもそもふっとんでいるのが恋だからである。恋する側と恋される側とでは、心の余裕が違うのである。

(p. 88 - 89)

 

 また、この本のなかでは恋愛とは「駆け引き」の要素を伴うものであり、「人間関係のスキル」が必要とされることが前提となっている。

 

恋愛術の基本は、相手を「落とす」ことである。お目当の人にいかに接近するのか、いかに間合いを詰めるか。「落とす」テクニックは、ハンティングの用語で語られる。また、「落とす」という言葉は、守りの堅固な要塞や城を攻略して攻め落とすことのようでもある。

(p.90)

 

駆け引きには失敗がつきものであるし、自分が狩られる場合には逃げやかわしのテクニックも必要である。「落とす」テクニックというと特殊な技術のようだが、よく考えてみたら、人間関係全般に通じるスキルの延長線上にあるのではないだろうか。

(……中略……)

いわゆるモテない人というのは、もしかしたら、こういう人間関係全般に通じるスキルが発展途上にあるのかもしれない(念のために言い添えると、人間関係全般に通じるスキルが調和よく身に付いている人などあり得ない。誰もが程度の差はあれ不調和であり不十分なのだ)。

私たちは人間関係のスキルを、親戚づきあいやご近所とのつきあいや、学校や職場での経験などから「なんとなく」身につけていくか、恋愛の場合には、それまでに身につけてきた人間関係のスキルが、いわば人生最大級の試練に遭遇するのである。

(p.94)

 

そして、仕上げとなるのは、相手の気持ちや考えていることを読み取るスキルであろう。言葉に出して言う以外にも、顔色や態度によるメッセージがある。それを読み取ることは大変難しいことだと思う。文化が違えば表情やジェスチャーの意味を読み取ることは困難になる。同じ文化のもとでも、こういう読み取りのスキルには個人差が大きい。読み取りのスキルが低いと、「気が利かない」と思われたり、誤解されて不必要に相手を傷つけてしまったりする。

(p.98)

 

 さらには、著者は「恋愛術の核心には確かに既存のジェンダーを参考にするという方針がある」(p.99)と認めている。男性が女性に対してアピールできる魅力は「男らしさ」に、女性が男性に対してアピールできる魅力が「女らしさ」にあるということも、ある程度のところまでは前提とされているのだ。……とはいえ、著者はフェミニズム系の人であるようなので「男らしさ/女らしさ」を全肯定するわけではないし、「そこにだけ目を付けていると、作戦としては成功しても、ジェンダー差別を再生産して、男女ともに、かえって自分の首を絞めてしまう」(p.99)ことにも留意している。しかし、現実の男女は相手に対して互いに「らしさ」を求めているということは、否定されていないのだ。

 

 結局のところ、この本のなかでは"「男らしい男」とは、「女にとっての望ましい男」というよりは「男たちから認められ、羨ましがられる男」である"(p.102)としたうえで、房術について書かれた章では"もしも女性からも奉仕して欲しいならば、まず女性に奉仕しなければならない"(p.108)とされるのだが。

 

 また、以下の引用部分も、最近のアカデミックなフェミニズムではなかなか見かけないような言説であるだろう。

 

努力不足。こういう言い方をされたら、男性は次のように答えるかもしれない。「じゃあ、どうしたらいいんだよ。言ってくれ。言うとおりにするから」。これは、家事分担の話し合いで夫たちが口にする台詞とそっくりである。いちいち事細かに言われなくても、何をすべきか自分で考えることが当事者の自覚というものではないか。指示さえしてくれたら履行するというのでは、まるで自分が当事者ではないみたいである。

それに、セックスの場合には、ここをこうしてああしてと、指示したことをしてもらって快感を得るものだろうか。女性の体は自動販売機ではない。お金を入れてボタンを押したら缶ジュースが出てくるような具合にはいかない。それに、ここにはプレゼントの心理とも言うべきものがある。「欲しいものを言ってくれたら、それを買ってくる」なんて、子どものお使いじゃあるまいし、そんなプレゼントが嬉しいだろうか(物にもよるが)。プレゼントというのは、気に入ってくれるかと悩みながら選んでくれたから、嬉しいのである。セックスにおける女性の喜びが「三の三倍」になるためには、「私も知らない私の気持ちよくなることをして欲しい」というプレゼントの心理に答える努力が必要である。

(p.67)

 

 この箇所はとくにネット上で弱者男性論者やミソジニストが仮想敵とするような「女性の側に都合のいいことだけを言って、男性にのみ要求をおこない責任を課そうとしてくるフェミニスト」のイメージそのまんまであり、反感の対象となるところだろう。

 また、現代の(アカデミック寄りの)フェミニストの多くも、上記のような主張には眉をひそめると思う。著者の主張には、「セックスにおいては女性は受動的な存在である」というステレオタイプを肯定して補強する危険性が含まれている。さらに、「言葉で確認すればいいものではない」という主張は、口頭での明示的な合意のないセックスは性暴力であるという昨今の考え方とは相反するところがあるはずだ。

 

 ついでに言うと、第4章で行われる男性の性欲に関する著者の分析はかなり的外れである。「マザコン男性」はダメだと言いきったり「男は犬であるという仮説を立ててみよう」と言いだしたりするところも、いかにも昔ながらの雑で無神経なフェミニズムという感じだ。最近のアカデミックなフェミニストたちは、対象が男性であっても、こういう無神経な言い方はしないものだろう*1

 

 とはいえ、この本で展開されているような素朴で雑なフェミニズムが間違っていて、最近のアカデミズムにおける洗練されていて気配りの届いたフェミニズムが正しいかというと、それはまた別の問題だ。近年のフェミニズムジェンダー論は、想定される弱者やマイノリティや被害の問題について気配りを行い八方美人的な主張を行うことに腐心するあまり、現実の場面における行動の指針となったり問題を解決したりするようなプラグマティックな主張を展開することからはどんどん遠ざかっている印象がある*2

 

 ところで、「恋愛やセックスには駆け引きをしたり相手の要求を察知したりするためのスキルや能力が必要とされる」という考えてみれば当たり前の言説は、近年では、フェミニズムや左派の側からも弱者男性論者やミソジニストの側からも、両側から嫌われるようになっている。

 サンデル教授の『実力も運のうち』が爆売れしている事実が示すように、現代では「能力主義」は資本主義と並んでみんなから憎まれて否定される対象となっているために、【議論】においては、とりあえず能力主義や資本主義を否定しておけば有利なポジションに立つことができる*3。そういう意味では、昨今のフェミニストたちが「フェミニズム新自由主義化」を嘆くことも、インターネット論客やブロガーの人たちが「現代の恋愛は能力主義に裏打ちされたものだ」とことさらに主張することも、賢しらさという点では変わりないように思える。

 しかし、いくら【議論】においては有利な主張であっても、それにプラグマティックな価値があるとは限らない。イデオロギーがどうであろうと、実際問題として、ふつうの男女の恋愛においては「らしさ」が多かれ少なかれ求められるものであるし、能力やスキルが必要とされるものだ*4。男性であっても女性であっても、若い子たちにはまず『性の倫理学』くらいに素朴な主張が展開されている本を与えてあげたほうが、本人たちの人生にとっては有意義であるかもしれない。

 

 

*1:だからと言って昨今のフェミニズムにおける男性に関する分析が正しいかというと、わたしはまったく的外れなものであると判断しているのだが、それについては別のところで書いた。

*2:これはフェミニズムに限らず、左派やアイデンティ・スタディーズ系の人たちによる規範的な主張の全般に見られる傾向でもある。

davitrice.hatenadiary.jp

*3:この風潮に対するわたしの意見を展開した記事はこちら。

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*4:セックスの際には男性の側が積極的に奉仕することも、まあだいたいの場合においては男女の双方にとってプラスになるだろうから、それを要求することは筋の悪い主張ではない。

「愛のあるセックス」はなぜ必要か(読書メモ:『性と愛の脳科学』)

 

 

 この本の概要については先日の記事でさくっと触れているので、いきなり本題から*1

 

 この本でまず面白かったのが、第4章から第6章にかけて、女性と男性が異性に対してそれぞれに抱く愛情の質の違いを分析するところだ。

 

 第4章の「母性を生む回路」では、自分が産んだ子供を世話したいと母親が思う感情、つまり「母性愛」の存在が脳科学の観点から説明される。端的にいえば、母性愛とはプロラクチンとオキシトシンというホルモンによって引き起こされる。オキシトシンが母親に与える影響の具体例は、以下のようなものである。

 

人の母親が赤ん坊を胸に抱いてやる時、母親は赤ん坊の顔と目を見つめ、赤ん坊もしばしば、母親の顔を見つめ返す。母親は赤ん坊の泣き声や、赤ん坊の声に耳を傾け、自分からも声をかけてやる。絶えず赤ん坊に触れ、髪を撫でてやり、抱きしめてやる。いくつかの研究では、血中オキシトシン濃度が高いほど、女性はこうした行動をとりやすい傾向があると示されている。赤ん坊からの信号が、母ヒツジの嗅球〔嗅覚情報を処理する脳領域〕から届くのか、人の母親の目や耳から届くのかという違いはあれ、脳にオキシトシンが流れこむことにより、扁桃体がこうした信号を受け取る準備は進む。母親にとって、赤ん坊からの信号は非常に目立つものになり、情動的な感覚と結びつくようになる。こうしたわけで、自分自身の赤ん坊に触れた母親の扁桃体は、特別な形で活性化されるのである。

ヒトとヒツジの母親も、ラットと同様に、赤ん坊の世話をする時に脳内報酬を受け取っており、そこには、ドーパミンによる同じ報酬系がかかわっている。母親は自分の赤ん坊の外見、におい、声を感じ取り、その感覚情報と、感情と、報酬を結びつける。この時、理性を司る前頭前皮質は口をふさがれてしまう。これらすべてが、母親の子育て意欲を高めるのだ。子育ては気持ち良い。それが自分の子ならなおさらだ。この報酬の効果により、新しく母親になった女性は子育てへの欲求を抑えられなくなる。

(p.164 - 165)

 

 そして、第5章の「私のベイビー」では、女性が男性に対して感じる愛情もまたオキシトシンが大きな部分を占めること、つまり女性からの男性に対する愛情は赤ん坊に対する愛情と類似したものであるということが論じられるのだ。

 著者たちによると、メスのプレーリーハタネズミや人間の女性がセックスをする際にはオピオイドドーパミン、そしてオキシトシンという三種類のホルモンがもたらされる。「愛」とは、これらのホルモンが組み合わさることで起動するものだ。

 オピオイドはセックスの「気持ちよさ」そのものをもたらして、ドーパミンは「この人とセックスをしたら気持ちよくなるんだ」という学習を助ける。そして、オキシトシンは母性をもたらしたり他者への働きかけを促進するだけでなく、「社会的記憶」の形成とも関わっているホルモンだ。オキシトシンは、目の前にいる相手はほかの他人たちとは違って自分と関わりを持つ存在であるということを分別したうえで、その相手と関わりたいという意欲を生じさせる。セックスの際にオキシトシンが放出されることは、自分が「気持ち良い」と思った時に目の前にいる相手に対して、「強力で際立った、情緒を伴う記憶」(p.221)を生じさせることにつながるのだ。著者たちによると、一夫一妻制を実行するプレーリーハタネズミや人間における夫婦間の「絆」とは、このオキシトシンの作用によって形成されるものである。

 そして、人間の身体は、自分がオキシトシンを放出して相手に対して愛着を抱くためだけでなく、相手のオキシトシンを放出させて自分に対して愛着を抱かせる……つまり、相手のなかにある「愛」の回路を利用することができるようになるためにも進化してきた。

 たとえば、人間のオスが霊長類最大のペニスを持っている理由には諸説あるが、著者らの仮説は以下のようなものである。

 

ラリーは、ヒトのペニスが、女性のヴァギナと子宮頸部を刺激する道具として進化し、それにより、女性の脳内にオキシトシンが放出されるのだと考えている。ペニスが大きいほど、性交中にオキシトシンの波を引き起こすのに効果的だというわけだ。オキシトシンの奔流は、女性が抱きうる懸念や不安を和らげ、愛する人の情動的、社会的な手がかりを受け入れやすくする。彼女は彼の顔や目に引きこまれ、その情動的な状況を扁桃体に強く刻みこむ。おそらくは、ドーパミンオピオイドが放出されているのだろう。彼女が、別の場面であれば相手を当惑させてしまうような形で、愛する人の顔をじっと見つめている間、彼女は喜びを感じ、その感覚を、母親が赤ん坊に対してするやりかたで、特別に彼と結びつける。ヒツジ飼いがメスのヒツジを手で刺激して、養子をとらせたことに比べると、これははるかにずっとエロティックで快い話だ。しかし、両者のしくみはほとんど同じなのである。

(p.237 -238)

 

  また、男性が女性の胸に惹かれて、行為の最中には相手の胸を揉んだり乳首をいじったりしたがることも、オキシトシンと関係している。赤ん坊が母親の胸を触って吸うことは母親の脳内にオキシトシンを放出させて、赤ん坊に対する母親の愛を惹きおこす。本来は母子関係の絆を形成するために成立してきたこの機能は、男女間の愛を形成するためにも利用することができる。つまり、わたしたち男性は、女性に自分のことを赤ん坊のように愛させるために、彼女たちの胸に対する執着を進化させてきたのだ。

 なお、オキシトシンの観点からいえば正常位がベストであることも、著者らは示唆している。なにしろ胸が揉みやすいうえに、互いの目を見つめあいながら行為することになるので、絆が形成しやすくなるのだ。

 

 女性から男性への愛を特徴付けるホルモンが「母性ホルモン」とも呼ばれるオキシトシンであるのに対して、男性から女性への愛を特徴づけるホルモンは、「なわばりホルモン」とも呼ばれるヴァソプレッシンである。男性はヴァソプレッシンによって自分のテリトリーに対する執着を強くさせられて、部外者に対する攻撃性を高めさせられて、テリトリーを守るためにはだれかと戦って怪我することも厭わなくさせられる。

 そして、セックスの際にヴァソプレッシンが放出されることで、男性は自分の恋人のことも自分のテリトリーであるかのように扱うようになるのだ。

  ある実験では、ヴァソプレッシンを投与された男性は、ほかの男性たちの表情から彼らの感情を判断するのが苦手になった。一方で、ヴァソプレッシンを投与された男性でも女性の感情は問題なく判断できていたし、また女性はほかの女性たちについても男性たちについても感情を判断することができたのだ。

 

ヴァソプレッシンはネガティヴな顔を思い出すのに役立つかもしれないが、もし、誰かと戦わなければならない可能性がある場合、例えば、パートナーやなわばりを守っている時には、相手の正確な感情を気にし過ぎないことが一番だ。同情し過ぎれば、自分の命が奪われかねない。ハタネズミでも、サルでも、ヒトでもだ。

そこから導き出される結論は、私たちを少々不安にさせる。男性にとって、セックス、愛、そして攻撃性は、脳内で密接に絡み合っているということだ。ラリーの説に照らし合わせれば、なわばりやパートナーの防衛行動におけるヴァソプレッシンの役割をヒトが改変し、男性の脳内で、女性がなわばりの延長となったという話は、理にかなっている。もしラリーが正しければ、男性はパートナーと強い絆を結び、彼女を守るために攻撃的になる、というのもありうる話だ。

(p.281)

  

 

 また、第3章の「欲求の力」では、フェティシズムについても脳とホルモンの観点から分析されている。男性にせよ女性にせよ、自慰や性交によって快感を得たら、関連する物事が「先行条件」として設定される。それにより、本来は性的でない物事に対しても、それを目にしたり匂いを嗅いだりすることで性的興奮が得られるようになるのだ。その先行条件の影響力が強くなり過ぎた場合には、それなしでは興奮することもできなくなってしまう。著者らは、メスやオスのラットたちに絵筆やジャケットなどの物品に対するフェティシズムを意図的に植え付ける実験を紹介したうえで、人間のフェティシズムはラットのそれと変わらないことを示唆している。

 黒い下着やブーツにフェチを抱く男性にせよ、ロープで縛られたりムチで叩かれたりすることにフェチを抱く女性にせよ、それらの物品や行動とセックスによって得られる快感という「報酬」を学習行動によって関連付けさせているのだ。

 さらに、特定のパートナーに対して愛着を抱くことも、その原理はフェティシズムと同じである、と著者らは説く。

 

例えば、あなたが、ボブという男性とのセックスで、二、三回オーガズムに達したとしよう。それらは、事後の笑顔と優しいキスを伴う、素敵な経験だった。進化的な観点からいえば、あなたが子供を作るためにボブは必須の存在というわけではない。相手は、ロドリーゴであっても構わないのだ。だが、今やあなたの欲求は、単にセックスをしたり、絶頂を味わったりするところに向いているわけではない。その欲求は、ロドリーゴではなく、特にボブとの間で経験するオーガズムに向けられているのである。ボブを好むあなたは、ロドリーゴを避けてしまう。ボブはあなたの扁桃体の中に根づいている。あなたは、パートナーとしてのボブに対する選好性をもっている。あなたはボブに対するフェティシストになったのだ。

ジャケット・フェチに何の進化的意義もないように(本物のジャケット・フェチは、ジャケットなしではセックスができなくなってしまう)、ボブ・フェチにも意味はない。どちらも、「繁殖の面で非効率的」なのだ。しかし、ジャケット・フェチのラットにジャケットを与えれば、彼らのセックスはそれでうまくいく。あなたにボブを与えれば、あなたもまた、うまくいく。あなたは恋に落ち始めているのだ。

(p.145 - 146)

 

 この本で繰り返し強調されるのは、人間はプレーリーハタネズミと同様に一夫一妻制の志向をもっており、特定のパートナーとの絆を求める生き物である、ということだ。わたしたちはたしかにセックスから快感(オピオイド)を得られるし、それを求めてセックスをするが、セックスから得られるのはそれだけではない。セックスによって放出されるオキシトシンやヴァソプレッシン、それによって形成される「愛」も、わたしたちは必要としている。

 

 とはいえ、第7章の「恋愛中毒」では、「愛」とは薬物に類似したものであるということも論じられている。パートナーとの絆の形成には意欲に関するホルモンであるドーパミンも作用するが、このドーパミンは、薬物乱用を引き起こす原因ともなっている。著者らは、薬物中毒者たちが薬物に対して抱く感情は、わたしたちがパートナーに対して抱く感情と酷似していることを指摘する(中毒者たちは、薬物に「恋い焦がれる」のだ)。そして、パートナーと離別したりパートナーを亡くしたりした人が経験する感情は、薬物の切れた依存者が経験する感情と同様であるとも論じられているのだ。

  パートナーと絆を形成することは「ライフルに弾を込める」ことでもある。ストレス物質であるコルチコトロピンの放出因度は、パートナーを持っていなハタネズミに比べて、パートナーから引き離されて落ち込んでいるハタネズミとパートナーが側にいて幸せに暮らしているハタネズミとの両方で、急増する。絆を形成すること自体がコルチコトロピンを放出する原因となるのだ。とはいえ、ストレス物質が増えることと、ストレスにかかわる回路が発火することは同一ではない。パートナーがいるハタネズミは、そのパートナーを見失ったときには多大なストレス応答を引き起こされることになるが、パートナーが側にいる限りはストレス物質は鎮静しているのである。

 

ひと度、家に戻れば、別れによってもたらされた不安を和らげるために、オキシトシンが一役買ってくれるかもしれない。ライフルは火を噴くのをやめ、ストレス応答系は平常時の状態に戻る。

ヒトにとって、恋に落ちるのは頭に銃を突きつけるようなものだ。あなたは恋愛関係に誘いこまれ、その楽しみを満喫し、だがしかし、時が経てばその喜びは薄れ、強迫衝動がそれに取って代わる。

「そう、ある人が、初めは恋愛関係で素晴らしい感覚を覚えるという場面に、よく似ています。コルチコトロピン放出因子はおとなしくしていて、ドーパミンによる報酬系がその場を仕切っています」とボッシュは言う。「良い気持ちです。すべてが最高。すべてが素晴らしい。そしてしばらく経つと、自然のしくみが、パートナーとまだ一緒にいたいかと、あなたに確認するのです。パートナーの下を去るとすぐに、あなたはこのしくみによって嫌な気持ちになります。これが、起きていることの全体像というわけです」。

それはつまり、ハタネズミが巣に戻るのは、彼らが自分のパートナーと一緒にいたいという、前向きな意欲をもち続けているーー「好き」の状態にあるーーからだというのか、それとも、別離による苦しみを止めたいーー「必要だ」の状態にあるーーからだというのか。私たちはボッシュの考えを聞いてみた。

苦しみを止めたいから、と彼は答えた。

「私たちにも、この標準状態があるんですよ、その『標準』が何であるかはともかくとして。その嫌な気持ちが、あなたを家に戻らせるんです」

(p. 317 -318)

 

 とはいえ、弾を込めたライフルを自分に向けることには、「パートナーと家庭を築いて一緒に子供を育てること」など、長期的な幸福を得られる道から自分がはみ出すのを防ぐという利点もある。また、パートナーに会えない状態が苦しみと感じられることで、彼や彼女と再会してセックスする際の快感は増大することになるのだ。このために、同じ相手と毎日するセックスや、ゆきずりの相手とたまにするセックスに比べて、遠距離恋愛のパートナーとたまにするセックスはずっと気持ちのいいものとなる(らしい)。

 

しかし、いざパートナーと別れてライフルの弾が発射されてしまうと、発火したストレス回路の影響力は深刻なものとなる。恋人を失った人は、自殺すらしかねない。また、パートナーと別れた直後の人が仕事に集中できなくなって、相手の痕跡(残された髪の毛やメモ、相手と一緒に行った場所や一緒に食べた料理など)に敏感になることは、薬物を禁止された中毒者の反応とそっくりであるのだ。ついでに言うと、いちど禁断症状から脱出できた人がわずかなきっかけで再び薬物にハマってしまうのと、いちど別れたカップルのやけぼっくいに火がつくのも同じようなメカニズムである。

 なお、失恋によって受けるダメージは、一般的には男性のほうが大きい。女性は他の女性から感情的・社会的なサポートを受けやすいのに対して、恋人のいる男性は、自分の感情リソースのすべてを恋人に対して突っこんでしまう傾向があるからだ。逆に言うと、女性はパートナー以外の相手にも親愛の情を抱くために、男性に比べて傷付く頻度は高くなる。

 

メスは薬物の報酬や、薬物を摂取した場所についての選好性が強くなりやすいようだった。ボッシュの実験では、オスの仲間と引き離されたオスたちは、その別れを悲しんでいなかった。しかし、他のメスーー例えば、長く一緒に暮らしたケージの仲間や姉妹、つまり、互いを社会的に支え合ったメスであれば誰でもーーと引き離されたメスは、そのことを嘆き悲しんだのだ。オスは、自分の感情という資産をすべて、メスのパートナーという一つの銀行に預けてしまう。メスは、自分の母親、姉妹、仲の良いメスの友達、あるいはオスのパートナーを失うと、それぞれ落ち込んだ様子を見せる。うつに苦しむ女性の割合が、男性のおよそ二倍にのぼることの背景を理解する上で、こうしたことも手がかりになるかもしれない。

(p.320)

 

  ところで、人間もハタネズミも一夫一妻制で暮らしているとはいえ、人間もハタネズミも浮気はする。

 第8章の「浮気のパラドックス」ではこの問題が扱われるが、そこで強調されるのは、社会関係における一夫一妻制セックスにおける一夫一妻制は異なるものである、ということだ。先述してきたように、愛のあるセックスからはゆきずりのセックスでは得られない種類の情緒を得ることができるが、それはそれとして、パートナーシップが長期化すると純粋な快感や情熱はマンネリ化によって衰えてしまう。性的な欲求や能力も減退していく。しかし、新規にセックスできる相手に出会えると、性的な欲求や能力は回復してしまうのである。この現象はクーリッジ効果と名付けられている(Wikipediaの記事にすらなっている)。

 浮気を求める傾向は男女ともに備わっている(男性のほうが強いようであるが)。一方で、同じようなチャンスがあるときに浮気をするかどうかは、個人によって異なる。ある人が新しい相手とのセックスにどれだけの興味を持つかは、新奇探索性、冒険性、大胆さなどのパーソナリティに関する遺伝的な影響にも左右されるのだ。そして、言うまでもなく、わたしたちが生きる環境や文化も、浮気を実行するかしないかの判断に影響を与える。

 

文化は私たちの脳を反映し、しばしば、脳内での葛藤も反映する。社会関係上の絆は、確実に性的な欲求と衝突している。それゆえ、私たちは貞操帯を、ブルカを、女性器の切除を作り出してきた。結婚制度と、結婚生活を破壊したことに対する責任のとらせかたを定めた。離婚は高くつく。不倫が見つかるのに伴い、社会的に辱めを受けることは多く、キャリアへの悪影響もありうる。アメリカ軍では、統一軍事裁判法の姦通禁止条項違反で刑事告発されることがある。社会はこうした手段で、浮気のコストを高め、私たちの判断能力を活用することで、パートナー以外とのセックスに対する欲望を抑えこもうとしてきた。

こうした防波堤が必要だという事実からは、ヒトがまるで、自然の意図とは食い違ったことをしているように思えてくる。進化が、社会関係上の絆と性的衝動の間の、こうした力のせめぎ合いを、私たちの中に組み込んだのかもしれない。数百万年もの進化の過程の中で、男女は自己利益を巡る一種の戦争に身を投じてきた。メスは、常に自分の子孫のために、得られる中で最高の遺伝子を探し求めてきたのかもしれない。それに成功するためには、繁殖力を高め、同時に、パートナー以外の相手を探し、その繁殖力を活用するほどの大胆さも併せもつ必要が出てくるのだろう。その一方で、オスは自分のもつ精子をすべてばらまくよう、しかしまた、メスが他のどんなオスともーー特に、彼女たちの繁殖期にはーー交尾させるのを阻止するよう、駆り立てられているのかもしれない。そのため、私たちは嫉妬深く自分のパートナーを守り、配偶者防衛への自然な衝動を制度化するため、性的な一夫一婦制の文化的規範を構築する。私たちは、愛する者に一夫一婦制を求めるが、必ずしも、自分自身にもそれを求めるとは限らない。

(p.364 - 365)

 

 普段は一夫一妻制でありながらもときとして性的な浮気をしてしまうのは、人間やハタネズミに限らず、ゼブラフィンチや皇帝ペンギンなどの鳥類でも同じことだ。

 逆に言えば、わたしたちがときとして浮気をしたがるとはいえ、わたしたちは多夫多妻制を求めている、ということにもならないのである。

 上述したように性的な一夫一妻制のある程度までは文化によって強制されるものであるが、それと同時に、わたしたちが自然に求めることでもある。人間にせよハタネズミや鳥類にせよ、長期的な性的パートナーシップを築いた個体の半分ほどは、浮気をおこなわない。また、セックスをほとんどしなくなったパートナーシップであっても、何十年も結婚生活を続けている人はそうでない人たちよりも人生に対する満足感が高く、健康に長生きする可能性も高いのだ。

 

ヒトは性的な一夫一婦制をとるように作られているのか、という質問に対する真の答えは、こうなりそうだ。「場合による。一部の人々はそうだ。他の人々は、それほどでないかもしれない」。

性的な一夫一婦制という問題は、人間や動物は〔全体として〕何をするようにできているかというよりも、個人・個体として、脳の影響によって何をしやすい傾向にあるかということにかかわってくる。スワッガート、バカー、そして、「今日のセックス・スキャンダルお騒がせ有名人」たちのような人々が、彼らを名声に導くだけではなく、パートナー以外との情事に向かわせてしまう傾向の性質をもっている可能性はある。だからと言って、そうではない他の人々が、心地良い、幸せな生活にこれ以上ないほど身を落ち着ける傾向があって、家庭以外でのセックスを本気で考えたことはまったくない、ということではない。ある人々が薬物に惹かれやすい、惹かれにくい、というのと同じことだ。

(……中略……)

社会関係上の一夫一婦制と性的な一夫一婦制、両方を受け入れることが最適だと感じる人々もいるだろうし、手持ちの札を混ぜて、新しいものを求める人々も出てくるだろう。遊びの関係についてパートナーと交渉する人々もいるだろうし、全面的に「聞かない、言わない」方針を打ち出す人々もいるかもしれない。

(p. 369 -370)

 

 

 さて、ジェンダーの問題に関する著者らの見解は、以下のような箇所によく示されている。

 

ラリーの信念は、脳の観点から見ると、男性は女性の「ベイビー=赤ん坊」であり、女性は男性のなわばりの延長であるというものだ。これは、ヒトの愛について語る上で、政治的に必ずしも最良の配慮をもった表現ではない。多くの人々は、こうした認識は時代遅れのステレオタイプだと思いたがる。だが、そうではない。私たちはこの問題をごまかすこともできるが、最後に物を言うのは自然の摂理だ。

(p.289) 

 

文化、遺伝子、養育、そして私たちの脳の間に、強力な相互作用がある。しかし、文化はジェンダーを作り出すことはないーージェンダーを反映するのだ。ジェンダーは、すべてのことに影響する。私たちが誰を愛するかということから、私たちがベッドの枠をプロレスのトップロープの金具に見立て、そこから飛び降りるのを面白がるかどうかに至るまで(アメリカの病院で、救急救命室にケガで運び込まれる人々の大部分が男の子である理由の一つが、ここにある)。しかしなお、多くの人々は文化がセクシュアリティを生み出すのだと主張している。なぜなら、その物語が彼らの世界観に合うからだ。

(p.402)

 

 これは生物学者としては突飛でもない見解だろうが、人文系の学者や左派の多くからは鼻白まれるものだろう*2。また、母親の子育てが子どもの自閉症リスクを後天的に高める可能性など、最近ではタブー視されている話題にも切り込んでいる。条件付きとはいえ一夫一妻制度が自然なものであるという点を認めているところも、たとえば左派でラディカリストなクリストファー・ライアンが『性の進化論』で多夫多妻制を強調したことに比べれば、保守的な主張であると言えるだろう。

 なので、どちらかと言えば、この本の内容は保守的で政治的に正しくなく、人によっては「右寄り」に感じられるものかもしれない。

 とはいえ、先日の記事でも書いた通り、わたしは『性と愛の脳科学』は原著の出版時点からかなり面白く読むことができた。

「女性は男を赤ん坊扱いして、男性は女を所有物扱いする」という著者らの議論は、もしかしたら、社会のステレオタイプを素朴に反映してしまっただけの、事実に基づかない誤った主張であるかもしれない。しかし、もしかしたら、「女性は男を赤ん坊扱いするものである、男性は女を所有物扱いするものだ」というステレオタイプをわたしたちが抱いているのは、事実がそうであるからかもしれない*3。あるいは半分くらい正しくて半分くらいは正しくないかもしれない。いずれにせよ、生物学や脳科学の専門家ではないわたしたちには判断しきれないところだ。なので、この本の内容をすべて鵜呑みにするわけにはいかないかもしれない。だけれど、なんにせよ、面白い本であることは間違いないだろう。いろいろとタメになるし。

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:トランスジェンダーの人々などに関する議論はこの本ではわずかにしか触れられていないが、デブラ・スーの主張とおおむね一致している。

davitrice.hatenadiary.jp

*3:「性に関するステレオタイプは多くの場合に正確である」という議論は、リー・ジュシムという心理学者も行なっている。

 

www.psychologytoday.com

「そんな動物みたいなことするなよ」

 

 

『性と愛の脳科学』はたしか2015年の前半に英語版の原著(The Chemistry Between Us: Love, Sex, and the Science of Attraction)を半分ほどまで読んでいて、面白いと思いつつ途中で手が止まって放置していた、それで、6年経った今年になってようやく邦訳版で読了したわけである。

 

 この本では、わたしたちが抱く「愛情」や「性欲」といった情動、あるいはフェティシズムや母性といった性や愛にまつわる様々な現象や状態について、脳や化学物質(ホルモン)などの観点から分析される。人間を用いた心理学実験が紹介されることもあるし、進化心理学的な理論もところどころで参照されるが、ほかの類書とこの本とを分ける最大の特徴は、ラットを用いた実験から人間の性行動について類比的に語る議論がメインになっているところだろう。とくに、大半の人間たちと同じように一夫一妻制で生活する動物である、プレーリーハタネズミを用いた実験に基づいた議論が豊富に展開されている。著者たちは、メスとオスのハタネズミたちに様々なホルモンを投入してその行動を観察することで、私たち人間の性愛の根底にはどのような生物学的・脳科学的メカニズムが横わたっているかを解き明かそうとするのだ。

 もちろん、著者たちも、ネズミと人間を同一視しているわけではない。人間とは理性や文化を持つ生き物であり、その行動は(ネズミほどには)生物学的メカニズムに支配されるものではない、ということにはこの本のなかでも何度か留意されている。……とはいえ、ハタネズミを用いた実験を根拠として提示される仮説はかなり大胆なものであるし、読者によってはギョッとなったり「人間の愛情についてそんな簡単に言い切れるものなのか」と不愉快になったりするかもしれない。

 著者らの仮説については後日に本格的に紹介する。その前に、今回は、『性と愛の脳科学』の本筋の主張とはあまり関係がないのだが印象にのこるエピソードを、要約して紹介させてもらおう(このエピソードは本のなかではかなりまわりくどく書かれているので、わかりやすさのために細部をはしょったり改変したりしている)。

 

 この本の第二章「欲望の化学」では、スーザンという名前の女子大生を被験者にした、とある実験が紹介されている。

 心理学実験でありがちなことだが、スーザンは実験の本当の意図を聞かされていない。彼女は、「双子の兄弟が二組いて(ペアAとペアB)、各ペアの片割れと会話した二週間後に、各ペアのもう片方と会話する」という実験だと思い込んでいる。しかし、実際には、ひとりの俳優がペアAの双子を、もうひとりの俳優がペアBの双子を演じているのだ。

 この実験のキモは、各俳優はそれぞれ二通りのタイプの男性……恥ずかしがり屋で誠実な「エディー(真面目くん)」タイプと、抜け目がなくて女性経験豊富な「キャド(卑劣漢)」タイプ……を演じていることだ。1回目の会話では、ペアAの俳優はエディーを、ペアBの俳優はキャドを演じた。その二週間後の2回目の会話では、ペアAの俳優はキャドを、ペアBの俳優はエディーを演じる。

 俳優たちには台本が渡されており、エディーを演じているときにせよキャドを演じているときにせよ、恋愛に関する会話をするように決められている。ただし、AもBも、キャドを演じているときには、会話のテクニックや性的なアピールを駆使しながらスーザンを誘惑する。そして、エディーにせよキャドにせよ、会話の最後には、スーザンにボーイフレンドがいるかどうかをさりげなく聞き出すのだ。

 さて、スーザンには実際にボーイフレンドがいる。そして、1回目の会話では、エディーに対してもキャドに対しても、自分にはボーイフレンドがいるという事実を正直に答えた。このときのスーザンはキャドからの誘惑に流されなかったのだ。

 しかし、2回目の会話では、スーザンはエディーにはボーイフレンドの存在を伝えたが、キャドには伝えなかった。また、スーザンは2回目のキャドと会話しているときにのみ、髪をかき上げたり、小首をかしげたり、イヤリングをもてあそんだり、前のめりになって座ったりしていた。胸に注意を惹きつける、性的なアピールを無意識にしてしまっていたのだ(ネズミのメスは自分が発情していて性的に受け入れ態勢にあることを独特の姿勢によってオスに示すが、著者らは、スーザンのこの行動をネズミのそれに類比している)。要するに、2回目のキャドとの会話においてのみ、スーザンは誘惑に屈して浮気をしかねない状態になってしまっていたのである。

 では、1回目と2回目との違いはなにか?それは、2回目の会話はスーザンの排卵におこなわれたことだ。

 

排卵の直前、最中、そして直後は〕女性が妊娠可能な、限られた唯一の時期なのである。そして、女性の脳はそのことを知っている。つまり、こうしたホルモンの変化は、女性の生理的な側面に影響するばかりではない。生殖的な無駄が起きないよう、彼女たちの脳にも働いて、卵が受精する機会を最大化する方向へと行動を変化させ得るのである。

(p.70)

 

私たちはしばしば、〔性欲が行動に与える〕影響を無視する。例えば、「排卵前後になると、より強い性的欲求を感じるか」と聞かれると、多くの女性はノーと答える。ところが、排卵付近の時期に、ここ数日の間にセックスをしたり、セックスに誘ったりした回数を数えるよう言われると、妊娠可能性が低い時期に聞かれた場合に比べ、多くの出来事を挙げるのである。女性は排卵時、その月の他の時期に比べてポルノをより楽しむ。爽やかで快い男性ではなく、たくましく精悍な男性に惹かれやすくなる。自分の父親を避けがちになり、カロリー摂取量が減り、服やセクシーな靴に比べて、食べ物に使う金額は少なくなる。女性はまた、自分の現在の相手ではない人物とのセックスを夢想する頻度が〔排卵期に〕高くなる。

ドゥランテが説明するように、エディーは誠実で、一生懸命で、真面目な関係を求めているが、こうした特徴は理性的な脳に対して訴えかけるものであるーー理性的な脳は、遅れて得られる見返りを、長期的な利益として見積もる。こうした計算は、脳の中で一番大きな領域である、大脳皮質で行われる。しかし、ホルモンはスーザンの脳内にある他の領域を動員して、その声を増幅する。今日、スーザンは短期的な利益のことしか考えていない。そして、もじもじして、結婚を望んでいる、英語専攻のピッツァ配達の青年は、彼女の目下の望みを満たさないのである。

 (p.71 - 72)

 

……また、キャドは単にそこにいて、逢瀬に応じられるという点でも有利である。スーザンのボーイフレンドは彼女の視界の外にいて、意識の外にあるのだ。

キャドは大げさな自慢屋だが、勝者のように見える。そして、男性にとっての揺るがぬ事実は、あなたがいかに良い奴であろうと、最も妊娠しやすい時期の女性(どんな種の生物のメスも)は、勝者のタイプの男性を評価するということである。ラス・ファーナルド率いる、スタンフォード大学の研究チームは、メスの魚が、交配相手の適応度〔繁殖によって残せる子の数の期待値〕を示す社会的手がかりをどう処理するかを調べた。彼らは、抱卵中のメス(体内にたくさんの卵をもち、放卵の準備ができている。すなわち、排卵期の女性とおよそ同様の状態である)が、好みのオスが別のオスとの戦いに勝つのを見ると、脳内の内側視索前野〔性的二型核が見つかった領域〕が興奮することを発見した。メスの性的行動を直に調節する、視床下部腹内側核もまた、興奮していた。端的に言えば、お気に入りのオスが戦いに勝てば、メスは、脳内にある生殖と性的誘惑の中枢が活性化されるのである。

ところが、お気に入りのオスが戦いに負けてしまうと、彼女の脳内で、不安を生み出す回路にスイッチが入り、ストレスを経験したような様子を示す。人間の場合の言葉で言うと、彼女は、自分の子供の父親として負け犬のボーイフレンドを選んだのではないかと、不安になったように見えるのである。

(p. 72 - 73)

 

 

 さて、言うまでもなく、このような文章を読むときには注意が必要だ。

 まず、著者らも本のなかで言及しているように、排卵期の女性がパートナー以外の男性に惹かれたり浮気をしやすかったりするとしても、それはあくまで傾向でしかない。先述したように人間には理性があるのだから、キャドが本気で手を出そうとしてきたときには、スーザンも「ボーイフレンドを裏切ってはいけない」という道徳律を思い出して彼を拒むかもしれない。また、人間の行動は性別とかホルモンとかだけでなくパーソナリティにも影響される。浮気をするかどうかは各個人の外向性や経験への開放性にも左右されるのであり、排卵期になっても浮気にほとんど興味を持たず実行しない女性だって、もちろんいっぱいいるのだ。どのような状況や状態のときにどのような行動をとるかは最終的には個人ごとにちがうものであり、「女性とはこういうときにはこういう行動をとる生き物なのだ」と決めつけられるものではないのである。

 また、そもそものスーザンの実験がどれだけ科学的に正確であるかなんて、わたしを含めた『性と愛の脳科学』の読者の大半には判断がつかないことだろう。もしかしたらスーザンの行動の変化は排卵日とは異なる理由があったのだが実験ではそれを発見することができなかったのかもしれないし、著者らはスーザンの行動を誇張して読者に伝えているのかもしれない。実験に再現性があったかどうかも調べてみなきゃわからないし、その調べ方すらよくわからない。

 そして、「排卵期には女性は浮気しやすくなる」という著者らの主張が正しいとしても、それについて男性は女性に文句を付けられる立場にはない。たとえば、男性は女性が排卵期であることを無意識に察知して誘惑をしやすくなる、という傾向もこの本のなかでは紹介されている。なにより、「隙あらばパートナーを裏切って、他の異性と性的に関わる機会をねらいたがる」という傾向は女性よりも男性の方がずっと強いのだ。男性とは常に浮気しやすい存在であるとすれば、女性が排卵期に浮気しやすくなることを非難される謂れはないだろう。

 

 ……とはいえ、頭では上記のような理屈をわかっていても、スーザンの実験について紹介された箇所を読んでいるとわたしはかなりゾワゾワしてしまう。最初で英語で読んだときにもゾワゾワしたし、日本語で読み返したときにも変わらずゾワゾワした。

 わたしに限らず、キャドのようなたくましさとか会話テクニックとか自信とかを持たないエディーのようなタイプの男性は、上記のような文章を読んだら大なり小なり不安や恐怖や虚しさを感じるだろうと思う。「そんな不安とか恐怖とか、ぜんぜん感じないよ」と言う人は、自分のパートナーなり想い人なりがバーでキャドのような男性に誘惑されているところをじっくり想像してみるがいい。

 人間の行動……とくに性や愛に関する行動を、ネズミや魚と類比しながら「動物的」な次元に落とし込める議論は、多くの読者にとっては負の感情を誘発したり刺激したりするものであり、だからこそ面白く、そして危険でもある。

 これらの議論がわたしたちに与える影響は、いわゆる「虹の解体」だけで済むとは限らない。性や愛についてなにかしらの理想や願望を抱いている人は、男性にも女性にも多いはずだ。だからこそ、上述のような文章を読んだときには「性や愛の背景にはこんな生物学的メカニズムがあって、こういう風に合理的に説明できるんだなあ」と感心するだけには済まされずに、裏切りや失望の感覚を抱いてしまう可能性もある。それは、ある種の復讐心や逆恨みにもつながり得る。

 他のところでも書いたように、議論というものは物事を認識する枠組みを変えさせて、それを通じて実際の行動にも影響を与えるものだ。「自分がどれだけ誠実で優しくあっても、女性は排卵日になったらキャドみたいな男性に誘惑されるのだとしたら、誠実で優しくあるだけ損をしてしまうし、自分もキャドみたいに女性をモノ扱いした方が得だ」と思ってしまう男性は、まあ確実にいるだろう。一部の男性がナンパや「百人斬り」を通じて自己実現をしようとしたり、恋愛工学に惹き付けられたりする背景には、単なる性欲だけでなくコンプレックスとそれに由来する復讐心も存在するはずである、とわたしは推察している。

 

 とはいえ、じゃあ性とか愛とかに関して脳科学だとか進化心理学だとかに基づいて論じる言説をすべて駆逐して封殺すれば「女性なんて動物なんだ、誠実さや優しさに報いるとは限らないからモノ扱いするくらいがちょうどいいんだ」と思ってしまう男性があらわれることを防げるかというと、残念ながらそうでもないだろう。

 脳科学進化心理学は人間のすべてを明らかにしているわけではないし、これらの分野で提唱される人間観には独特の偏りや歪みや浅薄さは存在するが、それでも、一面の真実を突いていることは否定できない。

 脳科学進化心理学の言説に触れたことがなくても、生活をしたり恋愛をしたりしているうえで起こる出来事や経験を通じたり、あるいは友人や知人の経験談を聞いたり他人同士のトラブルを遠まきに眺めていたりするうちに、これらの分野が指摘するような事象やメカニズムの存在を理解してしまう人は一定数いるものだ。わたしたちは人生を通じて「男ってこういうものだよな」「女の人ってこうであるらしい」ということをなんとなく学習していく。脳科学進化心理学の言説が魅力的であるのは、わたしたちが想像もしなかった驚愕の事実を知らせてくれるからではなく、わたしたちが薄々ながら気付いている事実について一貫性のある理論で説明を与えてくれることにあるだろう。

 

 また、性や愛は多くの物語で扱われる題材でもある。恋愛の理想や純愛を描く作品も存在する一方で、性愛の背後にある理不尽さや無情さを題材にした作品も多数ある。世間的には純愛ものの方が人気を博して売れる傾向にあるかもしれないが、批評家に好まれて高く評価されるのは、性愛のリアリティや生々しさを描いたものの方であるだろう。そして、そのような作品は実際に面白い。もちろん読んでいてイヤな気持ちになったり悲しくなったりすることはあるのだが、そのような負の感情を超えて、わたしたちは性愛の負の側面を描いた物語に惹きつけられる。おそらく、性愛や人生に付きまとう「理不尽さ」は、それ自体がわたしたちがひどく興味を抱いてしまう対象である。他人事としての物語にとどまっているうちは、わたしたちはその理不尽さを楽しめてしまうことができるのだ*1

 

 この記事のタイトルは、『テラフォーマーズ』という漫画のなかでアドルフ・ラインハルトというキャラクターが吐き出した「そんな動物みたいなことするなよ……」というセリフに基づいている。アドルフの妻ローザは夫を裏切り、別の男の子を身ごもって出産してしまったのだ。

 登場人物がいろんな動物に変身しながら人型のゴキブリと戦う漫画である『テラフォーマーズ』では、血で血を洗うバトル描写の合間に、動物や昆虫に関する蘊蓄も豊富に挿入されている。そして、アドルフがローザに受けた仕打ちについても、カッコウがおこなう托卵と類比しなら描かれていた*2

 わたしたちが理性だけに基づいて生きることができれば、ネズミや魚やカッコウに類比されてしまうような行為なんてすることもなく、だれも裏切ったり傷付けたりすることもなく、性や愛を健やかに楽しむことができるだろう。そして、わたしたちは自分のパートナーや自分の想い人に対しても、動物ではなく人間であることを望むはずだ。しかし、残念ながら理性のみで生きている人はこの世にはいない。どんな人であっても、どこかのところまでは動物であるのだ。

 古来から、わたしたちが動物であるということと、動物であるからこそ他人を傷付けてしまうということは、物語によって描かれてきた。そして、わたしたちの動物性は知的にもあまりに興味深いことであるために、過去の哲学者や現代の科学者は批判や制止を振り切って人間の動物性について研究し続けているのである。

 

 わたしたち個人がどう生きるかということを考えるうえでも、人間の動物性をあまり過大に捉えることは間違っているが、動物性から目を背けてそれが存在しないものであるかのように捉えることもまた間違っているだろう。だれかのことを理性を全く欠いた動物扱いすることも、完全な理性を持った存在として扱うことも、相手についてただしく理解したうえでひとりの生身の人間として接することを放棄しているという点では、同等に的外れであり非道徳的な行為であるのだ。ではどういう塩梅で人に接することが正解であるかというと、それは簡単に言えるものではないのだけれども。

 

*1:性愛や人生の理不尽さを扱った文学作品のなかでも、わたしにとって特に印象に残っているのはサマセット・モームの『月と六ペンス』だ。

 

月と六ペンス (光文社古典新訳文庫)

月と六ペンス (光文社古典新訳文庫)

 

 

*2:記憶頼りに書いているので、もしかしたら詳細は違ったかもしれない。

読書メモ:『饗宴』

 

饗宴 (光文社古典新訳文庫)

饗宴 (光文社古典新訳文庫)

 

 

 哲学系の文章を書いているものとしてはあるまじきことかもしれないが、プラトンの本をまともに読むのはこれがはじめて。

 

 おじさんたちがお酒を飲みながらエロス(恋愛)について自説を代わる代わる開陳していくという形式であるが、人によって主張の内容だけでなくその展開の仕方や対象としている物事の射程が違っているという点がなかなか面白い。一般的な恋愛(といっても古代ギリシアの同性愛・少年愛がメインだけれど)の話をする人もいれば、神話的な話に終始する人もいたりする。

 個人的には第3章の「パウサニアスの話」がいちばん面白かった。

 

考えてみてください。たとえば、求愛行為は、隠れて行うよりも公然と行うほうがよいと言われています。また、たとえ容姿は劣っていても、このうえなく家柄がよく、優れた少年に求愛するのが、特によいことだとも言われています。さらにまた、求愛する者は、あらゆる人から、驚くほどの励ましを受けます。彼がなにか恥ずべきことをしているとはみなされないのです。すなわち、相手を自分のものにするのは美しいことであり、自分のものにできないのは恥ずべきことだと考えられているわけです。また、求愛する人が、相手を自分のものにしようとするときには、彼がどんな常軌を逸した行為をしても賞賛されるのがならわしになっています。ところが、もし誰かが、なにかそれ以外の目的を達成しようとして、そうした行為をするなら、その人は、たいへんな非難を浴びることになるのです。

(p.56 - 57)

 

さて、このようなわけで、わたしたちの〔アテネの〕決まりにおいては、少年が、自分を愛してくれる人に美しく身をゆだねようとするなら、その方法はただ一つしかありません。わたしはさきほど、求愛する人が、少年に対してどのような奴隷的行為をしようとしたとしても、それは媚びへつらいでもなければ、非難されるべきことでもないと申しました。それと同じように、わたしたちの〔アテネの〕決まりでは、自発的に行っても非難されることのない、もう一つの奴隷的行為が残されているのです。すなわち、徳を手に入れるための奴隷的行為です。

(p.61)

 

それでは、以上と同様の考えかたで、今度は次のような事例を考えてみてくださいーーある少年が、自分に求愛してきた人を優れた人物だと思い、彼と親密な関係になれば、自分も優れた人物になれると考え、その人に身をゆだねた。しかし、少年はだまされていた。彼はじつは凡庸な人間であり、徳を持っていないことが判明した。

この事例において、少年はだまされていました。しかし、にもかかわらず、それは美しいのです。なぜなら、この少年は、徳を手に入れて優れた人物になるためには、誰にどんなことでもするという、自分の真実の姿を明らかにしていますが、そのような姿は、あらゆる事柄の中で最も美しいものだからです。このように、徳を手に入れるために身をゆだねるのは、なににもまして美しいことなのです。

(p.63 - 64)

 

 また、『饗宴』のなかでもおそらくもっとも有名な箇所である、第5章でアリストファネスによる「球体人間」論もやはり面白い。文字通りの意味でプラトニック・ラブをアツく語っているという感じだ。最近の映画だと『ハーフ・オブ・イット』の冒頭で登場していたのが印象深いし、たしか村上春樹の『海辺のカフカ』のなかでも言及されていた。

 

さて、少年を愛する人であれ、それ以外のどんな人であれ、自分の半身に出会うときには、驚くほどの愛情と親密さとエロスを感じ取る。彼らは、いってみれば、いっときたりとも互いのもとから離れようとはしない。彼らは、生涯を共に生きていく人たちだ。しかし、彼らは、自分たちが互いに何を求め合っているのかを言うことはできないだろう。彼らは単にセックスをしたいだけで、そのためにお互いに喜びを感じ、かくも熱心に一緒にいたがるというのか。誰もそんなふうには思うまい。彼らの魂が求めているのは、明らかに、なにかそれとは別のものなのだ。しかし、彼らの魂は、それが何なのかを言葉にすることができない。彼らの魂は、自分の求めるものをぼんやりと感じとり、あいまいに語ることしかできないのだ。

(p.86 - 87)

 

 俺たちにはわかる。この言葉を聞いて、その申し出を断る者や、別の望みを申し出る者など一人もいないだろう。むしろ、自分の聞いた言葉こそ、まさに自分が望み続けてきたことだと思うだろう。すなわちそれは、愛する人と一緒になって一つに溶け合い、二つではなく一つの存在になるということだ。なぜなら、これこそが俺たち人間の太古の姿であり、俺たち人間は一つの全体であったのだから。そして、この全体性への欲求と追求を表す言葉こそ<エロス>なのだ。

(p.88)

 

 一方で、主人公であるはずのソクラテスの話は、なんだか理屈が過ぎてあんまり面白くない。知恵への愛がどうこう言われもいまいちピンと響かないのだ。とはいえ、「エロスの道を正しく進み、美を目指すことで、真実の徳を生み出すことができる」(p.151~153)というのはそれはそれはでアツいものがある。

 

 アツいという点では、第10章の「アルキビアデスの話」の以下の箇所もよかった。

 

ぼくにとって、自分ができる限り優れた人間になることよりも大切なことはなにもありません。そして、この目的を実現するために、あなた以上に力になってくれる協力者は誰もいないと思っています。そのような人に身をゆだねないとしたら、ぼくは賢い人たちに対して、とても恥ずかしい思いをすることでしょう。それは、身をゆだねたときに、ぼくがたくさんの愚かな人たちに対して感じる恥ずかしさの比ではありません

(p.176)

 

 そもそも哲学の本を「ここがアツかった」「ここに共感できた」とか言いながら読む時点で間違っているような気もするのだけれど、現代の哲学の本とプラトンの本とではさすがにかなり乖離があるみたいだし、ひとりで読んでいてもこういう読み方しかできないのだから仕方がない(大学の授業とかでこの本を扱うときにはどんな読み方をするのだろう?)。

 

 

恋人と友人はどうちがうのか

 

 32歳にもなってこんなタイトルの文章をいちいち書きたくもないんだけれど。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 前回の記事では「男性からの女性に対する恋愛的なコミュニケーションには、積極的に関わろうとすればその行為が加害になってしまうリスクがあるが、消極的になっているだけだと相手との関係を深めることができなくなってしまう、というジレンマがあるので難しい」ということについて書いた。

 これに対して、はてなブックマークのコメントやTwitterなどで「同様のことは恋愛に限らずコミュニケーション全般に言えるのではないか」という指摘や反論が多々あった(ついでに「失礼な言動を知らずに繰り返してそうでもある」とか「ちょっとコミュニケーション怠けすぎでは」とかの罵倒もいただいた)。

 実際のところ、たしかに前回の議論には、恋愛に限らず友人や家族など他人とのコミュニケーション全般に当てはまる部分もあったとは思う。しかし、そうではない部分もやはり大きい。なんのかんの言って、恋愛と友情とはちがうものなのだ。恋している相手や付き合っている相手とのコミュニケーションと、友人や家族とのコミュニケーションとは、さまざまな点で異質なものであるはずなのだ。

 わたしは男性なので基本的に男性側の観点からでしか論じられないが、とりあえず女性のことを「恋愛感情を抱いている相手」と「パートナー関係を築いている相手」と「女ともだち」の三種類に分類したうえで(便宜上の分類だ)、男性の友人との関係とのちがいについて考えてみよう。

 

 まず、友人関係について。

 恋人や家族と友人との最大のちがいは、友人関係とは限定的なものでも排他的なものでもない、ということにあるだろう。だれしもが複数の友人を持つものであり、自分の友人に別の友人がいることについても、当然のことだと受け止めている。ふたりで遊びにいく相手であっても数人で遊びにいく相手であっても、どちらも等しく友人だ。自分に新しい友人ができたとしても、友人が別の友人と仲良くなったとしても、そこにジレンマは存在しない。

 なかには友人たちのあいだに「親友」と「友人」とのランク分けをおこなって、前者のことをほかの友人たちよりも特別扱いするひともいる。だが、その場合ですら、自分の親友にべつの友人や親友がいることが問題であると思うことはほとんどないはずだ。もし「おれの親友はあいつだけなのに、あいつにはおれのほかにも親友がいるはずだ」と思って嫉妬に苦しんでいるひとがいるとしても、一般論として、その嫉妬の感情は恋愛について抱くものほどには苦しいものではないはずだ。

 つぎに、友人関係とは平等で対等なものである。厳密にいえば、友人同士のあいだでもお互いに対する好意が同等であるとは限らず、どちらかの側が相手のことをよりいっそう大切にしていたり、相手に対してより大きな価値を感じていたりする、ということはあるだろう。しかし、すくなくとも一定程度の好意は互いに抱いている、ということは保証されている。というのも、「こいつと一緒にいると楽しいな」とか「こいつとはウマがあうな」ということを互いに思っている状態からでないと、そもそも友人関係が始まらないものであるからだ。

 恋愛関係やパートナー関係に比べると、友人関係では、「相手が自分のことをどう思っているか」ということについていちいち悩む必要性は薄い。一緒に遊んでくれているうちはなにかしらの好意を抱いてくれているはずだ、と判断できる。そして、相手が自分から離れていくときには、だいたいにおいて自分の側も相手に対する好意が薄れているものであろう。

 そして、友人関係とは漫然としたものでもある。だいたいの場合において友人関係とは気がついたら成立しているものだ。なにかしらの劇的な出来事が起こったことにより、「きのうまでは知人だったけれど、今日からは友人だな!」と関係性が明示的に変化した結果として友人関係が成立する、ということはそうそうないだろう。そうではなく、何度か会ったりやりとしたりするうちに「気があうな」「楽しいな」という感覚が互いのうちにぼんやりと形成されていくことで、じわじわと友人になっていくのである。

 したがって、友人関係においては、ある程度の理解や好意や親密さが最初から前提となっている。そのために、相手の好意や親密さを得るための「賭け」をおこなったり、自分のことを理解してもらったり相手のことを理解するために勇気を持って踏み込む、ということが必要とされる機会が少ないのだ。「機会があればこいつのことをもっと深く知りたいな」と思っている相手であっても、その機会が訪れないままでも友人関係を持続させることはできる。「この賭けが成功したらこいつとはもっと深い親友になれるけど、失敗したら友人関係自体が終わってしまうかもしれない」という選択に直面することは、まあないだろう。穏やかにだらだらと関係を続けながら、ちょっとした機会のたびにすこしずつ理解や親密さを深めていく、ということができるからだ。

 

 では、恋愛感情を抱いている相手に対しての関係は、友人との関係とはどうちがうのか?

 最たるちがいは、どちらかが恋愛感情を抱くとその関係は非対称なものになるということにあるだろう。つまり、自分は相手に対して並ならぬ好意を抱いているが、相手はそれほどの好意を自分には抱いていない(抱いているとしてもその確証が得られない)、という状態になるのである。

 前回の記事では「相手に対してなんらかの積極的なはたらきかけをおこなって、相手の持っている感情や考え方になにかしらの影響を与えて変化させる好意」を「侵入的なコミュニケーション」と定義した。恋愛においては、非対称な関係を対称なものにする……つまり自分が相手に好意を抱いているように相手からも自分に好意を抱いてもらうようにするために、侵入的なコミュニケーションの必要性や切実さが増す。これは、友人関係では起こり得ないことであるように思える。好意を抱いてもらうためにはこちらから相手の感情をわざわざ変えさせなければならない相手、つまりデフォルト状態ではこちらに対して興味や好意が薄い相手と友人になりたい、と思うことはあまりないからだ。しかし、恋愛ではそれがあり得る。

  そして、原則として恋愛関係とは限定的で排他的なものである。この要素は、片思いである場合には焦りをうながすことになる。ぼやぼやしているうちに相手が自分以外の男性と付き合ったり結婚したりするかもしれない、というリスクを常に意識しなければならないからだ。そのために、友人関係と比べて、「賭け」をおこなう必要性がいやでも増してしまう。切実さや焦りから、その賭けがかなり危ういものになってしまうことも多々あるだろう。

 とはいえ、なにしろ恋をしている相手なのだから、そのひとは自分にとって特別で大事なひとだ。だからこそ、「自分の行為やアプローチが、相手に迷惑をかけたり傷を付けたりしているのではないか」という道徳的な悩みが、深刻なものとなるのである。

 

 これはあまり堂々と書くべきことではないかもしれないが、すくなくともわたしにとっては、同性の友人を加害することの深刻さは、恋をしている相手やパートナーを加害することの深刻さに比べるとだいぶ薄い。

 先述したように、友人相手には賭け的なコミュニケーションをおこなうことがないから、深刻な加害を意図的に発生させてしまう機会自体が、ほとんどない。仮にいっしょに遊んだり飲んだりしているときの言動によって意図せずに相手を傷付けてしまう場合があったとしても、大半の場合には後から謝罪することでリカバリーがおこなえる。友人関係に特有の漫然さや対等さなどから、「ひとつ間違えたら終わり」という事態になることはほとんどないものなのだ。

 もちろん友人であってもその関係が永続的はものであるとは限らず、ふとした言動や口喧嘩から絶縁してしまう可能性は存在する。だが、それはあくまで「可能性」の話だ。現実問題としてそのような事態が起こる可能性は小さいのであり、日頃からその可能性について深刻に悩むことはない。道徳的には友人に対しても丁重に接したり倫理的配慮をおこなうべきかもしれないが、実際のところ、そうやって生きているわけではないのだ(そして、これは強調しておきたいが、わたしの友人たちの大半もわたしと同じような態度でわたしに接していると思う)。

 

 異性のパートナーとの関係は、恋をしている相手や友人との関係とはどうちがうのか?

 非対称さについては、片想いをしているときに比べればだいぶマシになるだろうが、友人関係ほどの対等さや平等さが得られるタイミングはあったとしても限定されているように思える。パートナーになっても、互いが互いに対して抱ている気持ちの熱量が不釣り合いなままであることはめずらしくない。また、相手と自分との気持ちの熱量の差が逆転することもあり得る。だから、「自分はいま相手に対してどれくらいの好意を抱いているか」ということと「相手はいま自分に対してどれくらいの好意を抱いているか」ということのどちらも、定期的に意識せざるを得ないだろう。それに応じて、相手の気持ちをこちらに向け続けさせるための侵入的なコミュニケーションも必要となるかもしれない。しかし、片想いのときのような焦りがあるわけではないから、比較的冷静にコミュニケーションをおこなうことができるし、賭けの要素も減るだろう。

 友人関係とパートナー関係との最大のちがいは、原則として、パートナー関係とは排他的で限定的なものであるということだ。なんだかんだ言って、ほかの人たちのことを差し置いて相手のことを大事にして特別に扱って、そして相手のほうにも同じように自分のことを大事に特別に扱ってもらう、という関係性はわたしのみならず大半のひとたちが恋愛に求めていることだろう。特別に扱うということは、ある種のパフォーマンスやコミットメントをおこない続ける、ということである。だから、パートナー関係にはある種の規律や意識の高さが存在し続けるのであり、友人関係に比べると漫然としたものにはならないのだ。

(これはある種の理想論であり、実際のカップルや夫婦の大半は漫然とした付き合いを続けているではないか、と言われるかもしれないが、そんなことは知らない。すくなくともわたしは1年間半なら上記のような関係を続けられた経験がある……漫然としたパートナー関係を5年くらい続けた経験もあるが、その結果として得られたのは「やっぱりパートナー関係って漫然とさせるものではないよなあ」という教訓だ)。

 それと同時に、パートナー関係は友人関係とちがって利害関係の要素もずっと強いものだ。その利害は経済に関するものでもありえれば、家事の分担に関するものでもありえるし、セックスに関するものでもありえる。自分はいっしょに過ごしたいと思っているときに相手は友人と遊びにいきたいと思っていたりする、などの関わりたさの不均衡も、ある種の利害対立を招き寄せるだろう。この利害関係が存在することで、友人に対しては抱かないような負の感情や憎しみをパートナーに対しては抱くことがありえる。

 また、パートナー関係には排他的であるがゆえに責任が生じる。結婚をしていない状態であっても、不貞行為をおこなうことは道徳的責任を破る非道徳的な行為だ(法律的には問題ないのだけれど)。また、パートナーであるということは、そのあいだは他の異性と関係を結ぶ可能性を捨てさせて自分と関係を結んでいることを求めるということでもある。だから、相手の時間や可能性を無駄にさせないためにも、相手に有意義で楽しい時間や経験を過ごさせることはある種の義務となるだろう。そしてもちろん、相手の側にも同じような責任感や義務感を持ってほしいとも思うものだ。

 パートナーとは特別で大事な相手であり、責任を持つべき相手でもある。というわけで、パートナーを傷付けてしまうことの深刻さは、やはり、友人を傷付けてしまうことの深刻さに比べるとずっと大きい。そして、パートナ関係とは友人関係に比べて明示的に終わりえるものでもある。相手を傷付けてしまった(あるいは、相手に傷付けられてしまった)ことが原因で関係が終了してしまった場合には、友人を傷付けたときのようにリカバリーをおこなうこともできない。そうなると、後々まで悩んでしまうことになってしまう。

 上記のことを考慮すると、恋している相手やパートナーと友人は同じように大切だという考え方には、やはり賛同できない。プラトニックに過ぎると思うし、カマトトぶっているようにも思える。

 

 ところで、女友だちについてはどうか?

 基本的には、同性の友人と事情はだいたい同じになるだろう。ただし、前回の記事でも書いたように、男性による言動は様々なかたちで女性に対するハラスメントやバイオレンスになりえる。だから、友だちであっても、女性に対しては「親しき仲にも礼儀あり」というスタンスを保つことは必要であるはずだ。友人を傷付けることの深刻さは恋している相手やパートナーを傷付けることに比べれば小さいといえども、もちろん、傷付けないにこしたことはないからである。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 さて、恋している相手やパートナーに比べて友人の重要性を低く見積もるわたしの考え方は、それ自体が、かなり男性的なものだという自覚はある。詳細は上記の記事で説明したが、男性同士とは互いにケアしあうことが下手なものであり、そのために男性同士の関係性は特別で尊重すべきものにはなりづらいのだ。

 ここにはある種の集合行為的な問題がある。つまり、今日からわたしが考えを改めて「よし、これから男性の友人のことも異性の恋人と同じように大切に扱おう」と意を決しても、同じタイミングでわたしの周りの男性の友人たちがわたしと同じように意を決してくれない限りは、関係は非対等なものになってしまうのだ。その非対等さが存在すること自体が、友人関係を蝕むことにつながってしまうかもしれない。

 一方で、女性同士のあいだでは、恋人関係でおこなわれるようなコミットメントやパフォーマンスが友人関係でもおこなわれているようである(女性同士の関係のすべてがそうだというわけでもないのだが、一般論としてそういう傾向はあるようだ)。だから、女性同士の友人関係は、恋人同士のそれと同様に特別で大事で尊重すべきものとなりえる(そして、どちらかがどちらかを傷付けた場合には、傷付けた側が道徳的な悩みを深刻に抱くことになる)。しかしわたしは男性なので、そういう関係には縁がないということだ。

 

 また、前回や今回の記事でわたしが書いてきたことは、あまりにヘテロセクシュアル的でモノガミー的な考え方である、と批判することもできるかもしれない。

 それはそうかもしれないが、実際の問題として、大半の人はホモセクシュアルでもアセクシュアルでもなくヘテロセクシュアルであるのだ。そして、実際の問題として、ほとんどの人はポリアモニー的な関係に不安や抵抗や嫌悪を感じて、モノガミー的な関係を求めるものである。だから、「ロマンチックラブ・イデオロギーから脱却しましょう」とか「恋愛を捨てよう」とか「モノガミーに縛られずにポリアモニーを実践しよう」とか「コミュニケーションから逃避しよう」とか「ポリコレの時代には恋愛は消失する」とかあーだこーだ言われても、その大半はただの机上の空論な理屈に過ぎず、なんの助けにも解決にもならない。ほんとうのところ、そういうことを言っている連中の大半についても、彼らや彼女らが恋愛やコミュニケーションを完全に捨てられているようにはとても思えない(アセクシュアルの人は別)。自分に手が届かないものや自分が実践できないことを「酸っぱいブドウ」扱いしているだけなようにしか思えないのだ。

 道徳的な問題とかジレンマとかいろいろあることをわかったうえでわたしは(異性愛的でモノガミー的な)恋愛やコミュニケーションを求めているのであり、だからこそ困ったり悩んだりしているのである。それはわたしに限らず、かなり多くのひとが抱いている普遍的な悩みでもあるだろう。

 

 

友情について (岩波文庫)

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  • 作者:キケロー
  • 発売日: 2004/04/16
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道徳と恋愛は相性が悪い

 

道徳形而上学の基礎づけ (光文社古典新訳文庫)
 

 

 先日に「性的モノ化」についてあーだこーだ書いたが、それと関連しているかもしれない内容。

 

 フェミニズムとかジェンダー論とかが市井に浸透して、男性たちもそういう考え方を学ぶことによって生じている副作用とか弊害とかのひとつが、「性愛や女性との関わり方に関する道徳を学んで実践することで、女性と仲良くなったり女性からの信頼を得られたりすることができる」と感じてしまう男性があらわれることだ。

 つまり、男性の側が性や愛について「ただしい」意見を言ったり「正解」の振る舞い方をしたりすると、女性の側から仲良くなってくれたり優しくしてくれたりこちらを信頼してくれたりするなどのご褒美が与えられるはずである、という期待や予断のような感覚を抱く男性が増えているかもしれない、ということである。

 すくなくともわたしには、上記のような感覚がなくもない。そして、フェミニズム的な考え方に触れたり学んだりしたほかの男性たちのなかにも、この感覚を多かれ少なかれ抱いている人はけっこういるように思えるのだ。

 たとえば、一時期はフェミニズムに賛同していたが途中から転向してアンチ・フェミニストになった人のなかには「フェミニズムの規範を守っていてもモテなかったし、その規範を守らない男の方がモテているのを目にして、馬鹿らしくなった」ということを言う人が多々いる。

 転向をおこなわずにフェミニズム的な規範を誠実に守って実践している人たちであっても、「女性からの信頼を得たり、相互に理解をして関係を深めたりするためには、まず男性側がフェミニズム的な規範を守らなければいけない」と思っているフシはあるかもしれない。

 しかし、これから示してみせるように、その予断や期待はほぼ確実に間違っているのだ。

 

 言うまでもなく、フェミニズムジェンダー論の側が「フェミニズムの規範を守った男性には、ご褒美が与えられますよ」と約束しているわけではない。

 そもそも、報酬がないことこそが道徳の道徳たるゆえんである。自分にとってメリットがあるとか、見返りがあるとかに限らなく、守られなければいけないから守るのが道徳というものなのだ。

 その一方で、人間とは「ただしい行為をしたり、ただしい生き方をしたなら、報われて見返りが与えられるべきだ」とついつい期待してしまうものでもある。

 この期待は、道徳が関わるどんな事柄についても発生するものかもしれない。しかし、とくに恋愛や性に関しては、この期待は膨らんでしまうものではないだろうか。

 

 いまでは、フェミニズムジェンダー論の本はかなりの数が出版されている。そのなかには女性が受けている性被害や諸々の苦しみをテーマとした本もあれば、恋愛や結婚に関して論じた本もある。後者の本であれば、恋愛において男性は女性に対してどのように接するべきか、男女の平等を考慮したうえでの理想的な結婚とはどのようなかたちになるか、といったことが具体的かつ積極的に述べられているかもしれない。

 しかし、フェミニズム的な規範としてわたしたち男性がまず意識することになるのは、加害に関する議論であるだろう。

 つまり、男性が女性に対しておこなう行為やコミュニケーションは、男性に悪意がなくとも女性に対してさまざまなかたちで危害や苦痛をもたらしかねないものであるから、自分の言動を見直して反省して予防しましょう、というタイプの議論である。

 SNSやブログなどを見てみると、女性にせよ男性にせよ、フェミニズム的な問題意識を持っている人が取り上げる話題はだいたいが加害と被害というトピックに終始している様子である。「自分は以前に男からこんなことを言われて悔しかった」とか「合コンに行ったらほかの男たちが容姿イジりをしていたからどうかと思った」とか、そういうのだ。また、大学でおこなわれるジェンダー論の授業も、ゼミや特殊講義などではなく一般教養レベルの授業である場合にはあまり深く複雑な話が展開できるわけではないから、やはり加害の話題が中心となることが多いかもしれない(わたしが学部生の頃はそうだった)。

 自分の言動には加害性が含まれているかもしれないという点を指摘されることは、男性にとって印象に残る。「西洋の絵画では女性侮辱的なイメージが表現され続けていた」とか「古代の哲学者はみんな女性差別主義者だった」とかいったことを聞かされても他人ごとなので大した感想は抱かないものだが、ドメスティック・バイオレンスやハラスメントについて説明されて、自分が問題とないと思っていた行為や言葉が「暴力」や「嫌がらせ」であり得るということを説明された場合には、自分ごとなのでギョッとなる。そして罪悪感を抱いたり、反省したり、あるいはうろたえたり反発したりすることになるのだ。

 フェミニズムを本格的に勉強してさまざまな本を積極的に手に取らない限り、大半の男性にとっては、フェミニズム的な規範に対して抱くイメージとは「女性を加害しない」ことに終始しているだろう。

 だが、他者を加害しないことなんて、本来は当たり前のことだ。それは完全義務なのであり、破ったら怒られたり罰されたりすることではあるが、守ったところで褒められたり見返りをもらえたりするようなことではないのだ。

 

 女性と仲良くなったり、女性からの信頼を得たり、女性から好かれたりしたいと思ったら、「加害しない」という消極的な行為以上のことが必要となる。相手に対してなんらかのコミュニケーションやコミットメントをおこなうなどの、積極的な行為が求められるのだ。

 しかし、ここから話がややこしくなる。相手に対してなんらかの積極的なはたらきかけをおこなって、相手の持っている感情や考え方になにかしらの影響を与えて変化させようとする行為は、多かれ少なかれ侵入性を伴うものである*1。侵入性を伴う行為と加害性を伴う行為は、イコールではないが重複している場合も多いだろうし、侵入的ではあるが加害ではない行為もかなりギリギリであったり薄皮一枚であったりする。

 そして、「加害をしてはいけない」というフェミニズム的な規範を意識したり内面化したりすることは、女性に対する積極的なはたらきをためらわせる作用を男性に対してもたらす。フェミニズムに触れると、暴力や嫌がらせなどの加害であると自分が見なす行為の範囲が、かなり拡大することになるからだ。

 

 いくつか、自分の経験談を書いてみよう。

 本に書かれたエッセイだったかTwitterに書かれたツイートだったかも忘れたが、どこかの女性が「普段はわたしに優しく接してくれたり肯定的なことを言ってくれる彼氏が、自分の友人たちがいるときには、わたしのことを茶化したりイジったりしてくる。そういうことをされるとすごく傷付く」みたいなことを書いていた。わたしはその文章を読んで「たしかにそんなことをされたら相手はさぞや傷付くだろうな、自分は恋人に対してそういうことをしないようにしよう」と思ったものだ。茶化したりイジったりすることもハラスメントの一種であるし、ある種の暴力である、と理解したからである。

 それから何ヶ月後かに、男友達のひとりが彼女を連れてきて紹介してくれた。それはいいのだが、その男友達はわたしたちの前で彼女のことをかなり茶化したりイジったりしてくるのだ。わたしはついつい「大丈夫かなあ」とか「嫌がっていないかなあ」と心配したり不安になったりした。だが、すくなくとも外から見るぶんには、友人の彼女のほうも人前で彼氏に茶化されたりイジられたりすることをとくに嫌がっているようには見えなかった。それでどこかのタイミングで彼氏がいないときに彼女本人に聞いてみたら、やっぱり「ぜんぜん嫌じゃない、むしろ楽しい」と言われたのだ。もちろんその言葉が本心である保証もないのだが、たぶん本心であったと思う。

 わたしはその返答に戸惑ったのだが、考えてみたら当たり前の話である。茶化したりイジられたりすることを嫌がり、加害に感じる女性も存在するけれど、そうでない女性も存在する、というだけの話だ。

 また、茶化しやイジリを許容する人であっても、茶化され方やイジられ方によっては加害と感じて嫌がるかもしれない。タイミングとか彼氏との仲の良さとかにも左右されるだろう。そこに一貫性を求めたり矛盾を指摘したりする方が間違っている。コミュニケーションにそういう曖昧さが存在するのは、当たり前のことであるからだ。

 

 また、フェミニズム的な考え方に触れた男性なら、だれしもが「恋人であっても強引にセックスを求めたり同意なく相手の体に触れたりすることってドメスティック・バイオレンスになるんだな、じゃあやらないようにしよう」と思うようになるものだろう。

 しかし、いざ恋人ができて付き合っていると、相手から「強引なセックスをしてほしい」とか「つべこべ言わずに押し倒してほしい」と求められたりする場合がある(あった)。さらに言うと、同じ相手でも、相手側の体調や機嫌や気分によって求められる行為は変わったりしてくる。

 性的同意についてはNo means Noが盛んに主張されるようになっており、「相手からの明示的な同意が得られない限りは手を出すべきでない、相手がNoと口にしたらすぐに手を引っ込めるべきである」という考え方はフェミニズムに触れた男性たちの間でも浸透しているはずだ。

 しかし、実際のところ、No means Noが通じないときもある。ほんとうはYesである女性がNoとウソをついて、さらにはそのウソを男性側が見破って手を出してくれることを期待する、ということもあるのだ(あった)。とはいえ、大半の場合には、やっぱりNoはほんとうにNoを示しているのであり、男性は手を出すべきではないのだろう。

 もっとも厄介なのは、イジったり茶化したり、押し倒したりウソを見破って手を出したりしたほうが、それらの行為をおこなわなかったときに比べて、相手からの好意を得られたり相手との関係が深まったりする結果につながる場合があるということだ。

 また、男性がこれらの行為をすることで、女性の側がなんらかの楽しさを得られることがある。「女性を加害しないこと」が完全義務であるとしたら「女性を楽しませること」は不完全義務であるとはいえるかもしれない。しかし、ただ害を与えないように気をつけるだけでいいのだろうか?男女の関係に限らず、互いに積極的にはたらきかけてなんらかの楽しさを与え合うのが、人間同士の関係のあるべき姿というものではないだろうか?

  

 実際のところ、女性からの好意や信頼を得られている男性たちの様子を見ていると、「加害しない」だけでそれが達成している人は皆無だ。

 そういう男性たちは、イジったり茶化したりなども含めたコミュニケーションのさまざまなテクニックを使いながら、女性に楽しさを与えている。また、女性のことをリラックスさせられてる男性であっても、「加害しない」ということ以上の行為をしている。たとえば、女性によっては「雑に扱われる」ことでリラックスできて、相手と一緒にいる時間が心地よくなる、ということがあるようだ。

 というわけで、女性と仲良くなるためには侵入的なコミュニケーションが必要とされる場合は、やはり多いようである。

「女性とヤる」「女性を自分のものにする」という欲求がなく、「女性と親友になりたい」「女性に悩みを打ち明けてほしい」というピュアな気持ちで相手と関わりたい場合であっても、求められるものはあまり変わらない。害を与えることを恐れていて、おずおずと遠慮がちに丁重に接してくれるだけの相手に対して悩みを話したり親友になったりしようと思う人は、ほとんどいないだろう。

 

 どんなコミュニケーションは侵入的であるが加害ではなく、どんなコミュニケーションが加害であるかということは、線を引いて明確に区別できることではない。時と場合と相手と関係性によって変わるものだからだ。マニュアルだって作れたものではない。

 ミソジニー的な傾向の強い弱者男性論客たちは、よく、「女性は暴力的な男性を好む」「暴力的な男性はモテるのだ」と主張する。彼らがそのような主張をおこなうのは、おそらく、「女性のことを楽しませる侵入的なコミュニケーション」と、「女性に害や苦痛を与える暴力的なコミュニケーション」との違いをよくわかっていないからだ。

 そもそも、コミュニケーション行為には「賭け」という側面が存在する。自分がおこなう行為によって相手がどんな気持ちになって相手にどんな影響を与えられるか、完全に予測することはできないのだ。これを言ったりやったりしたら相手は喜ぶだろうと思った言動が裏目に出る場合もあるし、結果的に加害となってしまう場合だってあり得るだろう。

 とはいえ、そこには上手い賭け方と下手な賭け方の違いもあるはずだ。結果がどうなるか完全にはわからないからなにをやったっていい、というものでもない。ごくまれに加害になることにあっても基本的には安定して女性を楽しませられる人もいれば、やることなすことがおおむね的外れで加害的である人もいる。前者に比べれば、後者のほうがより強い非難を受けるべき存在であるだろう。

 あるいは、女性を楽しませるコミュニケーションを行う能力が根本的に欠けている人については、「女性を加害しない」という完全義務だけを守っていたほうが、本人にとっても他の人たちにとっても幸せなことであるのかもしれない。

 とはいえ、改めて言うまでのことでもないが、女性からの好意や信頼などのご褒美を得たいなら、「女性を加害しない」という完全義務だけでなく「女性を楽しませる」という不完全義務も履行することが求められる。なんなら、完全義務の方は多少なおざりにしていても、やっぱり好意や信頼を得られる場合があるかもしれない。それはなんだか理不尽で残酷なことかもしれないが、「そういうものだ」と言うほかないのだ。

 

 今回の記事でわたしはなにが言いたいのか?

 なにが言いたいというわけでもないが、とにかく、「男性にとって、女性とのコミュニケーションって複雑で難しくて悩ましいものですよね」ということを改めて確認したかっただけだ。

 そして、道徳的な考え方と恋愛や性に関する物事とはとにかく相性が悪い、ということも示すことはできたと思う。道徳というものでは基本的には合理性が前提とされている。また、わたしたちは道徳に確実さや一貫性を期待してしまう。しかし、性愛やコミュニケーションとは不確実で曖昧なものであるし、そこに合理性があるとは限らない。だから大変なのだが、まあ、そういうものだ。

 

 

*1:ここで「侵入性」をきっちり定義したり「加害」との違いについて明確に論じたりできればこの記事の価値はグッと上がると思うのだが、そんなヒマはないのでやらない。出勤前に慌てて書いているからだ。

なぜ人間は進化のメカニズムに逆らって、道徳的に行為することができるのか

 

The Expanding Circle: Ethics, Evolution, and Moral Progress

The Expanding Circle: Ethics, Evolution, and Moral Progress

  • 作者:Singer, Peter
  • 発売日: 2011/04/18
  • メディア: ペーパーバック
 

 

 道徳と理性の関係についての議論はこのブログでは何度もやっており、「またかよ」と思われるかもしれない。とはいえ、原稿のためにピーター・シンガーの『拡大する輪:倫理学、進化、道徳的進歩(Expanding Circle: Ethics, Evolution, and Moral Progress)』を読むついでに、メモがてら、改めてまとめたくなってきた。

 

 道徳には「黄金律」が存在する。「他人から自分にしてもらいたいと思うような行為を人に対してせよ」や「自分が他人からされたくないと思うような行為は他人に対してするな」というルールは、ユダヤ教キリスト教から儒教マハーバーラタヒンドゥー教叙事詩)、そしてギリシャやローマの哲学など、古代から世界各国の伝統のなかに存在するものだ。

 ポイントは、それぞれの伝統における黄金律は別の伝統から受け継いだり輸入されたりしたものではない、ということだ。世界各国の伝統において、「道徳とはなにか」ということについての考えが独立して展開されたときに、どこでもみんなが「黄金律」のルールにたどり着くのである。だからこそ、黄金律には普遍性があるのだ。

 黄金律は文化間だけでなく個人間でも普遍的なものである。シンガーは、コールバーグによる道徳性の発達段階理論を参照しながら、しかるべき年齢まで成長して道徳についての思考を発達させられた子どもはだれもが黄金律にたどり着く、ということを指摘している。

 黄金律を実践するためには、「他人と自分は同じような利益を持っている、同等の存在である」ということを認識して、「自分の親族や自分の属する集団の人たちのことと、そうでない人たちのことも、平等に扱う」という公平さを志向することが欠かせない。この認識や志向は、通常、感情ではたどり着けないものだ。

 感情とは生物学的なものであり、究極のところは、自分自身の生存と繁殖を有利にするためだけに存在するものである。血族に対する利他主義は誰にも備わっているし、集団から排除されなかったり身内からの評判を良くしたりするための協調性や自己犠牲の傾向なども人によって程度が違えども大なり小なり存在するが、それらもあくまで自分の遺伝子をより拡げるという目的のために設計されているものだ。だから、道徳的には自分の親族よりも他の人たちを優先したり、自分の属している集団に逆らって別の集団の人たちを助けなくてはならないという場合であっても、感情だけにしたがっていたらそのゴールにまでたどり着ける可能性はほとんどないのだ。

 しかし、理性はちがう。理性が人間に備わっていること自体は、感情と同じく、自分自身の生存と繁殖を有利にするためであるはずだ(進化による淘汰の過程ではかなり徹底したコストカットが行われるものであり、生存と繁殖を有利にしないような無駄な機能はオミットされてしまうからだ)。だが、理性が進化によって備わったものであったとしても、理性は進化のメカニズムをオーバライドすることができる。理性をもちいれば、物事の前提や性質についての理解をおこなったうえで、認識や判断を修正したり上書きしたりすることができる。 たとえば「ここで身内を優遇したいという感情が湧いているのは進化論的な理由によるものだ」と理解したうえで、「しかし、ここで身内を優遇すると、もっと多くの人がつらく苦しい思いをすることになる。そして、ここで身内を優遇することの根拠は、進化によって備わった不合理な感情しかない」ということを考えて認識したうえで、「それでは、身内ではなく他の人びとへの配慮を行うために、ここで身内を優遇することは止めよう」と判断することができるのだ。

 理性による進化のメカニズムのオーバーライドは、道徳に関してだけで起こることではない。たとえば、ウィリアム・アーヴァインによると、人間に備わった諸々の欲望は生存と繁殖を有利にするために設計された生物学的インセンティブ・システムであり、個々人の幸福を考慮して設計されたものではない。だから、欲望を満たすことだけを目標に生きると、不幸になってしまう可能性が高い。しかし、人間は、理性をもちいて「欲望はなんのために存在しているのか」ということを理解することができる。そのために、長期的なプロジェクトに集中するために食欲や性欲をコントロールする、ということができるのだ。プロジェクトを達成できれば幸福や充足を得られるが、栄養価の高いものを食べまくったり繁殖の機会を制限したりすることにはなるので、個体にとってはプラスでも進化的にはマイナスだ。理性をもたない動物たちは「進化の奴隷」でありつづけるために、進化を裏切る行為をおこなうことはできない。しかし、人間にはできる、ということである。

 

davitrice.hatenadiary.jp

『輪の拡大』で行われている議論は、のちに、すこし形を変えながら、『普遍的な観点から:シジウィックと現代倫理学』の第7章でも行われていた。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

『普遍的な観点から』を執筆したときにはシンガーは「道徳的実在論」を主張しており、黄金律のような道徳の原理や道徳的思考を数学や物理学に類比させている。

 

道徳的真実を認識するという特定の能力は私たちの繁殖的な成功を増させない、とストリートは正しくも指摘している。だが、理性を用いる能力(capacity to reason, 推論を行う能力)には私たちの繁殖的な成功を増させる傾向があるはずだ。

…(中略)…理性は私たちの生存を妨げるような諸々の問題を解決することを可能にしたために、私たちは理性的な存在になったのかもしれない。しかし、理性を用いることが可能になってからは、私たちの生存に寄与しないような真実を理解して発見することが私たちには避けられなくなったのかもしれないのだ。このことは数学や物理学に関するいくつかの複雑な真実について当てはまるかもしれない。また、パーフィットが示唆しているように、私たちにとっての規範的で認識的な信念のいくつかにも当てはまるかもしれない。例えば、ある議論が妥当であり前提が真である時にはその結論も真であらなければならないという信念であり、その事実は議論の結論を信じるということへの決定的な理由を私たちに与えるのである。

(p.182)

 

 つまり、進化的な事情とはむしろ相反するにも関わらず黄金律が古来から各々の地域で独自に採用されていることは、数学や物理学の普遍的な真理が古来から各々の地域でそれぞれの人々が理性を用いることで独自に発見されてきたように、道徳的な真実も人々が理性を用いることによって各々の地域で独自に発見されてきたということを表している、と考えられるのだ。

 

 とはいえ、『輪の拡大』を書いた1981年の時点では、シンガーは道徳を数学や物理学に並列させられるほどの実在性があるものだとは考えていなかったようだ。

 

econ101.jp

 

 ここら辺はむずかしいメタ倫理学の話になるが、道徳が実在するかしないかということと、ある道徳的思考は合理性や妥当性があるからほかの道徳的思考よりも優先されるべきである、ということは独立して考えられる。「道徳は客観的には実在しない」ということを認めたうえで、合理性や妥当性などの指標から「究極的にはどこのだれもが黄金律に従うべきである」という主張をすることも可能ではあるのだ。

 

 いずれにせよ、理性は進化のメカニズムをオーバーライドできる、ということは1980年代からシンガーの主張のポイントとなっている。そして、『暴力の人類史』を執筆したスティーブン・ピンカーをはじめとして、数多くの論客がシンガーの『輪の拡大』に影響を受けながら、道徳における感情と理性との関係について論じてきたのだ(ジョセフ・ヒースの『啓蒙思想2.0』だってシンガーの議論に影響を受けたものであるはずだ)。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 その一方で、ジョナサン・ハイトは「感情の犬と理性のしっぽ」や「象と象使い」のたとえを用いながら、理性はどこまでいっても感情を後付けで正当化する機能を持つものに過ぎない、と論じている。ダグラス・ケンリックやロバート・クルツバンなど、進化心理学界隈の人は理性に対する疑いを持ち続けているようだ(もちろんその背景にはデビッド・ヒュームなどの哲学者たちの系譜もあるのだけれど)。

 わたしとしてはシンガーやピンカーの議論はもちろんのこと、直接的には道徳を扱っていないアーヴァインの「進化の奴隷に抗う人間」論にも感銘を受けて説得されたということもあって、以前以上に理性の力を信じるようになっているところだ。